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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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海上通信

 小峰兄:     
 数日前、貴信拝受。担当の仕事終了に忙殺され、返信おくれました。
今乗船しアモイを離れました。航海中だがどこの海か知りません。要するに、一面は大海原、片方に島嶼が見える。風波は無く、長江の船上と同じ。小さな揺れはあるが、海上では揺れとも言えぬ。陸の風波の方がよほど険悪です。
 同室の台湾人はアモイ語で話しかけるが分からない。私の訛りのある北京官話は彼には通じぬ。日本語は少し話すが、彼の言う事はよく分からぬ。それで筆談。彼は絹商人だとわかったが、私は絹について何も知らぬが、彼は絹以外なんの話も無い。それで彼は寝るしか無く、私は電灯を占有し手紙を書く。
 本来先月から材料を集め、冬休みに「唐宋伝奇集」の後記を書いて印刷しようとしたが、はからずも延引となった。「野草」もこのあと書くかどうか難しい。
多分もう書かないでしょう。
 人から勝手に知己といわれ、皮をなめて骨を論じるとか、「人の心にしみいる」とかもう言われたくないから。しかし印刷に回すとなると細かいところまで見直し、誤字を正さねばならない。結構手間がかかります。それで多分寄稿できないと思います。
 先月分の給与を待って、その後船待ちをしたので15日にやっと乗船できました。最後の1週間は実に苦労しましたが、新たな世故にも長けました。何かというと、以前は飯にありつくのに苦労しましたが、今回は飯はいらないというのもまた難儀なことが分かりました。辞職は病のためと言ったのです。というのもいかなる暴君もひとの病は止められぬと思った次第。もしもそれが人事不省の病でなければ、迷惑をかけるとは思いもよらなかった。ところが一部の青年はそれを信用しないで、送別会を開き演説や記念写真を取る、という。
度がすぎたようなので私も穏当でないと思い、いろいろ説明し、私のかぶっているのは「紙の偽の冠」だから、惜別しないで欲しい、記念などしないで欲しいと頼んだ。だがどうしたわけか学校改良運動が起こり、まずは校長に対して、
大学秘書長劉樹杞博士の罷免要求を提出した。
 3年前にも似たような事があり、その時は学生の完敗で、上海に大夏大学というのを作った。その時の校長がどう自衛したかは知らない:今回の私の辞職は劉博士とは無関係で、胡適派と魯迅派の排斥合戦の結果、去るのだという。このことはコロンスの日報「民鐘」に載ったのですが、すぐ反論しておきました。だが数名の同僚はとても緊張が高まり、会を開いて質問状を出した。校長の回答はしれっとしたもので:そんな事はない、というのみ。それである人たちは納得せず、別の流言を撒き散らして「排斥合戦説」の勢力を弱めようとしました。まさに「天下は紛々と乱れ、いつ定まるや」です。もし私がそのままアモイ大学で飯を得ていたら、こうしたことにはならなかったでしょうが、全く想定外でした。
 校長の林文慶博士は英国籍中国人で、口を開けば孔子、孔子で、以前孔子の教えの本を書いたそうですが、名前は忘れました。英文の自伝もあり商務印書館で出版予定とか。今現在「人種問題」を執筆中と。彼は私には実に丁重で、数回御馳走してくれ:餞別の宴も2回。しかし今「排斥説」は下火になったが、一昨日聞いた話は、彼は「私がアモイに来たのはひっかきまわすためで、授業をするためではないから、北京のポストも辞任していない」と宣伝している由。
 今回私は北京には行かないからこの「ポスト」説も下火になることでしょう。
次はどんな新説が出る事やら。 だがもう船上にいるから分かりません。私の予測では罪状は日増しに重くなるでしょう。中国ではこれまで「表ではあいそよく、裏では嘲笑する」手あいが多かったし、実にこれは「新時代」の青年だけの現象でもないのだから。当人の前では「我師」「先生」だが、背後では毒薬と暗闇から矢を射る、というのはもう両三度ならず教わりました。
 直近でも私の集美学校に対する罪状を聞きました。アモイ大学と集美学校は秘密の世界で、部外者にはよく分かりません。今、校長に対し騒ぎが起きています。以前校長の葉淵は(アモイ大学の)国学院の教師を招いて話をさせようとしました。6組に分け、11組、凡そ2人。第1回は私と林語堂。招聘方法も大変丁重で、前夜に秘書が打ち合わせに来る。この人と話したら、校長は、学生はひたすら読書に没頭すべし、との考えの由。私は世事にも関心を向けるべしと言い、校長の尊意と反するので、行かぬ方が良いと思うと言った。
だが彼は、それは妨げにならぬという。そう言ってもらって結構だと。それで翌日出かけたら、校長は実に冷静沈着で慇懃に食事を勧めてくれた。食べながら先に話をさせてくれればよいと思った。聞いてもし嫌なら食事に招かなくても済む。食事をしてしまってからでは、もし話にまずい点があると、罪状を重くするだけだから、どうすれば良いだろう。
午後講演し、私の話は例の通りで、聡明な人は物事をうまくこなせない。いろいろ考えた挙句、何もうまくやり遂げることはできない、という話。
その時校長は後にいて私には見えなかった。数日前、この葉淵校長も集美学校騒動はすべて私のせいだと言うのを聞いた。青年に向かってなぜ人はいろいろ考える必要は無いというのか、と。そのあたりを話した時、彼は後ろで頭を横に振っていた由。
 私の処世は、自分でも控えめすぎると思う。
 人が新聞を発行する時、自分からは寄稿しようとはせず、人が会を開く時は自ら演説には出向かない。どうしてもやれというなら、もちろんやぶさかではないが、私が話したいことを話すに任せてもらえねば一声も出せない死屍と同じだ。だがここで何か話せ、しかも校長の意に沿うべし、という。私はその当人でもないから、その人の考えをどうして知ることができようか。「先方の意を受け、志を承る」式の妙法も学んだことが無い。それだから、頭を横にされたのも当然だろう。
 去年から私(の運)は急に悪くなりました。或いは進歩かもしれません。いろんな人から攻撃され、刺されたりしたけど、傷は負わなかったようで、もう痛みもありません。更に罪状を着せられようとも何も苦しくない。数え切れないほどの古いのや新しい世故に長けた後に、これを獲得したのです。既に私は余り余計なことに関わりを持たぬようにし、控えめからもうこれ以上退避不可能な所から、進み出て彼らと衝突し、彼らを蔑視し、彼らの蔑視を蔑視するのです。
 この辺で閣筆。海上の月は皓々とし、波は大きな銀鱗を映し、キラキラ閃きながら揺れています:そして碧玉のごとき海水は、とてもおだやかです。こんな海が人を淹死させるとは信じられません。が、安心下さい:冗談です。私が身投げするなど御心配無用。これっぽっちもそんなつもりは無いのだから。
      魯迅 116日 海上。
(訳者注:これにて魯迅が言うところの坊さんには良いが一般人にはどうも、という坊さんの傘、「華蓋」集 含む続、続々 完)
 
訳者雑感:2003年の春節にアモイを尋ね、自動車の無いコロンス島や、鄭成功の遺跡、李鴻章の据えた世界一のクルップの大砲を見て回った。信徒たちの焼香する1メートル以上もある巨大線香の白煙の立ちこめる南普陀寺を参拝した後、その近くにアモイ大学があり、校門の脇の案内板に魯迅を記念した建物があったように記憶する。中に入る許可もないし、時間も無かったから入らなかった。
 しかし、今この文章を読むと、アモイのひとびとはこの大学と集美学校を創設したシンガポールのゴム王、陳嘉庚(タン、カーキー)に対して済まなく感じることだろう。
1921年に設立され、魯迅の赴任した26年の3年前にも学園騒動で上海に別の大学を作るようなはめになった由。
 陳氏は孫文を熱烈に支援したが、蒋介石には反対した。内戦で中国人同士が攻撃し合うのを、南洋にいてもっとも心を痛めたことであろう。魯迅の思惑も2年の予定で、2冊の本をこの学校の資金で出したいと考えていたくらいだから、長居はするつもりも無かった。だがそれにしても僅か4ヶ月で逃げ出すような形で終ってしまうとは、陳氏が選んだのか或いは人の推薦を承諾したのかは知らないが、当時 租界地であったアモイに作った「私立大学」に北京などから魯迅や林語堂の講義を聞こうと集まって来た「学生」の期待を裏切ることになってしまった。胡適派との排斥合戦、というのはコロンスの新聞が書いたものだが、校長などが流さない限り、そんな内部事情は外には出ないものだろう。後に蒋介石政府と行動を共にする胡適と、それに反対する魯迅を、蒋介石に反対する陳氏が排斥を許してしまったという構図になる。
ちなみに、胡適の適とは彼が自分で後から付けた名で、進化論の「適者生存」
Survival of the Fittestというスペンサーの考えから取ったもので、実存主義者の彼は、清末民国初めの混乱した社会で「Fittest」として生存競争に勝とうとしたのであろう。中国の文人、読書人の伝統として、政治に関与し続け、政治的な力と常に一緒にいなければならぬ、と考えたのだろうが、選んだ相手が
失脚すれば、自身も適者たることを失ってしまい、影響力も減衰してしまう。
郭沫若などもこの点があることは否めない。
 訳者は陳氏の創設したシンガポールの南洋大学に2年ほどお世話になった。
だが、それも今やシンガポール大学と一緒になり、陳氏の付けた南洋華人の名も、シンガポールから無くなってしまった。嗚呼。 
    2011/01/24
 
