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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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大観園の人材

大観園の人材
 かつて、大観園の大切りは、劉老老山門を罵るであった。
老女形が登場し、老いてなお盛んに「放屁」し、
ズボンの後を突き抜けて後止む、のであった。
 当時身に寸鉄も帯びず、或いは既に武器を差し出した者を指して、
「殺せ、殺せ」との叫び声は、なんと勇壮であったことよ。
だから、彼女――男が扮した老婆も一個の人材に数えられた。
 然し今は、だいぶ違って来て、刀を振り上げ、
「自由、自由、自由」を、「XXを開放せよ」と口々に叫ぶ。
大切りの出し物も換えなければならなくなった。
 そこで人材が輩出し、巧妙さは違うが、
登場するのは老女形でなく、
若い女形で、月並のではなく、上海風の広告にいう「道化女形」で、
これは特殊な役者で、彼(彼女)は媚笑がうまく、
泣きわめいては情に訴え、
シャレた罵りもこなし、軽薄な会話もできる。
要するに色っぽい女形が、
若い道化を兼ねるわけで、この時代が生んだ英雄(「美人」の方がいいか)、
或いは、美人が長年、閲暦してきた結果なのだろうか。
 美人が「長年に」とは、沢山の男を閲暦してきた徐娘で(汪兆銘を指す)
彼女はとっくに妓女からやり手婆に昇格し:だが女の艶姿はなお残ってい、
人も売るけれど、自分自身も売る。
自分を売るのは容易で、人を売るのはちょっと難しい。
今、身に寸鉄を帯びぬ人だけでなく、更にはもっと別の……があり、
ましてや又や目に余る露骨な強奸にあってしまったのだから。
こうした非常事態に対応するには、異常な才能がなければダメだ。
今の大切りの芝居は、戦場で和すに似ていて、戦っては和し、
投降もせず守りもしないが、それでいて投降し守りもするから、
何と演じにくい芝居に相違ない。
 その気がありそうでなさそうな、そのあどけなさは上手く演じられぬ。
孟子曰く:「天下以て人に与ふは易し」だが、
あっさりと両の手で「天下」を捧げて「人に与える」のは、
さほど難しいことではない。ただ問題はそうはできぬことだ。
従って、涙を流し,鼻水を垂らして哭し、狡猾に声を震わせ、
苦悩を訴えながら:
私が火中に入らねば誰が入るだろうか、とすごむ。
 娼妓は自から火に落ちたと言い、誰かに助けて貰おうとするが:
やり手は火の中に向かって泣きわめくが、
彼女を信じるとは限らない。
ましてや彼女は次のように宣言しているのだから:
私は胸を開き、全ての人と一緒に火の中に入ろうと思う。
 この新らしい大切りの喜劇は悪くはないが、上出来とも言えない。
たとえ無い知恵を絞ってみても考え付かない代物だ。
 老女形が登場し、道化は退場した。
大観園の人材はとても多様だ!
    4月24日
訳者雑感:
 本篇は日本に抵抗するでもなく、和平をするでもない汪兆銘の芝居を、
大観園という「紅楼夢」の劇中の花園に見立てて、カモフラージュしながら、
当時の国民党政府を風刺しているのだろう。
   2013/01/19記
 
 
 
 
 

