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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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天津のコンプラドール その2

1.
 「広東幇の最大富豪」というのが、劉海岩氏が梁さんの父に与えた称号だ。
“幇”というのは、出身地別に分けられた中国の一種の同業組合のことで、戦前の秘密結社の“青幇”などが、上海で大変恐れられていたのが有名である。
ジャーディンの天津に於ける活動と、梁さんの生い立ちを、劉氏の本より以下かいつまんで引用する。
 19世紀、天津はジャーディンと清朝政府の間の重要な交渉の場所であった。
中国市場拡大のために、政府の軍艦や武器の発注を争奪しようと、ジャーディンは清朝政府の洋務派の発展計画に全力を挙げて協力し、巨額の借款供与も行い次々に契約を勝ち取った。
このため、彼等は天津を、李鴻章など洋務派官僚との連係を深めるため、うってつけの場所と考えた。ジャーディンの幹部は香港、上海と天津の間を、頻繁に往来した。また、彼等は天津で影響力のあるイギリス人、ミッチーと天津税関司、及び英国籍ドイツ人ダーツィリンを通じて、李鴻章と接触し、密接な関係を作らせ、清朝政府の政策に影響を与えた。ミッチー( Michie Alexander)は、1853年に清国に来、上海で商売をしていた。1864年、牛荘(営口)が開港されると、そこに移り住んだ最初のイギリス人となった。1883年に天津に来、英国Times紙の通信員となった。天津にいる間に、李鴻章の顧問となり、天津の英文紙The Chinese Timesの創刊に関与し、主筆を兼任した。彼は頻繁に北京に出向き、清朝政府の多くの役人と密接な関係を保った。ジャーディンは彼を天津在の特別代理人に任用し、李鴻章や清朝政府との間で行われた交渉は、彼と上述のダーツィリンを通じて行った。
 ジャーディンはその実力及び、李鴻章など清朝政府の実力者との関係を使って、瞬く間に、天津で最も影響力のある洋行となった。市内を流れる“海河”の河川港に最初に入港した汽船、天津城外に最初の鉄道を敷設したのはいずれもジャーディンだった。天津の英国租界で最も影響力のある大洋行となった。19世紀から20世紀にかけて、ジャーディン天津のボスは、英租界董事会の董事か董事長を務めた。
 中国最大の洋行として、ジャーディンのコンプラドールのポストは、西洋人勢力を背景に一儲けしようとする華商にとっては、大きな吸引力があり、一方のジャーディンとしても、中国と商売するとき、清朝政府と交渉するには、特別能力のあるコンプラドールの協力が必要だった。そこでジャーディンの旗の下に著名なコンプラドールが集まった。楊坊、林欽、唐茂枝、何東などで、中でも有名なのは唐景星である。彼はジャーディンの総コンプラドールを10年(1863-1873)の長きに亘って務めた。
2.
唐景星、どこかで見た覚えがあるぞ。確か李鴻章の伝記の中で、李鴻章が
1872年に招商局を創設したとき、李がその2代目総裁として白羽の矢を立てたのが、唐景星だったと記憶する。梁さんの父、梁炎卿が広東の仏山で生まれ、香港の皇仁学院で英語と商業知識を習得して広東に戻ってすぐ、1872年20歳のときに、唐景星に連れられて上海のジャーディンに研修生として入社したというのは、前にも触れた。
 人間の出会いというのは、時として味な働きをするが、見えざる手によって、引かれているともいえる。ジャーディンの総コンプラドールとして、10年勤めた唐は、李鴻章から、中国近代化へ重要な役割を果たすことになる彼の創設した「輪船招商局」の総裁に招聘されることになるのだが、それを知ってか、知らずか、梁炎卿という英語の上手い優秀な若者を故郷から連れてきた。
