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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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文人に文無し

文人に文無し
 「大」の字がつく新聞の副刊に(大晩報)に「張」という姓の人が、
『中国の有為の青年に向かって「文人は元来行儀が悪い」という幌を隠れ蓑に、
人を罵るような悪癖を犯さぬように』と訴えている。それはその通りだ。
但し、その「行儀が悪い」の定義は、大変厳しいものである。
「所謂行儀が悪い」とは、いろいろな規則を守らず、不道徳な行為を指すだけでなく、
凡そ人としての情にはずれた劣悪な行為を含む」ということだ。
 ついで日本の文人の「悪癖」を例に挙げ、中国の有為の青年への殷鑑として、
一つ「宮地嘉六が指の爪で髪をすく」もう一つは「金子洋文が舌舐めずりする」等。
 勿論、唇が渇くことや、髪が痒いのは、古今の聖賢は美徳とはしなかったが、
悪徳として斥けなかった。はからずも、中国上海では、掻いたり舐めたりするのは、
それが自分の唇と髪でも「人の情から外れた劣悪な行為」となるそうだから、
しょうしょう気持悪くても辛抱する他ない。
有為の青年や文人になろうとするのは、日一日とますます難しくなってきた。
 だが中国の文人の「悪癖」は実はそんなことにはない。
只ただ彼が文章を書きさえすれば、掻いたり舐めたりする事は問題ではない。
「人の情に外れる」のは「文人の行儀が悪い」ではなく「文人に文章が無い」のだ。
 我々は2-3年前、雑誌で某詩人が西湖へ行き、詩を吟じたとか、
某文豪が50万字の小説を書いたという記事を見たが、これまで、何の予告もなく
出版された「子夜」以外、他に大作は何も出ていない。
 瑣事を拾いあげ、随筆を書く者はおり:古い文章を改作して自作とするのもいる。
寝ぼけた話を書いて評論だと称する者や:
薄っぺらな雑誌を出して一人密かに自慢しているのもいる。
猥談を集め、下らぬ作品を書き、旧文を蒐集し、評伝を出すのもいる。
ひどいのになると、外国文壇のニュースを少し翻訳して世界文学史家になり:
文学者辞典を作り、自分もその中に入れて世界的な文人になったのもいる。
そして今やもう、みんな中国の金看板的「文人」となっている。
 文人は文無しではすまされぬし、武人も同じく武無しでは話しにならない。
「戈を枕に旦(朝)まで待つ」と言いながら、夜になんの活動もせず、
「死を賭けて抵抗を誓うと言いながら、百余人の敵を見るとすぐ逃げ出した。
 只、電報や宣言の類だけは、駢儷体で書いて見事な文章をものしたという。
「武を偃(ふせ)、文を修す」という古くからの明訓があるが、
今は文章を司る星座は軍営を照らしているだけだ。
 そこで我々の「文人」は、唇を舐めることや、髪を掻かないようにし、
人の情を押し殺して、ただ単に「行儀をよくする」だけで満足している。
       3月28日
訳者雑感:
 1930年代の中国では、武人が(抗日)戦争に逃げ腰で、なんら抵抗せず、
文人も何の文章も書かないことを難じている。
文章で以て中国人の考え方・性格を改造しようと志してきた魯迅にとって、
当時の所謂文人たちが、上述のような「お茶を濁す」文章ばかり書いて、
人を感動させ・動かすようなものを書かなくなったことを嘆じている。
 しかし魯迅本人ももう長い間、所謂人を感動させる「文学作品としての小説」
を書けなくなっていた。そんなエネルギー・構想力が衰えていたのだろう。
またそれを発表する場も無かったのだろう。
2-3頁の雑感が殆どであるのは、どういう背景があるのだろうか?
翻訳で外国の作品の紹介に努めているが、紹興を舞台とした多くの作品から、
上海を舞台にした作品を書けなくなったのはなぜか?彼もその自覚はあったろう。
  2012/12/04記
 
 
 
 
 

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明日香へ

明日香へ
1.
 1960年代末、フランスでは5月革命で学生が敷石はがして警官に投げつけ、
中国では文化大革命で(反動派への)「造反有理」(革命無罪)を叫んで、
紅衛兵たちが実権派を吊るしあげ、市中に引き回し、世界を震撼させた。
日本もその影響を受け、安保闘争を旗印に「反米・反ベトナム戦争」を掲げ、
全共闘が大学を根拠地として、机をバリケードにして大学を封鎖した。
ノンポリの私すら御堂筋のデモに参加し、長い棒を持った先頭集団に続いた。
しかし日本には革命は起こらなかった。明治維新や戦後の「農地改革」はあったが、
主権が在民になっても革命とは呼べなかった。ただ占領軍に命じられただけだから。
 歴史の暗記で虫五匹(645年)と覚えた「大化の改新」の新しい政権も、
「革命」とは称さなかった。テロによって4代に渡り政治を専横してきた蘇我氏を
排除して改めただけという整理であった。日本は革命とは縁遠い国である。
 
