魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
「近代木刻選集」序文
中国の古人が発明、現在も使っている爆竹と風水を見るための火薬と羅針盤は欧州に伝わる、彼等は銃砲と航海に利用し、もとの師匠に大きな苦しみを与えた。更には小さなことだが、害を及ぼさぬため殆ど忘れられている物がある。それは木刻だ。
十分な確証はないが、欧州の木刻は何人かの人が昔中国から学んだと言い、14世紀初頭、すなわち1320年頃だ。先駆者は多分きわめて粗い木版画を印刷した花札だ:この種の花札を我々は今田舎で目にすることができる。しかしこの博徒の道具は欧州大陸に入り、彼らの文明利器の印刷術の祖師となった。
木版画は多分こうして伝わり:15世紀初めにはドイツにすでに木版聖母像があり、原画はなおベルギーのブリュッセルの博物館にあるが、これまでそれ以前の印本は見つかっていない。16世紀初め、木刻の大家Durer(uはウムラウト)とHolbeinが出た。Durerは特に有名で、後世殆どが彼を木版画の始祖としている。17-8世紀になると、皆彼らの波と流れに沿っていった。
木版画の使われ方は単なる版画の他に、書籍の挿絵になった。その後、巧緻な銅版技術が起こり、突然衰退したのも正に必然の流れだった。只英国は銅板の輸入が少し遅れ、旧法を保存し、またそうすることを義務であり光栄と考えた。1771年、初めて木口彫刻(堅い面を使って精緻な作品を作れる)を用いだし、すなわち所謂「白線彫版法」として登場し、それはBewickだ。この新法は
欧州大陸に入り、木刻復興の動機となった。
しかし精巧な彫刻は後に徐々に別の版式の模倣に偏り、水彩画やエッチング、スクリーンや写真を木面に写して繍彫し、技術はもとより大変精熟したが、復刻木版となった。19世紀中葉についに大きな変転が起き、創作的木刻が興った。
所謂創作的木刻者は、模倣や復刻をせず、作者は小刀を手に木に向かい直接刻む――宋人で多分蘇軾と思うが(杜甫が正しい:出版社注)人に梅の画をと依頼する詩に言う:「私の手元に一匹の良い東絹がある。君、筆をとって直接描いてくれたまえ!」この小刀を手に直接彫るのは創作版画がしなければならぬことで、木で紙や布の代わりとする。中国の刻図は絵画と異なり、所謂「彩色」といえどもとうに足元にも及ばず、その精神は唯鉄筆で印章を刻すのがこれに近いようだ。
創作のため、優雅な技巧は人により異なり、複製の木刻から離れて、純正な芸術となり、今の画家の大半は殆ど試作している。
ここで紹介したのはすべて現在の作家の作品だが:これらの枚数だけでは色んな作風を見られないので、事情が許せば追って取り入れよう。木刻の帰国は他の2種のように元の師匠を苦しめることに至らないと思う。
1929年1月20日 上海にて 魯迅記
訳者雑感:
魯迅は欧州から(一部日本のも)木版画の導入に非常に熱心であった。彼自身も木版画とか挿絵を描くのと見るのが子供のころから大好きだった。
火薬と羅針盤を発明した中国は爆竹と風水の占いに使ったが、銃砲とか航海には西洋のようには科学的に使わなかった。その結果、アヘン戦争以来銃砲と羅針盤の艦隊に苦しむことになった。
一方、花札に使っていた木刻は欧州に渡って大きく発展した。これの帰国は魯迅にとって、中国にとって大変有意義で、2種のように中国を苦しめることはない、というのは面白い指摘だ。
2016/01/27記
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