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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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通信

来信
魯迅先生:
 精神も肉体も困窮し回復できないほど、どうしょうも無い私は、病をおして「先生」に最後の呼びかけ――いや、救いを求め、警告を発したいのです!
 自ら認識されているように:先生は酒席に「酔っぱらいエビ」を提供するコックです。私はそのエビの一匹です。
 私はプチブルの温室育ちの子。衣食になに不自由せず安閑と過ごしていた。ただ「学卒」の資格さえとれば満足で、他になんの要求も無かったのです。
「吶喊」が出、「語絲」が発刊され(残念ながら「新青年」時代は余り訳が分からなかったが)「髭の話」「写真について」など、つぎつぎと私の神経を刺激しました。当時まだ青二才でしたが、周りの青年たちが浅薄でものごとが見えてないと感じました。「革命!革命!」の叫び声が道にあふれ、いわゆる革命勢力に随って沸いていました。私は確かに吸い込まれました。もちろん私は青年の浅薄さを嫌い且つ自分の生命に出路を探そうとしました。所が何とまた、人間の欺瞞、虚偽、陰険…の本性を知ってしまったのです。果たして暫くすると、軍閥と政治屋が着ていた衣を捨て、本性の凶暴な姿を現した。私は所謂「清党」
の呼び声により私の沸騰する熱烈な心を清めました。当時「真面目で純朴な」
第四階級はあのような「遁世の士」たる「居士」たちと友達になれるかと思っていました。だが、本当に「令弟」周作人先生の言うとおり:「中国には階級はあるが、考えていることは皆同じで、すべては役人になり、金をもうけること」しか考えていない。更に私は自分が紀元前の社会にいるのかと疑いました。犬畜生より愚鈍でそれに輪をかけたような言動(或いは国粋家がまさしくこれを国粋という)は、事実私を茫然とさせ、―― いったい私はどうすれば良いか分からなくなりました。
 痛みの中で失望の矢より痛いものはない。失望し、失望の矢はわが心を貫き、吐血しました。寝床で転輾として数カ月も起き上がれなくなったのです。
 希望を失くした者は死ぬべきというのは本当です。しかしその勇気もないし、まだ21歳になったばかりで恋人もいます。死ななければ精神と肉体は苦痛にさいなまれ、一秒ごとに苦しくなり、恋人も日々の生活に圧迫されています。
私のわずかばかりの遺産は「革命」に持ってゆかれたのです。だから互いに相慰めることもできぬだけでなく、向かい合って嘆いているばかりです。
 何も知らなければ良かった。知ったがゆえに苦しいのです。この毒薬を飲ませたのは先生で、私はまったく先生に「酔わされた」(エビ)です。先生、私はこんなところまで落ち込んでしまいました。どうか私の進むべき最終的な道を教えてください。でなければ、私の神経をマヒさせてください。知らなかった方が幸いでした。貴方は医学を学んだそうですから、「私の頭を返す」のは難しくないでしょう。私は梁遇春先生にならって大声で叫びます。
 最後に先生にひとこと:「貴老先生、少し休まれてはいかがでしょう。もう軍閥の為に彼らの口に召す新鮮なエビを急いで作る必要は無い。私のような青年の何人かの命を保全して下さい。もし生活問題があるのなら、「擁護」と「打倒」
の文章をたくさん書けば良いでしょう。先生の文名を以てすれば、富貴を手に入れることなど心配無用で「委員」「主任」にすぐなれるでしょう。
 どうか早く御指示下さいますように!「徳を行うに終わりはない」などと遠慮しないでください。
 或いは「北新」か「語絲」に回答いただいても結構です。この手紙は載せないでください。笑い物にされますから。
 乱筆御容赦ください。病気で疲れ困窮しおりますので。
         貴方に害された青年Y  枕上にて   3月13日

Y先生:
 返事の前にまず謝らねばなりません。お申し越しの様に、貴状を非公開にできません。お手紙の趣旨は、返信は公開でということでしたが、原信を載せないと、返信は「無題詩N百韻」のようになり、訳が分からなくなります。
貴状は何ら恥ずかしがることもないと思います。もちろん中国には革命で死んだ人も多いし、どんな苦しい目にあっても、革命に身を投じている人もあり、革命した人で今では豊かに暮らす人もいます。革命してもまだ死なないというのは、当然最後までやりぬいたとは言えないし、ことに死者に対しては顔向けできないだろうが、全て生きている人は、それはそれとして受け入れるべきでしょう。お互い僥倖か、或いは狡猾、巧妙だったにすぎません。彼らは鏡で自分の顔を見たら大抵はその英雄的な口と顔を引っ込めるでしょう。
 もともと私は売文糊口する必要もなく、筆を執りだしたのは友の求めに応じたものですが、多分心の中に少しばかり不満がくすぶっていたようで、書きだしたらしばしば憤慨した激語となり、青年たちを鼓舞させるような形となった。段祺瑞が執政のとき、多くの人がデマを飛ばしたが、私は敢然とそれを否定、外国から半ルーブルももらってないし、金持ちの援助や書店の稿料で染められることもないと反論しました。「文学家」になるつもりもないから、仲間と言うべき批評家の御機嫌取りもしなかった。数篇の小説が1万部以上売れるなど考えもしなかった。
 中国を改革、変革しようという気持ちは確かに少しあります。
 私には世間への出路の無い――ははは、出路とは状元になることかな――
作家、「毒舌」文人だという人たちがいるが、私はすべてを抹殺したりはしないという自信を持っています。下層の人が上層の人より勝り、青年が老人より勝っていると考えてきたので、私のペン先の血は彼らの上には垂らさなかった。しかし一旦利害がからむと彼らも往往、上層人、老人と差が無いことも知ったのだが、こんな社会状況では、勢いどうしてもそうなってしまうようだ。
彼らを攻撃する人も確かに多いが、私がわざわざその手助けをして投石することもないから、私が暴く暗黒は一面だけであって、本意は青年読者を欺くことではありません。
 以上は私がまだ北京にいたころ、成仿吾の所謂「鼓の中に隠れている」プチブルだった時のこと。但し、やはり行動も文章も不謹慎だったため、飯碗を壊され、逃げ出すほか無くなった。「無煙火薬」の爆発を待たずに「革命の策源地」まで転転と逃れた。そこで2か月住んで驚いたのは、それまで聞いてきたことは全てデマで、ここは正しく軍人と商人の主宰する土地だった。次いで、清党が起こり、詳細なことは新聞にも出ず、ただ風聞のみ。正に神経過敏となり、まさしく「聚めて殲す」(一網打尽)の感で、哀痛に耐えなかった。これは「浅薄な人道主義」と知りながら、すたれてもう2-3年経ったが、プチブル根性が抜けず、心はいつも憂えていた。当時私も宴席をアレンジする一人かもしれぬと心配になり、有恒さんへの手紙にそのことを少し書いた。
 かつての私の言論は確かに失敗だった。私のものごとに対する処し方が悪かったためだ。原因は長い間ガラス窓の下に座り「酔眼朦朧で人生を見ていた」ためです。しかしそれなら風雲変幻(清党)のことは世の中にめったにあるわけではないのだが、私は予想だにせず、なにも書かなかったため、私には大した「毒舌」も無いことが知れる。但し、当時の状況は十字路に着いても、民間も役所も、50年先を見通すという革命文学家も、予想できなかった。さもなくば多くの人を救えたはずです。今ここで革命文学家を引き合いに出したのは、問題が起こった後になって、彼らの愚昧さを嘲笑しようとするのではない。私自身が後の変幻(清党)を見通せなかった、私に冷静さが欠けていたため、間違いを起こしてしまったというに過ぎず、私がどこかの誰かと相談し、或いは自分で何かしでかそうと企んで、人を騙したのではありません。
 しかし意図がどうであれ、事実に偽りはない。今、苦しんでいる人には、私の文章を見て刺激を受け、身を挺して革命に走った青年たちがいると思うから、大変苦しいのです。だがこれも私が天性の革命家ではないためで、もし革命の巨頭なら、こうした犠牲が出るのも一二回ではない。第一に自分が生きておりさえすれば、永遠に指導できるから。指導できなくなれば革命は成功しない。その証拠に革命文学家は上海の租界付近にいて、一旦騒ぎが起これば、外人の張りめぐらした鉄条網があり、革命文学反対の中華世界と隔離され、そこから数十万両の無煙火薬を投げ、ドカーンと一発、すべての有閑階級を「アウフヘーベン」することができる。
 革命文学家たちの多くは今年ぞろぞろと登場してきた。互いに褒めあい、或いは排斥しあい、私にも「革命はすでに成れり」なのか「革命いまだ成らず」
のどちらなのか判然としない。しかし私は、「吶喊」又は「野草」のせいで、或いは「語絲」のせいで、革命いまだ成らず、とか青年は革命を怠けている、と
言っているようだ。この口吻は大体一致している。これが現在の革命文学の世論。こうした世論には、腹が立つやらおかしいやらだが、愉快にも感じた。
革命をおくらせたという罪を着せられたが、別の面では青年を誘殺したという内心の忸怩たるものを除いてくれた。すべての死者、負傷者、苦しんでいる人たちと私は関係が無いことになる。それまでは私は自分に責任があると思っていたわけですから。それで以前は意図的に講演もせず、教壇にも立たず、議論もせず、自分の名を社会から消すことが私の贖罪と考えていたが、今年は気が楽になり、活動を再開しようと思った。ところが君の手紙を見て、心が沈みこみました。
 しかし今はもう去年の様に落ち込んではいません。半年来、世論を見、経験に照らすと、革命か否かはやはり人にかかっており、文章には無いことを知りました。私に害されたというが、当地の批評家は私の文は「非革命的」と断定する。本当に文学が人を動かすに足るなら、彼らは私の文を見て、革命文学家になろうなどと思わぬはずで、今彼らは私の文を見て「非革命」と断じているが、それでも腐らず、革命文学者になろうとするのは、文は人に対して何の影響もないことが分かります。――ただ残念なのは、同時に革命文学の牌坊(鳥居形の顕彰碑)を壊したこと。しかし君と私は面識もないから、私を冤罪に落そうという考えではないと思うから、別の面から考えてみましょう。
第一、君は大変大胆で、他の革命文学家は私が描いた暗黒に驚き、失禁するほどあわてふためき、出路がなくなったと思うから、最後には必ず勝利すると考えようとします。どれだけお金を払えば、どれだけ利息が付くなどと、生命保険会社のようです。
しかし君はそんなことは考えず、暗黒に向かってまっしぐらに攻め込もうとする。これが苦しい原因の一つ。肝がでかいから。それで第二に大変まじめなこと。革命もいろいろあり、君の遺産は持って行かれたそうだが、革命で又取り返すこともできる。命まで持って行かれた者。給与や原稿料を取られただけで革命家の肩書を得た者。これらの英雄はもちろんまじめだが、以前に比べて損が大きく、その病根は「過度」にあると思う。第三、君は、前途はとても明るいと考えていて、一度釘にぶつかると、大変失望するが、もし必勝を期していなければ、失敗しても苦痛はずっと小さいでしょう。
 そうなると私に罪は無いか?となると「有」で、今多くの正人君子と革命文学家はいろんな手法で私の革命と不革命の罪をでっちあげています。だから私が将来受ける傷の合計の一部で以て、君の大事な頭への賠償としたいと思う。
 ただ一つ考証を加えると「私の頭を返せ」というのは「三国志演義」で、関雲長の発した句で、梁遭春さんのではないようです。
 以上、実はすべて空ごと。君個人の問題については、なんとも手の施しようがありません。これは「前進!殺せ!青年よ!」などの勇ましい文章では決して解決できません。実は私も公開したくはないのです。今はまだ余り言行一致させぬ方が良いと思いますから。しかし、住所が無いので、返信できず、ここに書くしかありません。第一に生計を立てること。やり方は手段を選ばずです。
しかし今はまだわからず屋がたくさんいて「目的の為には手段を問わぬ」とは共産党のうたい文句だと考えているが、大きな間違いです。そういう人は多いが、口にしないだけです。ソ連の学芸教育人民委員ルナチャルスキーの「解放されたドンキホーテ」の中に、この手段を公爵に使わせていて、これが貴族のやり方で、立派なものだとわかります。第二は恋人を大切に。これは世論からは革命の道と大きくはずれます。構いません。君が少し革命の文章を書きさえすれば。そこに革命青年は恋を語るべきではないと主張するだけでいいのです。
ただもし、誰か権力者が敵が来て、罪に問われるときがきたら、これも罪状の一つに数えられるかもしれぬから、私を軽々に信じたことを後悔することでしょう。だから先に声明しておきます:将来罪に問われた時は、たとえこの一節がなくとも、彼らは別のものを探し出してきます。世の中は往往、まず問罪があり、罪状(普通は十条)が後になる。
 Y君、こんな風に書いたら、私のあやまちを少しは償えたでしょうか。ただ、
この点だけで私はまた多くの傷を受けるでしょう。初め革命文学家はひどく罵って「虚無主義者め!極悪人!」と言いました。ああ、少し不謹慎だが、又新しい英雄の鼻におしろいを塗って(道化に)してしまった。ついでに、付け加えると:余り大げさに驚かぬように。これは手段を選ばぬという手段に過ぎません。主義でも何でもない。たとえ主義だとしても、敢えて書くし、はっきり書きます。悪いことではありません。もし悪者になったときは、こうした宝は腹の中にしまって、たくさんの金を手にして、安全地帯に住み、他の人が犠牲になるべきだと主張する。
 Y君、私も君に暫時気楽に暮らすように勧めます。何でもいいから糊口の道を探して下さい。君が永久に「没落」しているのを望みません。改革できるところは随時改革し、大きくても小さくても構いません。私も君の勧めを尊重し、「休む」だけでなく、遊びます。これは君からの警告のためでなく、実はもともとそうしたかった。そして閑を見つけてやりたいことをする。たまたま何かに差し障りが及んでも、文字の上での粗忽からで、「動機や良心」を論じても多分こんなことにはならないでしょう。
 紙も尽きましたのでここらで終わります。最後に病気平癒を祈り、恋人がひもじい思いをしないように祈ります。
       (4月23日の「語絲」に発表)

