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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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六朝小説と唐代伝奇はどう違うか?

六朝小説と唐代伝奇はどう違うか?
    ――文学者の問いに答えて
 このテーマに答えるのはとても難しい。
 唐代伝奇は今でも実物を見ることができるが、所謂六朝小説は只「新唐書芸文志」から清の「四庫書目」の判定まで依拠するものは幾つかあるが、六朝当時、小説とは看做されていなかったからだ。例えば「漢武故事」「西京雑記」「捜神記」「続斉諧記」等から、劉昫の「唐書経籍志」まで、やはり史部の起居注と雑伝類に属していたのである。当時は神仙と鬼神を信じていたから、虚造とは考えず、記述に神仙と凡俗、あの世とこの世の違いはあっても、全て史の一種であった。
況や晋から隋までの書目は、現在一種も存在しておらず、当時小説と看做されていた物が、どんな形式と内容だったか知る由もない。現存の唯一最も早い目録は「隋書経籍志」だけで、編集者が自ら言う「馬史と班書を遠く覧じ、近くは王・阮の志録を観る」というように、きっと王倹の「今書七志」阮考緒の「七録」の痕跡を尚残しているが、その録す所の小説25種中、現存するのは「燕丹子」と劉義慶撰の「世説」を合わせた、劉考の標注2種しかない。この他は「郭子」「笑林」と殷芸の「小説」「水飾」と当時すでに隋代に亡くなっていた「青史子」「語林」などで、唐宋の類書の中にまだ少し遺文を見ることはできる。
 上記の材料だけから武断的に言うと、六朝人の小説は神仙や鬼怪の記叙なく、書かれたのは殆ど人事で:文筆は簡潔で:材料は笑柄で話しのネタ:だが虚構は排斥したようで、例えば「世説新語」は斐啓の「語林」は謝安は不実を語ると記し、謝安は一説に、この事が即おおいに声価を損じた云々というのがそれである。 唐代伝奇文は大いに異なる:神仙人骨妖怪、すべて自由に駆使でき:文筆は精細で曲折があるが、簡潔で古いものを尊嵩する者からは辱められた。叙す所の事情も大抵首尾と波乱を備え、断片的な話柄に止まらず:なお且つ作者は往々、故意にこの事跡の虚構なることを顕示し、以て彼の想像の才を見せる。
 だが六朝人も想像と描写ができなかったのではなく、小説に使わなかっただけで、この種の文章は当時も小説とは言わなかった。例:阮籍の「大人先生伝」陶潜の「桃花源記」も実は後代の唐代伝奇文に近い:即ち稽康の「聖賢高士伝賛」(今僅かに輯本のみあり)、
葛洪の「神仙伝」も唐人伝奇文の祖師とみなせる。李公佐の「南柯大守伝」李肇為の賛はすなわち、稽康の「高士伝」の法で:陳鴻の「長恨伝」は白居易の長歌の前に位置し、阮稹の「鸎鸎伝」はすでに「会真詩」に録されており、また李公垂の「鸎鸎歌」の名作の結びを挙げれば「桃花源記」を思わずにいられない。
 彼らが書いた所以は、六朝人も唐人もすべて所為(目的)あり、「隋書経籍志」は「漢書芸文志」を抄して(コピペに近い意)説き、小説を著録して之を「卑見を尋ねる」に比すが、小説といえども所為があることの明証と考えた。だが実際は所為の範囲は縮小した。
晋人は清談を尚し、品格を講じ、常に廖々数言で致を立て、顕かにしたから、当時の小説は、多くは奇行や味わい深いものを記した「世説」の類で、実は口舌を借りて名位を得るための入門書だった。唐は詩文で士を採用したが、社会的な名声も大切で、士子は上京して(科挙の)試験を受ける際、予め名士に挨拶に行き、詩文を献じ、称誉を請わねばならず、この詩文を献ずる事を「行巻」と言った。詩文はすでにいっぱい溢れており、もう観たくもないから、ある者は伝奇文を使い、耳目一新を希図し、特別な効力を得んとしたから、当時の伝奇文も「門を叩くレンガ」と大きな関係があった。だが勿論、ただ気風に推されて所為も無く作った者もいなかったわけではない。   5月3日

訳者雑感:換骨奪胎とは骨組を換えて、胎児を奪うという意味の由。STAP細胞の問題で、それまでの論文に他者の論文が「そのまま」コピペされていたことが問題とされていたが、中国で換骨奪胎とか抄本の「抄」(コピペに近い)をするのは、こと文芸や演劇については、何代にも亘って繰り返されて来た。それは有名な詩人のさわりの句を転用・再利用しつつ、さらに人口に膾炙するような作品に仕立てるというのが「文人」の才であったとされてもきた。魯迅が指摘するように、長恨歌はすでにその原型が白居易より昔にあったが、今や彼の代表作となっているように、こなれて、耳に心地よく、感動することができれば、それが一番良い作品となるのだろう。
 京劇や歌舞伎の古典もこれまで何代にも亘って、繰り返し演じられるたびに今日の姿に変遷してきたので、最初から「完成品」だったわけではあるまい。
それにしても、最後の段で詩文が世にあふれかえっていたので、名士への「行巻」にもはや詩文では通用しないから、所為のある人たちが伝奇文を書いて詩文に替えたというのは面白いと思った。科挙に合格して役人になることが人生最大の「所為」だった中国人はその所為を達成するために詩や伝奇文の上達に意を用いた。だが合格して出世し始めたら、その「門を叩くレンガ」は棄てられた。ただ出世しなくて、もう「所為」の無くなった者の中にもそれを作った者がいなかったわけじゃない、という。確かに、栄達を極めた人にも名詩を残した例はあるが、多くはそうでない人達の残したものだというのも事実である。
  2014/04/28記

 

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