魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
記載場所を間違えた文章
少年向け雑誌に最近しばしば岳飛や文天祥の故事を目にする。勿論この二人は中国人に面子を与えてくれるが、現在の少年たちの模範となるにはどうも遠い存在のようだ。
彼ら二人、一人は文官、一人は武将で、少年たちが感動して彼等を模範としようとしたら、まず普通の学校卒業後、或いは大学に入り、更に文官試験を受け、或いは陸軍学校に入り将官となる。そこで武の方はといえば、十二の金牌で召還準備されて、獄死することになる:文の方はというと、起兵に失敗し、蒙古人の手で殺される。
宋朝はどんな状況だったのか?歴史書があるからここでは余計なことは省く。
だが、この二人は確かに現在の文官・武将を鼓舞することができるし、前任の降伏した武将と逃げた文官を愧じいらせることができるが、私はそのような故事を疑っている。元々大人や老人向けの刊行物に書いた文章で、どうした訳か、少年向けの読み物に間違って載ったものだ。さもなければ、作者は決してこれほど低能にはなっていないだろう。
訳者雑感:
魯迅は宋代の政治状況を1930年代の中国と比している。いずれも金や元の、そして日本の侵略を受け、岳飛や文天祥はどう行動したか。この二人は中国人に面子を与えてくれるが、結局は金に勝ちながらも内部の講和主義者に陥れられて、獄死することになるのと、元に捕えられて元に連れて行かれ殺されてしまう。
対日講和を唱えるというか、先に中国国内の安定を図って(軍閥と共産党を叩いてから)その後に外(日本)に対抗する、という「おかしな」政策でぐずぐずしている為政者たちを痛烈に批判している。
こんな故事を少年向け雑誌に載せるのは筋違いである、と。
2014/11/25記
答えにくい問題
きっと「児童年」があったからだろうが、ここ数年児童向けの説話の刊行が大変増え、教訓物、鼓舞物、勧諭物など色々あり、児童のような精力旺盛を持たない人は見ただけで頭がぼーっとする。
最近2月9日の「申報」の「児童特集」に児童向けの「武訓先生」の話が載っていた。それによると、彼は乞食で、くさい飯も食い、汚れた水も飲み、雇われて苦しい仕事もし、「銭を得てそれを蓄えた。人が銭をくれるなら土下座もいとわなかった」とあった。
これ自体は何らたいしたことも無い。特別なのは、彼は銭を得て一文も使わず、ついに学校を建てたことだ。
そこで「武訓先生」の作者は問題を出して子供に問いかけた:
「君たち!この話を読んでどう思いましたか?」
私も正に子供たちがどんな感想を持ったか、とても知りたいと思った。この話を読んだ人が、乞食で、或いはそれより少しましな状態であれば、彼にはとてもかなわぬと悔やむだろう。或いは中国にこんな乞食はいないと憤慨するだろう。しかし子供たちはどう思っただろう。彼等はきっと目をぱちくりさせて、作者に問う事だろう:「おじさん!あなたのこの話はどういう意味ですか?」
訳者雑感:これも何干の名で36年2月に発表された。
「武訓先生」は出版社注によると、山東に実在した人で(1838-1896)乞討(人のお金をせびった)や放債(それを人に貸して利子を稼いだ)などして金を集めて「義学」(義塾)を作った。それで清朝政府から「義学正」に封ぜられたとある。この話を書いたのは「雨人」の署名で実在人物の由。
清朝時代の中国では、魯迅が通ったような「科挙」受験の為の「三味書屋」のような私塾は結構あって、科挙に合格できなかった人達が子供を教えることで生計を立てていた。南方の各地には広東省の田舎にもそうした書院の建物が結構残されている。南方からの科挙合格者が多いのも理解できる。
日本では藩校以外に土地土地で寺小屋的なところで「読み書き算盤」などを教えていたが、中国の殆どの田舎では魯迅の「奉納劇」などに出て来る子供たちは「文字を読めなかった」のが実態だった。それを山東省の人が乞食のような暮らしをしながらお金をためて子供たちが勉強できる場所を作ったのだろう。19世紀の日中の子供の文盲率は比較にならぬほど中国が高かったに違いない。 ノーベル賞をもらったマララさんの国も女性への教育を禁じている所が多いそうだ。彼女の言うように、女の子が教育を受けられるようにしなければならないと思う。
2014/11/24記
大小の奇蹟
元旦に新聞「申報」の第3面に商務印書館の「今週の本」というのがあり、今回は「羅家倫氏が選んだ」ヒットラーの「我が闘争」(A. Hitler: My Battle)で、羅氏の序を摘録」して云う:
『ヒットラーのドイツでの台頭は、近代史の一大奇蹟。……ヒットラーの「我が闘争」は、党人の為に書かれ:正にそれ故にこそ、この奇蹟を知ろうとするには、すべからくこれから始めなければならない。この本は「今週の本」とするのにふさわしい』
しかし、訳本を見なくても、「ここから始める」だけで3つの小さな「奇蹟」を知ることができる。其の1、立派な国立中央編訳館が大変多忙な中、この本をまず翻訳したこと:其の2、これが「近代史の一大奇蹟」だそうだが、英語からの転訳であること:其の3、立派な国立中央大学の学長が「この奇蹟を知ろうとするなら、すべからくこれから始めなければならない」と言ったこと。
まことにとんでもない奇だ!
訳者雑感:出版社注;これは36年の1月に何干の名で「海燕」に発表した由。
魯迅はドイツ語からの色んな翻訳を手掛けていたから、ドイツ語の文献で、ヒットラーのドイツにおける政治活動をしていて、どういう人間かという輪郭を捉えていたことと思う。焚書など秦の始皇帝になぞらえた文章もあった。
そのヒットラーの「我が闘争」を今週の(お勧め)本として英語から翻訳したものを、国立中央編訳館が出し、その序にまた国立中央大学の学長が「この奇蹟を云々」と推薦している事。ヒットラーの政治活動が近代史上の一大奇蹟だ、というのは、彼を讃えているのだろう。それを自分の国に攻め入って来ている日本と同盟して第2次大戦を起こすことになるとは、36年の元旦の時点では、「立派な国立中央大学の学長」も何の見通しも予知も無いというのは、まさに奇怪千万である。
しかし1936年の時点ではまだ多くの人が世界大戦が勃発するとは感じていなかったのか。この年10月に魯迅は亡くなり、12月には西安事件で蒋介石が張学良に捕えられている。蒋介石が監禁され釈放されて始めて、抗日共同戦線が形成され、37年7月に日中戦争が始まった。
2014/11/23記
文人比較学
「国聞週報」12巻43号に「国学珍本叢書」の中の引用記号の誤用と句読点の間違いを指摘した文章があり:46号で「主編」の施蟄存氏がそれに答えて認めたのは「自分の生計の為にした」もので、「子孫の福の為」ではなく、認めるべきは認め、弁解すべきは弁解した態度は磊落であった。最後に総弁解で:
『失敗して面目ないことだが、大罪を犯したとは言えぬ。軽率な本を出しただけで「自分の生計の為」で、他の一部の文人の様に人の魂や血肉を売った訳ではない』
中国の文人には2種類の人がおり、一つは「軽率な本を出しただけの人」で、もう一つは「他の人の魂や血肉を売って、自己の生計に当てる人」で、我々は只「他の一部の文人」のことを思えば、施氏は「大罪を犯した」とは言えぬだけであるが、その実「子孫の福」を謀ったと言える。
だが別の面でも「租界の悪ガキ」の顔付きを生々しく描きだした訳で――これも「他の一部の文人の様に」、「何も大罪を犯したのではない」
訳者雑感:
11月22日の報道で、やしきたかじん氏の長女(41歳)が彼の事を取り上げた「殉愛」という本の著者百田尚樹氏に対して、彼女の父親への思いと名誉が傷つけられたとして出版差し止めと千百万円の損害賠償を提訴した。
再婚した33歳の妻の話として長女がお金を無心に来たとか、それを他の親族に確認しなかった云々ということだそうである。
これは彼が「自己の生計」の為に謀ったことで、「大罪を犯した」わけではない、と弁解するのだろうか?
