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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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宣伝と芝居じみた演技

 先に触れた日本人が中国人の国民性に言及した文章に、往往「宣伝がうまい」という。
その説明を良く読むと、「宣伝」とは通常のPropagandaの意味ではなく、「対外的にウソをいう」の意味がある。
 この種の話にもそれらしき形跡がある。例えば、教育費は使い果たしたが、それでもなお幾つかの学校を開設し恰好をつけようとし:全国民の9割が文盲だが、博士を何名か召致し、西洋人に対して中国人の精神文明を語らせる:今でも拷問や首切りのし放題の
くせに、一面では外国人に見せるために、西洋式の「モデル監獄」の維持し支える。更に敵前から遠く離れた将軍にかぎって、大げさな電報を打ち「国家の先駆け」となって云々と言う。体操の授業さえ出たがらないボンボン学生が軍服を着て、「敵を殺すのは朝めし前」
とほざく。
 だがこれらも究極的には本当らしき影形はあり:いくつかの学校、何人かの博士、監獄、
電報、軍服などの例はちょくちょくあることだ。
 だから「ウソでたらめを言う」とするのは間違いであり、これが即ち我々が言うところの「芝居をやる」ということだ。
 但し、この普遍的な芝居をやるのは、本当の芝居よりたちが悪い。本当の芝居はただ一時の事で、芝居が終われば平常に戻る。楊小楼(役者)の「単刀赴会」、梅蘭芳の「黛玉葬花」は舞台で演じる時は関羽や林黛玉だが、舞台から下がればただの人だから、余り弊害は無い。一度演じたら永遠に青龍偃月刀や鋤頭を持って、関さんや林妹を自任し、怪しげな声色やそぶりで唄ったりしたら、もはや熱に浮かされたと言うほかない。
 不幸にして「天地は大いなる戯場」だと思うゆえに、普遍的な戯を演じる者は舞台から下りることはない。楊縵華女士は天然の脚(纏足でなく)で、小国ベルギーの女性のいう
「中国女性纏足説」を蹴っ飛ばし、面子を保つための権謀で、囲みを解いたのはまあ諒と
することも可である。
 だが、それもそのあたりで止めるべきだと思う。今部屋に戻り、文章を書いているのは、
楽屋に戻っても青龍偃月刀を放そうとせず:且つその文を中国の「申報」に発表するというに至っては、まったく青龍偃月刀を手に、意気揚々と自分の部屋に戻るようなものだ。
まさか彼女は本当に中国女性がかつて纏足をしていたこと、そして今もまさにしていることを忘れたわけじゃあるまい。それとも中国人はみな自己催眠にかかって、全国の女性は
すでにハイヒールを履いているとでも思っているのだろうか? 
 これはほんの一例だが、よく似たことはとても多い。だが夜も明けそうだからここらで。
   
訳者雑感:
 日本語のニュアンスでは「芝居じみた」ことをする相手は信用ならぬということだが、中国で暮らしてみてつくづく感じるのは、彼ら彼女らが、日々の暮らしの中で、いかに自分が「京劇などの伝統劇」の中の登場人物のように振舞えるか、に腐心しているということだ。伝統劇には様々な性格を持った、そして殆どの中国人をカバーできるくらいの幅広い役割と個性を備えた人間が登場する。それで、こういうシチュエーションで自分が誰それのような立場に立たされたら、どう受け答えして演じればよいか、が脳裏にすぐ浮かぶらしい。そして歴史に名を汚さぬように、後世に名を残すにはどう受け答えし、立ちまわればよいかを判断材料にする。従って、かつての歌舞伎好きの日本人がそうした以上に、
芝居のなかのセリフをそらんじるほど覚えていて、それをうまく使いこなせたと自覚できれば、有頂天になるほどだ。
 中国人が宣伝がうまいというのは、本当である。民主党とか自民党の宣伝のまずさに
比べたら、中国共産党の宣伝はずばぬけている。それは伝統劇の唱やセリフをそらんじるほどのめりこんできた伝統だろう。日本の政治家で歌舞伎のセリフなどそらんじられる人はどれほどいるだろうか。
     2011/10/08訳
 

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新しい「女将」

上海の図版製作は他所より優れているようで、新聞の日曜版の付録画報や書店の月報何とか画報も他より生彩がある。これらの画報に並んだ大人諸先生方の何とか会の開会式や閉会の記念写真の他に、必ず「女士」のも載せないといけないようだ。
「女士」の尊顔をなにゆえ社会に紹介する必要があるのか?説明を見れば明らかで、例:
 「A女士、B女学校のQueen,趣味は音楽」
 「C女士、D女学校の優等生、狆を飼うのが好き」
 「E女士、F大学卒、G氏の五女」
 衣装をみると:春はすべて流行のファッションをぴたっと着こなし、細い袖:夏は裾と袖をくつろげて、海浜に座り「海水浴」と称し、天気が暑いからそれも当然:秋立つと、涼しくなってきたが、はからずも日本兵が東三省に侵入してきて、画報も白いワンピースの看護服或いは捧げ銃の軍装した女性兵士たち。
 これらは戯劇性があり、読者を喜ばせる。中国は元来戯劇性を好み、田舎の舞台でも往往、対聯に片や「戯場は小天地」もう片方は「天地は大戯場」と掲げられている。戯を演じ出すと、田舎のため「乾隆帝の江南行き」などの類は演じられず、往往「双陽公主、狄を追う」や「薛仁貴、親(しん)を招く」などで、登場する女戦士を観客は女将と呼ぶ。彼女は雉の尾を挿し、双刀を執り、(或いは両端に剣先のある長い槍)舞台に登場するや、
観客は身を乗り出す。明らかに戯にすぎぬと分かっていても、見るほどに興奮してくる。
 長年訓練を重ねた軍人も鼓響一声、突然無抵抗主義者に変ず。(満州事変での蒋介石が対日無抵抗主義に変わったことを指す:訳者)そこで遠路の文人学者は「乞食が敵を殺す」や「屠殺者が仁と成る」「奇女士の救国」などの伝奇の古典を大いに談じ、銅鑼を一発鳴らして、思いもよらなかった人間に「国の為に栄光を取り戻させ」ようとする。同時に画報に、これらの伝奇の挿絵を載せる。だが、まだ剣仙の一本の白光を提起するには至っていないのは、やはり切実に考えているからだ。
 ただ誤解しないで欲しいが、私は「女士」たちが皆部屋のなかにいるべきだとは言っていない。私は単に雄兵がかぶとを解き、Missが銃を執るのは戯劇性に富むと言っているに過ぎない。事実が証明する。
1.誰も日本が「中国軍を膺懲」している看護兵部隊の写真を見ていない。
2.日本軍に女将はいない。それにもかかわらず、確かに戦を始めた。それは日本人は物事を行うものは行い、戯を演じるものは演じ、けっしてそれをまぜこぜにはしないから。

訳者雑感:1931年9月18日に日本軍が満州事変を仕掛けた時、張学良はすぐ不抵抗を宣言し、これを蒋介石の発言のように扱った。どちらが先に言いだしたか、論議の的だが、今やそれよりも、魯迅の指摘するように「雄兵はさっさとかぶとを解き、女将が救世主の如く現れる」などの戯劇性を専らはやし立ててうやむやの内に「9.18事変」後の情勢を受け入れてしまう「国民性」を新しい「女将」ととらえている。 2011/10/07訳

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唐時代の追っかけ

上海のモボがモガをひっかける時、第一歩は追い続けて離さない、これを「追っかけ」という。漢字では「釘梢」と書き、「釘」はくっついて離れぬ意、「梢」は末尾、後ろの意で言い換えると「追躡」(尻を追い回す)だろう。追っかけの専門家によれば、第二歩は、
「話に引き込む」ことで:罵られようとも、大いに望みありで、罵倒も言語のやりとりだから、「話に引き込む」の始まりとなる。
私は、こんなことは今日の租界だけと思っていた。今「花間集」で唐時代にもそういうことがあったと知った。それは張泌の「浣渓紗」調十首のその九にあり:

晩に香車を逐って鳳城に入り、東風斜めに繍帘の軽きを掲げ、
嬌慢な視線を投げかけ盈盈と笑う。
 消息いまだ通じず、何の計を使うべきや。すべからく佯酔(酔ったふり)して
随行すれば、依稀に「太狂生」(きちがい)というのが聞こえる

 これは現代の釘梢法と同じだ。口語詩に訳すと:
 夜、洋車を追って、路上を飛ばす
 東風はインド更紗の裳裾を吹き上げ、脚がほのみえる。
 いたずらっぽい流し眼を投げかけ、なぞの笑みを浮かべる。
 なかなかうまく話しかけられない。どうしよう?
 ただ、酔ったふりして追っかけるのみ。
 なんと「殺千刀」(死んじまえ)と罵られたようだ。
 但し、古書を探せば、もっと古い時代のもあるかもしれぬ。博学のご教示を望む。
「追っかけ史」の研究者に役立つことと思う。

訳者雑感:
1931年の満州事変の後、魯迅でもこういう文章を書いていたことに興味がわいた。
従来の翻訳はあまり取り上げてこなかったようだ。これも魯迅が古小説研究のため、
丹念に読み返していた副産物だろうが、日本でも戦争の始まるまでの10年間は、重苦しい暮らしの中にも、モボモガが都市の夜を彩っていた。
唐代でも安史の乱を筆頭に、何回も全国的な戦乱があって、杜甫や李白なども戦に巻き込まれ、逃れながら詩を残してきたわけだ。暮らしている町、西安や上海の町のどこかで現実に兵隊が人間を殺し、その翌日か2-3日後には金の鞍をつけた貴族の若者がペルシャ人のホステスがいる酒場にでかけ、女の尻を追いかけている。
国が乱れてもこうした営みは不変であった。流行はすたれるが、その源流は不易だろう。
    2011/10/05訳