 
 
 
 

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アモイ通信3

 小峰兄:
 27日に送った原稿2篇は着きましたか。この種のものは本来書いても書かなくてもよいのだが、当地の青年たちが何か書けというし、他に何も書くことの無いのに苦しみ、何枚か書いて送った次第。当地にも何かアモイを批評するものを書けと言う人がいるが、今まで一行も書いてない。言葉も通じず、いろんな仔細を知らぬから、どこから書いてよいのかも分からぬ。例えば当地の新聞は先日来、連日のように「黄仲訓が公有地を占有」との見出しで書き立てたが、黄仲訓がどんな人物で、経緯も知らぬので、もし批評したら、本物の批評家が笑い転げるでしょう。他人が批評するのを妨げはしません。私が他人の批評を許さないというのは誣告です。私にそんな権力はありません。しかし私に編集させるなら、良くないと思ったら載せないし、実際、訳も分からぬ何とか運動の傀儡になる気はさらさらありません。
 数日前、(学生の)卓治君が目をギョロっとさせて、人が根拠も無く貴方を罵ったら、反駁して罵り返すべきだ、という。また多くの人が貴方の書いたものを読みたがっているから、黙っていてはだめだ。彼らが迷って仕舞う、貴方はもう自分ひとりのものではない、と。それを聞いて、ぶるっと震えが来ました。
以前、ある人が青年たちに、私のように古文を沢山読めと説教していた時と同じくらいに震えました。
嗚呼、一度紙製の冠をかぶると、公のものになり、援助する義務を負い、必ず反論してすぐ罵しり返さねばならぬ。もしそうであれば、一刻も早くそんなものは脱いでしまって、自由を取り戻すにしかず、です。
貴方はどう思いますか。
 今日もぞくっとする事件にあいました。アモイ大学の職務は病と称して、辞職しました。何もやれぬなら逃げるに如かず、です。しかし多くの学生が、せっかくアモイ大学改革のニュースを見てやってきたのに、半年もせぬ内に、今日はこの人、明日はあの人と去り、どうすれば良いのかと訴えてきます。これには私も実に困り果て、何も言えないのです。「思想界の権威者」或いは「思想界の先駆者」という、紙を糊でつけただけの冠が、あにはからんやかくも多くの人の子弟を誤らせたのか。数回の広告が、(私が載せたのではないが)彼らを他の学校から騙して来させたのに、結果として自分の方が逃げてしまう。
まことに申し訳ないことです。北京でもっと早く黒幕的な記事を書いて、学生たちを引きとめる人がいなかったことを悔やみます。
「面談の時はあいそがいいが、顔が見えない所では、攻撃する」式哲学は時に人の子弟を誤らせるようだ。
 細かい事情は多分御存じないでしょうが、私の最初の考えでは、確かにここに2年いて、授業以外に以前集めた「漢画象考」と「古小説鈎沈」を出そうと思っていた。この2冊の本は自分では出せないし、貴方に出してくれとも言えない。買う人は大変少ないし、当然コスト割れだから。資金のある学校しか出せない。だがここに来てこの状況からみて、「漢画象考」を出す望みも消え、自ら年限を1年に縮めた。もう去っても良いと思っていたのだが、林語堂の勤勉さと、故郷のために何かしようとする熱意のために口に出せなかった。その後
予算もあやふやになったが、語堂が頑張って校長が言うには、原稿を持ってくれば即印刷するとの由。さっそく持って行き、十分間程目の前に置いただけで持ち帰って来た。それ以後何の音沙汰も無い。結果は、ただ私の手元には原稿が確かにあり、ペテンでは無いと証明したに過ぎぬ。そのとき「古小説鈎沈」を出す望みも消えてなくなった。年限も半年に縮めた。語堂は校務と授業以外に闇討ち騙し討ちを防がねばならぬし、自分の関係無いことに心身ともに疲れ果て、まったく冤罪を着せられたようだ。
 一昨日の会議で、国学院の週刊(発行物)もほぼ廃刊になったのだが:校長の考えでは理科の主任のような人間を顧問にし、互いの気持ちを通じさせようとのことらしい。アモイの風習が理解できない。なぜ国学研究が理科主任の気分を害したのか。そして顧問と言う縄で彼を絡ませなければならぬのか。気持ちを通じ合わせる法は、研究したことも無いが:(同僚の)兼士も辞めたから私も辞めることにした。
 休暇まであと3週間あり、本来休んでも構わないが、ここでは教職員の給与について細かいことを言い、学校を10日ほど休むとその分を引こうとするので、休暇中の給料をもらおうとは思わぬから、今日までとし1カ月分引けばよいと思う。昨日もう試験も出題した。採点は翌月だが一銭も貰わない。見終わったら出発するから、もう刊行物は送らないでください。次の住所が決まったら連絡しますからそちらに送ってください。
 最後に例により天気について。例にといっても私のことだから批評家が私に天下の青年に対して、みな私の例のように、というのを強制しようとしていると非難すると面倒だから、決してそうではないと付言します。
 気温は確かに寒くなり、草木も前より黄葉したが、門前の秋葵のような黄色い花はまだ咲いていて、山里には石榴花もある。ハエは見かけなくなったが、蚊はときたま出る。夜も更けたのでお休み。 
    魯迅 1231
P.S. 又目が醒めた。拍子木の柝で五更と知る。学校の新業務が先月から増えて
夜回りも一人じゃない。聞いていて、夫々の鳴らし方が違う。はっきり2種あるのが分かる。
 ちょん ちょん ちょん ちょちょん!
 ちょん ちょん ちょちょん ちょん!
時を告げる柝の打ち方も流派があるのを知らなかった。
それをニュースとして併せ報告します。
 
訳者雑感:
 魯迅や林語堂たちのような著名な文人が、アモイ大学の改革のための「客寄せパンダ」の如く、1926年前後にたくさん集まって来た。魯迅の日記にも同年
98日に「顧頡剛(クーチエカン)より宋濂の「諸子弁」一冊贈らる」とある。
魯迅着任当時は、互いに行き来し合い、林たちを盛りたてて行こうとしたのであろう。だが、それはその後、本文に見られるようにもはや何もやることのないまでにあいそ尽かしをして、4か月で逃げ出すはめになる。
顧頡剛は「古史弁」を発表して、当時有名な歴史学者で、且つ胡適とも親交があった。次の「海上通信」に触れるように、胡適派と魯迅派の争いと外部からはとらえられているが、実際はどうだったろうか。中国の諺に「文人相軽んず」「文章は自分のが良い、女房は人のが良い」という。
 デユーイの実存哲学をベースとする胡適と魯迅の考えは折り合う事はなかったであろう。胡適は駐米大使も務め、新中国建国後は米国に亡命後、台湾に逃れた。
 1926年当時の混乱した中国にあって、多数派、実権に近かったのは胡適の方であったろう。学歴の高い「学者」たちにとって、厳しい批判をぶつけてくる
「学者でもない」辛辣な論客魯迅は煙たかったに違いない。それで所謂「学者」
たちに村八分のようにされて、追い出された形であろう。
 中国の文人たちの党派闘争の長い伝統は、いつもあいまいで尻切れトンボで
論戦を終結させてしまう日本の常識では考えられないほど熾烈で、その後魯迅と林語堂の間ですら、フェアプレーを巡って、「水に落ちた犬を打て」と主張する魯迅と林語堂は、激しい論戦を交えることとなる。生存競争そのものだ。
   2011/01/22

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「阿Q正伝」の成因 

「文学週報」251号に西諦先生の「吶喊」を語る、特に「阿Q正伝」についてが載った。それでちょっと思い出したので、一言書くことにする。
一つは文章を書いて寄稿するため、もう一つは、見たい人に読んでもらうため。
 まず西諦先生の原文引用から。
“本篇が衆目を引くのもいわれのないことではない。だが何点か検討すべきことがある。例えば最後の「大団円」の一幕は「晨報」で初めて見たときは納得できなかったし、今もそうである。作者は阿Qの終局を余りに急いだようだ。もう書き続けたくなくなり、かくも随意に「大団円」を与えてしまった。阿Qのような人間が、革命党になり、あのような大団円の結末を迎えるのは、作者自身書き始めた時に思いもよらなかったようだ。少なくとも人格的に分裂してしまったようだ。”
 
