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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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憂国不謀身

国を憂えて、自身のことは謀らぬ。
これは今年の2月に温首相が任期残り2年となったときにCNNの記者から
の質問に答えた時に、発された言葉だ。彼の目の前には山ほどの難題が
あり、農民問題、教育問題など、改革せねばならぬことが山ほどある。
国の行く先を憂えて、それを最優先に考えているので、自身のことなど
をあれこれ謀ろうなど一切考えていないということだ。
6月のはじめに、何とか不信任決議での「退任」という不名誉な処置は
避けるため、鳩山氏を否決派に誘い込み、自身の不名誉な退任だけは
避けることができた。その時の「口約束」は一定のめどがたったら、
若い人に引き継ぐ、だった。
それがここにきて、何かが吹っ切れたように、次から次へと法案を
出してきて、それを成立させるまで、自分で見届けたい、という。
国を憂えての切実な法案なのか、身の保全を謀るための法案なのか。
思いつきで唐突に出てきたものに何の説明もない。事前に幅広く関係者に打診して、それが国にとって緊急に必要なものかどうか、民意を
聞くこともない。憂国の首相は日本にはいないのか。

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現今の新文学概観 

5月22日燕京大学国文学会にて 講演
 この一年余、青年諸君に対して話をしなかった。(清党)革命以来、言論の道は狭くなり、過激でなければ反動となり、皆さんを益することはなくなった。
 今回北平(北京)に来、知人達からこちらに来て話すよう慫慂され、断り切れず、話すことになったが、瑣事にかまけ何を話そうか、題も決めてなかった。
 題は車中で考えようと考えていたが、道が悪いため、車が一尺以上も跳ね上がり、考えようもなかった。それで偶々思い至ったのだが、外来のものは、一つだけではダメで、車を入れたら道をよくせねばならぬ、すべて環境の影響を免れぬと思ったことだ。文学―中国の所謂新文学、所謂革命文学も同じだと。
 中国文化はどんな愛国者も、多分、すこし落後していると認めざるを得まい。
新事物は全て外から侵入して来、新勢力も来た。大多数の人は訳も分からないでいる。北平はまだしも、上海租界の状況は、外国人が中央にいて、周囲に通訳、スパイ、巡査、雇用人…の徒がいる。彼らは外国語をしゃべり、租界の規則を熟知している。その外側に大勢の民衆がいるという形だ。
 民衆は租界に来ると、本当のことが分からない。外人が“Yes”というと、通訳は、「ビンタだ」と訳し、“No”というと「殺せ」となる。こんないわれのない冤罪を逃れようと思うなら、まずより多くのことを知り、この環を突破する事。
 文学界も同じで、我々が知っていることは少ない。また我々に役に立つ知識の材料も少なすぎる。梁実秋はパビット一点張りだし、徐志摩はタゴール、胡適はデューイ、あそうだ徐志摩にはもう一人マンスフィールドがいた。彼は彼女の墓前で泣いたそうだ。――創造社には革命文学、時流の文学がある。だが附和や創作は結構あるが、研究したものは少ない。今まで数名のテーマを掲げた人たちに囲われてしまっている。
 いろいろの文学は環境に応じて生まれるもので、文芸を推奨する人は、文芸が波風を立たせると言うのが好きだが、実際は政治が先行し、文芸は後から変わるのです。文芸が環境を改変できると考えるのは「唯心」的な話しです。事実の出来(しゅったい)は決して文学家の予想の及ぶところではありません。従って大革命では、それ以前の所謂革命文学者は滅亡するしかない。革命がほぼ結果を出すようになってから、少しばかり息つく余裕が出てはじめて新しい革命文学者が生まれるのです。なぜか。旧社会が崩壊に近づく時、しばしば
革命性を帯びた文学作品が現れるが、実際には革命文学ではないからで:例えば:旧社会を憎み、単に憎むのみで、将来の展望がなければ:社会改造をどんなに唱えても、ではどんな社会にしたいのかと問うと、実現不能なユートピア:
又は自分でも無聊だから、なんでもかまわぬから大きな転変を希求し、刺激を得ようとするだけで、飽食した人間が辣椒(唐辛子)を食べて口をピリッとさせたいようなもの:更に下等なのは、元来が旧式人間で、世間で失敗し新しい看板を掛けて、新興勢力の力で高みに登ろうとする者。
 革命を望む文人は、革命が起こると沈黙してしまう。その例は中国にもこれまであった。清末の南社は革命鼓吹の文学団体で、漢族が圧迫されていることを嘆き、満州人の凶悪横暴を憤慨し、古いものの復興を渇望していたが、民国成立後、寂として声なし。彼らの理想は革命成功後には「夢よもう一度」であって、(役人の)冠と帯をつけることだったためと思う。事実はそうはならず、却って索然と味もなくなり、筆を執る気にもなれなかった。
 ロシアの場合もっと顕著で、十月革命の初めころ、多くの文学家は大変喜び暴風雨の襲来を歓迎、風雷の試練を望んだ。だが、その後詩人エセーニン、小説家ソーボリは自殺し、最近では有名な小説家エレンブルグも反動化した由。
なぜだろう。四面から襲ってきたのは暴風雨ではなく、試練の風雷でもなく、ほんとうの「革命」だったからだ。空想は撃砕され、人間も生きてゆけないから、昔のように死後に霊魂が天にのぼるのを信じ、上帝のそばで、お菓子をたべておられるような幸福に如かず、目的を達成する前に死んだのだ。
 中国はすでに革命が成ったと聞く――政治的にはそうかもしれぬ――しかし、文芸上は何も変わっていない。「プチブル文学の台頭」とかいうが、実際にはいったいどこにそれが現れているのか。「頭」すら見えぬのに、どこでその頭を台(もちあげる)しているのか。以上の推論から、文学は少しも変わっていないし、隆盛してもいない。これが意味するものは、革命も進歩も「無」だということ――こう言うと革命家は嫌がるが。
 創造社の提唱する、より徹底した革命文学――プロレタリア文学は単に一つのテーマに過ぎません。ここでも発禁、あちらでも発禁された王独清の上海租界から広州の暴動を遥望した詩「Pong,Pong,Pong」は活字がだんだん大きくなり、これは彼が映画の字幕や上海の醤油屋の看板に影響を受けたというのも、プラークの「十二個」をまねようとする気持ちも、才も力も無いことの説明に等しい。郭沫若の「片手」を佳作と推す人が多い。内容は革命者が革命で手を失ったが、残った手で恋人と握手ができた、というが「失」ったのが不幸中の幸い、話がうますぎる。五体、四肢のどこかを失くすとしたら、一本の手に如かずで、足だと歩けなくなり、頭ならおしまいだ。ただ一本の手を失うことしか考えていないなら、戦闘への勇猛な鋭気を減じさせる:革命家の犠牲を惜しまないのは、こんな点に留まるものではない。「片手」はやはり貧乏書生が、
困難にめげず、最後は状元(科挙の最優秀合格者)になり、華燭の典を迎えるという例のパターンだ。
 これも中国の現状を反映している。最新の上海で出版された革命文学の表紙は、三叉槍で、これは「苦悶の象徴」からのパクリで、三叉の中央にはハンマーが付いている。これはソ連の旗からとったもの。こうしたツギハギでは、刺すのも叩くこともできない。作者の凡庸さを露見させるのみ。こうした作者を表す徽章にすぎない。
 ある階級から他に移ることは十分ありうることだが、大事なことは意識であって、ひとつひとつ丁寧に説明し、大衆の目で、仇か友か判断してもらう。
頭の中の古い残滓はそのままにしておきながら、故意に自己欺瞞して、劇を演じるがごとくに、自分の鼻を指して「私こそがプロレタリア」だと言ったりしてはダメです。今の人は神経が過敏になっていて、「ロシア」と聞いただけで、気絶するほどで、まもなく唇を紅く塗るのを許さなくなるでしょう。出版もあれも恐ろしい、これもそうだとなると:革命文学家は他国の作品の紹介をせずに、ただ自分の鼻を指しているだけです。清朝の時のように、「宣旨を奉じ、申し渡す」と同様、訳も分からないことになってしまう。
 「宣旨を奉じ云々」について諸君には少し説明しないと分からないでしょう。
帝政時には、役人が悪事をはたらくと、何とか門の外に跪坐させ、皇帝は宦官に斥罵させました。この時、少しお金を使わねばならぬ。そうすれば三言ほどで放免となるが、もし使わないと祖先から始まって子孫にまで次々に罵られる。
これは皇帝が叱っているので、誰も皇帝の所へ行って、その理由を聞くわけには参らぬのです。去年日本の雑誌に成仿吾が中国の労農大衆に選ばれて、ドイツに戯曲研究に行ったと出ていたが、我々は本当にそう選ばれたのかどうか、訊いてみるすべも無い。
 従って、ものごとをはっきりさせるためには、いつも言っておりますように、「外国の本をたくさん読む」ことによって、この囲みを打ち壊すしかありません。これは諸君にとって、たいした労力ではない。新文学に関する英文の本は多くは無いとはいえ、何冊かは信頼ができます。他国の理論と作品をたくさん見た後で、中国の新文芸をみると、ものごとがはっきり見えます。もっといい
のは、それを中国に紹介し:翻訳は気ままな創作より簡単ではないが、新文学の発展にとって大いに役立ち、みんなにも大変有益です。
     (1929年5月25日「未名」に発表)