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天津のコンプラドール その7

1.
 7月初めに、リオティント上海の4人が、国家機密を盗んだとの嫌疑で、拘留されてから1ヶ月あまり経って、上海検察当局が、正式には「商業上の秘密を盗んだ」「贈賄」の容疑で、4人を逮捕した。中国側も首都鋼鉄の幹部以外に、他の鉄鋼会社の幹部も、収賄の容疑で取調べを受けている、と新聞で報じられている。
 そうこうしている内に、8月17日に中国鋼鉄協会が、豪州の三番目の鉄鉱石会社、FMG社と前年比35%ダウンで、価格交渉がまとまったと発表した。先に日本がリオ社と合意したのより、値下げ幅が大きいという。同協会によれば、今後はすべての鉄鉱石輸入はこの価格に統一され、スポット価格での輸入は認めない、と。他の鉄鉱石会社とはどうするのか、それは今後の交渉の進展を見なければ、なんとも言えない、と思う。中国の一般紙までもが、具体的な価格を一覧表にして掲載し、年内12月までは、すべての中国鉄鋼ミルに、この価格が適用されると大々的に宣伝していた。全国の中小高炉メーカーに、これより高い価格は払わないようにとの通達であろう。低いのは構わないのか。
 なぜ、そういう報道をしなければならないか、については、一般の外国人には理解しづらい。当地の鉄関係の友人に聞くと、中国の鉱石輸入は、日本高炉のように、共同して価格を決めるのではなく、日本の大手2社に匹敵するような大手数社が中心となって、海外鉱石会社と締結する長期契約価格と、それ以外の何十社もある中小高炉メーカーが、直接または貿易会社経由で、長契とは別の形で、取引の都度、価格を取り決めて購入するスポット取引があり、それが大きな比重を占めている。このスポットというのも、現実的には、すでに中国の港に陸揚げされた鉱石を、現物として購入するものもあり、海上運賃を含めた市況によっては、長契価格より大幅に割高なものとなっていた。
 だが、市況が一旦下がり相場の様相を帯びてくると、逆転することも出てきたのは自然の成り行きであった。08年の秋のリーマンショックで、自動車を初めあらゆる産業が減退し、鉄鋼需要も激減した。そして、それまで2割3割とプレミアムを払わされてきたスポット契約が、逆に下回るようにさえなった。そうなると、長契価格では、引き取らなくなる事態が起こった。スポットの方が安いからである。それを如実に物語っているのが、8月4日付けの「中新社」の以下の記事である。
2.
それに依れば、鉱石販売会社の安値売りにより、狂乱じみた安値が激増した。09年1-6月の輸入量は2.97億トンであったが、そのうち鉄鋼メーカーが輸入したのは1.66億トンで前年比9.6%増であった。一方、貿易会社が輸入したのは1.31億トンで、前年比90%増。これによって、貿易会社の輸入量の占める比率が、前年の30%から44%へと14%上昇した。
こうした貿易会社経由の鉄鉱石輸入が、市場を混乱させた原因であるとして、今後はすべて正規の輸入許可を取得したミルのみが、輸入できるような体制にする、と意気込んでいる。正規ではない輸入許可というものがはびこっていたのだろうか。規制が厳しくなればなるほど、裏から手を回して、実際に鉄鉱石を使わない企業までが、輸入許可を取得できていたのだろうか。WTOに加盟した21世紀の貿易自由化を唱導する国で、いまだに裏のI/Lがあるのか。
日本でもかつては、長期契約派と随意契約派に分かれて、それぞれがしのぎを削って、鉄鋼製品市場のシェアー争奪に明け暮れていた時代があった。それはアメリカからのスクラップの輸入が主であったが、原料炭などは、やはり米国の高品位のものが、即生産アップにつながるとして、すさまじい取り合いになったことがあり、そんな争奪戦のはげしい時代を経て、長期契約という形が定着してきたのである。通産省の指導という名の下に、生産規制、競争制限が行われてきた。過去数年で、1億トンが5億トン以上にもなった中国はもうしばらくは、この両派のどちらが生き残れるかの死闘が繰り広げられると見たほうが、妥当かもしれない。
3.
5月にリオティント社が日本の新日鉄と合意したあとも、長い間いわゆる三大鉱石会社との交渉は暗礁に乗り上げていた。それが8月17日になって突如として、中国が投資しているFMG社との間で、交渉が決着したというのだ。
待てよ、確か天津のコンプラドール関連で、中国の戦前の民営企業のことを調べていたとき、上海の財閥企業の雄であった栄氏一族、即ち国家副主席にまでなった、赤い資本家と言われ中国信託投資公司CITICの創設者、栄毅仁の長男が、これに絡んでいたことを思い出した。創業者である祖父から数えての三代目である栄智健氏が、豪州の鉱石会社の株式を取得して、その関連で豪州ドルの為替取引で、大損して会長職から追放されたのは、このFMGだったと思い当たった。
 09年の4月8日に香港の投資信託会社「中信泰富」の会長の職を辞すことになった、栄智健(Larry Yung)の白髪を真中から分けた顔が、思い浮かんだ。血色の良い肌で、眉は黒々とし、温和なGentlemanの容貌である。
当時の報道を振り返ってみる。
最初に彼の失脚を知ったのは、香港の鳳凰テレビでニュース番組の司会者、邱さんが、彼のことを「富は三代続かない」(日本の俗諺では、売り家と唐様で書く三代目)という一句に注意を喚起されたのだ。が、その翌日の中国のCCTV1チャンネルの報道番組で、記者が温家宝首相にマイクを差し伸べて、栄智健氏が為替取引に失敗して苦境に陥っているということですが、総理のご意見は、と問うたのに対して、「彼は中国に大変貢献してくれた人なので、彼が困難に陥ったなら、中央政府として、支援の手を差し伸べるのにやぶさかではない。」というニュアンスの発言をして、中国としても全面的にバックアップするような姿勢を見せたからであった。
 香港の一企業が苦境に陥ったからといって、普通なら中国の首相がそんなコメントを出すことは、ありえないだろうと思った。どうしてなのか、調べてみた。
4.
 今年は中華人民共和国建国60周年ということで、雑誌やテレビなどで、さまざまな特集を組んでいる。5月25日付けの「三聨生活」に60年前に上海市長として、共産党中央の命を受けて上海の解放を成功に導いた、洗いざらしの木綿の服を着て、右手にタバコを持った陳毅市長の写真が表紙を飾る特集記事から、栄氏一族の動きを抜き出してみる。
 栄智健の祖父は、戦前上海を中心に紡績業などで成功した。栄毅仁は四男で、家の中での地位は低く、謙虚な性格であった、という。蒋介石が台湾に逃れた後、彼の一族を含む上海の殆どの民族資本家たちは、共産軍が上海に来る前に、「共産、共妻」即ち資産も女房も共有されてしまう、取り上げられてしまうと恐れて大陸を離れ、香港、台湾、アメリカなどに脱出していた。
 結果として、弱冠33歳で2代目を継ぐはめになった、栄毅仁は上海に留まって、共産党に協力することを約した。それで、後に毛沢東から「中国の民族資本家No.1」という称号をもらっている。
 上海を捨てた民族資本家は、ちょうどロシア革命時に国外に逃れた資本家たちを白系ロシアと呼んだように、‘白系華人’と呼ばれていたが、栄毅仁は「赤い資本家」と言われていた。「赤い資本家」という言葉の定義は何だろうか。つい最近まで私は、この言葉を漠然と、共産主義に共鳴する資本家と考えてきた。  
最近になって、これは「共産党員の資本家」だと考えるのが適切だと思うようになった。それは、1921年創立以来の少数党員が、今や7千万人を超えるようになってきたことが、私にさとらせてくれた。私の70人の小さな会社にも3名の党員がいる。20人に一人の割合なのだが、これが15人に一人という方向になりそうな勢いである。さる党員の友人と話していて、どうしてこんなに党員が増えたのか、率直に聞いてみた。
 彼の返事は「今やねー、レストランのチェーン店から、自動車販売会社、不動産デヴェロッパーに至るまで、殆どの民営企業にも、党の組織が出来ていて、
書記もいるのさ。国有企業がどんどん減って、民営になった時点で、それまでの国有企業中心だった党組織が、民営企業に浸透してきたのさ。そして民営企業の方でも、党との関係無しには、何も出来ないような仕組みになっているのさ。」「今の中国で、ビジネスでお金を儲けようとするなら、入党しなければ、なかなか難しいのよ。まあ、よほど商才に長けて、資本があれば別だがね。
それでも、大きな会社になって、邪魔されないように、いじめられないようにするためには、党員になって党に協力するのが一番だろうね。」とのことで、そんなことも知らなかったの、と諭されたことであった。
5.
 この特集では、呉記者が当時の関係者をインタヴューしているのが特徴的だ。
1949年から56年までの7年間で、上海の民族資本家がどのように、共産党政権に協力し、そして最終的には公私合営という名の下で、国営化されていったかが、記されている。私は天津の梁さんから聞いた話を思い出しながら、栄毅仁がどのように赤い資本家になって行ったのかを、インタヴィユーから、すこしながらも知ることができた。
 88歳で今も元気にかつて民族資本家たちが住んでいた徐家花園に暮らしている徐さんは、栄氏の姉の友人だった。彼女は言う。「新中国建国後、栄家の家族子弟の殆どは、大量の金を持ち出して上海から脱出してしまい、33歳だった栄毅仁が、“申新”という紡績会社と、福新、茂新という製粉会社の全責任を負うことになったのさ。」
 又、今年94歳になる、当時上海の人民銀行の副頭取だった共産党幹部の孫さんは「私は当時、私営企業向けの借款を担当していた。それで栄毅仁と親しくなったのだが、彼は爽やかな人間で、自分の考えをはっきり言うし、話が上手で、人ともすぐ打ち解けあうので、親しくなったのだが、当時の上海で、彼の経歴と年齢は若輩だったわけだが、栄家の資産はとてつもなく大きかったので、党としては、特に重視し、彼が商工業界で模範的な役割を果たしてくれることを期待していた。」
 陳毅市長が率いる上海人民政府は、工商業支援策として、民族資本の紡績工業の再興を奨励し、外綿輸入に免税措置を与えた。栄氏が7つの工場を有する「申新」の総元締めとして、その当座預金を人民銀行に預けることを条件に、
特別借款を与え、政府としては、その資金で各工場の生産回復を支援した。
このニュースが香港に届くやいなや、香港に逃れた資本家たちは感動し、何名かの資本家は、資金提供や原料の供給を申し出てきた。
6.
 孫氏は更に続けた。「新中国成立当初の民族資本は、生き残れるかどうか、深刻な問題に直面していた。資産と原料はすべて国外に持ち出されてしまっていたからね。多くの民族資本家たちは、私をしょっちゅう訪ねてきては、苦境を訴え、資金援助を求めてきた。しかし、私も彼らの話を百%そのまま信ずるわけにはいかない。彼らの多くは、海外に殆どの資産を逃避させていながら、政府に金を出すように、持ちかけてきたからだ。」
 これは、人の褌で相撲をとる、という伝統的な手法である。この発想は今日でも生きていて、官の資金を引き出させて、大型プロジェクトを立ち上げるという事例が、至るところで行われている。民間の造船所が市内から2時間以上も北の長興島に建設する大型造船所に多額の公的資金を投資させ、大型製油所やLNGプラントからのダウンストリームなどの大型案件にも、公的資金を出させ、何も無い荒野を工場地帯に変じて、その案件を成功させた役人は、出世の道を歩むというのがサクセス ストーリーである。
 余談だが、ここ数ヶ月、大連のネット庶民は、市政府が福佳という9年前に出来たばかりの、不動産、商業、化学工業の3つの分野で急成長を遂げた会社に、大連化学という国有会社との合弁事業を許可した。それも通例に反して、国有側の方が、出資比率が低いという変則で、さらにひどいのは、人体に影響を及ぼす恐れのあるプラントを、人家から十分離れていない場所での稼動を許可したというので、大騒ぎとなっている。これを許可したトップを糾弾している書き込みが、削除され、文字化けして読めなくさせて平気でいる。 
7.
 話を栄氏に戻す。栄氏が孫氏に語った言葉として、「第一次大戦で欧州が、中国侵略の手を緩めたとき、栄家は紡績を始め、救国富強に努力した。初めは、蒋介石に希望を託していたが、理不尽なことから資産を取り上げられた。そしてその子分の宋子文も、我々の産業を取り上げようとした。戦後も彼らの警備司令部の特務機関によって、身代金誘拐事件に巻き込まれ、大金を取られてしまった上、企業の生産活動も思うように出来なくされてしまった。」
 天津の梁さんの長兄も誘拐され、生きて帰って来られなかったのだが、当時の身代金目的の誘拐は、警察と結託した連中がグルになっていたのだ、という。さもなければ、何時まで経っても、犯人が逮捕されないわけが無い、と。分け前は当然警察当局のしかるべきところに届けられた。
 栄氏は「国が強くなければ、企業が発展することは難しい」と考え、「共産党が、上海に入ってきたとき、もともと栄家の流動資産は枯渇していたのだが、政府が紡績工場の生産を回復するための資金を出してやろうというので、私はたいへん感激した。」との述懐を引用している。
 その後、公私合営となり、国が原料の綿を供給し、栄氏の工場がそれを紡績し、加工賃をもらって、国に綿布で返すという「加工取引」形式が続いた。
この文章を書いた呉氏は、この時代のことを「国家資本主義」と呼んでいる。
国が資本を出して、かつての民族資本家たちに生産を任せたのだ。改革解放後、30年経た今日も、そう呼ぶのがふさわしいかも知れない。自動車産業や造船業など、基幹産業は50%以上の株を国が保有して、生産技術を持った経営スキルに富んだ人間に任せている。
8.
 この栄氏が文化大革命の迫害を乗り越えて、30年前の改革開放で、CITICを
創設して、赤い投資家、国家資本主義の投資銀行として、60年前に人民銀行の孫さんが上海の民族企業を支援した金額の何万倍もの膨大な資金を投じることのできる仕組みを作った。それが国家副主席への道となった。
 冒頭に触れた、三代目の栄智健氏は、1966年に天津大学電機科卒後、吉林省の長白山水力発電所に配属となり、文革によって、父ともども迫害された。
四川に流され、6年間肉体労働に従事させられた。父親はこの間、守衛や肉体労働で、肝炎と眼底出血し、左目を失明した。71年に周恩来のはからいで北京に戻ることができ、翌年息子を北京の精華大学電機科で研究に従事させた。
 78年に父親がCITICを創設。暫くして、栄智健は精華大学での研究をするには年をとり過ぎていると限界を感じ、香港に移住して、父親が残しておいてくれた6百万香港ドルを元手に、独自のビジネスを始めた。天津の梁さんがジャーディン香港に移ったのも同じころであった。彼が梁さんと違うのは、父親のバックアップを梃子に、86年には香港のCITICに総経理として就任したことだ。当時まだ英国の植民地だった香港に、彼は中国政府が百%出資するCITICの香港現地法人の長となったのである。
それまでに培った香港経済界の人脈を利用して、中国政府の意向を汲んで、1997年に本土に返還される香港のインフラ、航空会社、電力会社、海底トンネルなど、返還までに事業をどうしようかと思いあぐねている、英系、地場系の資本から、次々と株式を買い進め、事業そのものを買収していった。
1840年のアヘン戦争以来、英国資本がコンプラドールを使って本土の鉄道や石炭鉱山などいろいろなインフラ、産業を買収したのだが、1990年代は、彼が本土の出先機関として、英国領香港のもろもろの産業、インフラを買収した形になった。
97年の香港返還が、彼にはまさしく、事業拡大の渡りに船となった。香港地場の華人資本家も、本土との橋渡し役として彼に何とか取り入って、うまく立ち回ろうとした。それが益々彼の事業拡大の踏み台となったのは当然の帰結である。
9.
 好事魔多し。96年まではCITICの出先として、CITIC本体とはつかず離れずうまく立ち回って、財を成した彼は、96年にCITIC北京の王軍会長に、香港CITICの完全分離独立を求めた。このとき、父親は国家副主席となっていた。一般的には、北京政府は彼の独立を認めないだろうという認識が強かった。しかし、彼は当時の中国政府の「一国二制度」というスローガンをうまく利用して、香港の出先機関を独立させるということが、中国にとって世界的ルールを守るという意思表明になるとして、独立を勝ち取ることに成功した。
 しかし、97年にアジアを襲った金融危機で、資金繰りが回らなくなり、中央のCITICから、十億香港ドル以上の支援を得て、難関を乗り切ったのだ。
その後は、順調に事業を伸張させ、香港のインフラ関連のみならず、中国本土に鉄鋼会社を設立し、その大元たる鉄鉱石を確保すべく豪州の鉱山会社に出資したのである。
 報道に依れば、その豪州の鉱山会社への出資金は豪州ドルで払い込まれるのだが、その支払いという実需をベースに、豪州ドルの為替取引契約を結んだ。
歴史にもしもは禁物だが、この豪州ドルの為替取引も、本来なら今回のような巨額の損失を出すようなことは、ほとんど起こりえないという仕組みであった。それが、08年のサブプライムローンに端を発した、リーマンショックで、栄氏の方だけが一方的に、雪だるま式に巨額の損失を被らねばならなくなるような、万に一つもありえないような事態が発生してしまった。それも実は彼の目の中に入れても痛くないというほど可愛がってきた愛娘に担当させてきた、中信泰富集団の財務部門が引き起こした事件であった。
10.
 彼が困難に陥ったとき、温家宝首相は「中央として救いの手を差し伸べるのにやぶさかでない。」との発言をした。彼は、どういう背景でこのような発言をしたのだろうか。毛沢東の評する「民族資本家のNo.1」、 CITICの創設者、栄毅仁の家系を苦境に追いこんではならないというような、古い考えからではなかろう。
夫人が大変な発展家で、自分で会社経営をしているということで、総理に就任するときに、いらぬ嫌疑を受けないようにと、離婚したという話を、複数の人から聞いたことがある。私自身も彼が2年前に日本で行ったスピーチや、英国の大学での靴投げ事件への対応。四川大地震や南方の雪害のとき、すぐさまとんでいって、人々を激励した大公無私の振る舞いに大変感動している人間である。
 温氏も青春を天津で暮らし、北京の地質学院で勉強して、甘粛省の地質関係の仕事で、金槌を片手に、岩をこんこんたたいて暮らしてきたそうだ。栄氏と略同じような世代で、お互いに嘗めた苦労を良く知り尽くしているだろう。その彼が、香港の中国返還を梃子に、巨大な富を築き、その資金、資本を本土の
いろいろな分野の産業に投資してきた。
 かつて、広東、上海、天津のコンプラドールたちが、10年で財を貯めた後、
コンプラドール稼業から足を洗い、マッチ製造や、紡績、セメント、石炭、鉄道など富国のために投資してきた。それが、弱体な政権とそのたび重なる政権交代の混乱のたびに、せっかく築き上げてきた工場資産をむしりとられ、誘拐に会い、ひどい目にあって、香港に逃れるほか無くなってしまった。
 文革でひどい目にあって、自由に香港に逃げ出せるようになった栄智健氏も、
やはり蓄積に蓄積を重ねた資産でもって、本土に多額の投資をして、共産政権を支えてきた。慈善事業には一切金を出さないケチとか、イギリスに大邸宅を買って、派手な生活をしているとか、今度の事件以来、水に落ちた犬を打てというような新聞報道がなされている。
今の北京中央としては、 CITIC香港へ支援の手を差し伸べるのにやぶさかではない。とのコメントを出すことで、これ以上の混乱を招かぬように配慮しているのであろう。一国二制度の香港での中国のシンボルが倒れては困るのである。 時宜を得たひと針が、九針をセーブする。
  大連にて 2009.8.25. 

