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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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私と「語絲」のこと

私との関係が長いのはなんといっても「語絲」だろう。
多分そのために、「正人君子」らの雑誌が私を「語絲派の主将」だとした。急進的青年は、今も私を「語絲」の「指導者」とする。去年魯迅を罵倒しないと自分が這いあがれないと言われたころ、匿名子から2冊の雑誌「山雨」が届いた。
短い文章で大意は私と孫伏園君が北京で、晨報社の圧力により「語絲」を
創刊したが、今や自分で編集し、投稿されたのを勝手に編者あとがきをつけ、
原意を曲解し、他の作者を圧迫している。孫伏園君の議論は絶妙だから、今後魯迅は彼のいうことを聞くべきだと。これは張孟聞の文章で、署名は別の二字だが、大勢で刊行しているというが、実際は一人か二人というのは今でもよくあること。
 「主将」「指導者」と呼ばれるのは、別段悪い気もしないし、晨報社の圧力云々というのも、恥とも言えぬし、老人は青年の教訓を受けいれるべきだというのは、より進歩的なことで、何も言うことは無い。だが、「望外の誉れ」も「想定外のこきおろし」もともに無聊なもので、平素一兵を持たぬのに、恭しくも「本当のナポレオン」のようだと褒められると、将来軍閥の雄になろうと志していたとしても、いい気もちはしない。「主将」などでないことは、一昨年声明を出したが――何の効力も無かったようだが――今回少し書いておこうと思ったのも、これまで晨報社の圧力などでなく、「語絲」は孫伏園さんと二人で創刊したのでもない。創刊は伏園一人の功である。
 当時彼は「晨報副刊」の編集者で、彼が私に投稿を依頼してきた。
しかし私は何の原稿もないので、私が特約選述で、投稿の多寡にかかわらず、月3-40元の報酬を得ているという伝説がでてきた。晨報社にはある種の特約作家がいたことは聞いていたが、私はその中には入っていない。昔の師弟――
僭越ながら暫しこの2字を使うのを許されたく――関係から、かなりの優待は
受けたようだ:原稿を渡せばすぐ載り:千字2元から3元の稿料は月末には受け取れ:3つ目は短い雑評でも稿料をもらえた。だがこんな景気のいいことは長くは続かず、伏園のポストも大変不安定な情勢だった。欧州から留学帰りが(惜しいかな、名前は忘れた)晨報社と深い関係ができ、副刊に対して不満たらたら、改革を決定し、戦闘計画のために、「学者」(陳源の意)の指示により、アナトール・フランスの小説を読みだした。
 当時中国では、フランス、ウエルズ、ショーの威力は大変で、文学青年を驚かすという意味では、今年のシンクレアと同じで、当時とすれば形勢はじつに
非常に大変な状態だった。この留学帰りが、フランスの小説を読み始めてから、
伏園がプンプン怒って私の寓居にやってくるまで、何カ月目か、何日目か、もう記憶も定かでない。
「辞めた。にっくき野郎め」
ある晩、伏園が来て開口一番。それはもともと想定内で、何ら異とするに足りぬ。次いで、辞職のわけを訊くと、何と私に関係があるという。留学帰りは、伏園の外出時に、植字工房に行き、私の稿を抜いたため、争いとなり辞職せざるを得なくなった。私はそのことに対しては怒らず、その稿は三段の戯詩で、「私の失恋」という題。当時「ああ、もう死んでしまおう」の類の失恋詩が盛んだったので、故意に「彼女の勝手にすれば」ものごとはうまく収まる、と揶揄したもの。この詩は後に一段加えて「語絲」に載せ、再度「野草」にも入れた。そしてペンネームも新しいのを使ったので、初見の作家の作品を載せない主宰者からはポイと放逐された。
 だが私は伏園が、私の原稿のために辞職した事は気の毒になり、心にずしんと重い石で圧迫されたようになった。数日後彼は自分で雑誌を始めると言いだし、私はもちろん全力で「吶喊」しようと応じた。投稿者はみな彼が独力で招いた者で、16人だったと思う。その後、全員が投稿したわけではない。広告を刷り、各所に張り、ばらまき、約一週間後小さな週刊紙が北京に――大学の周辺に現れた。それが「語絲」であった。
