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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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<「紅笑」のこと>について

1929年 <「紅笑」のこと>について
今日4月18日付け「華北日報」を受け取り、副刊に鶴西氏の半篇の<「紅笑」について>と題する文を見た。「紅笑」については少し気になった。というのも私もかつて数頁翻訳したことがあり、予告を初版の「域外小説集」に載せたが、その後、完成せぬまま出版に至らなかった。しかし以前知っていたせいか、今誰かがこれを訳したら、読むのが楽しみである。だが「紅笑」については大変奇妙に感じたから、少し述べねばならぬ。筋道を明確にするため、まず原文を下記に転載する――
 『昨日蹇君家に行き、「小説月報」第20巻第1号を見た。そこに梅川君訳の「紅笑」があり、これは私と駿祥が訳したこともあるから、覚えずぱらっと見て、「紅笑」について少し述べたくなった。
 『無論、私は梅川君に「紅笑」を訳してはいけないというのではないし、そうする理由も権限もない。だが梅川君の訳文にいささか疑問があり、固より一人の人間として、勝手に他人を疑うべきではないが、世の中には少し奇妙なこともあり、物事の多くは人の思いもよらぬことがある。私の余計な取り越し苦労かもしれぬし、梅川君も思いもよらぬ事で、それならこの問題の非は私にあり、この文もただ私は人の文章をコピーしていないとの弁明にすぎぬ。今先ず事実経過を述べよう。
 『「紅笑」は私と駿祥が去年の夏休みに1週間余で急いで完成し…完成後すぐ北新書局へ送った。だいぶ経ってから小峰君の11月7日の返信を得、2人で訳しているので、前後の文章が一貫せず石民君に校閲を頼んでいるので、原稿料は月末に必ず送る、と。その後私は何通か催促の手紙を出したが、返答は無かった。…それで年末の休暇中に原稿の控を探し出し、改訳して文章を読みやすく新しいものにした。(特に後半部)間違いや適切でない点も数十か所改め、岐山書局に発行を頼んだ。原稿を出して暫くしたら、小峰の2月19日付書面を入手し、お金も送って来た。端数は少し削られていたが、原稿は返却されてこないから、小切手はそのままにし、返却しなかった。その後小峰君から来信あり、原書と翻訳は皆返したので、小切手を袁家○(馬へんに華)氏に渡すようにという。私は返信にそうしたと書き、原稿を返してほしいと書いた。だが、今現在、本も原稿もまだ目にしたことは無い。
 『この最初の原稿を梅川君が見た可能性はあるかもしれぬが、私は見たことがあるとは言えない。勿論梅川君が我々の訳を参考にしながら訳したとは限らぬが、第一部の訳は、文の構成方法がとても似ている点は疑いを免れぬ。元々我々の初訳原稿は第一部の方が二部より流暢で、同時に梅川君の訳文も、第一部が二部よりも良いし、双方極めて似ているのもこの9つの断片だ。確かな証明もできぬ時は、私もこの文章をそのまま使いたくないし、他の人の頭上に投げたくもないが、この点について、梅川君が喜んで返事をくれることを望む。もし、すべて私の思い違いなら、前述の通り、こう言う話は我々が出そうとする単行本をそのまま使ったのではないとの証明になる』
 文章は極めて婉曲だが、主旨はとても簡単で、即ち:我々の出そうとする訳本と君がすでに出した訳本は大変似ており、私はかつて訳の原稿を北新書局に送ったが、君は見た可能性があるから、君が我々のを盗作したと疑っており、そうでなければ、「こうしたことは、我々が出そうとする単行本が盗作では無いとの証明となる」
 だが原文の論法に照らすなら、そーでなければ、我々が相手のを盗作したことになり、そうなると神妙な「証明」となる。但し、私はこういうことを研究したいと思わぬし、わずかに双方に対して一言いいたい――北新書局、とりわけ小説月報社――に言いたい。この訳の原稿は私が小説月報社に送ったものだから。
 梅川君のこの訳も昨夏休みの頃、私に送って来たもので、私に出版先を紹介して欲しいと言ってきたが、私は仲介人となるのが心配で、そのままにして置いたのだ。こうして放って置いた原稿は少なくない。十月になって小説月報が増刊しようとして私に寄稿を求めてきて、思いだしたのだが、日本二葉亭四迷の訳に基づいて、2-30個所改め、私の訳した「竪琴」と一緒に送った。その他にも「紅笑」が北新書局で苦労していたことは少しも知らなかった。梅川は、上海から7-8百里離れた田舎に住んでおり当然知らないだろう。
 では彼は鶴西氏の訳の原稿が北新に来た時、すぐ見た「可能性」はあるか?
