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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「諷刺」とは何か?

「諷刺」とは何か?
         ――文学社の問いに答えて。
  思うに:一人の作者が、精錬された、又些か誇張した筆致で――但し勿論芸術的でなければならぬが――ある一群の人のある側面の真実を描き、それに対してその一群の人達がこれは「諷刺」だと称すものだ。
 「諷刺」の命は真実である。かつて実際にあったことである必要ないが、ありうべし、というものでなければならない。従って、それは「捏造」ではなく「中傷」でもない:又「陰に私事を暴く」のでもなく、人を驚かす「奇聞」や「怪現象」でもない。書かれた事は公然のことで、常に目にするが、平時は誰も奇とせず且つまた誰も注意せぬ事だ。
だがこうした事は、その時すでに不合理で、おかしくて軽蔑すべき物で、憎むべきでさえある。だがそういうふうに行われ、習慣になると、公衆は誰も奇に思わぬが:それを取りあげて提起すると、影響がでるのだ。例えば、(殆ど中国服だった時代に)洋服を着た青年が仏像を拝むのは、今ではもはや普通のことだが、それを見た道学先生が怒るのも普通のことだが、暫くするとそれも過去のものとして消えてしまう。だが「諷刺」は正にこの時に撮った写真で、一人は尻をぴんとはねあげ、もう一人は眉をしわ寄せている。他の人から見てもとても不格好に感じるし、自分でもとても不格好に感じる:さらにこれが広まって行くと、後に科学を大大的に講じ、修養を説く際に、大きな障害になる。撮られた写真が真実でない、といったところでむだである:その時、目にした人がおり、誰もが確かにこれらの事があったと思うからだ:しかしそれが本当にあったことだと認めるのは気分が悪い。自分の尊厳を失くしたと感じるからだ。そこでいろいろ知恵を絞って、名目を考えだし「諷刺」と呼ぶのだ。その意味は:そんなことを取り上げるのは褒められたことではないぞ、というのだ。
 意識してこれを提起し、精錬し誇張するのは確かに「諷刺」の本領だ。例えば、新聞記事で記憶に残るのは今年2件あった。一件はある青年が士官と詐称し、各地で詐欺をして逮捕され、後に懺悔書を書き、生活のためにやっただけで他意は無いとした。もう一件はコソ泥が学生を引きずり込み、窃盗の手口を教えたので、家長はそれを知り、自分の子弟を家に閉じ込めていたが、それでも奴は家まで押し掛けてきて、したい放題をした。注目すべき事件について、新聞では往々特別な論評が出るのに、この2件には今に至るも何もなく、とても普通の事の様にとらえ、意に介するに足りぬとしている。このネタは、Swiftやゴーゴリの手に渡したら、きっと出色の風刺作品になったと思う。ある時代の社会にとっては、ある事柄はより平常なほど普遍的なものとなり、それはより諷刺を作るのにふさわしいものになるのだ。
 風刺作者は大抵諷刺された者に恨まれるが、彼は常に善意であり、彼の諷刺は彼らが改善するのを望んでいるのであって、その一群を水底に陥れようとしているのではない。然し、同じ群の中に、諷刺者が現れたらこの一群は収拾不能で、もう筆墨の救える状況になく:そんな努力は大抵徒労に終わり、又その反対になってしまい、実際その一群の欠点から悪徳に至るまでを表現するに過ぎず、敵対する別の一群にとって有益になってしまう。思うに:別の一群から見ると、その受けとるものは諷刺されたその一群とは異なり、彼らは「暴露」と感じる方が「諷刺」と感じるより多いのだ。
 諷刺に似た風貌の作品で、善意のかけらも無く、ただ読者に対して、世事一切はひとつもとるに足りないと感じさせるのは、諷刺ではない。それは「冷嘲」だ。 5月3日

訳者雑感:
ここでは魯迅は自らを諷刺作者として答えているようだ。彼が諷刺した一群の人の改善を願って。彼の諷刺は決して一群の人達を水底に陥れようとして書いているのではない。だが一群の人は、これは自分たちを水底に陥れようとしているのだと感じ、魯迅は人を諷刺して罵るのに長けておるだけで、自分たちの改善を願ってなどという気持ちなぞ微塵もない、と罵り返す。それがこの時代の社会の実態であった。
「阿Q正伝」を書いた時、彼は中国人の多くが根のところに持っている「阿Qの根性」を改善して欲しいと願ったのだが、逆に多くの人はこれは自分の事を諷刺していると感じ、毎月発表される文章にはらはらしながら、罵り返している。
香港のフェニックステレビの何亮亮氏が日清日露の戦争中に戦場となった遼寧省一帯で、
おびただしい数の中国人が戦闘行為のみならず、スパイの嫌疑とか他の容疑でいとも簡単に殺されているのを、それを茫として物見している中国人の多さに触れて、中国人にはそれに反抗しようとする「血性」が無いと評していた。(「劉亜洲氏の文集から引用」)
 朝鮮民族には伊藤博文の安重根とか白川義則の尹奉吉とか日本人高官を暗殺した「血性」のある人間がいたが、あれだけひどい目にあっていながら、誰も歴史に残る様な「血性」を発揮したものはいない。旅順で大量の中国人が殺されたのをただ坐して見ているだけで、誰も反抗しようと立ちあがらなかった。
 彼が最後に引用していた、「日本の右翼のある作家が、南京で30万人も虐殺したなど、絶対あり得ないことだ。30万人も殺される状況で、誰も反撃せず、逆に日本人が殺されてない、ということは、あり得ないから」というのが耳に残った。確かに爆撃機による空襲や原爆ならいざしらず、地上戦で30万人も殺されて、誰ひとりそれに反撃をしなかったというのは、「血性」の欠如だけではない別の問題があるのではないか?(血性は血気の意)
  2014/05/01記

 

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