安倍首相のアドヴァイザー的な役割を担いながら、こんな内容の本を25万部も刷ったそうだが、この文人は魯迅のいう2種類の文人のいずれに相当するだろうか。それ以下の分類は無いのかな。
2014/11/22記
徐懋庸に答え併せ抗日統一戦線問題について
魯迅様:
御病気は快癒されたでしょうか?心配しております。先生がご病気されてから、文芸界のもめごとが加わり、私は先生から親しくお話を伺う事ができなくなり、いつもそれを思うと悲しくなります。
私は今、生活が苦しく、体調も悪く、上海を離れざるを得ず、田舎で少しお金になる編訳などして、また戻ってこようと考えております。この機会に暫く上海「文壇」の局外者となり、いろんな問題を仔細に考えたら、或いは良く分かる様になるかもしれません。
最近、先生のこの半年の言動が、無意識に悪い傾向を助長しているように感じます。胡風のまやかしや、黄源のへつらいなどについて、先生は細かく観察されず、永遠に彼らの私物とされ、群衆を幻惑し、偶像のようにされ、彼らの野心から起きた分離運動は遂に達せられると、収拾がつかなくなってしまいます。胡風たちの行動は明らかに私心から出た物で、極端なセクト活動で、彼らの理論は前後矛盾し、間違いだらけです。「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンのように、当初は元来、胡風の提示した「国防文学」と対立関係だったのですが、後に一つは総合的であり、もう一つは付属的だとし、その後もう一つは左翼文学の発展が現段階とのスローガンでぐらついており、先生も又彼らに替ってその説を整合させられないでしょう。彼らの言動に打撃を加えるのは元々極めて容易ですが、いたずらに先生を彼らの後ろ盾にしてしまうと、先生を尊敬せぬ人はいないから、実際に文で闘争して解決しようとすると大変困難だと感じます。
先生の本意は十分理解しております。先生は只、統一戦線に参加する左翼の戦友が、元来の立場を放棄するのを心配しておられ、胡風たちが格好だけ左翼のようにふるまっているのを良いと思われているのです:だから彼らに賛同しているのです。しかし先生に申し上げたいのは、先生が現在の基本的政策に着いてご理解されていないからです。現在の統一戦線――中国のと全世界のは同じで――固よりプロレタリアが主体ですが、その主体になるのは、名義上のものではなく、特殊な地位と歴史的なものではなく、現実を正確に把握することと、闘争能力の大きさによるのです。従って客観的にプロレタリアが主体になるのは当然です。但し、主観的にプロレタリアはあからさまな徽章を掲げるべきではなく、只、特殊な資格を以て指導権を要求して、他の階層の戦友を逃げ出させてはいけません。だから今、聯合戦線で左翼のスローガンを出すのは間違いで、聯合戦線を危くさせます。先生が最近発表した「病中客に答える」は(民族革命戦争の大衆文学)はプロレタリア文学が今日に至る一つの発展だと説明されていますが、又これは統一戦線の総合的なスローガンにすべきだとされていますが、それは間違っています。
再度「文芸家協会」に参加する「戦友」について、先生の心配されているように必ずしも個々に右傾堕落しているとは限りません:況や先生の左右に集っている「戦友」は巴金と黄源のような連中もいるわけですが、まさか「文芸家協会」に参加している人達が、個々には巴金や黄源に如かずとのお考えでしょうか?新聞雑誌でフランス・スペイン両国の「無政府主義者」の反動が、聯合戦線を破壊しているのは、トロツキー派と変わらないことを知っています。中国の「無政府主義者」の行為は更に卑劣だということを知っています。黄源は根本は無思想で、ただ、著名人の太鼓持ちです。以前彼は傅や鄭の門下で奔走していた頃のへつらいようときては、現在、先生に対する忠義と敬意と何ら変わりません。先生はこんな輩と一緒に多数の人と協力するのをいさぎよし、としないのは私には分かりません。
かれらのしている事を見ずに、ただ人物だけを見るのは、この半年来の先生の間違いの原因だと思います。先生の人を見る目も正確ではありません。例えば私は個人的に多くの欠点がありますし、先生は私の文章がいい加減だとして大きな欠点だとされますが、これはおかしいと思います。(私がなぜ故意に「邱韻鐸」の三字を鄭振鐸と書きましょうか?まさか鄭振鐸は先生のお気に入りではないでしょうに)こんな小さなことで、一人の人間を千里の彼方に遠ざけるのは、本当に間違っていると思います。
今日上海を離れるので、いろいろ忙しく長い手紙は書けませんが、もう書きすぎたでしょう。以上、先生を攻撃する意図など毛頭なく、実際、先生に細部に渡って各事情をお考えいただくことを希望しております。
摂訳「スターリン伝」はもうじき出版予定で、出ましたら一冊送りますのでご
覧いただき、原意と訳文について、御批評くださいますようお願いします。
全快を祈っております。
懋庸より 8月1日
以上が徐懋庸からの手紙だが、彼の同意を得ずにここに公表す。文章は全て私への教訓と他人への攻撃で、公表しても彼の威厳を損なわぬし、又彼もきっとこれを公表するように書いたものだろうからだ。勿論、これから見てとれるのは:この発信者はいささか「悪劣」な青年だということ!
が、私は要求があり:巴金、黄源、胡風の諸氏が徐懋庸を真似ないように望む。この手紙の中に彼らを攻撃する文章があるが、牙と眼で以て応じると、彼の詭計にはまってしまうからだ。今、国難の際に、昼には格好のいい話をして、夜に籬間行為をし、挑発分裂のペテンを弄するのはまさしくこうした輩ではないか?この手紙は計画的で、彼らは「文芸家協会」に加入せぬ人に新たな挑発をして、彼らの応戦を狙い、その時君たちに「聯合戦線の破壊者」の罪名を被せ、「漢奸」の罪名を着せる。しかし我々は違う。我々は決して筆峰を専ら彼ら数人の個人に向けるのではないし、「先に内を安んじ、後に外を攘う」というのは我々のやり方ではない。
だが、ここで一言言いたい。まず抗日統一戦線への私の態度だ。私はこれまで色んな所で述べているが、徐懋庸等は読もうともしないようで、逆に咬みついてきて、私をどうしても「統一戦線破壊者」にしようとし、「現在の基本政策が分かっていない」と教戒する。徐懋庸たちがどんな「基本政策」を持っているのか、私は知らない。(彼らの基本政策とは私に何度も咬みつくことではないか?)然し中国は今、革命政党が『全国人民向けに提出した抗日統一戦線の政策は、私はそれを読んだが、それを擁護するものだ。私は無条件でこの戦線に参加する。理由は私が単に作家であるだけでなく、一個の中国人だからだ』
(訳者注:『 』内の字は○印つき。以下同じ)この政策はたいへん正しいから私はこの統一戦線に参加する。無論わたしが使うのはペンで、文章を書くこと、翻訳で、このペンが使い物にならなくなったら、私自身、自信を持って他の武器を使うのは、徐懋庸等の輩には劣らないと言える!
