忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

どう書くか  夜記の一

何を書くかが一つの問題で、どう書くかが次の問題だ。今年はあまり書かなかった。「莾原」には特に少なかった。原因は明白。おかしな話だが、紙質が
良いためだ。少しばかりの雑感はあるが、読み返してみるとたいした意味も無く、あの真っ白な紙を黒くしない方が良いと思って、捨ててしまった。といって良いものも無い。私の頭の中はかくも荒廃し浅薄で虚しかった。
 語るべきことはとても多い。宇宙から社会国家まで、口承な文明、文芸。
古来多くの人が語り、将来それを語る人も無窮無尽であろう。ただ、私はどれも語れぬ。去年アモイ島に潜んでいたころ、周りの人からとても煙たがられ、ついには「鬼神を敬するごとくに遠ざけられる」始末で、図書館楼上の部屋に押し込められた。昼は館員、図書修理係、閲覧に来る学生がいたが、夜9時以降、すべて去り、静寂たること濃い酒のごとく、ほろ酔いかげんとなる。
 後ろ窓の外にごつごつした山並みが見え、白いものが点在しているのは群墓で:濃い黄色の火は南普陀寺の瑠璃灯。前には海と空が茫然として、黒い絮(わた)のような夜色が胸に迫ってくる。石の欄干に身を預け、遥か先を眺めていると、自分の心音が聞こえて来、四方八方が果てしない悲哀、苦悩、零落、死滅のすべてがこの静寂に紛れ込んできて、それを薬酒に変じ、色を加え、味を加え、香りを加えるようだ。その時私は書こうと思ったが、書けなかった。書きようがなかった。これもまた私が「黙っている時、充実を感じ、口を開こうとすると空虚になる」の例である。
 これが(詩人N.Lenauの)「世界苦」なのではと思ったりする。だが多分そうではなくて、淡い哀愁に過ぎず、何がしかの楽しみもある。それに近づこうとするが、そう思えば思うほど、茫然となり、自分が一人で欄干に身を預けているのを感じるほか何もない。努力しようなどということを忘れれば、淡い哀愁を感じることもできる。
 その結果、多くの場合、余り良いことにならない。腿にチクッと何かが刺したのですぐさま手で叩いたら蚊だった。哀愁とか夜色などすべて霞の彼方に飛んでゆき、身を預けていた欄干も心から消えた。しかもそれは今そう考えていることで、当時を思い出すと、欄干が心から消えたなども考えなかった。やはり何も考えずに部屋に戻り、たった一つしかないセミ寝椅子に――ごろりとは横になれない――座り、蚊に食われたところをさすり、かゆみが痛みに変わりだんだん小さな腫れものになった。さすったり引っかいたり、つねったりしてかゆみが痛みに変わってなんとか我慢できるまでになった。
 その後の結果は散々で、いつものように電燈の下でザボンを食べた。蚊にかまれたにすぎぬが自分の身に降りかかったことは切実で、書かなくてもすむなら良いのだが、書かねばならぬとなると、ただこんなことしか書けぬ。あの時
自分が受けたほんとうに切実なものを書くことはできぬ。いわんや千回万回も刺されたこと、銃剣のことなどは書けない。
 ニーチェは血で書かれた本を読むのが好きという。血で書かれた作品は無いと思う。書くのはインクで、血で書くというのは血痕に過ぎぬ。それは文章より心を驚かすし、魂も揺さぶられる。確かに直截ではあるが、すぐ変色し消滅しやすい。この点、文章の力に頼らざるを得ないのは、ちょうど墓の中の白骨が昔から今まで長い間、不易なるを以て、少女の頬の淡い紅を見下してきたのに似ている。
 書かずにすむなら楽だ。書かねばならぬとしたら、好きなように書こうと思う。どのみちこれしかないのだ。これは時とともに消え去るもので、血痕より長くあざやかに生き続けるなら、それこそ文人は僥倖者で賢いことの証だ。
ただし、本当の血で書かれたものは例外であるが。
 こんなことを考えていたら「何を書くか」は問題ではないような気がした。
「どう書くか」の問題はこれまで考えたこともなく、世の中にこんな問題があると知ったのもつい2週間前にすぎぬ。偶然町に出て丁卜(DingBu)書店で
「こうしよう」という平積み本を見つけて買った。これは期刊で表紙に騎馬少年兵が描かれていた。これまである偏見から、表紙にこうした兵士とか鋤を手にした労働者の絵のある雑誌と余り関わりたくなかった。宣伝臭がつよいから。