 話しは60年末に戻す。安田講堂も占拠され、多くの大学は閉鎖された。
学校は授業の無い日が数カ月続いたので、アルバイトや他の事に精を出した。
その頃同級生のI君と明日香の石舞台に出かけ、一日ゆっくり散歩した。
それから40年ほど過ぎ、長い間音信も途絶えていたが、最近連絡を取り始めた。
それで昨年は法隆寺から薬師寺へ、のんびりと斑鳩の秋を半日散歩した。
今年もまた奈良の秋を楽しみたいね、ということになった。
 11月の文化の日が過ぎた頃、京都に住む彼と明日香へ向かった。
西大寺駅で待ち合わせ、明日香の一つ手前の岡寺駅で下車。
地図をたよりに駅前からゆっくり刈り入れの済んだ田の畔道を歩く。
しばらく歩くと、大勢の小学生が地図を手にして5-6名ずつ歩いている。
「どこから来たの?」と尋ねると、松原からとの答え。
5年生のオリエンテーリングで、秋の明日香の石舞台や橘寺など畑中の道を、
ポイントをクリア―しながら歩くのだそうだ。大阪の子供たちは都会にいながら、
すぐ近くに、こうした美しい田園と歴史的な風土を満喫できるのがうらやましい。
2.
 我々が目指すのは石舞台と飛鳥寺だが、急ぐ旅ではないのでいろいろ寄り道した。
橘寺は聖徳太子がここで生まれたとされ、当時はお寺でお産したのかと訝ったが、
訊けば丹後半島の間人(たいざ)から来た太子の母がこの地で用明王の「厩戸の王子」
を産んだのだが、当時は誰かの屋敷か用明王の別邸であったそうで、
後にここに太子を記念して寺ができたのだという。よもやお寺で出産はすまい。
境内に大きな弘法さんの立像があり、天台宗の寺にどうして真言宗の彼がいるのか、
と寺の人に問えば、日本の仏教を広めた祖ともいうべき太子を慕って、
弘法さんもこの寺にお参りしたとの由。確か大阪の四天王寺にも弘法さんの像があり、
日本仏教の宗祖たちがみな名を連ねているのは、太子の徳を慕っての事であろう。
 京都の広隆寺も斑鳩の法隆寺と並んで 太子の徳を慕って、後の人が作ったものとか。
渡来人、秦の河勝などが桂川の分水で灌漑用水を利用し、嵯峨野一帯の農地を開き、
農民が豊かになったのがそれを暗示する。農地が開墾され、鉄製の農具も普及した。
四天王寺や広隆寺など法隆寺に匹敵する程の大伽藍を建立できたのも、
その地の農業の発展と経済発展無しには考えられない。
3.
 これまで明日香という地域は山に囲まれた狭い盆地だと考えていたが、
空高き秋天に、遥かに見える吉野の山までは、けっこうな広がりがあると感じた。
飛鳥川のほとりに実質は蘇我氏4代の飛鳥時代と呼ばれる王朝が、その前後に、
転々と遷都を繰り返した短命政権より「比較的」長かったのはなぜだったろうか?
 朝鮮半島からの使者がここまで使いに来るということから想定すると、
豊かな農産物が取れ、また全国から産物を取りたてるだけの政治力があり、
それらを半島からの使者との外交儀礼に使えるだけの国力を築きあげたのだろう。
大化の改新の前の入鹿暗殺の時、しぶる入鹿をなんとかして誘い出せたのは、
半島からの使節が挨拶に参上したから…ということだったことがそれを暗示する。
(外国からの使節が来た時に、国の内乱をさらけ出すことになるテロは無かったのでは
という説もあるが、ここでは従来の説に従う)
朝鮮からの使節は、大和川を遡上する船で貢物を運んで来たことであろう。
 古代の地図を見ると、今の大阪市内の大半は淀川と大和川に囲まれた湖だった。
そして大和川は今では水量も減ってしまって、船運には使えそうに見えないが、
1400年前は、江戸時代の淀川のように、多くの物資を船で運んでいた事だろう。
そんな想像を巡らしながら、明日香の巨石文化を回ってみると、とてつもない程の
大きな石をどのように切り出して運びだしたか、大阪城の石垣のあのどでかいのが、
瀬戸内の船を使って運ばれたように、石舞台の2,300トンもの石はどこかの採石場から、
船に載せられて、ここまで運ばれたのではないかと思った。
 天皇陵は今も発掘が禁止され、調査もできないが、明日香を実際に牛耳っていたのは、
天皇でなく、蘇我氏だったから、あの巨石の墳墓はほとんどが蘇我氏かその取り巻きで、
中大兄皇子と藤原鎌足が乙巳の変でクーデターを起こし、入鹿の首を刎ねて、
都を難波に移した後は、付近の人々は我先に蘇我氏の墓の盗掘を始めたのであろう。
 地の人は、そうした「俗」「智恵」を持ち合わせていなかったかもしれぬが、
明日香の地にたくさん住みついていた渡来人たちは、大陸・半島ですでにそうしたことを、
たび重なる戦乱・王家の交替のたびに見て来たことだろう。
権力を失った者の墓は、盗掘に曝された。特に外国からの貴重な貢物なども埋葬された
と思われていた豪族の墓は、情け容赦なく盗掘されたと思われる。
明日香の各地に残るいろいろの巨石は、そうした墳墓の守護神とか祭祀用の物で、
盛り土が長い年月の雨水で流されて、露出したものではなかろうか。
 天皇陵の中に入って調査した資料を目にすることができないので、全くの推測だが、
元々の土着の発想では棺を入れる石室は、明日香の様には大きくないかもしれない。
仁徳陵など築山と壕は巨大だが、中は案外、質素なものかもしれない。
或いは、大陸の秦漢時代のような巨大なものに倣っているかもしれないが、その後の
天皇陵は、国力にあわせ薄葬となり、徐々に倹約・質素になってきたようだ。
4.
今回、飛鳥寺を訪ねたら、ちょうど女子学生たちのグループが2組ほどいて、
彼女等に対してわざわざ住職が対応するのに参加でき、面白い話しを聞く事ができた。
住職としても、大勢の若い「歴史ガール」たちを迎えることができてうれしそうだった。
(男の大学生たちがこうしたグループで行動しないのはどうしてだろう?)
彼は話している間、ずっと板の間に正座で、彼の話しで印象に残ったのは、
大きな大仏の顔が少し横向きであること、そして奈良の大仏のように戦乱や火事で
溶けて再建されたのではなく、製造時のものをそのまま何度も修復しているだけで、
日本最古の大仏だという。
 帰ってから調べたら、中国から渡来した鞍作鳥(止利)の作で、この造立のために、
隋から裴世清がきて、黄金を寄贈し、高句麗からも3百両の黄金が寄贈されたとかで、
6世紀には、すでに大陸と半島諸国との交流がそんなにも盛んだったと分かる。
 田中史生著「越境の古代史」(ちくま新書)に依れば、593年に蘇我馬子ら百余人が
百済服を着用して、この寺「法興寺」の刹柱を立てるのに参列している。(240頁)
百済服は、百済から取り寄せたものか、或いは明日香で造ったものか。
明治維新後、横浜に西洋人の為に洋服を仕立てる中国人がたくさん連れてこられた。
鹿鳴館の舞踏会にはそうした仕立て人がいなければ、開催できなかったろう。
6世紀の明日香にも、百着も作れる仕立て人が百済から来た人に学んだのだろう。
 日本人が海の向こうからやってきた「文物」をさっそく自分のものにしてしまう
伝播の速さはすごいものがある。
東大寺にある「聖武天皇」の肖像画は唐の皇帝と同様、冠から例のすだれのような
珠玉を垂らし、服装もほとんど「唐風」であるのは、儀式の時にはこうした服を着用し
外国からの使節にもそれを着て謁見したのであろう。
明治天皇も、維新後すぐ西洋式の元帥のいでたちで、外国使節を謁見している。
この辺の「進取」さは、お隣の国々が、いつまでも伝統的な服装や制度にこだわり、
西洋式近代化に後れをとったのと比較すると、興味深いことである。
21世紀の今日でも、東アジアで新正月を祝うのは日本だけで、中国や韓国は、
いまでも旧正月を最も大切にしている。何回か旧暦をカレンダーから削除したが、
民衆からの強い反対で、新旧併記の状態である。
 