 阿Qは本当に革命党になろうとしたかどうか、本当にそうだとして、人格的に分裂したかどうかについては、暫く置いておく。
単にこの作品の成因を書くだけでも結構手間がかかる。常々言ってきたが、私の文は湧き出してくるのではなく、絞り出すのです。そういうと、謙遜だと誤解されますが、本当なのです。話したいことは何も無いし、何も書きたくないのだが、自虐的な気質からか、時に何回か吶喊し、人々に熱くなってにぎやかになってもらいたいと思うのです。例えば一匹の疲れ切った牛が、大して役に立たないのは明らかだが、廃物でも使わない手はないから、張さん家が一弓(五尺の意)の土地を耕させたいならそれをやるし、李さん家が一臼引けというのも結構;趙さん家が店の前に立たせて、背中に広告を架け、「当店には肥えた牛がおり、殺菌済み上等の滋養豊富な牛乳 販売中!」とやるもよし。どんなに痩せていて、且またオスで乳も出ないのを知りつつも、彼らの商売の為とならば、何でもやります。毒薬を売るのでなければ、何も言わない。だがもし、とても辛くて苦しい仕事はご免こうむるし、自分で草も食みたい。休息も取りたい。特定の家専用の家畜として、牛舎に閉じ込められるのはご免だ。時には他人の家で粉ひきをしたい。もし肉を売れとなると勿論嫌だ。その理由は自明で、説明するまでも無い。もし以上の三つに会ったら、逃げ出して、いっそ荒野で暮らすことを択ぶ。たとえその為に、突如真っ当に生きることから浅薄な生き方に変じ、戦士から畜生にされ、康有為の名で脅かされたり、梁啓超に比したりされても、一切気にしない。私は我が道を行く。
自分の居場所で横になり、二度とペテンには引っかからぬ。私は「世故」にかけては、実に驚くほど長けてきたからである。
 ここ数年「吶喊」をかくも大勢の人が読んでくれるようになったが、私も初めは思いもよらなかったし、夢想もしなかった。知人から何か書けと要請があったから書いたまでである。当時は忙しくも無いし、また多くの人は私が魯迅とは知らなかった。
ペンネームはこれだけではない。LS,神飛、唐俟、某生者、雪之、風声:それ以
前は:自樹、索士、令飛、迅行など。魯迅は迅行を承けたもので、当時の「新
青年」の編集者は、号のようなペンネームを好まぬから、そうしたわけ。
 今、誰かが私のことを、何とか言うつまらぬ団体のボスになろうとしている
と思っているようだが、哀れなことだ。何度も偵察したがまだわからない由。
 私はこれまで魯迅の名で人を訪問したことは無い。魯迅は周樹人だというの
は、他の人が見つけ出したものだ。こういうことをする人には4種類あり、
一は、小説研究目的で作者の履歴を知ろうとする者。二は単なる好奇心。三は
私が短評を書くので名前を暴いて、私に禍をもたらそうとするもの。四は自分
に何かメリットは無いかほじくり出そうとする者。
 当時(北京)西城区に住んでいたが、魯迅が私だと知っているのは、多分、
「新青年」、「新潮」社の人だけで:孫伏園もその一人。彼は今晨報館の副刊
を編集している。
誰の考えか知らぬが、突然週一回「気晴らし」欄を設けることになり、私に何
か書けと言ってきた。
 阿Qのイメージは確かに何年か温めていたようだが、一向に書こうとは思わ
なかった。が、そう言われて忽然思い出し、夜に少し書いてみた。それが第一
章序です。「気晴らし」にせねばならぬということで、不必要な滑稽話も加えた
が、全編がそうではない。筆名も下里巴人(という楚国の通俗歌曲)から巴人
としたが、決して高雅な意味はない。
 ところがこれが一悶着起こした。全く知らなかったのだが、今年「現代評論」の涵廬(高一涵)の「閑話」で初めて知ったのだが、大略は次の通り。
「阿Q正伝」が一段ごと発表された時、多くの人が次は自分が罵られるのではと心配しだした。そして友人が昨日の「阿Q正伝」のあの段はどうも自分を罵っているようだと私に語った。それで、「阿Q正伝」は某氏が書いているのだと憶測した。何故か?このくだりの彼のプライベートなことを知っているのは、某氏しかいない、…。それ以後、疑心暗鬼で「阿Q正伝」で罵られたのは彼の隠された私事だと思い、「阿Q正伝」を載せている新聞関係の寄稿者は、当人がその作者だという容疑を着せられた。彼は作者の姓名を知って初めて作者とは面識の無いのを知り、恍然となって、逢う人ごとに、あれは自分を罵っているのではないと説明して回った。(第489号)
 この「某氏」先生には、とてもすまない。私のせいで何日も嫌疑を受けた。
残念だが誰かが「巴人」の2字を見て四川人だと思い、四川人を疑った。「吶喊」
に入れた後も、私は実際には誰と誰を罵っているのかとよく訊かれた。それで読者にこんなにも下劣な読み方をされないようにできなかったものか、と私は悲憤慷慨し自分を恨みもした。
 第1章が載ってから苦しみが始まった。7日ごとに一篇書かねばならぬ。当時それほど忙しくなかったが、流民の状態で、夜は通路の部屋に寝る。この部屋には裏窓がひとつあるきりで、字を書くところも無い。どこで静かに坐って構想しようか考えた。伏園はまだ今のように太ってなかったが、もうすでにニコニコと笑みをたたえ原稿催促がうまかった。週一回その期限がくると「先生、
Q…は明日印刷に回さねば」それで書くしかない。心中、俗に言う「乞食は犬を恐れ、秀才は年試を怖れる」と思った。私は秀才でもないのに、週試を受けねばならぬとは、誰の為…」と思いながら又一章書く。しかしだんだん真剣になってきて:伏園も「気晴らし」ではないと感じ:第2章から「新文芸」欄に移した。
 かくして一週、一週、なんとかつないだが、どうも阿Qを革命党にせねばならぬという問題から逃げられなくなった。私の考えでは中国がもし、革命しなければ、阿Qもなれない。革命したなら、なれるのである。我が阿Qの運命は
ただこうなるよりほか無く、おそらく人格分裂にはならなかったであろう。
民国元年は遠くになり、茫々として追跡できないが、今後もし再び革命が起これば、阿Qに似た革命党がきっと出現すると思う。私もみなさんが言うようになって欲しいと願う者だ。ただ現在からみた以前の一時期のことを書くだけだが、私が見たものが現代の前身では無く、その後の状況、或いは二三十年後の
状況ではないかと恐れる。実はこれは決して革命党を侮辱したことにはならない。阿Qはすでに竹箸で辮髪を巻きあげたし、その15年後、長虹(最初魯迅に師事したが後に反旗を掲げて雑誌を発行して攻撃し始めた青年)は出版界に入り、中国の「セベリョフ」になったではないか。
「阿Q」は2か月程書いて、もう終わりにしたいと考えたが、記憶が定かではないが、伏園が反対し、或いは私が終わろうとすると彼が抗議に来たかだが
「大団円」は心の中に蔵しつつあり、阿Qはだんだん死路を歩み出していた。
最後の一章になって、もし伏園がいたら、多分圧力をかけて、もう数週間は生かしておけと要求しただろう。だが、「ときまさに時宜にかない」彼は帰省した。
代わりに何林霖が担当となり、阿Qには素より愛憎もなく、私が「大団円」で送りだしたら、彼はそれを載せた。伏園が帰京した時は阿Qが銃殺されて一カ月余。たとえ伏園がどんなに催促がうまくても、ニコニコ笑いながら「先生、阿Q…」とは言えなくなった。これにて一件落着。他のことができるようになった。何をしたか覚えてないが、多分もの書きだろう。
 実は「大団円」は“随意”に与えたわけじゃない。少なくとも書き始めた頃に、構想していたかとなると疑問だ。記憶ではどうやら「想定していなかった」
だがこれも仕方のないことで、誰がハナから他人の大団円を想定できようか?
Qだけでなく自分の将来の大団円すら、いったいどうなるのか知らない。最終的に、「学者」か「教授」「学匪」「ゴロツキ学者」「官僚」或いは「法廷書記」
「思想界の権威者」「思想界の先駆者」「世故に長けた老人」「芸術家」「戦士」
また客に会うのを面倒がらぬ特異な「アラジエフ」か、か、か、か、…。
 阿Qは勿論他にいろんな結果もあり得たが、それは私の知るところではない。
以前私は「書き過ぎ」な点があると思ったことがあったが、近来、そうは思わないようになった。中国で今起こっていることをもし、如実に描写したら、他国の人がみたら、或いは将来良くなった中国の人がみたら、みな「Grotesk」に感じるだろう。私は常々ひとつのことを仮想しては、我ながらとても奇怪に考えすぎだと思うほどだが、似たような事実に実際に遭遇してみて、往々にして事実の方が考えていたことより奇怪なことがある。次のような事実が起こるまで、浅見寡聞な私は万に一つも思いもよらなかったことである。
 一か月以上前、当地で強盗が銃殺された。二人の短衣を着た男がピストルで計7発撃った。撃ったが死んでないと思ったのか、死んでからも又撃ったのか知らぬが、こんなに沢山撃った。その当時私は学生たちに感慨をもらし、これは民国初年、初めて銃殺したときの状況だと言った。あれから十余年。進歩してなきゃならぬ。死者にこんな多くの苦痛を与えるべきじゃない。北京じゃこうじゃない。犯人が刑場に着く前に、刑吏は後頭を一撃し、命を断つ。当人は自分が死んだかどうか知らぬ内にだ。だから北京は首都で死刑も他の省よりずっとましだ、と言った。
 しかし、数日前1123日の北京の「世界日報」を見ると、私の話は正確でないことが判明した。その第6版の一段のニュースに「杜小栓子の首切り」と題して5節に分載。今その一節を引くと、
 ▲杜小栓子は鍘(サツ、大型の首切り、草を押し切る道具と同型)で首切り、
余人は銃殺。
 先ごろ、衛戌司令部は了毅軍各兵の請求により、“梟首刑”採用を決定し、
杜等が刑場到着前に、草刈り大刀が準備された。刀は長方形で手元は木製、
中の刀身は厚大で刃は鋭利。刃の下部は穴があり、横に木を嵌め、上下に動く。杜等4人が入場すると、介錯の兵が杜等を刑車に乗せ、彼らの顔を北向きにし、
準備完了の刑卓の前に立たせた。…… 杜は跪づかぬ。外右五区(地名)の
某巡官が杜に尋問:介添えが要るかと。杜は笑って答えず。そして自ら刀の前に駆けて行き、刀の上に横になった。仰面して受刑。まず執行兵が刀を挙げ、
杜の枕が適当なところに来ると、執行人は目をつぶって猛然一殺。杜の身首は
二つになった。血はどっと大量に噴き出た。周りで跪づいていた銃殺刑の宋振山等三人は偸み目で見、趙振はブルブル震えだした。後、某班長はピストルで宋等の後ろからまず宋振山を銃殺、そして李有三、趙振一人一撃。…
 先に被害者の程歩墀(チ)の二人の息子、忠智忠信は現場で見て大声で哭し、
各人が執行されると、大声で「父さん、母さん、仇は討ちました。我々はどうしたらいいの?」と叫んだ。それを聞いていた人々はとてもつらく可哀そうに感じた。その後、彼らは家族に連れられて帰った。
 もしも天才がいて、時代の心拍を感じ、1122日のこの情景を描いた小説を発表したら、読者の多くはきっと(宋代の小説で有名な)包龍図判官の時代のことと思うに違いない。11世紀の、今を去る九百年も昔のことだ。
(当時の死刑は大きなギロチンのような刀で、大衆の前で公開処刑された)
 こうなると、まったくどうすればよいだろうか…。
 「阿Q」の翻訳は2種しか見ていない。仏語のは8月号の「欧羅巴」に三分の一のみの抄訳。英語のはとても懇切なようだが、私は英語がよく分からないから何とも言えぬ。ただ、偶々見た限り、2か所は検討の余地あり。一は「三百大銭九十二串」は「三百大銭は九十二文を百と数える」の意に訳すべき。二は
「柿油党」は音訳した方がいい。元は「自由党」のことを言うのだが、田舎の人は分からぬので、なまって自分たちの分かる「柿の油の党」にしてしまったもの。    123日 アモイにて
 
