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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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面白い話 1

 北京は大きな砂漠のようだと言われるが、若者たちは集まって来るし、老人も去らない。一度他所へ行っても暫くすると戻って来る。どうも北京に未練があるようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まさに感極って発するのであって、
彼はやはり生きており、釈迦の思想を祖述した哲人ショーペンハウエルも、何とか病を治す薬をこっそり飲むことから免れず、「涅槃」にはいることを、そう軽々には肯定しなかったであろう。(彼は死後梅毒治療薬を飲んでいたということが発見されたことを指す:出版社注)
 俗諺に「良き死は、悪しき生に如かず」という。これはもちろん俗人の俗見だが、文人学者流もそうでないとは言えぬ。只違うのは、彼は、常に辞厳義正(厳格な文で義も正しい)軍旗を掲げ、更に又、辞厳義正な逃げ道を準備していることだ。本当だ。もしそうでないと、人生はとてもつまらなくなり、話しにも何にもならなくなってしまう。
 北京は毎日物価が上がり、私の「区区たる事務官の職」も「妄な主張」のために、章士釗先生に免職されてしまった。これまでの遭遇は、アンドレーエフの言葉を借りれば、「花なきところ、詩はあらず」で、ただ物価高騰あるのみ。
 「妄な主張」は元へ戻すことはできないし、もし「晨報副刊」で称賛された「閑話先生」の家に出てくるような妹がいて、「兄さん!」と呼ぶ声が「銀鈴が幽谷に響く如く」に「もう罪作りな文章は書かないで!」と言ったら、私も多分それを機に、馬を返し、別荘に引きこもり、漢代の人が書いたという「四書」注疏と理論の研究に没頭するとしよう。だが残念ながら、このような妹はいないし、「姉の憚媛は云々…, 羽之野に死す」(「離騒」の中の文章、中略)というような凶姉を持つ屈原のような福もない。
 私が「妄な主張」をしたのは、きっと他のことにかこつけて言う事ができなかったためだ。しかしこれは軽視してはいけない。将来きっと災難に見舞われる恐れがある。人をやっつけたら、報いがあるということを知っているから。
 お釈迦様の教訓に話を戻すと、世の中に生きているのは、地獄に落ちる安穏さには及ばないそうだ。人として事を為すのは動くこと(=罪作りなこと)で、
地獄に落ちるのはその「報い」であり、生活することが地獄に落ちる原因だが、地獄に落ちるのは地獄から抜け出す起点であるからだ、という。こう説くと、実に人をして和尚になりたくさせるが、それは勿論「有根」(これは天津語だそうだが)の大人物に限るというが、私は余りこの種の鬼画符を信じない。
 砂漠のような北京に住んでいるのはとても無味乾燥だが、偶には世の中の出来事を見ることが出来、物価高騰以外に、多種多様な芸術創造、流言製造、ゾクッとするのや、面白いのなど何でもありで、これが多分北京の北京たる由縁で、人々が大勢集まって来る由縁だが、惜しいかな、いずれもわずかばかりの手慰みで、実のある友人が私の為に、「辞厳義正」の軍旗を立てるまでになるのは難しいという点だ。
 私はこれまで地獄行きのことは、死んでから考えればよいと思ってきたが、目の前の生活が余りにも無味乾燥なのが怖くなって、時に人を傷つけたりした。又小さな冗談の種を探してきては笑ったりしたが、これも人を傷つけただろう。人を傷つけたら勿論報いを受けるから、その為の準備が必要で、小さな冗談を探してきて笑っていては、辞厳義正の軍旗を掲げられないし、ここには国家の大事というべき話も無いが、「(山海)関外の戦争がまもなく起こる」とか「国軍は一致団結して段(祺瑞)を擁護せよ」とか、某新聞は1号活字でデカデカと刷って、読者の頭をクラクラさせたが、私には何の興味も無い。人間の視界の狭さは、薬では治せない。近頃面白いと思ったのは、ドイツにいた時、素手で泥棒と格闘して名を馳せた人が、北京で三河県の家政婦大隊を率いたつわものの劉百昭校長が、なんと駢儷文で大いに武を偃し、文を修めよと檄したこと。
なお且つ「百昭海邦に学を求め、教部備員、多芸の誉愧は人に如かず、審美の感情は些か自信あり」云々と。これはやはり文武両全の御仁で、これまで実に思いもよらなかったことである。(北京の家政婦は多く三河県からと出版社注)
 第2は、去年は閑事に口出ししていた「学者」が、今年からもう止めると言い出したこと。年末に大福帳を閉めるやり方は、番頭がかけ売りを勘定するためだけでなく、「正人君子」の行為にも適用可能ということらしい。或いはまた
「お兄さん!」と呼ぶ声が、中華民国141231日の夜12時に響いたのかもしれない。
 だがこんな話も刹那の間に消えさり、私自身の考えも変わるのも恨めしい。境遇によって思想や言行は自然と遷移するものだが、それにはそれなりの道理があってしかるべきだ。況や世には沢山の国慶があり、古今内外の名流もたいへん多く、彼らの軍旗はすでに掲げられている。前人の勤勉は後人の楽で、事を為そうとすれば、孔子、墨子を援引できるし、何も為さぬ時は老子を引く。殺されたければ、私は関龍逢だし、殺したくなれば相手は少正卯で、(二人は古代の中国の歴史上の人物で王に殺されたり殺したい相手の代名詞:出版社注)力がある時はダーウイン、ハックスレーを読み、人の助けが欲しくなれば、クロパトキンの「互助論」がある。ブロウニン夫妻は恋愛の模範ではないか。ショーぺンハウエルとニーチェは女性呪詛の名人…、つまるところは、もし楊蔭楡或いは章士釗をユダヤ人ドレフェスに無理やりにでも比すとするなら、彼らの取り巻きたちはゾラらに等しい。このごろ、可哀そうなゾラは、中国人に知られてきたが、そのおかげで、楊蔭楡或いは章士釗がドレフェスに等しいか否かについては大きな疑問符がつく。 
 