訳者雑感:
 魯迅はかつて北京に暮らしていたころ、役所に出勤するとき人力車に乗ってでかけた。そのときの一コマを「一件小事」という小品に書いている。それから、北京を追われ、アモイ、広州、上海と移動し、今回北平(南京が首都)に久しぶりにやってきた。講演のために乗ったのは自動車であった。この数年で北京にも自動車が輸入されたのだが、道は昔のデコボコのままで、一尺も跳び上がったという。自動車だけ取り入れても、道という環境が整備されてなければ、ちぐはぐなことこの上ない。
 2年ほど前、北京―天津間を30分で結ぶ新幹線ができたので、乗りにでかけた。大連の旅行社で切符を予約しようとしたが、新幹線は10-20分おきに出るから、地下鉄と同じように、乗る前に窓口で切符は買えば良いという。在来線は必ず予約して切符を入手しておかないとほとんど乗れないという苦い経験があったので心配だった。案の定、出かけたのが国慶節の休みだったので、切符売り場に行ったら、2時間後の席しかない。高速運行だから立ち席は無い。自由席列車などとんでもない。在来線の列車は廃止されて、ハルビン行きなど遠距離のは、全て満席で切符はない。
結局30分のために2時間半待たされる羽目になった。
 それでも新幹線用にできた北京南駅舎にはおびただしい人が床に寝ころんで待っている。首都といえども、オリンピック開催後も、20年前の北京駅前と同じ状態であるのにうんざりするやら、あきれかえってしまった。
 なんとか搭乗して車窓から昔、天津に勤務していたころ2時間余かけて田園地帯をしばしば眺めた景色を見ながら、あっという間に天津駅に到着した。
ホームの両隣の車両の窓を、何名もの清掃員が柄のついたタオル地の窓ガラス用のクリーナーで、流線形の窓を上から下に水を撒きながら磨いている。なぜかなと不思議に思った。
 北京―天津間は在来線と並行して走っている。在来線の車両のトイレは昔の日本でそうであったように、垂れ流しのまま。黄害。
魯迅のこの段を読んでいて、ふと思い至った。クリーナーが不要になるには、この後どれくらいかかるだろう。
     2011/06/20訳
 

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近代世界短編小説集 まえがき

一時代の記念碑的な文というものはそう多くは無い。
あるとしても十中八九は大作で、短編で時代精神を表すのは極めて少ない。
 今でも巍峨とそびえる巨大な記念碑的文章の傍らで、短編小説も依然として存在するに十分な権利を持っている。巨細高低の差や、相互依存を命と考え、あたかも身は大伽藍に入っても、全体を見るにたいへん宏麗で、見る人の目を
まぶしくさせるほどで、読者の心を飛翔させるだけでなく、ひとつひとつ丹念に見ると、細小ではあるが、そこから得られるものは実に確かな手ごたえがあり、これで以て全体に推し及ぶこともでき、感動はいよいよ切実さを増し、そのゆえにこそ、それらの作品が重視されてきた。
 現在の環境下、人は生活にかまけ、長編を読む時間が無いことも、短編小説が盛んにでてきた背景にある。短い時間で、一班をとって全貌をほぼ知る。
一見で以て精神を余すところなく伝え、数時間で多種多様な作風を知れ、多くの作者、さまざまな描写と人と事物と状況をつぶさにでき、得る所はすこぶる多い。そしてまた、便利で手軽、まとめやすく、いい所を取り出しやすい…
こうした点はまだ他にもある。
 中国では世界の傑作と言われる大作の翻訳はとても少ない。短編小説が多い理由はこの辺にある。我々――訳者がこれを出版する原因もここにある。少しの力で、たくさん紹介しようとするものだが、根気よくやろうとしない弱点も免れぬと自問している。だが、また一輪の花を咲かせれば、朽ちてしまう草花であっても良いではないかと思う。
 又、細々した小品を一冊にまとめ散逸を防ぐ。我々訳者が学びながら訳すので、小事といえども力は足りず、選んだものも適切でなく、誤訳も免れぬと思う。諸子の批評と指正をお願いする。
         1929年4月26日 朝花社同人識。

