魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
中国文壇の亡霊2
2.
これ以降、中国で懺悔を知らない共産主義者は殺されるべき罪人となった。さらにこの罪人は、なんと無窮の便宜を提供するようになり:商品となって、金で売られ、人の為に仕事を増やした。さらに学園騒動や恋愛のもつれも、どちらかが共産党だとされて罪人となり、この結果きわめて簡単に解決できるようになった。誰かが裕福な詩人と論争すると、その詩人の最後の結論は:共産党員はブルジョアに反対するが、私には金があり、彼は私に反論するから共産党だ、となる。そして詩神は金のタンクに乗って凱旋する。
しかし、革命青年の血は革命文学の芽にそそがれ、文学面では以前以上に革命的となった。政府内には外国で学び、或いは国内で学んだ知識水準の高い青年(役人)がおり、彼らが最初に使うのはきわめて普通の手段で:書籍新聞などを発禁し、作家を弾圧し、終には作家を殺戮し、5人の左翼青年作家がこの示威行為の犠牲となった。しかるにこの事件も公表されず、彼らは、これは実行できるが、口外してはよくないことを知っているからだ。
古人も昔から「馬上で天下は取れるが、馬上で之を治めることはできない」と諭している。
だから革命文学を剿滅するには文学という武器を使わねばならないことになる。
この武器として現れたのが所謂「民族文学」だ。彼らは世界の各人種の顔色を研究し、色が同じ人種は同じ行動をとらねばならぬとしたから、黄色の無産階級は黄色のブルジョアと闘争すべきではなく、白色の無産階級と闘争すべきだと決めた。彼らはジンギスカンを理想的モデルとし、彼の子孫のバツー汗を描き、どの様にして多くの黄色民族を率いてオロシアに侵入し、彼らの文化を破壊し、貴族と平民を奴隷にしたかを描いた。
中国人は蒙古人可汗に従って戦ったが、それは中国民族の栄光とはいえず、ただオロシアを滅ぼしただけで、彼らはそうせざるを得なかっただけで、我々の権力者は現在すでに昔のオロシアが今日のソ連だと知っているから、彼らの主義はけっして自分たちの権力と富と妾を増やす事はできぬと知ったからである。では今日のバツー汗とは誰なのか?
1931年9月、日本が東三省(旧満州)を占拠したが、これは確かに中国人が他の人の後についてソ連を破壊しようとする序曲で、民族主義文学者達は満足することができた。唯一般民衆は却って目下の東三省喪失は、ソ連を壊すより大変なことだと考え、彼らは激昂しはじめた。そこで民族主義文学者もただ風にまかせて舵を転じるほかなく、この事件に対して啼き叫び嘆くように改めた。多くの熱心な青年達は、南京(政府)に請願に赴き、出兵を求めた:だがこれは極めて苦しく辛い試練を経ねばならなかった。汽車には乗れず、何日も野宿してやっと南京に辿り着いたが、多くの人は自分の脚に頼るしかなかった。
南京に着いたら、はからずもよく訓練された一大隊の「民衆」の手に握られた棍棒、皮の鞭、拳銃で迎えられた。彼らは顔と体にいくつもの腫れ物をもらい、その結果頭を垂れ、気を喪失し、帰るほかなかったが、何名もの人はその後行方不明になり、ある者は水に落ちて溺死したが、報道によると彼らは自ら落ちたとされている。
民族主義文学者達の啼き叫びも、こうして収斂していった。彼らの影も見えなくなり、彼らはすでに葬送の任務を完了した。これはまさしく、上海の葬送の行列と同じで、出発の時は、楽隊が入り乱れてガンガンかき鳴らし、歌うような鳴き声をだすが、その目的は悲哀を埋めてしまおうとするもので、再び記憶に残さぬためで;それが達成されたらみんなちりぢりに解散し、もうもとの行列には戻らない。
訳者雑感:民族主義文学というものが、ジンギスカンをモデルに黄色人種として白人世界
に侵入し、オロシアからドイツ方面を占拠して諸汗国を建てた。
今回は日本の後についてソ連を攻撃する序曲として「民族主義文学」を提唱したが、その日本が
満州事変を起こし、満州を占拠したから、青年達が南京政府に出兵を要請したが、無残な
結果となってしまった。これ以後、国民党政府は「新聞雑誌の弾圧」を始めた。
2013/12/08記
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