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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「別字」について

(つづく)
 最初の数句ははっきり言わせてもらえば、おかしな話である。まず我々が無理やり人に改正を強いる法があるかないか問わぬなら、自分で先ずは一部の古書の改正を試してみれば良い。第一の問題は何を以て「正字」とするかで、「説文」金文、甲骨文、或いは陳氏の所謂「生きている字」を使うのか?みながそれに依拠しようと希望しても、主張者自身がまず改める方法が無いなら「父の誤りを蔽い隠す」ことはできぬ。従って、陳氏の代表する次の主張はすでに誤っており、彼に一任すると誤ってしまうが、これ以上誤りを増やさなければ、将来の文字統一の破壊から免れる。是非はさておき、専ら利害だけで論じるなら、悪いとは言えぬが、正直言えば、現状維持に過ぎない。
 現状維持説はいつの時代にもあり、賛成者も少なくないが、実際には他にやれることがないからだ。もし古い時代からこれを用いていれば、今日のような現状にはなっておらず、今この方法を用いても、将来の現状は無く、遠い将来になっても、一切は太古と変わらぬ文字を以て論じるなら、文字の無かった時は象形で以て「文」を造ることもできず、更にそれを増殖して「字」を成す事もできず、篆(書)も決して解散(ばらけ)て隷書にならず、隷書も簡単にされて現在のような所謂「真書」(楷書)にはならなかった。文化の改革は長江大河の流れと同じで、堰き止めることはできず、もし堰き止められるなら、それは死んだ水になり、涸れてしまわなければ腐敗するのは必至だ。無論流れゆくとき、弊害がないなら大変良いことではないか?だが実際には必ず変遷移動があり:現状維持もありえないし、必ず改変がある。百利あって一害も無いという事は無く、その大小を比較するだけだ。況や、我々の四角い字は古人も別字を書き、今の人も別字を書くし、別字を書く病根は四角い字自体にあり、別字病は四角い字本体と併存し、この四角い字を改革せぬ限り、それを救う十全な方法は実際無い。
 復古が難しいのは何氏も認めている。だが現状維持もできないのは、我々現在の一般読書人の使っている所謂「正字」も実は前の清朝の役人採用時の規定に過ぎず、一切の指示はすべて薄い三部の所謂「翰苑分書」の「字学挙隅」の中にあるが、20年来、知らないうちに少し改変された。古代から今日まで、いろんな事が改変されたが、それは知らないうちにでなければならず、もし何か言いだすと必ず障害にぶつかり、現状維持が叫ばれる。復古説も出て来る。こういう話しは無論効力は無い。だがそれがいっとき障碍となる力を失わないのも真実で、それは一部の有志の改革の志を遅疑させ、潮を招こうとする者をして、潮に乗るものに変えさせる。
 私が今言いたいのは、現状維持は穏健なように聞こえるが、実際には通用せず、史実は不断に「そんなことは決して無い」ことを証明している事だ:只僅かにこんな位だ。
      3月21日

訳者雑感:
 父を病で失うまで、魯迅は科挙の試験の為に清朝の規定した「正字」を十数年勉強してきた。1日一字覚えて3-4千字程だろうか。それを覚える為の時間と労力は大変なものであったろう。それに別字というのが沢山あり、彼の小説「孔乙己」に登場する科挙の試験に合格できない孔さんから、酒の肴の「茴香豆」(ういきょうまめ)の茴の字に4通りの書き方があるのを知っているか、帳面付けから番頭になるのに必要だから教えてやろう、とからまれ、少年は面倒くさそうな態度を見せる場面がある。回という簡単な字にすら4通りもの書き方があるというのでは、字画の多い一般の文字の書き方の多さは気が遠くなるほどだ。だが、読書人は皇帝の「いみな」とか目上の人の号とか「あざな」をしっかり記憶して、礼を失することの無いようにせねばならない。
 こんなことばかりで、四角い字の奴隷にされ、化学元素も知らぬ読書人が世の中を牛耳ってきた。だが人間の頭脳の能力には限界がある。その大半を四角い字で占領されては、他のことを取り込む余力が無い。これを打開するためにはどうすればよいのか?
 魯迅はまだ今日のような「簡体字」の普及を想像できていなかった。但、ローマ字表記で、まずは全国各地からの人が集まってきている上海などの都会でそれぞれの方言しか分からぬ人が相互理解できるように北方語を主体にローマ字で発音記号を付けることによって、まずは話し言葉を統一しようと考えていたようである。
 中国で改革を提唱すると必ずそれに反対する人達の大合唱で、とりつぶされてしまうことが多々あった。従って、知らないうちに「改変」するのが次善の策であった。
「簡体字」に切り替える時も、そうすると古代からの伝統の文章が読めなくなる。歴史の断絶が起こる、と猛反対にあった。今でも日本や台湾の一部の人は、中国の簡体字は全くていをなしていない、として猛反対しているが、一方自分でノートする時などは自分なりの略字や草書を使って平気でいるのだが。
 古代から清朝までの歴史的な文書が読めなくなると言っている人は、宋や明代の古文書も清朝になって「四庫全書」に収められた時に、清朝の定めた「正字」で書かれた事を忘れてしまっている。漢代の司馬遷の頃にはまだ木片や竹に篆(書)や隷書で刻まれていたのであって、その字と「正字」はまったく別の字である。(多少は面影が似ているが)
 閑話休題。北京や上海の大きな商店やレストランには清朝時代の「正字」で金箔を塗った大きな看板が掲げられるようになった。隣がやるとすぐうちもというので伝染している。
簡体字しかしらない子供には読めないだろう。だが頭の良い子ならすぐ推測できると言う読書人がいるのも過去と同じだ。
 オランダで開催された「核問題」の会議で欧州側の出席者が欧州の「礼服」を着用しているのに対し、習氏は「改良型の中山服」を身にまとった。孫文が日本滞在時に「制服」からヒントを得て造ったもので、これで清朝の礼服を追放した。この中山服はその後毛沢東が着用するようになって、欧米からは「毛服」と呼ばれた由。それでそのままの中山服では、毛服と言われるので、それを嫌って新しい「襟の直立した」礼服を着用していた。
 現状維持ではなく、復古でもなく、「改変」である。西洋の背広にネクタイでは礼服とは言えぬし、まさか彼らと同じ「タキシード」を着るつもりはさらさらない。ローマ字化は中国には似つかない。四角い字の簡略化とこの「新しい中山服」は似た点がある。
     2014/03/26記