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天津のコンプラドール その6

1.
 7月27日、香港の鳳凰テレビのニュースで、吉林省の通化鋼鉄の社長が
従業員たちに吊るし上げられて、死亡したと報じていた。大陸で教育を受け、その後香港に移ったニュースキャスターは、「日本ではリストラされた社員が、自殺したりするが、中国では自分たちの首を切ろうとする社長を死に至らしめるようだ。」と揶揄しながら解説していた。
 日本にはかつて労使の団体交渉の場があり、賃金交渉が主だが、大きな負債を抱えて倒産の危機においこまれた企業が、従業員の大幅削減に踏み込まなければならないような状態に陥ったときの説明の場で、組合員が社長以下に詰めよって、経営陣は窮地に追い込まれ、病気を理由に入院するもの、自殺して従業員にお詫びするようなこともあった。
中国で従業員が社長を追い詰め、人質にとって死亡させるという事件は文革後の中国では珍しいことにちがいない。文化大革命のときには、いわゆる実権派と呼ばれた機関のトップや、工場長などが吊るし上げにされて、退陣させられ、三角の帽子をかぶせられて、トラックに乗せられて、市中引き回しされたようなことはよく起こった。それで自殺した人も多かったと聞く。
 通化鋼鉄という名前は、かつて私が、中国冶金進出口公司から銑鉄を大量に買い付けていたときの有力な供給元であったことから、その当時のいろいろなことを思い出させられた。北京から夜行列車に乗って、東北地方の製鉄所の町を何度か訪れた。当時はまだ平炉が残っていて、駅頭を出ると、七色の雲のような煙が、我々を驚かせた。公害をまだ大きな問題として深刻に考えるまでの余裕がなく、人々はその煙が煙突から出ていることが、自分たちの生活を保証してくれているとの気持ちの方が勝っていたのだろうか。住民の口からは、それに対する非難の声を聞かなかった。
2.
 さて銑鉄輸出の件に戻るが、日本は奈良時代の昔から、中国から銑鉄を輸入していたという記録がある。以前、上野の国立博物館に、ちょうど京都の八橋の焼いた菓子のような格好の「鉄片」というものが、展示されていた。これは大陸或いは朝鮮半島経由で輸入された銑鉄で、日本はこれを使って、刀ややじりなどの武器に使用していたとの説明があった。壬申の乱などのころ、こうした鉄片をより多く輸入できたものが、戦いを有利に進めることができた。これは織田豊臣軍も、明治昭和の日本も同じである。
 島根県で、砂鉄から日本刀や鎧兜の鉄を生産するようになるまでは、大陸から輸入した鉄源に依存していたのである。日清戦争の賠償金で建設が始まった八幡製鉄所も、その鉄鉱石は武漢の近くの大冶という鉄鉱山から、長江を下って、八幡に運ばれた。以前、クレームを受け、長江沿岸の大冶鋼鉄を訪れたとき、かつてここに暮らしていた、日鉄大冶の邦人たちの再訪の記事が壁に貼られていた。
日露戦争後、南満州鉄道を敷設し、その沿線に馬の鞍のような山があったのを見つけた人が、そこを発掘調査して大きな鉄鉱石の鉱脈を見つけた。それで、そこに鞍山製鉄所を作り、生産した銑鉄を日本に持ち帰った。馬の鞍のかっこうをした山には、鉄鉱石が埋蔵されているケースが多いとみえて、南京の西にも馬鞍山製鉄所があり、香港の九龍半島にも馬鞍山という鉱山があって、日本にも輸出されていた。
 第一次大戦後の列強による建艦競争に象徴されるように、帝国主義各国が軍艦や武器を大量に製造し始めた結果、鉄の需要が急増した。それで鉄鉱石の調達は益々喫緊の問題となり、先輩たちはマレー半島西岸のバトパハ近辺での採掘や、南豪州からの輸入に懸命な努力を重ねて調達に懸命であった。これが第二次世界大戦勃発の引き金の一つとなる。即ち米国の圧力によって、英系資本が採掘していた豪州の鉄鉱石輸出は、ある日突然、禁輸となってしまったのだ。
 米国は鉄鉱石のみならず、スクラップや原油の輸出も禁じた。それで、日本は、鉄源と原油を求めて、旧満州の各地をくまなく調査し、製鉄所をつくり、
軍需物資の調達を行った。もし大慶油田がそれまでに発見されていたら、マレー半島から、インドネシアに資源を求めて、戦線拡大の必要性も多少は緩和され、戦局は変わっていたかもしれない、とは大連にきてよく聞かされる話だ。
3.
鞍山鋼鉄とか本渓鋼鉄という大手高炉メーカーは、貿易開始直後は非常に積極的に銑鉄輸出をしていたが、しばらくすると、後発組に道を譲ることとなった。
 後発組というのは、高炉だけのミルで、そこで生産した銑鉄を消費地に近い上海などの製鋼メーカーに供給してきた企業である。鉄鉱石とコークスを高炉に投入し、溶融された1,500度の溶銑を鋳銑機というエスカレーターのような鋳型に注入し、なまこのお化けのような一個50KGほどの鉄の塊にして、遠隔地の製鋼メーカーに輸送する。そしてそれを再度加熱溶融するだけの機能しかない「化鉄炉」という大きな鍋で再びとかし、転炉に投入しスクラップなどを混入して、酸素を吹き込んで、鋼(はがね)にしていた。
手形決済の支払いが滞って三角債などが蔓延し、不況で上海などの製鋼メーカーからの発注が減り、入金がぱったり止まってしまったので、こうした銑鉄メーカーは、すぐ現金を貰える輸出に乗り出してきた。
 国内は中央政府の管理下で、物価水準に会わせ、原料価格も燃料価格も極端に低く抑えられていたので、最初、本渓鋼鉄などが高品位の銑鉄を輸出し始めたときは、150ドルとか160ドルという値段で、生産者も大きい利益を得ていたし、買い手側の日本の需要家も燐分とか硫黄の低い高品位銑鉄を高く評価していた。
4.
 それが、一年も経たないうちに、上述の銑鉄メーカーが、安値を提示して、輸出市場に登場してきた。その結果、洪水のように輸出ドライブがかかり、あっという間に百万トン以上の数量に膨れ上がり、供給が需要を上回った。そして値段もずるずると百ドルを切り、しまいには80ドル台まで一気に下落した。
 そのころになると、中央政府の冶金工業部及びエネルギー関係の研究部門から、強いトーンで抗議の警告が発せられた。国内の貴重な鉄源と石炭などの大切なエネルギーを、国際水準から程遠い安値で、外国に輸出するのは、エネルギーの安売り、国家資源の泥棒である。よって価格も是正し、数量も制限すべし、と。
 それで、ある日突然、輸出税を課すとの発表がなされた。
百ドル以下で契約していたものが120ドル以下では輸出許可証が下りないという。さあ困った。日本の需要家に事情を説明して、20ドル以上の価格差のなにがしかを負担してもらうことで、契約履行するようなことになった。残りは商社の負担として、通常は2-3%しか口銭の無いこのビジネスでは、数量が10万―20万トンと大きいだけに、大きな損失を蒙ることになった。需要家からは、それまで儲けた分を吐き出しなさいよと、言われた。
 それでも次回の商談では、120ドルの最低価格での成約となり、なんとか先の損失を3-4回の取引で取り戻すことの希望が見えてきた。
5.
 ところが、今度は、輸出税の問題より更に深刻なことが起こった。即ち、輸出数量規制が始まったのである。秩序だった輸出をするために、輸出許可証を、生産能力に余裕のある、大手高炉メーカー中心に絞り込んだために、中小の銑鉄メーカーには、輸出許可証が下りなくなったのだ。
本来、それらの専業メーカーは、製鋼メーカーへの銑鉄供給のために存在していたので、その大半が輸出されてしまえば、国内は供給不足に陥ってしまう。国は輸出数量を規制し、供給不足を解消し、価格引き上げに乗り出してきた。
 国際貿易で論議を起こす問題だが、民間企業間の貿易契約は、双方の政府の公租公課などに変更が生じた場合は、売り買い双方がその負担を巡って、協議して定めること、という約款がうたわれている。これは双方の力関係と市場の強弱に影響されて、その負担の方法や分担率が決まるのが常である。
 突然の輸出許可制導入ということで、相手先の銑鉄メーカーは、政府からの輸出許可が下りないとして、契約破棄を申しいれてきた。中国国内での需要も増大して、輸出に回さなくとも十分な収益が見込めるようになった。
 さあこうなると、今度は価格面での損失だけでは、ことは済まなくなってしまった。市場価格は当然のことながら、急カーブを描いて上昇する。他の国に同等品を求めても、おいそれとは入手できない。需要家からは、値段もこの前上げたばかりだから、なんとしてでも、契約どおりの条件で、3ヶ月以内に、代替品を納入せよと迫られる。
 こんな、若い頃の難儀が、瞬時に蘇ってきた。通化鋼鉄は当時、年産どれくらいだったのだろうか。宝山製鉄所が6百万トンという時代だったから、多分、百万トンはいかなかったであろう。
6.
 今回の社長死亡の記事をここ数日、丹念に調べてみた。
7月28-30日の「新商報」などの報道やテレビニュースなどをまとめると次のようになる。
7月24日、通化鋼鉄集団で群集による社長致死事件が起こった。一部の社員が、工場内で集会を開き、窮状を訴え、その結果高炉7基が生産停止に追い込まれた。今年3月に一旦は撤退した、かつて2番目の株主だった建龍集団が、7月に入って、66%の株を取得して再び経営権を握った。建龍が再度派遣してきた、前回もリストラを断行した陳社長を、殴打して死に至らしめた。
 通化鋼鉄は、吉林省の最大製鉄会社で、年産能力7百万トン。2005年に、経営危機に陥った同社の再建時に、出資者を募ったとき、建龍集団が乗り出してきて、再建途上にあった。それが昨秋から金融恐慌の影響で、業績はみるみる悪化し、今年の初めに、撤退していた。
 建龍の経営陣と通化の従業員の間には、怨念と憤怒が堆積していた。それが
7月には又再び経営権を握って乗り込んでくることになった。
 7月23日、一部社員や退職者が、それ以前のリストラなどの諸問題解決も含めて、多くの社員を引きずりこんで、直訴に及んだ。生産ラインに入りこみ、原料輸送を止め、高炉を休風させてしまった。建龍の張志祥会長は、通化の幹部たちとの合意内容を発表する予定だったが、この内容が従業員の一部に漏れ、大変な騒ぎとなった。
 それで24日朝から幹部が手分けして、各職場に説明に回った。重任社長として送り込まれてきた陳氏は、製銑工場での説明を終え、10時半ごろ、コークス工場に入った。彼がコークス工場事務所に来るということを聞きつけた職員と家族たちは、なだれをうってコークス工場に押し寄せた。それまでに彼によって解雇され、ひどい目に遭わされて来た職員とその家族たちが、「建龍は通化から出てゆけ」、「陳社長は通化から出て行け」と口ぐちに叫んだ。それでも陳社長はいっこうにひるまず、職場に戻るように説得した。そのうち、固い底の作業靴を投げるもの、ペットボトルをぶつけるものが現れた。そして、彼は廊下に引きずり出され、群集に殴打された。殴られても彼は事務所の部屋に逃げ込んだのだが、探し出されて、人質として軟禁された。
7.
 彼を人質として抑えていた男は、中国伝統の「侠」に感じての行動だと思う。彼に共鳴した人たちに支えられて、一命を賭して立ち上がったのであろう。それが群集を集め、その力で、経営陣たちに、従業員の生活のことを、これっぽっちも考えないような再建策の撤回を求めたということだ。まさか相手が死ぬとは思いもしなかったであろう。
 こうした事件を引き起こした以上は、処罰されることは覚悟の上、大衆を救うために、一身を投げだす、という義侠心が東北の片田舎に残っていた。中国では21世紀の今日も、「侠」の精神が受け継がれている。司馬遷の「史記」の中の「遊侠列伝」の主人公たちの身の処し方が手本となっているようだ。
 こうした展開で、建龍はリストラ案を撤回し、それまでの筆頭株主であった吉林省国資委と通化市政府の幹部は、取り囲んでいた群衆に対して、建龍への経営譲渡を撤回すると発表し、人質解放と現場からの撤退を求めた。
 その結果、大部分の人は退去したが、少数のものが残り、救出を拒んだ。それで、コークス工場宿舎からの突入を図り、社長を救出したが、同日23時、救助の甲斐なく、死亡した。公安関係者が死に至った状況を調査しているという。
 3万余人の従業員を今度は5千人にするというリストラ案が、買収側から漏れたというのが、そもそもの発端だという。
8.
 その後の報道によれば、事件に至った背景は、昨年の9月に始まった金融危機で、通化鋼鉄の経営も大きな打撃を受け、今年3月には、将来を見限った建龍集団は通化鋼鉄の株を売却して、経営から手を引いた。それが今年の5月に入り、政府の4兆元の内需刺激の発表により、鋼材の需要回復が顕著になりだした。線材製品中心の通化は6月の月次で、4、500万元(約7億円)の利益を計上した。
建龍は、吉林省国資委(公的機関で通化鋼鉄の筆頭株主)と協議の結果、7月に、建龍が、10億元現金出資し、国資委から株の譲渡を受け、66%を取得して経営権を握ることに合意した。そして、陳国軍というかつての社長を再度派遣し、国有企業を民営の手法で徹底的に改造しようとしたのである。
 それまでも、2005年に建龍が36%出資した後の経営改革により、給与は下がる一方で、リストラ対象者には、月間200-600元の勤務期間に応じた最低金額を払うだけ。そして現役の職員は月間1,000元のみだったが、金融危機時には平均500元未満だった、という不満不平がマグマのようにわだかまっていた。その一方で、建龍のトップは、月収数百万元も取っているとの噂が流れていた。1万人のリストラ社員の月収に相当する。
8.
これまでも多くの従業員をリストラしてきたのだが、今の3万人の従業員を5千人にするとは、これまた大変なリストラである。そもそも、国有製鉄所は、古来、病院から保育所、学校などのインフラをはじめ、鉄鉱山と石炭の採掘まで、すべてを一貫生産してきた、一つの社会共同体であった。
 社会主義経済では、低賃金、低価格の原料で、こうしたコンビナートに付帯する住民の生活がなんとか成り立つようになっていた。生産された製品は、その住民が生活してゆけるだけの収入を保証していた。
かつては10万近い従業員がいて、工場訪問の際には、生産現場のラインのみならず、発電所や病院など完備していることが紹介され、従業員の多さが自慢の種であった。会社の大きさは生産高のみでなく、何人の人間を養っているかも指標とされた時期があった。
 それが、改革解放後は、同業他社との厳しい競合にさらされ、90年代からは、インフラ関係、社会福祉関係は分離独立させ、鉄鋼生産だけに集中してきたのだが、それでも生産能力7百万トンで3万人を養うというのは、21世紀の競争社会では、困難に違いない。
 十年ほど前、かつて君津製鉄所の所長だった人から聞いた話だが、長い不況で、全国数ヶ所の高炉を止めることになった。同じ仲間として、長い間ともに働いてきた人たちに、辞めてもらわねばならなくなった。舟が沈みそうになったので、その中から何人か海に飛び込んでもらわねばならない。でも飛び込んだ人の多くは、船縁に指をかけて、もう一度舟に乗せて欲しいと頼む。その人たちの指を鋭利な刃物で切り落とさなければならない。それが高炉を止めるということだ、と。
9.
 武漢製鉄所でも、かつて劉所長から、同社が大規模のリストラを実行するに際して、多くの仲間たちには、製鉄所から出発する前に、馬と食糧、衣服をしっかり整えさせて、送り出さねばならない。馬も食糧もなにもなしで、路頭に迷わせるわけにはいかない、という話を聞いた。大都市の製鉄所だったからできることでもあった。
 この吉林省の朝鮮国境に近い通化の製鉄所を、唐山にベースを置く、設立後十年に満たない製鉄会社、建龍集団の経営により、2万5千人以上がリストラされるとの噂が、飛び交ったのである。
 米国のGMの工場閉鎖とリストラの苛酷さは、新聞でも取り上げられているが、吉林省の鉄の町通化では、この周辺に再就職の場所はなかなか見つからない。ましてや、それまでは鉄は国家なりとして、一生安心して暮らしてゆけると考えてきた従業員と年金生活者たちには、GMの労働者、年金生活者以上の将来への不安が襲ったことであろう。2万人余の従業員は他所に移るしか手立てはない。
10.
 その5でも触れたが、リオティント社の豪州国籍を取得した北京大学卒のエリート中国人幹部のスパイ容疑による拘留も、今回の建龍集団から派遣された社長の致死事件も、いずれも昨年の9月に起きた金融危機が引き金となっている。
一方は、4倍にまで膨れ上がった鉄鉱石価格が、急激な需要減退で、製鉄会社のボスと彼との間で結ばれてきた、中国人どうしの間の水増し契約の履行が、中国の悪しき伝統で、転売先がなくなった結果、秋以降は引き取りが出来なくなったこと。その不履行に対するペナルティを豪州の本社の指示に従って、各製鉄所のボスたちに、何とか一部でも引き取るか、ペナルティを支払うように交渉してきた男が、彼の内情を知る誰かから密告されて逮捕された。自分だけ儲けて、尻をすべて俺たちにかぶせて来るのは許さない、というかの如くに。
通化鋼鉄の社長も、一旦は昨秋の不況を理由に、撤退した通化鋼鉄に対して、手のひらを返したように、今度は経営権を握る66%を取得し、これまで営々と築き上げてきた、従業員の殆どを解雇する。こんなことを許しては、先輩に申し訳ない。しかもそのボスは利益を独り占めにして、1万人分の退職年金以上の収入を得ているのだ。
天網恢恢 疎にして漏らさず。
憤怒の労働者の鉄拳が彼を成敗した。
多くの中国人は今回の事件を、どのようにみているのだろうか。
腐敗した省政府の投資担当部門の官僚と、建龍のボスとの間の取引が、そのうちに明るみに出され、エンロンの如くに急拡大を遂げてきた、建龍集団が破綻するのではないかと危惧される。致死の社長への同情は少ない。
 因みに、建龍集団は鋼材貿易から身を起こした張志祥氏が1999年に鉄鋼生産企業に関与し、この十年で急成長してきた、製鉄、資源、造船、機電の4つの柱から成る企業集団で、傘下には唐山建龍、承徳建龍、吉林鋼鉄、黒竜江建龍、撫順新鋼鉄など5社を抱え、2008年の実生産高は654万トンで、2010年にはグループ全体で、年産能力は1800万トンに達するという。中国十大富豪の一人で、資産は29億ドルという。
 2009年7月30日 大連にて 