訳者雑感:
 Yさんというのはどんな人なのか、出版社の注にも何も記述がない。魯迅も彼とは面識もないから、彼がこれによって自分に冤罪をかぶせようなどとは考えていないでしょう、と書いている。しかしY君は魯迅の作品に「害され」、
精神も肉体もぼろぼろになってしまった「酔っぱらいエビ」だと訴えている。
 魯迅もそれを認めている。彼自身も広東政府に対する認識に間違いがあったことを認め、失敗だったと素直に反省してもいる。遠くで聞いていた広東政府の宣伝文句は実は嘘っぱちで「軍人と商人の主宰する土地」だったことを知る。
 弟の周作人の言うとおり「中国には階級はあるが、考えていることは皆同じで、すべては役人になり、金をもうけること」で、魯迅のそれまで考えていた「青年は老人より勝り、下層の人は上層の人に勝る」というのは、こうした社会情勢では、青年も下層の人たちも、革命という名の下で、金持ちから財宝を取り上げ、自分が役人になって、それまでの老人、上層階級にとって代わろう、というものであることを、いやというほど思い知らされたことだ。
 このことは2011年の今も変わっていない。大学入試から共産党に入党し、役人になり金をもうけること。軍人と商人の主宰する土地。解放軍と地方政府の役人が、商人に土地や利権を払い下げて、その売却益と毎年の上納金で金を儲ける仕組みは、不変である。今は80年前ほど内戦とか混乱が少ないから、魯迅が登場してこないのか、あるいは登場しようとしてくるのを抑えつける力の方が勝っている、ということなのか。
   2011/06/11訳 

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出路

また、ゴーゴリの「検察使」を思い出した。中国にも訳がある。ある地方に、皇帝の使者が隠密裏にくるとの噂が広まった。役人たちは大恐慌。旅館にそれらしき男を見つけ出し、Red Carpetで大変なもてなしをした。十二分にもてなしを受けて、その男は去った。その後本当の使者がやってきたとき、舞台はすべてオシの無言劇となって終幕する。
 上海文芸界は今年無産階級文学の使者を歓迎して沸き立っている。まもなくやってくるという。車引きに訊いてもまだとの答。車引きの階級意識が低いので、別の階級に歪曲されたのだという。他の人が知っているそうだが、労働者階級とは限らぬ由。それで大きな邸宅を訪ね、旅館や西洋人の家、本屋、喫茶店などくまなく探したのだが…。
 文芸界の眼は時代の先を見ようとするから、到来したかどうかは分からないが、まずは箒で道をきれいにし、恭しく歓迎せねばならぬ。それで人間稼業も難しくなり、はっきり「無産階級」だと言わぬと「非革命」にされるのはまだ良いとして、「非革命即ち反革命」だとなると大変危険なことになる。
そうなるともう全く出路が無くなるわけだ。
 今の世は、「ボス一人ならなんとか応対できるが、その手下がくるともうどうにもならない」出路は確かにあるのだが、なぜ無いというのだろうか。
手下の鬼たちのたたりで、彼らが出路を全て壊すからだ。
 そんなものは要らないと捨ててしまえば、出路は出てくる。自分でも他に方法が無いから、暫く大砲の尻に看板をかけるしかないという気になれば、出路の芽は出てくる。
 マグマは地下でうごめき噴き出す:溶岩はいったん噴き出せば、全ての野草と喬木を焼き尽くす。もはや腐朽すら無くなる。
「但、我々は落ち着き欣然とする。私は大笑し、高歌す」(「野草」序)
 やはりただ口にするばかりで、革命文学家はそれを見ようともしないようだ。もしそのために出路が無いと感じるなら、実にかわいそうだ。もう筆を執るのも忍びない。      4月10日

訳者雑感:無産階級文学と革命文学家。革命文学家は無産階級文学の使者が上海にやってくると沸き立っている。そんな使者など居る訳も無いし、来る訳もない。スローガンだけ勇ましい革命文学家は、無産階級のための文学を作るのだと口にするばかりで、地中のマグマがどこから噴き出そうとしているのか、見ようともしない。そう言っているのか? 空回りしているだけ。それで出路が見つからない。閉塞だと言うばかり。実にかわいそうで見ちゃおれぬ、か。
    2011/06/07訳

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3月25日の「申報」に梁実秋教授の「ルソーについて」が載り、シンクレア―の言葉を引いて、パピットを攻撃するのは「ひとの刀で殺す」ことになり、
「いいやり方とは限らぬ」という。彼のルソー攻撃について理由の二番目に、
「ルソーの個人的不道徳行為が、一般的ロマン派文人のふるまいの典型になっており、ルソーへの道徳面での攻撃は、一般ロマン派人物への攻撃と言える…」
 それならこれは「ひとの刀で殺す」ではなくて「人の首をさらし首」にすることになった形。たとえルソーが「一般ロマン派文人のふるまいの典型」になっていなくても、遠くはるばるこの中国にまで彼の首をもってきて、さらし首にすることもないだろう。一般のロマン派文人にとっては、遥拝してきた祖師を害し、彼の死後の安寧を奪ったことになる。彼が今受けた罰は、本来の罪によってではなく、影響罪によってである。嘆かわしいことよ。
 以上の記述はあまり「まじめ」ではない。梁教授はペンで攻めただけであって、ルソーの首をさらすべきとは言っていない。さらし首と言ったのは、今日の「申報」に報じられた湖南共産党の郭亮の「処刑」の記事に、彼の首があちらでさらされ、こちらでさらされ、「長州と岳州を遍歴」したということがでていたから、たまたまそう書いたのだ。しかし湖南当局は残念ながらレーニン、(或いは遡ってマルクス:更にはヘーゲル等)の道徳上の罪状を一緒にして、その影響罪については触れなかったことだ。湖南にはまだまだ批評家が足りない。
 「三国志演義」は袁術(紹が正しい:出版社)の死後、後人が嘆じて、
「長輯横刀出、将軍盖代雄、頭顱(首)行万里、失計殺田豊」という詩を作ったのを思い出した。(袁は田を殺したが、その後、袁の子二人の首は討ち取られ万里離れた曹操の所へ届けられたという)それは正に三つも閑暇があるからだろう。ここに一首を記してルソーを弔うとしよう:
「脱帽して鉛(筆)を懐き出ず、先生は盖し窮者に代わりて、頭顱、万里行く、失計し、児童を造る」(上記の詩に和した、一首のパロディ、計画が失敗して、児童を造るとは出版者注では「エミール」のことを言うが、訳者は魯迅の指摘
せしは女中に産ませて孤児院に送った私生児と思う。出版者の説明ではルソーは「エミール」で児童の心身の自由な発達を提唱した為、当局から逮捕状が出、それを逃れてスイスに亡命云々とある)   4月10日

訳者雑感:
 ルソーといい、今回のIMFのストラス カーン氏といい、フランスという麗しい大地に生を受けた男は、道徳的な面でタガが緩む性格を兼ね備えるようだ。
ストラスという名はドイツ系という人もおり、カーンという姓はジンギスカン、フビライカーンなどを連想させるから、生粋のフランク人ではないかもしれぬ。
だがフランスで長年暮らしてきたことは確かなようだ。