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 おせっかい、その2 学問、灰色等について

2.
 昨日の午後、沙灘(北京大学のある所)から帰宅したら、大琦君の来訪を知って、大変うれしかった。彼は入院したと思っていたが、そうでないと分かったからだ。更にうれしいことに、彼が「現代評論増刊」を呉れたことで、表紙に描かれた細長い蝋燭を見ただけで、これは光明の象だと分かった。況や、中の有名な学者の著作、そしてまた陳源教授の「学問の為の工具」があったから。
 これは正論で、少なくとも「閑事」(お節介)に勝る。少なくとも私はそう思う。なぜなら私に多くのことを(考えさせて)呉れたから。
 今分かったのだが、南池子(紫禁城の隣)の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で貸し出しが37倍」になったが、彼の「家翰笙」(同じ陳姓ゆえ、
家と付けてい、陳翰笙を指す:出版社注)は「平素、香を焚かぬ者も、臨時に仏脚を抱く」という十文字で、現今の学術界の大方の状況」を表現した。
 これは私の多くの誤解を解いた。先述せるように、今や留学生は大変増えたが、私は彼らの殆どは外国で部屋を借り、扉を閉めて牛肉を煮込んで食べているものと疑ってきた。それも東京で私が実際に見てきたから。牛の煮込みは中国でも食べられるのに、なぜ遠い外国まで出かけるのか?外国は牧畜が盛んだし、寄生虫も少ないだろうが、煮込んでしまえば、寄生虫が多かろうと構わないだろうに。だから帰国した学者が、最初の2年間は洋服を着、その後は皮袍(中国服)を着て、頭をそらして歩くのを見て、彼は何年も牛肉を煮込んだ男で、どんな事があろうとも、「仏脚」を抱くことを肯んじないだろうと思ってきた。今、そうではないと判った。少なくとも「欧米留学帰国組」は決してそうではない。
 しかし、中国の図書館の本は少なすぎる。北京の30余の大学では国立私立を問わず、我々私人の本の数に及ばぬ由。この「我々」の中には「溥儀さんの師、
荘士敦先生」はじめ、多分「狐桐先生」即ち章士釗も入る。ドイツのベルリン滞在中、陳源教授は彼の2つの部屋は「殆ど全床、全架、全面、すべて社会主義関係のドイツ語の本で埋め尽くされていた」のを、自らの目で見たという。今ではもっと増えているに違いない。実に私を羨望かつ敬服させるものである。
私の留学時、官費は月36元で衣食代と学費を払った後は一銭も残らなかった。数年しても本は壁の一面すら一杯にならなかった。その本も雑書で専門の本ではなく、「全て社会主義関係のドイツ語の本」の類ではなかった。
 だが残念ながら、民衆がこの「狐桐先生」の「寒家」を再度壊しにかかったとき、「彼ら夫妻の蔵書は全て散失したそうだ」その時はきっと何十台もの車で
積み出したことだろうが、見ていないのでわからないがきっと壮観だったろう。
 だから「暴民」を「正人君子」が深く憎むのは理由のあるわけだ。即ち今回、
狐桐先生夫妻の蔵書の「散失」は中国の損失で、30余の国私大学図書館を壊すより重大だ。これに比べれば、劉百昭司長の家蔵せる公金8千元が失せたのは、
小さなことだが、我々が残念に思うのは、章士釗、劉百昭の所に、かくも多くの儲蔵が偏在していて、これらの儲蔵がすべて偸まれたということだ。
 私が幼いころ、世故にたけた先輩が私を戒めて、先行き見込みの無い荷や仕事を引き受けて、自分で自分を苦しめるんじゃないぞ、と教えて呉れた。相手は自分で転んでも、お前を逆恨みし、それにはっきり理由も説明できぬし、弁償することもできない、と。これは今なお私に影響を与え続けており、正月に「火神廟」(瑠璃廠のお宮)の縁日をぶらつく時、玉器の並んだ店には、決して近づかないようにしている。たとえ小さなものでも、不注意にぶつかって壊したら、すぐさまとても大変なお宝に変じて、一生かけても償いきれず、罪の重さは博物館の物を壊す以上になってしまう。
 これを押し広げてゆくと、あの騒ぎもたいして大きくならなかったし、あの時のデモで、「門歯を無くした」(デモの翌日「社会日報」に周樹人(北大教授)
は歯に傷を受け、門歯2本を無くしたという事実と符合せぬ記事のこと:出版社注)の流言もでたが、私は家にいて幸い恙がなかった。しかしあの二部屋の
「社会主義関係のドイツ語の本」及びその他の「狐桐先生」宅の物が陸続と散出せる壮観は、このために「終生みることがかなわなくなって」しまった。
これも実に「一利あれば必ず弊害もあり」で二つとも全きを得る法は無い。
 今洋書を収蔵する富は、私人では荘士敦先生が一番で、公団は「政治学会図書館」を推進しようとしているが、残念ながら一つは外国人で、もう一つは米国公使Reinshの提唱に依るものだ。「北京国立図書館」を拡張するのは、これ以上な事は無いが、やはり米国の(義和団事変の)賠償金返還頼みの由で、
年経費は3万元に過ぎず、月額2千元のみ。もし米国の賠償金返還を使っと言えども大変なことだ。第一、館長は中国と西洋、世界に名の知れた学者でなくてはならない。となると梁啓超先生しかいないが、西洋の学問には余り通じていないから、北大教授の李四光先生を副館長に配し、中外兼通の補完性を保つ必要がある。しかし二人の給与は月1千元余。従ってその後もたいした本は買えない。これも「利あれば弊あり」だが、ここまで考えて来て、「狐桐先生」が独力で購入せる数部屋分の良書が散失の厄に遭ったのが誠に悔やまれる。
 要するに、ここ数年良好な「学問のための工具」が手に入らず、学者が研究するにも、自分で買って読むしかないが、お金がない。「狐桐先生」がこの点に鑑みて、文章を発表されたが、下野されたのは残念也。学者たちはこれ以外にいかなる方法があろうか。もちろん彼らは「閑話」をしゃべる他、何もすることが無いようだ」北京の30余の大学も彼ら「私人の蔵書の多さ」に及ばない。どうしてだろうか?
学問するのも容易なことじゃない。「一つの小さなテーマでも、百十種の本を参考にせねばならぬ」「狐桐先生」の蔵書でも足りない。
陳源教授は一例として「四書」を引いて言う。「漢宋明清の多くの儒家の注疏
理論を研究せねば、「四書」の真の意義は掌握できない。冊数のすくない「四書」
すらも、もし仔細に研究しだしたら、数百数千の参考書を見なければならぬ」
 このことから「学問の道は大海のごとく広大であることがわかる。引用されている「四書」は私も読んだことがあるが、漢代の人が「四書」の注疏理論に就いて云々は聞いたことが無い。陳源教授の推奨される「あの風雅を提唱する
封藩大臣張之洞先生が「束髪の小生」たちのために書いた「書目問答」で述べているごとく、「四書」は南宋以後にできた書の名である。
 私はこれまで彼の話を信じてきたが、今後「漢書芸文志」「隋書経籍志」の類を調べても、只「五経」「六経」「七経」「六芸」があるのみで、「四書」は無い。
況や漢代の人が作った注疏と理論をや。しかし私が参考にしたのは一般書に過ぎないので、北京大学の図書館にはあるのだろうが、寡聞にして知らないが、そうだとしても「抱こう」としても「仏脚」すらも無いのだ。これで思うのは、
あの「仏脚を抱けた」人や「仏脚を抱くことを」肯んじる人は、確かに真の福なる人で、本当の学者だということである。彼の「家翰笙」が憤慨して言うのは,多分「春秋」は賢者を責む、の意だろう。
     完
 