訳者雑感:Groteskというのはドイツ語の綴りで、もとはきっとラテン語あたりからきたものだろう。手もとの英和辞典では、「ルネッサンス時代に主に地下の墓窟(Grotto)に多く見出された」怪奇、異様な文様、の意とある。
魯迅は革命党になろうとした阿Qが、単なる泥棒で、手中引き回しの上、広場にしつらえられた処刑場に刑車に乗せられてゆく情景を描いている。それを好奇心で見物に出かける庶民の中に、阿Qがいっとき心を寄せた女も登場させて。
しかし、処刑される当の阿Qは見物人からすると元気も無く、面白くも無いと評判が良くない。 そんな事実は、今から百年前の一部の中国人の間ですら、Groteskと感じたから、そんなことを「大団円」に書くなとの非難もあった。
「中国人のプライドを傷つけられた」と感じた若者もいたに違いない。
それで彼は「以前私は書き過ぎた点があると思ったことがあったが、近頃そうは思わない」として、辛亥革命後15年も経った1926年にアモイで見た何発も銃を撃つ強盗犯の死刑や、1123日付北京の「世界日報」の記事の断頭台での
中国式ギロチンの事実を見て、彼自身も驚愕し、Groteskに感じたに違いない。
 
 訳者は、文化大革命時代に中国を訪れた時、トラックの荷台に円錐の帽子を被せられ、首からは罪状を書いた紙をつりさげられた所謂「資本主義の道を歩む実権派」「反革命分子」たちが、後ろ手にしばられて、銅鑼や太鼓でどんどん
はやし立てられて「市中引き回し」の上、処刑(入獄)されるのを見た。
辛亥革命後60年経っても、魯迅の「書き過ぎ」と変わらぬ状態だった。
 2002年、訳者が大連に駐在していたころ、遼寧省の高官が銃殺されるシーンをテレビで見た。チャウシェスクが銃撃されたときの衝撃と同じだった。本物でなくテレビという映像を媒介したものでも それは「見せしめ」として大きな効果をもたらした。それは彼らの被害を受けた者に代わって仇打ちする意味と、こうして本当に死刑にしたのだから、ヒットラーのようにどこかで生存しているというデマを封じる為であった由。フセインも同様だったろう。
晒し首というのは百年ちょっと前まで、行われていたようだ。日本の武士たちも敵の首級を自分で見ないことには、安心できなかったように。
  2011/01/17
 

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 アモイ通信2 小峰兄:

小峰兄:
「語絲」101102号本日拝受。ここでは多くの郵便物が同時に届くのは、しょっちゅうです。大体週2回です。
2冊の「語絲」を見て、感慨ひとしおです。百号を超えたからでしょう。中国では、数人で始めた刊行物が百号まで続くのは並大抵じゃありません。
 ここからも「語絲」に投稿したいが一行も書けません。「野草」も一本の茎、半分の葉すら出ない。今は講義原稿を編集しています。何のため?お分かりでしょう。飯のためです。飯を食うのは何のため?この論法でいうなら、講義原稿のためです。飯を食うのは高尚なこととはいえませんが、そうとも思いません。だが、講義原稿を書いて飯を食い、飯を食って講義を書くのは無聊に近いことを免れません。学者たち教授たちは別の考えがあるのでしょうか。私ども平常人からすると、教えることと物を書くことは両立しません。或いは黙々と教えるか、或いは発狂して変死するが如くに物を書くか、一人の人間が方向のまったく違った二本の道は歩めません。
 ふとあることを思い出しました。やはり夏に「現代評論」に正人君子が書いたように:人を罵る小新聞の流行で、まっとうな文章は誰も読まなくなり、出版できなくなった、と。こういう学者たちの才能に敬服します。私に代わって調べて欲しいのですが、彼らはどれほどまっとうな原稿を「家に蔵している」か、目録を作って下さい。だけどもし講義用ノートや民法第八万七千六百五十条の類なら要りません。見たくもありません。
 今日また漱園兄の手紙がきて、北京は結氷の由。こちらは袷一枚で、寒い時は綿のチョッキを着ます。(戦国時代の楚の詩人)宋玉先生の「皇天平分四時…」
(中略:楚辞の一節)のようなしゃれた詩文をここで引用しようものなら、それはまったく「無病なのに呻吟する」如きものです。白露は百草に降りたか、
梧楸の葉は枝を離れたか否かも知りません。景象は多分晩夏の如しで、我住まいの門前に名も知らぬ植物が秋葵(アオイの一種)に似た黄色い花を咲かせている。ここに来た時にもう咲いており、いつ頃から咲きだしたのか知らないが、今も咲いています。蕾もあり何時になったら咲き止むのやら分かりません。
「古くより之あり、今なお盛ん」で、近頃はそれを見るのがこわい位です。
鶏頭の花もとても小さく、江蘇浙江のとは違います。紅と黄の花が長い間、
一本一本立っています。私は元来地獄に落ちるのは嫌いですが、目にするのが
只、剣山と剣の林ばかりで、見ていても単調だし、その苦痛に耐えないのです。
しかし今は天国に行くのも恐いです。四季常春で、一年中桃の花を眺めていたら、どれほど味気ないことでしょう。たとえその桃の花が車輪のように大きくても、ただ最初に行った時は暫く驚くだけで、毎日「桃之夭夭(詩経)」のようなのを作れはしないのです。
 しかし荷の葉はとうに枯れ、雑草は黄ばみだした。こうした現象は以前は所謂「厳霜」のせいと思っていました。時にはあの「凛とした秋」に対して怨みごとを言って責めたりしましたが、こちらでは霜も降りない、雪も無くおよそ
黄ばみ、萎えるのは「寿命が終わり、寝る」のであって、他でもありません。
嗚呼、不平不満の種になる材料も減ったから、言うべきこともありません。
 今や不平不満をぶちまける方途さえないという不満も言いつくしてしまいました。また次の機会に。これから講義ノートを作ります。
    魯迅  117
 
