魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
文芸の大衆化
文芸はもともと少数の優秀な人だけが観賞できるというものではない。少数の先天的低能者だけが観賞できないものだ。
作品が高級になるほど、知音者は少ないというなら推論すると、誰も理解できぬものが世界の絶品となる。
但し、読者もそれなりの情感を持たねばならない。まず識字で、次は一般的な大まかな知識と思想と情感で、たいていは相当な水準を持たねばならない。そうでないと文芸とは関係が発生しない。文芸が何か手立てを講じて、おもねったりしたら、すぐ大衆迎合で媚びる方向に流れる。迎合と媚びは大衆に有益とはならない。――何が「有益」かについては本題の範囲外ゆえ今は論じない。
従って、現今の教育不平等社会ではいろいろ難易の異なる文芸を持ち、それで色んなレベルの読者の求めに応じるべきだ。だが大衆のことを想定した作家が多くいて、できるだけ分かりやすい作品を書き、皆がよくわかり、読みたくなるようにさせ、それで一部の陳腐なものを排除すべきだ。但し、ことばのレベルは劇本のような程度が良い。
現在は大衆に文芸観賞のできるような時代の準備の期間だから、私はただそれくらいしかできないと思う。
今すべてを大衆化しようとするなら、それは空談にすぎない。大多数の人は文字を識らない:現在通用している口語文も皆よくわかるものでもない:言語が不統一だから、方言を使うと多くの字は書けないし、別の字で代用すると、一部の所でしかわからず、閲読の範囲は却って狭くなる。
要するに、多く作品を出し、また一定程度大衆化した文芸を書くことはもとより現今の急務である。もし大規模な手立てを講じるなら、政治方面の協力が必須で、一本の足では道を作れない。多くの人をひきつけるものを書く、というのも文人の聊か以て自ら慰めるにすぎない。
1930年3月の「大衆文芸」に掲載
訳者雑感:日本でも文芸の大衆化は1900年初頭の大きな問題で、漱石なども江戸時代の芝居や落語の話し言葉を、文章化していった。1930年ころの中国でも大衆化という点で、魯迅も「劇本」のレベルを想定しているが、これは漱石などの言葉が彼の頭に残っていたのだろう。
2016/01/28記
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