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保留

保留
数日来、新聞に:
新任の政務整理委員会委員長の黄郛の専用列車が、 天津に着くや、17歳の青年、劉庚生が爆弾を投げ、 犯人はその場で逮捕、供述では、日本人の指示を受けた由。
それで翌日新しい駅の外に梟首し、衆に示した、と伝えている。
清朝が民国になって22年経たが、憲法草案の民族、民権の両篇は、 数日前にやっと原案が完成したばかりで、まだ発布されていない。
前月、杭州で、西湖の強盗犯が公衆の前で斬首され、 見物人は万を数え、市内の巷は空っぽになった。
このことから、「民権篇」第一項の「民族の地位を高め」 にはそぐわないが、 「民族篇」の第二項の「民族精神を発揚し」には合致するわけだ。
南北統一して早8年。天津にも小さな首を掛け、 全国一致を示そうというのだから、もともとそう騒ぐまでもないか。
その次は、中国には「唯婦女と小人は養い難し」というが、 但、事件が起こると、三老人(馬・章・沈の三人が国民政府の対日交渉で、 裏で妥協していることを:出版社)が大いに騒ぎ、二老(馬・章)が宣言し、 九四(才の馬老人)の題辞が書かれるが、 その他にたくさんの「愛国童子」、 「美人の従軍」などの美談があり、壮年男子の顔色を無くさせた。
我が民族は往々「子供のころは賢かったが、大人になるとどうも」だが、 老いるとぐっと元気になるようで、追悼文では、死ぬと更にすごい人になる。
だから、17才の青年が爆弾を投げたのは、 特に情理から外れた訳でもない。
ただ、私が保留したいのは「供述では、日本人の指示を受け」 の一節で、これが売国とされたのだ。
20年来、国難はやまず、大衆から売国奴とされた者は30人以上いるが、 彼らはその後、依然として逍遥自在にしている。
青年と児童は懸命に彼らの稚弱なこころと体力を使って、 竹筒や募金箱を携えて、風沙泥濘を奔走し、国の為に微力を尽くし、 なんとか良い国にしようとしている。
数はどれほどにのぼることか。
彼らは先見の明に欠け、血と汗で集めた金は、 大抵虎狼の餌食にされたが、 彼らの愛国心はひたむきであり、 売国なんということはこれまで一切無い。
なんと今回は例を破ったのだが、私は彼の罪名の暫時保留を望む。
もう一度事実関係を調査すべきで、 それには3年とか50年とかはかからぬ。
掛けられた首が腐るまでに明らかにせねばならぬ:
誰が売国奴か?
 我々の児童と青年の首に吹き付けられたイヌの血を洗い落とせ!
5月17日
本篇と次の3篇は(検閲により)掲載されなかった。 5月19日

訳者雑感:
出版社注では、黄郛は蒋介石の命で、部下の熊斌と関東軍の岡村との間で 14日後に、「塘沽協定」を締結させた由。この協定は後に「売国協定」と云われた。
黄郛を狙った青年が売国奴として天津の新駅の外でさらし首にされた。
革命後22年経ても、なおこんな「見せしめ」をし、またそれを万を越える大衆が、 巷からわざわざ見物に来る。このさらし首とそれを見に集る大衆の「ぽかーん」と 口をあけた姿は、魯迅の原体験であり、彼自身も何回も見たことだろう。
 仙台のスライド事件、小説「薬」の中の秋瑾の心臓をえぐり取ってくるシーン。
「阿Q」が車に乗せられ、市中引き回しの上、斬首されるシーン。
 ましてや17才の青年が売国奴に爆弾を投げたのに、売国奴とされる理不尽さ。
だが保留は許されなかった。
    2013/01/18記

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天上と天の下

天上と天の下
 今中国には2種の爆撃がある。一つは爆撃する、もう一つは爆撃に来るだ。
 する方は「数日来、飛行機が匪賊を爆撃した外、他に戦闘は無く、
第3第4の両隊は、7日朝から申(さる)時まで、交互に宣黄以西、崇仁以南に、
編隊を派遣し、120ポンド弾2-300個を投下した。
匪賊のアジトになりそうな所は殆ど平定し、匪賊が潜める場所は無くなった。…」
(5月10日「申報」南昌電)
 来る方は:「今朝6時、敵機が薊県(今、天津)を爆撃、死者十余名。
又密雲(今、北京)も今また4回敵襲を受け、毎回2機で百発以上爆撃された。
被害は詳査中。…(同日「大晩報」北平電)
 これに対応して、上海の小学生の飛行機購入募金と、
北平の小学生の地下壕堀りの動きが生じた。
 これも「内を安じなければ、外を攘夷できぬ」或いは、
「安内の方が、攘夷より急務」のテーマで二つの名文が出て来た。
 租界の住民は福がある。但、目を閉じて考え、より広く考えると、
内には官兵が天上におり、「共匪」と「匪化」した民が天の下におり、
外からは敵軍が天上におり、「匪化」していない民が天の下にいる。
「被害は詳査中」であり、泰平な所では、宝塔を建てた。(戴季陶が中山陵近くに建造)
釈迦は生まれた時、片手で天を指し、もう一つは地を指して曰く:
「天上天下唯我独尊」とはこの謂いであった。
 但、また目を閉じ、遠い先の事を考えると、難題にぶつかる。
爆撃に向かうのが遅れ、来るのが早まると、2種の飛行機が鉢合わせするとどうなるか?
「安内」を止め、方向転換し「迎撃・痛撃」するか、やはり只管我が道を行くか?
敵は来るに任せ、前後して「匪区」を爆撃し、掃討してから、彼らを「追い払うのか」…。
 だがこれは冗談で、事実はけっしてこんな風にはならない。
たとえそうなったとしても、解決するのは難しいことではない:
病気治療に出国するか、名山に登って仏を拝めば、本件は万事休すだ。
              5月16日
末尾3句は原稿では:
「病気治療に出国して、背中にデキモノができ、名山に仏を拝むと、尿に糖が出て、
これにて万事休す」であった。    19日夜 補記す。
 
