忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

喫教(宗教で食う)

喫教(宗教で食う)   豊之余
 陳子展氏は「文統の夢」で、劉勰(キョウ:南北朝時代の文芸理論家)が、
孔子に随った夢をみて、論文を書き始めたが、後に和尚になったために、
遂に「貽羞往聖」(出版社:羞じを往聖である孔子に貽(オクッタ))と譏った。
 だが中国は南北朝以来、凡そ文人学士道士和尚はたいてい「特に節操なし」
を特色としてきた。晋以来の名士はめいめい三つの玩意を持っていた。
一つは「論語」と「孝経」、一つは「老子」、もう一つは「維摩詰経」で、
文章を書く時に採りいれ、話しのネタにするのみならず、堂々と注釈も作った。
唐代に三教弁論が出たが、後にみんな戯れ文のごとくなり:
所謂名儒が伽藍の碑文を書くのも大した問題にもならなくなった。
宋儒もゆったりした顔をして、禅師の語録をぬすんだ。
清代はそんな昔じゃないから、儒者が「太上感応篇」と「文昌帝君陰騭文」を
信じて、さらには和尚を家に招いて、読経してもらったことを知っている。
 耶穌教が中国に伝来し、教徒は自ら信教していると考えていたが、
教会の外の大衆は、彼らを「喫(洋)教」(外国の宗教で暮らす)と呼んだ。
この二字はまことに教徒の「精神」を表し、また大多数の儒釈道教などの信者も、
含むことが可能で、又多くの「革命で食っている」老英雄にも転用できる。
 清朝人は八股文を「門を敲くレンガ」と称し、功名を遂げることができたら、
即ち門が開けたら、レンガは無用となる。
これを最近のことに比するなら、雑誌に載る「主張」がそれにあたる。
「現代評論」の身売りも、圧力からでなく、この派の作家の出世の為であり:
「新月」の凋落も古い同人が皆「出世した」為、月との距離が遠くなったからだ。
この種の本を「門敲きレンガ」と区別するため、「天に昇る梯」とする。
 「教」の中国におけるや、こう言う点から何の違いがあるだろうか。
革命を講じるもいっとき:忠孝を講じるもいっとき:
大ラマの後について圏を回るもいっとき:塔を建てて蔵にする主義もいっときだ。
一つの教えを専らにしているのが良い時は、一つの本尊に帰依し、
いくつかを併せている方が良い時は、諸教もまた大きな差異は無いし、
一皿は鴨の丸焼き、もう一皿はとりあわせにするだけにすぎぬ。
劉勰もまた然り、蓋し僅かに「生姜を下げずに食す」(孔子の飲食習慣)から
一変して精進料理となっただけだが、もともと胃の容量には差は無い。
いわんや、和尚、以て「論語」「孝経」或いは「老子」に注するも、
なんぞ一種の「天経地義」(天の教え、地の道義)たるを失わんか?
      9月27日
 
訳者雑感;
喫茶と喫飯は茶を飲み、メシを食うことだ。
題名の喫教とは上の伝なら、教えを食う意だが、宗教を食い物にするとなり、
新華漢語辞典には「新旧のキリスト教を信じることを称す。
当時のある種の信者が教会の勢力を利用し、生計を立て、利を謀った、
などの風刺や誹謗の意味も含む」とある。
 魯迅が本文で言いたいのは何だろうか?
当時の上海でキリスト教信者としてはばをきかせていた多くの中国人を、
教会の外の大衆は「喫教」と謗っていた。
だが、中国は古来「無節操な」儒者・道士・和尚などが、
三つの玩意を適当に使って食ってきたではないか、と指摘し、
キリスト教で飯を食うのも、何の違いも無いといっているようだ。
ちなみに喫洋飯は外国人のところで働いて生計を立てることだが、
日本のビジネスマンが欧米人と商談の後の会食を「ヨコ飯」を食うという。
本音は日本食を食べたいのだが、連日、ヨコ飯で胃がもたれるとこぼす。
      2012/07/31訳
 
 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R