自分の意見を発表して、結果として宣伝臭を帯びるイプセンなどの作品は、何も煩わしくはないが、先に「宣伝」の2字をお題目にして議論を進めるような文芸作品はしっくりこないし、そのまま吞みこむこともできず、教訓的な文章を暗記するように何度も声に出して読むようなものだ。
 ただし、「こうしよう」はちょっと特異で、私の記憶ではある日報に書いたように、私と関係がある。何事も身近なことは格別な関心を持つという例で、表紙の騎馬の英雄を気にせず買ってしまった。帰って日報の切りぬきを見ると、
3月7日付で紙名が無い。「民国日報」か「国民新聞」だ。当時はこの2つしか取ってないから。下記引用する:
 『魯迅先生南下後、広州文学の寂漠は一掃され、あい前後して「何をするか」
「こうしよう」の2誌が出た。「こうしよう」は革命文学社の定期刊行の一つ。
内容は革命文芸と本党主義の宣伝。…』
 最初の2句はあいまいで、私がその件を承知していたようにも取れるし、私が「南下」したために他の人が創刊したと言っているようでもある。
事情はまったく知らぬ。当初切りぬいたのは後で調べてみようと思ったのだが、忘れてしまっていた。今「どうするか」は出版後、5冊送られてきたことを覚えている。この団体は共産青年主体で、中にある「堅如」「三石」などの署名は畢磊のもので、通信先も彼のだ。
そのほかに十数冊の「少年先鋒」も送ってきた。内容は明らかに共産青年の書いたもの。やはり畢磊君はきっと共産党で4月18日に中山大学で逮捕された。
すでにこの世にはいないと思う。痩せて小柄ながら精悍な湖南青年とみた。
「こうしよう」は2週間前に初めてみたが、7-8期分が合冊されて、6期はなかった。禁止されたか未刊なのか知らぬ。7-8期と5期を買った。日報の記事で分かる通り、これは「何をするか」と反対で対立している。帰って後ろから見てみると、通信欄にこうある「一般にCPの気焔が盛んな時… 君たちは覚悟を決め即刻CPを脱退し、さらに単に脱退するだけでなく、特にCPを怒らせるに値したのは、破天荒に次から次へと共産党脱退声明を新聞に発表。… 」
それゆえ確かにこのように(しよう)というわけだ。
 そこで即刻問題となった。なぜこの相反する2種の刊行物がともに私の南下と前後して創刊されたのか?私自身としては即答できる。新来の私が灰色のためである。話せば長くなるが、それは保留して機会が来たら話すことしよう。
 今日は「こうしよう」について書く。通信を見た後、後ろからページを繰るのも面倒で、目次を見た。すると「郁達夫さん、おやめなさい」という題が目に付いた。好奇心からすぐ読み始めた。やはり身近な瑣事の方が、世の哀愁より関心が強いという例で、郁達夫を知っているので、なぜ「やめなさい」というのか、急いで知りたくなった。張龍、趙虎だとか面識のない偉人の記事なら正直いって何も気にしない。
 もともと郁達夫の「洪水」に「方向転換途中」という段があり、今回の革命は階級闘争理論の実現というに対し、記者は民族革命理論の実現だと考え、多分英雄主義は今日にはよろしくないなどの話しである。従って「中傷」と
「離間を挑発」とかみなされて、「やめ」なければならぬようだ。
 灯火の下で回想するに、達夫氏とは数回会って話しているが、穏健でおだやかな人柄で人に恨まれるようなことはない。どうして急にこんな「偏向的な
過激」に流れてしまったのか?「洪水」を見てみよう。
 この雑誌は広西では発禁だそうだが広東ではまだ読める。第3巻29-32期分を入手。例の癖で32から逆にみて、暫くして第1篇の「日記文学」に至った。
これも彼のものだ。それで「方向転換の途中」は探さず、文学談を読んだ。こういういい加減な読み方は我ながら良くないと思うが「どう書くか」がそこに書かれている。
 作者の意思は、およそ文学家の作品を語るのは、多かれ少なかれ自叙伝的色彩を帯び、第三人称で書いていて、誤って第一人称を使ってしまうことがある。
さらに第3人称で主人公の心理状態を詳細に描くと、読者は作者はどうして第三者の感情をかくも精細に知りえようかと疑心を抱かせてしまう。それで、その一種の幻滅感から、文学の真実性を消してしまう。だから散文作品の一番妥当な体裁は日記体で次は書簡体だという。