訳者雑感:
魯迅は仙台医専を中退して東京にもどって仲間たちと同人誌を作ったり、域外小説集などに手を染めた。東京で(仙台医専で習った)ドイツ語を学んだのも、当時東京でドイツ語の文芸作品が(英語の作品と同じように)容易に入手できたからだろう。ドイツはその東隣りの東欧諸国の作品をたくさん自国語に翻訳していたから、魯迅としては、中国が同じ境遇にある「被圧迫民族」として東欧の文芸作品から学ぶものが多いと感じたのだろう。
 今では、中国の書店にはあまり展示されていないが、神田の内山書店には
魯迅の翻訳選集が置いてあり、そのヴォリュームは魯迅著作選集より多いほどである。また魯迅が翻訳した作品の後に付けた原作者の評論などもまとめて
一冊にしたものが出ている。彼は上記の中断で熱っぽく語っているように、自分の限られた力で、短い時間で、読者に世界各国の短編を紹介することが、たいへん好きだったようだ。それは中国の古典小説に対しても同じで、それらを丹念に調べ、書き写した作業から「中国小説史略」が作られた。このことから共通点を感じるのは、加藤周一の「日本文学史序説」で、二人とも学校で医学を学んだ後、別に「国文学」を学んだわけではないが、自国の文学史を簡潔に
まとめていて大変面白い。魯迅の雑文と加藤の評論は読みごたえがある。
       2011/06/16訳

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1929年「革命軍の馬前の卒」と「落伍者」

 西湖博覧会に先烈博物館を造るので、遺品を探している。これはすばらしいことで、もしも先烈がいなかったら、我々は今もなお辮髪を垂らしているかもしれぬ。
まして自由すらもないだろう。
 だが探しているもののリストの最後に「落伍者の醜史」というのはおかしなことで、水を飲むときに水源を忘れるな、と言った後で、汚水を飲めという如し。芳しい香りを嗅いだ後で、臭気を嗅がされるかのようだ。「落伍者の醜史」のリストに
「鄒容の事実」があり、おかしさが増す。記された鄒容が別人でなければ、私の知っているのは――
 満清の時に「革命軍」を書き、排満を鼓吹し、「革命軍の馬前の卒、鄒容」と
署名し、後に日本から帰国して上海で逮捕され、西牢で死んだのだ。時に1902年
(出版注:05年)、彼のは民族革命に過ぎず、共和はもちろん、三民主義も知らず、まして共産主義も知らぬが、諸兄は彼を諒解すべきだと思うし、彼は早く死に過ぎた。死の翌年に同盟会ができた(出版注;05年8月於東京)孫中山先生は自叙で、
彼に触れていると聞く。目録作成の諸公、ぜひとも調べて欲しい。
その後の烈士たちは、実にスピードが速く、25年前の事どもは、今や茫々。ああ美史というべきや。  2月17日

訳者雑感:
 10年ひと昔。25年後の1929年から見たら、「ただやみくもに満州王朝打倒に明け暮れた『革命者』たちを、主義も理論も無い「落伍者」のリストに入れてしまった。
太平天国の、義和団の戦、その後のおびただしい排満の義挙で命を落とした人たちを先烈とはみなさず、「落伍者」のリストに入れて
気にもしない。そんな「後烈」たちのスピードに抗議する魯迅の姿がここにある。
 天安門広場の東にある「歴史博物館」の展示を見ると、10年ごとに大きな変化があるのがわかる。長い間閉鎖されたこともある。歴史観というものは、その時々の為政者、「後烈」たちにとって不都合なことは展示しないのが、原則である。
林彪が東北戦線で勝利を収めなかったら、解放軍の大進撃はありえなかった、というのが1970年ころまでの認識であったが、1972年彼が反旗を翻し、破れて飛行機で逃亡を企て、モンゴルの草原に墜落したあと、林彪のリの字も聞かなくなった。
 1929年の後輩たちに鄒容が「醜史」のリストに入れられたのはなぜか。無視されたのではなく、「醜史」に入れられたというのは林彪のような背景があったのか。疑問だ。彼を貶めねばならぬ立場の人物が関係していたかもしれぬ。
   2011/06/15訳

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辛亥革命見聞記

東洋文庫の「辛亥革命見聞記」を一気に読んだ。フランス革命の伝統を
受け継いだ、フランスの社会科学自由学院教授、フェルナン・ファルジュネルの切り口が百年後の今もいきいきと蘇ってくる。
見聞記を書けるだけの予件として、彼は当時の袁世凱政権に対する
外国借款という「財政問題」に焦点を当てている。単なる中国語を使える社会学者
にとどまらず、フランスの借款団の「顧問」的な役割を担っていなければ、知りようのない詳細まで記述している。アメリカはこの借款が袁世凱政権を支えることになり、共和派をつぶすことになることからとして借款団から手を引く。ドイツはドイツのやり方。残った英露と日本という王室のある国家と王室を追い出したフランスの銀行団が袁世凱に大金を貸すことになる。塩税など中国内の税収を担保に抑えて。それで国内の税収が入らなくなり、魯迅たちの経験したような「給与未払い」の遠因が
この辺から起こっている。

著者はフランス革命で起こった同じようなことが辛亥革命で起こっている
と肌で感じている。王制を倒した後にくる「破壊」「火事場泥棒」「反革命」
そして議会開催ー利害対立ー独裁者登場、など革命の掲げたものと程遠い、また
相反した「財源の奪い合い」が「焦点」で、なんだかんだといっても
やはり「理想、理念」だけでは人間の社会は動かない。資金、借款etc.

