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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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魯迅著作翻訳書一覧

1921年「工人綏恵略夫」(露、アルベージェフ 中編)
 22年「一個青年的夢」(日、武者小路実篤 戯曲)
    「エロシェンコ童話集」(露 エロシェンコ)
 23年「桃色の雲」 同上
    「吶喊」(18-22年の計14篇)
    「中国小説史略」(上巻)
 24年「苦悶の象徴」(日、厨川白村 論文)
    「中国小説史略」(下巻)
 25年「熱風」(18-24年 短評)
 26年「彷徨」(24-25年 計11篇)
    「華蓋集」(25年分)「華蓋集続編」(26年分)
    「小説旧聞鈔」(旧文輯録、間に考正あり)
    「象牙の塔を出て」(厨川白村、随筆選訳)
 27年「墳」07―25年の論文と随筆(目下差し押さえられ中)
   「朝花夕拾」(回想文 10篇)(目下差し押さえられ中)
   「唐宋伝奇集」10巻 (輯録と考正)
 28年「小さきヨハネ」(オランダ、長編童話)
   「野草」(散文小詩)
   「而已集」(27年分)
   「思想山水人物」(日、鶴見祐輔 随筆選訳)
 29年「壁下訳叢書」(日、露の批評家の論文集)
   「近代美術史潮論」(日、板垣鷹穂作)
   「蕗谷虹児画選」(題辞訳)
   「プロレタリア文学理論と実際」(日、片上伸 作)
   「芸術論」(ソ連、ルナチャルスキー)
 30年「芸術論」(露、プレハーノフ)  
   「文芸と批評」(ソ連、ルナチャルスキー論文と講演)
   「文芸政策」(ソ連の文芸に関する議事録と決議) 
   「十月」(ソ連、ヤコブレフ 長編小説)
 31年「薬用植物」(日、刈米達夫、「自然界」の中に入れて)
   「毀滅」(ソ連、ファジーエフ 長編小説)
 訳著以外に「嶺表録異」「稽康集」「古小説鈎沈」など編集したが未印。
 他に「莾原」「語絲」「莾流」などの雑誌に関わる。他に柔石などの著作訳書
の校訂など多数。(本訳文では割愛する)

 私の訳著について許広平が「魯迅とその著作」にリストを作ってくれたが、不完全であった。今回雑感の編集を始めるために、私の関係した書籍を入れておいた本箱を開け、ついでに上記の如きリストを作った。
これを「三閑集」の末尾に付そうと思う。目的は自分の為で、幾分かは人の為である。リストから分かるのは、過去十年近く費やした生命は、決して少なくはない。人の訳書の校正にも真剣に一字一字目を通し、決していい加減にはせず、作者と読者に敷衍したいと思い、猶かつそれを毫も利用しようなどとは思わなかった。
 それができたのは「有閑」だったとはいえ、当時毎日8時間を生活為に売らねばならず、訳著と校正に使えたのはこの8時間以外の時間で、常に、毎日休みなしだった。しかしそれもこの4-5年は昔の様にはやれていない。
(魯迅は北京の十数年間、教育省の役人であり、教師も兼任していた:訳者注)
 ただ、こうして継続して費やされた生命は、単に徒労だっただけでなく、
ある批評家に言わせると、全て厳重に処罰すべき罪悪という。「衆矢の的」になって早4-5年。初めは「悪を為し」後に「報いを受け」論客は謗りを含んで恐怖と脅かし或いは幾分か小気味よさそうにこう「忠告」する。だが、私は、決してそうは思わず、これまで生きてきた。ただこの十年近く創作をしていないのに、私を「作家」と呼ぶのはおかしなことだ。
 思うに、原因の何がしかは私自身にもあるが、後進の青年にある。私自身については、ほんとに真面目に訳著に取り組んできたのだが、私を攻撃する人のいうように、巧みにかつ投機的にやったというには程遠い。出版した多くの本の功罪は暫く置くとして、たとえ全てが罪悪だとしても、出版界では大きな痕跡を残し、「蹴りだそう」にもそう簡単にはゆかぬ。根の無い攻撃は只一時の効験があるだけで、最悪なのは、彼らも又忽然と影のように淡くなり、消えて行くことだ。
 但し、再度私のリストをよくみると、その内容は実に貧弱と思う。致命的なのは、創作では大きな才覚に欠けるため、これまで一篇も長編が無く:
訳も
外国語の力不足で、徘徊ばかりしていて世界の著名な大作を訳そうとしなかった。後進の青年たちは、この逆のことをすれば(私を)打倒できるだけでなく、跨ぎ超えてゆける。だが、西湖で何とかいう新奇な詩を苦吟するとか、
国外で百万語の小説を書いているとかの類の宣伝だけをしても役には立たぬ。
 言葉はあまりに誇大だと、実はそぐわない。志がいかに高くても、心を専一にせねば、ただ単に、人を驚かすような興味本位のことを伝えるだけとなる:
静夜に考えていると自ら虚しくなり、焦操を免れぬ。いぜんとして私の黒影が前面を遮り、とても大きな足かせのように思う。
 遠大な目的のため、古人の利益のためでなく、私を攻撃する者は、いかなる方法を使っても、私は歯牙にもかけぬし、怨言もない。しかし筆で世に問おうとする青年に対し、今敢えて、数年の経験から誠心誠意苦い忠告をする。
それは:たゆまぬ努力をし、けっして一年半年で数篇の作品や数冊の雑誌で、空前絶後の勲功をたてようなどと思わぬこと。もう一つ:人を力ずくで抹殺しようとするな。人も自分も一緒にダメにしてしまうから。前に立っている人を乗り越えて行け。前人より、高く大きく。初陣で、幼稚で浅薄なのは構わぬ。
たえず成長してゆけば良い。文芸理論を知らずに、いい加減にデマやもめ事を起こす評論を書いたり、閑話を書いて、己と意見の異なる者の短評を撲滅しようとしたり、童話を数編訳して、他の一切の翻訳を抹殺しようと考えたりしても、結局は自分にも人にも「何の役にもたたぬ」ことになってしまう。
これすなわち「利口馬鹿」だ。
 私が「進歩的青年」たちに口と筆で猛攻されていたころ、私は「まだ50歳にもなっていなかった」が、今本当に50歳になった。E.Renan は人間 年をとると性格が苛酷になると言った。私はその弱点を全力で克服したい。
というのも、「世界は決して私と一緒に死なない」希望は将来に有ることを知っているから。灯下に独り坐すと、春夜はいっそう凄清を覚ゆ。静かな夜、筆のおもむくままこれを記す。 
1932年4月29日 魯迅上海北部の寓楼に記す。

 訳者雑感:
リストの翻訳はオランダの童話以外は日本とロシア(ソ連)の物ばかりだ。
ドイツ語は仙台で医学の為に習っただろうし、東京に移ってからもドイツ語の専門学校で学び、ドイツ留学も計画していた。東京にいるころには仲間を誘って、中東欧の被圧迫民族の文芸を翻訳していた。フランスのジュール ベルヌの作品なども訳している。オランダのもドイツ語からの重訳か。
ロシア語の作品も日本語からの重訳であったという。
 今年は中国共産党設立90周年でいろいろな行事が催された。その中で印象に残ったのは、香港のメディアなどが報じているのだが、90年前の設立時の同志たちは、殆ど日本語で翻訳された共産主義の文献を読んで、共産主義に共鳴していったという点だ。日清戦争後におびただしい数の留学生が日本にやって来て、日本語経由で、欧米の思想文化を吸収したこと。その意味では、中国の共産党設立に一番最初に貢献したのは、日本のそれらの文献の翻訳者だろう。
その後は、大量の中国人がモスコーに行き、直接ソ連から学んだが、なまみのソ連はそれなりの事情があって、中国共産党とは良い時もあったが関係が悪化した時の方が長い。ソ連は国民党の方を支援していたし、蒋介石もモスコーに出かけて彼の考え方が一変したという。息子も留学させ、ロシア人と結婚している。日本が負けてからも、ソ連は共産党ではなく、国民党が中国を支配する
のを支援していた。1945年当時、スターリンは毛沢東を「マーガリン コミュニスト」と軽蔑していた。そんな毛沢東が初めてモスコーでスターリンと会談した時に始まったボタンの掛け違えが、その後の中ソ対立の芽となった。
 理想とする「主義」とか「社会システム」は第三者による「翻訳」や「思い入れ」で純粋に考えるのと、蒙古帰属の領土問題や内政問題でぎくしゃくする「なまみ」の関係から発する「現実社会」とは大きく乖離するのはよくあることだ。
 魯迅のいう「希望はきっと将来に有る」というのは、あまりにもでたらめな現実社会に暮らしているからこそ、将来に希望を託さざるを得ないからだろう。
 原発事故以来、あまりにもでたらめな政権下で暮らす我々、被災者の人たちにも、将来はきっと良くなるという希望だけは有る。
   2011/07/06訳





