魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
孫中山先生逝去1周年 (1926年)
中山先生の逝去後、何年経とうが本来なんらそれを記念する文章は必要ない。かつて無かった中華民国が存在する限り、それが彼の不滅の碑で、彼の記念だからだ。
民国国民となって、誰が民国を創造した戦士で第一人者を知らないだろうか。しかし我々の大多数の国民は特に沈静で、本当に喜怒哀楽を形や色に出さないし、彼らは熱力や熱情を吐露することはない!それゆえに、しっかり記念せねばならぬ:当時の革命が如何に艱難であったかを目の当たりにできるよう、もっとはっきりとこの記念の意義を増大するのだ。
去年逝去後、まだ時間が経っていないのに、数人の論客は水を差すようなことを口にした。中華民国を憎悪しているのか、所謂「賢者を責める」のか、自分の聡明さをひけらかそうとするのか、私にはわけが分からぬ。しかし何であれ中山先生の一生の歴史ははっきりしており、立ち上がったことは、正しく革命で、失敗したのも革命だ。中華民国成立後も満足せず、安逸せず、依然として完全な革命に近づけるべく工作を続けた。臨終の直前彼は言った:革命なお未だ成功せず、同志一層努力すべし。
当時新聞に連載あり、彼の生涯の革命事業に劣らず、私を非常に感動させたのは、西洋医になることにすでに手を束ねていた時のこと、ある人が漢方薬を服用するように主張したが、中山先生は賛成せず、中国の薬はもとより効力はあるが、診断の知識が欠如していると考えていたとの由。診断できなくてどのように薬を服用するか?服用すべきではない。人は瀕死の危険が迫っている時は、たいてい何でも試そうとするが、彼は自分の命に対し、このように明白な理智と堅い意志を持っていたという事を聞いた。
彼は全人的に永遠の革命家だ。彼の行ったことは何であれすべて革命である。後の人が如何にアラ探しをし、粗末に扱おうとも、彼のすべてが革命なのだ。
なぜか?トロツキーはかつて革命芸術は何かを説明した。それは:たとえ主題が革命を論じていなくても、革命から発生する新事物が内蔵する意義が一貫しているものである:そうでなければ、たとえ革命が主題であっても革命芸術ではない。中山先生逝去後、すでに1年経ったが、「革命なお未だ成功せず」で僅かにこのような環境の中で記念するのみ。しかし、この記念で顕示されるのも、やはりついには永遠に新しい革命者と共に前進し、共に努力して完全な革命に近づける工作にまい進するのだ。
3月10日
訳者雑感:孫文を記念するものは北京から南京、広東、日本の神戸まで世界にいくつあるだろう? 1911年の辛亥革命が起こってから彼は国外から中国に飛んで帰ってきた。何回もの失敗で国内に身を置けなくなり、亡命者的な立場から、国外の支援者の資金面・精神面の協力を勝ち取る工作を続けてきた。しかし革命で清朝は倒したが、その後死ぬまでの15年間、ほとんど袁世凱ほか皇帝になろうとする連中の手に政権の中枢を握られ、まさに「革命なお未だ成功せず」で生を終えた。
彼のあだ名は「孫大砲」で、大きな音声で大切なことを叫んだが、魯迅の指摘するように「多くの沈静」な国民から熱情込めた支援も得られなかった。その後の政権闘争でも彼は「共産的思考」に偏っているとして、産業界商業界からの支持を得られなかったようだ。
彼を記念する大規模な中山陵と多くの記念堂やは各地にあるが、現在の大陸に暮らす人々で孫文を尊敬すると公言する人はあまりいない。周恩来や鄧小平は尊敬するが、今や毛沢東の巨大な金色の座像も、それを作りたいと思っていた人たちが建てたものが、あっという間に撤去されたことが示唆するように、何千万もの人を死なせた彼を尊敬する人も急激に減少しているのが現実だろう。
孫文の夫人だった宋慶玲が死去した時、彼女の意志で遺体は孫文の隣に埋葬しないで欲しい、とラジオで報じていたのが耳に残る。
2016/01/12記
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