訳者雑感:本件は北京の近辺に日本軍の飛行機が爆撃を行っておるのに、
南方では「共産軍」の根拠地を爆撃している状況を示している。
 そんな大変な状況にも拘わらず、孫文の陵墓の近くの宝塔建造や、
背中のデキモノの治療に出国する要人(戴季陶と汪兆銘を指す:出版社)がおり、
天の下の民は、天上からの爆撃に手も足もでない。万事休すである。
それにしても要人は、背中にデキモノがよく出て来るようだ。
去年秋にもそれで米国の要人との面談がキャンセルされた。
     2013/01/17記
 
 
 
 
 
 
 

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王化

王化
 中国の王化は今まことに「光は四方上下にいたる」(尚書)ものである。
 溥儀の弟嫁が料理長と3万余元を持って逐電した。
そこで中国の法廷は彼女を捕え「夫の家に戻して監督させる」判定を下した。
満州国は「偽」だが、夫権は「偽」ではない。
 新疆の回族が騒いだので、宣撫使を派遣した。
 蒙古の王公が流浪の果て、行き先が無くなったので「蒙古王公救済委員会」 を特別に作った。
 西蔵の懐柔に、パンチェンラマに御経を念じて呪文を唱えてもらった。
そして、最も寛仁な王化政策は広西の瑤民への対応策と言える。
「大晩報」に、この「寛仁政策」は、3万瑤民のうち、3千人を殺したという。
三台の飛行機が瑤族の洞(家)に「卵を落とし」彼らに「天神天将が来た、 と驚きいぶからせ、戦わずして投降」せしめた由。

その後、瑤民の代表を選び、外埠を観光させ、彼らに「上国」の文化として、 街路に金ぴか制服のインド人巡査のいかめしい姿などを見物させた。
インド人巡査は「ガタガタ騒ぐな!」と怒鳴った。
 これらもうすでに久しく前に帰化した「夷犾」は近頃「ガタガタ騒ぐ」のは、 どうやら恨みがあるからだ。
王化が盛んな頃は、「東面すると西夷が恨み、南面すると北犾が恨む」のも、 当然の道理である。(尚書:早く自分の所も王化して欲しいとの意)  だが東奔西走し、南征北伐するに決して怠けているのではない。
苦しいけれど「精神的勝利」は我らにあるのだ。
 「偽」満州の夫権保障の後、蒙古王公を救済し、ラマの経と呪を念じ終え、 回族は本当に安心でき、瑤民は「戦わずして投降」したら、次は何ができるか?
もちろん、ただ、文徳を修め、以て「遠く離れた所にいる異族」日本を服すのみ。
この時、我らのインド人巡査式の責任は果たし尽くせたと考えられる。
 嗚呼、草の民は盛世に生まれ、遠くに歓呼の声を聞いて、鼓舞するのみ!
(孫文が1894年、李鴻章への上書の句)  5月7日
 
 本篇は新聞検閲により、没となった。幸い瑤民でもなく、租界に居たので、 国産飛行機の「卵の落下」も免れたが、「ガタガタ騒ぐな」は一律に受けた。
従って「歓呼」も許されず――されば、一声も発すことあたわず、 死んだふりの救国あるのみ。  十五夜記
 