訳者雑感:
 常春のアモイに耐えかねて、不平不満すら訴えるすべもないと嘆く魯迅。
地獄に落ちるのも針のむしろは恐ろしくて怖いが、車輪のように大きな桃の花咲く天国も、やはり怖いと思い始めた。この間、雑文すらも書けなくなってしまったほど。魯迅の灰色の脳細胞は、大都会の刺激が無いと活動を停止するようだ。
 教えることと、狂ったように物を書くことは両立しないようで、漱石も大学教授の職を棄てて、(収入の面もなんらかの影響があったか)小説書き専門として朝日に入社した。魯迅も北京では文部省の役人を解任され、経済的にも困難となると同時に、軍閥政府からの弾圧もあり、北京を逃げ出す格好で、アモイ大学で教えて四百元前後の月給を得て文学(史)を教えていたが、アモイ大学の教授たちの追い出し作戦、村八分に会い、4か月でアモイを去った。
彼には漱石のような大新聞のスポンサーは付かなかった。このあと広東の大学でも教えることになるが、そこも間もなく辞し、上海で晩年の10年を過ごすことになる。晩年の子規の新聞「日本」とか漱石の「朝日」のような後ろ盾無しに。日本の作家たちは恵まれていたと思う。といっても魯迅は大新聞のお抱えになる気はさらさら無かったろうが。
   2011/01/12
 
 

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華蓋集続編の続編

 アモイ島にいた4カ月は、数篇の無聊な文字を書いただけだが、最も無聊なのを除くと6篇残ったので、「華蓋集続編の続編」と称してこの1年で書いた雑感はすべてこの華蓋集に入れた。   192718
 
 アモイ通信
H.M.兄(許広平のこと、害群之馬の頭文字Hai Ma:出版社注)
 ここに来て間もなく1カ月。三階建ての楼上の部屋で、なまけて過してどこにも余り手紙を書かなかった。建物は海辺にあり、日夜海風がヒューヒューと鳴ります。海浜には貝殻が多く、何回か拾ったがこれといったのはありません。
周りに人家も少なく、近くには店も一軒きりで缶詰と糕餅(オヤキのような物)
を売っているだけで、私より一回り年配の女性一人で切り盛りしている。
 風景は山あり水ありで、悪くはありません。着いた当初、同僚が語るには:
山の光と海の気は春秋と朝晩はすべて趣を異にする由。そして岩を指してこれは虎、あれは蝦蟇、それは何やら…と、名は忘れてしまったが余り似てもいない。自然美については、私はどうも敏感で無いうらみがあるようで、どんな良い日にどんな美しい景色を見ても大して感動せぬのです。ただ、ここ数日間は、鄭成功の遺跡は忘れられません。住まいから遠くないところに城壁があり、彼が築いたといいます。そう思うと、台湾を除きここアモイは満州人が入関後、我が中国で最後に滅んだ所です。実に悲しむべき、かつ喜ぶべきと感じます。台湾は、1683年、即ち所謂「聖祖仁皇帝」(康熙帝)22年に滅ぼされました。
この時あの「仁皇帝」たちは「十三経」と「二十一史」の(石)刻板を補修した。現在、一部の国民はこの経典をたいへん珍重しています:この宮廷版
「二十一史」も宝物になり、骨董愛好の蔵書家は大枚をはたいて買い求め、子孫に伝えんとしています。しかし鄭成功の城壁は、たいへん寂莫としています。
どうやら城壁の基礎のところの砂が盗まれて、対岸のコロンス島の誰かに売られ、礎石がぐらぐらになりそうです。ある朝早く、たくさんの小船を見かけましたが、喫水が深いし、帆を張ってコロンス島に向かっていましたから、多分あの砂売りの同胞たちでしょう。
 周りはたいへん静かで、近くでは北京や上海の新しい出版物は買えないので、
寂しく感じます。が、あの灰色の煙を吐く「現代評論」も見かけません。あれほど多くの正人君子文人学者が執筆しているのにどうして流行しないのか分かりません。
 ここ数日今年の雑感を編集しようと思っています。雑感を書き出してから、ことに陳源のことを書いてから、何人もの「中立」を自称する君子がこれ以上書くと、つまらぬことになるぞ、と忠告してくれます。忠告があったから云々ということではなく、ただ環境が変わってしまったため、近頃もう何の雑感も無いし、旧作を編集することまで忘れてしまいました。数日前の夜、梅蘭芳
‘演芸員’の歌声が突然聞こえて来ました。勿論蓄音器のだが、粗製の鈍い針先のように、私の鼓膜を刺すようで、気持ちが悪かった。それで私の雑感も多分、梅‘演芸員’を敬愛する正人君子たちの耳を刺し、気分を害しているのだろうから、私にもう書かないようにしようとしているのだろうと思い到った。
 しかし私の雑感は紙に印刷したものだから、空気を振動させないから、見たくなければ頁を開かなければすむことで、何も中立を装って私を騙す必要はない。私は私の書いたものが書棚に並べられて、見たい人に買ってもらいたいと願うが、正人君子に賞賛されたくはない。世の中に牡丹をめでる人は一番多いが、(朝鮮朝顔属の)ダツラとか無名の草花を好む人もいるし、(雑誌同人の)
朋基は覇王鞭(常緑植物の名)を急須に活けて盆栽としているくらいだ。旧稿を見ると大変乱雑なままなのが多いので、清書してくれますか。
 この時刻にまた風が吹き出し、殆ど毎日こうですが、北京のようですが、砂塵は少ないです。偶には散歩に出ます。墓地の叢を歩きます。これは(オランダ人の)Borelもアモイのことを書いた本に中国全土はひとつの大きな墓場だと記しています。墓碑の文字は多くは通じません。亡母 某とあるが子の名はなく、上に地名が横書きされたのや、「文字の書かれた紙を愛惜せよ」の4文字は誰に対してそうしろというのか分かりません。これらの通じない原因は、書を読んだせいでしょう。もし文字を知らない人に、この墓は誰の?と訊けば、親父だと答えるでしょうし、名前はと訊けば張二と答え、貴方はと訊けば、張三というでしょう。素直に書けばはっきりするのに、墓碑を書く人は辞を弄したがるので、よけい出鱈目になり、「金石例文集」を研究したのですが、元から清までかけても、結局何の成果も無かったのを知らないのです。
 私は以前と変わりありません。だが、静かすぎて何も書く気になれません。
   魯迅  923
 
訳者雑感:
 「居は気を移す」という。あれほど激した雑感を書いてきた魯迅も、北京という「震源地」から遠い「静かすぎる」アモイ島に移って一カ月。何も書く気になれません、という。アモイには4か月程いたきりで、広東に移り、そこも
そうそうに引き払って、次なる「震源地」上海に向かう。
 仙台から東京に移ったように、彼は出版の中枢、新聞社の沢山集積したところで、触角を四方に張り巡らせていないと、何も書く気にもなれないのであろう。北京にいる時でも、日本から「読売新聞」などを取り寄せた定期購読者であった。       2011/01/10

