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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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魯迅著作翻訳書一覧

1921年「工人綏恵略夫」(露、アルベージェフ 中編)
 22年「一個青年的夢」(日、武者小路実篤 戯曲)
    「エロシェンコ童話集」(露 エロシェンコ)
 23年「桃色の雲」 同上
    「吶喊」(18-22年の計14篇)
    「中国小説史略」(上巻)
 24年「苦悶の象徴」(日、厨川白村 論文)
    「中国小説史略」(下巻)
 25年「熱風」(18-24年 短評)
 26年「彷徨」(24-25年 計11篇)
    「華蓋集」(25年分)「華蓋集続編」(26年分)
    「小説旧聞鈔」(旧文輯録、間に考正あり)
    「象牙の塔を出て」(厨川白村、随筆選訳)
 27年「墳」07―25年の論文と随筆(目下差し押さえられ中)
   「朝花夕拾」(回想文 10篇)(目下差し押さえられ中)
   「唐宋伝奇集」10巻 (輯録と考正)
 28年「小さきヨハネ」(オランダ、長編童話)
   「野草」(散文小詩)
   「而已集」(27年分)
   「思想山水人物」(日、鶴見祐輔 随筆選訳)
 29年「壁下訳叢書」(日、露の批評家の論文集)
   「近代美術史潮論」(日、板垣鷹穂作)
   「蕗谷虹児画選」(題辞訳)
   「プロレタリア文学理論と実際」(日、片上伸 作)
   「芸術論」(ソ連、ルナチャルスキー)
 30年「芸術論」(露、プレハーノフ)  
   「文芸と批評」(ソ連、ルナチャルスキー論文と講演)
   「文芸政策」(ソ連の文芸に関する議事録と決議) 
   「十月」(ソ連、ヤコブレフ 長編小説)
 31年「薬用植物」(日、刈米達夫、「自然界」の中に入れて)
   「毀滅」(ソ連、ファジーエフ 長編小説)
 訳著以外に「嶺表録異」「稽康集」「古小説鈎沈」など編集したが未印。
 他に「莾原」「語絲」「莾流」などの雑誌に関わる。他に柔石などの著作訳書
の校訂など多数。(本訳文では割愛する)

 私の訳著について許広平が「魯迅とその著作」にリストを作ってくれたが、不完全であった。今回雑感の編集を始めるために、私の関係した書籍を入れておいた本箱を開け、ついでに上記の如きリストを作った。
これを「三閑集」の末尾に付そうと思う。目的は自分の為で、幾分かは人の為である。リストから分かるのは、過去十年近く費やした生命は、決して少なくはない。人の訳書の校正にも真剣に一字一字目を通し、決していい加減にはせず、作者と読者に敷衍したいと思い、猶かつそれを毫も利用しようなどとは思わなかった。
 それができたのは「有閑」だったとはいえ、当時毎日8時間を生活為に売らねばならず、訳著と校正に使えたのはこの8時間以外の時間で、常に、毎日休みなしだった。しかしそれもこの4-5年は昔の様にはやれていない。
(魯迅は北京の十数年間、教育省の役人であり、教師も兼任していた:訳者注)
 ただ、こうして継続して費やされた生命は、単に徒労だっただけでなく、
ある批評家に言わせると、全て厳重に処罰すべき罪悪という。「衆矢の的」になって早4-5年。初めは「悪を為し」後に「報いを受け」論客は謗りを含んで恐怖と脅かし或いは幾分か小気味よさそうにこう「忠告」する。だが、私は、決してそうは思わず、これまで生きてきた。ただこの十年近く創作をしていないのに、私を「作家」と呼ぶのはおかしなことだ。
 思うに、原因の何がしかは私自身にもあるが、後進の青年にある。私自身については、ほんとに真面目に訳著に取り組んできたのだが、私を攻撃する人のいうように、巧みにかつ投機的にやったというには程遠い。出版した多くの本の功罪は暫く置くとして、たとえ全てが罪悪だとしても、出版界では大きな痕跡を残し、「蹴りだそう」にもそう簡単にはゆかぬ。根の無い攻撃は只一時の効験があるだけで、最悪なのは、彼らも又忽然と影のように淡くなり、消えて行くことだ。
 但し、再度私のリストをよくみると、その内容は実に貧弱と思う。致命的なのは、創作では大きな才覚に欠けるため、これまで一篇も長編が無く:
訳も
外国語の力不足で、徘徊ばかりしていて世界の著名な大作を訳そうとしなかった。後進の青年たちは、この逆のことをすれば(私を)打倒できるだけでなく、跨ぎ超えてゆける。だが、西湖で何とかいう新奇な詩を苦吟するとか、
国外で百万語の小説を書いているとかの類の宣伝だけをしても役には立たぬ。
 言葉はあまりに誇大だと、実はそぐわない。志がいかに高くても、心を専一にせねば、ただ単に、人を驚かすような興味本位のことを伝えるだけとなる:
静夜に考えていると自ら虚しくなり、焦操を免れぬ。いぜんとして私の黒影が前面を遮り、とても大きな足かせのように思う。
 遠大な目的のため、古人の利益のためでなく、私を攻撃する者は、いかなる方法を使っても、私は歯牙にもかけぬし、怨言もない。しかし筆で世に問おうとする青年に対し、今敢えて、数年の経験から誠心誠意苦い忠告をする。
それは:たゆまぬ努力をし、けっして一年半年で数篇の作品や数冊の雑誌で、空前絶後の勲功をたてようなどと思わぬこと。もう一つ:人を力ずくで抹殺しようとするな。人も自分も一緒にダメにしてしまうから。前に立っている人を乗り越えて行け。前人より、高く大きく。初陣で、幼稚で浅薄なのは構わぬ。
たえず成長してゆけば良い。文芸理論を知らずに、いい加減にデマやもめ事を起こす評論を書いたり、閑話を書いて、己と意見の異なる者の短評を撲滅しようとしたり、童話を数編訳して、他の一切の翻訳を抹殺しようと考えたりしても、結局は自分にも人にも「何の役にもたたぬ」ことになってしまう。
これすなわち「利口馬鹿」だ。
 私が「進歩的青年」たちに口と筆で猛攻されていたころ、私は「まだ50歳にもなっていなかった」が、今本当に50歳になった。E.Renan は人間 年をとると性格が苛酷になると言った。私はその弱点を全力で克服したい。
というのも、「世界は決して私と一緒に死なない」希望は将来に有ることを知っているから。灯下に独り坐すと、春夜はいっそう凄清を覚ゆ。静かな夜、筆のおもむくままこれを記す。 
1932年4月29日 魯迅上海北部の寓楼に記す。