 これは討論に値する。思うに、体裁自体はあまり重要な関わりは無い。
上記の第一の欠点は読者が粗忽な点だ。作品はたいてい作者が別人に託して自分のことを書いていると分かれば、或いは自分が人のことを推測していると分かれば、幻滅などしないし、たとえ時に事実にあわなくてもやはり真実なのである。その真実は第三人称を使っていて、誤って第一人称を使うときと何の違いも無い。もし読者が体裁にこだわるなら、単に破綻(ほころび)のないことを求めるというなら、新聞記事を読むほうがましだし、文芸に幻滅するのは当然だ。その幻滅も惜しむに足りぬし、それはほんとの幻滅ではない。まさしく大観園の遺跡を探し出せないとして「紅楼夢」に不満を抱くのと同じだ。もし作者がそのような叙述の自由を犠牲にするなら、たとえごく小さなことでも、足を削って履物にあわせるようなものだ。
 第二の欠陥は中国では昔からあることで、紀暁嵐が蒲留仙の「聊斎志異」を攻撃してきた点だ。二人の密語が、漏れることのない第三者に聞こえるはずはないのに、作者はどうして知りうるか?だから彼の「閲微草堂筆記」は事情描写のみに注力し、心の思いや密語は避けた。ただ時には自らしかけた陥穽に落ち、「春秋左氏伝」の「渾良夫夢中の噪(さわぎ)」で言い訳をしている。
 彼の不整合な点は、書かれたものが全て真実だと信じさせようとし、事実をして真実性を得ようとしたことで、もし一つでも事実に反すると、その信憑性がすぐ崩れてしまうことだ。まずもってこれが創作だと認識しておれば、たとえ彼個人の造作でも、当然のこととして何のひっかかりも無くなる。
 一般に幻滅の悲哀は、うそにあるのではなく、うそを本当と思うことだ。幼いころ、変幻芝居が好きで、猿が羊に乗って出てき、石が白バトに変わり、
仕舞いには子供が刺殺され、コモがかぶせられる。江北なまりの男が観衆に向かって、お金を投じるようにと、Huagaa! Huagaa!と叫ぶと、大抵みなはとっくに知っての通り、子供は死んではおらず、噴き出たのは剣の柄に隠してあった、蘇木の赤い液体でHuagaaの一声ではね起きた。だがみなはぼうーっとしたままで眺めている。芝居だとは知りながら全心この芝居にのめりこんでしまう。変幻芝居を本当らしく見せようとして小さな棺を買って子供を入れて泣いて担ぎ出したら、却って味気なくなる。そうすることで芝居の真実すら消え去ってしまう。
 私は「紅楼夢」は読むが、新作の「林黛玉日記」は読みたくない。一ページ見ただけで、半日ほど気分が悪かった。「板橋家書」も嫌いで彼の「道情」の方が良い。嫌いなわけは題の家書という2字で、なぜそれを大勢の人に見せるのか?もったいぶっているようだ。幻滅するのは多くはうその中に真実を見るのではなく、真実というものの中にうそを見るためだ。日記体書簡体は書き始めると都合のいい点も多いが、すぐ幻滅を感じ:一度幻滅すると後が大変なのは、最初に本当らしくするからだ。最近「越縵堂日記」が流行しているが、毎回なにか気分を害すように感じる。どうしてか? 一つは詔書を書き写しているためで、多分、何焯(かしゃく:清の学者)の物語の影響で、いつか将来「天子の御覧」を蒙りたいとの下心があるためだ。二つには墨で消したところが多い。書いては消しており、その多くは書いていないのではないか。三つめは人に見せるために書き写し、それを著作と考えているようで、(作者)李慈銘の心の内を読むことができないように感じる。時に作為がみられ、騙されたような気がする。小説はとても荒唐無稽、浅薄固陋で、不合理なことが多いが、これまでそんな気持ちになったことは無い。
 その後胡適之氏は日記を書いて人に見せている由。文学の進化理論に従えば、きっと良いことなのだろう。彼が早く次々に出版してほしいと思う。
 だが思うに、散文の体裁は本当のところ、自由気ままが良く、ほころびがでてきても良い。作り物の手紙や日記はたぶんほころびを免れぬであろう。一度破綻してしまったら、収拾のつかない破滅となる。破綻を防ごうなど考えるより、破綻など忘れ去った方が良い。(27年10月10日「莾原」に発表)