5.
石舞台はたとえて言えば、盗掘の後の石組だけが残る昔の豪族の墓であり、
飛鳥寺はその豪族が祀りごとを専横するための「やんごとない大仏のいまします御寺」
であった。墓は盗掘され、見る影もなくなったが、飛鳥寺だけは残った。
 仏教を排斥した物部氏を除き、仏教流布に貢献した蘇我氏をそれなりに尊んだものか。
古来、反乱を起こした者、謀叛を謀った者、時の政府に異議申し立てをした者などを
その時には征伐し斬首の上、さらし物にしてきたが、何年かたつと、復活してきた。
平将門、西郷隆盛などがその例で、蘇我入鹿も彼らの住んでいた岡は公園になり、
彼の首塚も建てられている。
 これは何を物語るか?
確かに政治を専横して、王家をないがしろにして、政権を牛耳り、富を貪ってきたが、
またその一方では、なにがしかの良いことも行ったから4代も続いたと言える。
物部氏を排除するのに貢献したし、日本に仏教を流布させるのにも大いに預かった。
日本人は、雨水が豊富なため「過去を水に流す」のが上手であり、たたりを怖れて、
過去に罪を得て斬首された「為政者」を祭ることを好むようだ。
 この辺が、中国などでは信じられないことに属する。
中国には三国志で有名な関羽を祀った廟は沢山ある。菅原道真を祀った天満宮の如く。
しかし、西郷や将門に相当するとみられる者を祀るような社はあまり見たことが無い。
 呉三桂や汪兆銘、林彪などを祀るようなことは考えられない。劉少奇は復活したが。
私はA級戦犯を、明治国家建国のために死んでいった戦士たちを祀るために
建てられた神社に、合祀することに反対だ。
しかしそれは戦勝国が一方的な国際裁判でそう決めただけであって、
国の為に死んだことに変わりは無い、と考える人が多いのもこの国の姿なのだろう。
不思議なことだが、処刑後すぐにそれらを運び出し、密かにここへ持ち込んだという。
広田弘毅も他の戦犯と同じく合祀されたが、本人は泉下でどう思っているだろう。
あの連中と一緒にされたくないと思っているのではなかろうか。
私は広田だけなら合祀しても良いと考えている。やはり日本人である。
    2012/11/29記
     
 
 
 

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魂を売り渡す秘訣

 魂を売り渡す秘訣
 数年前、胡適博士は「五鬼が中華を騒がす」という文をものして曰く:
今この世界で所謂帝国主義の類が中国を侵略することはない。
それは中国自身の「貧窮」「愚昧」…等5つの鬼のせいである。
そのために皆が大変不安に陥っている、というそうだ。
 このたび、博士は又6つ目の鬼を発見し、それは仇恨だという。
この鬼は中華だけでなく、友邦にもその禍が及び、東京に飛び火した。
そのため胡適博士は対症薬をつくり、「日本の友人」に進呈しようとした。
 博士によると「日本軍閥の中国に於ける暴行がもたらした仇恨は、
今日ではもう消すことがとても困難で」「日本は暴力で中国を決して征服できない」
(胡適の最近の談話の新聞報道による、以下同じ)これは憂慮すべきことだ:
本当に中国征服の方法は無いだろうか? いや方法はあるのだ。
「九世の仇となるか、百年の友か、いずれも覚悟するか否かがカギである」――
「中国を征服する方法が一つしかない。即ち崖淵から馬をすぐ引き戻し、
中国侵略を全面停止し、翻って中国民族の心を征服するのだ」
 これが「中国征服の唯一の方法」という。その通りだろう。
古代の儒教の軍師も「徳を以て人を服すのは王、真心は誠に服す也」と言った。
博士は日本帝国主義の軍師たるに愧じない。
ただ、中国の民衆からすれば、魂を売る唯一の秘訣である。
中国民衆は実に「愚昧」で、暦来自分の「民族性」を知らず、
これまで仇恨しか知らなかった。
日本の陛下が大いに慈悲を発し、ひょっとしてもし胡適博士の上申を採用したら、
所謂「忠孝仁愛信義和平」の中国固有文化はすぐにも回復できる:――
日本は暴力を使わず、軟功の王道を用いるから、中国民族はもう仇恨を感じることは無い。
仇恨が無ければ、おのずと抵抗も無くなり、抵抗が無ければより平和になり、
より忠孝……中国の肉体はもとより買う事が出来るし、中国の魂も征服される。
 惜しいかな、この「唯一の方法」の実現は、日本の陛下の覚悟にすべて掛っている。
もしその覚悟が無ければ、どうすればよいか?胡博士は答えていう:
「如何ともしがたくなったら、恥辱だが城下の盟を受ければよい。
それは真に如何ともしがたい時――その時には「仇恨鬼」も消え去ろうとはしないから。
これが初めから終わりまで、中国の民族性の汚点となり、日本にとっても万全の道とは
けっしていえない。
 このため、胡博士は太平洋会議出席の準備をし、再度彼の日本の友人に「忠告」
しに行こうとしている。
中国征服の方法は無いわけではない。どうか我々が魂を売るのを受け入れてほしい、と。
それにこれは何も難しいことはない。所謂「侵略を徹底的に停止」すればよく、
元来「公平に」リットン報告を執行すれば――仇恨は自然とすぐ無くなるのだ!
      3月22日
 
