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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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文芸と政治の分岐点

 文芸と政治の分岐点
 1927年 12月21日上海曁南大学での講演
 私はあまり講演しないのですが:今回は何回も頼まれたので、一度お話して、放免して貰おうと言う訳です。講演をしない理由の一つは何ら大した意見も無い為と、もう一つは先ほど先生からのお話のように、お集まりの皆さんの多くが、私の本を読んでおられるので、それ以上の事を何も話す事が出来ないからです。本の中の人物は大抵実物より少し良いのです。「紅楼夢」の人物、賈宝玉、林黛玉のような人物について、私はとても共感していたのですが、後に当時のことを調べてみて、北京に来てから梅蘭芳、姜妙香が演じる賈宝玉、林黛玉をみて、それほどいいとは感じなかったのです。
 私にはまとまった広大なテーマの話しはないし、すぐれた見解もありません。只近頃考えていることを話せるだけです。文芸と政治が衝突することでいつも感じるのは:文芸と革命は相反するものではなく、両者の間には現状に安心できぬという共通点があります。ただ政治は現状を維持しようとし、現状に不満な文芸は19世紀以後になって起こったもので、これもまだ短い歴史しかありません。政治家は人が彼の意見に反対するのを最も嫌うし、人が口を開くのを最も嫌います。以前の社会は確かにだれも何も考えなかったし、口を開こうともしなかったです。動物の猿をみると、彼らには彼等のボスがいて:ボスが彼等をこうしようとしたら、彼等はその通りにします。部落には酋長がいて、彼等は酋長に従い、酋長の命令が彼等の規範です。酋長が彼等に死をといえば、死ぬしかないのです。その頃は何の文芸も無く、あったとしても上帝を賛美するものしかなかった。(まだ後に出て来るようなGodという玄妙なものもなかった)そう言う所で自由な発想は持ち得たでしょうか?その後ある部落が別の部落を併呑して徐々に拡大し、所謂大国となり、更に多くの部落を併呑し:大国になると内部事情も複雑になり、いろいろ違う意見が出てきて、多くの問題が起こりました。この時文芸も起こり、政治とたえず衝突した:政治は現状を維持しそれを統一しようと考えるが、文芸は社会進化を促し、それを徐々に分離しようと考えた:文芸は社会を分裂させ、社会はそれによってはじめて進歩した。
文芸は政治家の眼中の釘なので、押し出されるのを免れぬ。外国の多くの文学家は、本国では立脚点を失い、率先して他国に亡命した。このやり方が「逃」である。逃れられぬと首を切られ、殺された:首を切るのが最良の方法で、もはや口を開けず何も考えられない。ロシアの多くの文学家はその結果、多くがシベリアに流刑された。
 文芸を講じる一派には、人生から離れよと唱え、月よ花よ、鳥よという文言を唱えたり(中国では多少又異なり、国粋的な道徳から、花よ月よも許さず、別の論も展開したが)或いは、「夢」を講じ、専ら将来の社会の事を講じ、卑近なことは講じなかった。この種の文学家は象牙の塔に身を置いたが、象牙の塔にも長くはいられなかった!象牙の塔もやはり人間社会にあるのですから、政治的圧迫を免れません。戦争になると逃げるしかありません。北京にはある一団の文人がいて、社会を描く文学家を見くだし、彼らが小説の中に車夫の生活まで描いておるので、小説は才子佳人の一首の詩によって愛情をはぐくむという定律を壊しているではないか?と。今では彼等も高尚な文学家になれず、やはり南方に逃れています。やはり象牙の塔の窓からパンを指し入れてくれる人はいなかったのです。