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上海通信


 小峰兄
 分かれた翌日、汽車でその夜に天津着。途中何事も無かったが、天津駅を出たら、制服の男が、多分税関吏だと思うが、突然私の行李をつかみ「中は何だ?」と、私は「日用品」と答えたら、彼は2度ほど揺すってそのまま去った。
幸い中には人参スープや搾菜湯とかガラス食器も無く被害なし。安心乞う。
(当時は軍閥の軍警察の検査が厳しかった)     
 天津から(南京の)浦口には特急寝台で喧騒はなかったが、満員だった。7年前家族全員を北京に連れて来て以来、この列車に乗るのは初めてだが、今は男女分乗の決まりで、隣の部屋はもとは一男三女の一家がいたのだが、男は追い出され、他所から女を連れてきた。浦口に近づくと一悶着あり、その一家のボーイへのチップが少ないとして、大柄なボーイが我々の処に来てあれこれ騒いだ。要は:金というのは必要なもので、働くのは金の為でなければ何の為か? しかるに自分はボーイとして小銭のチップを得ようとしているのは、良心がまだ心蔵の中にあり、(腋の下を指して)こっちの方に移ってきてないからだ。
自分も畑を売って鉄砲を買い、土匪を集めて頭目になりひと暴れして官に就き、金儲けもできる。だが良心がまだここに(胸骨を指し)あるから、ボーイに甘んじ、小銭を稼いで子供に勉強させ、将来は良い暮らしを……。だが、もし何も呉れないなら、人間としてなすべきでないこともやらねばならない。
 我われ6人は誰もそれに反駁しなかった。後に1元出して済ませた由。
 勇敢な文人学者が北京で発行している週刊誌に、孫伝芳大帥を罵倒しているが、その後塵を歩もうとは思わぬ。だが、下関(南京の地名)に着くと、
(孫伝芳の行った昔の遊びの)投壺の儀礼の邦であることを思い出し、滑稽の感を免れなかった。
 見た目には下関は7年前と変わってない。ただあの時は大風雨、今回は晴天。次の特急に間に合わず、夜汽車しかなく旅館で休憩。赤帽(当地では‘夫子’という)とボーイは昔通り実直だった。板のように平らの鴨の姿焼き、焼き豚、鶏からなども手ごろな値段でおいしかった。2両(重さ)の高粱酒も北京より上手かった。これは私が‘そう感じた’だけ:但し理由が無いわけではない。少し生の高粱の味がしたためで、飲んだ後目をつむると、体は雨後の田園にいるような気持ちになった。
 まさに田園に身を置いている時、ボーイが来て、誰かが話があるから外に出よと。出てみると数名の男が、34人の鉄砲を持った兵士とともに、総勢何人か数えてないが、とにかく大勢で、その中の一人が私の行李を開けろという。どれからにするかと訊くと、麻布のカバー付き皮箱を指す。縄を解き、鍵を開け、蓋をあけたら彼はしゃがんで服の中を探した。そして何も見つけられずがっかりして立ちあがり、手を振って一群の兵士は‘後ろ向け’となり、
去って行った。指揮官は立ち去る時、私に頭を下げとても丁寧だった。
私は現役の‘鉄砲階級’と接したのは民国以来はじめてだった。彼らは決してひどくはない:もし彼らが、‘無砲階級’を自称する連中が言うように、‘流言’を流すのが上手かったら、私はもう旅は続けられなかっただろう。(魯迅が後に増田渉に吐露したところでは、同行した許広平(後の夫人)の国民党員証がカバンの中にあって、もしそれが見つかったら、軍閥政府に殺されたかも知れない、とのこと:増田の解説)
 上海行きの夜汽車は11時発。客も大変少なく横になれば寝られそうだが、椅子が短すぎ、身を曲げねばならない。車内の茶はとてもうまい。ガラスに入れ、色香も良い。多分長年井戸水で飲んできたせいで、井の中の蛙だったのだろう。(泉の水を指すか)確かにうまい。それで二杯も飲んでしまった。窓外の夜の江南を眺めて一睡もしなかった。
 車中で英語をしゃべる学生がいた。はじめて‘ラジオ’や‘海底ケーブル’という話を聞いた。そしてひ弱そうな若旦那がいた。絹を着て、先の尖った靴を穿き、南瓜の種を口にし「日刊レジャー」の類のタブロイドを手にしたままで永遠に読み終わりそうにない。この手の人間が、江蘇、浙江地方には特に多い。おそらく投壺をする日々はまさに長久に続くと見られる。
 今上海の旅館に泊まっています:早く(アモイへ)出立したいと思う。数日旅をしたら旅行が楽しくなりました。このままずっと旅を続けたくなりました。以前欧州にある民族がいて、‘ジプシー’と呼ばれ、渡り歩くのが好きで、一か所に安住しない、と。彼らをとてもおかしな連中と思っていましたが、今やっと彼らの気持ちが分かったようで、自分の方がいかにいいかげんか分かりました。
 今、雨が降っていて、さして暑くありません。
   魯迅  830日 上海
 
訳者雑感:この汽車旅行記を訳しながら、戦前に撮影されたマレーネ・デートリッヒ主演の「上海特急」を思い出していた。
映画の冒頭は、北京か天津の市街地の狭いせまい通りの中央を石炭のばい煙を
吐きだしながら、特急列車の動輪がそろりそろりと動き出す、
 両側の商店街の漢字の右書きの看板と、牛が横切って蒸気機関車が立ち往生する雑踏の中、労働者や着物を着た商人たちがその前を横切る。それでも汽車はゆっくりゆっくりと南京―上海に向かう。
 ストーリーはもう記憶が薄れて思い出せないが、魯迅の経験した状況と同じように、軍閥間の争いとそれに国民党の内戦が続いており、やはり途中の駅で、
軍閥の兵士が乗り込んできて、全員の所持品検査、果ては反乱軍と軍閥間の争いの展開だったかと思う。そこに男女のラブロマンスが描かれる。
 魯迅も本人が他の所で書いているように、自分に不利になるようなことは、
一切書いてない。ディッケンズがフランスからドーバー海峡を渡って、列車で
ロンドンに戻る時に、列車が転覆し、そのとき同伴していた女性とのことが公になったら、彼の名声は地に落ちてしまう。なんとかその場を凌がねばならぬ、という話を読んだことがあるが、それはだいぶ時間が経ったあとのこと。
 魯迅も北京の軍閥に追われて、アモイに去ったのだが、その時点では後に夫人となる女性と同行していたとは、一切触れてない。もしこの上海特急が、
マレーネ・デートリッヒの映画のように、彼女が軍閥に国民党員として、人質に取られたら、彼はどんな方法で、彼女を救いだしたであろうか。
 魯迅は文章を書くのは、殆どは自己弁護のためだと、雑感に書いている。
彼女の救出の為なら、どんな犠牲を払ってでも、彼女を弁護し、自らも関係する手ヅルを頼って、奔走したに違いない。
 このころの時刻表は手元に無いので、どれくらいかかったかは分からないが、
少なくとも、北京―天津、天津―浦口下車、 長江を渡船し、南京―上海と
数日は要したであろう。それが今年4時間で結ばれることになった。
  2011/01/09
 

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談話録

魯迅先生はまもなくアモイに行かれる。自ら言われているように、また気候の関係で長くは住めないが、少なくとも半年か1年は北京を離れるので、実にさみしくなる。822日、女子師範大学学生会は学校が破壊された一周年の記念会を開き、魯迅先生が来られて演説したが、今回が北京最後の公開講演になるかもと思い記録し、私のささやかな記念の気持ちを表す。
人々は魯迅先生というと、少しばかり冷徹で、黙視しすぎる嫌いがあると感じるようだが、実際はいっときたりとも熱烈な希望に満ちていない事は無いし、豊富な感情を発露されないときはない。この談話でも、明確に彼の主張が出ている。では、今回の談話を記し、彼の出京の記念とするのも、意義の無いことではない。さて私自身についてだが、実直な人たちが取り越し苦労をせぬよう、
当日、私は一事務員として参加したということを説明しておかねばならぬ。
        (培良、雑誌「莽原」の寄稿者)                 
 