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「別字」について

「別字」について
 別字の件から今日の略字提唱まで1年余、私は何も言ってこなかったと思う。これについて私は反対しないが、熱心でもなかった。と言うのも四角い字(漢字)そのものは死に至る病にあり、(薬用)人参を食べるとかの方法で少しは延命できるかもしれぬが、結局助かる道はないから、これまで余り注意して来なかった。
 数日前「自由談」で陳友琴氏の「生きている字と死んだ字」を見て、以前の事を思い出した。彼は北京大学入試で、受験生が誤字を書いたので「劉半農教授が諧謔詩を作って彼を嘲笑し、(誤字は)固よりあってはいけない事」とだが、私は「この為に曲げて弁じるも亦そうとも限らぬ」と思うのだ。受験生の誤字は「昌明」を「倡明」としたのだが、劉教授の諧謔詩は「倡」を「娼妓」と解しているが、私は「倡」は「娼妓」と解すとは限らず、必ずしも「曲」説ではないと信じる:「そうとも限らぬ」という評については大変意味があり、一人の言行が他の人から「そうとも限らぬ」という状況はよくあることで、さもないと全国民みな同じ考えになってしまう。
 私は大大的に別字を提唱したことはないが、私が国文の教師なら学生が字を間違えたら直そうとするが、それは一面、次要のことだと思う。去年それを指摘した劉教授に至っては、別字の保護とはニュアンスが違う。(1)私は学者或いは教授は学生と年齢が十年は違い、飯も一万碗以上多く食べており、毎日1字覚えたら、学生より3,600字多いから、高明なのは当然で、答案に幾つかの誤字を見つけ「ダメだ」と漂漂として優越感を持って何か宝物を見つけたようである。ましてや(2)現在の学校は科目がとても多く、昔のように八股文專門の私塾とは全く違うから、文字が以前に及ばぬとしても、怪しむに足りない。昔の、誤字を書かない学生は五州の存在と元素名を知っていただろうか?もちろん、科学に精通し、文章も自在に操るのも大変結構だが、それは正確でなければならない。一般学生を責めるなら、彼が土木工学を学んでいるなら、堤や道を作り、治水導水に精通していればよい。「昌明」を「倡明」とし、「留学」を「流学」と間違えても、堤はそれで崩れることはない。他国の学生が自国の文字に対してこんな笑い話を引き起こさないとすると、中国の学生が不勉強だと咎めるべきでなく、教師の指導の拙さが咎められるべきだ。そうでないと四角い字はもはや救いようが無いと言える。
 口語を改め、略字を提唱するのは実はカンフル注射に過ぎず、起死回生できない。但し、それすらからみつく色んな障碍を受け、今なお完了していない。今も覚えているが、口語を提唱した時、保守派の改革派への第一弾は、改革派は文字を知らず、文語も分からないから、口語を主張しているのだ、であった。この古文の旗を振る敵には、古書で「法の宝」
(神通力のあるもの)を使って撃退できる。毒を以て毒を制すで、逆に彼ら口語に反対する者自身が字を知らず、文語が通じぬことを証明した。そうでなかったら、古文の旗は今もまだ倒されていなかっただろう。去年、曹聚仁氏が別字を弁護する為の戦法も古書を持ち出して来て、文人学士が自ら「正字」と主張するのに対し、泣くに泣けず、笑うに笑えぬほど批判した。彼らの所謂「正字」の中の多くはかつて別字だったのだ。これは確かに旧陣営を爆撃する利器である。今すでに文章が口語かどうか言わなくなり、――但し「気晴らしを探す」者は除くが――字が別かどうかは、今文「尚書」、甲骨文字を引用すると大変面倒であるのだ。これまさしく改革派の勝利である――この改革の損益は別問題だが。
 陳友琴氏の「死んだ字と生きている字」は、この決戦後、再び陣容を整え、最も穏便な方法で彼はすでに、根本的に細かく間違いかどうか、別字か否かは詮議しようと思わない。
只、字が生きているかどうかを問い:生きていなければ間違いとする。何仲英氏の「中国文字学大綱」の一節を引き、自分の意見を代表するという――
 『…個人が通借を用いたのも、別字を書いたわけで、良くない。だが古い物を積み上げ、それに沿ってこれまで通用してきており、今これを無理やり改正する手だては無い。個々の字をすべて改正できるなら、「易経」の言う「父の誤りを蔽い隠す」ことだ。古人の書いた別字は今日まで通用し、全国同じだから理解できる。今の人が多くの別字を増やし、各地で夫々の方言音で書くと、他の省、他の県の人は理解できなくなる。後には全国の文字は互いに異なってしまい、これが大障害となるのではないか?…』

 (つづく)

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宇治川へ

 

宇治川大改修

 彼岸の墓参の後、京の友人から宇治川の洪水防止工事の話しを聞いたので、どんな状況か見に出かけた。昨年の嵐山の渡月橋が大洪水で橋桁に迫る濁流を眺めて、3.11の津波程ではないが、その暴れぶりに圧倒された。1か月ほど後に現地に出かけ両岸の樹木の2メートル程の高さにまでゴミや草が引っ掛かっているのを見、この洪水が天龍寺の方まで押し寄せたら大変だったろうなと思ったことであった。

 
 2013年秋の台風で上流から桂川右岸の樹木に付着したゴミ、前方は渡月橋(10月撮影)

 JR宇治駅から大通り沿いに宇治橋に向った。駅から数百メートルずっと下り坂の道で、橋の少し手前でやっと少し上りになってきたが、他の川に架かった橋脚はかなり手前から上りになるのに、宇治川はそれだけ急流が川の周辺の土を削り取って来たことが分かる。
 橋脚の端に立って、上流をみてびっくりした。中の島から宇治上神社に向う赤い朝霧橋から少し下流で川幅の半分くらいがシートパイルで堰き止められ、大型重機が土を掘ってはダンプに積み込む。半分に堰き止められた急流は普段以上に激しくぐんぐんと流れ来る。