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私と「語絲」のこと

私との関係が長いのはなんといっても「語絲」だろう。
多分そのために、「正人君子」らの雑誌が私を「語絲派の主将」だとした。急進的青年は、今も私を「語絲」の「指導者」とする。去年魯迅を罵倒しないと自分が這いあがれないと言われたころ、匿名子から2冊の雑誌「山雨」が届いた。
短い文章で大意は私と孫伏園君が北京で、晨報社の圧力により「語絲」を
創刊したが、今や自分で編集し、投稿されたのを勝手に編者あとがきをつけ、
原意を曲解し、他の作者を圧迫している。孫伏園君の議論は絶妙だから、今後魯迅は彼のいうことを聞くべきだと。これは張孟聞の文章で、署名は別の二字だが、大勢で刊行しているというが、実際は一人か二人というのは今でもよくあること。
 「主将」「指導者」と呼ばれるのは、別段悪い気もしないし、晨報社の圧力云々というのも、恥とも言えぬし、老人は青年の教訓を受けいれるべきだというのは、より進歩的なことで、何も言うことは無い。だが、「望外の誉れ」も「想定外のこきおろし」もともに無聊なもので、平素一兵を持たぬのに、恭しくも「本当のナポレオン」のようだと褒められると、将来軍閥の雄になろうと志していたとしても、いい気もちはしない。「主将」などでないことは、一昨年声明を出したが――何の効力も無かったようだが――今回少し書いておこうと思ったのも、これまで晨報社の圧力などでなく、「語絲」は孫伏園さんと二人で創刊したのでもない。創刊は伏園一人の功である。
 当時彼は「晨報副刊」の編集者で、彼が私に投稿を依頼してきた。
しかし私は何の原稿もないので、私が特約選述で、投稿の多寡にかかわらず、月3-40元の報酬を得ているという伝説がでてきた。晨報社にはある種の特約作家がいたことは聞いていたが、私はその中には入っていない。昔の師弟――
僭越ながら暫しこの2字を使うのを許されたく――関係から、かなりの優待は
受けたようだ:原稿を渡せばすぐ載り:千字2元から3元の稿料は月末には受け取れ:3つ目は短い雑評でも稿料をもらえた。だがこんな景気のいいことは長くは続かず、伏園のポストも大変不安定な情勢だった。欧州から留学帰りが(惜しいかな、名前は忘れた)晨報社と深い関係ができ、副刊に対して不満たらたら、改革を決定し、戦闘計画のために、「学者」(陳源の意)の指示により、アナトール・フランスの小説を読みだした。
 当時中国では、フランス、ウエルズ、ショーの威力は大変で、文学青年を驚かすという意味では、今年のシンクレアと同じで、当時とすれば形勢はじつに
非常に大変な状態だった。この留学帰りが、フランスの小説を読み始めてから、
伏園がプンプン怒って私の寓居にやってくるまで、何カ月目か、何日目か、もう記憶も定かでない。
「辞めた。にっくき野郎め」
ある晩、伏園が来て開口一番。それはもともと想定内で、何ら異とするに足りぬ。次いで、辞職のわけを訊くと、何と私に関係があるという。留学帰りは、伏園の外出時に、植字工房に行き、私の稿を抜いたため、争いとなり辞職せざるを得なくなった。私はそのことに対しては怒らず、その稿は三段の戯詩で、「私の失恋」という題。当時「ああ、もう死んでしまおう」の類の失恋詩が盛んだったので、故意に「彼女の勝手にすれば」ものごとはうまく収まる、と揶揄したもの。この詩は後に一段加えて「語絲」に載せ、再度「野草」にも入れた。そしてペンネームも新しいのを使ったので、初見の作家の作品を載せない主宰者からはポイと放逐された。
 だが私は伏園が、私の原稿のために辞職した事は気の毒になり、心にずしんと重い石で圧迫されたようになった。数日後彼は自分で雑誌を始めると言いだし、私はもちろん全力で「吶喊」しようと応じた。投稿者はみな彼が独力で招いた者で、16人だったと思う。その後、全員が投稿したわけではない。広告を刷り、各所に張り、ばらまき、約一週間後小さな週刊紙が北京に――大学の周辺に現れた。それが「語絲」であった。
 名の由来は何名かが任意に一冊の本を取り上げ、任意にページを広げ、指で差した字から取った由。その時私は立ち会ってなかったので、本の名や一回で「語絲」の名を得たのか、何回か試した後、ふさわしくないのを棄てたのかどうかは知らぬ。要は、この事からこの雑誌が一定の目標や統一戦線の無いということが分かる:16人の投稿者の意見、態度はそれぞれ違い、顧頡剛教授は
「考古」の原稿だったことで分かるように、言うまでも無いが「語絲」が現代社会に関するものを好むこととは相反した。だがある人々は多分はじめ伏園との友情を深めんとしただけで、2,3回投稿したら「敬して遠ざく」で、自然に離れて行った。伏園も私の記憶ではこれまで3回しか書いてない。最後のは、これから大いに「語絲」に著述すると宣言したが、その後一字も見てない。それで「語絲」の固定投稿者は多くても5,6人になったが、それが同時に意図せぬうちに一種の特色が顕著になり:任意に談じ、顧忌なく、新しいものの誕生を促し、新しいものに有害な古いものには、全力で排撃する、がどのような「新」
しいものを誕生さすべきか明確な表明はなく、危急だと感じた時でも、故意にその言辞をあいまいにした。陳源教授が「語絲派」を痛斥したとき、我々に対して軍閥を直接罵ろうとしないとなじり、ひとえにペンを執る有名人を困らせようとしているといったのは、ここらから出ている。しかし、狆コロを叱るのは、その飼い主を叱るよりずっと危険だということを知っていたから、言葉をぼかしたのであって、走狗が臭いをかぎつけて、手柄をたてようとしたら、必ず詳しい説明が必要となり、労力を費やさねばならず、そうは簡単にうまい汁をすえないようにしたためである。
 創刊時の苦労は大変で、当時職員は伏園のほか小峰、川島がいたが、社会に出たての青年で、自分で印刷所に走り、自分で校正し、折りたたんで、自分で抱えて大衆の集まる所で売った。まさに青年の老人に対する、学生の教師に対する教訓で、自分ではただ少し考えただけで、何句かの文章を書いているのは安逸に過ぎる、一生懸命に学ばねばならぬと思った。
 但し、自分で売った成績は芳しくは無かったようで、売れたのは数か所の学校、中でも北京大学の文科だった。理科がその次。法科では余り読まれなかった。北大の法、政、経の出身者諸君で、「語絲」の影響が絶えて少ないのは多分
その通りだろう。「晨報」への影響は知らないが、一定の影響はあったようで、
以前、伏園に和を求めに来た時のことを、伏園は得意の余り、勝者の笑みを浮かべて私に語った。
「すごいぜ、彼らはうかつにも地雷を踏んだんだ!」
これを他の人に言うのは何でもない。だが私には冷や水をかけられたようで、そのとき私はこの「地雷」は私を指すと直感したからで、思索をめぐらして、文を書くのは人の小さな紛糾のために自分を粉骨砕身するに過ぎぬし、一方、心の中では:「えらいことになったぞ、地下に埋められてしまった!」と思い、
 それで私は、「彷徨」を始めたのである。
 譚正璧氏は私の小説の題を使って、私の作品の経過をきわめて明晰で簡潔に
評して:『魯迅は「吶喊」に始まり、「彷徨」で終わる(大意)』と言う。私はそれを頂戴して、私と「語絲」の初めから今までの歴史を述べるに、まさにぴったりした適切な表現だと思う。
 しかし私の「彷徨」は長くは続かず、当時はニーチェの「Zarathustra」を読んだ余波で、自ら絞りだせる――絞りだすに過ぎぬが―文を絞りだし、自分で作れる「爆薬」を造り、持ち続けようと決め、昔通り投稿した。それが知らぬうちに利用されていたと知った時、数日間こころは晴れなかった。
しかし「語絲」の販路は拡大していった。元元の同人は印刷費を分担し、私も十元だしたが、その後は取らなくなった。収支が足りてきて余剰が出てきた。
それで小峰が「老板」(社長)になったが、この推挙は決してきれいごとではなく、その時伏園は「京報副刊」の編集者になり、川島はまだ青二才で、数名の
同人は目をパチクリさせ口数の少ない小峰に任すほかなく、栄名を与え、利益を吐き出させて、毎月招宴させた。これは「取らんとすればまず与えよ」の法が奏功したもの。盛り場の茶館や料亭に時々「語絲社」の名板が掛るのが見られた。足を止めれば、疑古の(銭)玄同氏の早口でよく通る談論が聞こえた。