その次は文芸界の統一戦線に対する態度だ。『私は全ての文学家、如何なる派の文学家でも抗日スローガンの下で統一をという主張に賛成する』私もかつてこういう統一団体を組織することへの意見を述べたが、それは当然ながら所謂「リーダー」たちに切り捨てられ、逆に天上から落ちて来たように、「統一戦線破壊」の罪を着せられた。それで私を暫時「文芸家協会」に参加させなかった。私は彼らがどんな芸当を見せてくれるか少し待ってみることにした:当時実際そのような「リーダー」自称者及び徐懋庸的青年に疑念を覚え、私の経験では、表づらは「革命」の顔をしながら、他の人を「内奸」とか「反革命」「トロツキー」「漢奸」と陥れるまっとうでない連中だからだ:彼らは巧妙に革命的な民族の力を切り捨て、革命的大衆の利益を顧みず、ただ革命の名を借りて私利を営み、正直私は彼らが敵から派遣されたのではないかと疑いもした。思うに私は無益なリスクは避け、彼らの指揮には従わぬようにした。無論結局は事実が彼等の正体を証明するから、彼らがどんな連中か断言したくないが、彼らが真に革命と民族に志があるなら、目論見が正しくなく、観念が正確でなく、やり方がへただというに過ぎぬなら、彼等は実際自ら改める必要があると思った。私は「文芸家協会」への態度は、それが抗日作家団体を考え、その中に徐懋庸的な人がいても、新しい人もいるが:「文芸家協会」があるから文芸界の統一戦線が成立したとは考えられぬ。全ての会派の文芸家が一丸となるには、まだまだ時間がかかると思う。理由は「文芸家協会」がまだ非常に濃厚なセクト主義と同業組合的な状態だからだ。他は見なくても、只その規定を見ただけで、加入者の資格も大変厳しく制限し:会員は入会金1元、年会費2元で「作家閥」を示そうという傾向があり、抗日「人民式」ではない。理論上「文学界」の創刊号に発表された「聯合問題」と「国防文学」の文章は基本的にセクト主義的で:一人の作者が私が1930年に話した事を引用し、そういう話を出発点とし、その為、口では如何なる会派の作家も聯合云々と言いながら、やはり自ら加入制限と条件の設定を願っている。これは作者が時代を忘れたためだ。私は文芸家は抗日問題で聯合するのは無条件で良いと思うし、漢奸でなくて抗日を願い賛成するなら、恋愛ものや、古典派或いは才子佳人小説の作者も構わないと思う。但し、文学問題で我々はやはり互いに批判はできる。この作者は又、フランスの人民戦線を引用しているが、それは作者が国度を忘れていると思う。我々の抗日統一戦線はフランスの人民戦線よりずっと広範なのだから。別の作者は「国防文学」を解釈して「国防文学」は正確な制作方法を持たねばならず、又現在「国防文学」でなければ「漢奸文学」だと言い、「国防文学」というスローガンで、作家を統一しようとし、まず「漢奸文学」の名を準備し、後に他の人を批判する為に使っている。これは実に出色のセクト主義の理論だ。私は:作家は「抗日」の旗の下、或いは「国防」の旗の下で聯合しようというべきで:作家は「国防文学」のスローガンで聯合しようとは言えぬと思う。何名かの作家は「国防を主題」とした作品を書けず、やはり各方面から抗日の聯合戦線に参加するので:たとえ彼が私と同じように「文芸家協会」に加入せずとも、「漢奸」とは限らぬからだ。「国防文学」は全ての文学を包括できない。理由は「国防文学」と「漢奸文学」以外に、前者でも後者でもない文学があるからで、彼等の本領で「紅楼夢」「子夜」「阿Q正伝」が「国防文学」か「漢奸文学」か証明できるなら別だが。こうした文学は存在し、ただそれが杜衡、韓侍桁、楊邨人達のような「第3種文学」ではない。この為郭沫若氏の「国防文芸は広義の愛国主義文学」で「国防文芸は作家関係間の標識で、作品は原則上、その標識ではない」という意見に同意する。私は「文芸家協会」は理論面と行動面のセクト主義と同業組合の現象を克服すべきで、制限を緩くして、同時に所謂「リーダーシップ」を本当に真剣に仕事をしている作家と青年の手に移し、徐懋庸のような連中が一手に請け負うことのないようにと提案する。私個人が加入するかどうかは大した問題ではない。
次に私と「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンとの関係について。徐懋庸たちのセクト主義はこのスローガンに対する態度にも現れている。実に彼等のセクトがこんな風にまでなってしまったのは理解できない。「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンは「漢奸」のそれではないし、抗日の力であるのに:なぜこれが「標新立異」(新しいことを標榜して異を立てる)なのか?諸兄はどうしてこれが「国防文学」と対立すると思うのか。友軍の新たな力を拒み、こっそり抗日の力を謀殺するのは、諸兄自身この種の「白衣秀士」(水滸伝中の人物)の王倫よりも気量が狭いのだ。抗日戦線ではどの様な抗日の力も歓迎すべきで、同時に文学でも各人が新しい意見を出して討論すれば、「標新立異」など恐ろしくも無いと思う:これは商人の専売とは異なり、且つ又事実上諸兄が先に提出した「国防文学」のスローガンも、南京政府や「ソビエト」政府に登録していない。但し今の文壇はどうやら「国防文学」牌と「民族革命戦争大衆文学」牌の二つがあるようで、この責任は徐懋庸が負うべきで、私が病気中に来訪者に答えた一文では彼等をふたつとは考えていなかった。当然私は「民族革命戦争大衆文学」というスローガンに誤りのないことと「国防文学」との関係について述べねばならぬ。まず先に前者のスローガンは胡風が出したものではなく、胡風が文章を書いたのは事実だが、それは私が彼に頼んだ物で、彼の文章の解釈が曖昧なのも事実だ。このスローガンも私一人の「標新立異」ではなく、数名の人達で相談した物で、茅盾氏も参加した一人だ。郭沫若氏は遠い日本で監視されており、手紙での相談もできなかった。残念ながら徐懋庸
に参加要請しなかった。が、問題はこのスローガンが誰から出されたかではなく、それが間違っているか否かにある。それがプロレタリア革命文学の左翼作家たちが抗日の民族革命戦争の前線に向かうように推進し、それが「国防文学」という名の本体の文学思想的意義の不明確さを救い、以て「国防文学」と言う名の不正確な意見を糾正しようとし、又そうした理由から提出されたのなら、それは正当で正確だ。人が地に足を付けて考えず、少し頭をひねって、任意に