 もう書く気が失せたからこれで終る。要するに「現代評論増刊」を概略読んだら、十人十色、正に広告の作者名蘭を見る如し。李仲揆教授の「生命の研究」
胡適教授の「訳詩三首」、徐志摩先生の訳詩一首、西林氏の[圧迫]、陶孟和教授の2025年になって全体を発表するという、我々の玄孫の時代に全部を拝読できる大著作の一部やら…があり、めくって行くとどうしたわけか、私の目にはいるものは灰色になってき、放り出してしまった。
 今の小学生は七色盤で遊んでいる。七種の色を円盤に塗り、止まっている時はきれいだが、回転すると灰色になる。本来は白だろうが、上手く塗らないと灰色になる。沢山の著名学者の大著の大雑誌は、奇妙な様相を呈しており、うまく回らない。もし回すと灰色になってしまう。これも正にその特色だろうが。
      192613
 
訳者雑感:
 北京の宝物や財産はこの書籍も含めて、義和団の変とか学生のデモ騒ぎ、軍閥の乱の際に、紫禁城を筆頭に、それぞれの邸宅からも「賊」によって持ち出された結果、どこかに散逸してしまった、と言われている。しかしその大部分は、紫禁城内で或る程度の権力と睨みをきかすことのできた有力者や宦官たちによって、密かにどこかへ持ち出されて、外国人に売り飛ばされたりした由。
ドイツ語の「社会主義関係の専門書」は「賊」に持ち出されたものか、或いは
持ち主がこのどさくさにまぎれて「どこかへ隠した」ものだろうか。何十台もの車(大八車か)を用意できるのは、それ相当の人間しかできまい。
   2010/10/21
 

