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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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1929年「革命軍の馬前の卒」と「落伍者」

 西湖博覧会に先烈博物館を造るので、遺品を探している。これはすばらしいことで、もしも先烈がいなかったら、我々は今もなお辮髪を垂らしているかもしれぬ。
まして自由すらもないだろう。
 だが探しているもののリストの最後に「落伍者の醜史」というのはおかしなことで、水を飲むときに水源を忘れるな、と言った後で、汚水を飲めという如し。芳しい香りを嗅いだ後で、臭気を嗅がされるかのようだ。「落伍者の醜史」のリストに
「鄒容の事実」があり、おかしさが増す。記された鄒容が別人でなければ、私の知っているのは――
 満清の時に「革命軍」を書き、排満を鼓吹し、「革命軍の馬前の卒、鄒容」と
署名し、後に日本から帰国して上海で逮捕され、西牢で死んだのだ。時に1902年
(出版注:05年)、彼のは民族革命に過ぎず、共和はもちろん、三民主義も知らず、まして共産主義も知らぬが、諸兄は彼を諒解すべきだと思うし、彼は早く死に過ぎた。死の翌年に同盟会ができた(出版注;05年8月於東京)孫中山先生は自叙で、
彼に触れていると聞く。目録作成の諸公、ぜひとも調べて欲しい。
その後の烈士たちは、実にスピードが速く、25年前の事どもは、今や茫々。ああ美史というべきや。  2月17日

訳者雑感:
 10年ひと昔。25年後の1929年から見たら、「ただやみくもに満州王朝打倒に明け暮れた『革命者』たちを、主義も理論も無い「落伍者」のリストに入れてしまった。
太平天国の、義和団の戦、その後のおびただしい排満の義挙で命を落とした人たちを先烈とはみなさず、「落伍者」のリストに入れて
気にもしない。そんな「後烈」たちのスピードに抗議する魯迅の姿がここにある。
 天安門広場の東にある「歴史博物館」の展示を見ると、10年ごとに大きな変化があるのがわかる。長い間閉鎖されたこともある。歴史観というものは、その時々の為政者、「後烈」たちにとって不都合なことは展示しないのが、原則である。
林彪が東北戦線で勝利を収めなかったら、解放軍の大進撃はありえなかった、というのが1970年ころまでの認識であったが、1972年彼が反旗を翻し、破れて飛行機で逃亡を企て、モンゴルの草原に墜落したあと、林彪のリの字も聞かなくなった。
 1929年の後輩たちに鄒容が「醜史」のリストに入れられたのはなぜか。無視されたのではなく、「醜史」に入れられたというのは林彪のような背景があったのか。疑問だ。彼を貶めねばならぬ立場の人物が関係していたかもしれぬ。
   2011/06/15訳

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