「標新立異」だと片づけられぬのである。「民族革命戦争大衆文学」という名詞は本来「国防文学」という名詞より意義が明確で、より深い内容を持っている。「民族革命戦争大衆文学」は、主に前進的な左翼作家に対して提唱されたもので、これらの作家たちが努力して前進し、この意味から聯合戦線を推進している現在、徐懋庸がこういうスローガンを提出できぬというのはおかしな事だ!「民族革命戦争大衆文学」も一般の或いは各派の作家に対して提唱できるし、希望できる。彼等も努力して前進するよう希望する。この意味から一般の或いは各派の作家に対してこの様なスローガンを提起できぬというのもおかしな話だ!但しこれは抗日統一戦線の基準ではないし、徐懋庸が私に言うように「これを統一戦線の総スローガンとすべきだ」などというのか更におかしな事だ!徐懋庸に対して本当に私の文章を読んだか否か訊きたい! 人々は私の文章を読んで、もし徐懋庸たちの「国防文学」のようなセクト的にこのスローガンを解釈しないで、聶紺弩等のような間違いをしなければ、このスローガンとセクト主義や排他主義とは何の関係も無い。ここでの「大衆」は「群衆」「民衆」の意味に解釈するのも可で、況や現在では当然「人民大衆」の意味があり、私はこの「国防文学」は我々の目下の文学運動の具体的なスローガンの一つで「国防文学」と言うスローガンは頗る通俗的で、すでに大変多くの人が聞き慣れており、それは我々の政治的・文学的な影響を拡大できる。更に作家が国防の旗の下で聯合でき、広義の愛国主義的文学となれるためだ。それ故、かつてそれは不正確に解釈されたとはいえ、それ自身の含意に欠陥はあるが、やはり存在すべきで、その存在が抗日運動に有益だからだ。この2つのスローガンの併存は辛人氏のように「時期性」と「時候性」などと言わなくてもいいと思う。人々が各種の制限を「民族革命戦争大衆文学」に加えるのに賛成しない。「国防文学」の提起が先だとするなら、それが正統だとするなら、正統権を正統な人達に譲って構わない。問題はスローガンにはない。実際に行う事だから:スローガンをどんなに叫び、正統性を争っても、固より「文章」を書き、原稿料を取り、生計をたてるのだが、それはいずれにせよ長く続けることはできない。
最期に私個人の事を少し書きたい。徐懋庸は私のこの半年の言行が劣悪な傾向を助長しているという。私はこの半年の言行を検査した。言としては、4-5篇の文章を発表し、その他はせいぜい来訪者と少し閑談したのと、医者に病状を報告した程度で、行は多少あり、版画集を2冊、雑感集1冊を出し、「死せる魂」の数章を翻訳し、3か月の病中に署名1回したのみで、これ以外、下等妓楼や賭博場に行ったことも無く、何の会議にも出ていない。私がどの様に助長したのか、どんな劣悪な傾向を助長したのか訳が分からない。まさか私が病気をしたせいなのか?私が病気になって死ななかったこと以外、思いつくのは只一つ:私が病気の為に徐懋庸のような劣悪な傾向の連中と戦わなかったことか?
その次は、私と胡風、巴金、黄源諸氏との関係だ。彼等とは最近知り合ったばかりで、皆文学の仕事での関係で、交友関係と称す迄には至っていないが、友人とは言える。何ら確固とした証拠も出せないのに、むやみやたらに私の友人を「内通者」とか「卑劣」者との中傷に対して、反駁せねばならない。これは私の交友の道義というだけでなく、人を見、事を見た上の結果だ。徐懋庸は私が人を見ただけで、物事を見ていないというのは、無罪の人を中傷して、罪をかぶせるもので、私は些か物事を見、しかる後、徐懋庸らの類の人物を見るのだ。胡風はこれまで余り知らなかったが、去年のある日、ある名士が私と話したいというのでそこに着いたら、自動車がやって来て、中から4人の男が飛びだしてきた:田漢、周起応と他の2人で皆洋服を着て、尊大な態度で、特に私に通知する為に来たと言った:胡風は「内通者」で官憲の犬だ、と。証拠はと訊くと、転向した後の穆木天の口から聞いた、という。転向者の言葉は左聯に来ると、聖旨になるのかと私は開いた口がふさがらなかった。何度か押し問答の末、私の答えは:証拠が極めて薄弱故、私は信じない!で、その時は不愉快な状態で分かれたが、後に又胡風は「内通者」だと聞いた。が、奇妙なのはその後のタブロイド紙で、胡風を攻撃するたびに、往々私を引き合いに出し、或いは私のことから胡風に及ぶようになった。最近は「現実文学」がO.V.筆録の私の主張を発表して以降、「社会日報」はO.V.は胡風で、筆録も私の本意とは合致していないと言ったり、少し前には周文のように、傅東華に対し私の小説を改削したことに抗議した時、同紙もまた背後にいるのは私と胡風だと言った。最も陰険なのは同紙が去年冬から今年の春に、ギザギザで囲んだ重要記事で、私が南京に投降しようとしているとして、間で動いているのは胡風で、早まるか遅れるかは彼の腕しだいだ、と。又自分以外のことも見た:ある青年が「内通者」と言われ、その為に全ての友人が彼から離れて行き、ついに街で流浪し、帰るところも無くなって、逮捕され毒殺されたではないか?またある青年も同じく「内通者」と中傷されたにも拘わらず、英雄は戦闘に参加した為に蘇州の獄中で生死不明の状態ではないか?この二人の青年は、穆木天などのように、立派な懺悔文も無く、田漢のように南京で大きな芝居を演じたことも無いのを事実で以て証明している。それと同時に私は人をも見ている;よしんば胡風が信用ならないとしても、私という人間に対して私自身は信用できるから、私は決して胡風を間にして南京と条件を講じたことなど無い。それ故、私は胡風が剛直で人の怨みを招きやすいが、近づきになっても良い人間だと分かった。
周起応のような連中は軽がるしく人を中傷する青年で、逆に懐疑し憎悪するようになった。無論周起応にも彼なりの長所もあるだろう。将来はきっともうこんな事はせずに、真の革命者になりだろう:胡風も短所があり、神経質で細かすぎ、理論的に些か拘泥する傾向もあり、文字の大衆化を受け入れないが、彼は明らかに有為の青年だ。彼は如何なる抗日運動や統一戦線にも反対したことは無い。これはたとえ徐懋庸の輩が智恵を絞っても抹殺することはできない。
黄源は向上心のある真面目な訳述者で「訳文」という確かな雑誌と他の数種の訳書がその証だ。巴金は情熱的進歩的な作家で、好作家と数えられる人で、固より「アナーキー」の称もあるが、我々の運動には反対せず、かつて文芸関係者の連名の戦闘宣言に名を連ねたことがある。黄源も署名した。この様な訳者と作家が抗日統一戦線に参加しようとするのは歓迎だ。私は本当に徐懋庸の類がなぜ彼等を「卑劣」というのか分からない。まさか「訳文」の存在が目ざわりなのか?スペインの「アナーキー」が革命を破壊したことすら巴金が責任を取るべきだとでもいうのか?