訳者雑感:
 日本に触れた段の原文は「自然只有修文徳以服“遠人”的日本了」とある。
出版社注に、“遠人”は異族或いは外国人を指し、「論語・季氏」に:
“故に遠人が服さぬなら、則、文徳を修め以て之を来させしむ”とある。
武力で服さぬなら、文徳を修めさせて云々と読める。
文脈からすると、この当時の対日政策は、日本に服従させられるのではなく、 日本を(他の周辺民族のように)文徳で中国に服させる、ことにあったようだ。
武力で滅茶苦茶にされているが「精神的勝利は我らにある」、と。
    2013/01/12記
 

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盛宣懐から道理のある圧迫を語る


 盛氏の先祖は積徳がとても厚く、子孫は「失地回復」を2度も行えた:
最初は袁世凱の民国政府治下、次は今回の国民政府治下である。
 民国元年の頃、盛宣懐は売国奴だとされ、家産はすべて没収された。
暫くして、第二次革命後、返還された由。それは何の不思議も無い。
袁世凱の「同類の不幸を憐れむ」の御蔭で、自身も売国奴だからである。
毎年5.7と5.9を記念するではないか?
(21カ条調印の国恥記念日)
袁世凱が21カ条を調印したのは売国の真の証だ。
 最近また紙上でニュースを見た。趣旨は「盛氏の家産は命令により返還され、 蘇州の留園、江陰無錫の土地家屋などは現在手続中」の由。
 これには驚いた。聞いたら、民国16年、国民革命軍が上海南京に来た時、 又盛氏の家産を没収した:当時の罪名は「土豪劣紳」で、紳も「劣」となった訳。
売国奴の旧罪に加え、当然没収すべし、となった。だが何故返還したのか?
 第一、現在、売国奴がいるなどと疑ってはならぬ。本当の証拠が無いから――
今の人はすでに屈辱的な条約には調印せぬことを誓っており、彼らは盛宣懐や、 袁世凱とは比べようもない。(国民政府は袁のような屈辱的条約は調印せぬという)  第二、今まさに飛行機募金の最中で、政府の財政が厳しいことはよく知っている。
それなのになぜだ?
 学理的な研究の結果――圧迫には元来2種あり:
一つは理のあるもので、且つ永久にあるもの。もう一つは理が無いもの。
理のあるものとは、小民に高利子の返済や田租を上納せよと迫るもの。
この種圧迫の「理」は公告に:「借金返済は国内外、同じ理の定めあり、田祖納税も、 千古不変の鉄則なり」 理のないものは、盛宣懐の家産没収など:大金持ちの紳士を「圧迫」する手段は、 当時も多分理があっただろうが、今ではもう理の無いことになった。
 新聞で初めて「メーデーの労働者に告げる書」の記事を見た:
「自国資本家の理の無い圧迫に反抗せよ」には驚いた。
これは階級闘争の提唱ではないか?後によく考えてみたらこうだと悟った。
これは理の無い圧迫には反抗せよというので、理の有るのは含まぬ、と。
理があるかどうかは下記で明らかで、下記すると:
「克苦耐労し、生産に励み…、困難な時も、労資間の真誠の協力に努め、 労資間の全ての紛糾を無くすべきで」云々とあり、 更に「中国の労働者は外国の様に辛く苦しくはない」などと続く。
 思うに、それほど大仰に驚くことも無いのだが、天下の事は大概道理があり、 全ての圧迫もかくの如しである。ましてや、盛宣懐などに対する理由は少ないが、 労働者への対応は無いということはあり得ない。   5月6日