だが私は当時宴会を避けていたから、内部の事情はまったく知らない。
 私と「語絲」の淵源と関係は以上の通り。投稿も時に増え、時に減った。が、
こうした関係は北京を離れるまで続いた。その頃は実際だれが編修しているかも知らない。
 アモイに来てから、投稿は減った。一つは遠くなったため催促も受けず、責任も軽くなり、二つには、人も地も不慣れで、学校で遭うのは大抵念仏婆さんの口吻の人たちばかりで、紙墨を使うに値せぬため。「ロビンソンの授業記」や「蚊は孵化の為に刺す」などでも書いたら面白かったろうが、そんな「才」も無く、ごく些細な文を寄稿せしのみ。その年末に広州に移り、投稿もかなり減った。第一の理由はアモイと同じ。第二は事務にかまけ、広州の事情にも暗く、後には感慨深いこともあったが、「語絲」の敵が支配する所で発表する気にならなかった。
 権力者の刃の下で、彼の権威を頌揚し、彼の敵をけなして媚を売るようなことはしたくないというのは「語絲派」の共通の態度と言える。「語絲」は北京で
段祺瑞とその狆ころたちのいやがらせからなんとか難を逃れたが、終いには「張作霖大師」に発禁され、発行元の北新書局も同時に閉鎖されてしまった。時に1927年。
 その年、小峰は上海の寓居を訪ねて来、「語絲」を上海で発行しようと言い、私に編集を嘱した。これまでの経緯からして辞するべきではなく、承知した。その時、従来の編集法を訊いたら、簡単で、凡そ社員の原稿は、編者は取捨の権なく、必ず当用。外来のもののみ編者が選択可。必要に応じ削除可。従って
私のなすべきは後段の仕事で、社員の方は、実際9割は直接北新書局に送られ、直接印刷に回された。私が目にするのは製本後。いわゆる「社員」も明確な規定無く、最初の同人で今も残るのは少なく、途中からの人は忽然と現れ、忽然と去っていった。「語絲」は壁にぶつかった人の不平不満を載せる傾向が強く、
最初の出陣であまり成績を出せなかった人、或いはもともと別の団体にいた人で、意見があって「語絲」で反攻したいと考えた人も、ここと暫時関わりを持ち、功成り名を遂げた後は、当然ながら淡漠となった。環境の変化により意見を異にして去る者も少なくなかった。だから所謂「社員」には明確な規定なし。
前年の方法は、何回か投稿されれば、必ず載せ、その後は安心して寄稿できるようになり、古い社員と同待遇。また古い社員の紹介で、直接北新書局へ寄稿し、出版前に編者の目を通らぬものもたまにあった。
 私が編集担当後、「語絲」の運も悪化し、政府の警告を受け、浙江当局に禁じられ、更に創造社式「革命文学」家のしつこい包囲攻撃を受けた。警告の原因は、私も分からないが、戯曲のせいだという。禁止の理由も不明で、復旦大学の内情を暴露記事を載せたからという人もいて、当時浙江の党務指導委員の幹部に復旦大学出身者がいたからだという。創造社派の攻撃は長い歴史があり、彼らは「芸術の宮殿」を守るため、「革命」いまだ成らず、のころからすでに
「語絲派」の数名を眼中の釘とみなしていたが、これを書きだすと長くなるので、次の機会に回す。
 「語絲」の本体は確かに消沈していった。一つに、社会現象への批評が殆ど無くなり、この種の投稿も減少した。二つには残った数名の比較的古い同人も
この頃、また数人いなくなった。前者の原因は、もう書くことも無くなったか、
或いは有っても敢えて書こうとするものが無くなり、警告と禁止がその実証。
後者は多分その咎は私に帰すと思う。一例として万やむを得ず、きわめて温和な劉半農氏の「林則徐とらわる」の誤りを糾弾訂正した来信を載せた後、彼は2度と投稿しなくなり、江紹原氏が謄写版の「馮玉祥先生…」を紹介してきたが、載せなかったら、彼もその後投稿しなくなった。更にこの謄写版は暫くして伏園の主宰する「貢献」に載り、丁寧なまえがきに、私が載せなかった事由を説明している。
 更に顕著な変化は広告の乱れだ。広告の種類を見ればその雑誌の性質が大抵分かる。「正人君子」たちの「現代評論」には、金城銀行の長期広告、南洋華僑学生が発行する「秋野」には、「タイガーバーム」のラベル。「革命文学」と銘打った小新聞も、その広告の大半が花柳薬と飲食店なら、作者と読者が分かるというもので、かつての専ら妓女と遊び人の話のタブロイドと同流で、今は男性作家を用いて、女流作家の倡優の代わりをさせ、ほめたり謗ったりするのが、
文壇での工夫と考えているに過ぎぬ。「語絲」創刊の頃、広告の選択は厳格だったが、新書といえども社員が良書だと認めねば載せず、同人雑誌であるから、同人はこうした職権を行使できた。北新書局の「北新半月刊」は「語絲」で、
自由に広告を載せられないためにできたという。だが上海で出版して後、書籍はもちろん、医者の診断例も載せ、靴下メーカーのも載せたし、早漏即効薬の
広告も出た。もともと「語絲」の読者には誰も早漏患者はいないとは保証できぬし、況や早漏を治すのは悪いことではないが、善後策としては「申報」のような新聞に任すのが穏当であり「医薬学報」に載せるのがより注意を促すだろう。このため、私は読者から何通かの叱責の手紙を受けたし、「語絲」にもそれに反対の投稿を載せた。
 私も以前は本分を尽くしはした。靴下メーカーの時、小峰に直接質したら、
答えは:「広告を載せた担当の間違い」で、早漏薬の時は手紙を出したが、応答無し。だがそれ以降、広告は無くなった。多分小峰が譲ったのだと思う。この時、一部の作家にはとうに北新書局から稿料を払い、発行の責めを負わなくなっただけでなく、「語絲」も純粋な同人誌でなくなった。
 半年の経験後、「語絲」の停刊を小峰に提案しようとしたが、賛成を得られず、私は編集責任を辞した。小峰は誰かを探してくれというので柔石を推薦した。
 だがなぜか知らぬが、彼も6ヶ月編集し第5巻の上半巻一ができたら辞めてしまった。
 以上が私の「語絲」との四年間に起こった瑣事。以前の数期と最近の数期を比べると、その変化が分かる。どう違うか。最も明白なのは、殆ど時事を取り上げていないこと、且つ、中編作品を多く載せているが、これは紙幅を稼ぐのが容易になり、又(政府の弾圧の)災いを免れるからだ。
古い物を壊し、新しい箱も壊してその中に隠れている古い物をさらけ出す突撃力は、今もなお、古いひとたちや、自分では新しいと思っている人々に憎まれてはいるが、そんなことはもう昔のことになってしまった。
               12月22日
訳者雑感:
 1920年代後半の、中国の出版業界と広告の関係が面白い。魯迅が指摘するように、広告を見れば、その雑誌の性格が大抵わかるというのは本当だ。
広告主は読者のニーズに最も関心を寄せ、自社製品の販売促進のためには、どのメディアに宣伝広告費を払うのが効果的かをよく研究している。
 学生時代の同人誌やそれに類した刊行物への広告費をもらいに出かけたことがある。先輩の会社や、近くの飲食店などは当たり障りの無いところだ。先輩は後輩にいい格好できるし、その会社への就職希望者の増加が期待できる。飲食店も当然学生たちがたくさん使ってくれれば、元は十分取れる。
 今回の原発事故で、全国紙や大手メディアの東電批判記事が少なかったのは、それまで膨大な宣伝広告費をもらってきたからだ、と非難されていた。原発のある町村民が、こんなことになっても文句も言えない。それだけの金をもらってきてしまったのだから、…。と語る場面が強く印象に残る。
 魯迅がここで批判しているのは、「時事を取り上げなくなった」「政府の弾圧の災いを免れよう」としてきたことだが、これが「靴下や早漏薬」の広告を載せることと、どこかで繋がっていることだと思う。
 先輩の会社の広告を毎回載せていたら、きっとその会社が不祥事を起こしても、それを取り上げる記事は載せないだろう。飲食店が中毒で死者を出してもなかなかすぐには取り上げまい。
 中立なメディアというのは理想、空想に過ぎないが、広告費で記事の内容に影響が出ると言うのは問題だろう。かといって公共広告機構の「こだまでしょうか?」ばかりでは嫌になってしまうが。
       2011/07/04訳