また中国は近来すでに普通にあることだが、実は「助長」するだけでなく、却って正に「劣悪な傾向」だが、何の証拠も無く、とてもひどい悪名を加える。
例えば、徐懋庸が胡風は「ペテン師」とか黄源は「おべっか」という。田漢・周起応たちは胡風を「内通者」というが、実際はそうではない。彼等の頭がどうかしているのだ:また胡風が「内通者」のふりをして、彼等にデタラメを言われたわけではない。「社会日報」は胡風が私を転向させようとしていると言ったが、私は今もって転向していないし、投稿者が故意に陥れようとしているからで、胡風は決して私を騙して引っぱろうともしていないし、実際引っぱってもいないが、それで以て記者にデマを書かせたのでもない。胡風は決して「愛すべき左翼」でもないが、私は彼の私敵にとっては実に「左でおそろしい」存在だと思う。黄源は私を持ちあげる文章を書いた事も無く。私の伝記を書いたことも無い。専ら月刊誌を出しているだけだが、責任感が頗る強く、世評も悪くないのに、どうして「おべっか」で、また私に「忠節をつくす」などといえようか?まさか「訳文」が私の物だとでもいうのか?黄源が「傅・鄭たちの下で奔走していた時、おべっかの顔たったというが、徐懋庸は多分御託宣を受けたのだろうか、私は知らないし、見たことも無い。私と往還していた時も「おべっか顔」は見たことが無い。徐懋庸は一度も一緒にいたことも無いのに、何を根拠に彼が傅・鄭たちの下でおべっかだった時と「変わらぬ」と断定するのか知らない。これについては私は証人となれる。実際に何も見ていない徐懋庸が、その場にいた私に対してどうしてこんな出まかせを言い、血を人に噴きつけるとは、横暴のやり放題もここに極まれりだ。これは「現在の基本政策」を「理解」している由縁だろうか?「世界中皆同じ」なのか?全く人を驚かせるのにも程がある。
その実「現在の基本政策」は決してがんじがらめのような網ではない。「抗日」であれば戦友ではないか?「ごまかし」でも「おべっか」でも構わない。胡風の文字を撃滅する必要も無いし、黄源の「訳文」を打倒する必要も無い。まさかこれらがすべて「21カ条」と「文化侵略」とでもいうのか?まず最初に掃蕩すべきは、大旗を虎の皮のようにかぶって、人を驚かす輩だ;少しでも意の如くにならぬと、勢いに乗じて人に罪を着せ、それも大変厳しく横暴な連中だ。無論、戦線は成立させるべきだが、それは脅してできたに過ぎず、それでは戦えない。まずすでにこんな前車があるので、転覆の鬼は死ぬまで悟らず、今私の面前にいて、徐懋庸の肉体にまといついて現れた。
左聯結成前後、所謂革命作家の一部は、没落した家のどら息子だった。彼も不満を抱き、反抗し戦ったが、往々、没落家族の嫁姑のいがみ合い、弟の兄嫁のいさかいを文壇に持ち込んだ物で、ぺちゃくちゃああでもないこうでもないと言うだけで、大局に着眼しなかった。この衣鉢は伝えられ絶えなかった。私と茅盾・郭沫若の二人については、一人は知っており、もう一人は面識はないし、また衝突もしていないし、かつて筆でそしりあったが、大きな戦いについては、同じ目標のために、決して四六時中怨念を抱くような事は無かった。然し、タブロイド紙は、魯は茅に比べてどうこうとか、郭は魯に対してどうとか、我々がその位置を宝のように争っていると書くのが好きなようである。例えば「死せる魂」は「訳文」停刊後、「世界文学」にも第一部が載ったが、タブロイド紙は「鄭振鐸が<死せる魂>を腰折させたとか、魯迅は怒って翻訳を辞めたとか書いた。その実、これは正に劣悪な傾向で、デマで文芸界の力を分散させ、「内通者」のやることだ。これも正に没落文学家の末路だ。
徐懋庸もまさにぺちゃくちゃの作家で、タブロイド紙と関係あるが、末路にはまだ陥っていない。だが、すでにデタラメにすぎぬことがわかる。(でなければ横柄だ)例えば、手紙に:「彼等の言行に対し、打撃を与えるのは容易だが、先生を盾としておるので…実際にそれを解決する為の文章での戦いは大きな困難を感じる」という。そういうのは、修身面で、胡風ごまかしとか、彼の論文や黄源の「訳文」に打撃を与えようとするのか。――こんな事は何も急いで知る必要もないが:私の訊きたいのは何故私が彼等の友人であるということが、「打撃」に対して「大きな困難と感じる」のか?だ。デマで事を起こそうとするのに対して、私は決して巻き添えにはならない。だが、もし徐懋庸たちが、道理のある正論をいうなら、私は彼等を天下の目から覆い隠すことなど出来るわけが無い。しかも何が「実際の解決」なのか、流刑か首切りか?「統一戦線」の大名義の下、こんな風に人に罪をでっちあげ、威力権勢をほしいままにするのか?私は本当に「国防文学」が大きな作品を出すのを心から祈る。さもないとまたこの半年のように「劣悪な傾向を助長する」罪を着せられるから。
最後に徐は私に「スターリン伝」をしっかり読んでくれと言っている。私はもし生きていたら確かにしっかり読んで勉強する。だが最後に彼自身もう一度しっかり読んでもらいたい。というのは、彼はこれを翻訳した時に何も会得していないようで、実に改めて精読の必要がある。でないと、一つの旗を掲げて、自分では人より先んじていると思っているようだが、奴隷の総監督にすぎず、鞭を鳴らすのが唯一のとりえで、――これを治す薬はないが、中国にとって、なんの役にも立たず、有害であるから。
8月3日―6日
訳者雑感:魯迅ですらこのやっかいな文章を8月の暑い日に3日かけて書いた。人を罵り、人からも罵り返されたら、更に推敲をこらして反駁・罵しった。
それが晩年に至るまで、死に至るまで止むことは無かった。
私はこの翻訳とタイプに10日以上費やした。(途中不在なためでもあったが)
ここに名があがっている、胡風とか田漢、それに巴金などは文革で問題にされた。いずれ彼等のことが、別の雑文にも登場するだろう。
2014/11/18記
「吶喊」チェコ翻訳本の序言
世界大戦後、新興国家が沢山出現した時、我々は非常に喜んだのを覚えている。我々も同じように圧迫され、それにあらがってきた人民だからだ。チェコが興り、当然我々は大いに喜んだ:しかし不思議な事だが、我々はとても疎遠で、私など一人のチェコ人も知らないし、チェコの本も見たことが無く、数年前上海の店でチェコのボヘミアガラスを見たきりだ。
我々は互いに相手の事を余り知っていないようだ。しかし現在の一般状況からみると、決して悪いことではない。現在各国が互いに忘れがたいというのは、必ずしも交情がとても素晴らしいからとは限らぬからだ。無論、人類は一番良いのは、互いに隔たりが無く、互いに関心を持つことである。最も平らで正しい道はといえば、文芸で通じ合う事だが、残念ながらこの道を歩む人は少ない。
思いがけぬ事に、訳者は最初にこの任務を試そうという光栄を得、私の物も加えられた。私の作品はこれによってチェコの読者の目の前に展開され、私にとって、実に他の広範な言語に訳されるより更にうれしいことである。思うに、我々両国は、民族は異なり、遠く離れており、往来も少ないが、互いに理解し合うことができ、接近できる。我々はかつて苦難の道を歩んで来、今もまだ歩んでいる――光明を探しもとめて。