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天津のコンプラドール その5

1.
 その4を書き終えて暫くして、ブラジルからフランスのパリに向かったエアバスの、不幸な墜落事故があった。中国では当初はあまり大きく報じられなかったが、4名の中国人が搭乗していたと報じていた。数日経過し、殆ど生存者の可能性が無くなった頃、搭乗していたのは遼寧省の本渓鋼鉄の経営幹部と子会社の貿易公司の役員だと発表された。豪州とブラジルの鉄鉱石の山を視察して、帰途パリ経由で帰国予定であった。
 私の中国の友人は、この4名は、鉄鉱石の輸入関連会社からの招待旅行で、ブラジルから普通ならアメリカか日本経由で帰国していれば、こんな不幸に遭遇しなかっただろうに、とのコメントであった。行間の意味するところは、パリでの観光と高価な買い物に釣られた結果の禍であるということだ。
 かつて日本でも、大手製鉄会社の幹部が、取引先の複数の商社員を連れて、ブラジルやカナダ、南アフリカなど、一般の日本人にはめったに行けない場所に、鉄鉱石の鉱山を視察するという名目で、大名旅行をしていた古き良き時代もあった。90年代の終わりに、すさまじい鉄冷えが襲来した結果、複数のやくたいもない商社経由での輸入代金支払いを停止し、口銭も大幅にカットし、各鉱山会社との直接取引に変更した。その結果、こうした慣行は激減したようだ。
 日本での鉄鉱石商談は、大手ミルが幹事会社として、業界を一本化し、豪州やブラジルなどの鉱石会社との直接交渉によって、比較的安定した価格レベルを保ちながら、2003年ごろまでは双方の納得できる、再生産可能かつ穏当な展開を示してきた。鉱石会社も何社かは淘汰され、吸収合併されたが、残ったところは、黒字経営を保ってきた。最近中国アルミとの提携やBHPとの合併話などで話題となっている、リオ社の経営危機は鉄鉱石以外の部門での採算悪化や投資の失敗などが主因だと言われている。
鉄鉱石会社と製鉄会社は、お互いを「同じ船に乗り合わせた乗組員仲間」として、互いに相手なくしては生存してゆけない、という固い絆で結び合ってきた。お互いの目指す方向は、より競争力のある企業へという点で一致していた。
片方だけが、大もうけするということは、長い目でみれば通じないことだとの
はっきりした認識を共有していた。
2.
 この絆がゆるみ、両者の関係が大きく変動したのは、2005年の価格が前年比71%も上昇したことが発端であった。その後も毎年値上がりし、08年には96%も上昇し、5年間で4倍以上となった。こうした値上げの魁をきったのは、中国の鉄鋼会社の買い付け窓口会社であった。この間、石油の上げ幅も大きかったが、産業の基礎原料としての鉄鉱石が非鉄金属や希少金属のような大変動を起こすことは、なにか不自然な要素や背景が、作用しているのではないかと、かつてこのビジネスに関わったものとして、とても気がかりで、原因は何だろうかと長い間、気になっていた。
 どうして、中国の製鉄会社はこんなに急激な価格アップを受け入れられるのだろうか。いろいろな人に聞いてみたが、明解なコメントには出会えなかった。それが今年に入って、日本ミルが価格交渉の主導権を取り戻し、33%ダウンで決着したとの報道が流れ、中国側がそれをいっかな認めようとせず、膠着状態に陥っているとき、ある中国人の言葉が、ヒントとなりすんなりと私の頭に入ってきた。輸入割り当てという言葉だ。
3.
 言うまでもないことだが、商品の価格が需要と供給によって決まるというのは、ゆるぎのない論理である。しかし中国での鉄鉱石の価格が、日本の「同じ船の仲間」という特別な絆とは、無関係な「余分の輪」がいくつも介在していることが、4倍以上の値上げをもたらした原因ではないかということであった。
即ち、同じ船にもともと乗ってはいない、乗ってはいけない人が、船に乗り込んで、個人的な利益の為に、船を上下左右に大きく揺さぶったことが原因なのではないか、ということだ。
 それは、こうして起こった。年間1億トンほどの粗鋼生産量であった中国が、
過去数年の間に、あっという間に4倍以上の生産高を誇るようになったのだ。
中国各社の生産高の発表数字は、同じ粗鋼の何パーセントかが、切断工程での切れ端とか、あるいは不良品として、短期間後にすぐまた同じ炉に戻され循環されることから、何割かは割り引いて見なければならないが、4倍近くにまで膨れ上がったのは、事実であろう。
 それにしても、生産量の急激な拡大と、価格の急激な上昇が、ほぼ同じ比率というのは解せない。この裏には、なにか中国的なマジックが働いていたと見るのが妥当である。そのマジックの技、舞台裏が、なかなかつかめなかった。
誰しも、自分の作ったものが、高い値段で売れているうちは、あまり深刻にものごとを考えることはしないようだ。売れなくなり、経営不振に陥ると、その原因を突き止め、再び這い上がろうと懸命に努力する。そうした過程で、過去の4倍以上もの価格アップの原因を探し出そうとし、それを排除して、健全な状態に戻そうとする。そうした動きの中で、一つの事件が起こった。
4.
それは、7月に入って、中国当局がリオティント社の上海事務所の駐在社員4名を「国家機密を盗んだ罪」で拘束したことである。それから、いろいろな報道を注意して読んでいるうちに、何かが徐々に分かり始めたような気がする。
公開された資料に依ると、4名の所謂「スパイ」のトップは中国天津が本籍で、1957年生まれ、天津の抗大紅一高校卒業後、北京大学に学び、80年代には、赤い資本家と言われ国家副主席にまでなった、かの有名な栄毅仁の設立した「中信集団」という国有企業に入り、順調な滑り出しをしていた人物、胡士泰という男が本件の主役であるということだ。
 1992,3年ごろ、まだ外資系企業にトラバーユして高給を食む中国人が少なかったころ、彼は、オーストラリアの会社が北京に設立した事務所で、コンサルタントと貿易の仕事を始めた。7月15日付けの「新商報」に依ると、この事務所は北京東城区の香港マカオセンターというビルにあった。その後、彼はリオティント社に入り、ハマスレー鉱山の販売に携わり、オーストラリア国籍を取ったという。
 世界の三大鉄鉱石会社の中国事務所には、彼と似たような経歴の持ち主が多いと伝えている。かつて国有大企業や製鉄会社に勤務した経歴があり、英語も堪能で、中国の業界事情にも詳しく、各製鉄所のトップにも人脈がある人間を、自社の駐在代表に据えている、という。
 筆者自身も、1980年代初めから1990年代の終わりまで、中国に駐在し、或いは日本からたびたび中国に出張しては、こうした人々とも接触し、情報交換などして、各ミルの増産計画、即ち3年後あるいは5年後には、新たな製鉄所を某所に建設し、生産規模を現在の2倍にするとか、4倍にするとかの非常に景気のよい情報を得ていたことがある。彼等は、本当のことも漏らすだろうが、時にはガサネタのときもある。同じ供給者として、自分にも利益になると思われる情報を、故意にリークしたりもする。
 彼等自身は、中国語でいうところの「自己人」として、製鉄所のトップやその周囲の人々と、同じ仲間、身内として付き合い、夕食をともにし、高価な贈り物も届ける。贈りかたも完璧に熟知しており、贈賄として検挙されないような、とてもうまい方法を使っていた。ところが、ここに来て、誰か密告したのか、首都鋼鉄の幹部などの名前が新聞に発表されはじめた。収賄容疑である。
5.
 彼らが各ミルから入手した情報は、オーストラリアの本社に打電され、それらの情報を、何人もの人間から別個に送られてくるものを、整理して、その信憑性に点数をつけ、比較的確度の高い情報だけが、スクリーンされ、コンパイルされて、3大鉱石会社の経営トップに届けられる。翌年の需要の伸びや3年後の需要の伸びをしっかり頭に叩き込んだ経営幹部は、価格交渉の窓口担当に対して、自信を持って高姿勢で臨むように檄を飛ばし続ける。その結果が4倍近い値上げとなったのであると言えよう。
 この時に、3大鉱石会社だけが儲かったのか、というと、事はそう単純ではない。鉄鉱石価格が上昇している間、日本の各製鉄会社も空前の収益を誇った。株価も上昇し、配当も信じられないほどの配当を実行できた。その時点では、
オーストラリアの楽天的な男たちがよく口にする、ウインウインの状態であった。
 一方の中国ではどうであったろうか。
国有製鉄会社の幹部と自社で設立した鉱石の輸入専門会社のトップは、リオ社の胡士泰氏が、会社を訪問する時は必ず顔を出し、市況や世界動向に関する情報交換をしながら、夕食を共にする。この時に、相応の手土産を受領し、自社の必要量を内密裏に彼に漏らし、実需より何割か多めの数字を流して、その数量供給の密約をさせる。胡氏の本来のミッションは、支払い面などに問題のない、国有会社への販売量拡大が第一義であり、そうした国有会社との年間契約を締結して、ビジネスを成功させ高額の給与とポストを得てきたのだ。
 中国マジックのからくりは、上述の国営の製鉄会社が輸入割り当て量を自由に操作できる「鉱石輸入を目的として設立した特権的な貿易会社」が自社分以外の割り当て量を、年間契約を締結できないような中小の製鉄所に、プレミアムを付けて、配給してやることにあった。ところが、急激な需要減退の結果、
中小ミルは、そうした数量を必要としなくなった。それで、年契で約束した数量引取りを履行できなくなってしまった。胡氏の仕事は、契約相手に対して、昨年度の契約価格での、契約履行を迫ることであった。履行しないなら、契約に基づいて、ペナルティを支払うように求めることとなった。これが、事態を急転させる引き金となったようだ。
6.
 日本の場合は、殆どの製鉄所は、自前の専用バースに大型船で運び込まれた鉄鉱石を、自社の製鉄所の高炉の出来るだけ近いところに荷卸しして、コスト削減することを最大の目標として設計、立地してきた。
 中国の場合は、殆どの製鉄所は新設の宝山製鉄など一部を除き、古来鉄鉱石か原料炭の取れる内陸に設立されてきた伝統がある。そのため、オーストラリアから運ばれた鉄鉱石は、一旦、大連や青島などの公共の大規模鉄鉱石埠頭に下ろされ、内陸の製鉄所までの長い距離を列車やトラック、或いは長江などを内航船で運ばれる。
 その間に、実需以上の部分の鉄鉱石は、長期契約価格より割高な値段で、転売されて、その差益が、その貿易会社の収益となり、幹部の懐を潤してきた。この価格格差がある限り、そしてまた値上げによるコストアップを、製品価格に転嫁できる限りは、値上げを拒否しなければならないという、必然的な理由は無かった。逆に言えば、前年価格で仕入れた原料をもとに、新価格での鋼材を顧客に転嫁できる限りは、経営者にとっては、右肩上がりの楽な経営ができたという点で、心の底ではありがたがっていたかもしれない。この動きに日本ミルも便乗した格好だが、本来は、基礎原料としての安定的な価格水準の維持を最優先させねばならなかった。原油価格の高騰に伴って、石炭をはじめ、あらゆる原燃料の価格が不自然なまでに高騰した。それを阻止しようとする健全な経営感覚が麻痺させられた。供給側でも、3大鉄鉱石会社の寡占が極端に進んだ結果、競争原理が働くなったことも、大きな影響を与えた。
7.
 胡士泰氏が逮捕され、いろいろな情報が飛び交い、オーストラリア政府は、これはあくまでビジネス上の問題で、国家機密云々というのは濡れ衣だとし、中国のビジネスの信用度に大きく係わってくるとコメントしている。
 中国のインターネット上には、胡士泰スパイ事件のアンケート調査に対して、13万人近い人からのアンケートの回答を得たとして、91%以上の人が、リオ社の国内外での結託(筆者注;3大鉱石会社のカルテル行為と、中国の貿易会社との結託行為を指すか?)は、国有企業と外資企業との間の交渉で普遍的に見られる現象であると看做しており、89.5%の人が、本件は「国家機密を盗んだ」行為と看做している。また、6.9%の人は、これは産業スパイだとし、3.6%の人が、これは商売上の贈賄だと考えている、と発表している。
 殆どのインターネット庶民は、胡士泰に対して、譴責せねばならぬ人間だと考え、更には、「漢奸」で「買弁」だと呼んでいる人もいる。「漢奸」とは売国奴の意味で、歴代王朝が滅びるとき、敵に通じて、国を滅ぼした売国奴のことである。記憶に新しいところでは、汪兆銘や周作人に与えられた。
要は中国人で北京大学という中国の最高学府で学びながら、オーストラリア国籍を取って、リオティントという外国企業の為に、中国の製鉄会社、ひいては中国国民に高い鉄鉱石を売りつけて、国に対して敵対行為を行った売国奴だということか。
 おっと、忘れてはいけない。「買弁」コンプラドールだと呼んでいる人たちがいまだにいることだ。百数十年前にイギリス資本などの為に、中国の国有企業とか政府機関との間に介在して、莫大な利益をあげてきた人のことを、21世紀のインターネット庶民は、まだ忘れていなかったのだった。しかも胡士泰氏は天津の抗大紅一という名前からして先の戦争中に抗日を掲げた有名大学の付属高校出身だから、天津のコンプラドールの伝統を受け継いでいることになる。これには正直、私もびっくりした。
8.
 「国家機密を盗んだ」という罪は、今後の調査の進展を注意深く見守らねばならない。中国の鉄鋼生産政策は、国家機密なのか、ビジネス上の秘密なのか、これは議論の分かれるところであろう。中国の特色ある社会主義経済体制下では、どのような判断が下されるのであろうか。
ただ、ここ数日、胡士泰氏と接触したと見られる数多くの国有製鉄会社の関係者が、次々に呼び出されて、尋問を受けていることを報道していることから、
問題の根深さが伺い知れる。盗んだ罪を咎めるためには、それを盗ませた人物の特定と、その代償としての金品授受の有無。そして、それらの関係者の処分が発表されることになろう。
 今後、こうした機密を漏らしながら、個人的に懐を肥やしてきた連中が再びのさばることのないように、というのが関係当局の狙いであろう。
 「国家機密を盗んだ罪」と、「それをさせた連中」というフレーズを書きながら、30年ほど前のことを思い出さずにはいられなくなった。筆者自身、北京の新僑飯店に滞在していた頃、数名の会社の先輩が、かつてこのホテルに軟禁されていたことに対するお詫びとして、中国の公安当局から招待されて、北京にやってきたことがあった。3階の廊下を歩いているとき、私たちの事務所にその先輩たちが挨拶に来られた。軟禁されていたのは、40数年前の文革のころであった。私が日ごろ気さくに声をかけていた、ホテルの年配の従業員が、
私のところに寄ってきて、耳元で、「私は彼等を知っている。」と驚いた様子で「私は彼等に食事を運んでいた。」とささやいた。
 軟禁された理由は、通常の業務報告で、その当時の出来事を日本の本社に連絡していたことが、「機密を盗んだ」との嫌疑を受けたためだと、聞かされた。
その報告書の文中に、街頭で大字報という宣伝ビラを張っているひとや、示威運動をしている人たちを、「連中」と呼ばわったということが、当局の日本語堪能な審査官に咎められたから、とも聞かされた。それからは「連中」という単語を報告書などに使うのを止める事にした。
9.
 2008年8月の北京オリンピックが閉幕して、リーマンショックで、世界金融恐慌が起こり、日米欧の鉄鋼メーカー各社は大減産に追い込まれた。自動車など鉄を使用するすべての産業の需要が激減し、あらゆる分野での鉄鋼消費が落ち込んだ結果、過去4年間、あれほどの活況を呈した鉄鋼業界は谷底に沈んでしまった。
 この影響は、当然のことながら、鉄鉱石価格の下落につながった。 2009年の鉄鉱石商談は、上述したように、33%の値下げで決着したが、中国はこれを認めず、40%以上下げろと主張してきた。
 それが、当局の取調べが始まったころから、状況に変化が現れた。7月15日には多くの製鉄会社が、33%値下げで同意したと報じられている。これは、多くのスポットサプライヤーたちが、これまで長期契約価格より下回った価格での取引に応じ、3大鉱石メーカーとの価格妥結の前に、より多くの鉄鉱石を中国向けに販売してきたのだが、そろそろ景気の底を打ったと判断して、値上げに転じたとの情報にも関係していることだろう。需給のバランスが取れ始めたことを示す証左だ。
10. 
しかし、33%引きで手を握ろうということになったのは、これ以上、価格交渉を長引かせて、膠着状態を続けていられなくなったのが主たる要因だと、推測される。早く次の船を回して、他人よりも早く安い価格で、原料を調達して、より競争力のある鋼材を出荷して、4兆元の予算の建設鋼材部分を出来るだけ沢山取り込もうとする動きが出てきたことによる。現金なものである。
中国政府の推進しようとする、中小規模の製鉄会社を淘汰して、生産能力を徹底的に絞りこもうとする大号令がでたので、淘汰されてはかなわぬと、将来を見越す力のある経営者たちが、大手メーカーに先んじて、妥結の道を選んだのであろう。中央政府は政策による厳しい淘汰で企業の数と生産能力を削減し、製鉄業を健全なものに引き締めると言いながら、一方の地方政府は、同地区の大きな税金収入の柱であり、基幹産業で、周辺関連企業の雇用問題などから、そうやすやすとは淘汰は実現できまい、というのが業界関係者の大方の見方である。
 日本の製鉄各社も、大分など止めていた高炉に再火入れを決めたところが出てきた。需要回復が、現実のものとなってきたことが大きい。昨年9月から始まった、世界的なマイナスのスパイラルが止まった。リオ社の胡士泰氏のスパイ事件がトリガーとなって、一つの時代が終わろうとしている。20ドル前後だった鉄鉱石の価格が、4倍に跳ね上がり、原料炭やコークスなども暴騰も加わって、産業の米と言われた鉄鋼までが、バブルの波にさらされた。
世界の鉄鉱石鉱山会社の数が極端に減少し、その3大鉱山のうち、BHPビリトン社とリオティント社という2社が合併するという。これが、鉄鋼を消費する産業と諸国民から受け入れられるかどうか。そういう時に、またしても、中国には、天津のコンプラドールが登場して、会社という公器の収益のためではなく、ポストについている貪欲な人間の個人的な利益のためにという人間の欲望を最大限に利用して、ビジネスをしてきた「買弁」は今後も、姿を変え、形を変えて、新たな舞台に登場し続けることであろう。経済活動の活況が続く限り、消え去ることはあるまい。
(完)  2009年7月16日 於大連