 さて本件は「さらし首」の話。湖南省の共産党員が逮捕され、見せしめのために、長州、岳州とあたり一帯に遍歴させられたというのが強烈だ。日本だと品川の先、大森あたりの東海道筋にさらして、通行人に見せるだけで、その情報が、口コミですぐ広まるのだから効果覿面。だが国土の広大な中国では、犯罪人の首を移動して、見せしめにすることでさらに宣伝効果と恐怖心を煽ろうとしたようだ。
 サダムフセインの処刑はテレビで公開したが、ビンラディンのは公開せずに海に散じた。見るも無残に損壊したためというが、そうでなくてもさらし首にはできまい。たいへんなことになってしまうから。
 2011/06/04訳

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中国文芸界に心配な現象が起こっている。
みなが争って名詞を輸入するが、その正しい意味を紹介しないのだ。
それぞれが自分の意義を付す。作品に自身のことを多く語るのを表現主義:他人のことを語るのを写実主義:女性の脚線美を詩にするのをロマン主義:それを詩にしてはダメというのは古典主義:空から人頭が落ちてきて、その上に牛が乗っているの、おお!愛よ。海の真ん中に青い霹靂が…などは未来主義…などなど。
そしてここから議論が始まる。この主義は良い。あれはダメ…。云々と。
 民間の笑い話に:二人の近眼が視力比べをした。埒があかぬので、関帝廟へ行き、新しく掛けられる予定の額の字が見えるか試しに出かけた。二人とも前もってペンキ屋に訊き出していたが、訊き出した内容に差があり、大きな文字しか聞いてこなかった男は負けたのに不服で、ケンカになってしまった。小さな字が見えるという相手を、嘘ツキとなじった。しかし埒はあかぬ。通りがかった人に尋ねることにした。それを眺めた男は「何も無いよ。額はまだ掛っていない」との答え。
 文芸批評で眼力比べをするなら、まず額を掛けてからにしなければならぬ。今やっているのは空虚な争いなのはお互い内心ではわかっているのだ。
           4月10日
訳者雑感:
 このころの中国では諸外国からの外来語、外来思想の輸入に関して、北京、上海、広東などでそれぞれバラバラに行われた。民主主義とか科学という概念も、デモクラシーという外国音をそのまま導入し「徳(De)」という一字で
表し徳mocracy, (漢字を充てる)、科学を賽(Sai)ence.という漢字で表し、近代国家をつくるにはこの徳先生と賽先生を両輪として進めねばならぬ、という議論がまじめになされていた。(「新青年」誌)その後、民主主義と科学という
漢字が定着したのだが、本当の概念を明確に定義づけしないままでの導入が、混乱に拍車をかけた。
 米中国交時もニクソンの漢字表記がいろいろ現れた。尼克松に定着するまで
だいぶ時間がかかった記憶がある。
 今回の大地震、津波、原発の災害でも各紙が長い間ばらばらの呼び方をした。
東北大地震では茨城千葉の被害を勘定にいれていないようだし、東日本では
そんな大災害も起こっていない秋田山形などはどうか、とか。この辺が今回の
菅政権のばらばらさ、ちぐはぐさを図らずも示している。
 東北で育った山折さんがラジオで言っていた。「東北太平洋沖大地震」という
のが正確ではないか。宮城沖、福島沖で続けて起こった地震が今の惨状を起こしたのだから。「名正しからざれば、言従わず」という。名前があいまいでいい加減だと、それに続く言葉も説明も対策もみなあいまいになる。
 昨日の「一定の責任を果たしたら若い人に譲る」云々として、聞いている人間にはすぐにも辞めそうな気を持たせながら、原発が低温になるまで、という
ことを言いだしてくるのは、今彼に辞められては困るという「彼の取り巻きたち」がパペットとして「眼がすでにうつろな」彼を首相の椅子に座らせておこうという魂胆以外、何物でもないように感じた。
 「菅(官) 正しからざれば、民 従わず」だ。
    2011/06/03訳

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1928年 「酔眼」の朦朧 

「酔眼」の朦朧 
 (表題は論敵が魯迅を酔っぱらって朦朧としていると批判した言葉を借用)

 今年の新旧両暦の正月は、上海文芸家たちには何か特別な刺激があったようで、新刊誌が続々出た。彼らはあらん限り偉大で尊厳のある名前を付けたが、
内容がそぐわぬのを気にしない。1年以上たっている雑誌も懸命に変化してきた。作者の内、何名かは新人だが、多くはよく見た名で、見慣れぬ名もあるが、それは1年半ほど何も書かなかったためだ。その間、何をしていたのか?
なぜ今年に入って一斉に書きだしたのか?話せば長くなるが、要は、これまでは書かなくともすんていたが、今や書かずにはいられぬ。昔の無聊な文人のようだ。或いは文人的な無聊というべきか。意識的か無意識にかは別にして、皆が自覚してきたので、読者に「将来」を語ろうとし:「洋行する」か「研究室に入る」か、さもなくば「民衆をつかもう」としているが実績はまだ上がっていない。
一旦帰国したり、研究室から出て、民衆を掴んだら大変なことになる。もちろん、目先の聞く人、注意深い人、心配性な人、投機的な人は、今この時に
将来、後悔せぬようにと「革命に敬礼」をしておく方が良いと考えている。
 しかし各誌は言葉づかいがどんなに違っていようと、共通点がある:
それは朦朧としている点だ。この朦朧の出どこは――馮乃超のいわゆる「酔眼陶然」というのも影響はあるが――私はやはり、一部の人たちが愛する、又ある人たちが憎む官僚と軍閥から出ていると思う。彼らとコネがあるか、コネをつけたいと思い、書く時はニコニコ顔なのだが、遠い将来の懸念もあり、夢ではハンマーと鎌を畏れるので、あまりみえすいたように現在の主人に恭順な態度はできない。それで朦朧となるのだ。彼らとのコネが断たれるか、全く無くなれば、大衆の中に入り、なに忌憚なく話せるのだが、書くとなるとたとえ勇ましく、人の前で英雄ぶっても、彼らの殺人刀を忘れるような馬鹿は多くはないから、ここにも朦朧が残る。それで朦朧としていようと思っているのに、つい旗色を鮮明にする者もおり、旗色鮮明にしようとするが、やはり朦朧を免れず、それが同じ場所で同時に現れる。
 しかし朦朧もたいしたことではない。最も革命的な国でも、文芸面では朦朧さが残る。だが、革命家は決して自己批判を畏れぬ。彼ははっきりと知っていて、敢えて明言する。ただ中国は特別で、一緒にいる人達がトルストイを「きたない説教者」だと言うと、その尻馬に乗ってしまう。中国の「目下の情勢」に対して「事実上、各方面に黒い雲が垂れこめた勢力の支配」を受けていること、彼の「政府の暴力、裁判行政の喜劇の仮面をはぎ取ってしまえ」と言いだす勇気のひとかけらも無い。人道主義も不徹底で、「殺人も草をなぎ倒すくらい
簡単なこと」で怨みの声すら聞こえてこない。人道主義的な抗争も無い。搾取と抗争も「文字の詮議」に過ぎず「直接行動」ではない。私は文を書く人間が直接行動に出るのを望まない。文を書く人間というのはたいてい文しか書けないのを知っているからである。
 少し遅ればせながら、創造社は一昨年株を発行し、昨年は弁護士を雇い、
今年は「革命文学」の旗を掲げ、復活した批評家成仿吾は「芸術宮」守護職から離れ、「大衆獲得」に乗り出し、革命文学家に最終的勝利を保障した。この飛躍も必然とはいえ、文芸に関係する人は大変敏感で、すぐ反応し、自分の没落を防ぎ、大海に浮かび各方面から何かを掴もうと必死だ。20世紀来の表現主義、ダダイズム、何とか主義の興亡はそれを表している。今は大時代で、動揺の時代、転換の時代。中国以外では、階級対立は大変先鋭化していて、労農大衆は日に日にその重要さを増している。それで自分を没落から救出してくれるのなら、彼らの中に向かうべきだ。いわんや「嗚呼!プチブルはもともと二つの魂を持っているのだから。…」ブルジョワ階級に入るのも、プロレタリア階級に行くも良い。
 この辺の事は、中国がまだ萌芽したばかりゆえ新奇に見えるが、「文学革命から革命文学」へという大テーマを取り上げねばならぬが、工業が発達し、貧富の格差の大きい国では通常のことだ。或いは将来の社会は労働者のものと見て、
走り出す:或いは強者に協力するより、むしろ弱者に手を差し伸べる方がよいと走り出す:または両方が錯綜した形で走り出す。またあるものは恐怖のあまり、または良心に迫られてとも言って良い。
成仿吾はプチブル根性をたたき直せと説教し、「大衆」をひっぱってきて、「給料」と「維持」の糧とせよといい、文章としてはそれで片付いたようだが、大きな問題を残した。
 「最終的な勝利の保障」が難しくても、君は行くかい?それが問題だ。
成仿吾に祝福されて今年出た「文化批判」誌の李初黎の文章にも及ばない。
プロレタリア階級文学を唱えるが、プロレタリアが自分で書くことはないし、
どんな出自であれ、いかなる環境でも唯「プロレタリア階級の意識で生み出された闘争文学」であれば、直截で爽快だ。但し彼は「趣味中心」の憎たらしい
「語絲派」の人名を見ると、屈折するようで、「甘人君、魯迅は第何階級の人間だい?」と訊いてくる。
 私の階級は成仿吾がすでに判定せる通り:「彼らが矜持するは『閑暇、閑暇、そして三つ目も閑暇』で:彼らは有閑ブルジョアを代表しており、或いは又
たらふく食べて惰眠をむさぼるプチブルを代表しているのだ。…。北京の烏煙
瘴気を十万両(両は重量単位)の無煙火薬を爆発させて蹴散らさなくても、彼らはきっと永遠にこのままだろう。」(成仿吾の魯迅への攻撃文)
 私を批判する者は、創造社の功績を描いて「否定の否定」で「大衆獲得」に
進むとき、夢に「十万両の無煙火薬」を見、私を「資産階級」と決めつける。
(というのも、「有閑」は「有銭」であるから)私は 大変な身の危険を感じ、
後に李初黎が「私は一人の作家が第一、第二、…第百、第千階級のどこの人間であれ、誰でもプロレタリア階級の文学運動に参加可能だが:まずは彼らの動機を審査せねばならぬ」という文章を見て、少し安心したが、心配なのは私に対して、やはり階級を問題にする点である。
 「有閑」は「有銭」で:もし「無銭」なら第四階級で、プロレタリア階級文学運動に参加可能だ。だが、それでも私は動機を問われるだろう。要するに、一番大事なことは「プロレタリア階級の階級意識を得ること」。今や「大衆獲得」だけで事足れりとはいかなくなった。いろいろ厄介な問題がまとわりつく。やはり李初黎には「芸術の武器から武器の芸術」に精を出してもらい、成仿吾には租界に住んでもらい「十万両の無煙火薬」をためさせ、私は元の通り、「趣味」
の話をするのが良かろう。
 あの成仿吾の「閑暇、閑暇、三つ目も閑暇」という歯ぎしりが私には面白く感じる。というのも、かつてある人が私の小説を「第一に冷静、第二に冷静、第三にも冷静」と批評したが、「冷静」は必ずしも褒め言葉ではないが、どうしたわけか、斧のようにこの革命的批評家の記憶中枢をたたき割ったようで、ここから閑暇も三回繰り返されたがが、もし四回なら「小説旧聞鈔」も書かなかっただろうし、二回だけなら、見た目は忙しそうで、多分「奥伏赫変(Aufheben
止揚、捨てるのドイツ語の創造派が造った音訳だが、なぜこんな書くのが面倒な字にしたのか解せぬが、第四階級にとっては、きっと原文より難しかろう)
惜しむらくは、三回ということだ。しかし以前決めたように「自己表現に努力」しない罪は、多分成仿吾の「否定の否定」とともに取り消すべきだろう。
 創造派の「革命の為の文学」は昔のように文学を必要と考え、文学は現在、
最も喫緊のもので、「芸術の武器から武器の芸術」へという。一旦「武器の芸術」が到来したならば、正しく「批判の武器から武器での批判」になった時と同じで、世界にも先例があり、「徘徊者は賛同者になり、反対者は徘徊者になろう」
 但し、すぐまた大きな問題が出てくる:なぜ今すぐ「武器の芸術」にならないのか?これもブルジョアの出してきた蘇秦の遊説にたいへん似ている。だが今「プロレタリアはまだブルジョアの意識解放前」にあり、この問題は必ず起こって来るはずだが、全てがブルジョアの撤兵は反攻の毒とも限らぬ。この
極め付き勇猛な主張は、同時に疑わしい萌芽をはらんでいる。その答えは以下の通りでしかない:
 あちらには正に「武器の芸術」があり、こちらはただ「芸術の武器」しか使えない。
 この芸術の武器は実際にはやむをえず使うものに過ぎぬし、無抵抗の幻影から脱出するとか、紙上の戦闘という新しい夢に堕してしまう。ただ革命的芸術家もこうして自分の勇気を維持できるし、ただそうすることしかできない。
もし彼の芸術を犠牲にし、理論を実現できても、それで革命的芸術家にはなれぬことが心配だ。そのため必然的にプロレタリア階級の陣営に入り、「武器の
鉄と火」の出現を待たねばならぬ。この出現に際し、同時に「武器的芸術」を
持ち出してくること。その時、鉄と火の革命家がすでに「閑暇」を持っていて、
彼らの自叙する勲功を静かに聞けるなら、同じ戦士になれる。最終的な勝利だ。だが、文芸はやはりそう判然とは批評できない。社会には多くの階層があり、先進国の史実もあり:目下の例では「文化批判」はUpton Sinclairを引っ張り出し、「創造月刊」もVigny(仏の詩人)を担いで「進め」と叫んでいるから。
 当時「不革命は反革命」とか、「革命が遅れたのは語絲派のせいだ」と言わず、
他人の家の掃除で半切れのパンにありつけるなら、私は8時間労働の後、暗い部屋で引き続き「小説旧聞鈔」を書く。また外国の文芸についても語りたい。そうすることが好きだから。畏れるのはただ成仿吾たちが本当にレーニンの様に、突如「大衆を獲得」し:そうなったら彼らはきっと跳んでも無く飛躍し、
私ですらも貴族か皇帝の階級に昇らされる。少なくとも北極圏へ流刑になるだろう。著書も翻訳も全て発禁されること、言うまでも無い。
 遠からず大時代は到来しよう。今創造派の革命文学家とプロレタリア階級作家は、やむなく「芸術的武器」を玩び、「武器の芸術」を持つ非革命武術家も
これをおもちゃのように玩ぶ。何種類かのニコニコ顔の雑誌はみなこれだ。
彼らは手の内の「武器の芸術」をあまり信じていない。それならこの最高の芸術、「武器の芸術」は今いったい誰の手にあるのか?
もしそれを探し出せれば、中国の直近の将来を知ることができるだろう。  
2月23日 上海。

