忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

「論語一年」

  ――この場を借りて再びショ―を語る。
 「論語」創刊1周年、林語堂先生が何か書けという。
なにやら「学而一章」の題のようで、口語で八股文を書けということのようだ。
止むを得ない、書いてみる。
 正直、彼の提唱したことに私は常々反対してきた。以前「フェアプレー」に対して、
そして今は「ユーモア」に対してである。私は「ユーモア」が好きでないし、
これは円卓会議(中世英国で身分の上下を分けぬ為:出版社)を好む国民が始めた
たしなみで、中国では意訳すらできていない状況だ。
我々には唐伯虎、徐文長がおり:最も有名なのは金聖嘆で
「斬首は痛みの至り也、而して聖嘆はその意ないのに、之を得るとは、大いなる奇也!」と言った。本当かどうか、笑い話かどうか知らぬ:
事実かデマかも分からぬ。只要するに:一つには聖嘆は反抗する謀叛人などではない、
と言明しており:二つには斬首の残酷さで大笑いさせ、おしまいにしているのだ。
我々にはこんな物しかない。「ユーモア」とは何の繋がりも無い。
 作家の名前を長く列してしるが、実際に寄稿しているのは数人というのが、
中国の古くからのやり方で、こういう儀礼の下、毎月2冊の「ユーモア」を発行するのは、なにやら「ユーモア」じみている。
これが私を悲観させ、嫌いにもさせ、「論語」に余り熱心になれなくした。
 然し「ショ―特集号」は良かった。
 他で載せない文章を載せ、他では故意に顛倒させたことをすっぱ抜き、
今でも名士達は不満で、小役人も恨んでおり、食事中も寝ている時も思い出しては
憎悪されている。憎悪者が多いのも効果が大きかった証だ。
 シェークスピアは「劇聖」だが、中国で取り上げる人は少ない。
五四運動時代にイプセンを紹介したら好評だったが、今年ショ―を紹介したらひどいことになり、今なおある人たちは怒っている。
 彼のにが笑いが冷笑なのか意地の悪い嘲笑いか、ニヒルな笑いか分からぬからか?
決してそのためではない。彼の笑いには棘があり、人の痛いところをチクリと刺すからか? 全てそうとも限らぬ。レビノフがこの点を明確にしてくれ:
イプセンは偉大な疑問符だが、ショ―は偉大な感嘆符だという。
 彼らの観客は言うまでも無く紳士淑女たちが多い。
彼らは面子をとても大切にする。イプセンは彼らを登場させ、隠されていた 弊害を暴いたが、結論は出さずに、従容として言うのは「考えるに、 これは一体どうしたことだろうか?」と(疑問符で終える)。
紳士淑女達の尊厳は確かに動揺したが 結局は、得意げに退出し、帰宅してから考える余裕があり、面子が保たれた。 帰宅後に考えたかどうか、どう考えたか、それは問題ではない。だから彼が 中国に紹介された時はとても穏やかで、反対者は賛成者より少なかった。  
ショーはそんな訳にはゆかない。彼らを登場させ、かぶっている仮面ときれいな衣装をひっぱがし、耳をひっぱってきて皆の前で、 「ほらこのウジ虫を見ろ!」とやった。相談する時間や、糊塗する余裕も 与えなかった。この時、笑うことができたのは、彼が指摘したような痛いところを持たぬ下等人だけだった。
この点でショーは下等人に近く、上等人から遠い。  
ではどうすれば良いか?古来からの方法がある。 すなわち、皆でわいわい騒いで、彼はほんとは金持ちなのにあんな振りをしているだけで、「名流」で「狡猾」だと騒ぎ、少なくとも自分たちと 何も変わらぬ人間で、より悪賢いと言い出すのだ。
自分は小さな便所に住んで いるが、彼は大きな便所から這い上がってきたウジ虫であり、彼の紹介者も 実にいいかげんで、憎むべき相手を称賛している、という。
 しかしショーがウジ虫だとしても、偉大なウジ虫だと思う。
まさに多くの感嘆符があるなかで、惟彼だけが「偉大な感嘆符」であるのと一緒だ。たとえば、ここに沢山のウジ虫がいるとしよう。どれもが自らを 紳士淑女、文人学士、高官貴人と思っていて、互いに会釈し、ゆったりと礼を 交わしていれば、天下泰平でそれは全体としても何の身分的高低もなくすべてが 普通のウジ虫だが、一匹が急に飛び出してきて大声で一喝「お前らはすべて ウジ虫だ!」と叫ぶ。