訳者雑感:これは雑誌社の求めに応じた埋め草のような気がした。
 魯迅は「どう書くか」という問題を、この文章を書く2週間前にはじめて気にし始めたと書いている。それまでどう書くかは考えたことも無いと記す。
作家の本能として感じたことを、自由気ままに書くのが一番だと記す。
 日本にいるころから大量の翻訳を手掛けて、文章修業を積み重ねた訳だが、処女作的な「狂人日記」は、友人の弟の日記という体裁だし、「阿Q正伝」は彼の中に入り込んできた阿Qの魂が、彼に「伝」を書かせたというから、これは司馬遷以来の「列伝」の伝統に基づいた「見たこと聞いたことを伝える」という体裁で、司馬遷もそうしたように、必ずしも真実という証は無いが、読む人の心を捕えて放さないものがある。
 これから追々訳す予定の「両地書」は彼と許広平の間の書簡だが、出版するにあたっては、そうとう手入れをしたものと思う。手紙の相手だけではなく、一般的第三者が読んで飽きないように書く。それがどう書くか、であろう。
魯迅は「私はひとを騙したい」という題の雑文も書いている。騙したいという言葉は、騙したいけど騙せないという意識がどこかに存していたのか、それとも文字通りなのであろうか。小説をうまく書くというのは騙すことだとしたら彼は晩年小説をうまく書けなくなってしまった原因はここらにあろうか。
荷風の「断腸亭日乗」は編者がかなり手入れをして荷風に同意を求めたということも耳にした。漱石の書簡集はどうであろうか。  2011/05/03訳