 訳者雑感:
リストの翻訳はオランダの童話以外は日本とロシア(ソ連)の物ばかりだ。
ドイツ語は仙台で医学の為に習っただろうし、東京に移ってからもドイツ語の専門学校で学び、ドイツ留学も計画していた。東京にいるころには仲間を誘って、中東欧の被圧迫民族の文芸を翻訳していた。フランスのジュール ベルヌの作品なども訳している。オランダのもドイツ語からの重訳か。
ロシア語の作品も日本語からの重訳であったという。
 今年は中国共産党設立90周年でいろいろな行事が催された。その中で印象に残ったのは、香港のメディアなどが報じているのだが、90年前の設立時の同志たちは、殆ど日本語で翻訳された共産主義の文献を読んで、共産主義に共鳴していったという点だ。日清戦争後におびただしい数の留学生が日本にやって来て、日本語経由で、欧米の思想文化を吸収したこと。その意味では、中国の共産党設立に一番最初に貢献したのは、日本のそれらの文献の翻訳者だろう。
その後は、大量の中国人がモスコーに行き、直接ソ連から学んだが、なまみのソ連はそれなりの事情があって、中国共産党とは良い時もあったが関係が悪化した時の方が長い。ソ連は国民党の方を支援していたし、蒋介石もモスコーに出かけて彼の考え方が一変したという。息子も留学させ、ロシア人と結婚している。日本が負けてからも、ソ連は共産党ではなく、国民党が中国を支配する
のを支援していた。1945年当時、スターリンは毛沢東を「マーガリン コミュニスト」と軽蔑していた。そんな毛沢東が初めてモスコーでスターリンと会談した時に始まったボタンの掛け違えが、その後の中ソ対立の芽となった。
 理想とする「主義」とか「社会システム」は第三者による「翻訳」や「思い入れ」で純粋に考えるのと、蒙古帰属の領土問題や内政問題でぎくしゃくする「なまみ」の関係から発する「現実社会」とは大きく乖離するのはよくあることだ。
 魯迅のいう「希望はきっと将来に有る」というのは、あまりにもでたらめな現実社会に暮らしているからこそ、将来に希望を託さざるを得ないからだろう。
 原発事故以来、あまりにもでたらめな政権下で暮らす我々、被災者の人たちにも、将来はきっと良くなるという希望だけは有る。
   2011/07/06訳





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