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1926年 おせっかい

1.        
陳源教授は今年から閑事には関わらないと決めたそうだ。この宣言は「現代評論」56期の「閑話」にある由。私はこれを見てないので、詳細は知らない。
もし本当なら例の常套句で「残念ですね」というしかないし、また自分のいい加減さを訝る他ない。年齢もそんな年になって、新暦の除夜と元旦の境に、こんなに大きく変わることができる人がいようとは知らなかった。近頃私は年の瀬について神経が鈍くなっているようで、何も感じない。実は感じようとしても、それに耐えられないのだ。みんな五色の国旗を掲げ、大通りは彩坊が何軒かに飾られ、「普天同慶」(おめでとう)の4字が書かれて、年越しとなる。みんな門を閉め、門神を貼り、爆竹をパンパンと鳴らして年を越す。
もし、言行が年越しと共に変われるなら、年年変わり続けて止まらないのではなろうか。勢い、ぐるぐると回転することだろう。だから、神経が鈍いのは、落後者と言われそうだが、弊あれば必ず利ありで、小さな利点もあるだろう。
 だが、考えてみるにいくつか不明な点がある。
 世の中に余計なことがあるから、人はそれに関わる。今の世の中は、余計なことは無いように思う。人が関わるのは自分と関係があるからで、それは即ち、人類を愛することからきており、自分が人間であるからだ。もし、火星で張龍と趙虎がケンカしたことを知ったからと言って、大いに問題とし、酒宴を開き、
張龍支持とか趙虎否認とか言い出すのは、全く余計なお世話だ。しかし火星のできごとを知ることができ、少なくとも交信でき、もしくは将来交通も開けたら、彼らは我々の頭上でケンカをすることになろう。我々地球上でのことになると、どこであれ何事でも我々に関係してくる。それでも一向構わないというのは、それを知らないか、構うわけにはゆかないかで、それが「余計な事」だということではない。例えば、英国で劉千昭がアイルランドの老女を雇い、
ロンドンで女性を拉致しても、閑事のようだが、実はそうではないので、我々のいるところに影響してくることになるのだ。というのも留学生がどんどん増えているでしょう?もし何か適当な場があれば、きっと例として取り上げられることになろう。正に文学上でシェークスピアやセルバンテス、Reinschを引用するように。
 (間違いです。Reinschは米国の駐華公使で文学者ではない。どこかの文芸学術の論文で彼の名を見たので、不注意にも引用しました。訂正します。読者が諒とせられんことを願う。)
 動物でも我々と無関係ではいられない。ハエの脚にはコレラ菌、蚊の唾沫には2つの伝染病菌があり、誰の血液に入るか分からない。
 「隣の猫が子を産んだ」というのに関ずらわるというのは笑い話と思う人が多いが、実はほんとに自分に関係が出てくる。吾住居の中庭に4匹の猫がしょっちゅう鳴いているが、この奥さん方がまた4匹飼ったら、34月後には8匹の猫がいつもやって来てやかましく騒ぎ、今の倍うるさくなる。
 だから私は一種の偏見があり、世の中に所謂「閑事」はなく、そんな沢山のことにかまけているだけの精神力が無いから、少しのものだけに限定するのだ。
なぜか?自分に最も関係するもの、大は人類の為、同類、同志のため、小は同級生、親戚、同郷のため、少なくとも多分何かのお陰だと思っている、顕在意識では思っていなくても、実は了然としているが、故意に痴呆で知らないふりを装っているのだが。
 しかし、陳源教授は、去年は閑事に関わったとおっしゃる由。もし、私の上述のことが間違っていなければ、彼は実に超人だ。今年から世事を問わない由、それは大変残念なことだが、正しく「この人が出てこなければ、如蒼生何(物事は始まらない)」だ。幸いもうすぐ新暦の年越しだ。除夜の亥の刻が過ぎたら、また心機も一転することあるやもしれぬとの望みもある。
訳者雑感:陳源教授は、魯迅の雑文の中に何回も登場する。18961970年、「現代評論」派の主要メンバー。英国留学後、当時北京大学教授で、種種の問題で、魯迅の論敵だった。
 魯迅は「文章を書くのは自分を守るため」とも言っている。相手が間違っていると思ったら、それを雑文で批判する。禅宗の和尚の中には「不立文字」として、生涯一文も残さないものがいた。自分を守るに文章は不要だったのだろう。座禅を通じて瞑想し、考えたことを文字にする必要を感じなかった。
 それに比べて、魯迅はこの雑文で、除夜を境に「新年からは閑事に口をださない」ということができるだろうか、と陳源教授を真っ向から批判している。魯迅は座禅をして何かを「思い到ったら」それを自分の意見として書かずにはおれなかった。それだけ「世の中に閑事は無く、そんな沢山のことにかまけているだけの精神力が無いから、少しのことだけに限定する」というわけにはゆかない、できる限り沢山のことに関わろうとする人間への愛に満ちていたのだ。訳者などは、身近のことで精いっぱいで、他人の文章をおかしいと思っても、批判しても始まらないと諦めてしまっている場合が多い。人間への愛が淡泊なせいだろう。
 それにしても、魯迅が陳源教授を批判して、いい年の大人が、新年から「要らぬお節介はしない」とかを簡単にできるとは、超人に違いないとこき下ろしているのも面白い。
101日から「禁煙」を誓った超人は経済的要因が援護射撃してくれている。       2010/10/20
 