拍手[0回]

PR

声なき中国

声なき中国 1927年2月16日香港青年会の講演
 私のつまらぬ講演に、こんな大雨の中、大勢の諸君が来てくれたことに対して心から感謝します。
 これから話すのは「声なき中国」です。
 今、浙江、陝西で戦争中で、彼の地の人々は泣いているか笑っているか、我々は知りません。香港は大変平和のようで、当地の中国人は気持ちよく暮らしているかどうか、よその人はわかりません。
 自分の意見を発表し、感情を皆さんに知ってもらうには文章を使い、文章で気持ちを伝達するのですが、一般的中国人はまだそれができません。それもそのはずで、それは文字のせいです。我々の祖先が残してくれたおそろしい遺産のせいです。長い時間をかけて勉強しても、使うのが難しい。難しいから多くの人は放り出し、自分の姓が張なのか章なのかもはっきりせず、或いは全く書けず、Changと声に出すだけ。話すことはできても、何人かに聞こえるだけで、遠くの人には聞こえないから、結果として無声に等しい。その一方、難しいから一部の人に宝のごとく、手品のように、之乎者也(なりけりあらんや)などと、聞いても少数にしか分からぬことを言い――実はほんとに分かっているかどうか、あやしいものだが。大多数はちんぷんかんぷん。結果は無声に等しい。
 文明人と野蛮人の違いは、一つに文明人は文字を持ち、自分の考え感情を皆に伝え、将来に残すことができること。中国は文字を持っているが、今人々と関係が無くなり、分かり難い古文を使い、話す中身も陳腐な古い考えで、互いに理解できず、正に大きな皿にまいたばらばらの砂のようだ。
 文章を骨董のように扱い、人が理解できぬ方が、できるより良いと考えるのは、あるいは趣のあることかもしれません。が、結果はどうか? 我々はすでに自分の言いたいことも言えなくなってしまった。損害と侮辱を受けても言うべきことも言えなくなっています。最近の話をすると、日清戦争、義和団事件、民国元年の革命という大事件を例にとっても、今日まで一冊としてまともなものが書かれただろうか?民国以来誰も声を出していない。国外では逆に中国のことを説いているが、すべて中国人の声ではない。よその人の声だ。
この言いたいことを言えないという問題は、明代でもこんなにひどくはなかっ
た:彼らは結構言いたいことを言えた。満州人が異民族として侵入してきてか
ら、歴史、とりわけ宋末の(異民族への抵抗に関する)ことに触れると殺され、
時事を語っても殺された。それで乾隆年間には人々はものをあまり書かなくな
った。所謂読書人は身をひそめて(儒教の)経文を読み、古書を校訂し、古い
文章、当時の問題とは関係ないものを書いた。新しい意見を出すのもダメで、
韓愈を学ぶのでなければ、蘇軾を学んだ。韓愈蘇軾は自分の文章でその当時の
自分の言いたいことを書くことができた。我々は唐宋の時代の人間ではないの
に、どうして我々と関係のない時代の文章を書くのだろう。仮にそれらしきも
のを書けたとしても、それは唐宋時代の声であり、韓愈蘇軾の声で、我々現代
の声ではない。しかるに今まで中国人はこのような古いやりかたを続けてきて
いる。人間はいるが声はない。とても寂漠としている。
――人間は声なしでいられるか?声がないなら死んだといえよう。もう少し
遠慮して言えば、オシになったということ。
 長い間声のなかった中国を立ち直らせるのは容易なことではない。死んでし
まった人に対して「生き返れ!」と命じるようなものだ。私は宗教は分からぬ
が、まさに宗教上の所謂「奇跡」の出現を願望するのと同じだ。
 最初この仕事に挑戦したのは「五四運動」の1年前。胡適之氏の提唱した
「文学革命」。「革命」の2字はここでは恐がられているかどうか知りませんが、
ある地方では聞いただけでも恐がられているが、これと文学がくっついた場合
は、フランス革命の「革命」のような恐さはなく、革新にすぎないから、1字
換えれば穏やかだから「文学革新」と呼びましょう。中国の文字はこのような
文章のあやは大変多い。この趣旨もまったく恐ろしいものではなく、我々はも
う古代の死んだ人の言葉を学ぶような不要の神経を使うことなく、現代の生き
ている人の言葉を使おう。文章を骨董品みたいにしないで、分かりやすい口語
文で書こうというに過ぎぬ。しかし単なる文学革新だけでは不十分で、考えが
陳腐なのは古文でも口語文でも書けるからです。それで後には思想の革新を提
