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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「人の言、畏るべし」を論ず

「人の言、畏るべし」を論ず
「人の言葉(以後、人言という)畏るべし」は人気スター阮玲玉の自殺後、彼女の遺書にあった物だ。世間を騒がせたこの事件は、から騒ぎの後、段々沈静化し、「玲玉香消記」の公演が終われば、去年の艾霞自殺事件と同様、完全に消滅するだろう。彼女らの死は無辺の人海の中に、数粒の塩をまいたに過ぎず、口さがない連中は些かの塩味を感じたが、暫くせぬうちに淡、淡、淡となってゆくだろう。
 表題の句も初め少し風波を起こした。ある評論家は彼女を自殺させた咎は、彼女の訴訟問題に対し、新聞が大大的に報じた為だとした:暫くしてある記者が公開反駁し、現在の新聞の地位と世論の威信は極めて憐れなもので、人の運命を左右するような力など豪も無い。況やそれらの記事は大抵官憲から取材した事実で、捏造・デマは絶対ないし、古い新聞も揃えているから、もう一度調べられるが、阮玲玉の死は記事とは全く関係ない、としている。
 これらは皆ほんとうのことだと言える。だが――全てがそうだと言いきれない。
 現在の新聞が記事らしく書けないというのはその通りだ:評論は感じたまま談じることはできず、威力を失っているのも事実で、道理の分かった人は新聞記者を過分に責めたりはしない。だが新聞の威力は実はまだ全般的に地に落ちた訳ではない。それは甲には損失は無いが、乙には大きな傷となる:強者に対しては弱いが、弱い者には強者となるから、時に声を呑み、忍耐するとはいえ、時には武威を輝かせる。それで、阮玲玉のような者はその余威発揚の良いネタにされるのは、彼女は有名だが無力なためだ。小市民は他人のゴシップが好きで、とりわけよく知っている人の物が好きだ。上海の横丁に住む因業婆は、近隣の阿二姐さんの家に情夫が出入りするのを知るや、すぐ面白おかしく話す。甘粛の誰かが間男を作ったとか、新疆の誰かが再婚したとかなど、彼女は聞く気も起こさない。阮玲玉は今、うつしみのスターで、皆が知っているから、新聞で騒ぐには好材料で、少なくとも販路拡大につながる。これを見た読者は思う:「私は阮玲玉より美人じゃないが、彼女よりまっとうだ」と:また「阮玲玉の技両には及ばないが、出自は彼女より高いわ」と思う者もいる:自殺後でさえも:「阮玲玉のような技芸は無いが、彼女より勇気はあるわ。だって、私は自殺などしないもの」と思わせた。銅銭何枚かを払って、(ゴシップ覧を見て)自分の優位性を見つけるのは算盤にあう。だが演芸で生きる人は、公衆が上述の前2種の気持ちを持つようになったら、もうおしまいだ。それゆえ、我々は自分でもあまり判然としない社会組織とか意志の強弱などの表面的な問題を大げさにとりあげるのをやめ、自分をその立場に置いて考えてみよう。すると、多分阮玲玉が「人言畏るべし」と思ったのは本当だと思うし、彼女の自殺は記事と関係があるのも本当だと思う。
 だが記者の弁明は、記事は法廷から取材した事実だというのも本当である。上海の幾つかの大新聞とタブロイドに出る記事は、社会のニュースで、ほとんどは既に訴訟として公安局か工部局(租界の行政)に提出された案件だ。だが少し悪い癖があり、大げさに書きたてることで、とりわけ女性に対して余計そうしたがり:この種の案件は名士やお偉方に関係が無いから、描写に遠慮会釈もない。案件中の男の年齢と容貌はたいていそのまま書くのだが、女だとすぐ文才を発揮「年増だが艶っぽさは衰えず」でなければ「妙齢の乙女で聡明で可愛い」となる。女が失踪すると、自ら出奔したか、誘い出されたか分からぬうちに、文才は断定的に:「娘は独り寝のさみしさに男なくして眠られず」というが、どうしてそんなことが分かるのか?