1936年7月21日 魯迅
訳者雑感:魯迅は東欧の被圧迫民族の作品を多く翻訳している。それは彼らが清国末の中国人と同じように列強から圧迫され苦難の道を歩んでいたからだ。それをどのように文芸作品にして自国民に伝えるか、それが彼の出発点であった。今1936年、彼の死の数か月前に、チェコ語に翻訳されると聞いて、彼はとても喜んだことだろう。英仏などの言葉には早くに翻訳されていたが、チェコ語にも翻訳されるということが、それにもまして彼をうれしがらせたのだ。
今、上海か北京の魯迅館に各国語の翻訳本が展示されている。しかし、新華書店のコーナーには魯迅の作品の占めるスペースは段々狭くなっている。
2014/10/30記
「出関」の“関”
私の歴史小品「出関」が「海燕」に発表されると多くの批評が出たが、大抵は「読後感」と謙遜していた。それである人が:「これは作者の名声のせいだ」と言った。その通りだろう。今多くの新しい作家が努力して書いた物は、こうした評論家には注目されず、偶々読者が見つけて1-2千部売れると「名利共に得た」とか「そんな早く帰ってくるべきではなかった」とか「ぶつ草」言われ、群がって叩き、まだ元気があるのを怖れ、今後は一声も発せられぬ程叩いて、天下太平、文壇万歳と思っている。が、別の面では慷慨激昂の士も現れ、指を突き出して大声で叫ぶ:「我々の中国に、半個のトルストイでもいるのか?」「半個のゲーテでもいるのか?」残念ながら、存在しない。だがそんな激昂する必要もない。地殻が凝固してから、徐々に生物が生まれ、現在に至るまで、ロシアとドイツには只一人しかトルストイやゲーテはでていないのだから。
我々はそうした打撃や恫喝に遭わなかったのは幸いだった。しかし今回これまで評論家に対してとって来た緘黙の旧例を破り、少し意見を言いたい。これも他意は無い。只評論家は作品から作者を批判する権利を持っているし、作者も批評から評論家を批判する権利があり、それを言うのは構わないと思うから。
全て批評には2種類あるとみる。私のもともと小さな作品を更に矮小化し、封じ込めようとしているもの。
一種は「出関」は某氏を攻撃していると考えている。この種の話は友だちと閑談する時、勝手気ままな笑い話をする時には問題無いが、文字にして読者に示し、自分ではそれがこの作品の胆だと考えているとなると、それは井戸端の上さんたちのようになるのを免れぬ。彼女たちはひとのゴシップを知ったり聞いたりするのが好きなだけだから。不幸にして私のあの「出関」はこの種の人の口には合わぬから、タブレット紙に:「これは傅東華を風刺したようだが、そうではないかもしれぬ」と評された。「そうではないかも」であれば、「傅東華を風刺」したのではないこととなり、これは他の点から見るべきではなかろうか?しかしそれでは何の意味もなくなり、実際「傅東華を風刺」してこそ意味があるのだ。
こう言う見方をする人は多く、「阿Q正伝」を書いている時の頃、小物政客や下っ端役人が怒り狂って、自分の事を風刺していると騒ぎだしたが、阿Qのモデルが他の小さな町で賃仕事の米つきをしているのを何も知らないのだ。小説では実際に甲某とか乙某はいないだろうか?いや実はそんなことはない。もしいなければ小説にならない。たとえ妖怪を書こうが、孫悟空が一度トンボを切れば、十万八千里を飛び、猪八戒が高老荘に婿入りでも、人間社会の中に誰か彼らと精神的に似ている者がいないわけではない。誰かが似ていて、無意識の内にそれを取り出してモデルとしているのだが、無意識だから誰かが本の中の誰かに似ていると言うだけの事だ。古人は早くから小説を書くのにモデルを使う事をおぼえ、ノートにメモし、施耐庵なら――とりあえずここでは彼が実在したとして――画家に108人の梁山泊の好漢を描いてもらい、壁に貼って各人の顔付き、感情を考え出し、「水滸」を完成させる。が、この作者は文人だから文人の技両には詳しいが、画家の能力は知らぬから、彼は空(くう)から創造できると考え、モデルを手本にするには及ばぬと思っている。
作家がモデルを使うのは2つの方法がある。一つは専ら一人で、言行挙動は言うまでも無く、微細なクセ、服装のスタイルまで変えない。これは割合簡単だが、作品中で憎むべきとか滑稽な人物だと、今の中国では大抵、作者の個人的な怨みを晴らしているのだと看做され――「個人主義」とされ「聯合戦線」を壊すという罪を着せられ、それ以降は身を持すのも難しくなる。二つ目は色んな人を合成し、作者と関係がありそうな人を探そうとしても、ぴったりとして人は発券できぬ。が、「色んな人を合成する」のでどこかが似ている人は更に増え、より広範な人から怨みを招くことになる。私はこれまで、後者をとったが、当初はある人を怒らす事は無いと思っていたが、後になって何人かを怒らすということが分かり「後悔先に立たず」だったが、先に立たず故、悔まなかった。況やこの方法は中国人の慣習に会い、画家が人物画を描く時、静かに黙して観察し、心に何かが熟してくると精神を集中して一気に描き、これまで一人のモデルを使うことは無かった。
しかし私はここで、傅東華氏がモデルにならないと言っているのではなく、彼は小説の中に入れば、ある種の人物を代表する資格はあり:この資格について些かも軽視するつもりは無い。というのも、世間には小説の人物になれぬ人は沢山いるから。然したとえ誰かがそっくりそのまま小説の中に入ったとしても、作者の手腕が高く、長く伝わるようなら、読者の目にする人は只作中の人で、実際にいる人とは関係は無い。例えば「紅楼夢」の賈宝玉のモデルは作者自身の曹霑で、「儒林外史」の馬二氏のモデルは馮執中で、今我々が思いだすのは賈宝玉と馬二氏だけだが、専門の学者、例えば胡適氏あたりは、曹霑と馮執中を忘れずにいて:これ即ち、人生は短しされど芸術は長し、であろう。
もう一つ「出関」は作者自身を比しているという見方で、作者自身を比すというならどうしても身を上位に置くから、私が老子だとなる。最もひどいのは、邱韻鐸氏(創造社の主任)で――
「…読了後、脳に残った影は、心身ともに孤独に浸かりきった老人だった。読者はこれで作者と共に孤独と悲哀に落ち込むのではと痛感した。そうであれば、この小説の意義は形も無く弱まり、魯迅氏と彼のような作家たちの本意はここには無いと信じているが…」(「毎週文学」の「海燕読後記」)
こうなるとただ事ではない。多くの人が皆「孤独と悲哀に落ち込む」し、前面の老子と黒牛の尻の後の作者、更に「魯迅氏と同じような作家たち、そして多くの読者まで、邱韻鐸氏を含め、蜂の巣をつついたように「出関」してしまう。が、もしそうであれば、老子は「心身とも孤独感にさいなまされた老人の影」ではなくなる。彼はもう出関しないで、上海に戻って我々にご馳走してくれ、題を出して文章を募集し、道徳(経)の5百万言を作ると思う。