 こうした文学家が逃げ出すまでに、他の文学家は早くに殺されるものは殺され、逃げる者は逃げました。他の文学家は、現状には元から不満で、反対せざるを得ず、口を開かざるを得なかったが、「反対」「口を開く」や即座に末路となりました。私は文芸は大概、現在の生活からの感受、自ら感じたことを文芸に投影して行くのだと思います。ノルウエーのある文学家(Hamsun)は腹がぺこぺこになったことを書き、本にしました。彼は彼の経験をもとに書いたのです。人生での経験について、他の事は別として、「腹ペコ」ということは、良かったら一度試してみてください。2日ご飯を食わぬと、ご飯の香味は特別な誘惑となります:街の食堂の前を通ると、この香味は鼻にビーンときます。お金があれば、それを使って何とも無いですが:無くなると、一銭が大きな意味を持つのです。その腹ペコの状況を書いた本、その人は長い間腹ペコが続くと、道行く人が仇にみえてきた。たとえ単衣の服しか着てない相手でも彼の目にはおごっている様に見えるのです。私も以前こういう人物を描いたことがあり、身辺はすっからかんで、しょっちゅう引出しを探して、隅になにか無いか探し:道を歩く時もなにか落ちていないか探す:私自身も体験したことがあります。
 生活でかつて困窮したことのある人は、金持ちとなるとすぐ次のような2種類の反応を示すようになります:一つは理想世界で、同じ境遇の人の為に考え、人道主義的になります:もう一つは全て自分が稼いだ物として、以前の遭遇ガ彼を冷酷にさせ、個人主義者となる。我々中国人は大抵個人主義になる者が多い。人道主義を主張する人は、貧しい人の為になにか良い方法は無いか考え、現状を改善しようとするので、政治家の目からは個人主義の方が良いのです:だから人道主義者と政治家は衝突します。ロシアの文学家、トルストイは人道主義を唱え、戦争に反対し、3部の大作を書きました――それは「戦争と平和」で、彼は貴族ですが、戦場の生活を経験し、戦争がいかに悲惨かを感じた。とりわけ、彼は(防御用の)鉄板の後ろにいる長官の前に進むと、心を刺すような痛みを感じたのです。そして彼の友人たちが戦場で死んでゆくのを自分の目で見たのです。戦争の結果、2つの態度に変えます:一つは英雄になることで、他の人が死ぬものは死に、負傷するものは負傷し、彼だけが健全で残り、自分がいかに凄い存在か、こうして戦場で威雄を誇るのです。もう一つは戦争に反対するもので、世の中に再び戦争が起こらぬ事を望むのです。トルストイは後者で、無抵抗主義で戦争をなくそうと主張したのです。彼はこの主張で政府から煙たがられ:戦争反対はロシア皇帝の侵略欲と衝突し:無抵抗主義の主張は、兵士たちに皇帝の為に戦争をやめさせ:警官たちに皇帝の為に法を執行しなくさせ、裁判官に皇帝の為の裁判をやめさせ、皆が皇帝を支え無くさせるのです:皇帝は皆が支えないと、皇帝の体をなさず、更には政治とも衝突します。こう言う文学家の出現は、社会の現状への不満から、あれこれ批判し、社会の各個人も自分もそう感じ、不安になるから、当然首を切らねばならぬことになる。
 だが、文芸家の言葉は、やはり社会を代弁しているのです。彼の感覚は鋭敏なので、人より早く感じ、早く発言するに過ぎないのです。(時に早すぎて社会からも反対され、排斥もされますが)例えば、軍隊式の体操を学ぶと、捧げ銃の礼は、規則では「ささげ…つつ」というが、「つつ」が発声される瞬間にあげなければならぬのですが、一部の人は「ささげえ…」を聞くとあげ始め、命じる人は彼を罰し間違いを責めます。文芸家は社会において正にこう言う状況で:早すぎると皆が煙たがるのです。政治家は文学家は社会を乱す扇動者とみなし、心の中では殺せば社会は安定すると考えている。だが、文学家を殺しても、社会はやはり革命しようとし:ロシアの文学家で殺されたり流刑にされたものは少なくありません。革命の火焔は到るところで燃え上がっているではないか?文学家は大抵生前に社会の同情を得られず、一生滾滾としながら過ごし、死後4-50年して初めて社会の認識を得、皆が騒ぎ始めます。政治家はこの為、文学家を煙たがり、文学家を早くから大きな禍根だと考え:政治家は皆が考えることを許さず、その野蛮な時代はとうに過去のものになったと考えたがる。在席の諸兄がどう考えるか分かりませんが:私の推測ではきっと政治家とは異なるでしょう:政治家は永遠に文学家を彼等の統一を破壊しようとするものだと怪しみ、そういう偏見を持っているので、私はこれまで政治家と話しをしたくはありませんでした。