訳者の石川湧が戦前に北京の古本屋で買った1冊の本がこれだ。(1914年出版)
彼はそのあとがきで、「数十年以前から≪阿Q正伝≫をはじめ魯迅の
諸作品の背景をなしている辛亥革命によって、いつもぼんやりとした
幻影のようなものにつきまとわれていた」…

数年前のある夜、共訳者の石川布美といっしょにテレビを見ていて、
「いちおう名の知られている解説者が…(内容はすっかり忘れたが)…その解説者は、話の途中で≪シンイ革命≫と言った。私たち二人はあっけにとられて…」という一段があった。
1970年に出版した当時、フランス文学専攻の彼らの思いは「シンイ革命」
と言っている日本で、中国に対する認識をいくらかでも広め、深めたい
ということから翻訳した、という。
辛亥革命百周年の今年、多くの人に読んでもらいたい面白い本である。



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掃共(共産退治)大観

またも4月6日の「申報」からだが、「長沙通信」の段に、湘省の共産党破獲委員会が「三十数人を処刑し、黄花節に8人を斬首した」と伝える。その中の数か所のすごい描写を下記する:
『… 当日執行後、馬(淑純16才:志純14才)傅(鳳君24才)の三人は女性で、町中の男女が見物に押しかけ、山のような人だかりで大混雑。加えて共産党のボス郭亮の首級も司門口にさらされ、見物人は山の如し。司門口八角亭一帯は交通マヒの状態。南門一帯の民衆は郭亮のさらし首を見た後、教育会の方に女の屍体を見に行ったのだろう。北門一帯の民衆は教育会で女の屍体を見た後、司門口に郭の首級を見に行った、とみられる。町中が大騒ぎで掃共の気が
みなぎった:夜になって見物人は昼ほどではなくなった』
 写しながら、はなはだ穏当でないと感じた。というのも、これから議論を始めようと思ったが、すぐまた私が冷嘲すると疑われるのではと心配になった。
(人は、私がただ冷嘲するのが好きなだけと避難する)また一面では私が暗黒を伝播すると責め、早く私が死んで暗黒も自分と一緒に地下に持って行けと、
呪うから。だが私はたまならくなって――他の議論は控えめにし、単に「芸術のための芸術」を説き、この文章は150-160字の短文だがなんと力強いか。
一読しただけで、司門口にさらされた首と教育会前に一列に並べられた三体の
首なしの女の屍体が彷彿とするようだ。少なくとも半裸の――但し、多分違っているかもしれぬ。私自身が余りに暗黒すぎる故かも。
 たくさんの「民衆」の一団は北から南へ、もう一団は南から北へ、押し合い
へしあい騒ぎながら……。蛇足だが、その顔はみな興奮し或いは見終わって満足した面持ち。私がみた「革命文学」或いは「写実文学」でもこれほどの凄まじさはない。批評家ロコソフスキーの言う通り「アンドレーエフがいかに我々を恐がらせようとしても、全然恐く感じない:チェホフはそういう風ではないが、却って恐ろしくなる」で、この百余字はひと山の小説に匹敵する。況や、
これは事実なのだから。
 それはさておき、更に続けるが、英雄諸兄はまた私が暗黒を散布する、革命を阻害すると非難するだろう。確かに彼らにも彼らの理屈があり、現在嫌疑を受けやすい状況にあるのも確かだ。忠実な同志が共産党と誤解され、牢に入れられ、釈放されるのは新聞にしょっちゅう出る。万一不幸にも永遠に晴らせない冤罪を着せられたら、それは誠に………。いつもこんなことを提起したら、
壮士の鋭気を阻喪することになろう。だが、革命がさらし首によって退潮するのは稀なことだ。革命の結末は、大概は投機分子の潜入による。即ち身中の虫食いによる。これは赤化を指して言うのではなくどんな主義の革命も同じだ。しかし暗黒のためではなく、出路が無いということで革命しようとするのか?
もし前途に「光明」と「出路」という保証書を張るべきで、それがあって初めて革命に赴くというのであれば、それは革命者ではないのみならず、投機分子にも及ばぬということだ。投機といえども、勝負は予知できぬから。
 最後にまた暗黒に触れるが、我中国は現在(現在!これは超時代じゃない)
民衆は実はいかなる党であれ、ただ「首」と「女屍」を見たいだけで、それがあれば、誰のでも見に行く。義和団の時、清末の党獄、民国2年、去年、今年、
このわずか20年で、私はもう何回目にし、耳にしたことか。 4月10日

訳者雑感:
 さらし首を衆に示す前に台車に乗せられ市中引き回される「阿Q」の声、
処刑場から心臓をえぐり出して結核の息子にその血を飲ませる「薬」の暗黒、
スパイの罪で日本軍に処刑される屈強な男とそれを見物する同胞たちの顔顔顔。
それらが魯迅の脳裏に焼きついて消えなかったのだ。
 今でもこうした光景は、北京とか瀋陽のトップが腐敗汚職などの罪で裁判に
かけられる時、黄色い部分が昔の「首かせ」のようなイメージの容疑者服を着せられ、死刑の映像がテレビにも放映され、衆に示されるという現実がある。
 「民衆」は実はいかなる党であれ、ただ「首」と「女屍」を見たいだけで、
それがあったら、誰のでも見に行く。というのは今も大きく変わっていないようだ。ただ、テレビやタブロイドの映像になって、自分の町内で行われることは無くなったのだが、十数年前の北京長安街の歩道橋から丸こげの死体が吊り下げられていたのは、大勢の民衆が目にしたことだ。
 2011年に入っても、地方の共産党幹部や鉄道関係、そして内モンゴルの石炭輸送トラックでモンゴル人を殺した男たちが、そうした対象だが、いくら衆に示しても、「浜の真砂は尽きるとも、世に…の 種は尽きまい」だ。嗚呼。
     2011/06/13訳