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天津のコンプラドール その4

1.
 梁さんが香港に去った後、私は北京転勤となった。外貨兌換券(FECと称した)が普及し始めていた。外国人は本国から持参した外貨や、送金されてきた給与を、この兌換券に交換しなければならなくなった。輸入された生活必需品や酒タバコ、家電などはこれでないと買えなくなった。と同時に、一般の市場や商店で売っているものも、これで支払うことになった。最初のころは、偽札ではないかと疑われて受け取らない店もあった。地方に出張に行くときは、北京で元に交換して、持ってゆかないと通用しなかった。
 そのうち、北京飯店の前や外人向けの友諠商店の前に、この兌換券を元と交換しないかと、もちかけてくる闇のブローカーが出没するようになった。本来等価であるはずの兌換券と元は、みるみる内に元安になっていった。これが手に入れば、のどから手の出るほど欲しいカメラや家電製品が買えるのだ。
 「線香の火」という随筆集のなかで、日中戦争の起こる前の中国を旅していた、金沢大学の教授だった増井経夫氏が、そのころの中国各地の通貨交換レートについて触れている。病の篤くなった魯迅に、日本に来て治療するよう、岳父からの招請を伝えに、上海に魯迅を尋ねた。結局魯迅は日本には来ないのだが、上海で暫く暮らした後、船で広州に向かった。広州の町で買い物をして、金を払う段になって、上海で使っていたお札を出すと、つりは広州で通用している札で、自分の想定していた額より何割も多く返ってきたので、奇異に感じた、と書いている。広い中国では、各地で何種類かの紙幣が発行されて、通用していたが、それぞれ発行元の信用度で交換レートが異なった。これは清朝時代以来の「票号」という手形の発行元がそれぞれに発行,流通させていた「票」の信用度とか、馬蹄銀でも銀の含有量などでレートが違っていたことから、中国では、極当たり前のことであった。
2.
 中央銀行が、一般庶民向けに発券していた人民元と、外貨の裏づけのある外貨兌換券を併行して発券するようになった。これはそれまで鎖国のように世界から孤立してきた中国の経済を、ドルや円という西側資本主義経済の中に、踏み込ませようとする試みの意思表示であったと思う。
 それまでの元というのは、外国人が持ち込んだ円やドルを、入国のとき、交換申請書に正確に申告し、元に交換して使用した後、出国の際には、すべて外貨に戻さなければならなかった。当然ながら、持ち込んだ額以上を、持ち出すことはできなかった。通貨鎖国状態であった。駐在員仲間で、賭けマージャンをして大量に勝った人には、「そんなに稼いでも、国外持ち出し禁止だから、円で払うからまけてくれ」と冗談を飛ばすのが、負け惜しみであった。
カメラやラジカセなど持ち込んだ物は、出国するときに必ず持ち帰らねばならなかった。何万円もするカメラを無くしたり、泥棒に取られたりしたら、入国時に査定された金額を罰金として、徴収された。持ち込んだ品を高値で中国人に売って儲けようとする輩が多かったからだ。実際に盗まれたり失くした人は、罰金まで払わされて、泣き面に蜂であった。
3.
 清末にも、自国の通貨とは別に、欧米諸国から茶や絹織物の代金として流入した大量の銀貨がメキシコ銀として流通していた。これはまさしく、銀の裏打ちのある正真正銘の通貨で、世界のどこに出しても通用するものであった。当然、このメキシコ銀と清朝の貨幣との交換レートは、日々変わって行き、大量の流入によってインフレが起こり、一定額の給与のみで、清朝を支えてきた満州八旗の旗本たちを窮乏に追い込んだ。その結果、曽国藩、李鴻章、袁世凱と連なる、漢人の私兵軍隊、淮軍、湘軍、その後の北洋軍に、実権を奪われることになった。
徳川末期の旗本たちも似たような運命をたどっている。特に、日本の金と銀の交換レート差とメキシコ銀であふれる清国の4倍近い差を、狙い撃ちにされて、ハリスを含む幕末日本にやってきた欧米人たちは、大量の銀貨を持ち込み、4倍の値打ちのある日本の金貨小判を大量に持ち出した。その防止策として幕府の銀貨は改鋳され、悪貨に駆逐された結果、猛烈なインフレにみまわれ、幕府からの支給だけに頼っていた旗本たちは窮乏し、徳川幕府の命脈をちぢめることになったのは、歴史の示す通りである。清王朝も徳川幕府も同じ旗本体制による鎖国は、金と銀との為替レート差に目をつけた、欧米諸国の貪欲な使節と商人たちの餌食になったと言えよう。
4.
 1970年代から80年代にかけて、中国に暮らしていた外国人にとって、ある日突然、元から兌換券に変更され、それにしか両替できなくなったので、買い物するのに、店主の態度がコロっと変わったのに戸惑った人が多いと思う。最初は、偽札じゃないかと疑がわれ、受け取ってもらえなかった。それが暫くすると、二重レートになり、重宝されるようになって、今度は逆に、これでないと売ってくれなくなった。
袁世凱か段祺瑞かの妾宅といわれていた、立派な四合院を改装して「四川飯店」としてオープンさせ、観光客を呼び寄せることが始まった。紫禁城の北の北海公園の中の、西太后たちが宴を張っていた宮殿も改装して、「仿膳飯荘」として、外人向けのレストランを次々に開き、外人料金として値段を吊り上げていった。それまでは、宴会といえども、一人30元とか40元だったのが、百元、二百元へと値上げされていった。
 この頃から、インフレが始まり、元の切り下げが始まった。西側各国との貿易を活発化し、来料加工などあらゆる手段を導入して、外資を呼び込み、外貨を稼ぎ出すためには、自国通貨を切り下げて、輸出競争力を高めてゆくことが出発点であった。改革開放とは経済的豊かさの追求であった。豊かさの追求をテコにしたのが、現代中国の特色ある社会主義市場経済である。
 円とのレートで言えば、もちろん円自身が切り上ったことも大きいが、1970年代の1元150円から、急激に切り下がり、90年代の終わりには15円と、
10分の1にまで切り下がった。その分、インフレが進み、月給も3元から何百元の時代に突入した。それでも円に直すと1万円以下であった。
5.
 幕末に清国から大量の安い銀が日本に持ち込まれ、日本の金の小判が大量に流出した時代と似たような状況が起こってきた。それは日本のみならず、米欧にも急激なスピードで広まっていった。21世紀の今日では、銀の代わりは、繊維製品から運動靴、玩具、ライター、自転車などありとあらゆる軽工業品が、世界市場を席巻した。今ではテレビなどの家電は殆ど中国製となってしまった。
 大量のドルが中国の外貨口座に記帳され、2兆ドルを超えた。英国が買った大量の茶の代金の銀が貯まりに貯まったのが、19世紀の初頭である。そのころの清国は、英国が売りたがっていた綿製品や毛織物をまったく必要としなかった。朕の国は地大物博で必要な物はすべてあるから、イギリスから買いたいものは何もない。ただ、イギリスが茶とか絹を欲しいというから、分けてやろう、というのが清朝のイギリス使節への傲慢ともいえる回答であった。
 それを腹に据えかねて、その銀を取り戻すために売り始めたのが、アヘンであったとは先に触れた。
 今の米中関係は1840年以前の英清関係と、この点で似ている。今の中国も、米国から買いたいものがないので、米国の債権を買うしかない。この債権がアヘンのような毒性を発しないとは限らない。人体への害毒というよりは、ドル安など、中国の金融産業界への悪影響である。アメリカは、アヘンや債権に代わるものを、早く中国に提供できるようにしなければならない。いつまでもこの状態でやっていけるとは考えられない。かといって、収縮均衡にするのでは芸が無い。果たして何が良いのであろうか。
 或いは、中国政府が小麦など食糧買い付け価格を、戦後日本のように上昇させて、農民の購買力を高めることで、中国全体の給与水準も上昇し、人件費面での輸出競争力が低下していけば、今日のような中国製品の世界制覇は緩和されるだろう。それでも米国の赤字垂れ流しは止まないだろうが。
6. 
 自転車が、中国人の生活で最も高価な財産であった時代。それがカラーテレビになり、今ではマイカーの時代になった。おかげで、最近では北京市内の車の数が増えすぎて、夕刻の退社時間には、道路と言う道路は駐車場と化し、歩いて5分の距離が20分かかる様になった。北京市内の自動車の必要駐車場面積は、市中心部の一つの区に匹敵するといわれている。それで曜日に分けて、奇数と偶数のナンバーいずれかしか、市内に入れないような規制を取り出した。それでも、「お金持ちは奇数偶数の2台で対策を講じている」と口さがない人は言う。
 人民公社が無くなり、請負制で農民の生産意欲を高めて、生産性をあげて、世界の経済水準に、10年で追いつこうとしていた変化の時代。北京に暮らしていた外国人は、まだゴルフ場も無く、週末に自由に郊外に外出することも制限されていた。少し遠くに出かけるには、旅行証を申請しないと、遠出から帰ってくると、警察からのお咎めを受けた。尾行されていたのか、或いは誰かが通知したのであろう。気味の悪い状態はその後も続いた。
 それで、週末は市内の天壇公園や頤和園、香山のお寺参りをするぐらいしか、娯楽がなかった。車も無いので、たいていは住まいの近くの「国際クラブ」
という外国人のための映画館やプール、テニスコートなどで過ごした。
 ある日の午後、我々がテニスをしているところに、北京の体育協会の関係者が入って来て、日中友好テニス大会を開きたい。ついては参加者の名簿を出すようにとの申し出を受けた。 我々は、大使館の人や商社の駐在員など十数名のリストを出した。当日、先方の名簿の中に、梁某という名前があるのを見つけた。試合後、懇親会で挨拶した。年恰好は60を超えているようであった。
 確か、私の梁さんの次兄は、長男が身代金誘拐事件で殺された後、彼の後を継いだのだが、自分の性格に向かないとして買弁をやめて、自分で貿易会社を作ってビジネスをしていたが、革命後は貿易が国家管理になったので、教育関係に転じ、北京に移ったと、梁さんから聞いたことがあった。
 私は梁さんに「私は天津で、梁文奎さんという人とテニスをしたことがある」と話を切り出した。彼は、突然の話題に驚いたようだった。ややけむたそうな雰囲気ながら、「彼は私の弟だよ」と応じたが、すぐ自分の箸で料理を取り分けて、私の皿に乗せてくれた。そして、「彼はもう天津にはいないよ、香港に行ってしまったよ。」と話したきり、話題を他に転じてしまった。これ以上弟のことに触れて欲しくない感じであった。それで、彼の気持ちを察して、昼のテニスの話に戻した。北京にはテニス人口はどれくらいかとか、外国人が使用可能なコートは何面くらいあるかとか、とりとめのない話で、その日は終わった。
7.
 それから1ヶ月ほど経った頃、我々がテニスをしていると、隣のコートに彼と仲間たちが入ってきた。我々は、試合の合間にベンチに腰掛けながら、最近の北京のレストランが急に高くなった話をすると、「それなら中国の職員に頼んで、元で払えば、安く上がるよ」という話などをし、私が貿易会社に勤務しているという話をすると、彼も、「若い頃は、自分で貿易会社を作り、香港、イギリスなどと貿易をしていたのだ」と語りはじめた。
 「建国後は、国営の進出口公司で働いていたけれど、買弁をしていたという経歴がなにかと問題にされたので、体育関係の教師の仕事が見つかったのを機に、そちらに移り、今は体育協会の仕事をしている」と話してくれた。
 「私は日本の貿易会社の北京駐在として、五金鉱産公司との取引を中心に仕事をしている」というと、何名かの対外貿易部傘下の公司の人たちの名前を挙げて、以前一緒に働いていたと話してくれた。
 中国の対外貿易は、中央政府直轄の対外貿易部という官庁の下に、商品分野ごとに分れて、限られた数の進出口公司が独占していた。北京の総公司の下に、各省、各港湾に分公司が置かれていた。我々外国商社と接触するのは、すべてそれらの公司の職員で、日本でいえば役人であった。
 国内の各需要家から、向こう半年間に必要とされる鋼材とか原料などの明細を取り纏め、年に2回、大量の注文をすることで、世界一安い価格を引き出そうと懸命な駆け引きが繰り返された。貨比三家、と称して3社以上の供給者から見積もりを取り、その中の一番低い見積もり提出者を上手く誘導して、他から更に廉価な見積もりがでているように疑心暗鬼をおこさせ、さらに2割、3割の値引きを突きつけた。それでも供給過剰で行き場を失った大量の鋼材が、毎年数百万トンも中国に輸出された。これはこれで、世界資本主義市場の需要と供給のアンバランスを補って、鉄鋼メーカーの存続と成長には何がしかの貢献をしたのかもしれない。固定費を薄めるための商売が続いた。
私自身もそうした取引の中で、対中貿易の実践的な方法を学び育ってきたわけだ。その間にいろいろな人々に遭遇した。腐敗し、私腹を肥やす人を見ながら、私自身は距離をおくことができたのは、そうした人たちの末路を見てきたからであろう。香港に高飛びした男。相場に失敗して二度と祖国に戻れなくなった人。友人をすべて失った者。人から後ろ指をさされることになった人たちを、何人も見てきた。
8.
 進出口公司の買い付け担当のことを、日本駐在員社会ではそれぞれに渾名をつけて呼んでいた。彼等はたいてい二人で外国人との商談に臨んだ。主談と書記という格好で、書記は一言も発せず、何も記録していないようにボーッとしていながら、主談の発言に問題が無いか、外国商人と何か癒着でもしていないかチェックしていた。
 どのように外国商社と商談するかの手引書というものがあって、あとになってからの話だが、親しくなった人から笑い話として見せてもらったことがある。骨子は、共産ソビエト時代の輸入公団が、欧州の会社との交渉のプロセスを記述したものを、中国版に翻訳したものだ。だが、買弁がこうした外国貿易を仲介してきた中国で、一人で交渉を行わせることの危険性は、長い伝統から脱け出ることのできないほどのDNAとして、染み付いてしまっているので、この防止のために二人での相互監視体制が、腐敗の起こりえないといわれた社会主義体制下の国営公司でも必須であった。
  そうした対外貿易部傘下の進出口公司の独占状態が、1980年代の初めに、突如崩されることになった。それまで、対外貿易部に独り占めされてきた
貿易のうまい汁を、それぞれの産業、工業を所管する冶金工業部とか、石炭部という省庁が、冶金進出口公司とか煤炭進出口公司を設立して独自に貿易できるようになった。
 これが、中国の対外貿易の飛躍的な発展の導火線となった。その後、中央の各工業部だけでなく、上海や広東など主要都市の市政府も市名を冠した貿易公司を設立し、更には、各個別企業が傘下の専門貿易会社を作って、中央の支配から自由になった形で、諸外国との貿易を始めた。
 とりわけ、香港やマカオの中国人経営の貿易会社との取引で、相互に相手の
かゆいところに手が届くようになると、この腐敗の細菌は一気に増殖した。
大陸の公司が、香港に自分の会社の出先機関として、現地法人をつぎから次へと設立し、そこに取り扱いにからむ口銭をどんどん溜めていった。
 こうなってくると、それまで二人体制で、相互監視してきた、腐敗防止用の
薬も効かなくなってきた。対外貿易部のみで独占してきたときには、比較的腐敗も少なかったが、硬直的であった公司の先生方の対応に大きな変化が現れてきた。
9.
中国内でも同じ商品を扱う公司が幾つもでき、メーカーの販売担当との関係とか、個人的な結びつきが、その商売に大きな影響を与えるようになってきた。
 中国の工業生産高が年率10%以上の大きな伸びを示し始めると、産業の米としての、鉄鋼生産に欠かせない、銑鉄とかスクラップ、或いは鉄鉱石という原料の調達が、大変重要になってきた。
 つい2年ほど前までは、大量の銑鉄を日本に輸出して、日本の鉄鋼増産を支えてきた中国の中小高炉は、今度は中国各地からの鋼材の需要増加に対応するために、大量の銑鉄スクラップの調達に走った。社会主義経済で年間の生産計画を作って、中央政府の冶金工業部から、所要銑鉄量の配分を受けてきた鉄鋼メーカーは、今度は進出口公司に出向いて行って、増産で足りなくなる分を海外から調達するように懇願しなければならなくなった。原料さえ入手できれば、そしてそれを製品にさえ加工すれば、莫大な利益を入手できるのだった。
 この時に何が役に立つかといえば、窓口どうしの人間関係であり、その人間関係というものも、金銭的なものと切り離しては考えられないのである。それがこの国の必然であり、それは日本でも似たようなものであるが、社会主義革命を経て、戦前のどろどろとした状態から抜け出し、清貧を第一義とした社会になったかに見えた30年を経た後のことでもあり、“旧社会に戻った”というため息が、年配者の口から漏れるようになった。
 しかしそのため息の一方では、個々人が富を追い求めることができるようになった、というか、主義の金縛りからようやく解放されて、もとの漢民族の古くから親しんできた慣習に戻って、自由の空気が吸えるようになったという安堵感も感じられた。
 清廉、清潔な主義を掲げるだけでは、社会は住みやすいとは限らないようだ。
10.
 こうして現代の貿易は国営の進出口公司から、民間の誰でもが設立できる、貿易会社の時代に移った。もはや買弁は必要なくなったように考えられた。ところが、である。買弁は死なず、蘇生してきたのである。いや蘇生しただけではない。更に細胞分裂を重ね、19世紀植民地時代よりも、より大がかりとなった。今日、買弁は、中国各地の市役所の経済担当部門の局長のために、外国資本を呼び込み、有望な区画を払い下げてもらい、共同でその土地を工業団地にし、マンションを建設して、その投資額の中から、莫大なリベートを取る。それを販売して、上層部へ上納し、次の開発のための払い下げを拡大してゆく。それでより高い位の官に就いてゆく。買官である。
 これは、かつての東京湾埋め立てによるコンビナート建設とか、1960年代に日本の産業資本と国や県が一体となって、通産省の旗振りの下で、世界で物づくりのトップレベルに躍り出る、日本の産業構造の現代化を推進してきたことと、あわせ考えると面白い違いが見えてくる。
 日本にも確かに、造船疑獄とかロッキード事件、そして直近では防衛省次官などの腐敗がはびこっている。但し、その頻度と程度において、日中間では大きな差があると言わねばならない。かつての日本の通産省などの幹部は、もちろん、自己の出世のためもあったが、資源小国日本の発展のためには、何が一番よいかと真剣に考えていた時期もあった。自分の懐を肥やそうとして、役人になろうというモチベーションは相対的に少なかったと言える。
 中国の役人は、もともと役所の高官になることで、そのポストにいる間に、どれだけの財産を溜め込めるか、が最大のモチベーションの者が多い。況や、自分が長官である間に、実力のある買弁と手を組んで、そこと結託して自分の富を増やすことが最大の眼目であるような役人が多い。次からつぎへと摘発され、テレビでその死刑の場面まで放映されながら、今尚後を絶たない。
 中央政府の政治家の中には、国の発展の為に、身を粉にして活躍している人が何名かいて、そうした人たちがいることが唯一の救いであるが、地方レベルで、市長や省長クラスの役人の腐敗がなくなるのは、黄河の水が澄むのを待つより遠い先のように感じられて、ため息が出る。
それでも中国は発展し、人々は世界の中で、アメリカ人に次いで明るく、楽観的に暮らしている。
 2009年5月 大連にて 