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新月社の批評家の任務

新月社中の批評家は、嘲り罵る(人:魯迅を指す)をとても憎むが、それは単にある種の人を罵ることに対してだけ、罵りの文章を書く相手に対してだけだ。新月社中の批評家は、現状に不満な人(魯迅)を認めないが、それも単にある種の現状に不満な者に対してだけ、只今現在の現状に不満な者に対してだけである。
 これはきっと「その人の道で以て、その人の身を治めよ」(朱子の「中庸」の注)で、涙を揮って治安を維持せよという意味だ。
 例えば殺人は良くないが、「殺人犯」を殺すのは、同じ殺人だが、悪いとは言えまい。人を殴るのもよくないが、大旦那がケンカをした男の尻を叩かせ、執行人に5回10回と殴らせるのは悪いとは言えない。新月社の批評家にも罵る者がおり、不満な者もいるが、罵りと不満という罪の外に超然としていられるのも、きっとこの道理だろう。
 しかし例のように、手先とか執行人がこういう治安維持の任務を果たすのは、社会的に何がしかの畏敬を得られるし、更には何の妨げも受けずに、好きなように発言でき、若い人たちの前で威風を顕示し、治安をひどく妨害しない限り、長官は見て見ぬふりをしてきた。
 現在新月社の批評家は、こんな具合で治安維持に努めているが、手に入れようとしているのは「思想の自由」に過ぎず、そう思っているのみで、決して実現しそうもない思想だ。そしてはからずも、別の治安維持法に出くわして、もはや考えることすら許されなくなった。これからは二種類の現状に不満を持つことになるだろう。
(1930年1月1日「萌芽月刊」)

訳者雑感:実名が無いので、当時のことを知らないと理解しづらい。出版者注で、新月社の梁実秋が、魯迅の「ユーモアと風刺の文章」で罵るのはダメで、「厳正」な批評をすべきと提唱していることを背景として知った上で読むとよく分かる。
 もうひとつの「思想の自由」も当時の「思想統一」反対という主張がある。
これは国民党の思想統制のための別種の治安維持法の導入で、「党義への批判と総理を汚辱する」ことを許さないとしたもので、「人権と約法」などの文章を書いた胡適は教育部から「警戒」された、と注釈がある。
 新月社の批評家たちは、当初は政府(長官)の黙認の下で、「厳正」な批評を発表することで、青年達に威風をみせつけ、権威的立場から魯迅たちを単に皮肉屋的な現状不満家として攻撃してきた(それが任務であるかのごとく)。
 しかし、当の政府(長官:教育部)が、思想統制を始め、治安維持を厳格に
してきたため、彼らの任務はこれまでのようには果たせなくなった。それをよく認識しなされや、という事だろうか。  2011/06/25訳

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書籍と財と色

 今年上海の子供向けの駄菓子屋では、十軒中九軒が、射幸性を帯び、銅元一枚で、ある手続きをすれば銅元以上の菓のおまけがつく。学生向けの書店では、それ以上の大きなおまけが付く――なにせ学生むけだから。
 本の値段は「碼洋」という陋習の廃止は、北京の新潮社――北新書局に始まるが、上海でも多くがまねた。蓋し当時の改革の潮流はじつに盛んで、売買双方で、改革を志す人(書店たるもの、文化を紹介するとの自負で、それは今も広告ではまだあるが)が、虚価を印してからそれを値引きし、互いに騙しあいをすることは不要である。しかし麻雀牌をこよなく愛する人の世界で、なおかつそれを自慢する人たちは、そんな簡潔明瞭で意外性のないやり方には我慢できない。それでつい例の病気がでて、まずは試しに:画像を付ける、後から値引きする、九がけから半値まで。もちろん昔のやり方ではない。定期的でその理由もはっきりしていて、或いは学校の始業にあわせ、当点開業1年半記念セールの類。他にもいろいろあり、絹のストッキングやアイスクリームのおまけつき。錦の小箱に十個の宝物、とても高価なものがどっさり。さらに実際驚くのは、年間購読やまとめ買いをすると「奨学金百元」や「留学費二千元」が当たる。租界の「ルーレット」は大当たりで36倍もらえるが、本のおまけには及ばない。当たった時の倍率は大変なものだ。
 古人曰く:「書中自ら黄金の部屋あり」というのが今実現せんとしている。
但しそのあとに続く一句「書中自ら玉の如き顔(かんばせ)有り」はいかがか。
 新聞の付録の画報になぜか「女子校の優等生」や「樹下で読書する女」の写真類があり、別には一元の本を買えば、裸体画が付くというインチキもあり。
「玉の如き顔」気味を帯びた例である。医学では「婦人科」という専門分野があるが、文芸では「女性作家」を分けているが、ジェンダーの差の濫用を免れぬ。おかしなことだ。一番露骨なのは張竟(日は口)生博士(性文化宣伝:出版社注)の「美の書店」で、対面販売の二人の美人店員に対して、客は「第三の水(女性の性生活中の分泌物:出版者注)」は出ますかと尋ねることができるなど。一挙両得、玉あり書ありだ。それが惜しいことに「美の書店」は閉鎖され、博士も商売替えを余儀なくされ、「ルソーの懺悔録」の翻訳に取り組み、この道は中途で衰えてしまった。
 書店の売り上げが更に低下したら、女店員が女性作家の作品と写真を売ったり、くじ付きにして客は「奨学金」と「留学」費用が当たるなどの方策を講じるのが一番だと思う。  (1930年2月1日「萌芽月刊」)