訳者雑感:
趙無眠氏が「日本が中国に戦勝していたら」というテーマの本を出している。
氏の趣旨は、モンゴル族や満州族が中国に攻め入って大帝国を築いたが、
最終的には「漢文化」の影響を受け、「漢化」して「中華帝国」となったように、
日本民族が漢化され、東アジアに超大国ができれば、欧米諸国と対等になれる。
というようなものであったと記憶する。
 胡適博士は趙さんより70年ほど前に、日本の友人に対して、「侵略を停止し、
王道で以て中国民族の心を征服」するよう忠告したようだ。
 確かに漢民族は満州族に征服されたとき、彼らの風俗である辮髪にすることに、
最初は激しく抵抗したが、辮髪をしなければ首を斬るといわれて、それを受け入れ、
暫くしたらもう辮髪が自分たちに無くてはならないものと考え始めた。
 太平天国の時は、長髪にするか首を失うか!というのがスローガンだった。
1911年の辛亥革命前に辮髪を切った洋行帰りの連中の首も斬ろうとする動きが出た。
これは風俗的外見上の問題だが、これが漢民族の魂まで征服したことを物語る。
 過去の長い歴史の間に、北魏や遼、金・元・清など外来異民族の支配を受け、
それらの間に「魂を売りながら」彼らの風俗も押し付けられつつも、最終的には
それらの支配者たちを漢化し、骨抜きにして「排満復明」などで中華再興を図ってきた。
魯迅はここで完膚なきまでに胡適を批判しているが、何割かのエリートたちは、
日本との間で、「暴力行為である戦闘」を即時停止して、「魂」を売ることで、
国民生活の「安寧」を得ようとしていたのだ。フランスのペタンのように。
    2012/12/01記
 
 
 
 

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「人間の発言」

「人間の発言」
  オランダ作家V.Eeden―惜しいかな、去年死去したが―の童話「小さきヨハネ」に、2種の菌類が口論しているのを傍らからある男が「お前たちはどちらも有毒だ」と批判したら、菌類は驚いて、「お前は人間か?おおそれは人間の言い草だ!」と。
  菌類の立場からは確かに驚き叫ぶべきことだ。人は彼らを食べるから、有毒か否か、に注意するが、菌類にとっては関係ないし、問題にもならぬ。
  科学知識の本や文章を人々に与える為だとは言え、面白くするために往々にして、 「人が話す」ようにしている。この欠点はファーブルの有名な「昆虫記」でも、それを免れていない。手元にあるものを記すのだが、近頃雑誌で偶然見た青年向けの生物学を教える文章にこういう叙述あり――
『鳥糞クモ…形は鳥糞に似、じっと伏して動かず、鳥糞のように偽装できる』 『動物界に、自分の夫を食い殺すものも大変多いが、最も有名なのは先に述べたクモと、これから話すカマキリ…』
  これらも「人間の発言」に偏している。鳥糞クモは只形がそれに似ていて、 性情もあまり動かないが、故意に鳥糞の形に偽装しているわけではなく、その意図は、 小さな昆虫を欺く事にあり、カマキリの世界に(人の倫理を説いた)五倫説は無く、 交尾中に雄を食べるのは只腹が減っているからで、それが自分の主人とは知るべくもない。
だが「人間の言葉」として書くと、ひとつは陰謀で他を殺害する凶悪犯となるし、もう一つは、自分の夫を殺す毒婦となる。だがそれらはみな冤罪だ。
 「人の言葉」にも色々あり:「高等華人」「下等華人」とか、浙江省の西の田舎女の無知を嘲笑うもの等あり、それを記すと――
『とても熱い昼時、農婦はとても仕事が辛くてふとため息をもらしこう言った:
 「皇后さまはどんなにか楽だろうね。こんな時分には昼寝していて、醒めたらこう言う: 宦官や!干し柿を持て!と』
  しかしこれは「下等華人」の話しではなく、「高等華人」が考えている「下等華人」で実は「高等華人」の話しだ。下等華人はそういう時にそんなことを言うとは限らない。
もしそう言ったとしてもそれは笑い話ではない。
  更に続けると、階級文学が面倒を引き起こすとして、「中止」ということになる。
  今多くの人が本を出しているが、大抵は青年または少年への手紙形式だ。 勿論話すのは「人の言葉」だが、どの種の物かは知らぬ。
なぜ年配の人たち向けに書かないのか?いまさら彼らに教えても無駄だからか?
 青年と少年は比較的純真で、かんたんに騙せるからか?  3月21日

