忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

「文人相軽んず」

「文人相軽んず」
 いつも同じことを言うと厭きられる。だから文壇では一昨年「文人は品行なし」と言われ、昨年は「京派と海派」でひと騒ぎし、今年は新スローガンの「文人相軽んず」が出てきた。
 この気風について、スローガン派はとても憤慨し、彼の「真理が哭いている」として、大きな声を張り上げ、あわただしく全「文人」に軽蔑の辞を投げつけた。「軽蔑」を最も憎むが、彼らは「相軽んず」ゆえ、彼の理想と同じ風習の社会を損傷し、彼自身を害して、軽蔑の術を施すしかない、と。これは勿論「即その人の道で以て、その人の身を治む」であり、古怪な人の決まったやり方だが、「相軽んず」の悪弊は容易には根絶できない。
 「文選」から言葉を探すと、大抵「文人相軽んず」の4文字を目にするから、拾い出して使ってみるとぴったりする。しかし、曹聚仁氏は「自由談」(4月9日―11日)で既にそれを指摘し、曹丕の所謂「文人相軽んず」は、文は一体に非ず、よく善を備えるは鮮(すくなく)、各々長所を以て短所を相軽んず」凡そ、指摘する所は、僅かに文章作成の範囲に限っている。他の一切の攻撃は姿かたちや貫籍、中傷、デマ及び施墊存氏式の「彼等自身も同じだ」或いは、魏金枝氏式の「彼の親戚も私と同じだ」の類は全て、この中に入っていない。もしこれらを曹丕の言う「文人相軽んず」と一緒にすると黒白混淆で真理は大いに哭くが、文壇の暗黒を増すことになる。
 もし「荘子」から言葉を探すと、大概また2つの貴重な教訓に出会う。「彼亦一是非、此れ亦一是非」で覚えておいて危急時の護身符とするのも気がきいているようだ。しかしこれは暫時口で言うのは構わぬが、永遠に実行するのは難しい。この種の格言引用が好きな人は、その精神と相離れることはるかに遠く、狆と老耼(老子)の差より甚だしいこと、今さら言うまでもない。荘子自身「天下篇」で、他の人の欠点を列挙し、彼の「是非無し」を以て、一切の「是非とする所あり」の言行を軽んじているではないか。さもなければ、「荘子」は只単に「今日の天気はハハハ」の7字で済むだろう。
 但し、我々は今や漢や魏の時代に非ず、また当時の文人の様に必ず「各々長所を以て、短所を軽んず」必要もない。凡そ、評論家の文人に対する、或いは文人たちが互いに論評し、各々「短所を指摘し、長所を揚げる」は固より可だが「短所を掩飾し、長所を称賛」するのも不可ではない。しかし、それには必ずあちらに「長所」がなければならず、こちらには明確な是非が無ければならず、熱烈な好意がなければならぬ。今年新たに出た「文人相軽んず」という曖昧模糊とした悪名が驚くほど人の目をくらますのは、風流を気取った金持ちや、古雅を装った不良息子、淫書を売るヤクザで、「彼亦一是非、此れ亦一是非」に違いなく、一律拱手し眉を垂れ、敢えて言わず、取り上げるまでもない、というのでは、
どういう類の評論家か文人か?――彼こそまず「軽んじ」られなければならない!
 4月14日

訳者雑感:シンガポールの学校で馬さんという女性の先生が、「文章は自分のが一番」
「女房はヒトのが一番」という句を教えてくれた。「文章是自己的好、老婆是人家的好」
これが「文人相軽んず」の伝統だろう。魯迅も胡適や林語堂をとても軽んじている。
彼女は中国の南方で馬という姓はマホメットの馬から来ているのが多いとも語った。
南方人としては響きの美しい北京語であった。
   2014.4.4.記


 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R