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華蓋集続編 はしがき

 丸1年もせぬに、雑感の量は去年1年分になってしまった。秋から海辺に住み、目に入るのは只雲と水。聞こえるのは風と波の音。殆ど社会と隔絶。環境が変わってなければ、多分今年もこんな無駄話を書かなかったろう。灯下に事もなし。旧稿を編集印刷し、吾雑感に興味のある主顧に供せんとす。
 ここで述べたのもやはり何も宇宙の奥義とか人生の真理などは無い。私の遭遇したこと、考えたこと、言いたいこと、それが浅薄であろうと、全て書きとめた。些かの誇りをこめて言うなら、悲喜それぞれを、歌い哭すように、その時はこれによって憤りを解き、情を抒したもので、今これを誰かと競って、所謂公理とか正義を争奪しようなどと、さらさら思わない。相手がそうなら、私は断じてこうする、ということはある:どうしてもその命に遵じないのとか、
決して頭を下げない、といのもある:荘厳で高尚な仮面を引っ剥がすのもある。
その他には、何もたいしたことは無い。名実ともに「雑感」のみだ。
 1月以来、大抵の物は入れた:只一篇のみ削った。それは多くの人に関係しているので、夫々の同意を得るのが容易でないから、勝手に発表できないためだ。
 書名は?年は改まったが、情勢は相変わらずで、やはり「華蓋集」とする。
しかし年月は改まったので、「続編」の2字を加える。
   19261014日 アモイにて 魯迅記す。
訳者雑感:
 北京にはいろいろなことで居られなくなって、8月末アモイに移る。林語堂の
紹介で、9月からアモイ大学で「文科国学系」の教授となる。それまでの雑文で
批判の矛先は主として「変革に反対する頑固な国学家」だったことと、彼がアモイで教えたのも国学であること。講義は「中国文学史」と「中国小説史」。
後に「中国小説史略」の名で出版されている。日本から帰国して以来、革命騒ぎの中で、黙々と書きうつしてきた「古文書」を整理し、古代からの小説とよぶことの可能な文学作品を、原典を載せながら彼の解釈を加えている。
 この「はしがき」の通りとすれば、社会と隔絶した環境で、只管これらの
原稿の準備に精魂こめていたと推測される。
 余談だが、その「小説史略」はすでにある日本人が書いたものを底本にしているなどと、批難されたりしたが、編集の方法などは参考にしたかもしれぬが、
彼の解釈、解説は彼でなければ書けないことだと思う。そしてその日本語訳を
出すために、増田渉が上海の魯迅を師と仰ぎ、一語一句これはどういう意味かと訊ねたのに対しての日本語での添削が残っているのが面白い。
 そして立派な装丁で日本語訳が出版された時、彼はたいそう喜んでもいる。
私の推測だが、これで、万一彼の自国語の出版物が「焚書」されても。訳本は残るので、安心したであろう。喪失してしまった漢籍が日本で発見された

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評論家への希望

 23年前の雑誌は、只数篇の創作(とりあえずこう書く)と翻訳のみだったから、評論家の登場を望む声が強く、今、評論家が現れ、だんだん増えてきた。
 文芸が幼稚な時は評論家が良い物を発掘し、文芸の炎を煽ごうとする好意はありがたいことだ。また、今日の作品の浅薄さを嘆くのも、作家が更に深く掘り下げて呉れるのを期待するのだし、今の作品には血も涙も無いと嘆くのも、著作界が軽薄に戻らぬように心配しているためだ。遠まわしな批判も多いが、文芸に対する熱烈な好意であり、それはそれでありがたいことだ。
 只、12冊の西洋の古い評論に基づき、或いは頭の固い先生方のつまらぬ意見を後生大事にし、中国固有の天地の大義を持ち出して、文壇に踏みこんで来たりするのは、評論家の権威の濫用だと思う。手近な例で言えば、コックの料理を或る人がまずいと品評しても、彼は、包丁と鍋を評論家に差し出して、ではご自分で料理してください、と言うべきではない。しかし、彼には幾つかの要望があることだろう。料理を食べる人が「ゲテモノ好き」でなく、舌が二三分もの厚さでなければ、など等。
 私の評論家への要望はずっと小さい。人の作品を分析評価する前に、自分の精神を分析し、自分自身、浅薄卑劣、荒唐無稽で誤謬がないかどうかみてくれというのは、容易なことではないから望むべくもない。私の望みはほんの少しの常識に過ぎない。例えば裸体画と春画の区別、接吻と性交、死体解剖と死体凌辱、留学と僻地への追放、筍と竹、猫と虎、虎と洋食堂の区別を知る事。
さらに言えば、英米の老大家の学説を主として批評するのはもちろん自由だが、世界は英米両国だけではないことを知ってほしい。トルストイを見下すのは勝手だが、少しは彼の行いを調べ、彼の著書を何冊かを実際に読んで欲しい。
 何人かの評論家は、翻訳を批評するとき、往々にして歯牙にもかけぬほどにその労を認めず、なぜ創作をしないのかと謗る。創作の貴いのは翻訳をしようとする人は知っているが、翻訳者に留まっているのは、翻訳しかできないか、翻訳を偏愛しているためだ。だから評論家が、もし、事に従って論じず、こうしろああしろと言うのは、職権を逸脱しているし、こうした行為は教訓を垂れることで、批評ではない。またコックに譬えれば、料理を食べる時は、味がうまいかどうか言えば十分であり、料理以外になぜ衣裳や家を作らないのか、と責めるのは、いかな怠け者のコックでも、このお客は「痰が詰まって頭がおかしくなっている」と訝るに違いない。      119
 
訳者雑感:魯迅の所謂創作と呼べる作品は、他の作家に比べてとても少ない。一方翻訳は大変多く、彼の雑感日記を含む「選集」と「翻訳集」は殆ど同じくらいだ。英米だけに偏らず、独仏東欧そして日本の作品が多い。

