忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

空談

1.
 これまで請願がいい事とは思って来なかった。しかしそれは決して318日のような惨殺を心配していたからではなかった。あのような惨殺は、全く思いもしなかった。私はこれまで「刀筆吏(法廷役人)」の目で中国人を見てきたが、彼らが麻痺して良心を無くしたのを知った。ともに語るに足らず、単なる請願、しかも徒手の相手に、こんな陰毒と凶暴に至るとは思っても見なかった。事前に知っていたのは多分段祺瑞、賈徳耀、章士釗と彼らの同類だけだろう。47人の男女青年は完全に騙され、死へ誘い込まれたと言ってよい。
 ある連中は――何と呼ぶべきか思いつかぬが:群衆の領袖は道義上の責任を負わねばならぬ、と言った。この手合いは徒手の群衆に向かって発砲すべきで、
執政府前は「死地」で、死者は自ら網にかかったと考えているようだ。群衆の領袖はもともと段祺瑞等と気脈を通じているわけでなく、グルでもない。どうしてこんな陰険な毒手を予測できようか。こんな毒手は少しでも人間性を持ち合わせていれば、万が一にも思い到らないものだ。
 もし段祺瑞のあやまちを挙げるなら2点:一は請願が有効だと考え:二は相手を余りにも甘く見すぎたこと。
2.
 只、以上は事後の話。この事の発生前、誰もこんな惨劇が演じられようなど思ってもいなかった。せいぜい例に依って徒労に終わるのが関の山、と。
だが、学のある聡明な人間だけが事前に請願が死地に赴くのを自認するものだと予測していたのである。
 陳源教授の「閑話」に:我々は女志士諸君に以後は群衆運動にあまり参加せぬよう勧告しようとしたが、彼女らはきっと我々が彼女らを軽視していると反論してくるので、余計な口出しはしないでいた。しかし未成年の男女児童は、以後どんな運動にも参加せぬよう望まずにはいられない」(「現代評論」68
どうしてだろうか?各種運動に参加したために、今回のような「銃弾の雨の危険を冒し、死傷の苦を舐める」ことになったからである。
 今回47もの命で購ったのはたった一つの見識のみ。執政府前は「銃弾の雨」
の場で、死にに行くようなもの。成人した人間で自分で望む者のみが許される。
 「女志士」と「未成年男女児童」が学校の運動会に参加するのはさしたる危険は無いと思った。「銃弾の雨」の中を請願に行くのは、青年男子諸君も以後
絶対にしないよう、しっかり覚えておいて欲しい。
 今どんな状態かというと、数篇の詩文と話のネタが増えただけ。数名の名士と当局が埋葬地を相談中で、大請願が小請願に改められた。埋葬は当然で在り妥当なことだが、奇怪なのはこの47名の死者は、老いて死んだものの埋葬地が無いので、なんとか公有地をひねり出そうとしているかのようだ。万生園はとても近いが、四烈士の墳には三つの墓碑に一字も刻まれていない。円明園は遠い。
死者がもし生き残った人の心に埋められなければ、それはもう本当に死んでしまったのだ。
3.
 改革は勿論流血を免れぬが、流血が即改革には結びつかない。血の応用はお金と同じで、ケチってはだめだが、浪費も大きな間違いだ。今回の犠牲者に対し、痛切なる哀傷を感じる。
 但し、こんな請願は爾後止めるがよい。
請願はどの国にもあるが、死に至ることはない。「銃弾の雨」を消除できぬ限り、
中国は例外であることを知った。正規の戦法は相手が英雄の時に用いるべきで、
漢末は人心も相当古風と思われているが、小説(三国演義)の典故の引用するのを許してもらうならなら:許褚は裸で陣に臨み、何本もの矢に当たった。それを(清の評者)金聖嘆は笑って:「誰が裸で行けと命じた?」と述べた。
 現在のようにおびただしい火器が発明された時代、戦は塹壕を使う。これは決して命をケチるのではなく、無駄死にさせぬためで、戦士の命は尊いからだ。
戦士が少ないところではより尊い。貴いと言うのは「家の中に珍蔵」せよということではない。僅かな元手で最大の利息を稼げということで、少なくも売り買いに値せねばならぬ。多くの人の血の流れで一人の敵を淹死させよ、とか、
同胞の死体で穴を埋めで進めなど、陳腐な話だ。最新の戦術から見れば、大変な損失。今回の死者が後の者に残した功徳は、多くの(悪い)連中の人相をあばきだし、思ってもみなかった陰険な腹を暴露させ、戦いの後継者に他の方法で戦うよう教えてくれたことだ。    42
訳者雑感:
 中国の志士たちの純粋な気持ちには、誇張されたスローガンというか、伝統的な劇(昆劇、京劇など)のセリフのようでなくちゃならぬ、という「美」学
がめんめんと受け継がれている。日本では切腹というのが武士の美学だが、例えば「覇王別姫」で虞美人は項羽の前で、項羽の剣を奪って、自ら首を刎ねる。
それが、意味することを観客は、それぞれの人生経験からふり返って考える。
 英雄の捲土重来を願って、重荷になるのを自ら断つ。日本の戦国時代の落城にも、何人もの女たちが自刃した。愛する殿のためである。
 今回の請願で銃弾の雨に惨殺された47の命は、当時誰も想像すらしなかったことだが、請願が政府転覆を企てる動きに発展することを懼れた段政府の予防戦法だったのだ。ここでも「血の海で敵を淹死させよ」とか「同胞の死体で、穴を平らに埋めて進め!」といった冒険主義的勇ましさをスローガンとして、
掲げてきた、「歴史劇」の中のセリフ通りにやろうとする、「劇」に範をとることが、一番安心できると錯覚させる中国の伝統が見られる。
 日本でも、義経を逃すべく、単騎敵の矢玉を受ける弁慶は英雄視されるが、
それを真似ようという人間は、中国ほど多くは無いようだ。
   2010/11/22

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R