一時代の記念碑的な文というものはそう多くは無い。
あるとしても十中八九は大作で、短編で時代精神を表すのは極めて少ない。
今でも巍峨とそびえる巨大な記念碑的文章の傍らで、短編小説も依然として存在するに十分な権利を持っている。巨細高低の差や、相互依存を命と考え、あたかも身は大伽藍に入っても、全体を見るにたいへん宏麗で、見る人の目を
まぶしくさせるほどで、読者の心を飛翔させるだけでなく、ひとつひとつ丹念に見ると、細小ではあるが、そこから得られるものは実に確かな手ごたえがあり、これで以て全体に推し及ぶこともでき、感動はいよいよ切実さを増し、そのゆえにこそ、それらの作品が重視されてきた。
現在の環境下、人は生活にかまけ、長編を読む時間が無いことも、短編小説が盛んにでてきた背景にある。短い時間で、一班をとって全貌をほぼ知る。
一見で以て精神を余すところなく伝え、数時間で多種多様な作風を知れ、多くの作者、さまざまな描写と人と事物と状況をつぶさにでき、得る所はすこぶる多い。そしてまた、便利で手軽、まとめやすく、いい所を取り出しやすい…
こうした点はまだ他にもある。
中国では世界の傑作と言われる大作の翻訳はとても少ない。短編小説が多い理由はこの辺にある。我々――訳者がこれを出版する原因もここにある。少しの力で、たくさん紹介しようとするものだが、根気よくやろうとしない弱点も免れぬと自問している。だが、また一輪の花を咲かせれば、朽ちてしまう草花であっても良いではないかと思う。
又、細々した小品を一冊にまとめ散逸を防ぐ。我々訳者が学びながら訳すので、小事といえども力は足りず、選んだものも適切でなく、誤訳も免れぬと思う。諸子の批評と指正をお願いする。
1929年4月26日 朝花社同人識。
訳者雑感:
魯迅は仙台医専を中退して東京にもどって仲間たちと同人誌を作ったり、域外小説集などに手を染めた。東京で(仙台医専で習った)ドイツ語を学んだのも、当時東京でドイツ語の文芸作品が(英語の作品と同じように)容易に入手できたからだろう。ドイツはその東隣りの東欧諸国の作品をたくさん自国語に翻訳していたから、魯迅としては、中国が同じ境遇にある「被圧迫民族」として東欧の文芸作品から学ぶものが多いと感じたのだろう。
今では、中国の書店にはあまり展示されていないが、神田の内山書店には
魯迅の翻訳選集が置いてあり、そのヴォリュームは魯迅著作選集より多いほどである。また魯迅が翻訳した作品の後に付けた原作者の評論などもまとめて
一冊にしたものが出ている。彼は上記の中断で熱っぽく語っているように、自分の限られた力で、短い時間で、読者に世界各国の短編を紹介することが、たいへん好きだったようだ。それは中国の古典小説に対しても同じで、それらを丹念に調べ、書き写した作業から「中国小説史略」が作られた。このことから共通点を感じるのは、加藤周一の「日本文学史序説」で、二人とも学校で医学を学んだ後、別に「国文学」を学んだわけではないが、自国の文学史を簡潔に
まとめていて大変面白い。魯迅の雑文と加藤の評論は読みごたえがある。
2011/06/16訳
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