写真は右岸からと朝霧橋からの工事の状況 
朝霧橋から工事車両が川を半分堰き止めて底を深く掘削中、前方は宇治橋(3月20日)
 京阪宇治駅の方に向い、右折して右岸を上流に向った。暫くすると橘寺放生院という寺があり、その説明によると、宇治橋は日本でも最も古い橋の一つだが、しばしば洪水で流れたので、亡くなった人間と生き物を供養する為に沢山の生き物を放生した由。さらに進むと、まさしく大型重機とダンプが掘削工事をしている光景が目の前に入った。中州を大きくして、流れを更に急にして川底の土を削り、下流に推し流す事によって、平等院への大水害を防止しているのだろうか。平等院側の堤防はすでに自然に溶け込んでおり、これを淀川のような百メートル幅のスーパー堤防や、津波防波堤のようなものを作る訳にはゆかない。以前別の本で読んだことだが、水の流れによって川底を削ることで洪水を自然に防ぎ、水運の便にも利する。これが、ダムができるまでの日本の自然の川の力であった。
 しかしすぐ上流に天ケ瀬ダムができ、ダムが水を放流する時以外は、自力で川底を削る力が減り、底が浅くなって、洪水時には大災害をもたらすのだ。

 
説明では川を半分ずつ堰き止めては河底を0.4Mほど掘削して切り下げ、
水の流れる量を増やし、「洪水を安全に流せるように計画しました」(カッコは筆者)
最初の説明は「洪水による被害を軽減するため」とあり、軽減するためで防止することはできないというスタンスである。
 
橘橋から下流を堰き止め、緑のシートの間をダンプが土砂搬出する
 
中州を復元し、川の流れを以前のように勢いを取り戻させ土砂を押し流す。

 
朝霧橋から天ケ瀬ダムのある上流の眺め。雨後の山霧が立ち上る。説明ではこの橋から下流のみを0.4Mくらい深くするというが、今後こうした工事をするのだろう。土は上流から運ばれてきて、一度流れが緩やかになるとそこに堆積してしまうのだ…。
以前、伏見の港は宇治川と同水準であって、大阪から上って来た舟はそのまま京都に入れたが、宇治川が川底を侵食したためか、或いは水量が減ってしまったため高瀬川との段差ができてしまい、閘門を敷設して舟運を維持しなければならなかった。
 宮本常一の「川の道」141頁を引用すると、
「瀬田川が宇治川と名を変えるところが天が瀬(海人が瀬か)で…(中略)この先史の人々は琵琶湖ばかりか、絶えず淀川水系を上下して遥かなる瀬戸内にさえ交流したことがしのばれる」と記している。海人がこの辺りまで交易に上がって来たのか。
 琵琶湖の水面と淀川の河口の水面は、古代人の小舟が竿で河底をかき、岸から綱で曳いたりして上下できた高低差だったのだろう。
 1919年に京都の春を惜しんだ周恩来は、50年後のピンポン外交で、愛工大の後藤鉀二さんに「私が日本を離れる時、丁度桜の季節でした。船で琵琶湖へ下りましたが、実に美しかった」と語っている」林芳著「寥天(ひろき天)」
疎水から琵琶湖へ下り、琵琶湖から舟で瀬田川宇治川淀川経由大阪に着いたかもしれないと思うと興味が尽きない。(多分、汽車だったろうが、神戸から天津に帰る荷物と一緒なら舟が便利だし安かっただろうと思う)     2014/03/22記

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風刺を論ず

風刺を論ず
 先入観で風刺作品を文学の正道と思わないのは、風刺はもともと美徳でないと考えているからだ。だが世間ではこんな情景をよく目にする。恰幅のいい紳士が互いに腰を曲げ、拱手して脂ぎった顔で挨拶を始める。
「お名前は?……」
「銭と申します」
「ああ、そうですか。お名前は以前から承っております!で、御雅号は?」
「闊亭です」
「それは、それはとても雅な号で、お住まいは?」
「上海で…」
「やあそれはまた結構で…」
 おかしいと思うだろうか?だがこれを小説に書くと、別の観点から、大抵は風刺ととられる。事実をありのままに書く作者もこういうふうにして「諷刺家」の――良いか悪いかは別として――レッテルを貼られる。例えば中国では「金瓶梅」の蔡御史が謙遜して西門慶にへつらって云う:「私などは安石の才に及びませんが、貴殿は右軍の高致を備えられていらっしゃる!」とあり、更に「儒林外史」では、範挙人(科挙合格者)が服喪のために、象牙の箸を使うのを肯じないが、食事の時は「燕の巣の碗から大エビ団子をつまんで口に入れる」とある。これとよく似た状況は今でも目にする:外国では近頃中国の読者に注目されているゴーゴリの作品の「外套」(韋素園訳、「未来叢刊」)の大小官吏や、「鼻」(許遐訳「訳文」)に出て来る紳士、医者、素封家たちの典型だが、中国でもまだお目にかかれる。これは明らかな事実で、しかも広範に存する事実だが、私たちは風刺だという。
 人は大抵有名になるのを願い、生存中に自伝を書き、死ねば誰かが訃報の文章を作り、業績を書いてもらいたいと思い、甚だしきは「国史館に立伝せよと宣して欲しい」と願う。人は自分の醜い面を全然知らないということはないが、それを改めようとせず、只時の経過によって消え去るのを望み、痕跡を残さず、美点だけ残し、かつて粥を施して飢饉を救ったとか、それがすべてではないのだが。「高雅なこと」とされるが、実は本当はそうでもない事くらい知らぬわけではないが、彼はまた言ってしまえばそれまでで、「本伝」には決して入れられないから、安心して「高雅」でいられる。誰かが記録したら消す事は出来ぬから、彼は不愉快になり、それで色々考えて反攻する。それらは「諷刺」だと言い、作者に泥を塗り、自分の真相を蔽い隠す。但し、我々も毎回それを深く考えているわけにはゆかず、つい「それは正しく風刺だ!」と言ってしまい、先方のペテンにのせられてしまう。
 同様なことは「罵る」でもいえる。(上海の繁華街の)四馬路で妓女が客引するのを見て大声で「売春婦が客引している」と言おうものなら、彼女は君を「人を罵るな」と反撃される。人を罵るのは悪で、君は悪人だとされ、相手は善となる。但し事実は確かに「売春婦の客引」だが、心で思っても口にしてはならない。万やむを得ぬ時は只「お嬢さんが商売している」程度で、あの腰を曲げ、拱手している連中を、文章に書くと「謙虚な物腰で」と書かねばならぬのと同じだ。それで始めて罵ることにはならず、風刺でもないとなる。
 その実、今の所謂風刺作品は殆ど写実である。写実でないと所謂「諷刺」には決してならない:写実でない風刺はたとえそんな物があるとしてもデマや誹謗に過ぎぬ。
                 3月16日