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小さなことから大を見る

北京大学の講義料徴収反対運動は、花火のように咲いてぱっと消えた。そして、馮省三という学生一名を退学処分させた。
 これはとても奇妙なことで、一つの運動の発生から消滅まで、只一人の学生だけが関わったというが、もし本当にそうなら、一個人の胆力がいかに大きかったか、そしてその他の多くの人のそれは無に等しかったというのか。
 講義費は撤回され、学生は勝ったが、誰かあの犠牲者の為になにかを祈ったということは聞かない。
 小さなことから大を見ると、長い間、解せなかったことが浮かび出てきた。
三貝子公園(今の動物園)の良弼(清朝の高官)と袁世凱を刺殺せんとして殺された四烈士の墓には、その中の三基には石だけの墓碑があるが、(あれから10年も経た)民国11年になっても、なぜ誰も一字も彫らずに放って置くのか。
 凡そ祭壇に犠牲を捧げ、血を瀝(したたら)した後は、この犠牲の肉を皆に
取り分けるだけで終わらすというのか。    1118
 
訳者雑感:シンガポールで張さんの家に下宿していたとき、一族の廟で祭りがあるから、連れて行ってやろうと言われた。祭壇の前に、大きな羊が丸ごと生贄として犠牲にされていた。皆が寄り集まって来て、その周りで昼を食べた後、
めいめいに羊の生肉の塊が分けられた。それぞれが家に持ち帰って、家族で食べるのだ。魯迅はこの最後の文で学生たちに何を呼び掛けようとしているのか。
彼は他の作品で、辛亥革命で命を落とした先駆者たちのことを書いている。その一方で、無名のままで犬死にした沢山の人たちは人々の記憶からも遠ざかり、
やがては名前すら彫られず消えてゆく。文学者のできることはそれを記録して、
後世に伝えることだ、と別の場所で書いている。
 毛沢東の遺体は酸素断ちして記念館にある。周恩来の灰は海に投ぜられて、
跡形も無い。
 日本の法事では、折詰めの巻きずしや魚などを持ちかえって、家族で食べることが一般的だ。もし中国の風習をその通りにしようとしたら、羊とか豚とか犠牲にできるだけの数を飼育しなければできない。宗教的なこともあったろうが、日本人は中国の犠牲としての生贄の動物を殺す代わりに、魚などで済ますことにしたのだろう。折詰めなど、まさしく箱庭の発想だが、死者、犠牲者の冥福を祈る方法も日中間に大きな差がある。
                 
 

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教科書から阿Qが消える


201098日の「語驚壇」の「教科書中刪除阿Q」の投稿より。
 一体どんなわけなのか、阿Qの精神で阿Qの形象を消すとは?
各地の教科書から大量の古典が消え、魯迅の作品は大撤退させられた。
1.教科書から阿Qを消すのは、どうみても阿Qの精神でもって、阿Qの形象を消そうとするものだ。  ――強国論壇 網友 トウ華淦
2.中国は老人が多いのに、「背影」(朱自清の作品)すらも容れられなくなった。中国の阿Qは新陳代謝で「阿Q正伝」を教科書から落とした。――同上
3.国語教科書から阿Qがいなくなった。現実生活に阿Qが戻って来た。
           ――同上 韓遷友              
4.魯迅の文章は削っても、魯迅の精神は失ってはならない。民族の背骨は曲げてはならない!    ――同 立新無海
5.現在、魯迅は教科書から退出した。時代とともに歩めなくなったからだと
 言うが、それなら孔孟も退出すべきではないか?警醒を失った民族は、将来
 多分うまくゆかないだろう。  ――同 西行良子
6.永遠の古典は無い。不変の流行も無い。時代と共に進む。新陳代謝は味あ
 わねばならぬ。  ――同 立新無海
7.魯迅の「薬」を削れば、李一たちは、氾濫し災いをなす。「狼牙山五壮士」
 を削れば、釣魚島の危機は旦夕に迫る…悲哀! ――同 百姓一員
8.魯迅を超えられないからといって、よもや魯迅を追い出すことはできない。
 魯迅の才も無いくせに、魯迅の文章を扼殺する権利はあるとでもいうのか。
         ――同 大失落者
9.阿Qは教科書からいなくなったが、更に多くの阿Qが現実の社会に湧き出てきた。阿Q的精神勝利法は認知された。 ――同 星座深藍
10.今欠けているのは、魯迅のような犀利な筆峰を持った文人。余くりかえ
 っているのは、功を歌い、徳を称えるゴマすり根性の文士。―同 大失落者
訳者雑感:日本でも漱石や鴎外が姿を消して久しい。彼らの作品はその背景を知らないと、真の理解は難しかろう。今の日本人は、漱石鴎外を知らなくても支障をきたさないという風潮であり、学生たちも「誰それ?」と一向に気にしない。
  中国でも魯迅の小説は、受験戦争に明け暮れる中学生たちには「無縁」の
ものになりつつある。その一方で、論語や儒教の影響の濃厚な古典が就学前の
児童向けから、中学生向けまで、絵入りの美しい豪華本が並んでいる。
 13億人の中から7千万の党員になるための「現代の科挙」と言われる大学
入試合格の為には、魯迅の作品は無縁というだけでなく有害とでもいうのだ
ろうか。    2010/10/16