唱する人が出た。思想革新の結果、社会革新運動が起こった。これが起こると、
当然ながら、一方で反動も起こり、戦闘が醸成され…。
 ただ、中国では文学革新が提起されたばかりなのに、すぐ反動が起こった。
しかし口語文は大きな障害を受けずに徐々に広まっていった。どうしてか?
当時銭玄同氏が漢字廃止を提唱し、ローマ字化を唱えた。これは元来文字革新
に過ぎぬが、当然ながら改革を喜ばぬ人たちは大騒ぎを起こした。そこで比較
的穏やかな文学革命の方はひとまず置いておいて、全力をあげて銭玄同をたた
いた。口語はこの機に乗じ急に多くの敵を減らせ、阻止するものもなく普及に
向かった。
 中国人の性情は調和と折衷を好む。例えば、部屋がとても暗いから窓を作ろ
うと提案すると、多くの人が反対する。そこで屋根を壊そうというと、調和し
てきて、窓にしようという。より過激な主張が無いと、穏やかな改革にも肯ん
じない。当時口語文がうまくいったのは漢字廃止、ローマ字化議論のおかげだ。
 実は文語と口語の優劣の議論は元々過去の遺物で、中国はさっさと解決する
のを肯んじず、今でも意味のない議論をしている。ある人は言う:古文でなら
各省の人はみな分かるが、口語では各地で違うから通じない、と。これは教育
が普及し交通が発達すればすぐに良くなるのを知らないためで、当時の人は皆
口語が分かりやすいことを知っていた。古文は各省の人が理解できるなどどう
して言えようか。一省の中でも分かる人はほんのわずかだ。
 ある人は言う:もしすべて口語にしたら、古文を読めなくなり、中国文化の
滅亡だ、と。現代の人は古書を読む必要もないし、古書に本当に良いものが
あるなら、口語訳すればいいから心配ない。彼らの一部はさらに言う:外国人
が中国の本を訳していることから、それが良いものという証で、なぜ我々は
それを読まぬのか?それはエジプトの古書も外国に訳され、アフリカ黒人の
神話も訳されているが、彼らは別の目的があり、たとえ訳されたからと言って
何の光栄なことがあろうか。
 近頃また別の説が出:思想の革新が緊要で文字改革はその次:簡明な文語で
新しい思想を表現して、反対する人を減らすのが得策だ、と。それも道理が
あるようにみえるが、私は長い爪すら切らない人は、決して辮髪を切るような
ことはしない、と知っている。
 古代の言葉を使うから、話す方も聞く方も互いに理解できず、大皿にまき散
らした砂の如く、互いの痛痒も感じない。我々は生きてゆこうとしているので、
まず青年たちが孔子孟子や韓愈柳宗元たちの言葉を使わないようにすべきです。
時代が違えば、情勢も異なり、昔の孔子時代の香港はこんな風ではなかったし、
孔子の口調で「香港論」は書きようもないが、「吁嗟(ああ)盛んなるかな香港」
と言ってみても笑い話に過ぎません。
 我々は現代の自分の言葉で話し、生きた口語で自分の考えと感情をそのまま
話す。ただし、これも先輩のそしりや笑いを受ける。口語は下品で価値なし。
また若い人の作品は幼稚だと識者に笑われる。だが我々中国に文語文を書ける
人はどれほどいるか。大多数は口語を話せるのみ。まさこんなに大勢の中国人
のすべてが下品で価値なしだろうか?幼稚はなにも恥じることは無い。子供が
老人に対して恥じることのないのと同じで、幼稚は成長し成熟する。衰老腐敗
せねば良い。もし成熟してから始めろというなら、村の婦人でもそんなことは
しない。子供が歩き始めてすぐ転ぶが、決してベッドに寝かせたまま、歩ける
ようになってから地面に下ろすようなことはしない。
 青年はまずこの中国を声のある国に変えることができる。大胆に話し、勇敢
に進み、一切の利害を忘れ、古人を推しどけて、自分の真心の言葉で話す。
――真、ということは容易なことではない。態度一つとっても真になるのは、
容易なことではない。講演する時の私の態度は真の態度とは言えぬ。私が友人
や子供と話すときの態度とは違う。――ただ、比較的真に近い。真に近い声で
話せる。真の声が出せてはじめて中国の人と世界の人を感動させられる。真の
声が出せてはじめて世界の人と、この世界で暮らせる。
 我々は今、声のない民族がどれほどいるか考えてみよう。エジプト人の声は
聞こえるか。安南人のは、朝鮮の声は?インドはタゴール以外に他の声は
ありますか?
 今から我々には二つの道しかない。一つは古文を抱いて死滅。もうひとつは
古文を捨てて生き残ることです。
  ( 香港での日時未詳。27年3月23日の漢口の新聞に転載されたもの)