訳者雑感:魯迅が書いた文章は風刺でなければ罵倒だと言われていた。風刺され罵倒されたと感じた人達から、あの作品のAは自分のことで、魯迅が彼を風刺しているのだと文句をつけ、反攻してきた。阿Q的精神というが、ほとんどの人の中にそれがあるから、それが自分を風刺していると思わざるを得ないような状況だった。
 本文の最後に写実でないと所謂「諷刺」には決してならない。というのは意味深長だ。写実でない風刺というのはデマや誹謗だというのは、魯迅に反撃しようとした連中の発した言葉や文章だろう。
    2014年3月18日記

 

 

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複数訳が無ければよくない

複数訳が無ければよくない
 誰かが去年は「翻訳年」のようだといったが:実は大した訳本も出されず、翻訳に対する汚名をすすいだに過ぎない。
 残念だが、中国では短編小説を数冊訳しただけで、創作家が現れ、翻訳は媒酌婆で、創作こそ処女だと言った。男女交際が自由になって、誰が媒酌婆の周旋を喜ぶだろう。当然没落する。後に文学理論を少し翻訳したが「評論家」ユーモア家の輩が現れ、「硬訳」「死語」「地図のようだ」と言い、ユーモア家は彼の頭脳からおかしな例をひねり出し、読者に「気晴らし」を与え、学者と大先生たちの話しはまぎれもなく「気晴らし」もまじめな物より省力的だとし、翻訳の顔は彼らによって白粉を塗りつけられた。
 しかし大した翻訳も出てないのにどういう訳で「翻訳年」となったのか?誇大と気晴らしそれ自体は軽くて漂漂とし、風が吹こうが雨が降ろうがお構いなしのせいだろう。
 それで一部の人が翻訳を思い出し、試みに数冊訳したが、これが「評論家」のネタにされたが、正確に言うならば実は彼らは「おしゃべり屋」で創作家や評論家ではない、体裁よく言えば「第3種」だと言える。彼らは裏小路のやり手婆と同じで、大きな声は出さぬが、その辺でおしゃべりし、世界の名著はみな訳し終わったのか?君たちはただ既に訳のある物を再訳し、あるものは7回も8回も訳している、という。
 中国は昔からある種の気風があり、外国で――大抵は日本だが――ある本が出たのを見ると、中国人も読もうとするだろうと考え、往々、一部の人は新聞に広告を出し「既に翻訳されており、重ねて訳さないように」ということがあった。彼は翻訳は婚約と同じようにみなし、自分が先に婚約指輪をはめたのだから、他の人が分不相応な事をせぬようにさせる。無論その翻訳が必ず出版されるとは限らぬし、こっそり解約されるのも多い:然し他の人がそのために翻訳しないと、新婦は閨中で老いてしまう。この種の広告は今ではもう久しく見ないが、今年のおしゃべり屋は正にこの一派の正統を継承している。彼は翻訳を婚約と看做し、人が訳したら、重ねて訳すべきでは無く、さもないと、あたかも夫のある婦人を誘引しているようで、彼が文句をつけるのは、当然良風を維持するためなのだ。然し、この文句の中には彼の下品な口と顔をあからさまに描きだしていないだろうか?
 数年前、翻訳は一般読者の信用を失い、学者大先生の曲説がその原因の一つだったが、翻訳自体にも原因があり、しばしばデタラメな訳があったためだ。だがこれらデタラメ訳を撃退し、冤罪、気晴らし、文句などは全て何の役にも立たず、唯一の良い方法は、もう一度複訳をすることで、それもダメだったらもう一度訳すのだ。徒競争に譬えると、少なくとも二人が必要で、もし二人目の入場を許可せぬと、先の一人が永遠に一位だ。どんなにのろくても。従って、複訳をけなすのは、表面的には翻訳界に関心を持っているようだが、実は翻訳界を毒しており、冤罪や気晴らしより有害である。ずっと陰険だから。
 更に言えば、複訳は乱訳を撃退するだけでなく、たとえ良い訳があったとしても複訳することは必要だ。かつて文語訳があり、今口語訳に改めるべきなのは言うまでも無い。たとえ以前に出た口語訳が立派でも、後の訳者自身が更に良い訳が出せると思ったら、もう一度訳すのを妨げてはいけない。遠慮不要でまた無聊にぶつくさ文句をつけるのに構うことはない。旧訳の長所を採り、その上に更に自分の新しい心得を加えて始めて完全な定本に近づくことに成功する。だが言葉は時代とともに変わるから、将来新しい複訳があって良いし、7-8回も奇とするに足りぬし、いわんやこれまで7-8回も訳された作品はない。もしそれがあるならば、中国の心文芸はきっと現在のように停滞しなかった。
      3月16日

訳者雑感:魯迅達の青年時代は、厳復などの文人が欧州語を理解できる中国人の話す内容を聞いて、それを文語文に書き変えてきた物を読んでいた。進化論とか法の精神など西洋の新事物、新思考法などを採り入れてきた。だが、文学革命で白話(口語)文での創作が出てきたが、翻訳は浅薄な理解のもとにデタラメな訳が続出し、読者の信用を失った。
 魯迅は多くの欧州・日本の作品を翻訳したが、欧州語の作品については、その国の言葉に堪能な青年と一緒に読みこみながら翻訳してきた、と他の個所で述べている。
 それで思い出すのだが、玄奘の大量の仏典漢訳は、一緒に勉強してきた僧たちの梵語を読んで得た「概念や考え」を何人かがそれぞれ漢語で表現し、それを玄奘が聞いて漢語文にしていったという共同作業である。それがうまく統一されれば素晴らしい定本になる。
 私も魯迅の翻訳に際し、これまでの複数の訳書を参考にしながら、あたかも共同で再度21世紀の読者に理解しやすいものにしてゆきたいと思う。
      2014年3月16日記

 

