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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「全国木版画聯合展覧会特集」序

「全国木版画聯合展覧会特集」序
  木版画は元々昔から中国にあった。唐末の仏像、紙牌から、後の小説の挿絵、説明図に至るまで、今も現物を目にできる。またこれで明らかなように:元来大衆の物で「俗」なものなのだ。明代人はかつて詩箋に用い、雅に近い物だったが、結局は文人学士がその上に、大筆で揮豪して踏みにじられてしまったことを証明しているだけだが。
 この5年来、急に盛大になった木版は、古文化とは関係ないとは言えぬが、埋葬された骨に新しい装束を着せたものではない。それは作者と社会民衆の内面からでた共通の要求だから、若干の青年達の一幅の鉄筆と数枚の木版を、このように力強く発展することができた。それらが表現するのは、美術学生の熱い誠で、その故に、常に現代社会の魂である。
実績も具体性を伴い、それが「雅」だとはもとより言えぬが、全て「俗」だとは断乎違うと言える。これまでも木版はあったが、このような境界に達していなかった。
 これは即ち、新興木版の所以であり、大衆が支持する理由である。血脈相通じ、軽視されることはなくなった。だから木版は雅と俗の境界を取り払っただけでなく、実際にずっと光明を増し、前途に偉大な事業が待っている。
 かつて高尚だとされた風景と静物画は新しい木版画では減少したが、この2者は却って優秀な成績を顕した。中国の旧画は両者が最も多くて、見慣れているので、それを見て知らず知らずの内にその長所を長い間かけて摂取してきたためだが、今最も必要なのは、作者の力を込めた人物と物語の絵だが、やはりまだちょっと劣り、平常の器具の姿形が、実物にそぐわないものもある。この事から一面では古い文化の後者への助けになっているが、束縛にもなっているのが分かる。また一面では「俗」に入るのも不易なことが分かる。
 この選集は全国から出品されたものの精髄の1冊目で、これは開始であって、功が成ったというのではないし、幾つかの前哨が進行中ということで、この後、更に尽きることの無い旌旗が空を蔽うような大部隊が現れるのを願ってやまない。
    1935、6、4記
訳者雑感:魯迅の近代木版画への愛情がひしひしと伝わってくる文章だ。伝統ある風景と静物画は長い年月をかけて目にしてきただけに、その「こやし」が近代木版画にも大きな栄養となって機能したのだ。只魯迅も指摘するように、現物とそぐわないようになった物も昔のまま踏襲して陳腐なままにしているのは残念だ。日本の浮世絵ほどには彩色化しなかったのはどうしてだろうか?日本では友禅染のような素晴らしい着物を描いて、それを型にしたりして多色刷りなどを発展させたのがろうか。一方の中国は友禅染というよりは、西陣織のように、糸を染めて、それを織り上げる、絨毯のようにタテ糸横糸を見事に組み合わせて、芸術品に仕上げる方向に進み、版画は章回小説の英雄などの線画とか風景を、白黒印刷で普及させたから、彩色での役者絵などの浮世絵の方に進まなかったのかな。
 江戸時代の京大阪や江戸の町人文化と北京や蘇州の町人文化の差かもしれない。
     2014/05/14記

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