訳者雑感:
 魯迅は声なき民族、過去は偉大な文明を持っていたがその後異民族に支配
され、めちゃくちゃにされたという例にエジプトをしばしば引用する。
 シャンポリオンがロゼッタストーンを解読するまで、ヒエログリフは当の
エジプト人すら読めもしなくなっていた。
 楕円形のカルトューシュに書かれているのがクレオパトラだということすら
誰も分からなかった。漢字はヒエログリフほどではないが、識字率の低い中国
では、自分の姓すら書けぬ人がほとんどであった。阿Qも偉そうなことを言っ
ていたが、自分に下された死刑判決への署名を求められて、いかんともできず、
筆で丸を描いたのみ。しかも丸くは書けなかったことを悔やんでいた。
 魯迅が「声なき中国」で聞いたことのなかったエジプト人が、チュニジアに端
を発したブログの発する声で、ムバラク政権を倒すまでになった。中国は今、
膨大な量のブログが発せられておるから、「声ある中国」に変じつつある。
しかしその声はまだまだ厳格な管理の下に置かれ、真の言葉は封じられている。
      2011/04/22訳







拍手[0回]

『三閑集』 序言

 4冊目の雑感集「而已集」から4年過ぎた。昨春、友人がその後の雑感集を出せとの催促。ここ数年の出版界は創作と翻訳、或いは大きなテーマの論文は減ったとは言えぬが、短い評論、気の向くままの所謂「雑感」は確かに少なくなった。その原因は私もわからぬ。ただ大まかに言えば、「雑感」の2字を志の高い作者が嫌悪し、避けたのは当たらずとも遠からず。人は私をけなし「雑感家」と呼ぶ。高等な文人から軽蔑のまなこで見られるのはその証。また思うに、有名な作家は必ずしも変名しないではないが、こうした文を書くときは、私怨をはらそうとするにすぎず、再び出すと、その名を汚すのを恐れ、または別の深慮から暴露すると却って論戦の妨げになるから、大抵はそれが消えるに任せたからだろう。
 しかし私にとって「雑感」は「不治の病」で自分も大変苦しむのだが、やはり編集はしたい。刊行されたものを翻閲し、切り取って本にするのも手間のかかることで、半年以上うっちゃったまま手をつけられなかった。(32年)1月28日夜、上海で(日中間の)戦争(ドンパチ)が始まり、ますます激しくなり、ついには身ひとつで逃げ出し、本と新聞は戦火にさらしたまま、焼けて無くなるに任せてもやむなし。この「火の洗礼」の霊魂により、「現状不満」の「雑感家」という悪名を洗い落とそうとした。ところが3月末、旧居に戻ると、本も新聞も何の被害もなく、すぐさま翻閲して編集着手の運びとなった:あたかも大病から癒えた者のごとく、平時よりさらに痩せこけた顔を鏡に映し、シワの増えた皮膚をなでさするようであった。
 まず28-29年の分を編集。編数はとても少ないが、5-6回の北京上海での講演のように、もともと記録のない物以外は、別に散失してはいないようだ。思い出せば、この2年は本当に少ししか書いていないし、どこにも投稿していない時期だった。27年に血に脅かされ、目はトローン、口はポカンと開けたまま広東を去り、奥歯に物の挟まったような文章で、肝の小さいせいで直言をはばかった話はすべて「而已集」に入れた。
 上海に来たら、文豪たちの十字砲火にさらされ、創造社、太陽社、「正人君子」の新月社の面々にさんざんに言われ、文派を立てはしなかったが、今日作家や教授に出世した多くの人の文章にも、当時は必ず暗に私をけなす文句が入れられた。以て自身の高名さを示さんとしたものだ。
当初は「有閑」即ち「有銭(金持ち)」とか「封建の残滓」或いは「没落者」くらいの悪口だったが、後には青年を殺せと主張するカツアゲ主義者と断定された。その頃広東から避難してきて、私の家に居候していた廖君がぷりぷりしながらこぼすには「友達は私を見下して、あんな奴と一緒に住んでいるなら絶交だ」と言われた由。
当時私は「あんな奴」になっていた。自ら編集した「語絲」も実際には何の権利もなく、煙たがられたのみならず、(詳細は巻末『私と「語絲」の始終』に)
他の所では、私の文章はこれまで「絞り」出してきたのだが、目下はまさに「しめ殺され」ていては、投稿してもなんになろうか。従ってごく少ししか書かなかった。
 今、当時のものから、不出来なものも、今なお取り柄のあるものすべてをこの集に入れた。相手側の文は「魯迅論」と「中国文芸論戦」には何がしかはあるが、それらは儀礼的な表向きの文章で、全体を窺い見ることはできない。私は別途「雑感」的な作品を捜し集めて一冊にし「包囲集」と名付けたいと思う。
 私のこの集と対比すると読者の興趣を増大できるのみならず、別の面が明確になる。即ち陰の部分の戦法の多様さが分かる。こうしたやり方は当面は無くならないであろう。去年「左翼作家はみなルーブルに買収されている」という説は、常套手段だ。文芸に関係する青年に問うてみて、型通りのやり方をまねることはないが、知っておくにこしたことはない。
 実際、考えてみるに、小説の中でも短評にも、青年を殺せ、殺せ殺せと主張などしたこともないし、そんな考えを持ったこともない。私はこれまで進化論を信じてきていて、将来は必ず過去より良い、青年はきっと老人より勝り、青年を大変重視してきた。青年が私に十回切りつけてきても、一矢しか返さなかった。しかしそれは後になって、間違っていたと分かった。それは唯物史観的理論や革命文芸作品が私を蠱惑(こわく)したからではない。
 広東で同じ青年が二派に分かれ、或いは投書密告し、或いは役人の手助けをして逮捕させた事実を目の当たりにした。私の考えはこのために木っ端みじんに砕け、後にはしばしば懐疑の目で青年を見るようになり、もう無条件で畏敬しなくなった。しかしその後も初めて参戦する青年たちのために、何回か吶喊したが、たいした助けにはならなかった。
 本集には2年間に書いたもの全てと、本の序引のみだが、いくつかは参考になると思ったものを数編選んだ。雑誌や新聞を調べている時、27年に書いたもので「而已集」に入れてないものを少し発見し、多分「夜記」は元々別途一冊にしようと思っていたし、講演と通信は浅薄或いはあまり緊要でないので当時入れなかった。
 だが今、前の部分に入れて「而已集」の補遺とした。私には別の考えがあり、
ただ講演と通信から引用したものを見れば、当時の香港の状況が良く分かると思った。講演には2回行った。一回目は「古い調べはもう終わった」だが、今
その原稿が探し出せない。2回目は「声なき中国」で、粗雑浅薄平凡もここまで来、「邪説」と怪しまれ、紙上掲載を禁じられた。このような香港は今やそのような香港、それがいまやほとんど中国全土がそうなった。
 ひとつ創造社に感謝したいことがある。それは彼らが私に何種類もの科学的文芸論を読ませるように絞りあげてくれたことだ。先輩の文学史家たちの学説の大きな山がやはりまとわりついてもやもやしていた疑問が分かるようになった。且つまたそのためにブレハーノフの「芸術論」を翻訳し、私を救い正してくれ――私と私のせいで他の人たちにも影響が及んでいる――ただただ進化論のみを偏向的に信じてきたことを正してくれた。
 ただ、「中国小説史略」を編集した時に集めた材料を「小説旧聞抄」としてまとめ、青年が検索する便に供しようと思ったが、成仿吾は無産階級をもじって、
「有閑」だとけなし、なおかつ「有閑」を三回繰り返して非難したことは、今なお全く忘れ去ってはいない。無産階級はこんな言辞を弄して無実の罪で人を陥れるようなことはしない。彼らはペンで相手を攻撃する手段は持っていないと思う。それで、本集を「三閑集」とし、以て仿吾に仇を返す。
      1932.4.24夜、編集終了後併記。