訳者雑感:
 本編の翻訳には 通常の数倍のエネルギーを使った割には、成果が無いようで、タイプアップする際も、あれこれ迷いながらの苦悩が続いた。
1928年の時点で、今や大御所的な存在となった魯迅に対して前後左右からの
攻撃批判の十字砲火。それらにどう対抗するか。といっても彼らの言い分は酔っぱらいの目のようで、朦朧としており、定まりが無い。その原因は何かとつらつら考えてみるに、軍閥、国民党、更にはその向こうに見え隠れするプロレタリア革命の幻影。しかしプロレタリア階級は文学を作れるところまでには至っていない。読むという段階にも程遠い。この時点での文盲率はとても高い。
 魯迅は、このころは「有閑」階級とみなされていた。「小説旧聞鈔」を書いたり、外国の文芸について語りたい、そうすることが好きだから、と書いている。
文を書く人間が直接行動に出ることは望まない、文を書くことしかできないことを知っているから、とも書いている。
 彼が東京にいるころ、直接行動に出た多くの知人が処刑されているのを見ながら、自分ではその後を襲って直接行動には出なかった。それが何らかの影響を与えていることは否定できない。しかし彼は文を書くことで、その直接行動に出る人たちのことを社会に伝え,後世に伝えようとし、それが彼にできること、
そうすることが好きだと言っているのだ。彼が40年後の1968年に生きていたなら、同じようなことを言っただろう。
今から40年前の文化大革命の時にも同じような攻撃批判が、老舎をはじめ多くの作家、文芸家に浴びせられ、自殺に追い込まれたりした。日本で文人同士が血まみれになるほどの論戦を戦わすというようなことは無かったから、我々には想像もできないのだが、中国の伝統では、徹底的に相手を罵り葬りさる。
それが自己防衛の要であり、魯迅自身も「文を書くのは自分を守るため」であると述べている。
 毛沢東によって「中国の最も骨の堅い作家」として持ち上げられたから、あたかも「革命の先導者、(扇動)」的なイメージを与えられたようだが、彼はあくまでも「批判者」であり、「自分と自分の信ずるものを守るために文を書いた」
抵抗者であったと思う。
       2011/06/02訳 (菅内閣不信任議決の前に)

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香港の孔子聖誕祝賀

記者殿(編者):
 香港の文宣王大成至聖 孔夫子の聖誕祝賀は極めて盛大です。北では、東隣の日本が鼓吹しただけですが、当地では香港総督が率先し、実事求是で、教導もしっかりしています。僑胞たちもまた本国の至聖を崇拝し東方文明を守り、その光大さを発揚し、極めて盛んです。今年の聖誕は特ににぎやか。文人雅人も陶園に集まり、即席で揮毫し、国粋を示した。
各校もすべて聖礼を行い、各界からの参観を歓迎、夜には新劇を演じ、映画を上映、聖(教)興隆に協力した。超然学校(校名)は毎年聖誕祝いに、慣例通り新たな対聯を門に貼るが、今年のは特に出色です。謹んで内地の皆さまに示し、以て帝国主義者を打倒しようと念じます。

 乾(天) 男子校の門聯 
 本、魯の史(官)が「春秋」を作り、斉の田恒を罪し、地の義、天の経で、
賊と乱臣を打倒し、赤化宣伝を受けぬよう、父の仇を討って孝を行い、財産を共有し、妻を公有とするは(共産公妻)、綱紀常倫を破るもの也。
 三都を堕し、蔵せる甲(かぶと)を出し、少正卯を誅し、風行き雷歴し、
貪官と悪い役人を除き、青年を徳育訓練し、修身斉家、親を愛し、年長者を敬い、世道人心を挽回せん。

 坤(地) 女子校の門聯
 母は子に凭(より)貴く、妻は夫に藉(より)栄える。只今聖を祝う誠心は正に懍(おそれ従う)を遵守し、(父、夫、子に)三従す。口を開けば自由、閉じても自由というは、自由をはき違えている。潮流に趨附(附けば)水の性と成る。
 男は乾(天)に剛を稟(はか)り、女は坤(地)に順を占う。これ尊孔主義は決して四徳にたがわず、ややもすると有るとか無いとか言うが、至れば、言うところを知らず、社会に随って頭角を現す。

 埋せるも合と言い、セ(ま)せるも何と言い、なければ無しと言いう、蓋し
女子と小人は雅訓を知らぬゆえ、俗字を使うのみ。世論の類は、優れしもの多いが、今はただ「循環日報」に掲載されたもの一遍のみ採録し、概況を示す:

    孔誕祝聖の言葉に感あり    佩蘅  
 金風爽気を送り、涼露秋に驚く。今また孔誕の時にあたる。近来聖教衰え、
邪説はびこり、礼孔の挙、ただ香港の人、猶あい奉じるも、内地の多くの人は気にもせぬ。蓋し、新法が出てから、昔の道徳、日に日に淪亡(りんぼう)。新人物が出てから、古くからの聖賢はすべて淘汰。一般学生はレーニン:マルクスの類の謬説を崇め、二千年来、太陽・星の如く輝けし聖教をなんとも思わない。それどころか攻撃して滅ぼそうとする。その相手を謗ること、腐れりとか老朽せりという。事実そうであれば若曹少は事を更めず。粗忽で支離滅裂、彼の新学説で私利を図ろうとし、古人の大義微言は、肉にささった刺の如く、眼中の釘の如し。これを除去すれば後は快適になる。今孔子が打倒される列に立たされたとき、孔誕にあたり何を言うべきや。嗚呼。今後もこのようでは、人道も禽獣以下になる。幸い海隅のこの地にて古風はまだ消えず。礼教はなお存す。この祝聖のとき、みなで協力して盛大に祝う。もちろん吾人の祝聖
は、形式的な記念とはいえ、なお孔教の精神を重んず。孔教は倫理を重んじ、実行を重んず。所謂斉家治国平天下は近くから遠くへ及ぶ。内から外へ、皆
守るべき軌道を持ち、天は不変、道も不変。強靭なノミのような理由を得てからは、暴民が騒いで聖教をつぶそうとしても、浮雲の翳り。日月の明を傷つけられようか。吾人が愚昧で世道も衰え、今を傷み昔を思う。まずは大義を発し、羽翼を微言す。孟子の言うように、楊墨を遠ざけることができるのは聖人の徒なり。今世に生き、群言混淆し、異説争鳴。人の陰口は恐ろしいもの。非も積もれば是となる。聖教にとっては難物となる。ただ楊墨に対しても詞を尊び、
これを避す。吾道のために干城となす。中流の砥柱とし張皇の耳目の如し。
涂飾儀文、以て敷衍を心とす。例行の挙をなせ。吾は祝聖の諸公を所望するにあらず、感ありてこれを以上の如く書すなり。