 唐景星については最近出版された「国商」(言夏著)に紹介されている。日本でたとえるなら、渋沢栄一に似たところと、福沢諭吉にも類似点を見出せる。香港のミッションスクールに学び、中国で最初のビジネス英漢辞典である「英語集全」を出している。1876年、上海で「格致書院」を設立した。その意味では本来は学究肌の人であった。しかし運命は、彼に祖国近代化のために実業の世界に向かわせる。汽船会社、鉱山事業、鉄道敷設、紡織会社などの設立に情熱を傾けた。
 ジャーディンの買弁として、上記のビジネスなどを通じて、李鴻章から評価される点が多々あった。李鴻章が朝廷に「招商局」を作るべしとの建白書を出したのが、1872年12月23日。雷頤著「李鴻章与晩清四十年」(山西出版)に依ると、この建白書の中で、李は国策の汽船会社を設立して、「求富」することが、近代化のために最も重要だと述べている。それまで、中国の港湾は殆ど外国船に占領されてしまっていた。武漢など長江の内陸港も然りであった。これを自国の商船隊で奪回しなければ、富国への道は無いと説いている。何とかして汽船を買わねばならないが、清朝の国庫は空っぽである。汽船を買う金も無いが、それ以上にその汽船会社を経営する人材もいない。
 それまでの清朝は、商人をさげすみ、抑えようとする空気が強かった。商人は自らの懐を肥やすことのみをもっぱらとし、けしからんと言う風潮であった。満州八旗と呼ばれる旗本たちは、お上から戴く俸禄以外に何の収入もなかった。漢人たちの中に入って、商売をすることは硬く禁じられていた。従って、代を経るごとに、官に就けなくなった旗本たちは窮乏していった。商売そのものを見下し、漢族の商人たちを押さえつけた。押さえつけることで、その見返りを要求した。その見返りは、抑え付ける権力の大きさに比例した。その伝統は今日まで引き継がれている。

3.
さて招商局であるが、これは国営企業であって、所謂一般の商(あきない)ではない。商(商人、ビジネス)を招く、即ち商人たちの出資を招いて、ビジネスを展開するというものだ。今日でも、中国各都市の経済開発区のある市役所の中に、「招商局」とか「招商処」などといった部署がある。そこには市政府の経済担当の幹部がトップとして、就任している。
李が設立したこの時も、最初はトップを官から出したが、武士の商法で、デタラメな経営のため、すぐに行き詰まってしまった。それで、これではいかんと、李鴻章はジャーディンの買弁第一人者の唐を後任に迎えた。これを“官督商弁”と言う。官が監督しながら、実際は商人が弁じるという形態である。
 これは今日でもよくある。最近は企業ごと、工場も人材も商権もすべて一括で買い付ける。企業買収とよばれるものだが、その前に自己の競争相手から、腕利きの経営者を引き抜く。そしてその力を利用して、競争相手を叩きにかかる。この時も、激烈な運賃値引き競争の結果、英国系のジャーディンとスワイアはしぶとく残ったが、アメリカ系で当時の汽船最大手、旗昌洋行(ラッセル商会)は弱体化した。それで、唐は一気にこの会社を商船ごと買収した。
 唐は李の信任を得て、この商船会社の運営に成功を修め、次には紡績会社、
電報局、保険会社などを続々と設立していった。そして今日も出炭を続けている、開ラン炭鉱の前身、天津開平鉱務局で炭鉱の開発と鉄道建設に全精力をついやした。石炭を港まで運ぶには鉄道敷設が不可欠であった。鉄道建設に際しては、清朝の保守派の役人たちを説得して、ようやく完成したのだが、光緒帝が清王朝の陵墓である東陵で、大切な祖先を祭る式典をしているときに、地震が起こってしまった。それが唐の敷設した鉄道のせいだ、という濡れ衣により、監獄に繋がれてしまった、という悲劇的な結末となった。
 4.
