偶成(ふと偶然に)
9月20日「申報」に嘉善地方の記事があり、摘録する。
『本県大窯郷の沈和声と子の林生は、悪名高い匪賊の石塘小弟に誘拐され、
身代金3万元を要求された。
沈家は中流家庭でなかなか解決できずにいた。なんと驚くべきことに誘拐団は、
沈父子と江蘇省境から誘拐してきた他の人質と一緒に、丁棚の北蕩灘で酷刑をした。
背中に布を貼り、生の漆を塗って、少し乾いたところで布の端を皮と一緒に、
引っ剥がす。その痛さは心肺にまで達し、助けを求める哀号は残酷で残酷で、
聞くに堪えない。それを同地区の住民が目撃し、可哀そうでたまらず、
一刻も早く購わないと生還は困難だろう、と惨状を沈家に連絡した。
誘拐団の手口の残酷さは実にひどい』
「酷刑」の記事は各地の新聞でたえず目にするが、読んだ時は「ひどいことを」、
と感じるが、暫くすると忘れる。記憶していられないから。
酷刑のやり方はけっして唐突に発明されたのではない。それは師伝とか祖伝がある。
例えば、この石塘小弟の手口は古くからあり、士大夫は余り読まぬが、
下等人は大抵知っている「説岳全伝」一名「精忠伝」で秦檜が岳飛に「漢奸」だと、
自認させようとして供述を迫る時に使ったものだ。彼が使ったのは、麻の帯と魚の浮き袋。
(そこから採ったにかわ)。生漆は的確とは限らぬと思う。すぐには乾きにくいから。
「酷刑」の発明者と改良者は酷吏と暴君だ。これは彼らの唯一の仕事で、またそれを考える暇もたっぷりある。
民を威嚇して、奸を除くことができる。然るに「老子」(荘子が正しい:出版社)は、うまいことを言っている。
「之を斗斛(升)として量れば、斗斛と共に之を窃む…」
罰される資格のある者も「剪窃」(切り取って盗む)を弄ぶのだ。
張献忠が人の皮を引き剥がしたのも恐ろしい話だが、彼以前に「逆臣」景清の皮を剥がした永楽帝がいた。
奴隷たちは「酷刑」の教育に慣れ、人に対しては酷刑を用いるべきだとしか知らない。
だが主人と奴隷の考え方は異なる。主人と取り巻きの多くは知識があり、推測もできる。
酷刑が敵対者にどれほど苦痛を与えられるか知っているから、注意深く選び進歩してきた。
奴才たちは愚かで「己を以て人に考えを及ぼす」ことができぬ。さらに推察によって「同じように体感」できない。
只、彼に実権があれば、できあいの手口を使うかどうかは断定できぬが、彼は知識人が推測するほどそんなに残酷と考えていない。
セラフィモヴィッチは「鉄の流れ」の中で、
農民が貴人の娘を殺す場面で、母親がとても悲痛に泣くのをいぶかって、何をそう泣くのかといい、我々は沢山の子供たちが死んだが、少しも泣かなかった、と書いている。
彼は残酷で無く、それまで命の大切さを知らぬので、奇妙に感じたのだ、と。
奴隷たちはイヌ豚のように扱われて来たのに慣れ、人間もイヌ豚と大差ないということを知るのみだ。
奴隷と半奴隷を使ってきた幸福者は、これまで「奴隷が謀叛」するのを怖れたのは怪しむに足りない。
「奴隷が謀叛」するのを防ぐには、更に厳しい「酷刑」を使い、そのために末路に到る。
今では銃殺はとうに奇とするに足りぬし、梟首(キョウシュ)死体陳列も亦民衆の暫しの鑑賞を博すのみで、強盗、誘拐、騒乱は減らぬ。
誘拐団すら人質に酷刑を使いだした。残酷な教育は人がそれを見ても残酷とは感じぬし、何の理由も無く何名かの民衆を殺しても、以前ならみなが大騒ぎしたものだが、今では、日常茶飯事となってしまった。
人民は本当に感覚の無い癩象の皮のようになっている。それが更に厚い皮になったから、残酷なことにも平気になり、これは酷吏と暴君すら考え及ばぬ所で、たとえ及んだとしても、もはや何の手だても施せないのだ。
9月20日
訳者雑感:
「天津のコンプラドール」にも書いたが、1980年代に天津で一緒にテニスをした先輩、梁文奎さんのお父さんは、1930年代の天津でジャーディンマセソン社の筆頭買弁だった。
それで長男が天津市内で誘拐され、大金を身代金として払ったにも拘わらず、
兄は死体となって送られて来た。
英語のShanghaiedという言葉はひとさらいにあって、船底に並べられて上海港へ送られるという意味で、それほど誘拐、拉致、人さらいが横行していた。
奴隷たちは愚かで、そうすることを何も感じずにやってしまう。
象の厚い皮膚以上の無神経さで。
新中国建国後60余年経た今でも、子供たちが人さらいによって、大量に売り買いされている。身代金目的ではなく、売り飛ばして金を稼ぐのだ。
どちらが残酷か以前の問題だ。
2012/03/29訳
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