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「気晴らしに」

「気晴らしに」
 時々思うのだが、忠実で真面目な読者や研究者が2種類の人の文章に出会うと、彼はまるで冤罪にあったように苦しむ。一種は古めかしくて奇怪な詩とニーチェ式の短い句と数年前の所謂未来派作品だ。これらは大概あやしげな宇宙と生半可な句が意味も無く連なっていて、何行も何行もの長い文章にアンダーラインや点が付いている。作者はいい加減に書き、自分でも意味もわかっていない。だが、真面目な読者は、その中に深い意味があると思い、注意深く研究するが、結局訳が分からず、自分の浅学を羞じるしかない。もし作者本人に教えを請うても、彼はきっと解釈せず、ただ見下すように笑うだけ。この笑いは見れば見るほど大きくなる。
 もう一種は、作者は元来「気晴らしに」過ぎず、話している時も本当だと思っておらず、口から出たらすぐ忘れるようなものだ。もちろん以前の主張と矛盾するし、同じ篇の別の文章とも矛盾する。ただ、作者は元来作文と飯を食うのは別物で、必ずしも真剣になることは不要だと考えている、ということを知っておくべきだ。真面目に読んでゆくと、自分の愚かさを羞じるほかない。最近の例でいうと、悍膂氏(カンリョ:聶の筆名)の林語堂氏の研究はどうして「野叟(おきな)曝言」を称賛できるかである。確かにこの書は道学先生の人を侮る淫毒心理の結晶で、「性霊」との縁はたいへん少なく、引用例と比べると、この称賛の意外さが顕著になる。だが多分、語堂氏の「方巾気」を憎むことと「性霊」を談じ「自由自在」を講じるのも、真面目な人達の「気晴らしに」というに過ぎぬ。どうしてまた「方巾気」の類がどんなものか知っているだろうか。多分彼の称賛する「野叟曝言」すらたいして読んでいないだろう。だから、本書を使って、彼の他の主張と比較研究しても永遠に理解できない。勿論その2つは非常に異なっていることは明白だが、なぜ称賛するのかも「不可解」だ。思うに、事がらはあまり深く考えず、あまり忠実に真面目に考えないで、ただ語堂氏のあのころの正に袁中郎を崇拝していたことを知り、袁中郎もかつて「金瓶梅」を称賛していたことを知ったら、何も驚き怪しむに足りない。
 もう一つの例は、読経(儒教の経典)は広東では燕塘軍官学校で提唱された由だが:去年官定の小学校用「経訓読本」が出版され、5年制用の第一課に「孔子、曾氏に謂いて曰く;
身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは考の始め也。…」と。では「国の為に体を損なう」は「考の終わり」か?そうではない。第3課に「模範」があり、(周代の音楽官)
楽正子春が曾氏に述べ、諸夫子の説を聞いて云う:「天の生む所、地の養う所、人より大なる無し」父母全きを生み、子全きにこれを帰す、考と謂うべき也。その体を毀損せず、その身を辱しめずば、全きと謂うべし。故に、君子は片時も考を忘ることなし…」
 もう一つ最近の例は3月7日の「中華日報」にある。彼の地の「北平大学教授兼女子文理学院系主任李季谷氏」は「一十宣言」の原則に賛成の説話を書き、末尾に;「民族復興の立場から、教育部は統一して、岳武穆、文天祥、方考孺などの気骨ある名臣勇将を称賛標榜すべきで、一般高官の軍事方面での一助をする」
 凡そこれらは全てあまり真剣に研究しない方が良い。もし「全きを以てこれに帰す」と将来陣に臨んで攻撃、或いは岳武穆たちの事実を調べて、結局どんな結果だったかを見れば「民族復興」したことはないから、きっと頭がくらくらしてきて自ら悩みを抱えることになってしまうだけだ。語堂氏は曁(キ)南大学で講演し「… ひとになるには、正しい道を歩み、邪道に入ってはいけない… 一度邪道に入ると、業を失って、…だが、文章を書くにはユーモアが必要で、ひとになるのとは異なり、面白おかしく、気晴らしになるように…」(「茫種」より引用)とある。これは聞けば奇特なようで、ひとの神智をとても啓発しており、この「面白おかしく、気晴らしになるように」は中国の多くの古怪現象の鎖を解くカギである。    3月7日

読者雑感:軍官学校や小学校の教科書の「経典」の内容は矛盾に満ちているということが良く分かる。身体髪膚は毀損せず、国にこの身を捧げよ、とは「気晴らしの妄言」だ。
単に「気晴らしに」文をものしているだけ。こんなことで中国を改善するなどとんでも無いことだ、況や民族復興などそれを果たせなかった悲劇の武将たちに学べとは!
 日本でも確かに文天祥とか楠正成などに学べというのが一般的で、大久保利通より西郷隆盛の方が人気はある。
   2014年3月14日記
      

 

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内山完造著「生ける中国の姿」序

内山完造著「生ける中国の姿」序
 これも私の発見ではなく、内山書店で漫談中に聞いたのだが:日本人くらい「結論」の好きな民族はいない。議論でも読書でも結論が得られぬと、どうも気持ちがすっきりしないという民族は今日世界で大変少ないそうだ。
 この結論を聞いて、実にその通りだと思う。例えば、中国人についてはこうだ。明治時代の支那研究の結論は、どうやら英国の誰かが書いた「支那人気質」の影響を受けたが、最近その面目を一新するような結論を得た。ある旅行者が、下野した裕福な大官の書斎を訪れ、高価な硯が沢山あるのを見て中国は「文雅な国」だと言った:ある観察者が上海に来て何冊もの猥雑な本と絵を買い、そして又奇怪な見世物を見に行き、中国は「色情の国」だといった。江蘇浙江方面で竹の子をたくさん食べることまで、色情の証拠だという。他方広東や北京などでは竹が少ないから余り竹の子は食べないし、貧乏な文人の家には所謂書斎が無いだけでなく、硯も一個2角(0.2元)程度の物を使っているにすぎない。こうしてみると、先の結論は通用しないから観察者も困り果て、別途適当な結論を探すしかない。そこで今度は、中国はじつに理解し難い国と言い、支那は「謎の国」だと言いだす。
 私の考えは:夫々の立場、特に利害が異なると、違う国の間はいうまでもなく、同国の人達の間でも、相互理解というのは容易ではないと思う。
 例えば、中国は西洋にたくさんの留学生を派遣してきたが、中には西洋の研究を余り好きでは無く、そこで中国文学に関する何とかという論文を発表したが、それがあちらの学者を大いに驚かせ、博士号を得て帰国した。だが、外国での研究がとても長かったため、中国の事情を忘れてしまい、帰国後は西洋文学を教えるしかなかった。彼は自国に乞食が多いのを不思議に思い、慨嘆して言う:彼らはなぜ勉強しないで堕落に甘んじているのか?
だから下等人は実に救いようが無いのだ、と。
 これは極端な例だ。だが一つの所に長く住み、その地の人と接し、特に接触を通じてその精神を感得し、真剣に考えると、その国の事は理解できないとは限らないだろう。
 著者は20年以上中国で暮らし、各地に旅行し、各階級の人と接したから、このいう漫文を書くには実に適当な人物だと思う。事実は雄弁に勝り、これらの漫文は確かに異彩をはなっているのではないだろうか?私も常々漫談を聞きに行ったので、実は褒める権利と義務を有しているが、古くからの「老朋友」だから、ここで幾つか悪口を言う。
 その一、中国の優れた点を多く書く傾向があり、これは私と反対だが、著者として彼の意見もあるからしょうが無い。もう一つは、悪口とは言えないが、この漫文を読むと、往々、「ああそうだったのか」と感じさせる所がたくさんあり、そう思わせる所はやはり結論なのだ。幸い、巻末に「第何章」として結論を明記していないから、漫談たるを失ってはいないから良いではないかと思う。
 しかし、たとえ漫談だと言いながら著者の気持ちは、やはり中国の一部の真相を日本の読者に紹介するにある。だが、現在依然として各種の読者の状況から、その結果は違っている。これもしょうが無いことだ。私の見る所、日本と中国の人々の間で、きっと互いに理解する時があるだろうが、最近の報道では、またも懸命になって「親善」とか「提携」とか言いだしているが、年が明けたら又何を言いだすか分からないが、要するに、今はそういう時ではないだろう。
 漫文を読むに如かずで、その方が却って意味があるだろう。
   1935年3月5日 魯迅 上海にて記す。