 唐は学校を出てから略10年ごとに、仕事を変えてきている。1842年から
香港のミッションスクールで勉強し、卒業後、香港政庁と上海税関で英語の通訳をした。その後、独立して綿花の商売を始め、ジャーディンに認められ、総買弁として10年間活躍して大きな財を成した。このまま買弁生活を続けていたら、莫大な財産を築き、大富豪の生活を享受したことであろう。そのポストを捨てて、李鴻章の招きに応じ、招商局の総裁となった。
 10年の買弁生活の後、言夏氏の言葉を借りれば、「革靴を脱ぎ捨てて、布靴に履き替えた」のである。
香港政庁、上海税関、ジャーディンの買弁というのは、いずれもイギリス人の下で、英語と中国語の橋渡し役を務めながら、常に祖国とイギリスとの間で、もやもやとした忸怩たるものを感じていたかもしれない。
招商局というのは、清朝の“国家企業”である。20年間、イギリス人の下で勤めてきて、40歳を迎えた唐にとって、残る人生はイギリス人の下で働くのはもうよしにしようと思ったのだろう。人は彼等買弁を‘洋奴’と呼んでいた。
人はある年齢に達すると、残りの人生を名の為に、祖国のために尽くしたいと思うのかもしれない。
 著者は言う。「現代の若者は外資系で働くことを、ある種羨望の眼で見ているが、中国でビジネスが始まったころは、外人の為に働くことは、小さいながらも自分で物を担いで売り歩く商人より一段下に見られていた。彼等は“買弁”と呼ばれ、経済的な力はあるが、社会的地位の無い階層であった。」と。
 それで、「唐景星の生涯で最大の転機は、41歳のときで、買弁から国営企業の招商局に跳び出したときである」と記す。
5.
 1949年の新中国成立からほどなくして、前にも述べたように、ジャーディンなどの洋行は中国から撤退した。それにともなって、買弁も姿を消した。それから30年間、清貧で、政治優先の白紙時代が続いた。そして世界の発展から何十年もの遅れをとってしまった。
 30年前にこの改革開放政策が取り入れられていなかったら、中国はどうなっていたであろうか。「改革開放が無かったら、私は今ごろ、どこかの山中で、金槌を握って、地質調査に飛び回っていることでしょう。」というのは温家宝首相の09年2月末の国民対話の中の一節である。
 1979年改革開放が唱えられ、深センなどに経済特区ができ、その後全国各地に経済開発区ができ、多くの外資系企業が設立された。貿易会社の現地法人も認可され、銀行や保険会社などの法人も許可された。
 そして改革開放の30年の間に、またおびただしい数の現代の買弁が生まれた。
外資系企業の進出に伴って、その企業の為に、資材買い付けから、製品販売に至るまで、進出企業に派遣されてきた外国人と、中国本土の国営企業あるいは民間企業との間で、便宜をはかることで金を儲ける人たちが沢山あらわれた。
 こうした人たちは、会社に勤務していながら、会社から受け取る給与などには、頓着しない。なぜならば、給与の何倍、何十倍もの収入が手に入るからである。会社の為に働くというよりは、その余禄収入をもたらしてくれる者のために働くのである。一旦そうした仕組みが成り立つと、そこからは、無数の腐敗と貪欲が生じてくる。
5.
 私自身もこの改革開放の30年の間、それまで1月3元という清貧な暮らし、
お酒もタバコも自由に買えないが、若いひとびとの瞳は澄んでいた時代と、何でもお金で手に入るようになった時代とをかえりみて、感じることがある。
 人々の生活レベルは、都市部に関する限り、天地の差ほど改善された。マイカーを持つ者も増え、150平米の部屋に住む人も特別な人種ではなくなった。人々は今の北朝鮮の映像を見て、60年代の中国そのものだと言う。一刻も早く彼等が改革開放されるのを望むという。
 人間の社会というものは、経済的に豊かになると、更にその富を独り占めにしたいと貪欲さが増すらしい。豊かさとは年収の額で計られる。都市の人々は、より大きな部屋に住み、新車を買うことで、優越感を持とうとする。虚栄である。そのためには、外資系企業と中国社会の間で、役人との関係で、可能な限りの手段を使って、高収入を得ようとする。
 私もしばしばそうした腐敗と貪欲の事例に、直面してきた。誤解を避けるために言わねばならないが、普通の暮らしをしている大多数の中国の人たちは、収入が低くとも、外国人にも親切で、気立てもよく、おおらかで清清しい印象を残してくれる。しかし、わずかな人たちは、私と私の会社の為に働いてくれるというよりは、自らの懐を肥やすことの方により熱心であった。
個別の事例を書くことは控えるが、劉氏の筆法に倣って書くとこうである。
 本社からある商品を1万トン、単価千ドルで買い付けるようにとの注文が入る。すると現代の買弁は、供給先から9百ドルで買い付けできるように交渉し、その差額を相手方と分け合う。これによって、双方が切っても切れない間柄となる。これくらいの役得がなければ、外国人の下で、へいこら頭を下げっぱなしで生きていられるか、という。