で、勿論それも便所から這い出てきたものだが、我々は それが特別に偉大なウジ虫だと認めざるを得ぬ。 ウジ虫にも大小と善悪がある。
生物が進化している事がダーウインによって示され、我々の遠い祖先と猿は親戚だと
知った。だが当時の紳士達の手口は全く現在と同じで:彼らは皆でダーウインを猿の子孫だとした。羅広廷博士は広東の中山大学で「生物自然発生」の実験がまだ成功していない時、体面は悪いが、我々は暫くの間、人類は猿の親戚と認めることにしようとした。
しかしこの同じ猿の親戚の中でもダーウインはやはり偉大だと言わざるを得ない。
その理由は簡単かつ平凡なことで、彼は猿を親戚とする家系をけっして忌避せず、
人間は猿の親戚だと指摘したからである。
 猿の親戚にも大小と善悪あり。ダーウインは、研究は得意だったが、人を罵るのは
得手ではなく、小半世紀も紳士たちに嘲笑された。彼のために戦ったのは、
「ダーウインのブルドッグ」と自称したハックスレーで、彼は該博な学識と目の覚めるような反論を縦横無尽に駆使し、自分たちをアダムとイブの子孫と称する者たちの
最後の砦を攻陥した。
 現在、人間をイヌと呼ぶのがモダンであるのも悪罵といえるが、イヌといっても、
一律には論じられない。食用の、橇をひくの、軍用として敵を探るの、犯人逮捕の
警察犬、(上海の)張園でドッグレースに出るの、乞食の後について飯をせびるの、
金持ちのペットの狆と雪の下から人を救う勇猛な犬と比べてみてはどうか?
 ハックスレーの如きは、まさに人の世に功のあった良犬だ。
 犬にも大小、善悪あり。
 だがまず弁別が要るのは明らかだ。「ユーモアは洒落と真面目の間に処す」(林語堂)
洒落と真面目の弁別を知らないで、どうやってその間を知ることができようか?
我々は孔子の門徒の看板を掛けて入るが、荘子を私叔する弟子である。
「彼も亦是非あり、此れ亦一是一非で、是と非を弁じようとは思わぬ」
「周の夢を胡蝶とするや、胡蝶の夢を周とすか?」
夢か覚めてかも定かではない。暮らしは混沌としている。もし七穴を穿ったら?
荘子曰く:「七日にして混沌死す」
 これはどのようにして感嘆符をいれようか?
 且つまた笑いも入れられぬ。私塾の教師は子供の憤怒悲哀も許さず、喜びも許さぬ。
皇帝も笑おうとせず、奴隷も笑うことを許されぬ。彼らは笑うことはできる。しかし、
彼らが哭したり怒ったりしたら騒ぎ出すのではと心配になる。況や座したまま印税が
もらえるのに、年中「ただただ騒ぐ声、怨む声、刻薄で狡猾で悪辣な声しかない」とは。
 これでは「ユーモア」は中国にはあり得ないことが知れる。
 これも私の「論語」に対する悲観であって、神経過敏ではないことが分かる。
印税が入るのに猶まだこのような体たらくで、更には爆弾が空から一杯落ちてきて、
河川が野を水浸しにしている所で、いったいどの様なユーモアが望めるか。
多分「騒ぐ声、怨みの声」もあり得ぬだろうし、「盛世の元気な声」も語れそうにない。
将来円卓会議にある人が列席するかもしれない。しかし客主賓の間に「ユーモア」は
使うまでも無いだろう。
 ガンジーは何度も断食をしたが、主人が発行している新聞で彼を鞭打ちの刑にすべき
との意見が載った。これもインドに「ユーモア」の無いことがわかる。
 一番猛烈にそうした主人たちを鞭打ったのはバーナードショ―である。
我々中国の紳士淑女たちも彼を憎んだ。
これはまさにバーナードのいう「意図していないのに、これを得たのは大いなる奇だ」
まさに「孝経」の良い文章が出たのと通じ:「此れ士大夫の孝也」である。
「中庸」「大学」はすでに新しく出た。「孝経」はきっと出てくる:他に「左伝」も要る。
こうした年月には「論語」がどうしてうまくやって行けようか:
25号まででたのはすでにして「亦楽しからずや」である。
    8月23日
訳者雑感:こんなひどいご時世に「ユーモア」など語る余裕は無いはずだ。というのが
魯迅の本音か?      2012/03/24訳




拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R