 昨晩「労働者セヴェリョフ」を校正し再度印刷しようとして、寝るのが遅くなり、今もボーっとしていて:校正中に忽然あることに思い到って、頭がとても混乱していますので、今日はあまりいい話をできないのではと心配です。
 私が訳した「労働者セヴェリョフ」のいきさつについて面白い話があります。
12年前欧洲の大混戦が起こり、後に我中国も参戦しました。即ち「対独宣戦」で沢山の労働者を欧洲支援に派遣しました。その結果、戦勝したのが所謂
「公理が戦勝した」というやつです。中国も戦利品を得て、――上海のドイツ商人のクラブの中にあったドイツ語の本、総数は大変な量で、文学関係が多かったので、北京の(紫禁城の)午門(巨大な楼閣を持つ門)の楼上に納めました。教育部はこれらの本を得て、整理分類しようとした――実は彼らがもともとしっかり分類していたのだが、誰かがよく分類できてないと言い出して、一から分類し直した――当時は多くの人間を使って、その中に私もいたわけです。
後に教育総長が、それらの本はいったいどんなものがあるのか見にくることになりました。それでどうしたかというと、我々に書名を中国語に訳させ、意味の通るのは意訳、無いのは音訳で、カイザー、クレオパトラ、ダマスカスなど。
(原文はすべて漢字の当て字だが省略す)一人毎月10元の車馬賃をもらい、私は百元ほど貰いました。当時は政府予算が潤沢だった。こうして一年余りいろいろやって、数千元使ったころ、対独講和が成立し、後にドイツが返還を求め、我々の取得したものも全て返還しましたが、数冊欠けたかもしれません。「クレオパトラ」は総長が見たかどうか知りません。
 私の知る限り、「対独宣戦」の結果、中国には中央公園にできた「公理戦勝」
の記念牌坊(中国式の鳥居のような門)と、私の手元の「労働者セヴェリョフ」の訳本一冊です。原本は当時整理していたドイツ語図書から選んだのです。
 膨大な図書の中にも文学書が大変多かったのにもかかわらず、なぜこれを択んだのか?どうもはっきりとは覚えていません。多分、民国以前、以後、我々には沢山の改革者がいたが、境遇がセヴェリョフととても似ていたので、彼の杯を借りようとしたのかも知れません。しかし昨晩読み返してみて、なんとその当時だけでなく、改革者が圧迫され、指導者が苦しむというのは、現在もー
そして将来も、数十年後も多くの改革者の境遇は彼と似ていると思ったので、私は重印しようと思ったのです。
「労働者セヴェリョフ」の作者、アルジバージェフはロシア人、今ロシアといっただけで、みなさんはびっくりするようですが、それには及びません。彼は共産党でもないし、彼の作品は現在ソ連では受け入れられていません。目が見えなくなってとても苦しんでおり、私にルーブルを贈ることなどできません。
要するに、彼はソ連とは無関係です。ただ、奇怪なのは多くの点で中国人と似ていて、例えば改革者、代表者の苦労は言うに及ばず:人々に対して、本分に安んじるようにと説教するお婆さんも、我が国の文人学者と同じです。ある教員が上司からの侮辱と罵倒にこらえきれずに歯向かって免職される。彼女は裏で彼を非難し、憎たらしいほど傲慢で、「ほら昔私は御主人さまからビンタを2回くらったけれど、じっと耐えて何も口応えしなかったさ。しまいには冤罪と分かって、ご主人さまは手ずから百ルーブルをお詫びにくれたださ」 勿論
我が文人学者はこんな拙い言葉は使わないし、文章ももっときれいですが。
 しかしセヴェリョフの最後の考えはとても恐ろしいものです。彼は最初社会のために行おうとするのですが、社会は彼を迫害し殺害しようとするので、彼はそこで一変し、社会に復讐しようとする。全てが仇で、一切を破壊しようとする。中国にはこのように一切を破壊しようとする人間はいない。多分いないし、そういう人がいることを望まない。だが中国にはこれまで別種の破壊者がいたので、我々が破壊しなくても、しょっちゅう破壊されてきたのです。一方で破壊されたのを、別のところで修理し、辛い苦労をかさねて生きてきました。
だから我々の生活は、一面で破壊され、またそれを補修し、又破壊され、それを補修してきたのです。この学校も楊蔭楡、章士釗たちが破壊した後、修復し、整理して過ごしてゆくのです。
 ロシアの婆さん式の文人学者は、それはにくむべき傲慢で懲らしめるべき云々、と言うかも知れぬし、それはもっともらしく聞こえましょう。だが実はそうとも限らぬのです。我が家に田舎から来た人が住んでいます。戦争のために家は無くなり、町に逃げて来ました。しかし彼女は高慢でもなく、楊蔭楡に反対したこともないのに、家は無くなり、破壊されてしまった。しかし戦争が終われば必ず帰ってゆきます。家が壊され、家具も投げ出され、田畑も荒れたが、生きてゆこうとしています。残ったものを拾い集め修理、整理してまた生きてゆきます。
 中国の文明はこのように破壊と修復の繰り返しで疲弊してしまい可哀そうなものです。だがある種の人はそれを誇り、破壊者すらもそれを誇ります。すなわち、本校の破壊者です。もし彼を万国婦女のなんとか会に派遣し、中国の女学校の状況を報告させたら、きっと「我中国には、国立北京女子師範大学があり」と言うでしょう。
 これはまことに残念なことで、我々中国人は自分のものでない物については、
きっとそれを壊していい気持ちになるのです。楊蔭楡はもはやここの学長はやってゆかれないと悟り、文の面では文人の「流言」を使い、武の面では(河北省の)三河地方の家政婦たちを動員して「女学生」たちをことごとく追い出してしまうことになったのです。
 私は昔、歴史書を見て、張献忠が四川省の民を殺戮したことにどんな意味があったのか、思い到らなかったのですが、後になって彼のことを知りやっと分かったのは:彼はもともと皇帝になりたかったのだが、李自成が先に北京に入城してしまい、皇帝になってしまった。それで彼は李自成の帝位を破壊しようとした。どうやって破壊するか?皇帝になるには、民百姓が必要、人民を殺し尽くしてしまえば、誰も皇帝になれぬ。民がいなければ、皇帝はない。李自成ただひとりが残り、誰もいなくなったさら地に醜態をさらすのみだ。これはまるで、学校が破壊された後の学長のようだ。これは笑止千万の極端なたとえだが、このたぐいの発想は張献忠一人ではないのです。
 我々はやはり中国人で、中国で起きていることを見るのだが、中国式の破壊者ではないから、破壊されても修復し、また破壊されては修理して生きるのです。我々の多くの命は無駄にされますが、自ら慰められるのは、いろいろ考えた結果、やはり将来への希望です。希望は存在にくっついています。存在があれば、希望があります。希望があれば光明がある。もし歴史家の話が出鱈目でなければ、世の中に暗黒の社会が長続きした先例はありません。暗黒は漸次滅亡するものにくっついており、それが滅亡したら暗黒も一緒に滅亡し、長続きすることはありません。しかし将来は永遠にあるものです。光り明るくなろうとするもので:暗黒の付着物にならずにいて、光明のために滅びるのなら、我々は必ず悠久の将来があり、きっと光明の将来があるのです。
 
  この会に出た4日後、私は北京を離れた。上海で朝刊を見たら、女師大は、
女子学院の師範部に改称され、教育部総長の任可澄が院長となり師範部の長は、
林素園がなった。その後北京の45日付夕刊に「今日午後1時半、任可澄は
特別に林氏と共に、警察庁保安部隊及び軍督察処の兵士40名を率いて、女師大に馳せ、武装接収した、…」
 一周年過ぎたばかりで、またも出兵を見た。来年のこの日、やはり兵を帯びて、開校記念日をするのか、それとも兵に破壊された記念日とするのか、今はしばらく、培良君のこの記録を転載して本年の記念とする。 
  19261014日  魯迅付記
 
訳者雑感:破壊と修復。これが2千年の中国の歴史であり、それを誰怨むことなく、忍耐強く生きてきたのが中国人だと思い到る。地上のものは、それが万里の長城ですら、何度も破壊され修復されてきた。況や都会の建造物をや!
地下の墓でも、有名なものは大半盗掘にあい、破壊されている。
 過去40年でも、文革で大抵の歴史的建造物や芸術的彫像などは破壊された。
それを直近の20年で、以前よりもスケールを大きくして立て替え、修復した。
全国各地に巨大な仏像が立てられた。あまりに多いので新規立像は禁止との話。
 魯迅の指摘する通り、中国人は自分のものでなくなると悟ると、壊してしまうのを何とも思わない人種が存在するようだ。四川省の張献忠の例は極端としても、人民を皆殺しにしてしまうという発想は、どこからでてくるのであろうか。
 その対極にあるのが、魯迅の家に避難している田舎のおばさんで、戦乱で家を焼かれ、家財もすべて失ってしまったが、戦乱が収まれば、また戻って行って、拾い集めたもので生活を再開する。この大地に根を生やした中国人が基盤のところに存在するかぎり、暗黒社会が長続きはしない、という楽観があるかぎり、人口は4億からほんの短い間に3倍に増えたのだろう。
  破壊修復:文革中に毛沢東が唱え始めたとされる「破旧立新」の発想は、
中国人から受容されやすいものなのだろう。それにしてもであるが、あの当時の
毛沢東の心境は、劉少奇という人間のものになってしまいそうな中国を、一度
破壊してしまおうとの悪魔のささやきが聞こえたのかも知れない。
何千万の無辜の民がそれによって死んでも構わぬと。
       2011/01/08
 