訳者雑感:
 「天津のコンプラドール」を書いていた頃、梁さんの父親の世代は、若い頃、 広東や香港で英語を学び、ジャーディンのコンプラドールとして上海や天津に来た。
広東語英語の他に北京語や上海語も操って、李鴻章や袁世凱などと外国資本を 結び付け、鉄道や鉱山開発、商船会社、郵電局、器械・製鉄会社などを起こした。
 その巨頭ともいうべき大官僚資本家が盛宣懐である。大変な財を成した。
民国元年とは辛亥革命のころだが、彼は「売国奴」とされ、財産を没収された。
だが、暫くして袁世凱は同類相哀れむでそれを返還したという。
しかし1928-9年頃の第二次革命で、国民党政府は蘇州など江南各地の土地、 産業などを全て没収した。それを33年に又返還したのだ。訳が分からない。
 魯迅もこれは理解しがたく、彼なりの解釈を加えている。
古来、中国では突出した「大金持ちの紳士」の家産を没収した例は多々ある。
しかし、10年ごとに、没収・返還を繰り返す裏には、盛家と政府の間に「取引」が 存在したに違いない。
 政府の役人は没収したものの、そこから何も「うまい汁」は吸えない。
それを元の持ち主に「返還」すれば、役人としてとてもうまい汁が吸えるのだ。
梁さん一家も、新中国成立後、いろいろな難癖をつけられて、家産を没収され、 彼は本家の邸宅は取りあげられ、離れに住んでいた。
住所の番地には元の番地に「余」がついていた。
    2013/01/11記
 
 
 
 
 
 
 
 

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統制下の言論

「責任を負わぬ戦車」で張と自称する人が、「言論が不自由なときに良い文章が出る」
という趣旨で、「言論の不自由を擁護」している。
1月3日の「南方週末」の記事の差し替えを巡って、香港などの報道がかまびすしい。
元々中国の新聞はすべて「政府・共産党」の経営する「官営集団下のメディア」で、
民間資本のメディアは無い。
 しかし今や「人民日報」は「つまらぬ」として誰も見たいと思わない。
中国の各地には数えきれないほどの地方紙が出ていて、通りの屋台にはおびただしい
数の新聞が並んでいる。
記者たちは、自分の記事が読者の目を引き、自分の新聞を買って貰おうとする。
その「励み」が「言論統制下」での「良い文章」を生み出してきたのだろう。
 今中国の多くの新聞やテレビ報道では、4文字6文字の手あかの付いた従来からの
言い回しで溢れている。そんな記事は退屈至極で、金を払って読む気もしない。
北京の新聞は「南方週末」の勇気を讃えて、「週と粥の発音がZhou」で同じなことから、
南方のお粥はあつあつの勇敢な心がある、と記す。
また政府の太鼓持ちの新聞を新しい靴で踏みつけた写真を載せて、
「どうだい今度買った僕の靴かっこいいだろう」とのキャプションをつける。
言論の自由が制限されると、文章がうまくなるのは確かだ。
 

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責任を負わぬ戦車

責任を負わぬ戦車
 最近紙上で、江西人が初めて戦車を見たと報じた。勿論江西人には良い眼福だ。
だが、ある人は不安そうに又戦車義捐金を取られるのでは、と怖れる。
私は別の事を下記する:
 自称「張」という人が「私は言論の不自由を擁護する者で…言論が不自由でこそ、
良い文章が生まれ、所謂、冷笑諷刺ユーモアその他の諸々が、責任を負わぬ文体で、
強制的圧迫の下で応用されて生まれる」と言った。
これは所謂責任を負わぬ文体だが、戦車との比較においてどうか、分からない。
 風刺などがなぜ責任を負わぬか、私はほんとうにわからない。
だが人々が「根拠の無い話」はなぜダメなのかという議論や、「暗闇から矢を放ち」
どのように天才を射殺するか、などを多年に亘って聞いてきた。
長い間、そうだということは何やら道理がありそうである。
大体のところ、人を罵るのは、好漢になれない肝の小さいものがすることだが、
厚い鉄板に隠れ――戦車から、パンパンと爆撃するのは痛快至極だが肝は大きくない。
 高等人はこれまで厚い物の後に隠れ、人を殺すのが上手かった。
昔は厚い城壁で、盗賊や匪賊を防いだ。今は鋼鉄の防弾チョッキ、鉄甲車、戦車だ。
「民国」と私有財産を保障する重厚な法律本もとても分厚いものである。
天子から卿大臣の棺材も庶民のよりとても厚い。面の皮の厚さも古礼に合っている。
 只、下等人が自衛したいといっても「責任は負えぬ」と嘲笑されるのが落ちだ。
 「さあ出てこい!出てこい!影に隠れて根拠の無いことを喚くのは卑怯者ぞ!」
 但、君が当局のペテンにはまり、本当に丸裸で前線に飛び出して行くと、
あたかも許褚(三国志の豪傑)のような好漢にみえるが、相手はすぐ一発ぶちかまし、
まったく何の遠慮もしない。しかる後、金聖嘆の「三国演義」を批す筆法をまねて、
罵声一発「誰がお前に丸裸で出てこいと言った」――死にそこない。
要するに、死ぬも生きるもすべて罪ありとなる。
実に人となるはとても難しく、戦車になるはとても容易なのがわかる。5月6日
 