訳者雑感:
原題は「書籍と財色」。財色はどう訳そうか迷った。才色兼備という。
魯迅もおやじギャグでこの才を財とかけたものか、と思った。
 それで、本文を訳し終えた後、ルーレット以上の倍率の籤つきが「財」で女性の写真が「色」かと思いあたって、「本と財と色」とした。
 今でも中国の本は定価の何割引きかで売っている露店がたくさんある。古本ではなく、海賊版に近いものもあるが、本物もある。日本のような再販制度がないからか、定価で売る「新華書店」とそうでない民間の本屋があり、学生向けの参考書などでも数冊気にいったものをレジに出すと、向こうで値引きしてくれて、「儲かった」と喜んだ経験がある。
 1930年代でも、本の販売が低迷して競争がはげしくなっていたのだろう。
書店の経営に関心を持っていた魯迅は最後に「販促」の方法を示している。当時世界の先端をゆく上海でも、裸体画や女性のブロマイド付きで販促していた様子がわかって面白い。
 「碼洋」という陋習、が何を指すかは分からない。昔岩波文庫は丸印一個がいくらを指す、云々という制度があった。消費税の導入までは本の裏に値段が印刷されていたが、そのうちカバーにだけになり、本体には値段が無くなった。
カバーさえ取り換えれば、いくらにでも換えられるということだろう。
    2011/06/23訳

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ごろつきの変遷(侠から無頼漢へ)

 孔子や墨子は現状に不満で、改革を試みた。その第一歩は主を動かそうと説得に努めた。その際に使ったのは「天」であった。
 孔子の徒は儒で、墨子の徒は侠であった。「儒者は柔也」で危険に陥ることはなかった。侠は愚直だったから、墨者の末流は「死」を究極の目的とした。後に本当に愚直なものたちは次々と死んでいなくなり、巧みに侠を使いこなすものが残った。漢代の大侠は王侯権貴と互いに贈答しあうことで、危急時の護符とした。
 司馬遷は:「儒は文を以て法を乱し、侠は武を以て禁を犯す」と説いたが、之を「乱す」と「犯す」は、決して「叛く」ことではなく、少し騒ぐだけだし、ましてや五侯のような権貴の者もいたのだ。
 「侠」の字は徐々に消え、強盗が出現したが、これも侠の流れをくむもので、
彼らの旗印は「天に替って道を行う」で、やっつけるのは奸臣であって天子ではない。強奪したのは平民からで、将軍大臣からではない。李逵(き)が刑場荒らしで、マサカリで首をはねたが、刎ねたのは見物人の首だった。「水滸伝」にそれが書いてある。
 天子に反対しないから、天子の大軍が到着するや、すぐ帰順し、国に替って他の強盗をたいらげるし、「天に替って道をおこなわない」連中を攻める。しまいには奴隷に成り果てる。
 満州人の侵入後、中国は次第に圧迫服従させられ、「狭気」の者も次第に盗心を起こさなくなり、奸臣を叩きだそうとか、天子に直々に役立とうなどとも志さなくなり、高官や欽差大臣たちの用心棒や手先として強盗を捕えた。「施公案」や「彭公案」「七侠五義」に出ているし、今もそれが続いている。彼らの出自は清く元来悪い所は無く、欽差大臣の下だが、平民の上にいる。上の命令には
絶対服従だが、下に対しては好き勝手をし、安全度が高まるにつれ奴隷根性が増してきた。
 しかるに、(金欲しさに)自分が強盗を始めると官兵にやられるし、強盗を捕えようとすると、強盗に逆襲されたりしたので、安全な侠客になるのも容易なことではないことをさとり、それで無頼漢になった。和尚が酒を飲んでいるというと、やってきて殴った。男女の密通を捕え、私娼や密売を取り締まった。
公序良俗を守るためだと称した。田舎から出てきた者には、租界の規定を知らぬ輩と見下して、彼らから騙しとった。髷を切った女を罵り、社会改革者を憎み、秩序保全のためだと称した。背後に伝統的な親分を持ち、敵がたいした勢力がない連中と見るや、好き勝手に暴れた。最近の小説には、まだこのようなストーリーの典型は出てきていない。ただ「九尾亀」の章秋谷は、妓女を責めるのは、彼女が男たちから金をだまし取っているから、懲罰すると書いているが、これにやや似ていると言えようか。
 (世の中が)今よりさらに悪くなってゆくと、きっとこうした流れの登場人物が、この種の文芸のヒーローになってゆくことだろう。
「革命文学家」たる張資平「氏」の近作を待つとしようか。

訳者雑感:
 このころ魯迅は「古小説」をたくさん読んでいたのだろう。そして最近の租界の「読本」というか大衆小説もよく読んでいたようだ。アメリカ輸入の「ターザン」などの映画も繁華街まで見に出かけている。「文芸」を「飯のタネ」にしながら、もともと小説を読むのが好きであったと思う。特に「絵入り本」が。
それらには「侠」が必ず登場して、大立ち回りを演じてくれる。
 原題は「流氓的変遷」で従来は増田渉訳の「やくざ者の変遷」などがあり、彼も注して、魯迅に相談したら「いろいろ考えたあげく、(ごろつき)とするしか仕方なかろうと言った」とある。
 辞書には、他にならず者、チンピラ、ヤクザ、流れ者、無頼漢などある。
改革開放後の中国にも日本語訳通りの連中がいっぱいあふれている。文化大革命のころには、また別の種類のがいたことであろうが、坊主も酒を買えなかったろうし、妓女も公然とは許されていなかったし、男女密通とかを咎めて、公序良俗を守る云々というのは、紅衛兵たちの仕事で、流氓の口出しできる状況ではなかったろう。流氓の苦難時代だったと言えるかもしれぬ。その意味では、
彼らがのさばりだせたのは、改革開放のおかげと言えよう。国中に和尚があふれ、飲酒し車を運転する髪のふさふさした坊主(というのは剃髪した頭を指すのだろうが)が、老若男女から寄付を集めて、巨大な大仏建造に血眼になっている。妓女もあらゆる場所に現れた。これらが「侠」の末流を称する流氓たちの収入源である。「ゆすり」「たかり」「みかじめ料」「なわばり」など地方政府と一緒になって、庶民や田舎からでてきた農民工のピンはねをする。
 やくざ映画のヒーローたちはヤクザである。無頼漢と訳すと、少し褒めすぎの嫌いがないでもない。だが、本来は「天に替って云々」という精神的バックボーンがあったのだから、やくざともいえぬし、ごろつきとも言いにくい。
読者諸士の感想をお聞きしよう。
 2011/06/22訳
 