 その広告に言う:
 孔子の聖節を祝し、楽奏天に鈞(きんず:捧げる)。聖教を群人に彰す。
大地を歓び騰らせる、我国数千年来、孔教を崇奉し、誠は以て聖道が風化を
維持し、人心を挽救す。本会は今月27日大堯天班を演ず。当日「加官大送子」
「游龍戯鳳」を演じ、夜通しで「六国大封相」と「風流皇后」新劇を演ず。
「風流皇后」は物語の展開も斬新で、プロットも巧妙、ただこの劇は夜通しやらねばならぬので、本晩、香港政府の特別許可を得て上演する。チケットは荷李活道の中華書院孔聖会事務所にて販売する。
    丁卯年8月24日。 香港孔聖会 謹啓。

「風流皇后」という名は風雅に欠けるが「子,南子に見ゆ」は「論語」を諱せず。ただこれ「海隅の地、古風はいまだ消えぬ」もののみこの意味を知られん。
余は各種映画のごとく、復美収めるに暇あらず、新戯院は「済公伝」四集を演じ、予告者は「斉天大聖大閙天宮」、新世界は「武松嫂を殺す」などあり、全て
国粋、国光を発揚するに十分。皇后戯院の「仮面新娘(花嫁)」は隣邦の作品だが、その広告に:孔子有言、「始め、吾の人におけるや、その言を聞き、その行いを信ず。今、吾の人におけるや、その言を聞き、その行を観て、予において
ともに是に改める」という。
 君、今日「仮面新娘」を見て、孔子の言を証されたく。然る後、聖人の一言は天下の法であり、万世師表たるに恥じぬことを知る。
 さすれば、もとより聖教に裨益す。
 おお!筏に乗り海に浮かぶ。かつて至誠の微言は正を崇め、邪を避ける。幸い大英の徳政あり。愛国好古の士よ、必ず手を額にし遥かに慶すべし。一寓を得て、居民となれぬのが惜しい。
 もっぱら茲に布達し頌す(ほめたたえる)。輯祺。
      聖誕の一日後、華約瑟 謹啓。

訳者雑感:
 最近の中華文化圏では「聖誕」は主にクリスマスを指す。これを訳して初めて知ったのだが、1920年代には孔子の誕生を指していたようだ。この文章は
聖誕節の翌日に雑誌の投稿欄に寄せたものという体裁をとっている。
 西洋のクリスマスイブでも(敬虔なクリスチャンは別として)戦後の日本でも、クリスマスパーティというのは、三角帽子をかぶってキャバレーでどんちゃん騒ぎをすることが流行した。
 大英帝国の徳政下の香港では、政庁の特別許可を得て、夜通しで「演劇」が
孔子の生誕を祝って「奉納」されたもののようだ。
 魯迅の作品「奉納劇」(原題は「社戯」で従来の翻訳名は「宮芝居」など)でも、彼の故郷の各地にある神を祭る社(やしろ)の大祭に、川を挟んだ対岸に
常設の立派な「神楽殿」のような舞台で朝から一日中、出し物が演じられ、最後に夜通し演じられる「通し狂言」が呼び物となる。それが「風流皇后」とか
「仮面新娘」だというのは、大成至誠、と冠をかぶされた「孔夫子」の誕生祝いの大祭に催される。そのチケットを孔聖会の事務所で販売するとは!
 日本の神社での大祭に「能狂言」が奉納されるのは、神社信仰を形而上的に
というか、目に見える形で庶民に広めるものだが、あれほど礼教、聖教といいながら、出し物はなんとも下世話な演劇で、ほれたはれたの愛憎劇。それを
大祭の「客寄せパンダ」にしてまた「奉加金」をも頂戴する。なんと俗物的なことかと、あいた口がふさがらないが、これが衰退の一途をたどる「聖教」の
堕落せる一面だと、魯迅は 「変名」を使って投稿したもののようだ。
     2011/05/25訳

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広告二編

昨日また二種の奇特な広告を見る幸運に遭ったので紹介する。句読点は私がつけ、目鼻立ちをつけた。何と呼ぼうか。二日二晩考えたが妙案なし。とりあえず「某筆」とし博雅の君子の教正を待つ。今回の「動機」は比較的純正で「いっしょに楽しもう」以外に目的は無い。だが、少し妄想が生まれた。前朝の清朝のころ、かつて各新聞の社説から比較的良いものを選び「選報」と呼んだ。
今好事の徒がおれば、この種の刊行物を出せるのではないかと思った。各省に通信員を数人置き、各地の新聞の奇特な論説、記事、文芸、広告などを集め、合冊して世に問うべし。さすれば各種の「社会相」が明らかになり、旅行記などより真に迫ること間違いない。CF男士(小峰編集者の意)いかがですか?
           1927年9月22日 昼食前に。

其の一。
 熊仲卿、(科挙合格版での)榜名 文蔚。民国の県長、所長、処長、局長、庁長を歴任。儒者で顕官、良医兼務。婦人科専門。本港競馬場黄泥涌道55号、1階。漢方医 熊寓。
毎日午後診察および往診。電話総局5270
     (9月21日「循環日報」)

謹んで案じるに:私が聞いたところでは、これまで世医と称し、代々医を本業とし:また儒者とも称し、八股を作り、また官医と称し、官家に雇われてきた:
御医とも称しかつて宮廷医の道も通った。もしそれで「県長、所長、処長、局長、庁長を歴任して儒に通じた顕官でかつ良医も兼ねるのは古今極めて稀なり。
しこうして、五つの長をすべて歴任せるとはとても大変なことだ。
 (訳者注:大陸の方ではまだ少ないが、香港、台湾などの実業家や芸術家に紹介されると、とても肩書の多いのにびっくりする。一枚の名刺には書き込めないので、2枚折りの名刺にびっしりと会長、総裁、高級経済士、理事長、など
が並んだ上に、経営している各地の会社名とその役職が並ぶ、大抵は総裁、社長などだ。更には出身大学の学部名と終了単位の博士、学士などまである。)

其の二。
 養父母求む。
 余は中等教育を受け、品行端正、酒タバコのまぬ。不幸にも実の父母相継いで死去し、余ひとり財を受け、広州に来て就学中。孤児となり非常な寂寞を覚え、人の子とならんと願う。家産を傾け、四方の人事に従い、子無き人に従うことを願う。 相応の家庭で子を欲する人(家庭状況、経済的地位など併せ)連絡願いたく。通信先も明記してください。私の方から、面談予定など返信します。読者諸君で、紹介してくれる人は、成功すれば百金進呈。不成功でもお礼します。   申一○六
 連絡先:広東省立第一中学校 余希成具
  (同日の広州「民国日報」)
 
謹んで案じる:吾輩は軽薄な世に生まれ「伴侶求む」などの広告は何の驚きも奇異にも感じぬ。昔、茅泮林の「古孝子伝」で読んで、三人の男が父母を失くし、見ず識らずの老婆を母として迎えたことにはすこぶる奇な感じを持った。
しかし当時は孝廉方正が(科挙の)科目で官になれたから、別の目的もあるとも疑えた。この広告は家産を手挟んで親を求め、百金を出して推薦を待つ由。
吟誦の余韻、人心が淳古に復古せしと喜ばずにおらりょうか。これを公に示し、以て世道に心を留めるものに告げ、父母を殴打する者に勧告する。特に、読者諸君の中で、誰か子を欲する者のあるや否やを知らぬか。知っていたなら紹介すれば、たとえうまくゆかなくとも、「感謝」はされる。

訳者雑感:
 其の一は、長年にわたる科挙の影響か、自己宣伝的な「肩書」の大仰さへ揶揄。これは実に大変なもので、宴席はもちろんのこと、会議の席順、式典での並び方など決める際に、中国人からいつも聞かれるのだが、日本から参加の
AさんとBさん。どちらの肩書が上か下か?3万人の会社の部長と、3人しかいない会社の社長をどう座らせるか?年齢なども多少は加味されるが、これまでの経験では、社長が上に来ることが多かった。アフリカの小国の大統領は、日本の副大臣より絶対上なのである。
 其の二は、こんな見え見えの広告を出すのは「ペテン」に違いない、と思いながらも、やはり百金欲しさに紹介するものが出てきて、今でいえばお金持ちで子供のいない老人から財産をかすめとる輩だろう。それが広東省立第一中学校の学生の名をカタルのは、なんとも「なんでもありだが、見え見え」の手口を、臆面も無く使うという「古典芸能的」手法で、これがまた日本でも同様だが、一番効果があるようだ。音楽に古典があるように、ペテンにもそれがある。
     2011/05/20訳