訳者雑感:
 王外相の歴史を逆流云々という発言に菅官房長官が反論し、こんなことを繰り返していたら、安倍政権が代わらない限り、相手側は過去に日本側が「汪兆銘相手にせず」とか言っていたごとく、「安部政権相手にせず」ということになりかねない。
ジャッキー・チェン氏が12日、毎日新聞へのインタビューで、
 「両国は隣国であり、友好的なつきあいをすべきだ。対立を深めることは双方にとって非常に労が多く有害無益だ」と憂慮する一方で「両国間の文化交流は一貫して頻繁に続けられており、こうした努力が両国の繁栄につながるはずだ」と強調した。
 ということは、魯迅が1935年当時の日中関係の「どうしようもないほどの状況下」でも
内山の漫文などを通じて、文化交流は進めようというのと同じ姿勢である。
 翌年1936年には日中戦争に突入してしまったのだが、2015年や16年にそういうことにしてはならない。
   2014/03/13記


 

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アインシュタインの直筆寄贈

アインシュタインの直筆寄贈
1.
 3月3日の新聞に、1922年に来日したアインシュタインが船内で体調を崩し、乗り合わせた三宅医師に診て貰い、その後彼宛てに送った手紙が孫から慶応大学に寄贈されたと報じられていた。ドイツから医学を学んだ日本人がアインシュタインに恩返しをすることができ、そのお礼の手紙が生誕135年の今年寄贈されたことは喜ばしいことだ。
 一方、昨2013年11月22日の日経新聞に「魯迅の手紙1億円」と題して、中国で落札された内容が報じられていた。この頃丁度猪瀬氏が五千万円で国会喚問を受けて、耳から汗を背広の肩に落としていて、たった五千万円で晩節を汚す事になろうとは、あほらしく、まだ、しらを切るつもりかと、恥しらずにも程があると感じたことだった。

『北京=時事。中国の文豪、魯迅(1881~1936年)の短い手紙が北京で行われたオークションで、手数料を含め655万5000元(約1億5000万円)の高値で売却された。日本に留学経験のある魯迅が日本語学習について記した内容。中国のニュースサイト・人民網などが22日までに伝えた。
 手紙は1934年6月、中華民国時代の著名な編集者、陶亢徳氏に宛てて出したとされ、計220字。「日本語を学び、小説をよめるようになるまでに必要な時間と労力は、決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」などと書かれている。
 手紙の購入者は明らかでないが、評価額は売却額の3分の1程度だったという。』

 奇しくも魯迅とアインシュタインの生誕が同じだったということ、そして魯迅が指摘するように、彼は日本語からも多くの小説などを翻訳したが、日本にいる頃も医学を勉強していた関係もあってか、ドイツ語を熱心に勉強し日本からドイツに留学することも本気になって計画しており、ドイツ語からの欧州文学の重訳も大変多い。そういう彼が日本語の学習について、同じ漢字を使う日本語といえども「小説を読めるようになるまでに必要な時間と労力は決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」というのはそうかと合点がゆく。
2.
 それにしても片やアインシュタインの「日本における私の印象」や医師宛ての手紙などが寄贈されたというのに、なぜたった220文字の手紙がオークションにかけられ、1億円もの高値で落札されたのか、不思議でならない。

 そう思っていたところ、香港のテレビの以前の放送番組を見ていたら、昨年以来、習近平政権の「虎もハエも叩く」という汚職撲滅運動の影響で、あからさまな贈賄とか贅沢の限りを尽くす接待が厳しく取り締まられた結果、5つ星ホテルに閑古鳥が鳴き、数万円もした高級酒が数千円に下落したとか、アワビとフカヒレの料理が禁じられたとか報じていた。
 そして、最近の実態としては、贈賄側が相手に高価でもない骨董とか美術品を贈り、それをオークションにかけさせて、飛んでも無い高値で落札することで、目的を遂げている、云々との解説を聞いた。
 増井経夫の本に、北京の骨董街で有名な瑠璃廠の店に並んでいた骨董を買おうとしたら、店主から「へ、へ、へこれは売り物じゃないので」と断られたいきさつが紹介されており、その品は役人が質草に置いていったもので、それをその筋の相手に売って得た代金を役人に渡すための物だという。なんだかパチンコ屋の景品交換のようである。違うのは二束三文の骨董品でも、その筋の相手はとても高い価値を認めるようである。
 これを魯迅の220文字の手紙と関連させると、こういう連想が成り立つ。
虎もハエも叩けという号令が厳しくなった昨今、贈賄側は従来の方法は取れない。といって瑠璃廠のような手法も危い。そこでひねり出したのが、最近はやりのオークションだ。
前もって先方に大した価値の無いと思われそうなものを贈っておくかマーケットで購入してもらっておき、それをオークションにかけて貰う。それを数倍もの価格で落札することで、その差額が収賄側に渡るという仕組みだ。これには司直も手が出せぬ。

 こんなに手の込んだやり方で、魯迅の220字の手紙が贈賄の手段に使われたら、もうこの手紙が再び公に戻ることは難しいだろう。生誕135年で大学に寄贈されたアインシュタインの手紙は幸いなるかな。同じ135年前に生まれた魯迅の短いが価値のある手紙が世の中から消え去ってしまうのは大変口惜しいことだ。
    2014/03/05記


 