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魔除けの口伝

 4月6日「申報」にこんな記事が:
『南京市で近頃忽然、根も葉もない謡言が飛び交い、総理の墓がまもなく竣工する。それで石匠が幼児の魂をさらって龍の口にあてがおうとしている。市民は次々に誤り伝え、言った本人も聞いた相手もみな戦々恐々。各戸の幼児は左肩に紅布をつけ、魔除けの四句を書いて身を守る。その口伝には大体三種あり:
1.私の魂を呼びに来たが、自分で行けと返事した。人の魂を呼べぬなら:自分で支えろ、墓の石。
2.石が呼んでる石和尚。自分が石和尚になるがいい。早く家に帰って、
 墓壇の支柱にさせられないようにしょ。
3.お前の造る中山陵、俺には何も関係ない。一度で呼び寄せられぬなら、
 今度は自分がなればいい。』(後略)
 この三首はいずれもわずか20字だが市民の考え:革命政府との関係、革命者への感情がのびのび表されている。社会の暗黒の暴露に長けた文学家といえども、これほど簡明適切には作れまい。
「人を呼んでも、呼び寄せられぬなら、自分で墓石を支えるがいい」とは多くの革命者の伝記と中国革命の歴史の一部である。
 ある人たちの文章には、今は「夜明け前」だと言おうとしているようだ。しかし市民はこのような市民で、夜明け前だろうが黄昏だろうが関係ない。
革命者たちはこうした市民を背負って進むしかない。鶏の肋骨は棄てるには惜しいが、食べても味もない。ただこうした関係を続けるしかない。50年百年後には出路ができるかどうか、全く不明。
 近来の革命文学家は往往、特に暗黒を畏れ、暗黒を覆い隠すが、市民は遠慮会釈なく自分を表現する。あの小気味よい機智にとんだ魂と、この重篤な鈍感は相互に衝突しあい、革命文学家は敢えて社会現象を正視せず、姑や母親になり、鵲(カササギ)を歓迎し、梟(フクロウ)の鳴き声を憎むが、小さな吉祥
を見て自己陶酔し、時代を超えたとみなしている。
 おめでたき英雄よ。前に行くが良い。現実が遺棄された現代、後ろには君を恭しく送る旗の列。
 しかし実はやはりいっしょにいる。君は目を閉じているに過ぎぬ。目を閉じているから「墓石を支える」ところにまで至っていないに過ぎぬ、これがまさに君のいう「最終的な勝利」なのだ。     4月10日

訳者雑感:
 「鶏肋」(鶏のあばら骨)とは、ここ2-3年の中国の教科書から魯迅が消えたときの報道で良く目にした言葉だ。
 21世紀の中高生には魯迅は鶏のあばら骨に過ぎぬ。武侠小説の金庸の作品が
魯迅に代わった。80年も昔の文体は、アニメ世代の若者にはとっつきにくい。
読んだだけでは何を訴えたいのかすぐには理解できぬ。それを考えるのはかったるい。まどろこしい。そんな反応が、「鶏肋」で表されたようだ。
 出版者の注には出典は「三国志」で曹操と劉備が漢中をめぐって戦ったとき、
曹操が漢中を鶏肋として兵を退いたとき、棄てるには惜しいが、食しても得るものは無い、との意味で使った、とある。
 孫文の陵を造ったころ、南京市民の間で上記の魔除け歌が流行したとの記事に触れて、魯迅はこうした魔除け歌のおまじないを付ける市民は小気味よい機智にとんだ人たちと考えてもいるが、肋骨に過ぎぬ現実を正視している。こうした市民を背負っていっしょに進まねば何も進展しない、と。

 明治天皇や昭和天皇の陵が造られた時、多くの日本人はそれに反対する者はいなかったと思う。明治のことは分からぬが、日本を太平洋戦争に巻き込んだ
天皇に対して、孫文の墓など俺には何も関係ないという南京市民とは異なり、
何の怨みも無く、ただその死に対して悼み、陵を造るのに反対など夢にも思わず、葬儀の中継をテレビで見ていた人がほとんどであったと思う。
 孫文と天皇は比較の対象とはならぬが、片や「国父」ともいわれている人であるが、その陵が造られた1928年当時の南京市民の「クール」さは、どこからくるのであろうか。
  2011/06/12訳
 


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通信

来信
魯迅先生:
 精神も肉体も困窮し回復できないほど、どうしょうも無い私は、病をおして「先生」に最後の呼びかけ――いや、救いを求め、警告を発したいのです!
 自ら認識されているように:先生は酒席に「酔っぱらいエビ」を提供するコックです。私はそのエビの一匹です。
 私はプチブルの温室育ちの子。衣食になに不自由せず安閑と過ごしていた。ただ「学卒」の資格さえとれば満足で、他になんの要求も無かったのです。
「吶喊」が出、「語絲」が発刊され(残念ながら「新青年」時代は余り訳が分からなかったが)「髭の話」「写真について」など、つぎつぎと私の神経を刺激しました。当時まだ青二才でしたが、周りの青年たちが浅薄でものごとが見えてないと感じました。「革命!革命!」の叫び声が道にあふれ、いわゆる革命勢力に随って沸いていました。私は確かに吸い込まれました。もちろん私は青年の浅薄さを嫌い且つ自分の生命に出路を探そうとしました。所が何とまた、人間の欺瞞、虚偽、陰険…の本性を知ってしまったのです。果たして暫くすると、軍閥と政治屋が着ていた衣を捨て、本性の凶暴な姿を現した。私は所謂「清党」
の呼び声により私の沸騰する熱烈な心を清めました。当時「真面目で純朴な」
第四階級はあのような「遁世の士」たる「居士」たちと友達になれるかと思っていました。だが、本当に「令弟」周作人先生の言うとおり:「中国には階級はあるが、考えていることは皆同じで、すべては役人になり、金をもうけること」しか考えていない。更に私は自分が紀元前の社会にいるのかと疑いました。犬畜生より愚鈍でそれに輪をかけたような言動(或いは国粋家がまさしくこれを国粋という)は、事実私を茫然とさせ、―― いったい私はどうすれば良いか分からなくなりました。
 痛みの中で失望の矢より痛いものはない。失望し、失望の矢はわが心を貫き、吐血しました。寝床で転輾として数カ月も起き上がれなくなったのです。
 希望を失くした者は死ぬべきというのは本当です。しかしその勇気もないし、まだ21歳になったばかりで恋人もいます。死ななければ精神と肉体は苦痛にさいなまれ、一秒ごとに苦しくなり、恋人も日々の生活に圧迫されています。
私のわずかばかりの遺産は「革命」に持ってゆかれたのです。だから互いに相慰めることもできぬだけでなく、向かい合って嘆いているばかりです。
 何も知らなければ良かった。知ったがゆえに苦しいのです。この毒薬を飲ませたのは先生で、私はまったく先生に「酔わされた」(エビ)です。先生、私はこんなところまで落ち込んでしまいました。どうか私の進むべき最終的な道を教えてください。でなければ、私の神経をマヒさせてください。知らなかった方が幸いでした。貴方は医学を学んだそうですから、「私の頭を返す」のは難しくないでしょう。私は梁遇春先生にならって大声で叫びます。
 最後に先生にひとこと:「貴老先生、少し休まれてはいかがでしょう。もう軍閥の為に彼らの口に召す新鮮なエビを急いで作る必要は無い。私のような青年の何人かの命を保全して下さい。もし生活問題があるのなら、「擁護」と「打倒」
の文章をたくさん書けば良いでしょう。先生の文名を以てすれば、富貴を手に入れることなど心配無用で「委員」「主任」にすぐなれるでしょう。
 どうか早く御指示下さいますように!「徳を行うに終わりはない」などと遠慮しないでください。
 或いは「北新」か「語絲」に回答いただいても結構です。この手紙は載せないでください。笑い物にされますから。
 乱筆御容赦ください。病気で疲れ困窮しおりますので。
         貴方に害された青年Y  枕上にて   3月13日