 名の由来は何名かが任意に一冊の本を取り上げ、任意にページを広げ、指で差した字から取った由。その時私は立ち会ってなかったので、本の名や一回で「語絲」の名を得たのか、何回か試した後、ふさわしくないのを棄てたのかどうかは知らぬ。要は、この事からこの雑誌が一定の目標や統一戦線の無いということが分かる:16人の投稿者の意見、態度はそれぞれ違い、顧頡剛教授は
「考古」の原稿だったことで分かるように、言うまでも無いが「語絲」が現代社会に関するものを好むこととは相反した。だがある人々は多分はじめ伏園との友情を深めんとしただけで、2,3回投稿したら「敬して遠ざく」で、自然に離れて行った。伏園も私の記憶ではこれまで3回しか書いてない。最後のは、これから大いに「語絲」に著述すると宣言したが、その後一字も見てない。それで「語絲」の固定投稿者は多くても5,6人になったが、それが同時に意図せぬうちに一種の特色が顕著になり:任意に談じ、顧忌なく、新しいものの誕生を促し、新しいものに有害な古いものには、全力で排撃する、がどのような「新」
しいものを誕生さすべきか明確な表明はなく、危急だと感じた時でも、故意にその言辞をあいまいにした。陳源教授が「語絲派」を痛斥したとき、我々に対して軍閥を直接罵ろうとしないとなじり、ひとえにペンを執る有名人を困らせようとしているといったのは、ここらから出ている。しかし、狆コロを叱るのは、その飼い主を叱るよりずっと危険だということを知っていたから、言葉をぼかしたのであって、走狗が臭いをかぎつけて、手柄をたてようとしたら、必ず詳しい説明が必要となり、労力を費やさねばならず、そうは簡単にうまい汁をすえないようにしたためである。
 創刊時の苦労は大変で、当時職員は伏園のほか小峰、川島がいたが、社会に出たての青年で、自分で印刷所に走り、自分で校正し、折りたたんで、自分で抱えて大衆の集まる所で売った。まさに青年の老人に対する、学生の教師に対する教訓で、自分ではただ少し考えただけで、何句かの文章を書いているのは安逸に過ぎる、一生懸命に学ばねばならぬと思った。
 但し、自分で売った成績は芳しくは無かったようで、売れたのは数か所の学校、中でも北京大学の文科だった。理科がその次。法科では余り読まれなかった。北大の法、政、経の出身者諸君で、「語絲」の影響が絶えて少ないのは多分
その通りだろう。「晨報」への影響は知らないが、一定の影響はあったようで、
以前、伏園に和を求めに来た時のことを、伏園は得意の余り、勝者の笑みを浮かべて私に語った。
「すごいぜ、彼らはうかつにも地雷を踏んだんだ!」
これを他の人に言うのは何でもない。だが私には冷や水をかけられたようで、そのとき私はこの「地雷」は私を指すと直感したからで、思索をめぐらして、文を書くのは人の小さな紛糾のために自分を粉骨砕身するに過ぎぬし、一方、心の中では:「えらいことになったぞ、地下に埋められてしまった!」と思い、
 それで私は、「彷徨」を始めたのである。
 譚正璧氏は私の小説の題を使って、私の作品の経過をきわめて明晰で簡潔に
評して:『魯迅は「吶喊」に始まり、「彷徨」で終わる(大意)』と言う。私はそれを頂戴して、私と「語絲」の初めから今までの歴史を述べるに、まさにぴったりした適切な表現だと思う。
 しかし私の「彷徨」は長くは続かず、当時はニーチェの「Zarathustra」を読んだ余波で、自ら絞りだせる――絞りだすに過ぎぬが―文を絞りだし、自分で作れる「爆薬」を造り、持ち続けようと決め、昔通り投稿した。それが知らぬうちに利用されていたと知った時、数日間こころは晴れなかった。
しかし「語絲」の販路は拡大していった。元元の同人は印刷費を分担し、私も十元だしたが、その後は取らなくなった。収支が足りてきて余剰が出てきた。
それで小峰が「老板」(社長)になったが、この推挙は決してきれいごとではなく、その時伏園は「京報副刊」の編集者になり、川島はまだ青二才で、数名の