訳者雑感:正月3日の「南方週末」の記事すりかえを巡る抗議とストライキに、
ネット市民や北京の出版社などが反応し、「言論の自由」をと叫んでいる。
以前の中国では、こういう当局の勝手な「すりかえ」は、それ自体も報じられず、
それゆえに、それに反対するストライキや抗議も報じられることは無かった。
「言論が不自由だから…」こうした抗議行動が讃えられている。
魯迅の時代ももちろん国民党政府を批判する記事・文章を新聞に発表しようにも、
当局が印刷を許可しなかったから、検閲を「すりぬけられる」文章をひねり出した。
それが良い文章かどうかは、わからない。ただ相当頭脳を使わないと書けない。
「南方週末」の記者たちはどうなるだろう。 2013/01/10記

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「多難の月」

「多難の月」
 前月末の新聞に5月は「多難の月」というのが多かった。
こういう言い方は以前は無かった。今、この「多難の月」となった。
過ぎ去った日々を思い出すと、確かに5.1は「メーデー」で「多難」であり:
5.3は済南惨案の記念日でこれも「多難」に属す。
但、5.4は新文化運動が発揚したし、5.5は革命政府成立の佳日であり、 どうして全て「難」の字の山に積み上げるのか?実に奇妙でおかしい!
 だがこの「難」の字を国民の「受難」の「難」に解さずに、人を「こまらせる」 という意味の「難」に解せば、一切の困難はきれいに氷解する。
 時勢もほんとうに変化が早く、昔の佳節も後には難関となるのを免れぬ。
 かつて、大会というと多くの人が広い空き地に集ったものだが、 今や機に乗じて騒ぎを起こすのを防ぐため、代表に書面を出して、ビル内に召集し、 軍警に秩序維持を要請するようになった。
以前、要人が外出する時は、「道を清掃」(俗語で「街を清浄」)させて、地上を移動した。
今は「不軌を謀る」(張作霖の列車爆発を指す:出版社、以下同)のを防ぐためには、 飛行機に乗らねばならず、(張学良は辞職して)外遊する時になって初めてそれを、友人に安心して贈れるようになった。(宋子文と蒋介石に贈った)
著名人は骨董店に出かけるのは、以前も別に珍しくもなかったが、今は「平服」だが、 「平服」で騒いでも誰も聞いてくれないから、名山に登るか、古廟に入る他なく、 これは何も驚くに当たらない。要するに、頼るべき国の柱石の多くは、 すでに半空にあり、最も低いところでも高楼峻嶺に上がってしまい、地上には疑わしい 民百姓だけが留まって、本当に「下民」となり、また民なのか匪なのかも分け難く、 慶弔の際には、「仮名で騒ぎを引き起こす」ことになる。

これまで「華洋(中華と西洋)双方の当局の事前の厳格な防止策」に頼ってきたため、 大騒ぎにはならなかったとはいえ、平時よりはエネルギーを要し、困ったことで、 5月も「多難の月」になり、記念の対象が良いことであれ悪いことであれ、 日々の暮らしが悲哀や、喜びとなって話しも無くなる。
 但、世界に大事件がこれ以上増えず:中国にこれ以上惨事が起こらず:
なんとかいう新しい政府が成立せず:偉人の誕生日と忌日が増えぬことを願う。
さもないと、日月を重ねるたびに「多難の年」になってしまうし、 華洋当局はいつも困ってしまい、我々地上を歩く小民は、永遠に「嫌疑」を 受けるしかなく、「戒厳を守り奉る」、嗚呼哀しい哉、息もできぬ。
     5月5日
 