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文学大系5

文学大系5
 最後に選択と編集について触れる――
1.文学団体は豆の莢(さや)で、中はいつもすべて豆とは限らない。結成時からして各人は色々で、その後更に夫々が変化した。ここでは1926年以後の作品は入れなかったが、その後の作者の作風と思想も論じなかった。
2.一部の作者は自選集があり、雑誌に発表した初期の文章は時に選集にはない物があり、多分自分では不満で削除したのだろう。だが私は一部をここに入れた。というのも私は如何に聖賢豪傑も自らの若い頃を羞じる必要はないと考えており:恥じるのは間違いと思う。
3.自選集の一部の文章が雑誌に発表した物と往々少し異なるのは、作者自身が添削したのだが、ここでは時に初稿を採ったのも、私は修飾した後の物が必ずしも質朴な初稿より良いとは限らぬと思うからだ。
 以上2点について、作者のご諒承をお願いしたい。
4.十年間に出た各種雑誌がどれほどあるか知らず、小説集も勿論多いが、私の見聞に限りがあり、珠を遺漏した憾みを免れぬ。作品集をみて、その取捨選択が当を失していたなら、それは偏心ではないとしても、眼力不足の故で、無理に弁解しようとは思わない。
      1935年3月2日書き終える。

訳者雑感:この「中国新文学大系」小説二集序は1から5まで、本文は16頁だが注が小さい字で11頁、84項目あり、中国文学革命後の十年間の大系で、魯迅はその小説集の第2集を選択編集した。小説集は3集あり、文学研究会と創造社以外の33人の59編を採録した。これは、彼が東欧などの被圧迫民族・国家の作家の余り知られていない作品を中国に翻訳紹介しようとしたことと似ている点がある。他の2集の作家・作品は有名なものが多いが、魯迅はそれ以外を担当したことになる。
 日本もかつては時代ごとの作家をまとめて文学全集とか大系を出版し、それらが図書館のみでなく、個人の書斎にも飾られていた。1910年代というのは辛亥革命・第一次世界大戦・ロシア革命など激動の時代であったが、文学でも大きな革命というか口語文学が盛んになって、中高生から大学生まで男女を問わずみな熱心に本を読んだ時代だった。
 そうした新しい潮にいっしょについてゆこうという気分が横溢していた。小説のみならず詩や絵画などでも世界中の青年たちが希望を抱いて何か書こう、描こうとしていた。
 この動きは非常に活発であったが、第二次大戦が勃発する40年前後に衰えた。もう文学革命とか新潮流とか言っていられなくなったのだ、嗚呼。
    2014/03/06記