 後に、社会が遂に変動し:文芸科が先に発言したことを皆が段々思い出して、彼に賛成し、彼を先覚者だと尊敬し始めた。彼が発言した時は、社会からひやかされた。今、私が講演し始めた時、皆さんは拍手されたが、この拍手は私が大して偉大ではない表れで:その拍手というものは大変危険なもので、拍手をされると私は或いは自分は偉いのだと思い、それ以上前進しなくなるから、やはり拍手しないのがよいのです。先に申し上げたことは、文学家は感覚が少し鋭敏で、多くの感念を早く感じますが、社会はまだ感じないのです。例えば、今日、衣萍先生は皮の上着を着ていますが、私は綿の上着だけですが、衣萍先生は寒さに対して私より敏感なのです。もう一か月もすると多分私も皮の上着を着ないとダメだと感じ、気候に対する感覚で、一か月の差があると、思想上の感覚は3-40年の差になります。これを私はこの様に話しますが、きっと多くの文学家は反対でしょう。私は広東にいるとき、ある革命文学家を批判しました――現在の広東は革命文学でないと文学とみなされず「戦え、戦え、殺せ、殺せ、革命せよ、革命せよ」でないと革命文学と看做されない――私は革命は文学と同じひと塊にすることはできないと考えます。文学にも文学革命はありますが、文学はやはり少し閑が無いとできません。正に革命の最中に、文学をする閑がありましょう。少し考えてみましょう:生活が苦しい時に車を引きながら、その一方で「ありけりなけんや」など(文語の修辞)とてもできないでしょう。古人は田を耕し、詩を作った人もいたが、自ら耕したのではなく:誰かを雇って耕させたので、それで自分は詩を吟じることができたので:本当に田を耕していたら、詩を作ることはできないでしょう。革命の時も同じで:革命の最中にいつ詩をつくる閑がありましょうか?何名もの学生が陳烔明と戦った時、彼等は戦場にいて:彼等の手紙を読みましたが、彼等の字と言葉は、一便、一便バラバラになっていました。ロシア革命後、パンの切符を手に、一列に並んでパンを受け取りました:この時国家は貴方がどんな文学家、芸術家、彫刻家かなどお構い無く:皆はパンにありつこうと考えるだけで精一杯で、文学の事など考える閑が有りましょうか?
 この時、感覚鋭敏な文学家は、現状に対して不満を感じ、出てきて発言しようとします。それまでの文学家の言葉を、政治革命家はもともと賛同していたのですが:革命が成功すると、政治家はそれまで反対していたその人達の手法を再度利用し始めるので、文学家はやはり不満なので、またも排斥されるほかありません。或いは首を切られるしかありません。彼の首を着るのは前にお話ししたように最良の方法で――19世紀から今まで、世界の文芸の趨勢は大抵こんな具合なのです。
 19世紀以後の文芸と18世紀以前の文芸は大変違います。18世紀の英国小説は、その目的が夫人やお嬢さんたちのひま潰しで、愉快な風趣の話が主でした。19世紀の後半世紀は全く違って来て、人生の問題と密接な関係を持つようになりました。我々はそれを読んでゆくと、気分がすぐれなくなりますが、それでも読み続けます。これは以前の文芸とは全く別の社会のようで、以前はただ鑑賞すればよかったが:この文芸は我々自身の社会を描いており、我々自身をも描いており:小説の中に社会を見つけ、我々自身を発見し:それまでの文芸は対岸から火事を見ていたので切実な問題ではなかったが:今の文芸は自分もその中で焼けているから、自分自身も深く感じ:自分で感じると必ず社会に参加しよう! とします。