 訳者雑感:本編の趣旨はなかなか理解しがたい。
 推測するに、これまでの中国の「文章」は「高等華人」が独占してきて、それが下等華人の事を書いて笑い話にしてきた。下等華人は実はそんなことを考えてもいないのに。
とこう書いてくると、やはり当時の趨勢として、下等華人と看做されて来た「労農階級」が自分の言葉で文章を書くようになることが大事だと訴えているのか。
さらにそれを書きだすと、「階級文学」が面倒を引き起こすから「止めろ」ということになる。
 細菌や鳥糞クモ、カマキリの雌のことなど、高等華人は有毒とか凶悪犯とか、 毒婦と書くが、彼らは彼らなりの生存のための行為をしているに過ぎない。
    2012/11/23訳
  
 
 
 

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「光の射す所」

「光の射す所」
 中国の監獄の拷問は公然の秘密だ。先月、民権保障同盟がこれを取り上げた。
だが外国人が出している「North China Daily Report」2月15日付けの
「北京通信」に載った胡適博士の自ら何ヵ所かの監獄を視察した報告には、
「とても親愛的」に記者に語って曰く:
『彼の慎重な調査によれば、実際に拷問のほんの軽微な証拠も得られず、……
彼らは囚人と容易に話せ、胡適博士は英語で彼らと話すことができた。
監獄の状況に彼(胡適博士:筆者注)は満足できぬが、彼らはとても自由で、
(おおー、とても自由だと:筆者注)待遇が劣悪で侮辱的だと訴えているが、
厳刑拷問に関してはなんの暗示も無かった。…』
 私は今回の「慎重な調査」に随行する光栄に浴さなかったが、10年前、
北京の模範監獄を参観したことがある。模範監獄とはいえ、囚人を訪問するのは、
話しをするのもとても不「自由」で、窓を隔て、互いに三尺ほど離れ、傍らには
獄卒が立ち、時間も制限され、暗号禁止で、況や外国語をや、であった。
 今回胡適博士は「英語で彼らと話せた」とはまことに特別扱いだ。
中国の監獄が本当にここまで改善され、これほど「自由」になったのかも知れぬ:
だが実は獄卒が英語に驚き、胡博士をリットン卿と同郷で由緒ある人と思った為かも?
 幸い今回「招商局三大(疑獄)事件」の胡博士の題辞を見た。
「検挙を公開することが、暗黒政治打倒の唯一の武器で、光の射す所、暗黒は自ら消える」
(原文は新式句読点がないので、私が遷越にも付けた:筆者注)
 それで大いに悟った。監獄は外国語で囚人と話すのを禁じているが、胡博士には
特例とし、彼は「検挙を公開」できるから、彼は外国人と「親密に」話せるし、
彼が「光」だから、「光」の射す所、「暗黒」は自ら消える、というわけだ。
そこで外国人向けに民権保障同盟(会員)を「公開検挙」し、同盟側は「暗黒」になった。
 しかしこの「光」が帰った後、監獄は他の人も「英語」で囚人と話せるように
なったかどうか知らない。
 それが許されないということなら、「光が去れば暗黒が又来る」である。
 そしてこの「光」は又、大学と義和団事変の賠償金返還委員の仕事で忙しく、
そう頻繁に「暗黒」所に行けず、第二回目の監獄の「慎重調査」前には、
囚人は「自由自在」に「英語」を話せる幸運には恵まれるとは限らない。
嗚呼。光明はただ「光」と共に去り、監獄の光明世界はほんとうに短かかった!
 だがこれは誰も恨むことはできない。彼らは守るべき「法」を犯したのだから!
「善人」(胡適の提唱した善人の主導する良い政府)が「法」を犯すことはない。
もし信じられないなら、この「光」を見てみよ!   3月15日
訳者雑感:
 魯迅は民権保障同盟(1932年宋慶齢、蔡元培らとともに設立した)が国民党に
迫害された状況を、監獄の囚人(原文は犯人)からの拷問の訴えに対して、
外国人向けに胡適が監獄に調査に赴き、英語で囚人たちと話をし、彼らが自由で、
待遇が劣悪では無かった云々と新聞に載せた。これはそれに徹底反駁せるもの。
監獄で、英語で話せる訳が無い。明らかに外国人向けのポーズである。
囚人たちも英語で応じたのだから、民権保障同盟会員は皆インテリであったろう。
 こうした反政府的な組織を弾圧・迫害・拷問するというのは古来変わらず、
今なお重慶などで大変多くの無辜の市民が無実の罪で囚われていた。
市民だけでなく、地方政府の役人も収賄などで60万人以上が逮捕されたという。
実際に法を犯したのだろうが、どのような取り調べ・裁判がなされているか不明だ。
「光の射す所」は「暗黒が自から消える」というが、「光」は他の用事で忙しく、
いつも暗い所へ射しに来てくれるわけではない。
   2012/11/21訳
 
 
 
 
 
 
 
 

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「カラシで救国を提唱」

{参考}  「カラシで救国を提唱」  王慈
 北方人の友人と天津の食堂に入った時、席に着くとボーイがやってきて:
「旦那、何を食べますか?」と訊く。
「鍋貼ル2個!」と友が純粋の北方音で注文。餃子とカラシ壺をもって来た。
 北方人の友は、鍋貼にカラシをたっぷりつけて、旨そうに口に放り込んだ。
それが私の好奇心を触発し、冒険でもするように鍋貼におもむろにカラシをつけ、
腹に入れたが、ただ舌先がいっとき感覚を失くしたように麻痺し、喉はしびれて、
気持ち悪くなり、まぶたから覚えず涙が湧き出て、とても苦しかった。
 北方人の友は私の様子に大笑し、私に告げて曰く:
北方人がカラシ好きなのは天性で、彼らは「メシとおかずは無くてもすむが、
カラシを食べずにはいられない」という主義の持ち主で:
カラシはアヘンのように中毒になっている!
北方人は幼いころから母の懐で、泣きわめくと、時にカラシ茄子を口に咬ませると、
とても霊験あらたかで、すぐ泣きやむ……。
 現在中国は、ちょうど泣きわめく北方の嬰児の様で、泣くのを止めさせるには、
ちょっぴり多めのカラシ茄子を咬ませれば良い。
 中国の人々は、我が北方の友人と同様、カラシを食べぬと興奮しないのだから!
 3月12日「大晩報」副刊<カラシとオリーブ>
 