 これが、製造業となると、今度は、原材料の購入で、上記と同様なことが
起こるし、食堂の食材買い付け、従業員の通勤バスの契約から、ありとあらゆる購入や販売で、お金に絡むことには何がしかの“好処”(うまい汁)が伴う。
 そして信じられないようなことだが、人事部長というポストに就くと、莫大な裏金が動くという。それは、どうしてか。多くの外資系企業の労働者は、たいてい1年契約で、1年ごとに更新手続きが必要であった。この更新の際に、部長のところに何がしか包んで持ってゆかないと、更新してもらえないというのである。それが千人、二千人もの低所得の労働者の手から、現代の買弁たる人事部長の懐に入る仕掛けである。採用の際にも同じことが要求される。1世紀の時空を経て、今日の買弁は、船内荷役の苦力から、人夫料をピンはねしてきた19世紀の買弁より、さらに手の込んだやり口で、私腹を肥やしている。これは、何千年と続いているDNAに基づくものであろうか。日本でも人入れ稼業として、沖仲士など作業員の人集めを請け負う組織があった。今の派遣会社は会社という法人組織で、派遣労働者の2-30%のピンをはねるという。日本では、こうした派遣会社のトップが豪勢な生活をして、派手にふるまっていたが、天網恢恢疎にして漏らさず。この数年間に、種々の問題を起こして、倒産し、業界から退場した。
中国では、それをポストについた人間が行う。評判の良かった、テレビドラマの一こまにもそのことを取り上げていた。主人公が苦労の末、新会社を作った。彼が、長年尽くしてくれた相棒に仕事を与えるとき、その相手から自分のポストは一体どんな「官」なのか、と詰め寄られる場面があった。一生懸命に働いてきたからそれなりの「官」につけて欲しいと要求する。それはどんな人間でも「官」というポストについてこそ、給与外の余得があるからで、それがなければ、いっしょに仕事をしてゆく気も失せる、とポストを求めるのである。
6.
ここでしばらく、余談にはいる。
昨今の某国の首相は「国や国民のために首相をしていたいのではなく、自分の為にしていたいのでしょう。」と 野党の代表から非難されている。その首相が、せっかく苦労して、二つものポストを兼務できるようにしてやった。その「官」を、外遊先で台無しにしてしまうほどのもうろうぶりでは、さすがのお友達、仲良しでも、もうこれ以上は、かばい切れない。
ジャーディンのことを調べていて知ったことだが、この首相の先祖は、やはりジャーディンの横浜支店に勤務していて、支店長をつとめ、政府相手に、軍艦や武器を売り込んで実績をあげた。江戸幕末には、ジャーディン社は、五代友厚、伊藤博文、坂本竜馬、岩崎弥太郎などと結びつきを強め、徳川方を支援したフランスと競合したという歴史的背景がある。首相の先祖は、ジャーディンに3年務めた後1万円という当時としては高額な退職金をもらって、さっさとジャーディンから独立し、いろいろな事業をみずから起こして、莫大な財産を養子の吉田茂に残して、40歳の若さで死んでしまった。
7.
 話を梁さんに戻す。20歳の時に、20歳年上の総買弁、唐景星に連れられて、上海のジャーディンに来てから、彼は60年の長きに亘って生涯ジャーディンの買弁として生を終えた。
10年で買弁から足を洗って、社会的地位も高い国営企業のトップとして活躍しながら、牢獄に繋がれ、最後は殆ど財産も残さずに、勤務先の天津鉱務局で病死した唐景星のことが、ある種のトラウマとして影響を与えていたかもしれない。唐が天津で病死したとき、梁炎卿は40歳だった。唐の独立した年齢である。普通の買弁なら、大きな資本も蓄えたから、独立して自分で事業を起こし、更に財産を増やすとか、少なくとも社会的地位のある、自前のビジネスを始めたいと考えるところであろう。それが一部の不動産以外には、当時はやりの鉄道や、鉱山、紡績などの実業を手がけようとは、一切しなかった。梁炎卿の目には、鉄道敷設を試みただけで、牢獄に繋がれてしまった唐のことが、頭から離れなかったに違いない。
 梁さんは結局ジャーディンから独立しなかったし、その結果自分のビジネスを起こすこともしなかった。どうしてだろうか。
長男をアメリカに留学させ、帰国後は袁世凱系の唐紹儀内閣の農政次官まで務めさせた。このことは、買弁は自分一代限り、息子には外国人の下で働くような社会的身分の判然としない立場から、祖国のために「官」となって漢族としての伝統的な人生を歩ませよう、と考えたと思われる。しかし、辛亥革命後の政治的混乱のため、短命内閣で終わり、天津に戻ってきてしまった。その後、農場経営させたりしたが、匪賊や軍閥のゆすり、たかり、農場荒らしなどでめちゃめちゃにされてしまった。
結果として、長男も買弁の道を継ぐほか無くなってしまった。そしてこの長男自身も、身代金目的の誘拐犯に殺されてしまった。
 8.