私は無いと思う。彼は北新の内部に知人はいないし、もし北新の編集部に入って行って、原稿を見たというなら、それは盗作だけで済むことではない。私なら「可能」だが、私は昨春以後一度も編集部に行っていない。この点は北新の諸公の涼察を請う。
 ではなぜこの2冊の良い点が似ているのか?その訳本を見ていないし、誰の英訳に拠ったかも知らぬが、思うに、多分同じ英訳に拠ったので第二部は一部より訳し易いのだろう。この3人の英語のレベルは似たようなものだから、去年のは似ていて、鶴西氏たちの訳はまだ出ていないが、英語のレベルは大変進んでいて、一度改めたので、良い点が増えた。
 鶴西氏の訳はまだ出てないので、類似点は分からぬが、結局どんな具合か、もし互いにとても似ているなら、私は同じ原書から訳した為と思うし、とりわけ異とするに足りぬし、そんなに神経過敏になる必要もなく、ただ「疑い」のせいで人の非を責め、「世の中は不可思議なことが多く、多くの事は思いもよらぬ」理由によるから、まず人を制し、他の人が「盗作」したと誣告し、更には相手に「報復」しようとするのは、まさに「この世の事は不可思議なことばかり」となる。
 但し、本当に似ているのか?そうであれば、梅川が決して鶴西氏たちの訳稿を見た「可能性」がないことを証明しさえすれば「世の中は不可思議なことがある」という語法は使えず、嫌疑もどうやら後から出るこの本にあるようだ。
 北平の新聞を私は送っていないから、梅川は決して見ていない。私はまず少し書いて、印刷後に一緒に送る。多分これでじゅうぶんだろう、阿弥陀仏。
           4月20日
 上記の事を書いた後、次々に「華北新報」副刊に<「紅笑」のこと>の文が載り、その中に多くの不明な点と誤訳を挙げた後で、こう結論付けていた:
 『これ以外にも更にあるが、私たちは梅川君より間違いが少ないし、読みやすいと思う。良いかどうかは我々の訳が暫くしたら自ら証明してくれるだろう』
そうなれば、私が先に書いたことは余計なことになる。鶴西氏はすでに自ら彼と梅川の2冊の違いを証明した。彼の方が良いという、それなら「盗作」というのは皆「通じない」と間違いがあって良くない、というのは奇妙ではないか?
もし改訂したというなら、それは「盗作」ではない。鶴西訳が元々この様に「通じず」間違っていたらそれはとても刻薄なことで、それは「今日の自分が」「昨日の自分」の頬を殴るようなものではないか?要するに、<「紅笑」のこと>の長文はただ焦って自己宣伝し、先に出た訳文を参照し、訂正して他の人が「盗作」したと誣告するような工夫をしたにすぎぬ。この種のやり口は中国翻訳界で初めてだ。   4月24日補記
 これが「語絲」に載る前に、小説月報社から手紙が来て、中に「華北日報」副刊の切り抜きが有り、即ち、鶴西氏の<「紅笑」のこと>だ。北平から編集者に送られたものの由。思うにこれは多分作者の芝居だ。もし本当なら、蓋し、悪辣を免れぬ:同じ著作に何種もの訳があり、又なぜこんなに大騒ぎして上訴する必要があるのか。ただ、一方で人のは通じないが、自分のはよく通じ、人のは間違いだらけで、自分のは少ない、という。又一方で、人のは自分の物を盗作したものだと証明しようとするのは、その悪辣さは何ともおかしな事だ。
しかし私には、翻訳作品を紹介することは、今でも大変難しいと嘆じざるを得ぬ。すっきりとした形で答える為に、私はこれを「小説月報」の編集者に送り、本書に発表する義務と権利があると信じ、これを亦送ることにした。
          5月8日
訳者雑感:実に不可思議な「芝居」をすることで、読者の関心を引いて、自分の翻訳作品の方が、先の物より読みやすいと自己宣伝している悪辣極まりないやり口だ。 それをはっきりさせようとの魯迅の執念が窺える。
     2015/05/03記

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