訳者雑感:
 これは{参考}として掲載したものだが、1933年当時の中国が日本などに半植民地
として支配され、蹂躙されていたとき、その辛さに耐えかねて泣きわめきだした、
北方(旧満州・華北の一部)の人々に対して、「うるさい」からカラシを与えて、
黙らそうとしたものだ。泣くのを止めさせ、従順に「支配者」の「傀儡」として、
民に平穏な「奴才」生活を送らせる為の文学である、と魯迅は批判する。
    2012/11/19訳
 
 
 

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泣き止ませる文学

泣き止ませる文学
 3年前「民族主義文学」者が銅鑼太鼓で大騒ぎしていた頃、「黄色人の血」
と言う本が出、最大の願望は、ジンギスカンの孫のバツ―元帥に随って、
「オロシア」を剿滅するのだとの説だった。「オロシア」とはソ連の意だ。
当時、ある人はこう言った。現在のバツ―の大軍は日本の軍馬で「征西」前に、
尚すべからく先ず中国を征服し、軍に従う奴才にせねばならぬ、と。
 自分たちが征服されたら、ごく少数の人間以外は、とても辛い目に遭う。
その実例は、東三省が淪落し、上海がされたことでわかる。
凡そ生き残った人で、少しも悲憤が無いと言う人はごくわずかだろう。
だがこの悲憤は、将来の「征西」にとって大きな妨げになる。
 その次に「大上海の壊滅」が出た。数字で以て、中国の武力では決定的に、
日本には及ばないから、冷静にと呼びかけ:更には、死ぬより生きる方が良い、
と思えと。(「19路軍の死は、生きていても、みじめでつまらぬとの警告だ!」)
 だが勝利も敗退することに及ばぬと(「19路軍の勝利も只、束の間の安逸を偸み、
いい気な夢を見るのを増しただけだ!」)
要するに、戦死は良いし、戦って負けるのも良く、上海事変はまさしく、
中国の完全な成功である、というわけだ。
 今、第二段階が始まり、中央社のニュースでは、日本は満州と
「中華連邦帝国の密約」に調印するという陰謀があり、その方案第一条は:
「今世界には2種類の国家しかない。一つは資本主義、英米日伊仏で、もう一つは、
共産主義ソ連。今ソ連を抑えるには、中日の聯合なくして…成功できない」と言う。
(「申報」3月19日に詳報あり)」
 「聯合」したら、今回は中日両国の完全な成功で「大上海の壊滅」から「黄色人の血」
の道への第二歩に進むことになる。
 固より幾つかの地域では、正に爆撃され、上海は爆撃されてから1年余が経つが、
人々の一部は「征西」の必然的な進み方を悟っておらず、これまでのところ完全には、
前年の悲憤を忘れきれてない。この悲憤は、目前の「聯合」には大きな障害となる。
こういう状況下、時勢に応えて、些かの慰めと快感を与えようとして出て来たのが、
「カラシとオリーブ」のような作品だ。これも多分苦悶への対症薬だろう。
何故か?「カラシは辛くても人を死なせはせぬし、オリーブは酸っぱくても、
そこに味があるから」だ。これでクーリーがアヘンを吸う訳がよく分かる。
ただ単に、声なき苦悶のみでなく、カラシは「うるさい泣声」を止めさせられる由。
王慈氏(作者)は、「カラシで救国を提唱」という名文でこう記す:
『…北方人は幼いころから、母の懐で泣きわめくと、母親からカラシを咬まされると、
霊験あらたかで、即刻泣きやむ…、
『今の中国は泣きわめく北方の嬰児の如しで、うるさい泣声を止めさせるには、
少し多めのカラシを咬ませるだけで良い』(「大晩報」副刊第12号)
 カラシで小児の泣くのをとめさせるのは、正に空前絶後の奇聞で、ほんとうなら、
中国人は実に他と違う特別な「民族」だ。
しかも明らかに、この種「文学」の意図をみると、人にカラシを与えるが、
死なせはせず、「うるさい泣声を止めさせ」静かにバツ―元帥の登場を待たせる。
 しかしそんなことでは効く訳は無い。
泣けば即「斬り棄てごめん」には、遠く及ばない。
 この後我々が防がねばならないのは、「道で遭っても目配せのみ」にせぬことだ。
我々の待っているのは目を覆う文学だろう」  3月12日
 
訳者雑感:
 最後の文章は何を言いたいのか良く分からない。
私の推測では、これからは言いたいことも口に出せなくなり、道で出会っても、
言葉を交せず、ただ目配せしかできないということになるのをしんぱいしているのだが、
この次に来るのはその目配せする目さえ覆う文学だということは、大変悲観的である。
「道路以目」という句の出典は、「国語・周語」で、周の励王は暴虐無道で、
「国人は敢えてものを言わず、道で遭っても目で以て挨拶するのみ」(出版社注)
 しかし、爆撃されて辛い目に遭っている、北方の人たちが「泣き叫ぶ」のを、
止めさせるために、「カラシ」を食べさせて黙らせる。
黙ってバツ―元帥のやって来るのを待ち、その群に奴才として従軍し、征西させる。
そんなことを宣伝する「連中」を徹底的に罵っているのだろう。
  2012/11/16訳
 
 
 
 
 
 
 

