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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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シュリーマンはトーマス・グラバーとは会っていないのではないか。

シュリーマンはトーマス・グラバーとは会っていないのではないか。
「トーマス・グラバー伝」を読んで

 以前、シュリーマンの「清国・日本旅行記」の中に、シュリーマンが触れている横浜のグラヴァー商会の友人たちのおかげで江戸行きの旅行証を入手したことと「ハノーヴァーの若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで好取引をつづけ、にわかに莫大な富を築きつつある』と記しているので、どうしてこう言う表現になったか、疑問であった。
彼は1865年の6月3日から7月4日までの1か月の間、6月10日には将軍家茂の京都行きの行列を見ているし、18-20日は八王子へ出かけ、24-29日に江戸に出かけている。その外はほぼ横浜周辺にいて長崎には行っていない。
ただ、彼は横浜でグラヴァー氏の庭をみて『私の若い友人のグラヴァー氏★の庭は、多くの棕梠、椿、針葉樹(松・杉・樅)等があつめられていて、際立っている。また彼の家具調度を見れば、主人の才能と趣味のよさ、そして彼が雇った日本人大工の腕前のほどが見てとれる。大工はグラヴァー氏の設計図どおりに作り上げたのだろう。というのも、日本には同じような家具が存在しないからである』と記し、訳者は★印の注にトーマス・グラヴァーの紹介をしており、長崎の有名なグラヴァー邸のできる前の庭の写真を添付している。
さて、アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳、中央公論社の「トーマス・グラバー伝」1997年版を読んで、幾つか気になった点を下記する。

1.23頁:「清国に在留していた英国人の中にグラバー一族の者が二名いた。
 広東にいた英帝国税関長ジョ―ジ・B・グラバーと、当時福州に繋留されていたジャーディン・マセソン商会の船長T・グラバーである。グラバー姓を名乗る二人のどちらかが、或いは両方がアバディーンのグラバー一家と何らかの形で親戚関係にあったと思われる。となるとトーマスの就職を決めた推薦状は、当時清国にいた一族の一員からか、それともおそらくジャーディン・マセソン商会に雇われていた人物からでたものではなかったろうか」とあり、日本に来る途中で、シュリーマンが彼等の内の関係者から日本にグラバーがいることを紹介されていた可能性はある。その紹介で横浜のグラヴァー商会の友人たちから江戸行きの旅行の手配を依頼したのであろう。この時点でグラバー本人に会っている可能性は(表現からの推定だが)低いといえる。
2.江戸行きの手配は24日以前にしてもらった訳だから、グラバーの立派な庭と家具調度のある家は、その手配の前で、八王子へ行った18-20日を除いた、
6月3日から7月4日の出発までの間に訪問したのだろう。その間に、トーマス・グラバーは横浜にいたかどうか、シュリーマンと会っていたかどうか?
3.101頁;ここで、英国公使の交代があり、「1865年春、グラバーの支援を得て、海外渡航を希望する二名の長州藩士が長崎入りした。(中略)
 そのころになると、日本では、ラザフォード・オールコックの後任のイギリス公使として、手ごわいサ―・ハリ―・パークスが近々着任することが周知のこととなった。パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
4.103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた」彼はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていたから、長崎にいたトーマス・グラバーがその直前に往復2週間かかる横浜行きをしたという可能性は極めて低い。シュリーマンの江戸行きの手配をしたのが、「グラヴァー商会の友人たち」で、彼ではないと推定されるから。

そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とあるからである。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。
5.結論:シュリーマンは横浜でトーマス・グラバーに会ってはいないと推定される。横浜で家具調度品を整えさせることのできた、M.グラヴァーが存在していた可能性が高い。ドイツ人のシュリーマンがハノーヴァーのリンゲン出自の男と会話したのは果たして何語だったのだろう?ドイツ語か英語か?記憶間違いするだろうか?
   2015/04/09記

 

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