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脅迫状 三篇

近頃「正人君子」は動機から話しを始めるのが好きらしい。この三篇を紹介するのは、動機から言うと、ふまじめかもしれぬ。が旅費も尽き、食いつながねばならぬからやむを得ぬ。ご存じの通り私は8月中に広州を離れる予定だ。それが7月末に所謂「学者」先生から手紙が来て、私の文章が彼を傷つけた由。「9月に広州に戻ったら起訴するから、法の判決を待て」という。従って「暫く広州を離れるな。開廷を待て」と。被告に命令して、異地で空腹を抱えて、恭しく待てといい、自分はゆっくりと陣を構え、裁判しようとは誠にとんでも無い。翌日偶々、新聞で飛天虎という男の亜妙への手紙に「防御力のある匕首」の話があり、なぜか忽然、うれしくて独り笑ってしまった。他の二編とともに紹介する。こうした類の悶着には、つかずはなれずとの考えは、我ながらいささか刻薄にも感じるが、こうしておこう。「開廷」時には結論がでるだろうゆえ。
思うに、この種の文章の値打ちは文人学者の名文に劣るとも言えない。
以前集めたら5-6篇あり、後に北京の「平民週刊」に、モデル監獄の囚人の
自序を発表したことがある。その後どうなったかは、北京を離れたので知らぬ。
しかし又集めたいと思っている。大げさに言えば、この種の文章が学術的に、使われたことは無い:Lonbrosoの「天才と狂人」――今手元に無いので題は
間違っているかもしれぬが――の後ろの方に大勢の狂人の作品があったと記憶する。だが、これにはそんなたいそうな表題は使えない。
 今回下記の三篇を紹介する。三つとも香港の「循環日報」から引用。韻文ではないので、阮氏の「文筆対」の説からとって、これを「筆」と名付ける。(原題は「匪筆三篇」ごろつきの筆の意)好事家がこうした材料を送ってくれるのを歓迎する。今後は、韻の有無を問わず、範囲を広げ、土匪、ゆすり、たかり、犯罪者、狂人などの創作も収める予定だが、文人の潤色したのやマネ、贋作は取らない。
 古くは(秦末の)陳渉の帛布(宣伝ビラ)や五斗米道の題字の如く、また最近でも義和団のビラ、(道教の)同善社の占い文など、みなこれと同じだ。凡そ、古書にあるものも、すべて集め、現在のものと対比してみれば、考え方や
手口はみな同じだと分かる。
 寄稿者は北新書局に送ってもらい、佳作を発表したいが、私が「以後開廷」とか獄に繋がれなければの話だ。さもなくば、私自身のもネタになるから、他から集める必要もなくなろうが。
閑話休題、本題に入る。
1.
 「誘拐人質殺害の布告」    潘平
 広州仏山缸瓦欄維の新埠頭でボロ舟一艘発見。中に水に漬かってコモをかぶされた死体があり、手足を出し、傍らに粗末な碗ひとつ。白旗に銘記して云々。
六区水上警察によれば、この死体と舟は西医院の近くに運んだ。調査の結果、死体の首に穴があり、鼻まで貫通しており、生前に銃殺されたものとみられる。
死者は30歳位で、短パンツ角刈り。
 南海(県)紫洞の潘平 布告
 布告のこと:
 昨4月26日、禄歩で郷人十数名を拉致し一カ月ほど人質とするので、受け出すよう望む。ここに禄歩筝洞沙郷に、姓は許、名は進洪なるものを銃殺して衆に示し、以てその他のものに警告す。四方の君子各位に特に周知せしむ。財は命に如かず、と。茲に布告す。 (7月13日「循環報」)

2.
 某信女へ      金吊桶
 広西梧州洞天ホテル占い師金吊桶、本名黄卓生、新会県人、先日陳社恩、黄心、黄作梁夫妻から銀銭と手形をだまし取り、警備司令部に逮捕さる。一通の封書の中に白紙の便せん一枚あり、火にあぶると以下の文字が出てきた:
 民国16年5月29日、呂純陽先師が降下され、汝信女は広西人であることが分かった。汝は、人となり心は善良、清潔であり、本日上玉皇が巨財4,500両の銀を汝に賜るゆえ、汝はその福を享受し子女を養育せよ。但しこの財は8回
に分けるゆえ、今年7月末に白鴿票にて750元ほど賜る。老いては子に恵まれ、
三男は役人となり出世する。但し汝は終身大三房で、妾伴をなし、正位に就くことはできぬ。今生の運は極めてよい。汝前世は白虎五鬼天狗星を犯せしにより、巨財を更に旺盛にせんと欲するなら、六元六毛を金吊桶先生に差しだして、
汝に代わって解除してもらえば、平安無事なり。もし解除のことを信じなければ、汝の運は元も子もなくなろう。子が生まれても死産。夫も死夫となろう。
これを見て先生にお願いして、この凶星を解いてもらうとよい。財を得たい、夫の為に福を願い、夫権者を得たいなら、先生にお願いして礼を行ってもらうがいい。陰陽交合を一二回して初めて平安を得ることができよう。先生に従順に従わねば、汝の運も希望が失せ、安楽も失せよう。…(7月26日「循環報」)
3.
 妙嫦への詰問状   飛天虎
 香港永楽街のカフェの女給、妙嫦、年齢双十、永吉街30号2階に寓す。7月29日夜11時ごろ、仕事を終え同僚の女給3数名で帰宅途中、永吉街口で大きな男たち3-4人が道を遮り、おまえが妙玲か?と詰問されたが、嫦は相手にせず、避けて去ろうとしたが、男たちはそれを阻止し凶暴にも殴りかけ、2回殴った後曰く:答えなくても面は割れてるんだ!嫦は殴られて泣き続けた。帰宅後、男たちが殴ったのは妙玲だと思っていると考え、無辜に侮辱されたと自らを怨んだが、なんと翌朝また脅迫状が来て、住所を調べて郵便局から出したもので、昨夜殴られたのは確かに自分をさがし出したのだと知り、このことを探偵に頼み、容疑者を告げ、捕えてもらって怨みを晴らそうとした。
(脅迫状)
  女給の妙玲、見てろよ! 前略:カフェ如意で、うまい言葉で我が兄弟を騙して侮り、熱湯を陸の兄弟にかけ、霊端相勧めたが相手にせず、続と勝負し、口汚くののしるなど、とんでもない奴だ。昨夜この二人を殴ったが、意にも介さず、気にもしない。一週間以内に返答し、適切な策を講じないと、朝晩の外出時には、護身用の匕首を持たないと、命の保証はでき兼ねぬ。これは脅しではない、死の危険が身に迫っているぞ。これ以上は言わぬ。なかなか全ては言い尽くしがたいが、最後に、警察へ垂れこむのは一番危険だぞ。
七月一日夜、三十六の友、飛天虎より。    (8月1日「循環報」)

訳者雑感:
 顧教授から「9月に起訴するから、広州から離れるな」という書留を受け取り
絶倒せんばかりに驚いた魯迅は、脅迫状のように感じたようだ。
そんな折、香港の新聞の脅迫状的記事が目に付いた。しかも三篇も。第一編は十数人を誘拐し、身代金を要求したが、払ってこないのにしびれをきらした誘拐団が、見せしめに一人を殺して、舟の上にコモをかぶせ、それに「脅迫状」を付け、財は命には如かず、と身代金を早く払えと要求したもの。
 昨年の8月12日のブログに載せた、「天津のコンプラドール」で親しくなった、梁さんの長兄は、この記事と同じ時代に、やはり身代金要求の誘拐に遭い、大金を工面して払ったが、暫くして送り返されて来たのは遺体であった。
1920―30年代の中国でいかに身代金誘拐が猖獗をきわめたか分かる。
戦後しばらく、日本でも幼児誘拐が頻発したのは乱世の為で、それが無くなったのはありがたいことではあるが、北朝鮮の拉致というのも、考えてみれば、映画「天国と地獄」のような誘拐事件が頻発する時代に、北の工作員が連れ去ったもので、許しがたいことだが、北の言い分は、戦前日本は(軍と企業が)
大変な数の朝鮮人を無断で拉致して連れ去ったと反論している。
 アルカポネの時代のアメリカ シカゴでも同様であった。多くのアメリカ人が誘拐されて「売り飛ばされた」。その中でも西海岸で酔わされた挙句、中国向けの船に乗せられたのを英語でShanghaied というそうだ。
上海で暴力団に売り飛ばし、暴力団はそれを転売して稼いだ由。
 リビヤでは今でもアフリカ中央部辺りから少年をかっさらって来て、政府軍の前衛として消耗品のように酷使している映像を目にする。
 戦乱と混乱の社会では「誘拐」が金もうけの手段としてヤクザの飯のタネになる。アメリカが北やリビヤを悪の枢軸と呼んだのは訳のあることだ。

話は第二編に移るが、訳者が遼寧省の名勝歩雲峡を訪れた際、観光会社の手配でやむを得ず、「遼南の名刹」なる寺に連れてゆかれ、目をつぶったまま、まっすぐ十数歩進んで、壁に刻まれた佛の字に触れる儀式に参加させられた。会社からの社員旅行のため、全員参加したわけだが、佛の字のどこに触れたかがその人の運勢を占うカギだというのがうたい文句。私はあいにく外れたのだが、
寺男に手をひかれて、中のお堂に連れてゆかれ、白い布で仕切られた部屋に入って、髪を伸ばした、見るからにニセ坊主と思われる占い師の前に座らされた。彼はなにやら中国語でしゃべりだし、大福帳のような横長の冊子を広げて、私に姓名と生年月日を書けと促した。それを書くと、さらにぶつぶつ言いだして、その大福帳のページを繰りながら、右の欄に 三百元、五百元などと金額を書いた所を指さして、私の将来を占ったところ、このお寺に三百元寄進すれば、きっと運が良くなる云々というような話を始めた。さもないと大変な問題に巻き込まれるぞよ、と脅迫する。
 私は経験の為と思ってもっともらしく聞いていたが、最後は馬鹿らしくなって、私は日本人で貴方の言うことが良く分からない、と片言の中国語で答えて、白い布をめくって外にでた。中国人の社員も中には旅行会社がこんな手配をしたのに憤慨しているものもいたが、一部にはこれも余興として、結構楽しみながら、佛手の中心に触れるよう真剣になっているものもいたことからすると、こんな商売がなりたっているのも素地があるからこそ、面白いことと思った。
 我々のバスが去ると次のバスが順番待ちでもしていたかのように入ってきた。
     2011/05/18訳

 

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顧頡剛教授の「開廷まで待機」令を辞す。

   来信:
 魯迅先生
 茲に書留一通を、ご住所を存じ上げないため、中山大学気付で送りましたが、未着の恐れあり、特に御尊寓をさがし、別途写しをお届けします。
                    頡剛啓上 十六、七、二十四。
 写し
 魯迅先生:
 頡剛はいったい何事によって先生に怨みを買うことになったか心当たりは全くありませんが、私に対してかくも強烈な攻撃された理由をお聞かせくだされたく、どうぞよろしくお願いします。
 前日、漢口「中央日報副刊」に先生と謝玉生先生との通信で先生らが、頡剛に反対した理由を初めて知りました。けだし党と国の大義を広めんとするに、
頡剛の成した罪悪は天地相容れざるものとは、おそれおののくばかりです。
いずれが黒か白か、筆墨口舌でそれを明らかにするのは難しいと思いますので、
9月中に広州に戻ってから、訴訟を起こし法的解決に委ねたく。頡剛に反革命の
ことありとせば、死刑も甘んじましょう。そうでなければ、先生らは発言の責めを負わねばなりません。先生と謝先生には、暫く広州から離れず、開廷をお待ちくだされたく。
 安らかにおすごしください。謝先生にもよろしくお伝えください。
   中華民国十六年七月二十四日