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天津のコンプラドール そのー3

1.
 梁さんの口から出た「四人組」というのが、私の耳に蘇った。中国語では「四人幇」(スーレンバン)と言う。前にも書いたが、梁さんの父親は当時の天津で「広東幇の最大富豪」と呼ばれていた。梁さんを牢屋に入れたのは、「四人幇」だったが、その「四人幇」が今度は獄に繋がれることになったのだ。わずか十年の間に、天地がひっくり返った。
 梁さんの父親、梁炎卿は吝嗇としても多分、広東幇のナンバーワンだったかも知れない。劉海岩氏は次のように記す。梁は平素から吝嗇で聞こえ、朋友や同郷人を助けたり、彼らの事業に出資したりすることはなかった、と。
 これは、彼が唐氏のように、自分の故郷から若い才能を呼び寄せたり、事業を起こしたりしようとしなかったためでもあろう。しかし、広東人の同郷会館を建てるときには、英国最大の洋行の買弁で、資格も古く、個人財産も最も大きいので、20世紀の初めには、同郷人たちから「広東幇の首領」に挙げられていた。
 20世紀の初め、天津に寓居する広東人のための会館を建てようという気運が盛り上がった。当時の天津税関長だった広東同郷人仲間でのナンバーワン、唐紹儀(前にも述べたが、袁世凱の下で、内閣総理大臣を務めた。その内閣の農林次官に梁さんの長男が就任した)が提起し、多くの天津在の広東人の賛同を得た。結局41名の発起人の会長に、梁さんが選ばれたのだ。同郷人から寄付を募り、その額は11万余両、大洋銀2万元余が集まった。その中で梁さんの6,000両が最多であった。次が唐紹儀の4,000両であったという。
 会館は1904年に着工し、1907年に竣工した。その後、会館は広東人のあらゆる集会、慶祝、葬祭などに使われた。梁さんは役員を務めた。辛亥革命後、天津の広東人は会館で何度も集会を開き、1912年3月7日、広東会館役員会が発起人となり、250名の代表が国民募金連合会を開き、梁さんがスピーチを行った。同年9月、同じ広東人である孫文が、広東会館に来て、
同郷人たちの熱烈な歓迎を受けた。このころが、梁炎卿の数少ない社交活動だった、と劉氏は記す。
 2.
 1912年、長男の梁賚奎がアメリカの大学から帰国して、袁世凱系の唐紹儀総理の時に、短い間農林次官を勤めていたと書いたが、まさしくこの時は、
梁炎卿が自分の息子を政界に送りこみ、祖国のために何かしなくては、と考えていた時期であったであろう。
 もしも長男が、同じ天津在の広東籍の先輩であった唐紹儀内閣で、任務を果たすことができ、順調に政界に乗り出していたなら、彼の買弁生活は終わりを告げていたかもしれない。政治家の父親はやはりそれなりに政治に関与せざるを得なくなるであろう。買弁ではいられなくなったであろう。実業に乗り出していたかもしれない。いずれも、仮定の話である。この話は袁世凱と国民党との争いの中で、胡散霧消してしまう。
 中国の辛亥革命後の現実の政治は、袁世凱によってめちゃくちゃにされたというのが、新中国の歴史家の定説である。袁世凱にはとてつもなく立派な墓がある。死後、子分の徐世昌が、袁の原籍地の河南省の彰徳にとんでもなく大きな墓を建てた。皇帝を凌ぐほどの巨大な墓である。解放後、この墓は破壊されずに、政府は二つの碑を建てた。一つは墓の大門の前にあり、「窃国大盗袁世凱」と刻まれ、もう一つは墓前にあり、これにも「窃国大盗袁世凱」とあるそうだ。国をめちゃくちゃにした大盗賊というのは、今後も覆されることは無いであろう。自らが皇帝になるために21ヶ条の売国条約を受諾したというのは拭いきれない汚名である。
 3.
 清末、民国初めの政治家の伝記類が、最近になって陸続と出版されている。
新華書店の伝記類を並べた棚には、古い歴史上の人物や欧米の著名人や文化人の伝記よりも、この百年前後の近代の登場人物の伝記の方が沢山並んでいる。
李鴻章を初め、曽国藩とか左宗棠など一般の日本人には余り馴染みのない実務的な政治家など、新中国成立後は否定されてきたか、或いは無視されてきた人物の中にも、実際は、祖国の近代化の為に、心血を注いだというあまたの人々のことを知るべきだし、調べて記録に残しておこうと言う気運が起こってきた。またそうした出版物を買う人が増えてきたというのも事実だ。それで、同じ人物についても、何種類もの伝記や、評伝などが新たにどんどん出版されている。
しかし、袁世凱の伝記はあまりみかけない。それで、民国から解放後まで継続して中国の政治世界、文化大革命で批判もされ、もまれながら、活動を行ってきた歴史家、「古史弁」の著者、顧頡剛氏の「中国史学入門」の中から、要約する。
袁世凱は李鴻章の死後、彼がそれまで握ってきた西洋式武器を備えた清朝の軍隊を、みずからの支配下に置いた。これが20世紀初頭の中国が、共和への道を歩むとき、大きな障害となった。顧氏によれば、袁世凱には三人の部下がいた。王士珍、段祺瑞、馮国璋の三人。この三人がアイデアを出し、実行方法を考えた、という。ある人が評すに、王は龍、段は虎、馮は狗で、もっとも貪欲だった。
この筆法からすると、袁世凱はアイデアを描き出す頭脳も、それを実行に移す方法を考えることもできなかったようだ。狗に擬せられた馮はその後の行動でその貪欲ぶりを余すところ無く発揮している。龍とか虎に擬せられた二人は何がしかの良いことを残したのであろう。
4.
武昌起義が起こるや、清朝の朝廷は袁世凱に鎮圧を要請した。袁世凱は、自分は前線には出向かず、狗と呼ばれた馮国璋を震源地の武漢三鎮に出陣させた。長江の北岸の漢口で軍を留めて、革命軍のいる南岸の武昌には攻め込ませなかった。袁世凱はこうしたやりかたで、清朝皇帝に圧力をかけ、退位させた。
 そして、所謂南北和議の会談が開かれた。南側、即ち孫文らの革命側は、伍廷芳を代表とし、袁世凱の北側は唐紹儀を代表とした。唐紹儀は繰り返すが、天津在の広東人で、梁さんの父とともに、広東会館建設の主唱者である。
南北和議が成立し、袁世凱のもとに孫文がやってきた、熱っぽく理想を語る孫文の広東人の話す言葉を、「彼は何を言いたいのかね。彼の話はチンプンカンプンで少しもわからない」と袁世凱が側近に漏らすのを、ドラマ「共和への道」で挿入していた。この二人が理解しあうには、梁さんのような広東出身で天津に長く生活している人間が、通訳して中を取り持たないと、うまく意志の疎通ができなかった。そうした小さな誤解や理解不足が、その後の悲劇の引き金となったとも言えよう。
Compradorはポルトガル語で、日本語訳は仲買人、仲介者、中間商など。
日本の国土の25倍もある中国で、北京の軍閥と南方の革命家の間には、イギリス人との場合と同じように、仲介者が必要であった。長崎には「金富良社」というコンプラドール仲間の組織があって、日本のCompradorはそこに集い、南蛮人の欲しいものを、買い付けてくるのが主な仕事であった。横浜にいたら、
もっと別の動きをしていたことだろう。
幕末、西郷の言葉を幕府の役人に上手く伝えるのには、江戸屋敷にいた薩摩藩士の協力があったから可能であった。広東人が語る北京語は、つい最近まで北京人によって“お天道様も神さんも怖くないが、広東人がしゃべる北京語が一番怖い”と揶揄されてきたくらい、耳障りで一番聞きたくない言葉だったのである。
5.
話を南北和議に戻すと、談判は南側が孫文を臨時大総統に推して、一歩も引かなかったので、決裂してしまった。袁世凱はそれならばそれで、戦争を続けるまでだと妥協しない。孫文は自分には強大な軍隊が無いので、仕方なく、宣統帝の退位を条件に、袁世凱が大総統に就くことを受諾するほか無かった。
話は遡るが、顧氏は著作の中で、袁世凱の生涯はあらゆる手段を使い、奸計を用い、陰険なたくらみで政権を手にした人物として描かれている。前代の光緒帝を退位させたのも、彼の仕業であるとしている。
次の挿話は、顧氏の書からの引用だが、戊戌の政変で日本に亡命した梁啓超が書いたものが、根拠となっているので、このクーデターが袁世凱の密告によって起こったということにされているのだが、異論もあり、複雑な要因が絡み合っていたことであろう。
康有為が新政を実行するために“維新”を行おうとして、“強学会”を創立したとき、袁世凱は大賛成して、すぐ加入した。その後、光緒帝が戊戌の変法を唱えると、西太后はこれに不満で、閲兵式に乗じて、彼を廃帝にしようと考えた。光緒帝はこれを知るや、彼が信頼していた潭嗣同に相談した。潭はすぐさま袁世凱に助けを求めた。その時、軍の実権を握っていた袁世凱しか光緒帝を救い出せるものはいないと考えた。潭は袁世凱に申し出た。「もし光緒帝を助けて、新政を実行できないのなら、自分を殺してくれ」と。袁世凱はこのとき、「私が栄禄(西太后の腹心)を殺すのは、犬一匹を殺すより簡単なことだ。本件は私がすべて引き受けた。全責任を負うから、帝にはご安心されよ。」と伝えて欲しい、と答えた。
ところが翌日、袁世凱はすぐさま天津に飛んでゆき、栄禄に密告した。光緒帝が維新の実行を斯く斯くしかじかと。栄禄は即刻北京に戻り、西太后に報告した。彼女は直ちに光緒帝を幽閉し、垂簾政冶を行った。潭嗣同ら、維新の主唱者たちは慷慨し刑場の露と消えた。康有為、梁啓超は国外に亡命した。
6.
以上が戊戌の政変のあらましである。戊戌の変法が吹っ飛んだのは、この袁の密告からである。まるで京劇のシナリオの如くに、歴史が動くのを楽しむがごときの感を禁じえない。項羽と劉邦の戦いから、三国志の争い、水滸伝の世界など、対立する者の間で、ハカリゴトをめぐらし、ワナを仕掛け、敵を陥れて、勝利する。観衆の目を意識して、観衆を楽しませることも、自分の果たすべき務めだという演劇的なものが、彼を突き動かしているとしか思えないほどである。政治の舞台に登場した以上、劇を演じなければ何をするのだ、と。
中国人のこうした政治的場面での身の処し方というのは、三千年の間の歴史舞台に登場した人物の行動を、思い出しながら再現しているかのようである。
自分がこの広大な中国の大地を統べる天下人として、後世の歴史と戯曲が、どのように取り上げるか。それが重要な関心事の一つであるかの如くに。そして又中国の歴史家が、そのように記すことが伝統として染み付いているのだろう。
何ゆえに、光緒帝を幽閉してまで、垂簾政冶を支持したのか分からない。
その十数年後の辛亥革命の時にも、最後の皇帝宣統帝を退位させた張本人となった。自分に都合の悪いと思われる皇帝を廃したのだが、帝を退位させることで、自分の影響力を強めたいと思ったのが、3人の部下のたくらみと実行力に支えられてきた彼の実像なのだろうか。
 7.
こうした袁世凱の下で、中国の北方では多くの軍閥や商人(ビジネスマン)たちが、それでも尚ひたすら彼を支えてきた。彼等はなぜ袁世凱を支え、その後も袁の後継たる北洋軍閥を支えてきたのであろうか。
 「国商」の著者、言夏氏に依れば、当時の実業家たちは、「孫文は、理想は高いが、実際的ではない。実現できないような公有制を唱え、共産主義の色彩を帯びていた。」と記す。
2008年に出版された同書は、近代中国に影響を与えた十人の商人との副題つきで、第1位に張謇を置き、彼の言葉を引用している。彼は孫文が大総統になったとき、孫文から直接、内閣の実業大臣に任命されたのだが、その後「孫文は自分が崖の上に立っていることを知らない。革命は成せても、建設はできない。」という言葉を日記に残している。そして40日間という短期間で、辞任してしまい、今度は章太炎とともに袁世凱を擁立しているのである。彼は袁世凱の下で、農商大臣に任命されている。
 張謇は革命政府ができても、金庫の中は全くの空っぽだったので、それまでの取引相手の三井物産から30万両の借款を得、更に自ら起こした紡績工場を担保にして50万両、計80万両もの大金を孫文の革命政府に出している。その彼の言葉である。その彼も、後に、政商、盛宣懐が“漢冶萍公司”という鉄鉱石、石炭、製鉄の複合公司の株50%を担保に、横浜正金銀行から資金を引き出そうとしている計画を知り、それには、猛烈に反対した。紡績工場はいくらでも建てられるが、鉱石、石炭などの資源は代替できないと考えたのであろうか。
 実業を起こして、祖国を近代化しようとする商人たちにとって、孫文は革命を成すまでは資金援助に値したが、革命の後では、危なっかしくて、とてもとてもこれ以上、支える気にはならなかったのであろう。不思議なことだが、他に誰もいないということか、袁世凱はこうした実業家たちに支えられ、孫文と対立し、国民党と対立して実権を握った。
 国会の多数を占める国民党は宋教仁をリーダーとして、袁世凱を倒そうとしたが、その彼は袁世凱の手によって、上海駅頭で暗殺されてしまった。その頃の袁世凱は、辛亥革命後の中国には“民国”は時期尚早と感じていた。顧氏の引用する彼の言葉は「まだそんな程度になっていない(没有程度)」ということになる。それではどうするか。隣国日本の“立憲君主制”が良いと考えたのだ。立憲君主となると大総統ではだめである。やはり皇帝をおかねばならない。清朝の満州族皇帝を退位させた実績のある自分が皇帝になるほかない、と考えたのだろう。取り巻き連中のおだてに乗って、国民は自分を皇帝として支持してくれるものと信じて舞い上がっていた。裸の王さまそのものだ。
 8.
こうした袁世凱の下で、梁炎卿はどう振舞おうと考えたであろうか。私の梁さんに聞いてみたかった。彼が買弁を続けた60年。時の政権と密接につながって、実業を興した者たちの末路は、哀れであった。
新中国建国以来、それらの実業家たちは、ほとんど顧みられることも無く、否定されてきた。しかし、改革開放の30年間で、外資企業の出資を招いて、輸出の大半と国内の大型産業の多くを、そうした外資企業に依存しているという実情を憂えて、民族系の企業を育成することの重要性を認識し始めた。その結果、ここ数年は戦前の実業家たちのことを取り上げて、中国の企業家を鼓舞しようとする動きが顕著になってきた。
 結局のところは、李鴻章や袁世凱の庇護の下で、紡績業から製鉄業まで、自前の鉄道とか炭鉱を起こしながら、官の官督のデタラメさから経営破たんし、外国資本に買収されたり、倒産したりと言う歴史の繰り返しであった。
30年代以降になると軍閥や蒋介石政府などによって没収された。別の言葉で言えば、軍閥政府のゆすり、たかりにあって、ほとんど跡形もなくなってしまった。1949年以降の公私合営で、最終的には国有化された。国有化されたビジネスは“大きな鍋の飯”を食うことで、世界の発展のスピードからあまりにも遠くかけはなれてしまった。かくてはならじ、と、この二十年で宝山製鉄など近代的な製鉄業の成功を手本に、造船や自動車などの大型工業分野でも世界の水準に近づきつつある。そのとき、先人たちの行跡を顧みる気運が出始めたのだ。
先人たちの失敗例を真摯に学ぶことで、21世紀の実業、起業の参考にしようとするから、著者も登場し、読者も増えているのである。
 9.
中国の政界と実業界の癒着というべきか、これは何も中国に限ったことではなく、日本でも常時起こっており、何も特定の国の専売特許ではないのだが、袁世凱以来の、所謂軍閥政権と実業家たちの、政界のトップ交代で、実業家が倒産したり、財産ごと没収されたりという悲劇は、どの国よりもその頻度において、甚だしいものがある。
 政権の資金は、主に官に癒着した商人たちからの上納金で賄われてきたのが、この国の伝統である。もともと所得税とか法人税という考えが薄く、税金の源は、物品税と関税、通行税などが主であった。漢代のころから、塩鉄税と称して、塩や鉄の取引にかかわる税金の取立てをめぐって、大きな論争を起こしてきた。律令制の下で租庸調とか両税法なども採用されたりしたが、政府にとって、もっとも確実な税収は、物品税であった。今日でも、17%という消費税と関税が税の主要部分を占めている。
 そんな状況下、中国全土で経済開発区が、国の正式認可された地域以外にもいたるところで造成された。それらの土地を開発するのは、地方政府だが、それを払い下げて工場誘致したり、高層マンションを建てて販売したりするのは、高級幹部と特別な関係を築いた“開発商”デヴェロッパーである。
 国の土地を、地方政府が開発し、特定の実業家に払い下げて、“招商”し、
それが立派な工業団地になり、内陸から十万、二十万の労働者を集めて、寒村を近代城市にする。そのことで、政府高官の成績は上がり、官位も上がる。
そして権限も大きくなり、さらに出世するという図が出来上がる。それが経済発展を支えてきた仕組みである。年率10%以上の経済成長を続けてきたことが、Win Winの状況であるかぎり、その高級幹部と特定の開発商は、大きなお咎めは受けない。たまにその限度を超えて、刑事罰を受けるものが新聞に載る。甚だしきは死刑宣告されるものもいるが。そんなことに驚いていては、大きな事業は起こせない。男一匹、この世に生を受けたからには、世間をあっと驚かすような、でかいことをしなければ意味がない。それには実権をもつ高官とうまく結びついて、国の土地で、政府の保証で銀行に金を出させ、次から次へと事業展開する。それが上手く当たればよし、ダメなときは逃げ去るのみ。高官ともども大金を懐に海外に高飛び、という話で一巻の終。
10.
過去30年、ビジネスを取り巻く中国人の考え方は180度の転換を見せた。孫文の思想には公有制、共産主義の色彩があったから、当時の実業家たちは、そんな孫文を危ういと考えていたなどという表現は、30年前には、誰も書けなかったであろう。対外貿易部傘下の国営の進出口公司という商品縦割りの独占的な窓口経由でしか、貿易できなかったがんじがらめの体制から、製造会社でも、個人商店でも、誰でも自由に対外貿易ができるようになったのだ。
この変わり身の早さこそが、世界に伍して米国の最大の債権保有国になった
源泉であろう。もうひとつ最近びっくりしたことがある。それは全国人民代表大会の呉邦国委員長が、2009年3月9日の会議で発表した次の宣言である。
「複数党による政権交代と“三権分立”は絶対行わない」と。
 要するに、西側の民主主義のモデルとされる“三権分立”と“複数党による政権交代”を、中国は否定する、ということだ。中国の進むべき方向は、三権分立ではなくて、“一府二院制”即ち、立法府を頂点にして、その下に行政院と司法院が機能するという形が適しているというのだ。
 政党も共産党が指導する形で、他の党との合作と政治協商で、共産党が執政党(政権党)で、他の民主党派は参政党だと規定している。参政するとは、政治に参与する、意見具申はできるが、政権党にはなれないという意味である。
 今、13億人の中国が、昨今の台湾のようにゴタゴタしては大変な事態を招く恐れがある。陳水扁政権が、下野するやとたんに、法廷での裁判を受け、獄に繋がれるような事態が、十年ごとに起こっては、大変な混乱を起しかねない。
60年前に建国して以来、略10年ごとに政治的混乱を経てきた。40年前に文化大革命が起き、30余年前に「四人組」を追放し、20年前に天安門事件で、趙紫陽を反党反社会主義の罪で失脚させて世界を驚愕させた。その時の北京の西単の歩道橋から、丸焦げになった死体が吊るされている映像は、全世界に配信された。こんなことは二度と繰り返してはならないのだ。
それ以降、これまでの20年間は比較的平穏で、現政権が打ち出したスローガンも「小康社会」を目指そうという穏やかなものとなっている。小康を保つというのは、日本語では、病が平癒して、やや小康状態にあるなどというニュアンスだが、ここでは少し異なるようだ。政治闘争とか騒乱の起こらない、穏やかで安定した状態を意味するようである。
 11.
1949年からの30年で、何人の指導者たちが糾弾され、つるし上げられ、そのために国が二つ三つに割れて、武力闘争によって、幾千万もの人の命が失われた。もう二度とそんな分裂、政治闘争は起こしたくない。というのが、
呉邦国委員長の一府二院制の趣旨であろう。昨年の台湾の政権交代そのものは歓迎するが、それをここでやってはいけない、という強い意志表示だ。なぜならば、もし、台湾や韓国のように、まだ民主主義が一定段階まで成熟していない状態で、与野党が政権交代を繰り返すごとに、前政権のトップが下獄させられ、国内が分裂するような事態は、絶対避けねばないのだ。贈収賄とか政治献金など、陳水扁ほどではなくとも、起訴する案件にはこと欠かない。下野したあとのトップは何を言われるか、心配で堪らない。
 1910年代に、袁世凱の口にした、「共和は、まだその程度にあらず」という言葉は、百年後の今、三権分立と複数政党による政権交代は、その程度にあらず、という中国の足元を見つめた現実から出発していると思う。
 私は、これはこの国の実態にある意味で即しているものだと思う。私の梁さんは、1979年までの30年の間に、理不尽な理由で、何回軟禁させられたことか。ただ親が大金持ちだったということ。しかも買弁だったということで。
新中国になってからも、親の残した大きな家に住んでいたということ、なんとでも罪状をつけて、ひっ捕らえにきては、大変な目にあわされた、という。
 もし、5年後、10年後に、現政権に反対する党が政権を握るような制度を容認したら、現政権の下で起業し、大きな産業に育て上げてきた、実業家たちは、共産党に入党加担していたという理由で、獄に繋がれてしまうことだろう。
7千万党員を誇る共産党だが、現代の実業家の殆どが党員だと聞く。収入の何パーセントというのが、党費だそうだ。政権が代わる度に、大企業のトップの首が飛ぶ。そんなことをしたら、中国に長期的な視野で産業を起こす企業家は育たないであろう。
 12.
 余談だが、話を日本に投影して見る。3月24日、WBCでイチローがセンター前に2点タイムリー。世界一を勝ち取ったその夜、民主党の小沢代表が、時に涙をぬぐいながら、この国に議会制民主主義を定着させること、そのために総選挙で勝利することを、最後の機会として挑戦したいと語った。これまでの日本には所謂西側の政権交代による議会制民主主義が定着していなかった、という現実を指摘しているわけだ。戦後アメリカから押し付けられた駐留軍とセットでの民主主義。これが60年以上経っても、定着していないというのが、彼の認識であろう。従って、駐留米軍も横須賀港の艦隊以外は、日本の国土から退出してもらいたい。それで初めて、アメリカからの本当の意味での独立と、議会制民主主義の定着への道が開けると考えているのであろう。
 国民の多くは、彼の民主党に期待を寄せながらも、彼の自民党時代以来の
金権体質には、ある種の危惧を抱いているのも事実だ。しかしその一方で、
三権分立と言いながら、検察が小沢代表の秘書を逮捕、起訴するのを黙認している与党政権にも、なにか少し引っかかるものを感じている。秘書を起訴するからというだけで、わざわざその理由を検察側からメディアに発表するなどは、
不自然さを否めない。
 明治憲法は、国民全員に選挙権を与えなかったという点で、民主主義とは言いがたい。戦後の新憲法は主権在民として、民主主義を標榜している。だが、この国のひとびとは、袁世凱の言うように、まだ議会制民主主義というものを実現するには「その程度に至っていない」という現実。議会制民主主義を自分本来のものに成しえていない。
自ら勝ち取ったものではないだけに、アメリカから二度と軍国主義に戻させないために、押し付けられたものという後ろめたさを、ぬぐいきれて居ない。
代議士は江戸時代の小藩の殿様の如くに、代々世襲で、人間のスケールがだんだん小さくなる一方で、首相をやらせても1年ももたずに放り出してしまう。
これも上述の民主主義と同じで、自分で戦って勝ち取ったものではなく、前任者が投げ出してしまったので、自分のところに転がってきたものだという、ぼんやりとした後ろめたさというか、自信の無さのあらわれである。
幕末の将軍や清朝末期のひ弱な皇帝たちのイメージが重なる。よし、この俺が、取って代わってやろうとか、そんな意気込みの片鱗さえ見出せない。ただ、
自分が首相でいたいというだけで、国民のためにこうしよう、どうしようというアイデアも熱意も感じられない。袁世凱の部下には龍とか虎とかアイデアを
出して、実行に移すものがいたのだが。
     2009年3月25日 大連にて 