だから今私は関の入口に立って、老子の黒牛の尻の後から「魯迅氏と同じような作家たち」と多くの読者、邱韻鐸氏を含め、皆を引きとどめたいと思う。まず「孤独と悲哀に落ち込」まないようにし、「本意はそこにはない」のだから、邱氏もとうにご存知だが、そこでは触れてないので、多分そこでは目にみえないからだ。もし前者なら真に「この小説の意義は知らぬ間に弱まってしまう」もし後者なら私の文章がへたで、明確に「本意」を伝えられなかった為だ。今少し略述して、2か月前の「脳に残った影」を除去させてもらおう――
老子が函谷関を西に出たのは、孔子から言われた言葉のせいだと言うのは、私の発見とか創造ではなく、30年前東京で、(章)太炎氏から聞いた物で、後に彼は「諸子学略説」に書いているが、私もそれが確かな事実とは信じていない。孔子と老子の争いについては、孔が勝ち、老が負けたというのは私の意見だが:
老は柔を尚び:「儒者は柔也」で孔も柔を尚ぶ。だが孔は柔を以て進取するが、老は柔を以て退歩する。この鍵は孔子は「そのなすべからざるを知って、これをなす」で、事の大小にかかわらず、均しく放置しない実行者で、老はすなわち「無為にしてなさざるなし」で何もしない。いたずらに大言を発した空談家だ。なさざるところなしなら、なす所、何も無し、で行くほかない。なす所が一つでもあるなら、限界ができ「なさざる無し」とは言えぬからである。私は関尹子(老子の弟子で関の役人)の嘲笑に同意する:彼は女房すら持てなかったから。それで漫画化し、彼を関から送り出したのは、何も惜しくないが、図らずも邱氏にこんなひどい批判をされてしまったが、思うにこれはきっと私の漫画化が不十分なためで、もし彼の鼻に(道化役者のように)白粉を塗ったりすると、只単に「この小説の意義が知らぬ間に弱まってしまう」だけではすまなくなるから、こうするしかなかったわけだ。
再び邱韻鐸氏の独白を引くと――
「…更に彼らはきっと引き続いて心力と筆力を運用し、社会変革に有利なように傾注し、凡そ有利な力はすべて結集強化させ、同時に凡そ有利となる可能性のある力を有利な力に転じ、連携して以て巨大無比な力を結成すると信じる」
一つは為して「巨大無比な力となす」とし、わずかに「無為にして為さざるなし」に一等次ぐのみ。私「たち」にはこの種の玄妙な本領は無いが、私「たち」と邱氏の違いはここにあり、私「たち」は孤独と悲哀に落ち込まないが、邱氏は「本当に読者は孤独と悲哀に落ち込む」と感じる鍵はここにある。彼は老子に有利な気持ちを抱き、「巨大無比」な抽象的なもので封印するを禁じ得ず、私の老子には利のない具象的な作品を封じ込めたのだ。だが私は疑わしく思う:
邱韻鐸氏及び邱韻鐸氏のような作家たちの本意は多分ただここにあるに過ぎぬ。
4月30日
訳者雑感:これは「出関」という老子の行為の意味とその後の各時代の解釈を十分研究しないと理解できない問題だ。
一つ言えることは、儒教とか礼教を起こした儒学の徒が尊崇する孔子を、魯迅はこれまで批判否定してきた面が強かったが、老子との対比では、進取であったとして、退歩の老子より優れているとしている点だ。
2014/10/28記
三月の租界
今年一月、田軍が小品を発表した。題は「大連丸にて」で、1年余り前、彼ら夫婦がどのようにして棘の地であった大連から逃れてきたかであった――
「翌日我々はまず青島の緑なす山嶺を見て、我々の心は初めて凍りついた状態からうごめき始めた。
「おおー祖国よ!」
「夢ではないかと叫んだ!」
彼らの「祖国」への帰国は、随員なら誰も話せない。剿匪なら勿論誰も話せない、が彼らはやっと「八月の郷村」を出版しただけだ。これで文壇と関係が生じた。それでは「凍りついた状態からうごめき始め」ることとしよう。
三月に「ある人」が上海の租界で冷淡に発言した――
「田軍はこんな早々と東北から戻るべきではなかった!」
誰が言ったのか?即ち「ある人」だ。なぜ?この「八月の郷村」は「少し真実でない面があるから」だ。然し私に伝わって来たのは「真実」だった。「大晩報」副刊「火炬」の奇怪で小さい光、「週刊文壇」の狄克氏の文章が証だ――
「八月の郷村」は全体が史詩だが、一部に真実でない点があり、人民革命軍が郷村に進攻した後の状況は真実と言えない。ある人は私にこう語った:「田軍は早々と東北から帰るべきではなかった。田軍がもっと長い間いて学ぶ必要があると感じ、自らを更に豊富にすることができれば、この作品は更に良くなっただろう。技巧的、内容的にも種々問題あり誰もなぜ指摘しないのか?」と。
こう言う事は勿論間違いとは言えない。「ある人」がゴーリキーが早々に波止場人夫を辞めるべきではなかった:でなければもっと良いものになった、と言ったら、或いはKisch(チェコの報告文学家)は早々に国外に逃亡すべきではなかった。ヒットラーの集中キャンプに入れられていたら、彼の将来の報告文学は更に希望が持てた。誰かこんなことを論争したら、それは低能児だ。然るに三月の租界は幾つか付け加える必要があり、というのも我々はまだ十分に「自己を豊富にして」いないからである。低能児にならないですむ幸福な時だから。
こういう時、人はすぐ性急になる。例えば、田軍が早く小説を書き出したら「真実らしくなく」狄克氏は「ある人」の話しを聞いたらすぐ同意し、他の人が「種々の問題」を指摘せぬのを責め、「自己を豊富にして後」まで待てないし、再び「正確な批評」をするだろう。が私はこれは間違いと思うし、我々は投槍があれば投げるし、必ずしも出来たばかりの戦車、或いは正に造ろうとしている戦車と焼夷弾を待つ必要は無い。残念ながらこうなると田軍も「早々に東北から帰るべきではなかった」の問題も無くなる。立論も穏当にというのも容易なことではない。
況や、狄克氏の文章では、「真実」を知ろうとするも、どうやら久しく東北に留まるべきでもなさそうで、この「ある人」と狄克氏は多分租界に居て、田軍より晩く来たのではなく、東北で学んで、彼らは真実かどうか知っている。それで更に作家を進歩させようとするなら「正確」な批評に頼る必要は無い。何となれば、誰も「八月の郷村」の技巧的、内容的な「種々の問題」を指摘する前に、狄克氏もすでに断言し:「私は現在ある人が書いており、或いは<八月の郷村>より良い作品を書く準備をしていると信じている。読者が求めているから!」と。
ここで戦車が正に来たとしていても、或いは来ようとしていたとしても、その前に投槍を折るのは構わない。
ここで狄克氏の文の題を補記すべきで、それは:「我々は自己批判しよう」だ。
題は力強い。作者はそれが「自己批判」とは言っていないが「八月の郷村」を抹殺した「自己批判」の任務を実行し、彼が希望している正式な「自己批判」を発表した時、始めてその任務を解除し「八月の郷村」もきっと活気が出て来るだろう。この種の曖昧に首を振るのは、十大罪状を列挙するより相手に有害で、更に条款を列挙する曖昧な指摘は、涯のない悪を思わせる。
当然、狄克氏の「自己批判しよう」というのはよかれとの気持ちからで「そういう作家は我々のもの」だからである。だが同時に「我々」以外の「彼ら」を忘れてはならず、専ら「我々」の内なる「彼ら」に対してというのはダメだ。批判するなら互いに批判し、長所短所を併せて指摘すべきだ。もし「我々」と「彼ら」の文壇で、単に「正確さ」や公平さを顕かにするよう自ら求めるなら、実際は「彼ら」にこびたり、投降するものだ。