この時代の作家芧盾(ぼうじゅん)の「林家舗子」「子夜」といった小説や、林語堂などの誘拐をテーマにした作品を読むたびに、感じることがある。
せっかく、大勢の革命犠牲者を出しながら勝ち取った「三民主義」の中華民国も、誰が総統の地位や自称「皇帝」の位に座っても、すぐさまそれを倒して、自分が取って代わろうとする混乱が止まなかったことだ。これは漢が滅びた後、唐が滅びた後、次から次へと群雄が割拠して、広い国土の一隅を根拠として、鬩ぎあう。こうした30年、50年の大混沌を経ないと安定した国家ができないのが、広大な面積と人口の中国の宿命かもしれない。こうした歴史の教訓は、知ってはいながら、誰もそれを止めることはできない。
 あるいは、そうした歴史的伝統があるからかもしれない。陳勝の言うように、「王候将相いずくんぞ種あらんや。」誰もが自分も天下を取れる可能性はあるのだと言い放つことのできる国柄、民族性が根底にあるのである。
この広大な国土を統一して、秩序ある政権が出てくるまでには、何十年かの時の経過が必要なのであろう。混沌とした混乱の時が。
 こんな政治的に不安定な時代に、唐景星のように事業を起こしても、「官」からは、彼等への上納金が少ないとか、挨拶や賂がないとか、さまざまな難癖を付けられ、事業が成功すれば、成功したで官にその実を取り上げられる。失敗すれば、他の財産まですべて没収される。そんな先輩の事例を数多く見てきたから、一生ジャーディンの買弁でいようと決意したのであろうか。
 吉田茂の養父の場合は、ありていに言えば、ジャーディンの横浜における
買弁に近い存在であったろう。ジャーディン社のイギリス人の目から見れば、
唐景星や梁炎卿と同じような機能を期待していたわけで、政府への軍艦や武器の売り込みという目的と形態は、殆ど同じである。
 違いは何か。吉田は3年でその横浜支店長を辞して、退職金を元手に、自分でいろんな事業を起こして、成功できたことだ。明治初年に横浜の外国商館で、外国語と貿易の仕組みを勉強した日本人はあまたいた。それらの中から、少し優秀で、政府の役人との関係もできた者たちは、それぞれに独立して、政府の払い下げ工場の経営や、鉄道会社、鉱山、紡績などの産業を起こすことに成功した。それが、維新以後の日本と義和団事件から辛亥革命後の中国との大きな政治環境の違いからくるものか、それとも他にどのような理由からか、私にとっては大きな疑問であった。
 9.