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現今の新文学概観 

5月22日燕京大学国文学会にて 講演
 この一年余、青年諸君に対して話をしなかった。(清党)革命以来、言論の道は狭くなり、過激でなければ反動となり、皆さんを益することはなくなった。
 今回北平(北京)に来、知人達からこちらに来て話すよう慫慂され、断り切れず、話すことになったが、瑣事にかまけ何を話そうか、題も決めてなかった。
 題は車中で考えようと考えていたが、道が悪いため、車が一尺以上も跳ね上がり、考えようもなかった。それで偶々思い至ったのだが、外来のものは、一つだけではダメで、車を入れたら道をよくせねばならぬ、すべて環境の影響を免れぬと思ったことだ。文学―中国の所謂新文学、所謂革命文学も同じだと。
 中国文化はどんな愛国者も、多分、すこし落後していると認めざるを得まい。
新事物は全て外から侵入して来、新勢力も来た。大多数の人は訳も分からないでいる。北平はまだしも、上海租界の状況は、外国人が中央にいて、周囲に通訳、スパイ、巡査、雇用人…の徒がいる。彼らは外国語をしゃべり、租界の規則を熟知している。その外側に大勢の民衆がいるという形だ。
 民衆は租界に来ると、本当のことが分からない。外人が“Yes”というと、通訳は、「ビンタだ」と訳し、“No”というと「殺せ」となる。こんないわれのない冤罪を逃れようと思うなら、まずより多くのことを知り、この環を突破する事。
 文学界も同じで、我々が知っていることは少ない。また我々に役に立つ知識の材料も少なすぎる。梁実秋はパビット一点張りだし、徐志摩はタゴール、胡適はデューイ、あそうだ徐志摩にはもう一人マンスフィールドがいた。彼は彼女の墓前で泣いたそうだ。――創造社には革命文学、時流の文学がある。だが附和や創作は結構あるが、研究したものは少ない。今まで数名のテーマを掲げた人たちに囲われてしまっている。
 いろいろの文学は環境に応じて生まれるもので、文芸を推奨する人は、文芸が波風を立たせると言うのが好きだが、実際は政治が先行し、文芸は後から変わるのです。文芸が環境を改変できると考えるのは「唯心」的な話しです。事実の出来(しゅったい)は決して文学家の予想の及ぶところではありません。従って大革命では、それ以前の所謂革命文学者は滅亡するしかない。革命がほぼ結果を出すようになってから、少しばかり息つく余裕が出てはじめて新しい革命文学者が生まれるのです。なぜか。旧社会が崩壊に近づく時、しばしば
革命性を帯びた文学作品が現れるが、実際には革命文学ではないからで:例えば:旧社会を憎み、単に憎むのみで、将来の展望がなければ:社会改造をどんなに唱えても、ではどんな社会にしたいのかと問うと、実現不能なユートピア:
又は自分でも無聊だから、なんでもかまわぬから大きな転変を希求し、刺激を得ようとするだけで、飽食した人間が辣椒(唐辛子)を食べて口をピリッとさせたいようなもの:更に下等なのは、元来が旧式人間で、世間で失敗し新しい看板を掛けて、新興勢力の力で高みに登ろうとする者。
 革命を望む文人は、革命が起こると沈黙してしまう。その例は中国にもこれまであった。清末の南社は革命鼓吹の文学団体で、漢族が圧迫されていることを嘆き、満州人の凶悪横暴を憤慨し、古いものの復興を渇望していたが、民国成立後、寂として声なし。彼らの理想は革命成功後には「夢よもう一度」であって、(役人の)冠と帯をつけることだったためと思う。事実はそうはならず、却って索然と味もなくなり、筆を執る気にもなれなかった。
 ロシアの場合もっと顕著で、十月革命の初めころ、多くの文学家は大変喜び暴風雨の襲来を歓迎、風雷の試練を望んだ。だが、その後詩人エセーニン、小説家ソーボリは自殺し、最近では有名な小説家エレンブルグも反動化した由。
なぜだろう。四面から襲ってきたのは暴風雨ではなく、試練の風雷でもなく、ほんとうの「革命」だったからだ。空想は撃砕され、人間も生きてゆけないから、昔のように死後に霊魂が天にのぼるのを信じ、上帝のそばで、お菓子をたべておられるような幸福に如かず、目的を達成する前に死んだのだ。
 中国はすでに革命が成ったと聞く――政治的にはそうかもしれぬ――しかし、文芸上は何も変わっていない。「プチブル文学の台頭」とかいうが、実際にはいったいどこにそれが現れているのか。「頭」すら見えぬのに、どこでその頭を台(もちあげる)しているのか。以上の推論から、文学は少しも変わっていないし、隆盛してもいない。これが意味するものは、革命も進歩も「無」だということ――こう言うと革命家は嫌がるが。
 創造社の提唱する、より徹底した革命文学――プロレタリア文学は単に一つのテーマに過ぎません。ここでも発禁、あちらでも発禁された王独清の上海租界から広州の暴動を遥望した詩「Pong,Pong,Pong」は活字がだんだん大きくなり、これは彼が映画の字幕や上海の醤油屋の看板に影響を受けたというのも、プラークの「十二個」をまねようとする気持ちも、才も力も無いことの説明に等しい。郭沫若の「片手」を佳作と推す人が多い。内容は革命者が革命で手を失ったが、残った手で恋人と握手ができた、というが「失」ったのが不幸中の幸い、話がうますぎる。五体、四肢のどこかを失くすとしたら、一本の手に如かずで、足だと歩けなくなり、頭ならおしまいだ。ただ一本の手を失うことしか考えていないなら、戦闘への勇猛な鋭気を減じさせる:革命家の犠牲を惜しまないのは、こんな点に留まるものではない。「片手」はやはり貧乏書生が、
困難にめげず、最後は状元(科挙の最優秀合格者)になり、華燭の典を迎えるという例のパターンだ。
 これも中国の現状を反映している。最新の上海で出版された革命文学の表紙は、三叉槍で、これは「苦悶の象徴」からのパクリで、三叉の中央にはハンマーが付いている。これはソ連の旗からとったもの。こうしたツギハギでは、刺すのも叩くこともできない。作者の凡庸さを露見させるのみ。こうした作者を表す徽章にすぎない。
 ある階級から他に移ることは十分ありうることだが、大事なことは意識であって、ひとつひとつ丁寧に説明し、大衆の目で、仇か友か判断してもらう。
頭の中の古い残滓はそのままにしておきながら、故意に自己欺瞞して、劇を演じるがごとくに、自分の鼻を指して「私こそがプロレタリア」だと言ったりしてはダメです。今の人は神経が過敏になっていて、「ロシア」と聞いただけで、気絶するほどで、まもなく唇を紅く塗るのを許さなくなるでしょう。出版もあれも恐ろしい、これもそうだとなると:革命文学家は他国の作品の紹介をせずに、ただ自分の鼻を指しているだけです。清朝の時のように、「宣旨を奉じ、申し渡す」と同様、訳も分からないことになってしまう。
 「宣旨を奉じ云々」について諸君には少し説明しないと分からないでしょう。
帝政時には、役人が悪事をはたらくと、何とか門の外に跪坐させ、皇帝は宦官に斥罵させました。この時、少しお金を使わねばならぬ。そうすれば三言ほどで放免となるが、もし使わないと祖先から始まって子孫にまで次々に罵られる。
これは皇帝が叱っているので、誰も皇帝の所へ行って、その理由を聞くわけには参らぬのです。去年日本の雑誌に成仿吾が中国の労農大衆に選ばれて、ドイツに戯曲研究に行ったと出ていたが、我々は本当にそう選ばれたのかどうか、訊いてみるすべも無い。
 従って、ものごとをはっきりさせるためには、いつも言っておりますように、「外国の本をたくさん読む」ことによって、この囲みを打ち壊すしかありません。これは諸君にとって、たいした労力ではない。新文学に関する英文の本は多くは無いとはいえ、何冊かは信頼ができます。他国の理論と作品をたくさん見た後で、中国の新文芸をみると、ものごとがはっきり見えます。もっといい
のは、それを中国に紹介し:翻訳は気ままな創作より簡単ではないが、新文学の発展にとって大いに役立ち、みんなにも大変有益です。
     (1929年5月25日「未名」に発表)

訳者雑感:
 魯迅はかつて北京に暮らしていたころ、役所に出勤するとき人力車に乗ってでかけた。そのときの一コマを「一件小事」という小品に書いている。それから、北京を追われ、アモイ、広州、上海と移動し、今回北平(南京が首都)に久しぶりにやってきた。講演のために乗ったのは自動車であった。この数年で北京にも自動車が輸入されたのだが、道は昔のデコボコのままで、一尺も跳び上がったという。自動車だけ取り入れても、道という環境が整備されてなければ、ちぐはぐなことこの上ない。
 2年ほど前、北京―天津間を30分で結ぶ新幹線ができたので、乗りにでかけた。大連の旅行社で切符を予約しようとしたが、新幹線は10-20分おきに出るから、地下鉄と同じように、乗る前に窓口で切符は買えば良いという。在来線は必ず予約して切符を入手しておかないとほとんど乗れないという苦い経験があったので心配だった。案の定、出かけたのが国慶節の休みだったので、切符売り場に行ったら、2時間後の席しかない。高速運行だから立ち席は無い。自由席列車などとんでもない。在来線の列車は廃止されて、ハルビン行きなど遠距離のは、全て満席で切符はない。
結局30分のために2時間半待たされる羽目になった。
 それでも新幹線用にできた北京南駅舎にはおびただしい人が床に寝ころんで待っている。首都といえども、オリンピック開催後も、20年前の北京駅前と同じ状態であるのにうんざりするやら、あきれかえってしまった。
 なんとか搭乗して車窓から昔、天津に勤務していたころ2時間余かけて田園地帯をしばしば眺めた景色を見ながら、あっという間に天津駅に到着した。
ホームの両隣の車両の窓を、何名もの清掃員が柄のついたタオル地の窓ガラス用のクリーナーで、流線形の窓を上から下に水を撒きながら磨いている。なぜかなと不思議に思った。
 北京―天津間は在来線と並行して走っている。在来線の車両のトイレは昔の日本でそうであったように、垂れ流しのまま。黄害。
魯迅のこの段を読んでいて、ふと思い至った。クリーナーが不要になるには、この後どれくらいかかるだろう。
     2011/06/20訳
 