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天津のコンプラドール その2

1.
 「広東幇の最大富豪」というのが、劉海岩氏が梁さんの父に与えた称号だ。
“幇”というのは、出身地別に分けられた中国の一種の同業組合のことで、戦前の秘密結社の“青幇”などが、上海で大変恐れられていたのが有名である。
ジャーディンの天津に於ける活動と、梁さんの生い立ちを、劉氏の本より以下かいつまんで引用する。
 19世紀、天津はジャーディンと清朝政府の間の重要な交渉の場所であった。
中国市場拡大のために、政府の軍艦や武器の発注を争奪しようと、ジャーディンは清朝政府の洋務派の発展計画に全力を挙げて協力し、巨額の借款供与も行い次々に契約を勝ち取った。
このため、彼等は天津を、李鴻章など洋務派官僚との連係を深めるため、うってつけの場所と考えた。ジャーディンの幹部は香港、上海と天津の間を、頻繁に往来した。また、彼等は天津で影響力のあるイギリス人、ミッチーと天津税関司、及び英国籍ドイツ人ダーツィリンを通じて、李鴻章と接触し、密接な関係を作らせ、清朝政府の政策に影響を与えた。ミッチー( Michie Alexander)は、1853年に清国に来、上海で商売をしていた。1864年、牛荘(営口)が開港されると、そこに移り住んだ最初のイギリス人となった。1883年に天津に来、英国Times紙の通信員となった。天津にいる間に、李鴻章の顧問となり、天津の英文紙The Chinese Timesの創刊に関与し、主筆を兼任した。彼は頻繁に北京に出向き、清朝政府の多くの役人と密接な関係を保った。ジャーディンは彼を天津在の特別代理人に任用し、李鴻章や清朝政府との間で行われた交渉は、彼と上述のダーツィリンを通じて行った。
 ジャーディンはその実力及び、李鴻章など清朝政府の実力者との関係を使って、瞬く間に、天津で最も影響力のある洋行となった。市内を流れる“海河”の河川港に最初に入港した汽船、天津城外に最初の鉄道を敷設したのはいずれもジャーディンだった。天津の英国租界で最も影響力のある大洋行となった。19世紀から20世紀にかけて、ジャーディン天津のボスは、英租界董事会の董事か董事長を務めた。
 中国最大の洋行として、ジャーディンのコンプラドールのポストは、西洋人勢力を背景に一儲けしようとする華商にとっては、大きな吸引力があり、一方のジャーディンとしても、中国と商売するとき、清朝政府と交渉するには、特別能力のあるコンプラドールの協力が必要だった。そこでジャーディンの旗の下に著名なコンプラドールが集まった。楊坊、林欽、唐茂枝、何東などで、中でも有名なのは唐景星である。彼はジャーディンの総コンプラドールを10年(1863-1873)の長きに亘って務めた。
2.
唐景星、どこかで見た覚えがあるぞ。確か李鴻章の伝記の中で、李鴻章が
1872年に招商局を創設したとき、李がその2代目総裁として白羽の矢を立てたのが、唐景星だったと記憶する。梁さんの父、梁炎卿が広東の仏山で生まれ、香港の皇仁学院で英語と商業知識を習得して広東に戻ってすぐ、1872年20歳のときに、唐景星に連れられて上海のジャーディンに研修生として入社したというのは、前にも触れた。
 人間の出会いというのは、時として味な働きをするが、見えざる手によって、引かれているともいえる。ジャーディンの総コンプラドールとして、10年勤めた唐は、李鴻章から、中国近代化へ重要な役割を果たすことになる彼の創設した「輪船招商局」の総裁に招聘されることになるのだが、それを知ってか、知らずか、梁炎卿という英語の上手い優秀な若者を故郷から連れてきた。
 唐景星については最近出版された「国商」(言夏著)に紹介されている。日本でたとえるなら、渋沢栄一に似たところと、福沢諭吉にも類似点を見出せる。香港のミッションスクールに学び、中国で最初のビジネス英漢辞典である「英語集全」を出している。1876年、上海で「格致書院」を設立した。その意味では本来は学究肌の人であった。しかし運命は、彼に祖国近代化のために実業の世界に向かわせる。汽船会社、鉱山事業、鉄道敷設、紡織会社などの設立に情熱を傾けた。
 ジャーディンの買弁として、上記のビジネスなどを通じて、李鴻章から評価される点が多々あった。李鴻章が朝廷に「招商局」を作るべしとの建白書を出したのが、1872年12月23日。雷頤著「李鴻章与晩清四十年」(山西出版)に依ると、この建白書の中で、李は国策の汽船会社を設立して、「求富」することが、近代化のために最も重要だと述べている。それまで、中国の港湾は殆ど外国船に占領されてしまっていた。武漢など長江の内陸港も然りであった。これを自国の商船隊で奪回しなければ、富国への道は無いと説いている。何とかして汽船を買わねばならないが、清朝の国庫は空っぽである。汽船を買う金も無いが、それ以上にその汽船会社を経営する人材もいない。
 それまでの清朝は、商人をさげすみ、抑えようとする空気が強かった。商人は自らの懐を肥やすことのみをもっぱらとし、けしからんと言う風潮であった。満州八旗と呼ばれる旗本たちは、お上から戴く俸禄以外に何の収入もなかった。漢人たちの中に入って、商売をすることは硬く禁じられていた。従って、代を経るごとに、官に就けなくなった旗本たちは窮乏していった。商売そのものを見下し、漢族の商人たちを押さえつけた。押さえつけることで、その見返りを要求した。その見返りは、抑え付ける権力の大きさに比例した。その伝統は今日まで引き継がれている。