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王道の詩話

王道の詩話
 「人権論」というのはオウム(インコとも称す)が始めたものだ。
昔、高く遠くまで飛べるインコがいて、偶々自分の住む山林を過ぎたとき、
大火事が見えたので、すぐ翼を水に濡らし、山林の上にまいた。
そんな少しの水で、この大火をどうやって消せるかと言う人に対して:
「私はここに住んでいるのだから、今、少しでも力を尽くさなければ」と答えた。
(「檪(くぬぎ)園書影」の文章で、胡適の「人権論集」の序に引用された)
オウムが火事を救えるのであるから、人権も少しは反動支配を粉飾できる訳だ。
しかしこれは無報酬でなされることはない。胡博士は長沙に出かけて講演し、
何鍵将軍は5千元の車代を贈った。この額は大変なものだ。
これは実用主義と「称される」ものだ。
 だがこの火事をどのように消したかについては、「人権論」(1929-30年)の
時期だけでは明らかにできないが、一回5千元という販売価格が表面化したら、
話はもうはっきりしてきた。
最近(今年2月21日)「字林西報」に胡博士の談話が載った。
『いかなる政府も自分を守り、自分たちに危害が及ぶ動きを鎮圧する権利を持つべし。
固より政治犯も他の犯罪者と同様、法的保障と合法的審判を受けられるべきだが…』
 これで明解だ!これは(人権でなく)「政府の権利」を説くものではないか?
無論博士の頭脳はそんな単純なものではなく、彼は「片手に宝剣、片手に経典!」
というような何とか主義の類を説くことはせず、法的に処すべしと言っている。
 中国の御用文人は決まってこの種の秘訣を有しており、王道とか仁政を説く。
孟子がいかにユーモアに満ちていたか見てみよう。
彼は豚の屠殺場を遠くにすれば、その肉を食っても、憐憫の情を保てると教える。
仁義道徳の名目も保てる、と。
人をたばかるだけでなく、自分もたばかり、まことに心も安らかで、理にかない、
無窮の恵みを得られるという。
詩に曰く:
文化人のリーダーで博士号をもち、人権を抛って王権を説く。
朝廷、古(いにしへ)より殺戮多く、此の理、今は実用に伝う。
人権王道両方とも改まり、君恩に感じ、聖明に奏す。
虐政はなんぞ律の例の援用を妨げん、人を殺しても草の如く声なし。
先生は聖賢の書を熟読し、君子はもとより徳孤ならず。
千古の同心に孟子あり、肉食するも厨房を遠ざけよという。
口先のうまいオウムは、蛇より毒あり、水滴を落としたくらいで微功を誇る。
うまく権門に廉恥を売りつけ、5千元程度では奢とせず。3月5日
 
訳者雑感:
胡適は新政権の誘いを蹴って、国民党と共に台湾に渡ったが、彼の談話の
「いかなる政府も自分を守り、自分たちに危害が及ぶ動きを鎮圧する権利を持つべし」
というのは、今日、毛沢東の後輩たちが取り入れている政策だ。
チベットしかり、新疆ウイグルしかりだったが、今はそれに尖閣(釣魚)から
南沙・西沙などに向け、危害が往昔の「領土」に及ぶ動きを鎮圧すべし、
とのスローガンで国民の注意をそちらに向けさせようとしている。
北京マラソンへの日本人参加拒否は、そうしないと「上司」から「親日」
だと睨まれて、自分の身が持たないと危惧した官僚の浅はかな考えだった。
ネットや国際陸連などから「五輪を開催した北京が大恥をかくことになる」
との意見などから、日本人受け入れを認めた。
 王道とか仁政というのも、未現像の写真フィルムで、太陽に曝すと真っ白になり、
何も残らない。この作品は瞿秋白の作を魯迅が彼の別名で発表したものという。
   2012/11/12訳
 
 
 
 

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ユーモアから真面目へ

ユーモアから真面目へ
 「ユーモア」が風刺に片寄ると、本質を失うということはさておいて、
最も恐ろしいのは、ある人たちが「諷刺」で人を陥れることで、
「笑い話」にするなら命も伸びるし、運もたぶんよくなるだろうが、
その堕落ぶりが国産品に近づくと、しまいには西洋式の徐文長になる。
(徐は明末の滑稽な人間で、それをネタにした笑い話がたくさんある:出版注)
国産品提唱の下、広告にも中国の「自製舶来品」があるのも一つの証拠だ。
 私はその内に法律で、国民は喪に服しているような悲しい顔をせねばならぬ、
と明文化されるのではないかと怖れる。
「笑い」は元来「非法」ではないのに。
だが、不幸にして東北三省が淪落し、挙国騒然、愛国の士はなんとかして、
失地の原因を追及せんとするも、結果は原因の一つは、青年が遊び呆けて、
ダンスに興じてばかりいることだと判る。
(北京の)北海公園で、楽しくスケートをしている時、大きな爆弾が落とされ、
幸いけが人は無かったが、氷に大きな穴があき、滑る(逃げる)が大吉、
というわけには行かなくなってしまった。(滑るは逃げるに通ず)
 また、不幸にして山海関を失い、熱河も緊張が高まり、著名な文人学士にも、
危険が迫り、挽歌を作る者も出、戦歌を作る者も、文化の徳を講じるのも出た。
ひとを罵るのは固より憎むべきことだが、からかうのも文明的とは言えぬ。
皆が真面目な文を書き、真面目な顔をして「不抵抗主義」を補完すべきだ。
 ただ、大敵が国境を圧迫しているから、人間はやはり冷静ではいられぬし、
手に寸鉄も帯びねば、敵を殺すこともかなわず、心の中で憤るのみだ。
 そこで敵の代わりを求めようとする。この時ににやにや笑っていては、
災いに会う。(南朝の陳の後主のように)「陳叔宝には心肝がない(阿呆)
と言われる」だから機を知る人は、みんなと一緒になって泣き顔をして、
以て難を免れる。
「利口な者は眼前の損はしない」というのは古賢の教え也。
而して、この時「ユーモア」は昇天し、「まじめ」が残りの全中国を統一する。
 この辺のところが判れば、昔、なぜ貞女であろうが淫女であろうが、
人前では、笑ってもいけないし、ものを言ってもいけない:そして今なぜ、
葬式女が悲痛かどうかに拘わらず、路で大声だして泣くのかがわかる。
 これは正に「まじめ」なのだ。更に言えば「刻薄」なのだ。3月2日
 