同人は目をパチクリさせ口数の少ない小峰に任すほかなく、栄名を与え、利益を吐き出させて、毎月招宴させた。これは「取らんとすればまず与えよ」の法が奏功したもの。盛り場の茶館や料亭に時々「語絲社」の名板が掛るのが見られた。足を止めれば、疑古の(銭)玄同氏の早口でよく通る談論が聞こえた。
だが私は当時宴会を避けていたから、内部の事情はまったく知らない。
 私と「語絲」の淵源と関係は以上の通り。投稿も時に増え、時に減った。が、
こうした関係は北京を離れるまで続いた。その頃は実際だれが編修しているかも知らない。
 アモイに来てから、投稿は減った。一つは遠くなったため催促も受けず、責任も軽くなり、二つには、人も地も不慣れで、学校で遭うのは大抵念仏婆さんの口吻の人たちばかりで、紙墨を使うに値せぬため。「ロビンソンの授業記」や「蚊は孵化の為に刺す」などでも書いたら面白かったろうが、そんな「才」も無く、ごく些細な文を寄稿せしのみ。その年末に広州に移り、投稿もかなり減った。第一の理由はアモイと同じ。第二は事務にかまけ、広州の事情にも暗く、後には感慨深いこともあったが、「語絲」の敵が支配する所で発表する気にならなかった。
 権力者の刃の下で、彼の権威を頌揚し、彼の敵をけなして媚を売るようなことはしたくないというのは「語絲派」の共通の態度と言える。「語絲」は北京で
段祺瑞とその狆ころたちのいやがらせからなんとか難を逃れたが、終いには「張作霖大師」に発禁され、発行元の北新書局も同時に閉鎖されてしまった。時に1927年。
 その年、小峰は上海の寓居を訪ねて来、「語絲」を上海で発行しようと言い、私に編集を嘱した。これまでの経緯からして辞するべきではなく、承知した。その時、従来の編集法を訊いたら、簡単で、凡そ社員の原稿は、編者は取捨の権なく、必ず当用。外来のもののみ編者が選択可。必要に応じ削除可。従って
私のなすべきは後段の仕事で、社員の方は、実際9割は直接北新書局に送られ、直接印刷に回された。私が目にするのは製本後。いわゆる「社員」も明確な規定無く、最初の同人で今も残るのは少なく、途中からの人は忽然と現れ、忽然と去っていった。「語絲」は壁にぶつかった人の不平不満を載せる傾向が強く、
最初の出陣であまり成績を出せなかった人、或いはもともと別の団体にいた人で、意見があって「語絲」で反攻したいと考えた人も、ここと暫時関わりを持ち、功成り名を遂げた後は、当然ながら淡漠となった。環境の変化により意見を異にして去る者も少なくなかった。だから所謂「社員」には明確な規定なし。
前年の方法は、何回か投稿されれば、必ず載せ、その後は安心して寄稿できるようになり、古い社員と同待遇。また古い社員の紹介で、直接北新書局へ寄稿し、出版前に編者の目を通らぬものもたまにあった。
 私が編集担当後、「語絲」の運も悪化し、政府の警告を受け、浙江当局に禁じられ、更に創造社式「革命文学」家のしつこい包囲攻撃を受けた。警告の原因は、私も分からないが、戯曲のせいだという。禁止の理由も不明で、復旦大学の内情を暴露記事を載せたからという人もいて、当時浙江の党務指導委員の幹部に復旦大学出身者がいたからだという。創造社派の攻撃は長い歴史があり、彼らは「芸術の宮殿」を守るため、「革命」いまだ成らず、のころからすでに
「語絲派」の数名を眼中の釘とみなしていたが、これを書きだすと長くなるので、次の機会に回す。
 「語絲」の本体は確かに消沈していった。一つに、社会現象への批評が殆ど無くなり、この種の投稿も減少した。二つには残った数名の比較的古い同人も
この頃、また数人いなくなった。前者の原因は、もう書くことも無くなったか、
或いは有っても敢えて書こうとするものが無くなり、警告と禁止がその実証。
後者は多分その咎は私に帰すと思う。一例として万やむを得ず、きわめて温和な劉半農氏の「林則徐とらわる」の誤りを糾弾訂正した来信を載せた後、彼は2度と投稿しなくなり、江紹原氏が謄写版の「馮玉祥先生…」を紹介してきたが、載せなかったら、彼もその後投稿しなくなった。更にこの謄写版は暫くして伏園の主宰する「貢献」に載り、丁寧なまえがきに、私が載せなかった事由を説明している。