 19世紀は革命の時代と言えますが:所謂革命は現状に安んじず、現在の全てに不満を持ちます。文芸は古いものを徐々に消滅させるよう催促するのが革命で(古いものを消滅してこそ、新しいものが生まれます)文学家の命運は決して革命に参加したから同じように変わるということはなく、至る所で釘に打たれます。今、革命勢力は徐州まで来ており、徐州以北の文学家はもともとぐらついていましたが:徐州以南の文学家もぐらついています。たとえ共産となったとしても、文学家はぐらつき怪しい状況です。革命文学と革命家は畢竟まったく違うものです。軍閥がどれほどデタラメしているかを叱責するのは革命文学家で:軍閥を打倒するのは革命家です:孫伝芳(軍閥)が逃げ出したのは、革命家が大砲で爆撃したからで、文芸家が「孫伝芳よ!我々はお前を叩きのめす」というような文章を書いたからではありません。革命する時、文学家は皆夢を見ています。革命が成功したら世界が如何に素晴らしいものになるかと思いますが:革命後、現実はまったくそうではないのを見、そこで彼はまた苦しむのです。彼が又どのように叫んでも、成功しません:前に向かっても、後に向かっても、どうにもなりません。理想と現実は一致しないのです。これは定められた運命なのです:ちょうど皆さんが「吶喊」の中に見た魯迅と演壇上の魯迅と一致しないのと同じです。皆さんは或いは私が洋服を着て、髪もわけていると思っていたでしょうが、洋服でもないし、髪もこんな短いのです。だから革命文学家を自任するのは、革命文学家ではありません。この世の中で現状に満足する革命文学があるでしょうか?麻酔薬でも飲まない限りあり得ません!ソヴィエトロシア革命前、二人の文学家がいました。エセーニンとソーボリで、彼等は革命を謳歌しましたが、後にやはり自分の謳歌した希望の現実の石碑にぶつかって死んだのですが、このときはじめてソ連ができたのです!
 だが社会は非常に寂莫なので、こう言う人達がいてはじめて面白いと思うのです。人類は戯劇をみるのが好きです。文学家も自ら戯劇を演じて人に見せ、あるいは、縛られて刑場で斬首にされるか、最近は壁の下で銃殺されますが、いずれも皆は大騒ぎします。昨今の上海の警察は警棒で叩きますが、皆はそれを囲んで見ます。彼等は自分が叩かれたくないが、人が殴られるのを見るのを楽しみます。文学家は自分の皮と肉でもって叩かれるのです!
 今日話しましたのはこんなところです。題は……「文芸と政治の分岐点」としましょう。

訳者雑感:
この日魯迅は伝統的な中国文人の着物を着ていたのだろう。彼はスタイリストで、学生時代の学生服とかは別として、大人になってから撮った写真は普段着の毛糸のセーター・カーデガンの類の他は殆どが伝統的な着物だ。日本の作家も明治大正時代は、書斎では和服が多いし、そのほうがくつろげるだろうが、大学で学生たちに何か講演する時は、洋服にネクタイというのが決まりだったのだろう。魯迅は「藤野先生」の中で、先生がネクタイを付けず汽車に乗り、スリと間違われたとの寓話をいれているほどだ。しかし、他の写真では彼がカラ―のシャツに蝶ネクタイ、そして口に立派なひげを蓄えている。
閑話休題、本編は文学と政治(革命)の分かれ道、分岐点を描いている。文学家は19世紀後半以降、現実に直面し、そこから感じ取る不満を鋭敏な感覚で一般の人より早く気付き、文章にするが、一般の人はその時は「何を言っているか」と取り合わず、何十年かたって、ああかれが書いていた通りだと気づく。
 そしてそれを精神的なよりどころとして行動にうつす。それが革命につながるかどうか、それは文芸ではなくやはり大砲による砲撃でなければ革命は成功しない。毛沢東のいう「銃口から政権が生まれる」だ。誰かが毛沢東に尋ねた。
もし革命成功後の中国に魯迅が生きていたら、どうだったろうか?と。
毛沢東は「きっと彼は毛沢東のやることを大いに批判するだろう」という趣旨のことを述べている。この講演はそれを示唆している。
    2015/04/22記

 

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