4月16日
訳者雑感:三月の租界の文壇の「新人作家」たる田軍への批判に対する反駁だと思うが、魯迅は自分が支援・育成したいと思う新人を大切に、大切に考えた。そういう新人を手ひどく批判し、抹殺しようという古参連中に辛辣な反論を加えている。もっと東北(旧満州)に残って、より力強い作品を出せ、というような「ない物ねだり」をやめ、現在出来ることをやるべし、と。
2014/10/19記
深夜に記す続の続
4.もう一つの童話
その朝から21日後、拘留所で尋問開始。陰暗な小部屋の上手に2人の役人が東西に坐っている。東のは馬褂(清朝時代の服装)で西のは洋服。世の中に人を喰うことなど信じない楽天派で、口述を記録す。警官は怒鳴りながら汚れた服で青白い顔の18才の学生を引っぱってきて下手に立たせた。馬褂は名前年齢本籍を訊いた後、また尋ねた。
「お前は木刻研究会の会員か?」
「はい」
「会長は誰だ?」
「Ch…が正で、H…が副です」
「彼らは今どこだ?」
「彼らは退学させられたので知らない」
「学校でなぜ騒ぎを起こしたのか?」
「えー!」青年は驚いて叫んだ。
「ふん!」馬褂は手元の木刻肖像を出して、「これはお前が彫ったのか?」
「はい」
「誰を彫ったのだ?」
「文学者です」
「何て名だ?」
「ルナチャルスキー」
「文学者?――どこの国の?」
「知りません!」青年は命が惜しいので嘘をついた。
「知らないだと。嘘だ!ロシア人じゃないか?ロシアの赤軍の将校じゃないか?ロシア革命史で彼の写真をこの目で見た!貴さま、しらを切る気か!」
「そんな……」青年は頭に鉄鎚を一撃された様に絶望的に叫んだ。
「当たり前だ。お前はプロレタリア芸術家で、彫ったのは赤軍の将校にちがいあるまい」
「そんな馬鹿な、全く違います…」
「強弁するな、お前は‘頑迷で非を悟らぬ’!」お前が拘留所で苦しんでいるのを知っている。お前がほんとの事を言って、裁判所で判決を出して貰えるようにするのだ、――監獄はここより楽だぞ」
青年は何も答えなかった――言っても言わなくても同じなのを知っていた。
「答えろ」馬褂は冷笑して「お前はCPかCYか?」(共産党と共産青年)
「どちらでもない。そんなこと何も知らない!」
「赤軍の将校は彫れるのに、CP、CYを知らぬだと?」若造のくせにこれほどしたたかとは!失せろ!」そこで手をひと振りすると、物分かりの良い警官が慣れた手つきで青年を引っぱって行った。
ここまで書いてきて、童話の様ではなくなってしまい申し訳ない。だが童話と言わねば何と言うべきか?特別なのは私が話しているのは1932年のことだ。
5.真実の手紙
「敬愛する先生:
私が拘留所を出た後の事をお尋ねですので、大略下記します――
その年の最期の月の最終日、三人はXX省政府により高等法院に送られた。着くとすぐ検査が始まった。この検察官の尋問は変わっていて、3つ訊くだけ。
「名は?」――第一句:
「年齢は?」――第2句:
「本籍は?」――第3句:
この特別な裁判が終わると、軍の監獄へ送られました。もし支配者の芸術的な手口を知りたいなら、軍の監獄へ行きさえすれば分かります。自分と意見の会わぬ者を虐殺し、民の屠殺の手口は残酷でなければすっきりしないのです。時局が険しくなってくると、所謂重大政治犯をひとまとめにして銃殺します。刑期も何もありません。例えば南昌が危急に陥った時、45分間に22人殺し:福建人民政府が成立した時もたくさん銃殺されました。刑場は獄内の5ム―の菜園で、囚人の死体は菜園の土に埋められ、上に野草を植え、肥料としました。
2ヶ月半もせぬうちに起訴状がきました。法官は3つ尋問しただけで、どうやって起訴状を作ったのでしょうか?できるのです!原文は手元に無いですけれど思いだせます。法律の第何条かは忘れましたが――
「…Ch,…H…の組織する木刻研究会は共産党の指導を受け、プロレタリア芸術を研究する団体也。被告等は皆当該会員で…その彫った物はみな赤軍の将校と労働飢餓者の情景で、以て階級闘争を鼓舞し、プロレタリア階級専政に日が必ず来ると示唆し。…」
この後すぐ法廷が開かれ、5人の役人が厳めしく一列に坐っていた。我々は何もうろたえませんでした。その時私の脳裏に一枚の絵が浮かんだ。それはDaumier(フランスの画家)の「法官」で、まさに驚きました!
開廷8日目に判決が出、その罪状は起訴状と同じだが、後半は下記の通り―「その所為は正に民国緊急治罪法第X条に危害を及ぼし、刑法第X百X十条第X款により、各々懲役5年とす。…然し被告らは皆若く無知で岐途を誤ったので、それを情状酌量、XX法第X千X百X十条第X款により2年半に減ず。判決書送付後10日内に不服なら控訴を得…」云々。
私は「控訴」などできるだろうか?「服役するがよい!これは奴らの法律だから」
要するに、逮捕から釈放まで3か所、人民を虐殺する屠場を遊歴した。今は彼らが私の首を刎ね無かったことに感謝するほか、更に感謝するのは、私の知らなかった沢山の知識を増やしてくれたこと。刑罰面だけでも中国では今:
1.藤の鞭打ち 2.拷問椅子などでこれらは軽い方 3.棒踏み、犯人を跪つかせ、鉄の太い棒を膝の間に入れ、両端に大男を乗らせ、最初2人、段々増やして8人とする 4.火に焼けた鎖に跪つかす。これは真っ赤に焼けた鉄の鎖を地上に置き、犯人に跪つかす 5.「喰らわす」といわれるもの。鼻から唐がらし水を注ぎ、灯油、酢、焼酎を入れる…6.更には犯人を後ろ手にし、細い麻縄で2本の親指を縛り、高所から吊るして殴る。この名前は知らない。
最も悲惨なのは、拘留所で同房だった若い農民だ。役人は彼を赤軍の軍長だと言ったが、彼はガンとして認めなかった。それでとうとう、彼らは針を爪の間に刺し、金づちで叩きこんだ。一本叩きこんで認めぬと、2本目、まだ認めぬと3本目。…4本、…ついに十本全部に叩きこんだ。今でもその青年の真っさおになった顔、くぼんだ目、血だらけの両手が常に目に浮かび、忘れられず、私を苦しめます!…
だが、投獄された理由は出所後初めて分かりました。禍根は我々学生の学校に対する不満にあり、特に訓育主任に対してでしたが、彼は省の党政治情報員で、全学生の不満を鎮圧する為、僅かに残っていた3人の木刻研究会員を逮捕して、示威のための犠牲にしたのです。そしてあのルナチャルスキーをむりやり赤軍将校としたのです。馬褂の役人も彼の義兄で何と都合よく仕組んだものです。
大略を書き終え頭をあげ、窓の外を見ると青白い月が出ていて、ゾクっとしました。私はそれほど臆病にならぬだけの自信はあったが、私の心は氷のようにゾクっと凍りつきました。…
ご健康を祈ります!
人凡。4月4日後半夜
(付記:「一つの童話」の後半から本編末まですべて人凡君の手紙と「獄中記」から引用した。4月7日)
訳者雑感:深夜に記す、というのは当時の暗黒を後世に伝える為に、止むにやまれず書いたものだ。拘留所での自白強要の拷問など、20世紀でも中国の各所で行われていたと…。
2014/10/15記
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
P R