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文学大系4

文学大系4
 1925年10月、北京に莾原社が突然できたが、これは「京報副刊」の編者に不満な一群が別途週刊「莾原」を作り、「京報」の附録として発行し、聊か快哉を唱えたグループだ。一番奔走したのは、高長虹で、中堅の小説家に黄鵬基・尚鉞・向培良の3人:そして魯迅が編集者に推された。しかし声援がとても少なく、小説では文炳・沅君・霽野・静農・小酩・青雨などだった。11月に「京報」が副刊以外の附録を停止しようとしたので、半月刊とし、未名社から出版し、その頃紹介した新作は地方の沈滞した状況を描いた魏金枝の作品「鎮の黄昏を留めて」だ。
 しかし暫くして莾原社内部に衝突が起こり、長虹たちは上海に狂飆社(つむじ)を設立した。所謂「狂飆運動」でその草案は実は早くから長虹のポケットに蔵されてい、いつでも機に乗じて出ようとしていて、まず数号の週刊詩を刷り:その「宣言」にかつて1925年3月の「京報副刊」に発表したのだが、まだその時は「超人」として自命してはおらず、決して満足していない論調で――
 『黒く沈んだ暗夜、全ての人は死んだ如くに熟睡し、もの音一つせず、何の動きもない、何と退屈な長い夜よ!
 『こうして何百年、何百年もの時が過ぎ、暁の光の来ない暗夜は明けることはない。
 『全ての人は死んだ如くに沈々と眠っている。
 『そこで数名が暗黒の中から醒め、互いに呼び合う:
 『時は来た。その期が来るのを待っていたが、これ以上待てない。
 『――そうだ、我々は立ちあがろう。大いに叫ぼう。期が来るのを待っていた全ての人は立ちあがろう。
 『――暁の光がついに来なくても、立ちあがろう。我々は灯をともして真っ暗な前途を照らすのだ。
 『軟弱ではダメだ。眠ったままで望んでいてもしょうがない。我々は強くなろう。障碍を取り除くのだ。そうしないと障碍に圧倒されてしまう。恐れることはない。身を避けることも要らない。
 『この様に叫べば、微弱でも、東や西、南や北からじわじわと強くて大きい声が聞こえて来るし、我々より更に強大な応答がある。
 『一滴の泉水が江河の源流となれるのだし、微小な始まりが偉大な結果を生みだせる。この由来にちなんで我々の週刊雑誌を「狂飆」としよう』
 だが後に自ら「超越」を目指すようになった。しかし、ニーチェ式の互いに理解できぬ格言調の文章はついに週刊誌の存続を難しくし、ここに記すべき小説も、黄鵬基・尚鉞だけで――実は作者は向培良一人だった。
 黄鵬基は短編小説を一冊出し「荊棘」と称し、読者には2回目だったが、朋其と名前を変えていた。彼ははっきりと文学はバターになる必要はなく、棘のようになるべきで、文学家は頽廃せず、剛健でなければならぬと主張し、彼は「棘の文学」(「莾原」28期)に
「文学はけっして無聊なもの」ではなく、「文学家もけっして天恵を得た特等人」ではないし「終日メソメソ泣いている鮫人(海中で泣いている)でもない」と説いた。彼は云う:
 『中国の現代作品は一叢の荊棘のようであるべきだと思う。一片の砂漠では、憧憬する花はゆっくりと消滅し、社会に荊棘があらわれてきて、その葉に棘がはえ、茎にも棘がはえ、根にすらも棘ができる。――植物の生理で反駁しないでもらいたいが― 一篇の作品の思想、構造、練句、用字などすべては我々のいつも感じている棘の意味で表現すべきだ。
真の文学家は真っ先に立ちあがり、みんなが立ちあがらざるを得なくすべしで、彼は自分の力を充実し、人々にどういう風にして自分の力を充実し、自分の力を知り、自分の力を表現できるようにさせるべきだ。一篇の作品の成功は、少なくとも読者を一気に読み続けさせ、文章の良しあしなど考える暇もないほどにすること――劣悪だと思われるのは固よりダメだが、美文だと思われても失敗だ。――古いやり方ではうまくゆかない。いかに彼の病の深さをつかんで、強烈に彼を一刺するかが重要だ。一般的な整理や装飾の構造や平凡な字句は彼を他所へ向わせてしまうから、反対すべきだ。
『「砂漠すべてに荊棘を増やせば、中国人は人間的生活ができる!」と私は信じている』
朋其(四川省出身)の作品は確かに彼の主張と矛盾していないし、彼の流暢でユーモアのある言葉で、色んな人、特にインテリを暴露的に風刺している。彼は時に馬鹿を装い、青年の考えを説き、或いは四川名物のハム先生(彼の作品名)になって金持ちの家を訪ねる。だが、生き生きと動きまわり、流暢さを求めるため、そのえぐり出しは深くはできず、結末も特に滑稽にしようとし、往々全編の力量を損なってしまう。風刺文学は自らのニヒルで身を破滅させる。暫くして彼はまた「自白」で云う:『「棘の文学」の4字を書いたのも、毎日サボテンを眺めていたのと、「自分の生まれが不辰だった」ため、花の意味することをしっかり理解できなかったためであった』と。それはもう徘徊状態だった。その後彼の「棘の文学」を見ることはなかった。
尚鉞の創作も風刺で、且つ暴露と攻撃を狙ったもので、小説集「斧の背」の名前も自ら提要した。彼の創作態度は朋其より厳格で、幅広く取材し、時おり気風の未開な場所を描いた――河南省の信陽――の人々。惜しいかな才能に限界があり、その斧の背は大変軽くて小さいので、公衆と個人の為に打ち下ろした効力は、多くは機器不良と未熟な手法の為に的外れになっている。
向培良の処女小説集「飄渺の夢」を出した時、冒頭に云う――
『時間が過ぎ去る時、私の心はかすかな足音を聞き、私はそれを愚直に紙に移した。これが私のこの小冊子の来源だ!』
確かに作者は彼の心が聞いた時間の足音を叙述し、あるものは子供時代の天真爛漫な愛と憎しみに託し、またあるものは旅行中の寂莫のなかで目にし耳にしたものに託しているが、けっして「愚直」ではなく、矯正したような造作もなく、よく知っている人に対するときのように、素直に語っており、我々はなんの心配もせずに聞き入る間に、さまざまな生活の色合いを感じる。だが作者の内心は熱情にあふれ、もしそうでなければ、こんなに平静に、率直に語れない。彼は時に過去の失った童心の中で休息するが、最後は現在の「強い憎悪の背後に、更に強い愛を見つけ」た「虚無の反抗者」を愛し、我々に強く力をこめて「私は十字路を離れる」という本を提供した。以下にその名も不明な反抗者の自述した憎悪を記す――
『なぜ北京を離れるのか?私もそのたくさんの理由を口にできない。要するに;この古い虚偽に満ちた都会が嫌になったからだ。ここで遊離すること早4年、すでに骨の髄までこの古くて虚偽に満ちた都会が嫌になった。ここで私は挨拶とお辞儀、皇帝擁立、執政へへつらうばかりの――奴才を目にしただけだ!卑劣、怯懦、狡猾ではしこく身をかわす、それら全てが奴才の絶技だ!嫌でたまらぬという感じが私の口に中に一杯あり、生臭い魚が口中にあるのと同じだ:嘔吐したくてたまらぬから、私は棍棒を手に飛びだすのだ』
 ここにはニーチェの声が聞こえる。まさに狂飆社の進軍ラッパだ。ニーチェは「超人」の出現に備えよといったが、もし出現せねば、それは虚無となる。だがニーチェは次の手を考えていた:発狂と死だ。さもなくば虚無に安んじるほかなく、或いはその虚無に抗して、たとえ孤独の中で「末人」的に暖かな心を求めることもなく、一切の権威を蔑視し、縮こまって虚無主義者になるに過ぎなかった。バザロフは科学を信じていた:かれは医学の為に死に、蔑視は科学的権威では無く、科学そのものになってしまうと、それはサニンの徒になり、何もかも信じぬという名目をかかげ、なんでもやってしまえ、とあいなった。
但し、狂飆社はなんとか「虚無主義的反抗」だけで止まったようで、まもなく解散し、今残っているのは、向培良のよく響く戦叫のみで、半ばセビリーオフ式の「憎悪」のその先を説明しているにすぎない。
 未名社はその逆で、主幹の韋素園はむしろ無名の泥土に珍しい花や喬木を植えようとし、事業の中心も外国文学の訳書が多かった。「莾原」を引き継いで小説方面も魏金枝以外に李霽野もおり、鋭敏な感覚で創作し、細部まで深く一枚ずつ葉脈を数えるようであったが、そのために往々、それを広げることはできず、孤寂な発掘者が二つとも全うするのは難しかった。台静農は最初、小説を書こうなど思わず、後になっても望まなかったが、韋素園に勧められ莾原の原稿として1926年に初めて書いた。「地の子」の後記に自述して――
 『当時、2-3篇書き始めて、翌年用に備えた。素園が見て、私が民間から取材しているのに満足した:彼は結局私に専らこの方面で努力してはと勧め、多くの作家の例を挙げてくれた。だが私は余りこの道を好まなかった。社会の辛酸と悲痛を耳にし、目にしてきたことでもう堪えられなかった。今またそれらを私の心血で細部まで書くのは、不幸と言えないだろうか。だがその一方で美しい表現で同時代の青年男女に大きな喜びを与えることもできなかった』
 この後は「建塔者」が出た。彼の作品に「大きな喜び」を取り込もうとすつのは容易なことではないが、文芸に貢献し:且つまた恋愛の悲歓と都会の明暗を競って表現していたころに、田舎の生と死を泥土の息吹の中から紙に移すことを、彼より多く熱心に努めた人はいなかった。
訳者雑感:
 魯迅には彼が大学で教えていた頃の教科用としてまとめた「中国小説史略」という本があり、これは古代から近年のものを紹介している。今回訳した1-4までは、「中国新文学大系」の小説二集の序であり、1917年の文学革命以後の訳10年間の小説をまとめて紹介している。彼自身の作品も含め、鳥瞰しているようで、多くは作者の序や後記などを引用している。彼はこまめに同時代の小説家の作品を読んで、同時代のそうした作品を読もうとしている青年達に紹介しようと考えていたことが良く分かる。中国人の考え方を改善し、中国を良い国にしようとの熱意が伝わってくる。
    2014/03/05記

莾原社

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