訳者雑感:習主席は就任後、南方視察に際し、以前の指導者のように、交通規制などで、 庶民に影響を与えるような「特別なこと」を一切禁じた、と報じている。
これは大変素晴らしいことだと、各紙が称賛している。
だが、受け入れる側が、言葉通りに実行して、大騒ぎが起こったら、誰が責めを負うのか。
「赤旗を振って大歓迎」する「人民」が街路からいなくなったら、何かを訴えようとする 所謂「上訪」の人々が車を取り囲んだりしたら、当局はどうするのだろうか?
魯迅がここで指摘する「道を清掃」というのは、かつて北京から偉い役人がやってくると、 その地方は総出で出迎えて、覚えめでたく帰ってもらって、これ以上苛政をされぬ様、 「大接待」した訳だ。
 習主席の指示がいつまで維持できるか、注視してゆこう。
   2013/01/09記
 
 
 
 

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新薬

新薬
 話しだすと思いだすのだが、918(満州事変)以来、呉稚老(国民党元老)の、
あの絶妙な洒落の効いた談話を耳にしなくなったが、病気との噂だ。
今しがた、南昌の特電に彼の声が顕れたが、もう昔の面影は全く消えてしまい、
918後、なりを潜めていた民族主義文学者達も、よって、たかって冷笑をあびせた。
 どうしてだろう? 918のせいだ。
 想い起せば、呉稚老の筆舌は大変な任務を果たしたものだ。
清末時、五四時代、北伐の頃、清党の頃、清党以後のまだ黒白がついて無い頃、
だが、今口を開くと、身を隠していた連中まで冷笑する。
918以来の飛行機は、本当にこの党と国の元老呉氏を爆撃し、
また身を潜めていた連中の小さな肝かで大きくしてしまったかもしれない。
 918後、情勢はかくも違ってしまった。
 古書にこんな寓話がある。
某朝の某帝の頃、宮女達が病を得て、どんな手を尽くしても治らない。
最後に名医が神技的処方を書いた:少壮男子若干名、と。
帝はやむなく彼の指示に従った。数日後見に行くと、宮女達は精神渙発になり、
床には多くの痩せこけた男たちが伏せていた。帝は驚いて訳を問うた。
宮女達は、ひそひそ声で:薬の出ガラ、と答えた。
 数日前の新聞では、呉氏は薬の出ガラのようで、イヌにすら踏みつけられそうだ。
だが彼は聡明で恬淡ゆえ、自分の事は顧みないで、だし汁を人に全て与えるような事には、
決してならないだろう。
だが918以後、情勢は既に変わっており、一種の新薬を売りだす要があるのも確かで、
彼に対する冷笑は実を言うと、この新薬の働きである。
 この新薬の効能はとても激烈かつ穏かでなければならない。文章にするなら、
須らく、まず烈士の殉国を講じ、そして美人の殉情を叙さねばならない:
ヒットラーの組閣を讃えると同時に、ソ連の成功を頌し:
軍歌を歌った後、恋の歌を歌い:道徳を説いた後、妓楼の話しをし:
国恥記念日には楊柳を悲しみ、メーデーにはバラを想う:
主人の敵を攻撃しながら、主人にも不満のようで――要するに、以前使ったものは、
単純な処方だったが、その後に売りだしたのは複合薬である。
 複合薬は何にでも効くが、これといった効き目は無く、病は治せず、中毒死も無い。
だが誤飲した病人には、それ以外の良薬を探そうという意欲を失わせ、病状を悪化させ、
訳のわからないまま死に至ることになる。
      4月29日
 
訳者雑感:
 寓話の薬の出ガラというのは、漢方薬を飲んでないと理解が難しい。
漢方では薬草一斤を薬缶に入れて、三合の水を注ぎ、一合になるまで煎じるとか、
説明があり、その一合の薬を瓶に入れて、小分けにして飲めという。
残ったのが出ガラで、お茶のものと同じである。
 新薬というのは、漢方なのか西洋のものか分からない。
いずれにせよ、呉氏の薬はもはや効かなくなったのだから、ヒットラーの組閣から、
妓楼の話しまで、すべてに対応できる新しい薬が、1933年頃の上海に広まっていた。
それを飲んで殆どの人が「訳のわからないまま」に死んでゆく。
魯迅は、残り3年の寿命をうすうす感じながら、そうでない新薬を探し求めたのか?
      2013/01/08訳
    