訳者雑感:
魯迅は「藤野先生」で東京の清国留学生たちがダンスに興じている状況を描いている。
勉強に来たが、目的は社交を学び、帰国したらダンスの得意な外交官か役人になって、
官位に就く事だから、真面目に科学や数学も学ぼうとせぬ。
留学生の大半は帰国後の立身出世の為に、法律と政治を学ぶのが中心だった。
だが勉強もいい加減にしてダンスパーティに参加して、上流社会の仲間入りをし、
女性にもてようとする輩が大勢いた。
 今もそうだが、1930年頃の若者も、大学に入るのは「灰色の収入の多い」役人に
なる為であった。
 
 「利口な者は眼前の損はしない」という古賢の教えを守って、
目の前の明らかな損になることはしない。国連で中国の楊外相は「顔をひきつらせて、
尖閣(釣魚)は日本が盗んだ」と叫んだ。
そういう顔をして、泥棒呼ばわりしないと帰国後、損をすることを知っているから。
  2012/11/09訳

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文学上のディスカウント

文学上のディスカウント
 つまらぬ小新聞に、一部の人を侮蔑する小説を載せ、自ら得意になって、
名前までちらつかせておきながら、突然、他からの投稿に対しては、
「個人または団体を攻撃する性質のものは掲載しない故、悪しからず」
とあるのを見て、思い到ったことだが――
 凡そ、私が出会った中国文学を研究している外国人は、中国文の誇張表現に
対して、不満をもらしている。これは本当で、中国文学を研究しているとはいえ、
多分きっと死ぬまで中国文学を理解できない外国人で終わるだろう。
我々中国人なら数百篇の文を見、十数人の所謂「文学家」の手口を見ただけで、
つい先ほど「田舎」から来た真面目な青年でなければ、決して騙されはしない。
我々は慣れており、銭荘の店員が紙幣を見る如く、何が通用するかを知っており、
どれをDiscountすべきか、何が紙くず同然か、受け取り拒否すべきか知っている。
 例えば、尊顔を褒める時「耳が肩まで垂れて」などと言うが、こういう時、
我々は半分値引いて、通常よりは少し大きい位と思うが、豚のようだと信じない。
愁いを「白髪三千丈」というが、我々は二万分の一にDiscountし、
多分7-8尺位で、頭上に大きな草の山の如くに巻きあげているとは思わない。
この尺寸は模糊としているが、要するに大差は無い。却って少ないのを増やし、
無を有にしており、例えば、舞台に4人の痩せた役者が刀を持って登場すると、
それは十万の精兵だと理解する:雑誌にいかめしく、もったいぶった文が載ると、
行間や文字の間に、見えぬインチキがあると判る。
 反対に、有る者も無にできる。例えば「戈を枕に旦(あさ)まで待つ」とか、
「臥薪嘗胆」、「忠を尽くして国に報ず」とかは、我々も見たら即、丁度未現像のネガが、
光に曝されたように真っ白の紙になったと看做す。
 但し、これらの文は吾らも時には読む。蘇東坡が黄州に左遷された時、退屈のあまり、
来客に鬼(幽霊)の話をしてくれないかと頼んだように。
客が話せないというと、東坡は「口からでまかせでいいから一つやってくれ」と言う。
我々が読むというのはこの手に過ぎぬ。だがこの世にはこんな物もあり、
退屈しのぎに目を疲れさせているのを知っている。
人は往々麻雀やダンスを有害と思うが、実際にはこの種の文章の有害さの方が大きい。
注意しないと後天的な低能児にされてしまう。
 詩(経)の「頌」(ほめたたえる)はごますりであり、「春秋」は欺瞞に満ち、
戦国時代に士が蜂起して談じると、危言を以て聴かせるのでなければ、
美辞で以て感動させ、そこで誇大化され大げさな身ぶりで嘘デタラメをまき散らし、
次から次へと窮まること無しであった。
 今の文人は、洋服に着替えたが、骨髄の中は昔からの祖宗に埋没しておるので、
先ずそれを取り消すか、Discountしないとダメである。
そうして始めて、いくらか真実が顕れる。
「文学家」が事実で以て彼の誇張、大げさにウソデタラメをまく…古いくせを
改めたことを証明しない限り、たとえ天に誓ってこれからは真面目に取り組む、
さもなければ、天誅地滅だと言ってもやはり徒労に終わる。
我々もとっくに多くの「王麻子」(刃物屋の老補名)に「偽ものなら三代が滅ぶ」
という金看板を見慣れているし、況や又彼がその小さな尻尾を揺らしながら
ぺこぺこしているからである。 3月12日
 
訳者雑感:
「臥薪嘗胆」「尽忠報国」などという成句は、日本人も「外国人」として、
すっかり中国の文学上の誇大さに幻惑され、Discountせぬまま受け入れて来たようだ。
これはたぶんに江戸時代の儒学の影響があり、日露戦争で三国干渉により遼東半島を
返還させられたとき、国を挙げて「臥薪嘗胆」を誓った。
 あれを未現像のネガが太陽に曝されて真っ白になったと看做していれば、その後、
泥沼の満州事変から日中戦争に進むことは避けられたかもしれない。
文化は辺土に存す、というが、本家ではとうに廃れてしまったスローガンを、
後生大事にしまっていたため、1905年にそれが宝箱から飛び出して威力を発揮した。
 呉越の戦いを「文学上の割引なしで受け入れてしまった」外国人は、魯迅の言うように、
死ぬまで中国文学を理解できずに終わるのだろうが。
    2012/11/08訳
 
 
 
 

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