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おかしな音訳その2

 自称「国学家」の訳音に対する嘲笑も、古今の奇聞に違いない。これは彼の愚昧さを露呈するだけでなく、悲惨そのものだ。
 もし、彼の言うようにするにはどうすればよいだろうか?3つの方法しか無いと思う。上策は外国の事物は取り上げない。中策は外国人の名はすべて洋鬼子とする。屠介納夫の「猟人日記」、郭歌里の「検察使」はいずれも「洋鬼子著」とする。下策は外国人の名は王羲之、唐伯虎、黄三太の類とし、進化論は唐伯虎が提唱し、相対論は王羲之の発明、米大陸発見は黄三太とする。
 もしだめなら、自称国学家の理解不能な新訳語とするが、そうすると本当に国学の領域に侵入することになる。
 中国で「流沙墜簡」と言う本が出版されて10年になる。国学を論じるなら、これが最初の国学研究の本と言える。長い序文は王国維先生の作で、彼は国学研究者と言える。彼の序文に「古簡の出る所は凡そ三か所。(中略)その三つとは、和闐東北の尼雅城、及び馬咱托拉抜拉滑史徳の三か所」
 これらの音訳は屠介納夫のような雅さは無いが、分かりやすい。だが、どうしてこうせねばならぬか?というのもこの三か所はこう呼ばれているからだ。偽の国学家がカードや飲酒にうつつを抜かしているとき、本物の国学家が書斎で読書しているとき、シェークスピアの同郷のスタイン博士は甘粛新彊の砂漠で、漢晋時代の簡牌を掘り出した。掘り出しただけでなく、本にした。だから本当に国学を研究しようとするなら、翻訳をしなければならなくなる。本当に研究しようとするなら、私の三策を行う訳にはゆかない。口が裂けても(外国の翻訳を)提起しないとか、華夏(古代中国)にすでにあったとか、或いは、
春申浦畔に獲た(上海の河畔で見つけた)などと改作は無用である。
 問題はこれだけではない。本当に元朝史を研究するには、屠介納夫の国の言葉を知らねばならぬし、単に「鴛鴦」「蝴蝶」だけでは敷衍できない。だから、
中国の国学は発達しないならそれまでだが、もし発達するなら、私の直言を許してもらえれば、断じて租界にいる自称国学家の「足を置く能はざる所」である。
 ただ、序文の所謂三か所中、「馬咱托拉抜拉滑史徳」はどこで切ればよいか最初分からなかったが、読んで行くと、2番目は馬咱托拉で、3番目は抜拉滑史徳と判明した。それ故、国学研究を明確にするには、外国文字を取り入れ、新しい句読点を使うべきである。   116
 
訳者雑感:
 チリの中小銅鉱山の地下から33人が地上に戻って来た。その喜びの合唱は、
チ チ チ リ リ リだった。漢字では智 智 智 利 利 利だと毎日かどこかの新聞が報じていた。これなどはいい音訳だと記者も褒めていた。
司馬遼太郎が「草原の記」で、匈奴に関してフン族の後裔であるHungary
中国語で匈牙利(XiongYaLi)と表記するのはHungと離れていると疑問を感じたと記している。私もそう感じたこともあり、古代の音の残っている、広東語の辞書を引いたら、兄、胸と同じ音で、Hungとあった。
 そう言えばHawaiiを夏威夷と表記してXiaWeiYiというのも変だなと感じていたことがあったが、広東語辞典にはHaとある。ハワイとか外来地名の翻訳は、
それを最初に受け入れた広東人たちが漢訳したから、こうなったのだろうか。
そう言えば香港は北京音ではXiangだが、広東音ではHiangである。
 広東人の耳は音に忠実で、Bombay, Burmaとつい最近まで英語ではBの音
で表記されていたのが、ムンバイとかミャンマーに改められたが、中国語では
その前から、孟買(MengMai)緬甸(MianDian)と漢訳されていた。2番目の字は忠実ではないが、最初の音は忠実と言える。
 広東人は早くから海外との接触も多く、世界中に移民してその地で暮らしては、祖国にお金と便り、それに知識をもたらした。彼らは自分たちは、唐の時代に北方から(追われて)移ってきたとの自負から、自らを唐人と称し、その街を唐人街と誇りを持って呼んだ。
 広東人がせっせと忠実に漢訳したものを、民国になって、租界でカードをしたり、飲酒に溺れる自称国学家たちが、外来の科学、文学などの翻訳に対して、拒絶反応的な態度を取り、忠実に外来の文化を受け入れるのを阻んだことで、
魯迅たちの新文学運動の邪魔をしたのが、この雑文の背景にあると思う。
 新しい考えを紹介したら、「そんなものは3千年前の中国にあった云々」では
進歩は無い。人権とか言論の自由という考え方も、まだまだ浸透してないだけでなく、根強い拒絶反応にあっているのが今日の情勢と言える。
      2010/10/15
 
 