 更に顕著な変化は広告の乱れだ。広告の種類を見ればその雑誌の性質が大抵分かる。「正人君子」たちの「現代評論」には、金城銀行の長期広告、南洋華僑学生が発行する「秋野」には、「タイガーバーム」のラベル。「革命文学」と銘打った小新聞も、その広告の大半が花柳薬と飲食店なら、作者と読者が分かるというもので、かつての専ら妓女と遊び人の話のタブロイドと同流で、今は男性作家を用いて、女流作家の倡優の代わりをさせ、ほめたり謗ったりするのが、
文壇での工夫と考えているに過ぎぬ。「語絲」創刊の頃、広告の選択は厳格だったが、新書といえども社員が良書だと認めねば載せず、同人雑誌であるから、同人はこうした職権を行使できた。北新書局の「北新半月刊」は「語絲」で、
自由に広告を載せられないためにできたという。だが上海で出版して後、書籍はもちろん、医者の診断例も載せ、靴下メーカーのも載せたし、早漏即効薬の
広告も出た。もともと「語絲」の読者には誰も早漏患者はいないとは保証できぬし、況や早漏を治すのは悪いことではないが、善後策としては「申報」のような新聞に任すのが穏当であり「医薬学報」に載せるのがより注意を促すだろう。このため、私は読者から何通かの叱責の手紙を受けたし、「語絲」にもそれに反対の投稿を載せた。
 私も以前は本分を尽くしはした。靴下メーカーの時、小峰に直接質したら、
答えは:「広告を載せた担当の間違い」で、早漏薬の時は手紙を出したが、応答無し。だがそれ以降、広告は無くなった。多分小峰が譲ったのだと思う。この時、一部の作家にはとうに北新書局から稿料を払い、発行の責めを負わなくなっただけでなく、「語絲」も純粋な同人誌でなくなった。
 半年の経験後、「語絲」の停刊を小峰に提案しようとしたが、賛成を得られず、私は編集責任を辞した。小峰は誰かを探してくれというので柔石を推薦した。
 だがなぜか知らぬが、彼も6ヶ月編集し第5巻の上半巻一ができたら辞めてしまった。
 以上が私の「語絲」との四年間に起こった瑣事。以前の数期と最近の数期を比べると、その変化が分かる。どう違うか。最も明白なのは、殆ど時事を取り上げていないこと、且つ、中編作品を多く載せているが、これは紙幅を稼ぐのが容易になり、又(政府の弾圧の)災いを免れるからだ。
古い物を壊し、新しい箱も壊してその中に隠れている古い物をさらけ出す突撃力は、今もなお、古いひとたちや、自分では新しいと思っている人々に憎まれてはいるが、そんなことはもう昔のことになってしまった。
               12月22日
訳者雑感:
 1920年代後半の、中国の出版業界と広告の関係が面白い。魯迅が指摘するように、広告を見れば、その雑誌の性格が大抵わかるというのは本当だ。
広告主は読者のニーズに最も関心を寄せ、自社製品の販売促進のためには、どのメディアに宣伝広告費を払うのが効果的かをよく研究している。
 学生時代の同人誌やそれに類した刊行物への広告費をもらいに出かけたことがある。先輩の会社や、近くの飲食店などは当たり障りの無いところだ。先輩は後輩にいい格好できるし、その会社への就職希望者の増加が期待できる。飲食店も当然学生たちがたくさん使ってくれれば、元は十分取れる。
 今回の原発事故で、全国紙や大手メディアの東電批判記事が少なかったのは、それまで膨大な宣伝広告費をもらってきたからだ、と非難されていた。原発のある町村民が、こんなことになっても文句も言えない。それだけの金をもらってきてしまったのだから、…。と語る場面が強く印象に残る。
 魯迅がここで批判しているのは、「時事を取り上げなくなった」「政府の弾圧の災いを免れよう」としてきたことだが、これが「靴下や早漏薬」の広告を載せることと、どこかで繋がっていることだと思う。
 先輩の会社の広告を毎回載せていたら、きっとその会社が不祥事を起こしても、それを取り上げる記事は載せないだろう。飲食店が中毒で死者を出してもなかなかすぐには取り上げまい。
 中立なメディアというのは理想、空想に過ぎないが、広告費で記事の内容に影響が出ると言うのは問題だろう。かといって公共広告機構の「こだまでしょうか?」ばかりでは嫌になってしまうが。
       2011/07/04訳



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