 

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文章とテーマ

文章とテーマ
 あるテーマについて文を書いてゆくと、書く事が無くなってくる。
新しい機軸を出すと、もはや訳が判らなくなってしまうが、一歩ずつやってゆくと、
また書けるようになる。それを太鼓持ちがはやし、人の耳になじんでくると、
次つぎに出て来るだけでなく、それが通用するようになる。
 その例が、近来の最重要テーマの「安内攘外」(内を安定させ、外は攘夷)で、
これについて沢山書かれている。ある者は安内のためには、先ず攘夷せねばならぬ、
又ある者は安内と同時に攘夷すべし、ある者は攘夷なくして安内はあり得ないとし、
攘夷即ち安内だと言う者や、安内即攘夷として、安内は攘夷より急務だという者もいる。
 ここまで書いてくると、文章はもうこれ以上展開できないようで、
見たところ多分ピークに達したと言えよう。
 従って、新しい機軸を出すと、もう訳が判らなくなってしまう。
今流行の名づけ方だと、「漢奸」の嫌疑が出て来る。どうしてか?
新機軸の文は「安内の為には、必ずしも攘夷は不要」「外を迎え、以て内を安んず」
「外はすなわち内で、もとより攘(じょう)すべきではない」の3つしか残らない。
 この3つの意味を書きだすと、実に珍奇だが、事実として存在している。
それも遥か昔の晋・宋の時代に求める要も無く、明朝時代をみれば十分だ。
満州人は早くから機を窺っていたが、内は民草の命を軽んじ、
気骨ある官僚を殺してしまっていた。これが一番目。
李自成が北京に入城し、権門連中は奴(やつ)が皇帝になるのは我慢ならず、
「大清の兵」に彼を殺すよう要請した。これが2番目。第3に至っては、
まだ「清史」を見ていないので分からぬが、旧例によれば、愛新覚羅氏の先祖は、
もともと軒轅(けんえん)黄帝の第何番目かの子の苗裔で、朔方に逃れていたが、
仁に厚く、ついに天下をとったというべきで、要するに、我々はもとから同じ一族だ、
ということだ。
 後の史論家は、もちろんその非を強く排斥したし、今の名人も(その当時の)
流寇(全土を荒らした匪賊:当時のも揶揄している)を痛切に非難している。
ただし、これはその後と今日の話しで、当時はまったくそうでは無かった。
(狩猟用の)鷹と狗が道を塞ぎ、不義の者が権力を握り、魏忠賢などは生存中に、
孔子廟に祀られたではないか?彼らのこうした手法を、当時の人たちは皆肯定した。
 前清末、満州人は革命鎮圧に必死になり、「友邦に贈る方が、家人にとられるよりまし」
ということを言いだし、漢人はそれを知って切歯扼腕した。
実を言えば、漢人もこれと同じでは無かったか?
呉三桂が清兵の入関を請うたのは、自身の利害を考えてだが「この点では人は同じ」
という実例だ。……
        4月29日
付記:原題は「安内と攘夷」だった。5月5日。
 
訳者雑感:
 付記の意味は、出版社によって勝手に変えられてしまったということを示す。
今広州の「南方週末」の4-50人に記者が、抗議のためにデモを始めたという。
「民主」とか「自由」を求めて発行した雑誌が、出版社の勝手な方針(上からの圧力)
で、まったく別物にすり替えられてしまったことへの抗議だという。
 「国をよくしたい」と願う記者たちの動きは、「党に対して不適切」で「反党行為」と
判定されている。この国は国民の為のものか、党の為のものか?
湖南省の長沙の三一集団会社の梁会長は、「ライバル会社が公権力を使って我々に
かける圧力を避けるため」北京に本社を移した。
彼のコメントは「党が求めるならば三一のすべてをささげても構わない」というが、
何か違和感を覚えた。民営企業すらも「党のためでなければ」存続して行けぬようだ。
   2013/01/07記
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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