農村の婦女が2回3回嫁すのは、元来貧しい寒村では常にあることだが、才子の筆にかかり、大きな見出しを与えられると、「奇淫、則天武后に劣ることなく」とあいなるが、どうしてそんなことが分かるのだろうか?このような軽薄な文章は、村娘を相手にしてもきっと何の問題も無い。彼女は字を知らぬし、彼女の関係者も新聞を読むとは限らぬ。だが知識人に対し、特に社会で活動している女性は大変傷つけられるし、故意に誇張し大騒ぎをおこすのは云うまでもないことだ。しかし中国の習慣では、このような文句は筆を揺らせばすぐでてきて、何も考えずに、その時はそれが女性を弄ぶものとは思いもせぬだけでなく、自分が人民の喉と舌であることにも思い到らない。無論どんな描写をしようが、相手が強者なら構わない。訂正するとか、次号でお詫びすれば、一通の手紙も不要が。だが拳も勇気もない阮玲玉にとってはまさしく生けにえの材料となり、あらぬ隈取りをかかれ、それを洗い落とす術もないのだ。彼女に戦わせようか?彼女は機関紙を持っていないから、どうやって戦う事ができるだろう:冤罪だが相手が見えず、誰と戦えば良いのか? 我々は足を地につけて考えてみれば、彼女が「人言畏るべし」と思ったのもその通りだと分かり、彼女の自殺は記事に関係があると皆が思うのも本当だと知る。
 然るに、前述のように、現在の記事が力を失ったのも事実だが、私は記者謙遜して言うように、一銭の価値もないほど豪も責任を取れぬという所にまでは至っていないと思う。
記事はさらに力の弱い阮玲玉のような相手に対し、彼女の命運を左右するだけの若干の力を持っており、言うならば、やはり悪を為せるし、自分を善だとすることができる。「聞いたことは必ず記事にする」とか「全くその力が無い」とかいうのは、向上しようとする記者がお題目として言うべきことではない。実際はそうではなく――実態は選択し、作用させようとするからだ。
阮玲玉の自殺を弁護するつもりは無い。自殺には反対だし、私も自殺する考えはない。私がその考えが無いのは、それが潔くないからではなく、そうできないからだ。凡そ誰かが自殺したら、今は剛毅な評論家の叱責を受けざるを得ぬ。阮玲玉も例外ではない。だが私が思うに、自殺は大変むつかしいことで、その準備をしていない人が、軽く考える様な容易なことじゃない。もし容易と思うなら、試してみるが良い!
無論試してみようとする勇者もきっと多いことだろうが、彼はその価値があるとは思わないだろう。というのも社会に対する偉大な任務があるからだ。それは言うまでもなくずっと素晴らしいことなのだ。私は皆がノートに果たすべき偉大な任務を書き、曾孫の生まれるころにそれを取り出して、どんな具合になっているか見てみることを希望する。
     5月5日

訳者雑感:
 本編で魯迅は当時のゴシップ記事が魔都上海の大手紙とタブロイド版の大半を占め、弱者をネタにとりあげて、販路拡大優先で、人気スターの自殺事件が続いたことを例にとり、自殺には何の値打もないから、もっと大切な任務をノートに書きだして、曾孫の生まれるまで生き続けようよ!と呼びかけている。
この5月5日は端午の節句を念頭に置いたものだろうか。
人言畏るべしのゴシップ社会でどれだけのスター達が自殺していっただろう。
直近の新聞では、汚職で嫌疑を受けた政府高官が、取り調べを受けたという新聞記事の後
数十名自殺している(40名以上?)と報じている。本来は中国の建設の為に使われるべき税金からの支払いが、役人の懐に貯められ、それが莫大な金額となって、国外に持ち出され、富が喪失されている。そんな役人は新聞がどしどし記事にして、自殺してもらったらよい。彼らにはノートに書くべき偉大な任務などこれっぽっちも無いのだから。
   2014/05/09記

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