Y先生:
 返事の前にまず謝らねばなりません。お申し越しの様に、貴状を非公開にできません。お手紙の趣旨は、返信は公開でということでしたが、原信を載せないと、返信は「無題詩N百韻」のようになり、訳が分からなくなります。
貴状は何ら恥ずかしがることもないと思います。もちろん中国には革命で死んだ人も多いし、どんな苦しい目にあっても、革命に身を投じている人もあり、革命した人で今では豊かに暮らす人もいます。革命してもまだ死なないというのは、当然最後までやりぬいたとは言えないし、ことに死者に対しては顔向けできないだろうが、全て生きている人は、それはそれとして受け入れるべきでしょう。お互い僥倖か、或いは狡猾、巧妙だったにすぎません。彼らは鏡で自分の顔を見たら大抵はその英雄的な口と顔を引っ込めるでしょう。
 もともと私は売文糊口する必要もなく、筆を執りだしたのは友の求めに応じたものですが、多分心の中に少しばかり不満がくすぶっていたようで、書きだしたらしばしば憤慨した激語となり、青年たちを鼓舞させるような形となった。段祺瑞が執政のとき、多くの人がデマを飛ばしたが、私は敢然とそれを否定、外国から半ルーブルももらってないし、金持ちの援助や書店の稿料で染められることもないと反論しました。「文学家」になるつもりもないから、仲間と言うべき批評家の御機嫌取りもしなかった。数篇の小説が1万部以上売れるなど考えもしなかった。
 中国を改革、変革しようという気持ちは確かに少しあります。
 私には世間への出路の無い――ははは、出路とは状元になることかな――
作家、「毒舌」文人だという人たちがいるが、私はすべてを抹殺したりはしないという自信を持っています。下層の人が上層の人より勝り、青年が老人より勝っていると考えてきたので、私のペン先の血は彼らの上には垂らさなかった。しかし一旦利害がからむと彼らも往往、上層人、老人と差が無いことも知ったのだが、こんな社会状況では、勢いどうしてもそうなってしまうようだ。
彼らを攻撃する人も確かに多いが、私がわざわざその手助けをして投石することもないから、私が暴く暗黒は一面だけであって、本意は青年読者を欺くことではありません。
 以上は私がまだ北京にいたころ、成仿吾の所謂「鼓の中に隠れている」プチブルだった時のこと。但し、やはり行動も文章も不謹慎だったため、飯碗を壊され、逃げ出すほか無くなった。「無煙火薬」の爆発を待たずに「革命の策源地」まで転転と逃れた。そこで2か月住んで驚いたのは、それまで聞いてきたことは全てデマで、ここは正しく軍人と商人の主宰する土地だった。次いで、清党が起こり、詳細なことは新聞にも出ず、ただ風聞のみ。正に神経過敏となり、まさしく「聚めて殲す」(一網打尽)の感で、哀痛に耐えなかった。これは「浅薄な人道主義」と知りながら、すたれてもう2-3年経ったが、プチブル根性が抜けず、心はいつも憂えていた。当時私も宴席をアレンジする一人かもしれぬと心配になり、有恒さんへの手紙にそのことを少し書いた。
 かつての私の言論は確かに失敗だった。私のものごとに対する処し方が悪かったためだ。原因は長い間ガラス窓の下に座り「酔眼朦朧で人生を見ていた」ためです。しかしそれなら風雲変幻(清党)のことは世の中にめったにあるわけではないのだが、私は予想だにせず、なにも書かなかったため、私には大した「毒舌」も無いことが知れる。但し、当時の状況は十字路に着いても、民間も役所も、50年先を見通すという革命文学家も、予想できなかった。さもなくば多くの人を救えたはずです。今ここで革命文学家を引き合いに出したのは、問題が起こった後になって、彼らの愚昧さを嘲笑しようとするのではない。私自身が後の変幻(清党)を見通せなかった、私に冷静さが欠けていたため、間違いを起こしてしまったというに過ぎず、私がどこかの誰かと相談し、或いは自分で何かしでかそうと企んで、人を騙したのではありません。
 しかし意図がどうであれ、事実に偽りはない。今、苦しんでいる人には、私の文章を見て刺激を受け、身を挺して革命に走った青年たちがいると思うから、大変苦しいのです。だがこれも私が天性の革命家ではないためで、もし革命の巨頭なら、こうした犠牲が出るのも一二回ではない。第一に自分が生きておりさえすれば、永遠に指導できるから。指導できなくなれば革命は成功しない。その証拠に革命文学家は上海の租界付近にいて、一旦騒ぎが起これば、外人の張りめぐらした鉄条網があり、革命文学反対の中華世界と隔離され、そこから数十万両の無煙火薬を投げ、ドカーンと一発、すべての有閑階級を「アウフヘーベン」することができる。
 革命文学家たちの多くは今年ぞろぞろと登場してきた。互いに褒めあい、或いは排斥しあい、私にも「革命はすでに成れり」なのか「革命いまだ成らず」
のどちらなのか判然としない。しかし私は、「吶喊」又は「野草」のせいで、或いは「語絲」のせいで、革命いまだ成らず、とか青年は革命を怠けている、と
言っているようだ。この口吻は大体一致している。これが現在の革命文学の世論。こうした世論には、腹が立つやらおかしいやらだが、愉快にも感じた。
革命をおくらせたという罪を着せられたが、別の面では青年を誘殺したという内心の忸怩たるものを除いてくれた。すべての死者、負傷者、苦しんでいる人たちと私は関係が無いことになる。それまでは私は自分に責任があると思っていたわけですから。それで以前は意図的に講演もせず、教壇にも立たず、議論もせず、自分の名を社会から消すことが私の贖罪と考えていたが、今年は気が楽になり、活動を再開しようと思った。ところが君の手紙を見て、心が沈みこみました。
 しかし今はもう去年の様に落ち込んではいません。半年来、世論を見、経験に照らすと、革命か否かはやはり人にかかっており、文章には無いことを知りました。私に害されたというが、当地の批評家は私の文は「非革命的」と断定する。本当に文学が人を動かすに足るなら、彼らは私の文を見て、革命文学家になろうなどと思わぬはずで、今彼らは私の文を見て「非革命」と断じているが、それでも腐らず、革命文学者になろうとするのは、文は人に対して何の影響もないことが分かります。――ただ残念なのは、同時に革命文学の牌坊(鳥居形の顕彰碑)を壊したこと。しかし君と私は面識もないから、私を冤罪に落そうという考えではないと思うから、別の面から考えてみましょう。
第一、君は大変大胆で、他の革命文学家は私が描いた暗黒に驚き、失禁するほどあわてふためき、出路がなくなったと思うから、最後には必ず勝利すると考えようとします。どれだけお金を払えば、どれだけ利息が付くなどと、生命保険会社のようです。
しかし君はそんなことは考えず、暗黒に向かってまっしぐらに攻め込もうとする。これが苦しい原因の一つ。肝がでかいから。それで第二に大変まじめなこと。革命もいろいろあり、君の遺産は持って行かれたそうだが、革命で又取り返すこともできる。命まで持って行かれた者。給与や原稿料を取られただけで革命家の肩書を得た者。これらの英雄はもちろんまじめだが、以前に比べて損が大きく、その病根は「過度」にあると思う。第三、君は、前途はとても明るいと考えていて、一度釘にぶつかると、大変失望するが、もし必勝を期していなければ、失敗しても苦痛はずっと小さいでしょう。
 そうなると私に罪は無いか?となると「有」で、今多くの正人君子と革命文学家はいろんな手法で私の革命と不革命の罪をでっちあげています。だから私が将来受ける傷の合計の一部で以て、君の大事な頭への賠償としたいと思う。
 ただ一つ考証を加えると「私の頭を返せ」というのは「三国志演義」で、関雲長の発した句で、梁遭春さんのではないようです。
 以上、実はすべて空ごと。君個人の問題については、なんとも手の施しようがありません。これは「前進!殺せ!青年よ!」などの勇ましい文章では決して解決できません。実は私も公開したくはないのです。今はまだ余り言行一致させぬ方が良いと思いますから。しかし、住所が無いので、返信できず、ここに書くしかありません。第一に生計を立てること。やり方は手段を選ばずです。
しかし今はまだわからず屋がたくさんいて「目的の為には手段を問わぬ」とは共産党のうたい文句だと考えているが、大きな間違いです。そういう人は多いが、口にしないだけです。ソ連の学芸教育人民委員ルナチャルスキーの「解放されたドンキホーテ」の中に、この手段を公爵に使わせていて、これが貴族のやり方で、立派なものだとわかります。第二は恋人を大切に。これは世論からは革命の道と大きくはずれます。構いません。君が少し革命の文章を書きさえすれば。そこに革命青年は恋を語るべきではないと主張するだけでいいのです。
ただもし、誰か権力者が敵が来て、罪に問われるときがきたら、これも罪状の一つに数えられるかもしれぬから、私を軽々に信じたことを後悔することでしょう。だから先に声明しておきます:将来罪に問われた時は、たとえこの一節がなくとも、彼らは別のものを探し出してきます。世の中は往往、まず問罪があり、罪状(普通は十条)が後になる。
 Y君、こんな風に書いたら、私のあやまちを少しは償えたでしょうか。ただ、
この点だけで私はまた多くの傷を受けるでしょう。初め革命文学家はひどく罵って「虚無主義者め!極悪人!」と言いました。ああ、少し不謹慎だが、又新しい英雄の鼻におしろいを塗って(道化に)してしまった。ついでに、付け加えると:余り大げさに驚かぬように。これは手段を選ばぬという手段に過ぎません。主義でも何でもない。たとえ主義だとしても、敢えて書くし、はっきり書きます。悪いことではありません。もし悪者になったときは、こうした宝は腹の中にしまって、たくさんの金を手にして、安全地帯に住み、他の人が犠牲になるべきだと主張する。
 Y君、私も君に暫時気楽に暮らすように勧めます。何でもいいから糊口の道を探して下さい。君が永久に「没落」しているのを望みません。改革できるところは随時改革し、大きくても小さくても構いません。私も君の勧めを尊重し、「休む」だけでなく、遊びます。これは君からの警告のためでなく、実はもともとそうしたかった。そして閑を見つけてやりたいことをする。たまたま何かに差し障りが及んでも、文字の上での粗忽からで、「動機や良心」を論じても多分こんなことにはならないでしょう。
 紙も尽きましたのでここらで終わります。最後に病気平癒を祈り、恋人がひもじい思いをしないように祈ります。
       (4月23日の「語絲」に発表)