 士農工商という身分制度は江戸徳川が古い制度から持ち出してきたものだ。これも、もとはといえば、春秋時代の中国の政治支配のための身分制度であった。それを徳川幕府は3百年の統治の礎とした。商は一番卑しい身分であった。明治政府はそれを四民平等に変えた。
 清朝は、満州人の建てた国だ。満州人はすべて兵で、全員が士である。役人と軍人になる以外は、農工商のいずれの職業に就くことも禁じた。満州八旗といわれた旗本は、戦乱の続いた最初のころは、戦いに出向いて、大きな功を修め、漢族の富を奪ったが、その後、平和な時代になって、すべて北京に呼び戻され、俸禄生活となって、江戸末期の旗本以上に腐敗堕落した。役人になれなくなった満人は、貧乏浪人同然の暮らしに追い込まれた。そうした満人の娘たちは、女郎家に売られた。清末のころになると、一部の親王は別として、ほとんどが、役人としても何の管理能力ももたず、軍でも役にたたなくなってしまった。
それで、太平天国の乱の時には、曽国藩などの地方の漢族の軍が取って代わることとなった。この系譜が、後に李鴻章に繋がれ、さらにはその末路を袁世凱が継いだ。これが北洋軍閥として民国の中国をめちゃくちゃにしてしまった。
 20世紀の中国の悲劇は、こうして始まった。この袁世凱の皇帝になりたいという野心をついて、日本が「対華21か条」の要求を突きつけた。百年後の今から見れば、なぜ袁世凱は皇帝になどなろうとしたのか、理解に苦しむ。その当時の中国はまだ共和制には馴染まない。立憲君主制でなければと考えたようだ。大多数の国民の反対に耳を傾けず、日本から彼が皇帝になることを支持してもらう見返りに、日本の要求をあっさりと受けてしまう。しかし、欧米各国の在京大使たちから、皇帝即位に反対するとの本国からの伝令を聞き、憤死してしまう。その後、数多くの野心家たちが次から次へと、彼の後を襲った。いずれもその任に堪えられず、短命に終わった。袁世凱から黎元洪、馮玉璋、徐世昌、再び黎元洪、曹錕、段祺瑞、そして張作霖と続く北洋軍閥が取替えひっかえして、中国北部を支配してきた。いずれも祖国のためにという心情は、ひとかけらも無く、大総統でいたいという欲望と虚栄に駆られてのものであったといわざるを得ない。
 10.
 こんな政治的混乱の中で、梁さんの父は、唐景星のように、勇敢に祖国の為にと打って出るような心境にはならなかったようだ。
 梁さんは、あるとき、お昼近くになって皆が帰ろうと支度を始めたとき、
私に向かって、「コートが空いたからシングルスをしよう」と誘ってきた。
彼は「実はダブルスよりも、シングルスの方が好きなんだ」という。
年齢は20歳以上違うと思う。けれども彼は実によく走った。フォアのダウンザラインを抜くのが、得意のようであった。
 華麗なフォームできれいなテニスだった。しかし、年齢からくるサーブのスピードの衰えは隠しようもなく、バックコートに深く返す私のレシーブに、てこずって、結局6対4で終わった。
 そのあと軽く昼食をとりながら、彼は話しはじめた。「私のテニスは亡くなった姉から手ほどきを受けたのよ。」「姉は二人いて、二人とも戦前の天津では有名なテニス選手で、国外の試合にも出場したし、外国人の主催する大会にも出たりして、よく見にいったものだよ。」などという。
  1930年代の日中戦争の始まるまでの平和なひととき、父親の亡くなるまでの幸せな時間を姉たちにかわいがられて成長してきた。姉二人は、劉氏の著書によると、当時の天津の英国租界での“名媛”“貴婦人”で、慈善ファッションショーには、モダーンな衣装で舞台を飾ったと記されている。収益金は全て、孤児院や被災者、そして貧しい人々への慈善事業に義捐されたとある。
 彼は、その後一旦ジャーディンのコンプラドールになったが、新中国の成立とともに、ジャーディンが撤退してしまったので、この仕事も無くなり、その後は細々と外国貿易のShipping関係の仕事をしながら、姉と二人で暮らしてきた。しかし、その後の20年間は、つぎからつぎへと政治的「運動」の荒波にもまれた。外国との通信で、祖国の事情を漏らしたとか、やってもいないことで、嫌疑をかけられた。ブルジョアの末裔だというだけで、牢獄に入れられ、
家もとりあげられたしまった。理不尽な目に何度あったことか。ため息まじりながら、こんなことを外国人である私に話せるようになったことを、本当に喜んでいる感じであった。
「姉が病で亡くなって、もう身寄りのいない天津に居る必要は無い。」
「ヴィザが取れ次第、親類のいる香港に行くのさ。」
「以前なら、こんなこと、外国人の君に話したら大変なことだったけど、四人組がああして裁判にかけられ、江青が牢屋に入れられるくらいだから、やっとなんでも自由に話せるようになったんだ。」
 二十数年ぶりで天津を訪れた私の耳に、あの時の梁さんの言葉が蘇った。
       2009年3月8日。 大連にて。



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