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近代世界短編小説集 まえがき

一時代の記念碑的な文というものはそう多くは無い。
あるとしても十中八九は大作で、短編で時代精神を表すのは極めて少ない。
 今でも巍峨とそびえる巨大な記念碑的文章の傍らで、短編小説も依然として存在するに十分な権利を持っている。巨細高低の差や、相互依存を命と考え、あたかも身は大伽藍に入っても、全体を見るにたいへん宏麗で、見る人の目を
まぶしくさせるほどで、読者の心を飛翔させるだけでなく、ひとつひとつ丹念に見ると、細小ではあるが、そこから得られるものは実に確かな手ごたえがあり、これで以て全体に推し及ぶこともでき、感動はいよいよ切実さを増し、そのゆえにこそ、それらの作品が重視されてきた。
 現在の環境下、人は生活にかまけ、長編を読む時間が無いことも、短編小説が盛んにでてきた背景にある。短い時間で、一班をとって全貌をほぼ知る。
一見で以て精神を余すところなく伝え、数時間で多種多様な作風を知れ、多くの作者、さまざまな描写と人と事物と状況をつぶさにでき、得る所はすこぶる多い。そしてまた、便利で手軽、まとめやすく、いい所を取り出しやすい…
こうした点はまだ他にもある。
 中国では世界の傑作と言われる大作の翻訳はとても少ない。短編小説が多い理由はこの辺にある。我々――訳者がこれを出版する原因もここにある。少しの力で、たくさん紹介しようとするものだが、根気よくやろうとしない弱点も免れぬと自問している。だが、また一輪の花を咲かせれば、朽ちてしまう草花であっても良いではないかと思う。
 又、細々した小品を一冊にまとめ散逸を防ぐ。我々訳者が学びながら訳すので、小事といえども力は足りず、選んだものも適切でなく、誤訳も免れぬと思う。諸子の批評と指正をお願いする。
         1929年4月26日 朝花社同人識。

訳者雑感:
魯迅は仙台医専を中退して東京にもどって仲間たちと同人誌を作ったり、域外小説集などに手を染めた。東京で(仙台医専で習った)ドイツ語を学んだのも、当時東京でドイツ語の文芸作品が(英語の作品と同じように)容易に入手できたからだろう。ドイツはその東隣りの東欧諸国の作品をたくさん自国語に翻訳していたから、魯迅としては、中国が同じ境遇にある「被圧迫民族」として東欧の文芸作品から学ぶものが多いと感じたのだろう。
 今では、中国の書店にはあまり展示されていないが、神田の内山書店には
魯迅の翻訳選集が置いてあり、そのヴォリュームは魯迅著作選集より多いほどである。また魯迅が翻訳した作品の後に付けた原作者の評論などもまとめて
一冊にしたものが出ている。彼は上記の中断で熱っぽく語っているように、自分の限られた力で、短い時間で、読者に世界各国の短編を紹介することが、たいへん好きだったようだ。それは中国の古典小説に対しても同じで、それらを丹念に調べ、書き写した作業から「中国小説史略」が作られた。このことから共通点を感じるのは、加藤周一の「日本文学史序説」で、二人とも学校で医学を学んだ後、別に「国文学」を学んだわけではないが、自国の文学史を簡潔に
まとめていて大変面白い。魯迅の雑文と加藤の評論は読みごたえがある。
       2011/06/16訳

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1929年「革命軍の馬前の卒」と「落伍者」

 西湖博覧会に先烈博物館を造るので、遺品を探している。これはすばらしいことで、もしも先烈がいなかったら、我々は今もなお辮髪を垂らしているかもしれぬ。
まして自由すらもないだろう。
 だが探しているもののリストの最後に「落伍者の醜史」というのはおかしなことで、水を飲むときに水源を忘れるな、と言った後で、汚水を飲めという如し。芳しい香りを嗅いだ後で、臭気を嗅がされるかのようだ。「落伍者の醜史」のリストに
「鄒容の事実」があり、おかしさが増す。記された鄒容が別人でなければ、私の知っているのは――
 満清の時に「革命軍」を書き、排満を鼓吹し、「革命軍の馬前の卒、鄒容」と
署名し、後に日本から帰国して上海で逮捕され、西牢で死んだのだ。時に1902年
(出版注:05年)、彼のは民族革命に過ぎず、共和はもちろん、三民主義も知らず、まして共産主義も知らぬが、諸兄は彼を諒解すべきだと思うし、彼は早く死に過ぎた。死の翌年に同盟会ができた(出版注;05年8月於東京)孫中山先生は自叙で、
彼に触れていると聞く。目録作成の諸公、ぜひとも調べて欲しい。
その後の烈士たちは、実にスピードが速く、25年前の事どもは、今や茫々。ああ美史というべきや。  2月17日

訳者雑感:
 10年ひと昔。25年後の1929年から見たら、「ただやみくもに満州王朝打倒に明け暮れた『革命者』たちを、主義も理論も無い「落伍者」のリストに入れてしまった。
太平天国の、義和団の戦、その後のおびただしい排満の義挙で命を落とした人たちを先烈とはみなさず、「落伍者」のリストに入れて
気にもしない。そんな「後烈」たちのスピードに抗議する魯迅の姿がここにある。
 天安門広場の東にある「歴史博物館」の展示を見ると、10年ごとに大きな変化があるのがわかる。長い間閉鎖されたこともある。歴史観というものは、その時々の為政者、「後烈」たちにとって不都合なことは展示しないのが、原則である。
林彪が東北戦線で勝利を収めなかったら、解放軍の大進撃はありえなかった、というのが1970年ころまでの認識であったが、1972年彼が反旗を翻し、破れて飛行機で逃亡を企て、モンゴルの草原に墜落したあと、林彪のリの字も聞かなくなった。
 1929年の後輩たちに鄒容が「醜史」のリストに入れられたのはなぜか。無視されたのではなく、「醜史」に入れられたというのは林彪のような背景があったのか。疑問だ。彼を貶めねばならぬ立場の人物が関係していたかもしれぬ。
   2011/06/15訳