訳者雑感:
 Yさんというのはどんな人なのか、出版社の注にも何も記述がない。魯迅も彼とは面識もないから、彼がこれによって自分に冤罪をかぶせようなどとは考えていないでしょう、と書いている。しかしY君は魯迅の作品に「害され」、
精神も肉体もぼろぼろになってしまった「酔っぱらいエビ」だと訴えている。
 魯迅もそれを認めている。彼自身も広東政府に対する認識に間違いがあったことを認め、失敗だったと素直に反省してもいる。遠くで聞いていた広東政府の宣伝文句は実は嘘っぱちで「軍人と商人の主宰する土地」だったことを知る。
 弟の周作人の言うとおり「中国には階級はあるが、考えていることは皆同じで、すべては役人になり、金をもうけること」で、魯迅のそれまで考えていた「青年は老人より勝り、下層の人は上層の人に勝る」というのは、こうした社会情勢では、青年も下層の人たちも、革命という名の下で、金持ちから財宝を取り上げ、自分が役人になって、それまでの老人、上層階級にとって代わろう、というものであることを、いやというほど思い知らされたことだ。
 このことは2011年の今も変わっていない。大学入試から共産党に入党し、役人になり金をもうけること。軍人と商人の主宰する土地。解放軍と地方政府の役人が、商人に土地や利権を払い下げて、その売却益と毎年の上納金で金を儲ける仕組みは、不変である。今は80年前ほど内戦とか混乱が少ないから、魯迅が登場してこないのか、あるいは登場しようとしてくるのを抑えつける力の方が勝っている、ということなのか。
   2011/06/11訳 