3.
さて招商局であるが、これは国営企業であって、所謂一般の商(あきない)ではない。商(商人、ビジネス)を招く、即ち商人たちの出資を招いて、ビジネスを展開するというものだ。今日でも、中国各都市の経済開発区のある市役所の中に、「招商局」とか「招商処」などといった部署がある。そこには市政府の経済担当の幹部がトップとして、就任している。
李が設立したこの時も、最初はトップを官から出したが、武士の商法で、デタラメな経営のため、すぐに行き詰まってしまった。それで、これではいかんと、李鴻章はジャーディンの買弁第一人者の唐を後任に迎えた。これを“官督商弁”と言う。官が監督しながら、実際は商人が弁じるという形態である。
 これは今日でもよくある。最近は企業ごと、工場も人材も商権もすべて一括で買い付ける。企業買収とよばれるものだが、その前に自己の競争相手から、腕利きの経営者を引き抜く。そしてその力を利用して、競争相手を叩きにかかる。この時も、激烈な運賃値引き競争の結果、英国系のジャーディンとスワイアはしぶとく残ったが、アメリカ系で当時の汽船最大手、旗昌洋行(ラッセル商会)は弱体化した。それで、唐は一気にこの会社を商船ごと買収した。
 唐は李の信任を得て、この商船会社の運営に成功を修め、次には紡績会社、
電報局、保険会社などを続々と設立していった。そして今日も出炭を続けている、開ラン炭鉱の前身、天津開平鉱務局で炭鉱の開発と鉄道建設に全精力をついやした。石炭を港まで運ぶには鉄道敷設が不可欠であった。鉄道建設に際しては、清朝の保守派の役人たちを説得して、ようやく完成したのだが、光緒帝が清王朝の陵墓である東陵で、大切な祖先を祭る式典をしているときに、地震が起こってしまった。それが唐の敷設した鉄道のせいだ、という濡れ衣により、監獄に繋がれてしまった、という悲劇的な結末となった。
 4.
 唐は学校を出てから略10年ごとに、仕事を変えてきている。1842年から
香港のミッションスクールで勉強し、卒業後、香港政庁と上海税関で英語の通訳をした。その後、独立して綿花の商売を始め、ジャーディンに認められ、総買弁として10年間活躍して大きな財を成した。このまま買弁生活を続けていたら、莫大な財産を築き、大富豪の生活を享受したことであろう。そのポストを捨てて、李鴻章の招きに応じ、招商局の総裁となった。
 10年の買弁生活の後、言夏氏の言葉を借りれば、「革靴を脱ぎ捨てて、布靴に履き替えた」のである。
香港政庁、上海税関、ジャーディンの買弁というのは、いずれもイギリス人の下で、英語と中国語の橋渡し役を務めながら、常に祖国とイギリスとの間で、もやもやとした忸怩たるものを感じていたかもしれない。
招商局というのは、清朝の“国家企業”である。20年間、イギリス人の下で勤めてきて、40歳を迎えた唐にとって、残る人生はイギリス人の下で働くのはもうよしにしようと思ったのだろう。人は彼等買弁を‘洋奴’と呼んでいた。
人はある年齢に達すると、残りの人生を名の為に、祖国のために尽くしたいと思うのかもしれない。
 著者は言う。「現代の若者は外資系で働くことを、ある種羨望の眼で見ているが、中国でビジネスが始まったころは、外人の為に働くことは、小さいながらも自分で物を担いで売り歩く商人より一段下に見られていた。彼等は“買弁”と呼ばれ、経済的な力はあるが、社会的地位の無い階層であった。」と。
 それで、「唐景星の生涯で最大の転機は、41歳のときで、買弁から国営企業の招商局に跳び出したときである」と記す。
5.
 1949年の新中国成立からほどなくして、前にも述べたように、ジャーディンなどの洋行は中国から撤退した。それにともなって、買弁も姿を消した。それから30年間、清貧で、政治優先の白紙時代が続いた。そして世界の発展から何十年もの遅れをとってしまった。
 30年前にこの改革開放政策が取り入れられていなかったら、中国はどうなっていたであろうか。「改革開放が無かったら、私は今ごろ、どこかの山中で、金槌を握って、地質調査に飛び回っていることでしょう。」というのは温家宝首相の09年2月末の国民対話の中の一節である。
 1979年改革開放が唱えられ、深センなどに経済特区ができ、その後全国各地に経済開発区ができ、多くの外資系企業が設立された。貿易会社の現地法人も認可され、銀行や保険会社などの法人も許可された。
 そして改革開放の30年の間に、またおびただしい数の現代の買弁が生まれた。
外資系企業の進出に伴って、その企業の為に、資材買い付けから、製品販売に至るまで、進出企業に派遣されてきた外国人と、中国本土の国営企業あるいは民間企業との間で、便宜をはかることで金を儲ける人たちが沢山あらわれた。
 こうした人たちは、会社に勤務していながら、会社から受け取る給与などには、頓着しない。なぜならば、給与の何倍、何十倍もの収入が手に入るからである。会社の為に働くというよりは、その余禄収入をもたらしてくれる者のために働くのである。一旦そうした仕組みが成り立つと、そこからは、無数の腐敗と貪欲が生じてくる。
5.
 私自身もこの改革開放の30年の間、それまで1月3元という清貧な暮らし、
お酒もタバコも自由に買えないが、若いひとびとの瞳は澄んでいた時代と、何でもお金で手に入るようになった時代とをかえりみて、感じることがある。
 人々の生活レベルは、都市部に関する限り、天地の差ほど改善された。マイカーを持つ者も増え、150平米の部屋に住む人も特別な人種ではなくなった。人々は今の北朝鮮の映像を見て、60年代の中国そのものだと言う。一刻も早く彼等が改革開放されるのを望むという。
 人間の社会というものは、経済的に豊かになると、更にその富を独り占めにしたいと貪欲さが増すらしい。豊かさとは年収の額で計られる。都市の人々は、より大きな部屋に住み、新車を買うことで、優越感を持とうとする。虚栄である。そのためには、外資系企業と中国社会の間で、役人との関係で、可能な限りの手段を使って、高収入を得ようとする。
 私もしばしばそうした腐敗と貪欲の事例に、直面してきた。誤解を避けるために言わねばならないが、普通の暮らしをしている大多数の中国の人たちは、収入が低くとも、外国人にも親切で、気立てもよく、おおらかで清清しい印象を残してくれる。しかし、わずかな人たちは、私と私の会社の為に働いてくれるというよりは、自らの懐を肥やすことの方により熱心であった。
個別の事例を書くことは控えるが、劉氏の筆法に倣って書くとこうである。
 本社からある商品を1万トン、単価千ドルで買い付けるようにとの注文が入る。すると現代の買弁は、供給先から9百ドルで買い付けできるように交渉し、その差額を相手方と分け合う。これによって、双方が切っても切れない間柄となる。これくらいの役得がなければ、外国人の下で、へいこら頭を下げっぱなしで生きていられるか、という。
 これが、製造業となると、今度は、原材料の購入で、上記と同様なことが
起こるし、食堂の食材買い付け、従業員の通勤バスの契約から、ありとあらゆる購入や販売で、お金に絡むことには何がしかの“好処”(うまい汁)が伴う。
 そして信じられないようなことだが、人事部長というポストに就くと、莫大な裏金が動くという。それは、どうしてか。多くの外資系企業の労働者は、たいてい1年契約で、1年ごとに更新手続きが必要であった。この更新の際に、部長のところに何がしか包んで持ってゆかないと、更新してもらえないというのである。それが千人、二千人もの低所得の労働者の手から、現代の買弁たる人事部長の懐に入る仕掛けである。採用の際にも同じことが要求される。1世紀の時空を経て、今日の買弁は、船内荷役の苦力から、人夫料をピンはねしてきた19世紀の買弁より、さらに手の込んだやり口で、私腹を肥やしている。これは、何千年と続いているDNAに基づくものであろうか。日本でも人入れ稼業として、沖仲士など作業員の人集めを請け負う組織があった。今の派遣会社は会社という法人組織で、派遣労働者の2-30%のピンをはねるという。日本では、こうした派遣会社のトップが豪勢な生活をして、派手にふるまっていたが、天網恢恢疎にして漏らさず。この数年間に、種々の問題を起こして、倒産し、業界から退場した。
中国では、それをポストについた人間が行う。評判の良かった、テレビドラマの一こまにもそのことを取り上げていた。主人公が苦労の末、新会社を作った。彼が、長年尽くしてくれた相棒に仕事を与えるとき、その相手から自分のポストは一体どんな「官」なのか、と詰め寄られる場面があった。一生懸命に働いてきたからそれなりの「官」につけて欲しいと要求する。それはどんな人間でも「官」というポストについてこそ、給与外の余得があるからで、それがなければ、いっしょに仕事をしてゆく気も失せる、とポストを求めるのである。
6.
ここでしばらく、余談にはいる。
昨今の某国の首相は「国や国民のために首相をしていたいのではなく、自分の為にしていたいのでしょう。」と 野党の代表から非難されている。その首相が、せっかく苦労して、二つものポストを兼務できるようにしてやった。その「官」を、外遊先で台無しにしてしまうほどのもうろうぶりでは、さすがのお友達、仲良しでも、もうこれ以上は、かばい切れない。
ジャーディンのことを調べていて知ったことだが、この首相の先祖は、やはりジャーディンの横浜支店に勤務していて、支店長をつとめ、政府相手に、軍艦や武器を売り込んで実績をあげた。江戸幕末には、ジャーディン社は、五代友厚、伊藤博文、坂本竜馬、岩崎弥太郎などと結びつきを強め、徳川方を支援したフランスと競合したという歴史的背景がある。首相の先祖は、ジャーディンに3年務めた後1万円という当時としては高額な退職金をもらって、さっさとジャーディンから独立し、いろいろな事業をみずから起こして、莫大な財産を養子の吉田茂に残して、40歳の若さで死んでしまった。
7.
 話を梁さんに戻す。20歳の時に、20歳年上の総買弁、唐景星に連れられて、上海のジャーディンに来てから、彼は60年の長きに亘って生涯ジャーディンの買弁として生を終えた。
10年で買弁から足を洗って、社会的地位も高い国営企業のトップとして活躍しながら、牢獄に繋がれ、最後は殆ど財産も残さずに、勤務先の天津鉱務局で病死した唐景星のことが、ある種のトラウマとして影響を与えていたかもしれない。唐が天津で病死したとき、梁炎卿は40歳だった。唐の独立した年齢である。普通の買弁なら、大きな資本も蓄えたから、独立して自分で事業を起こし、更に財産を増やすとか、少なくとも社会的地位のある、自前のビジネスを始めたいと考えるところであろう。それが一部の不動産以外には、当時はやりの鉄道や、鉱山、紡績などの実業を手がけようとは、一切しなかった。梁炎卿の目には、鉄道敷設を試みただけで、牢獄に繋がれてしまった唐のことが、頭から離れなかったに違いない。
 梁さんは結局ジャーディンから独立しなかったし、その結果自分のビジネスを起こすこともしなかった。どうしてだろうか。
長男をアメリカに留学させ、帰国後は袁世凱系の唐紹儀内閣の農政次官まで務めさせた。このことは、買弁は自分一代限り、息子には外国人の下で働くような社会的身分の判然としない立場から、祖国のために「官」となって漢族としての伝統的な人生を歩ませよう、と考えたと思われる。しかし、辛亥革命後の政治的混乱のため、短命内閣で終わり、天津に戻ってきてしまった。その後、農場経営させたりしたが、匪賊や軍閥のゆすり、たかり、農場荒らしなどでめちゃめちゃにされてしまった。
結果として、長男も買弁の道を継ぐほか無くなってしまった。そしてこの長男自身も、身代金目的の誘拐犯に殺されてしまった。
 8.
この時代の作家芧盾(ぼうじゅん)の「林家舗子」「子夜」といった小説や、林語堂などの誘拐をテーマにした作品を読むたびに、感じることがある。
せっかく、大勢の革命犠牲者を出しながら勝ち取った「三民主義」の中華民国も、誰が総統の地位や自称「皇帝」の位に座っても、すぐさまそれを倒して、自分が取って代わろうとする混乱が止まなかったことだ。これは漢が滅びた後、唐が滅びた後、次から次へと群雄が割拠して、広い国土の一隅を根拠として、鬩ぎあう。こうした30年、50年の大混沌を経ないと安定した国家ができないのが、広大な面積と人口の中国の宿命かもしれない。こうした歴史の教訓は、知ってはいながら、誰もそれを止めることはできない。
 あるいは、そうした歴史的伝統があるからかもしれない。陳勝の言うように、「王候将相いずくんぞ種あらんや。」誰もが自分も天下を取れる可能性はあるのだと言い放つことのできる国柄、民族性が根底にあるのである。
この広大な国土を統一して、秩序ある政権が出てくるまでには、何十年かの時の経過が必要なのであろう。混沌とした混乱の時が。
 こんな政治的に不安定な時代に、唐景星のように事業を起こしても、「官」からは、彼等への上納金が少ないとか、挨拶や賂がないとか、さまざまな難癖を付けられ、事業が成功すれば、成功したで官にその実を取り上げられる。失敗すれば、他の財産まですべて没収される。そんな先輩の事例を数多く見てきたから、一生ジャーディンの買弁でいようと決意したのであろうか。
 吉田茂の養父の場合は、ありていに言えば、ジャーディンの横浜における
買弁に近い存在であったろう。ジャーディン社のイギリス人の目から見れば、
唐景星や梁炎卿と同じような機能を期待していたわけで、政府への軍艦や武器の売り込みという目的と形態は、殆ど同じである。
 違いは何か。吉田は3年でその横浜支店長を辞して、退職金を元手に、自分でいろんな事業を起こして、成功できたことだ。明治初年に横浜の外国商館で、外国語と貿易の仕組みを勉強した日本人はあまたいた。それらの中から、少し優秀で、政府の役人との関係もできた者たちは、それぞれに独立して、政府の払い下げ工場の経営や、鉄道会社、鉱山、紡績などの産業を起こすことに成功した。それが、維新以後の日本と義和団事件から辛亥革命後の中国との大きな政治環境の違いからくるものか、それとも他にどのような理由からか、私にとっては大きな疑問であった。
 9.
 士農工商という身分制度は江戸徳川が古い制度から持ち出してきたものだ。これも、もとはといえば、春秋時代の中国の政治支配のための身分制度であった。それを徳川幕府は3百年の統治の礎とした。商は一番卑しい身分であった。明治政府はそれを四民平等に変えた。
 清朝は、満州人の建てた国だ。満州人はすべて兵で、全員が士である。役人と軍人になる以外は、農工商のいずれの職業に就くことも禁じた。満州八旗といわれた旗本は、戦乱の続いた最初のころは、戦いに出向いて、大きな功を修め、漢族の富を奪ったが、その後、平和な時代になって、すべて北京に呼び戻され、俸禄生活となって、江戸末期の旗本以上に腐敗堕落した。役人になれなくなった満人は、貧乏浪人同然の暮らしに追い込まれた。そうした満人の娘たちは、女郎家に売られた。清末のころになると、一部の親王は別として、ほとんどが、役人としても何の管理能力ももたず、軍でも役にたたなくなってしまった。
それで、太平天国の乱の時には、曽国藩などの地方の漢族の軍が取って代わることとなった。この系譜が、後に李鴻章に繋がれ、さらにはその末路を袁世凱が継いだ。これが北洋軍閥として民国の中国をめちゃくちゃにしてしまった。
 20世紀の中国の悲劇は、こうして始まった。この袁世凱の皇帝になりたいという野心をついて、日本が「対華21か条」の要求を突きつけた。百年後の今から見れば、なぜ袁世凱は皇帝になどなろうとしたのか、理解に苦しむ。その当時の中国はまだ共和制には馴染まない。立憲君主制でなければと考えたようだ。大多数の国民の反対に耳を傾けず、日本から彼が皇帝になることを支持してもらう見返りに、日本の要求をあっさりと受けてしまう。しかし、欧米各国の在京大使たちから、皇帝即位に反対するとの本国からの伝令を聞き、憤死してしまう。その後、数多くの野心家たちが次から次へと、彼の後を襲った。いずれもその任に堪えられず、短命に終わった。袁世凱から黎元洪、馮玉璋、徐世昌、再び黎元洪、曹錕、段祺瑞、そして張作霖と続く北洋軍閥が取替えひっかえして、中国北部を支配してきた。いずれも祖国のためにという心情は、ひとかけらも無く、大総統でいたいという欲望と虚栄に駆られてのものであったといわざるを得ない。
 10.
 こんな政治的混乱の中で、梁さんの父は、唐景星のように、勇敢に祖国の為にと打って出るような心境にはならなかったようだ。
 梁さんは、あるとき、お昼近くになって皆が帰ろうと支度を始めたとき、
私に向かって、「コートが空いたからシングルスをしよう」と誘ってきた。
彼は「実はダブルスよりも、シングルスの方が好きなんだ」という。
年齢は20歳以上違うと思う。けれども彼は実によく走った。フォアのダウンザラインを抜くのが、得意のようであった。
 華麗なフォームできれいなテニスだった。しかし、年齢からくるサーブのスピードの衰えは隠しようもなく、バックコートに深く返す私のレシーブに、てこずって、結局6対4で終わった。
 そのあと軽く昼食をとりながら、彼は話しはじめた。「私のテニスは亡くなった姉から手ほどきを受けたのよ。」「姉は二人いて、二人とも戦前の天津では有名なテニス選手で、国外の試合にも出場したし、外国人の主催する大会にも出たりして、よく見にいったものだよ。」などという。
  1930年代の日中戦争の始まるまでの平和なひととき、父親の亡くなるまでの幸せな時間を姉たちにかわいがられて成長してきた。姉二人は、劉氏の著書によると、当時の天津の英国租界での“名媛”“貴婦人”で、慈善ファッションショーには、モダーンな衣装で舞台を飾ったと記されている。収益金は全て、孤児院や被災者、そして貧しい人々への慈善事業に義捐されたとある。
 彼は、その後一旦ジャーディンのコンプラドールになったが、新中国の成立とともに、ジャーディンが撤退してしまったので、この仕事も無くなり、その後は細々と外国貿易のShipping関係の仕事をしながら、姉と二人で暮らしてきた。しかし、その後の20年間は、つぎからつぎへと政治的「運動」の荒波にもまれた。外国との通信で、祖国の事情を漏らしたとか、やってもいないことで、嫌疑をかけられた。ブルジョアの末裔だというだけで、牢獄に入れられ、
家もとりあげられたしまった。理不尽な目に何度あったことか。ため息まじりながら、こんなことを外国人である私に話せるようになったことを、本当に喜んでいる感じであった。
「姉が病で亡くなって、もう身寄りのいない天津に居る必要は無い。」
「ヴィザが取れ次第、親類のいる香港に行くのさ。」
「以前なら、こんなこと、外国人の君に話したら大変なことだったけど、四人組がああして裁判にかけられ、江青が牢屋に入れられるくらいだから、やっとなんでも自由に話せるようになったんだ。」
 二十数年ぶりで天津を訪れた私の耳に、あの時の梁さんの言葉が蘇った。
       2009年3月8日。 大連にて。



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脚で報国

脚で報国
 今年8月31日の「申報」の「自由談」で「寄萍」の名で楊縵華女士の遊欧雑感をみた。その一節が面白いので下記する:
 『…ある日我々はベルギーの農村に行った。大勢の女性が競って私の足を見にきた。足を伸ばして彼女らに見せ、やっと彼女らの好奇の疑問を解いた。
ある女が言った「これまで中国人を見たことは無いが、小さい頃、中国人は
尻尾(辮髪のこと)があり、妾を持とうとし、女性は皆小さな足で、歩く時はゆさゆさと揺れると聞いてきた。それはみな事実ではないと分かった。誤解を許してね」と。またもう一人の東アジアの状況に詳しいという人が、中国では
国中で兵匪が騒ぎを起こし、人民は地獄のような暮らしをしているそうだ、とかいい加減な話をたくさんしゃべった。私はそれに対して「そんな話はみな根も葉もないことだ」と答えた。同行の某君はとても滑稽な話をした。「貴方たちは建国数千年の大中華民国をなかなか理解できないでしょう。我々の革命が成功したら、今度は顕微鏡で貴方たちのベルギーを探さねばならぬことでしょう」
そこで大笑いして散じた。
 楊女士は彼女のおみあしでベルギー女性を征服し、国の名誉を増したが、「間違い」が2点あり、
1.我々中国人は確かに尻尾(辮髪)があったし、纏足もし、妾も蓄えたし、
今もまだ持っている。
2.楊女士の脚は全中国女性の脚を代表できない。留学する女性が全中国女性を代表できないのと同じことだ。留学生の大多数は家が金持ちか、政府の派遣で、将来家族と国に名誉を増すためである。貧しくて教育も受けられぬ女性と
同日には語れない。だから今でも纏足をして「ゆらゆら揺れながら歩く」女性は多い。
 困苦に至っては、多言するまでも無い。同じ「申報」に載った多くの「和平
アピール」の電文や、緊急支援を募る広告、兵乱と身代金目的の誘拐記事を見れば、国外留学の坊ちゃんやお嬢さんも、いかに遠く離れているから知らないと言えようか。顕微鏡で見てみようと思うなら、望遠鏡で見てみようとは思わないのか?況や望遠鏡など使わなくても、同じ楊縵華女士遊欧雑感」にある:
 『在外公館の困窮について、今日に始まったことではない。ここ数年、年ごとに悪化している由。国慶節や重要な記念日に慣例に従って外国の賓客を招待し盛典を催して、国運がまさに興るのを祝うべきだし、兼ねて各友好国との、
友情を培っておくべしで、かつては在外公館は必ず盛宴を開き、上賓を歓待したが、去年は館費の予算が乏しく、茶会となってしまった。目下の状況から、
今年は茶会も開けないだろう。国際的な体面を大事にする点では日本だろう、
政府の行政予算は特に切りつめても在外公館の経費だけは充足させており、単にこの点だけでも、我が形勢のつたなさが分かる』
 在外公館は本国を代表しており、彼女の「国運まさに興らんとする事を慶祝」
しようにも「毎回悪化の状況」にあり、孟子曰く:「民足らざるに、君子いずくんぞ、足るや」で、人民がどんな生活をしているかは、考えてみればすぐわかることだ。 しかし小国ベルギーの女性たちは要するに純であり、許しを請わねばならぬが、彼女らが本当に「建国数千年の大中華民国の国民は往往にして、
自ら欺き、人をも欺く不治の病にあることを知ったら」それはまったくメンツ
丸つぶれだ。
 もしそうなったらどうしたらよいだろう?思うに、やはり「そこで大笑いして散じる」しかないだろう。   

訳者雑感:
 1930年代の10年は戦争の前のあだ花ともいうべき「資本主義の最後の享楽」を上海一帯の限られた人々がエンジョイしていたと言えるだろう。
結果論として日本が軍国主義に更に拍車をかけ、ドイツなどと手を結んで、米欧諸国を敵に回し、中国の広大な国土を我がものにしようとしたわけだが、その十年前までは、戦争も局地的なもので、まさかあれほどに拡大し、史上例のない残酷な戦争になるとは、殆どの人が想像すらしていなかったに違いない。
 魯迅もベルギーの事を小国という冠詞をつけて記述している。大国中国からすれば、顕微鏡であらさがししなければならぬほどの小国だ。と笑って散じるほかないほどの話柄にしてしまう。
 今南の海域の領有権を巡ってフィリピンやベトナムともめている。そのニュース報道に、冠詞として「小国」フィリピン、「小国」ベトナムと国内向けの
活字として報じることは、三千年の歴史を持つ大国としての自尊心をくすぐる
ものとしか言いようがない。これは賄賂とか腐敗とかありとあらゆるかつての
中国の官僚たちがやってきた畜妾も含めて、自ら欺き、人をも欺く不治の病からまだ治っていないことの証のようだ。
      2011/10/03訳


 

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