 返信
 頡剛先生:
 来信拝受。絶倒せんばかりの驚き。先生は杭州で、私が8月中に広州を離れねばならぬ事情をお聞きのことと存じます。居残って妙計を図るのは困難です。
命令に従うとなると、私は空の嚢をもって、部屋を借り、米を買うという貧乏暮らしをしながら、いつまでも訴訟の開廷を待つほかなし。命令に従わなければ、先生は私が罪を畏れて逃げたのだとおっしゃるでしょう:
 況や、例によって一が十、十が百になって伝わりましょう。しかし私は早くから決定ずみで、8月中はここにいますが、9月には上海です。江浙はともに
党国の治下ですから、法律も広州と同じゆえ、先生がまだ実行していないなら、判決を待つまでもなく、即刻近くの浙江で起訴するに如かずです。
その際、私は必ず杭州に参り、負うべき責めを負います。本を質に入れ、ズボンを売って、この生活費の高い広州で一月余以降に或いは将来起こされる訴訟を待つなど、世の中そんな馬鹿なことはありません!
「中央日報副刊」は見ていません:謝君への伝達は辞します。あしからず。
この種のちっぽけな傀儡は、なるべきでもなし、ならないでおくのみ。他に秘策はありません。 まずはお返事のみ。 安らかに! 魯迅

訳者雑感:
 出版社注に、27年5月11日の「中央日報」副刊に「魯迅先生広東中大から離脱」と題して、魯迅と謝との手紙を引用し、(中略)去年アモイ大学で、デマを飛ばして、魯迅を侮蔑した頡剛が、… 突然中大の教授として広州に来た。
魯迅はその手紙の中で「アモイであれほど民党に反対し、兼士を憤慨させた
顧頡剛が、ここにきて教授になるとは思いもよらなかった。そうならここの状況もアモイ大学と同じになるのを免れぬ。… 或いはアモイ大学よりひどくなるおそれがある。私はすでに先週木曜に一切の職務を辞し、中大を離脱した」
と解説する。
 林語堂にもそむき、反対派のボスの謀臣となって魯迅や彼を支持する学生たちを退学させた彼が、またぞろ広州の同じ大学に教授としてやってくることから、この騒ぎとなった。
 私も翻訳するほど愛読した顧氏の「中国史学入門」と、かれの「古史弁自序」
ならびに戦前から彼をよく知る平岡氏の著書などから受ける彼の性格からして、
どういうボタンの掛け違いが、魯迅と訴訟沙汰を起こすまでになろうとしたのか、漢族の文人のあらがい、相軽んずというのを理解するのは実に難しい。
 戦後、毛沢東の新中国で、顧頡剛もそして北京時代に魯迅が徹底抗戦した章士釗も政府の高位高官として活躍している。最近香港の鳳凰テレビで、建国まもないころ、毛と会食している章の写真を見る機会があった。
 共産党には所謂彼らのような学識経験者が少なかったから、彼らを取り込もうとする野心があったにせよ、民国の高官を務めた人間が、それも文化的な素養も深く、教育大臣などを歴任しながら、蒋介石さんさようなら、毛沢東さん
こんにちは、となるのだ。胡適とか林語堂などは筋を通した形だが、魯迅の弟
周作人は、日本にも協力したかどで漢奸とされながら新中国に残った。
魯迅が36年に亡くならず、49年の建国を見、68年の文化大革命を見たら、
どんな雑文を残しただろうか。徹底的にあらがって、監獄に入れられるかしただろう。毛沢東は「中国で最も骨のある」と持ち上げたのだが、かれはなんと言ったであろうか。
      2011/05/11訳