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掃共(共産退治)大観

またも4月6日の「申報」からだが、「長沙通信」の段に、湘省の共産党破獲委員会が「三十数人を処刑し、黄花節に8人を斬首した」と伝える。その中の数か所のすごい描写を下記する:
『… 当日執行後、馬(淑純16才:志純14才)傅(鳳君24才)の三人は女性で、町中の男女が見物に押しかけ、山のような人だかりで大混雑。加えて共産党のボス郭亮の首級も司門口にさらされ、見物人は山の如し。司門口八角亭一帯は交通マヒの状態。南門一帯の民衆は郭亮のさらし首を見た後、教育会の方に女の屍体を見に行ったのだろう。北門一帯の民衆は教育会で女の屍体を見た後、司門口に郭の首級を見に行った、とみられる。町中が大騒ぎで掃共の気が
みなぎった:夜になって見物人は昼ほどではなくなった』
 写しながら、はなはだ穏当でないと感じた。というのも、これから議論を始めようと思ったが、すぐまた私が冷嘲すると疑われるのではと心配になった。
(人は、私がただ冷嘲するのが好きなだけと避難する)また一面では私が暗黒を伝播すると責め、早く私が死んで暗黒も自分と一緒に地下に持って行けと、
呪うから。だが私はたまならくなって――他の議論は控えめにし、単に「芸術のための芸術」を説き、この文章は150-160字の短文だがなんと力強いか。
一読しただけで、司門口にさらされた首と教育会前に一列に並べられた三体の
首なしの女の屍体が彷彿とするようだ。少なくとも半裸の――但し、多分違っているかもしれぬ。私自身が余りに暗黒すぎる故かも。
 たくさんの「民衆」の一団は北から南へ、もう一団は南から北へ、押し合い
へしあい騒ぎながら……。蛇足だが、その顔はみな興奮し或いは見終わって満足した面持ち。私がみた「革命文学」或いは「写実文学」でもこれほどの凄まじさはない。批評家ロコソフスキーの言う通り「アンドレーエフがいかに我々を恐がらせようとしても、全然恐く感じない:チェホフはそういう風ではないが、却って恐ろしくなる」で、この百余字はひと山の小説に匹敵する。況や、
これは事実なのだから。
 それはさておき、更に続けるが、英雄諸兄はまた私が暗黒を散布する、革命を阻害すると非難するだろう。確かに彼らにも彼らの理屈があり、現在嫌疑を受けやすい状況にあるのも確かだ。忠実な同志が共産党と誤解され、牢に入れられ、釈放されるのは新聞にしょっちゅう出る。万一不幸にも永遠に晴らせない冤罪を着せられたら、それは誠に………。いつもこんなことを提起したら、
壮士の鋭気を阻喪することになろう。だが、革命がさらし首によって退潮するのは稀なことだ。革命の結末は、大概は投機分子の潜入による。即ち身中の虫食いによる。これは赤化を指して言うのではなくどんな主義の革命も同じだ。しかし暗黒のためではなく、出路が無いということで革命しようとするのか?
もし前途に「光明」と「出路」という保証書を張るべきで、それがあって初めて革命に赴くというのであれば、それは革命者ではないのみならず、投機分子にも及ばぬということだ。投機といえども、勝負は予知できぬから。
 最後にまた暗黒に触れるが、我中国は現在(現在!これは超時代じゃない)
民衆は実はいかなる党であれ、ただ「首」と「女屍」を見たいだけで、それがあれば、誰のでも見に行く。義和団の時、清末の党獄、民国2年、去年、今年、
このわずか20年で、私はもう何回目にし、耳にしたことか。 4月10日

訳者雑感:
 さらし首を衆に示す前に台車に乗せられ市中引き回される「阿Q」の声、
処刑場から心臓をえぐり出して結核の息子にその血を飲ませる「薬」の暗黒、
スパイの罪で日本軍に処刑される屈強な男とそれを見物する同胞たちの顔顔顔。
それらが魯迅の脳裏に焼きついて消えなかったのだ。
 今でもこうした光景は、北京とか瀋陽のトップが腐敗汚職などの罪で裁判に
かけられる時、黄色い部分が昔の「首かせ」のようなイメージの容疑者服を着せられ、死刑の映像がテレビにも放映され、衆に示されるという現実がある。
 「民衆」は実はいかなる党であれ、ただ「首」と「女屍」を見たいだけで、
それがあったら、誰のでも見に行く。というのは今も大きく変わっていないようだ。ただ、テレビやタブロイドの映像になって、自分の町内で行われることは無くなったのだが、十数年前の北京長安街の歩道橋から丸こげの死体が吊り下げられていたのは、大勢の民衆が目にしたことだ。
 2011年に入っても、地方の共産党幹部や鉄道関係、そして内モンゴルの石炭輸送トラックでモンゴル人を殺した男たちが、そうした対象だが、いくら衆に示しても、「浜の真砂は尽きるとも、世に…の 種は尽きまい」だ。嗚呼。
     2011/06/13訳

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魔除けの口伝

 4月6日「申報」にこんな記事が:
『南京市で近頃忽然、根も葉もない謡言が飛び交い、総理の墓がまもなく竣工する。それで石匠が幼児の魂をさらって龍の口にあてがおうとしている。市民は次々に誤り伝え、言った本人も聞いた相手もみな戦々恐々。各戸の幼児は左肩に紅布をつけ、魔除けの四句を書いて身を守る。その口伝には大体三種あり:
1.私の魂を呼びに来たが、自分で行けと返事した。人の魂を呼べぬなら:自分で支えろ、墓の石。
2.石が呼んでる石和尚。自分が石和尚になるがいい。早く家に帰って、
 墓壇の支柱にさせられないようにしょ。
3.お前の造る中山陵、俺には何も関係ない。一度で呼び寄せられぬなら、
 今度は自分がなればいい。』(後略)
 この三首はいずれもわずか20字だが市民の考え:革命政府との関係、革命者への感情がのびのび表されている。社会の暗黒の暴露に長けた文学家といえども、これほど簡明適切には作れまい。
「人を呼んでも、呼び寄せられぬなら、自分で墓石を支えるがいい」とは多くの革命者の伝記と中国革命の歴史の一部である。
 ある人たちの文章には、今は「夜明け前」だと言おうとしているようだ。しかし市民はこのような市民で、夜明け前だろうが黄昏だろうが関係ない。
革命者たちはこうした市民を背負って進むしかない。鶏の肋骨は棄てるには惜しいが、食べても味もない。ただこうした関係を続けるしかない。50年百年後には出路ができるかどうか、全く不明。
 近来の革命文学家は往往、特に暗黒を畏れ、暗黒を覆い隠すが、市民は遠慮会釈なく自分を表現する。あの小気味よい機智にとんだ魂と、この重篤な鈍感は相互に衝突しあい、革命文学家は敢えて社会現象を正視せず、姑や母親になり、鵲(カササギ)を歓迎し、梟(フクロウ)の鳴き声を憎むが、小さな吉祥
を見て自己陶酔し、時代を超えたとみなしている。
 おめでたき英雄よ。前に行くが良い。現実が遺棄された現代、後ろには君を恭しく送る旗の列。
 しかし実はやはりいっしょにいる。君は目を閉じているに過ぎぬ。目を閉じているから「墓石を支える」ところにまで至っていないに過ぎぬ、これがまさに君のいう「最終的な勝利」なのだ。     4月10日

訳者雑感:
 「鶏肋」(鶏のあばら骨)とは、ここ2-3年の中国の教科書から魯迅が消えたときの報道で良く目にした言葉だ。
 21世紀の中高生には魯迅は鶏のあばら骨に過ぎぬ。武侠小説の金庸の作品が
魯迅に代わった。80年も昔の文体は、アニメ世代の若者にはとっつきにくい。
読んだだけでは何を訴えたいのかすぐには理解できぬ。それを考えるのはかったるい。まどろこしい。そんな反応が、「鶏肋」で表されたようだ。
 出版者の注には出典は「三国志」で曹操と劉備が漢中をめぐって戦ったとき、
曹操が漢中を鶏肋として兵を退いたとき、棄てるには惜しいが、食しても得るものは無い、との意味で使った、とある。
 孫文の陵を造ったころ、南京市民の間で上記の魔除け歌が流行したとの記事に触れて、魯迅はこうした魔除け歌のおまじないを付ける市民は小気味よい機智にとんだ人たちと考えてもいるが、肋骨に過ぎぬ現実を正視している。こうした市民を背負っていっしょに進まねば何も進展しない、と。

 明治天皇や昭和天皇の陵が造られた時、多くの日本人はそれに反対する者はいなかったと思う。明治のことは分からぬが、日本を太平洋戦争に巻き込んだ
天皇に対して、孫文の墓など俺には何も関係ないという南京市民とは異なり、
何の怨みも無く、ただその死に対して悼み、陵を造るのに反対など夢にも思わず、葬儀の中継をテレビで見ていた人がほとんどであったと思う。
 孫文と天皇は比較の対象とはならぬが、片や「国父」ともいわれている人であるが、その陵が造られた1928年当時の南京市民の「クール」さは、どこからくるのであろうか。
  2011/06/12訳
 


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