訳者雑感:青年は必ず老人より勝っているという「進化論」をただただ偏向的に信じてきた魯迅は、彼がそれを鼓吹して影響を及ぼしてきた青年たちに対してもすまなく感じていたことだろう。青年たちが二派に分かれて役人の手先になって相手を密告し、殺人幇助をしている事実を目撃した。
 この序言で、彼は明確に進化論を偏向的に信じてきたことから、足を洗ったように見受ける。進化論は、人類は常に進化し、進化し続けるという希望を与え、将来はきっと今より良い、という考えかたは偏向的であったと告白している。現実の事態は前より一層悪くなっている。進化して良くなることも多いが、
より醜い争いが起こり、青年どうしの殺し合いが頻発し、老人よりも頑迷でひどい青年がいっぱいいることが分かった。さあそれではどうすればよいのだろうか。
 30年の改革開放で、確かに多くの中国人の生活は、進化したと言って良い。
木の皮、草の根をかじって生き延びてきたことに比べれば、大変なことだし、
餓死者は以前のように発生しない。しかし毒入り餃子、メラミン粉ミルクによる乳児の死亡など、金の亡者の行為は、退化としか言えない。断じて進化ではない。人間の根元として、草の根をかじって生き延びたころの人の方が、裕福になって、人を騙して、まがい物を売って金もうけを企てたり、果ては毒と承知でそれを粉ミルクに入れるような人間より純であったのは確かだ。
      2011/04/19訳
 
 

拍手[0回]

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R