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鐘楼にて 夜記の2

 アモイにいたころ、柏生(君)が広州から来て、L君も広州にいると聞いた。
きっと新たな活路をさがすためで、長い手紙をK委員に出し、当人の過去と将来の志望をルル説明した由。
「このL君という人物を知っているかい?長い手紙を寄こしたがまだ読みきれてない。しかし文学家ぶって、こんな長い手紙を書くのはまさに反革命だ」とK委員は彼に言ったそうだ。
 それである日Lにそう告げたらLは飛び上がらんばかりに驚き、「なんで?
…なんで私が反革命だというの?」と言った由。
 アモイは温暖な秋も深まり、山には野生ザクロの花が咲き、名も知らぬ黄色い花が階下に咲いていた。花崗岩の壁に囲まれた楼屋で、こんな話を聞いて、
K委員の眉をしかめた顔とLの活発だけど少し沈鬱な若者の顔が一緒に目の前に現れ、K委員の眉をしかめた顔の前で、Lが飛び上るのが見えたように感じ、――窓の隙間から遠方を望んで失笑してしまった。
 同時にソ連の有名な詩人で「十二個」の作者、ブロークの言葉を思い出した。
「共産党は詩作を妨害はしないが、自分が大作家だと思うことについては妨害となる。大作家というものは自分がすべての創作の核心だと考え、自分の中に規律を保っているからである」
 共産党と詩、革命と長い手紙はこのように相いれないものなのか?と思う。
これはその時感じたことで、今はまたこう考えているので、ここで次のような声明を出す必要があると思う:
 変革と文芸は相いれないものだと言っただけで、当時の広州政府が共産政府或いは委員が共産党だと暗示したわけではない。その辺の事情は何も知らぬ。
ただすでに「処分」された人たちは今までに冤罪だと訴えたりしないし、死んだ人の亡霊が何か言ったということも聞かないから、本当の共産党だと思う。一部の人はいっとき相手からそういう名で呼ばれたが、互いに会って酒を酌み交わして話し合ったら、それまでは誤解していて、実は協力し合えることが分かったのである。
 以上で声明は終わり、安心して本題に入る。
 L君は暫く後手紙をくれ、仕事が見つかった由。手紙は長文ではなく多分「反革命」と言われたことに懲りたためだろう。
だが、グチをこぼし:一、飯櫃のそばに座らされ退屈だ:二、オルガンを弾いていたら知らない女性がお菓子をくれたので、うれしくて興奮した。北の女性はあいそがないが、南の女性は大変活発で、とても感慨深いものがある。
 第一点について、秋の蚊の攻撃の下で書いた返事には答えなかった。そもそも飯櫃が無くて無聊でつらいのは人の常で、今飯櫃を得てもなお無聊なのは、明らかに革命熱のせいだ。正直、遠くで知らぬ人たちが革命をしているということは聞いてうれしい。だが、しかたない、本心を白状するが、身辺で革命が起こり、良く知っている人が革命に参加すると聞いたら、喜んではいられない。私に命がけで革命に馳せ参じるべきだという人がいる。もちろんそうは思わないとは反論できない。しかし静かに座って缶入りミルクを飲ませてくれるなら、その方がよほどうれしい。ただ、お前は何も心配せず、飯をよそって食っておれ、と言われたら、まったくさまにならぬが:しかし彼に飯櫃を去って、命をかけてやってみろとは言えない。L君は私の良く知っている友達だから。それで、仙人伝来の古い方法で、オシかツンボになって聞いても聞こえないふりにしておくのだ。第2点については猛烈な教戒を加え、そもそもあいそなしと活発はどちらも賛成できない。即ちそれは、女性はしずかにおとなしくしているべきだと言うのに等しく、それは絶対間違っている、と。
 そのひと月余後、私はLと同じ夢を抱いて広州に来た。飯櫃の傍らに座ったとき、彼はもうそこにはおらず、私の手紙は受け取らなかったかもしれない。
 私の住まいは中山大学の真ん中の一番高いところ、通称「大鐘楼」という。
一月後、半切りスイカのような帽子をかぶった秘書の言うには、ここは一番優遇された場所の由。「主任」級でないと住めない所だ、と。しかし私が越した後、
事務員が代わって入居したと聞き、おかしな気がした。私が住んでいたころは、
主任級でないと入れない所で、事務員が入居するまで、私は常に感激し、申し訳ないほどに思っていたから。
 この優遇室はなかなか住みづらい所で、欠点は眠れないこと。夜には十数匹、多分二十匹くらい、数えきれぬほどネズミが出、書棚を徘徊し何もお構いなしに、かじれるものは何でもかじる。ふたを開けることもでき、広州中山大学の
主任級でないと住めない楼上のネズミは特に賢くて、他の場所では見たこともないものだった。朝になると「工友(小使い)」たちが大声を張り上げて、
知らない歌を歌う。
 日中にやってくる本省の青年は非常に好意的で、数名は改革に熱心で、広州の欠点について私が強く批判するように要請した。この熱い誠意に感動したが、
当地の情勢をよくは知らず、すでに革命も成り、特に批判するところも無いと辞退した。そしたら彼らは大変失望し、数日後に尸一君が「新時代」に:
 『… 我々の内の何名かは彼の言葉通りには受け取らない。我々には罵るべき点はまだまだ多く、自分自身で罵ろうと思っているほどだから、まさか魯迅
先生が我々の欠点を見いだせないとは?… 』
 実のところ、私の返事の半分は本当である。私が広州のことをもっと知りたい、批評したいと思わないことがあろうか。いかんせん、大鐘楼に住まわされ、
工友たちは私を教授と思い、学生たちは私を教師と考え、広州人は「よそ者」
とし孤立させられ、余計者扱いされてしまい、広州のことを知りようもない。最大の障害は言葉だ。広州を離れるまでに覚えたのは、1234の数以外は只一言、「よそ者」とどういうわけか覚えたHanbaran(全部)と異郷の地で一番簡単に覚える罵りのTiu-na-maのみ。
 この2つは時に役だった。あれはすでに白雲路に越した時だったが、ある日
警官が電球泥棒を捕えたら、管理人の陳さんも一緒になって罵り殴っていた。
さんざん罵ったが、この2つしか分からなかった。しかし全て分かったような
気がした。「彼が言っているのはきっと、屋外の電球はほとんど全て(Hanbaran)
奴が盗んだのだから、Tiu-na-maしなきゃならん」と。それで一件落着、すぐ
部屋に戻り、「唐宋伝奇集」の編集に戻った。
 本当にそうだったのかは分からない。一人で推測している分には構わぬが、これで以て広州を論じるのは軽率のそしりを免れぬ。
 しかしこの2言とはいえ、わが師太炎先生の間違いを発見した。先生が日本にいたころ、我々に文字学を講じられ、「山海経」の「其州在尾上」の「州」は
女性の生殖器だと説明された。この古語は今でも広東に残っていて、Tiuと発音する。従ってTiuheiとは「州戯」と書くが、名詞が前、動詞が後に来る、と。
彼がこの説を「新方言」に入れたかどうか覚えていないが、今にして思えば、
「州」は動詞で、名詞ではないことが分かる。
 何も批判攻撃する点はないという話は、確かにウソだ。実のところ、当時広州に対して愛憎も無いし、従って喜んだり悲しんだりすることも、褒貶もない。
夢を抱いてやってきて、実際に来てみたら、すぐ夢から放逐され、残ったのは
只索漠のみ。広州はやはり中国の一部にすぎぬと分かったし、珍しい花や果物、
特殊な言葉は遊子の耳目を乱すが、実際は私がこれまで通ってきた他の所となんら変わらなかった。中国をそれぞれのことなった人間社会ごとに図柄として画いてみると、各省の図柄は実際みな同じで、ただ使う色が異なるのみだ。
黄河以北の数省は黄色と灰色で、江浙は淡墨と淡緑、アモイは淡紅と灰色、
広州は深緑と濃紅。当時まだあまり出歩いていなかったので、特に罵詈も耳にせず、もっぱら素馨(そけい:ジャスミンの一種)とバナナに目が行っていた。
これも後になってからの追憶の感覚で、その頃はそれほどはっきりとは感じていなかった。
 その後少し変化して、大胆に悪口を言い始めた。だがそれが何の役に立ったか?ある所で講演したとき、広州の人民は力が無いと言った。それゆえここが
「革命の策源地」になれたが、又「反革命の策源地」にもなり…、と。広東語に訳されたとき、この部分は削られたと感じた。また別の所に文を出したとき、
青天白日旗は遠くで立てれば立てるほど、信徒は増えると書いた。だがそれは大乗仏教と同じで、(在家)居士でも仏弟子に数えられる時まで待っていると、
往往、戒律もすっかり骨抜きになり、それが仏教の普及なのか堕落なのかは
分からない、…しかしそれも印刷されず、行方不明となった。
 広東の花と果物は「よそ者」にはもちろん珍奇に見え、一番好きなのは「楊桃」
(ゴレンシ)でつるっとした食感とパリっとして、酸っぱくて甘いが、缶詰にすると元の味を失ってしまう。スワトウのはやや大きめで「三廉」というが、
食には適さぬ。楊桃のうまさをよく宣伝したが、食べた人は大抵賛成してくれ、
この一年で最も卓越した成績だった。
 鐘楼の2ヶ月目に、「教務主任」という紙の冠を戴いた時は多忙になった。学校の大事は他所と同じく追試と授業で。まず打ち合わせ会議で時間表を作成。
通告を出し、試験問題を厳重保管し、答案用紙を配布、…また会議、討論、
採点、成績発表など。用務員は午後5時以降は仕事をしない規則で、事務員が門衛の助けを借り、夜遅くまでかけて、一丈余の長い発表用紙を張る。
だが翌朝にはすぐ破られるので、又書く。それから弁論となり:点数の多寡:合格不合格:教員の私心の有無:革命青年優遇策をどうするか、私はすでに優遇していると言うと、まだまだという反論:落第者の救いあげは、私にはその権限はないというと、人はあると言う。方法が無いというと、人はあるという:問題の難易度は難しくないと言うと、人は難しすぎると:果ては親族が台湾にいるから本人も台湾人とみなし、被圧迫民族の優遇措置を得られるか否か:更には人間はもとは無名だったのだから、名前をかたった替え玉も可也というような玄学的弁論…。
 かくして日一日がすぎゆき、毎晩十数匹― 二十匹のネズミが走り回り、朝は3人の用務員の大きな歌声。
 今、当時の弁論を思い出すと、限りある命をなんと無駄に玩んでいたことよ、と思う。当時は怨みも憂いも無かったが、一つのことだけが大きく変わった:
長文の手紙がくると、だんだん仇敵視しだしたのだ。
 そうした手紙は多かったけれどなんとも思わなかった。しかしこの頃、長いのが嫌になり、一枚読んで何が言いたいのか分からぬと面倒になった。
親しい人がそばにいると代わりに読んでもらって、主旨を教えてもらった。
 確かに長い手紙は反革命だ!と思った。当時K委員のように眉をしかめていたかどうか鏡を見てないから知らぬ。覚えているのは会議と弁論の生涯は「革命をやっている」とはとても言えたものではないと自覚し、自分の為に、前の判決を修正し:
 「いや“反革命”は重すぎる。“不革命”と呼ぶべし」だがまだ重すぎる。実は長文の手紙を書くのは閑が有りすぎるからにすぎない。
 文化の興るには余裕が無ければならない、というが、鐘楼での経験に基づけば、それは大方正しい。閑人の作った文化は当然閑人に適している。近頃、人は手ぐすねをひいて、不平不満でいっぱいなのは怪しむに足りぬ。事実この鐘楼も胡散臭くないことがあろうか。4億の男女同胞、華僑同胞異胞の中には、
「終日飽食し、何の懸念もない者」もいようし、「終日群居し、一言も正義について語らぬ者」もいる。なぜ相応な文芸も作れないのか?今、ただ単に文芸とするのは、範囲を狭く比較的容易に論じられるからだ。その結論はこうだ:
余裕があるからといって、創作ができるとは限らぬ:創作をするには余裕がなければならぬ。ゆえに「花よ月よ」というのは飢えや寒さに震える者の口からは出ない。「見事に中国文壇の礎を固めた」(徐志摩を褒めた言葉)などは、
苦力労働者出稼ぎ人夫には望めぬところだ。
 この説は私には好都合で、長らく筆をとれないのは多忙のせいだといえる。
多分あの頃「新時代」に「魯迅先生はどこに隠れたの」という宋雲彬氏の文が出た。私への警告で:
 『中大に来てから彼の「吶喊」の勇気の再現が見られないだけでなく、どうやら「北で受けた圧迫と種々の刺激が、ここでは無くなってしまって、もはや
話すことも無くなった」ようだ。ああ!おかしい。魯迅先生は現実社会から逃避し、牛角の先に隠れたか。旧社会の死滅せる苦痛、新社会の生まれ出る苦痛
の多くは目に入らず、見ても見えぬ。人生の鏡を隠し、自分を過去の時代に戻してしまった。ああ!おかしい。魯迅先生は身を隠してしまった』
 編集者は遠慮して「編者のことば」にこれは私への好意的な希望と慫慂であると書いている。悪意から笑い罵ったものではない、と。それは分かっており、
読んだときたいそう感動したことを覚えている。それで上記の通り、少し書いて、吶喊はせぬが勇気を失くしてはいないと書いた。「鐘楼にて」は予定されたテーマだが、一つには弁論と会議、二つには冒頭引用の通り、ラデックの二句と、他の多くの雑多な感想が起こったため、書きだしたけれどとうとう書けなかった。その二句とは:
『大きな社会変革の時、文学家は傍観者ではいられない!
彼の言葉はエセーニンとソーボリの自殺から発せられた。あの「帰るべき家のない芸術家」が雑誌に訳出されたとき、私は長い間考え込んでしまった。それで凡そ、革命以前、幻想または理想を持っていた革命詩人の多くは、自分の謳歌、希望した現実にぶつかって死ぬという運命にある。そして現実の革命がまだこの類の詩人の幻想と理想を粉砕していなければ、この革命も告知板上の
空論に過ぎぬ。エセーニンとソーホリをとがめるわけにはゆかぬ。彼らは前後して自らのために挽歌を歌う真実さがあった。自らの沈没で革命の前進を証した。彼らは決して傍観者ではなかった。
 だが私は広州に来た頃、時として確かに小康を感じた。数年前、北で常々、
党人が圧迫されるのを見た。青年が補殺されるのを見たが、こちらではもう目にすることは無かった。後になってそれも単にお上の命で「革命を奉じている」
という現象にすぎぬと悟ったが、夢の中では実にいい気持だった。もしもっと早く「鐘楼にて」を書いていたら、きっとこんな風ではなかったろう。いかんせん、現在すでに時間が経過し「反革命打倒」を見てしまった事実は、純然と
当時の心情を吐露すべも失った。今は只、こうしたできぬからこのままとする。
  (27年12月17日、上海の「語絲」に発表)

訳者雑感:
 大学時代に中国語の語劇をやるというので、先輩たちからいろいろ教わった。
授業中には女学生もいることもあり、「他媽的」(たまーだ)という罵りの言葉を聞くことは無かったが、先輩たちが「この野郎!」という時に、よく中国語で得意そうにいうので、自然と耳で覚えた。
 魯迅が広州ですぐ覚えた広東語のTiu na maは、同じ意味に使われる由。漢字は州你媽を宛てるのだろう。手元の中文多用辞典の広東語のローマ字表記は Dzau-nei-maだが、中嶋氏の現代広東語辞典ではJau,でこれは舟とか周と同音。80年前の魯迅の耳には上記のように聞こえたのであろう。ここで魯迅は恩師章太炎から受けた文字学の話に飛び、州の字は恩師に依れば女性の生殖器で、広東では今でも州戯という言葉が残っており、州という名詞を戯という動詞で云々との説明を受けたことを思い出している。
 しかし現地に来てみて実際の使われ方を耳にすると、州は動詞として使われていることが分かったという。割れ目という名詞と分け入るという動詞の意味があるのだろう。英語のFuckも同じで、名詞にも動詞にも使われるが、普通の辞書にはあまり公にされていない言葉だ。
 州というのは洲と同じ意味にも使われ、川の中州、デルタ三角州の意味でも
使われる。昔黄河は今の天津の近くに河口を持っており、現在の黄河の河口は、
かつては済水の河口だったそうで、チグリス・ユーフラテス両河と似たような
形をしていたという。
 古代人の命名とその面白さは、現代人も取り入れていて、フォルクス・ワーゲンの名車ビートルは前のボンネットがデルタだというのが売りであった。
 唐の長安の都の西北にある高宗の陵は、南に下ってきて平地から眺めると、
ふたつの墳墓が女性の乳房のように並び、それを下ってくる坂がまるでワーゲンのデルタのようになだらかなふくらみを以て眼を喜ばせるのも不思議な感覚であった。
 そんなことを思い出していたら、別の本で「調戯」という単語に出くわした。
広東語の表記はTiu-Heiで女性にいたずらする意、とある。ひょっとすると、
私は章太炎師匠の間違いに気付いた魯迅の記憶にも誤りがあったかもしれない
という気がした。だが「山海経」に書かれた文字としては「州」が正しいので
あり、州がデルタでありFuckという意味をも派生したことも十分納得できる。
いつか広東人にあったら、Tiu-Na-Maはどんな字か聞いてみよう。調、州?
Tiu-Heiは?やはり調戯の可能性が高いけれど…。
 2011/05/10訳 

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