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おかしな音訳

1.        
簡単なことがいつまでも整理されずに放置されている点で、中国ほどひどいところは無い。外国人名の音訳など、本来至極当たり前で、普通のことだ。常識がほとんどないという人でなければ、つまらぬことに時間を費やすこともなかろうに、上海の新聞、名前は忘れたが、「新申報」か「時報」のいずれかに、暗闇から石を投げるものが嘲笑して言う。新文学家になる秘訣は、先ずは「屠介納夫(ツルゲーネフ)」「郭歌里(ゴーゴリ―)」といった類の人の知らない字を使う事だ。
 凡そ昔からの音訳の名前:靴、獅子、葡萄、蘿卜(大根)、仏、伊犁などは、みな奇ともせず使っているのに、ただやみくもに新訳字について異を称えるのは、もしも上述のことを知っていてそういうならおかしなことだし、知らないで文句を言っているなら哀れむべきだ。
 その実、現在の翻訳者の多くは、昔の人に比べ、よほど頑固になっている。
南北朝時代の人が訳したインド人の名前は、阿難陀、実叉難陀,鳩摩羅什婆…、
決して中国人の名前にこじつけたりしなかった。だから今でも彼らの訳から原音を推測可能である。光緒末年に留学生の本や新聞に載ったのだが「柯伯堅」なる人物が外国で現れた云々とあり、注意せずに読むと彼は柯府(有力者の家)
の旦那、柯仲軟の令兄かと間違えそうだ。幸い写真があり、そうではないと分かる。実はロシアのKropotkinだ。その本にもう一人「陶斯道」という名があり、それがDostoievskiTolstoiなのか分からない。
 この「屠介納夫(ツルゲーネフ)」「郭歌里(ゴーゴリ―)」は「柯伯堅」の
古雅さに劣るが、外国人の氏姓に「百家姓」にある字をつけなければというのが、現在の翻訳界で常習化し、六朝時代の和尚より本分に安んじているというほどになっている。然るに、別の人は闇から石を投げて、嘲笑っているのは、なんとまあ、「人心は昔のように純朴ではない」とでもいうのか。
 現在の翻訳家は昔の和尚に学び、人名地名は音に準じて訳し、いたずらに変な嵌めこみに気を使わず、改正してゆくべきだ。即ち、「柯伯堅」は今「苦魯巴金」と改訳されたが、第一音はKKuではないから「苦」を「克」に改めるべきだし、KKuの音は中国音でも区別ができる。
 しかし中国では不注意にも去年Kropotkinが死んだ時、上海「時報」は日露戦争の敗将Kuropatkinの写真を載せ、この無政府主義の老英雄と取り違えてしまった。1922114日。
 
 
 
 
 

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童謡の反動歌 

童謡の反動歌 
1.       童謡   胡懐琛
 「お月さん! お月さん!
 もう半分はどこへ行っちゃったの?」
「偸まれちゃったの」
「偸まれてどうなったの?」
「鏡になったのさ」
2.        童謡の反動歌  子供
 お空の半欠けお月さん
「割れた鏡が飛んで行った」っていうけど、
もとは偸まれて地上に降りて来たんだって。
わあ面白いな、面白いな。それで鏡になったの?
だけど丸いのや、四角、長四角、八角、六角の菱花や蓮花の鏡は
見たことあるけど、半月の鏡は見たことないよ。
つまんないね!
この子は新しい思潮の影響を受けて、どうも難癖をつけたがる嫌いがあるが、人心は古びず、おおいに気分が良い。一方原詩にも欠点が見られ、もし第2句を半欠けの片方はどこへ行ったの、とすれば完璧になる。胡さんは添削にたけておられるから、愚見を無視はされないだろう。
陰暦仲秋の5日前、某生記。十月九日
                  2010/10/09
訳者雑感:
原詩の作者と魯迅の関係を知らないと、理解しがたい。出版社注に依れば、作者の胡氏は1886-1938の国学家、鴛鴦蝴蝶派の作家で、「新文学の提唱者は、中国文学の改造を唱えているが、ここ数年なんの成果も挙げておらず、更には反動化している、云々」という文章への反撃である由。鴛鴦蝴蝶派というのは、鴛鴦に表現されるような内容の文芸を主体としたもの。胡氏が当時の新文芸提唱者の代表胡適の詩を勝手に改作したものを発表したことも皮肉っている。
 
話は劉暁波氏のノーベル平和賞に飛ぶが、彼が魯迅に学んだ点が2-3あると思うので、それを記す。
    大学の教師をしていながら、6.4運動の時に帰国して、学生の側に立って、
官憲に逮捕されて犬死するのは、一番無意味だとして、天安門からの避難を
勧めたこと。官憲並びに実権を持った政府が反政府行動者を虫けらのごとく
逮捕射殺するのは、1989年も、魯迅の生きた軍閥政府の1920年代となんら変わりはないことを、(文革を通しても)肌身に感じていた。
魯迅も教え子たちが、軍閥政府の銃弾で死んでゆくのを一番悲しみ、文章で抵抗するのが大切で、体で抵抗して命を落とすのを無益なことと訴えた。
「花なき薔薇」「忘却の為の記念」にそれを記す。
    アメリカやオーストラリアなどから国外に避難して、国外から反政府活動を
するように、との勧めを一切断って、やはり中国に戻って、中国で「民主」
を訴え続け、一党独裁政治を批判したこと。
魯迅も晩年、日本やソ連などから身の保全と療養も兼ねて、日本などに来て執筆を続けてはとの誘いを何度も受けたが、中国に身を置いていなければ、何も書けないとして申し出をすべて断り、死ぬまで離れなかった。
    今日魯迅が生きていたら、劉氏にどのようなメッセージを送ったであろうか。
大きなお墓に改葬されてしまって、藤椅子に腰かけさせられた大きな像は、
何も言えないだろうか。改葬される前の顔写真だけが嵌められた普通の墓石の下に眠っていた魯迅なら、すぐにでも「活無常」の口を借りて、反撃してくれるに違いない。
「劉氏にノーベル賞を授与するのは、ノーベル平和賞への冒涜だ」という
中国政府の発表に対して「それは、おかしい。中国政府は次のように言うべきだ」
「劉氏にノーベル賞を与えるのは、中国への冒涜だ!」と。
 

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