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出路

また、ゴーゴリの「検察使」を思い出した。中国にも訳がある。ある地方に、皇帝の使者が隠密裏にくるとの噂が広まった。役人たちは大恐慌。旅館にそれらしき男を見つけ出し、Red Carpetで大変なもてなしをした。十二分にもてなしを受けて、その男は去った。その後本当の使者がやってきたとき、舞台はすべてオシの無言劇となって終幕する。
 上海文芸界は今年無産階級文学の使者を歓迎して沸き立っている。まもなくやってくるという。車引きに訊いてもまだとの答。車引きの階級意識が低いので、別の階級に歪曲されたのだという。他の人が知っているそうだが、労働者階級とは限らぬ由。それで大きな邸宅を訪ね、旅館や西洋人の家、本屋、喫茶店などくまなく探したのだが…。
 文芸界の眼は時代の先を見ようとするから、到来したかどうかは分からないが、まずは箒で道をきれいにし、恭しく歓迎せねばならぬ。それで人間稼業も難しくなり、はっきり「無産階級」だと言わぬと「非革命」にされるのはまだ良いとして、「非革命即ち反革命」だとなると大変危険なことになる。
そうなるともう全く出路が無くなるわけだ。
 今の世は、「ボス一人ならなんとか応対できるが、その手下がくるともうどうにもならない」出路は確かにあるのだが、なぜ無いというのだろうか。
手下の鬼たちのたたりで、彼らが出路を全て壊すからだ。
 そんなものは要らないと捨ててしまえば、出路は出てくる。自分でも他に方法が無いから、暫く大砲の尻に看板をかけるしかないという気になれば、出路の芽は出てくる。
 マグマは地下でうごめき噴き出す:溶岩はいったん噴き出せば、全ての野草と喬木を焼き尽くす。もはや腐朽すら無くなる。
「但、我々は落ち着き欣然とする。私は大笑し、高歌す」(「野草」序)
 やはりただ口にするばかりで、革命文学家はそれを見ようともしないようだ。もしそのために出路が無いと感じるなら、実にかわいそうだ。もう筆を執るのも忍びない。      4月10日

訳者雑感:無産階級文学と革命文学家。革命文学家は無産階級文学の使者が上海にやってくると沸き立っている。そんな使者など居る訳も無いし、来る訳もない。スローガンだけ勇ましい革命文学家は、無産階級のための文学を作るのだと口にするばかりで、地中のマグマがどこから噴き出そうとしているのか、見ようともしない。そう言っているのか? 空回りしているだけ。それで出路が見つからない。閉塞だと言うばかり。実にかわいそうで見ちゃおれぬ、か。
    2011/06/07訳

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3月25日の「申報」に梁実秋教授の「ルソーについて」が載り、シンクレア―の言葉を引いて、パピットを攻撃するのは「ひとの刀で殺す」ことになり、
「いいやり方とは限らぬ」という。彼のルソー攻撃について理由の二番目に、
「ルソーの個人的不道徳行為が、一般的ロマン派文人のふるまいの典型になっており、ルソーへの道徳面での攻撃は、一般ロマン派人物への攻撃と言える…」
 それならこれは「ひとの刀で殺す」ではなくて「人の首をさらし首」にすることになった形。たとえルソーが「一般ロマン派文人のふるまいの典型」になっていなくても、遠くはるばるこの中国にまで彼の首をもってきて、さらし首にすることもないだろう。一般のロマン派文人にとっては、遥拝してきた祖師を害し、彼の死後の安寧を奪ったことになる。彼が今受けた罰は、本来の罪によってではなく、影響罪によってである。嘆かわしいことよ。
 以上の記述はあまり「まじめ」ではない。梁教授はペンで攻めただけであって、ルソーの首をさらすべきとは言っていない。さらし首と言ったのは、今日の「申報」に報じられた湖南共産党の郭亮の「処刑」の記事に、彼の首があちらでさらされ、こちらでさらされ、「長州と岳州を遍歴」したということがでていたから、たまたまそう書いたのだ。しかし湖南当局は残念ながらレーニン、(或いは遡ってマルクス:更にはヘーゲル等)の道徳上の罪状を一緒にして、その影響罪については触れなかったことだ。湖南にはまだまだ批評家が足りない。
 「三国志演義」は袁術(紹が正しい:出版社)の死後、後人が嘆じて、
「長輯横刀出、将軍盖代雄、頭顱(首)行万里、失計殺田豊」という詩を作ったのを思い出した。(袁は田を殺したが、その後、袁の子二人の首は討ち取られ万里離れた曹操の所へ届けられたという)それは正に三つも閑暇があるからだろう。ここに一首を記してルソーを弔うとしよう:
「脱帽して鉛(筆)を懐き出ず、先生は盖し窮者に代わりて、頭顱、万里行く、失計し、児童を造る」(上記の詩に和した、一首のパロディ、計画が失敗して、児童を造るとは出版者注では「エミール」のことを言うが、訳者は魯迅の指摘
せしは女中に産ませて孤児院に送った私生児と思う。出版者の説明ではルソーは「エミール」で児童の心身の自由な発達を提唱した為、当局から逮捕状が出、それを逃れてスイスに亡命云々とある)   4月10日

訳者雑感:
 ルソーといい、今回のIMFのストラス カーン氏といい、フランスという麗しい大地に生を受けた男は、道徳的な面でタガが緩む性格を兼ね備えるようだ。
ストラスという名はドイツ系という人もおり、カーンという姓はジンギスカン、フビライカーンなどを連想させるから、生粋のフランク人ではないかもしれぬ。
だがフランスで長年暮らしてきたことは確かなようだ。

 さて本件は「さらし首」の話。湖南省の共産党員が逮捕され、見せしめのために、長州、岳州とあたり一帯に遍歴させられたというのが強烈だ。日本だと品川の先、大森あたりの東海道筋にさらして、通行人に見せるだけで、その情報が、口コミですぐ広まるのだから効果覿面。だが国土の広大な中国では、犯罪人の首を移動して、見せしめにすることでさらに宣伝効果と恐怖心を煽ろうとしたようだ。
 サダムフセインの処刑はテレビで公開したが、ビンラディンのは公開せずに海に散じた。見るも無残に損壊したためというが、そうでなくてもさらし首にはできまい。たいへんなことになってしまうから。
 2011/06/04訳

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