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「(未払い)給与支給」の記

 午後、中央公園でC君と(翻訳)作業をしていたら、突然昔の親しい仲間が知らせて呉れた。(教育)部で今日から給与の三割を支給するが、本人が三日以内に受け取りに出頭のこと、と。
「さもないと?」
どうなるか何も言わないが、それは火を見るより明らか。行かねば呉れない。
 お金が自分の手を通るとなると、檀家のお布施ではないが、人はどうも威張りたがるようだ。さもないと自分がつまらぬ人物だと思うのかもしれぬ。
確かな物品を質に入れるのでも、質屋は偉そうにふんぞり返って、高いカウンター越しだし、銀貨を銅銭に換えるのも両替屋は「銀貨買入」の張り紙で隠然と自分が「買主」だということを示したがる。手形も交換所に持参して換金しなければならぬが、ごく短い期間を設定し、受領書にサインしてから順番待ちの列に並べとどなられ、国粋のムチを手にした巡警に睨まれる。
 言う事を聞かないと、銭を貰えないだけでなく、ムチで打たれる!
 前にも書いたが、中華民国の役人はみな平民出身で、特殊な人種ではない。
高尚な文人学者或いは新聞記者たちは、彼らを異人種のようにみなし、自分たちより奇妙な田舎者で、おかしな連中と考えている。だがここ数年の私の経験では、何も特におかしな所は無く、すべて性癖も普通の同胞と同じだが、金が手を通るとなると、例の通りちょっと威張ってみたくなるのだ。
「本人受領」問題の歴史的起源はだいぶ古く、民国11年にはこの件で、
方玄綽(魯迅の小説中の主人公)の騒ぎが起こり、私はそれを「端午の節句」に書いた。だが歴史は繰り返すというが、印刷版木ではないから、今回と昔とは少し違う。往時「本人受領」を言い出したのは「給与要求会」――嗚呼、この専門用語を解説する暇のないことを諒とされよ、そして紙幅も惜しい――のモサが、昼夜奔走、国務院に陳情し、財政部前で坐り込み、それで入手するや、一緒に要求に行かなかった人には、功なくして禄をはむ者として、心にわだかまりを感じ、本人受領にして少し苦労を舐めさせようとした。
その意味はこの金は我々が取って来たもので、自分たちのものだと言いたいらしい。欲しければここに来て布施を受けるべし、と。衣や粥を施すのに、施主の方から施しを受ける者の家まで届けに行くかい?
 しかしそれは盛時の話。今やどんなやり方で「要求」しても一文も呉れない。
もし偶々「支給」するとしても、お上からの思いがけないお恵みで、「要求」とは何の関係も無い。だが時に「本人受領」の触れを出す施主はまだいるようで、
ただそれは給料要求の上手いモサではなく、毎日「出勤簿に判を押して」他に生計を立てようとせず、そして「二朝に出仕しなかった臣」なのだ。だから
以前の「本人受領」は一緒に要求に行かなかった者への罰だったが、今回は、空腹のために役所に来られなかった者への罰なのである。
 だがこれは大枠のことで、これ以上は身を以て臨まなければ分からない。
酸辣湯(酸っぱくて辛いスープ)一つとっても、話を聞くより、自分で飲んだ方がずっとよくわかるのと同じである。
最近わけの分からない名人たち数人が、間接的に私に忠告をする。去年私の書いた文章は、専ら数人と意見衝突を起しただけで、文学芸術と天下国家を論じることがなくなってしまったのは残念だ、と。
 何のことか分からなかったが、近頃なんとなく分かって来た。身をその境の小事の中においていても、尚且つ明らかにすることはできず、はっきりしたことも言えない。況や、あのような高尚で大事なこととはいえ、自分があまり分かってもいない事業については何も言えない。今私が言えるのは、比較的身近な私事だけで、立派な、所謂「公理」の類は、公理の専門家に任せよう。
 要するに、今回の「本人受領」を主張するものは、前回とはだいぶ違うと思うし、即ち「孤桐先生」の所謂「事態はいよいよ悪くなる」で、更には大騒ぎする方玄綽のような男も数えるほどしかいない。
 
「さあ行こう!」知らせを聞いてすぐ公園を出、俥に乗り、役所に奔った。
中に入ると巡警が直立敬礼したから、役人やるなら出世しなきゃいけないということが分かる。辞めてもうだいぶ経ったが、彼らはまだ私の顔を知っていた。
だが中に入っても誰もいない。勤務時間を午前に改めたので、多分みな受け取って帰ってしまったのだ。小使いを探して「本人受領」の要領を聞くと、まず会計科で伝票をもらいそれを持って窓口でお金を貰う。
 すぐ会計に行くと、職員がジロッと顔を見て、伝票を取りだした。彼は古い職員で、同僚をよく知っていて「本人確認」の重大任務を負っているのだと分かった。伝票を貰ってから私は特に二回頭を下げ、告別と感謝の意を表した。
 次は窓口。まず横の門を通り、上に「丙組」の張り紙と小さい字で注意書が
「百元未満」とある。手にした伝票には九十九元とあり、心中、これは正しく
「人生百に満たぬも、常に千歳の憂いを懐く。…」と思った。と同時にまっすぐそこに入った。私と同年輩の役人が「この百元未満」は給与全額のことで、
私のはここではなく奥の方だ、という。
 奥に入ると、大きな卓が二つあり、その周りに何名かが坐っていて、よく知
っている顔が私を呼んだので、伝票を出し、サインして銭票を貰った。順風と
いうべし。この組の傍らにとても太った役人がいて、多分監督官で官紗(絹の
薄物――或いは緞子だろうが、衣服に詳しくないので分からないが――シャツ
をはだけており、ぶよぶよの胸から三段腹に玉の汗がたらたらしたたっていた。
 それを見て端無くもある感慨に打たれた。現在皆が「役人の災難」「役人の窮
乏」と叫んでいるが、どっこい「心も広く体もでっぷり」したのはまだ少なく
ないと思った。23年前、教員が給料支払い要求で騒いだ時、学校の教員控え
室に飽食の者がいて、ゲップをすると胃の中のガスが口から出てきた。
 外に出ると同年輩の男がまだいたので、彼に不満をもらした。
「なんでこんなことをするの?」
「これは彼の意思で…」穏やかにニコニコしながら答えた。
「病人はどうするの?戸板に乗せて来るの?」
「彼はそういうケースには別な方法で処理する…」
 そこまで聞いて分かった。只「門――役所の―外漢」には解らぬだろうから、
注釈がいる。この彼とは総長か次官のこと。この時誰を指すかははっきりしなかったが、もっと掘り下げれば誰を指すかは分かるが、更に追求すれば分からなくなろう。要するに給料が入ったから、そんなことは「これ以上詮索せぬが
良い」さもないと、危うい目に会うことになる。今私が口外したのも既に穏当ではないのだから。
 それで窓口から出、昔の同僚たちに会い閑談した。まだ「戊組」まであって、すでに死んだ人の給料を払うのだが、この組には「本人受領」はないだろう。
今回の「本人受領」を言い出したのは「彼」だけでなく「彼ら」も含む。彼らとは「給料要求会」のボスたちのようだが、そうでもないらしく、役所にはとうに「要求会」は無くなっており、今回は別の一派を率いる新人物の由。
 今回「本人受領」の給与は、中華民国13年の2月分。それで事前に二つの学説があり、一つは132月の給与として払う。しかしそれだと新しく入省した者や新たに増額した者は、隅に追いやられた感を免れぬ。それで第二の学説が出て来て:往時のことは構わず、今年の6月分として支給する。しかしこれだと大いに不当で、「往時は構わぬ」の一言が問題なのである。
 この方法は以前もその処理に苦心した。去年章士釗が私を解任した後、官位を失って大打撃を受けたと思い、数名の文人学者が欣喜雀躍した。が、彼らは利口な人たちで、「部屋中すべてがドイツ語の本」に囲まれている人だから、すぐ私が単に官位を失っただけでは、一敗地に塗えるまでに至っていないことを悟った。私は未支給だった給与の支払いを得て、北京で生活できるのだから。そこで彼らの局長劉百昭は教育部の会議の席で、未支給分は支給せず、その月に支払うのはその月の分にしようと提案した。もしそれが実行されたら私は被害甚大で、即、経済的圧迫を受けることになる。
しかしその案は最終的には通らなかった。
 その提案の致命傷は「往時は構わず」にあり、それゆえ劉百昭は革命党だからといって、全てを一からやり直すという主張を押し通すわけにはゆかなくなった。だから今政府から出た金は、以前の分に充当し、たとえ今年北京にいなくても、132月にいたなら、実際に今いないからといってそれをカウントしないというのは難しい。しかし新しい学説が出た以上、少しはそれを考慮せねばならず、その結果は調整ということになる。このため我々の今回の伝票上の年月は132月とあるが、金額は156月分となる。
 かくして「往時のことは構わぬ」のではなく、新人や昇進、増額した者も少しは入金でき、多少ましになった。私には益無く損無しで、ただ今はまだ北京にいるから「正身」を示せる。
 私の簡単な方の日記を見ると、今年は4回支給あり:1回目は3元。2回目は6元。3回目は8250銭。即ち25%で端午の節句の夜に受け取った。4回目は3割で99元即ち今回。(魯迅の給与は月3百元弱と分かる、高給か)
私の未払い分累計は約9,240元(30カ月分)これには7月分は含まず。
 私は精神上の金持ちになった気分。惜しいかなこの「精神文明」ははなはだ頼りなく、劉司昭がこれを脅かしに来る。将来理財に長けた者が「未払い給与整理会」を設立して、事務所に何名かが坐り、外には看板をかけ、未払い分のある人たちはそこで相談することになるかもしれぬ。数日後または数か月後、人はいなくなり、看板も無くなり、精神的金持ちは物質的貧乏人に変じる。
 なにはともあれ、今確かに99元が手に入ったので、生活はちょっと安心できるようになったから、閑にまかせてまた議論をしよう。
           721
 
訳者雑感:
 30カ月分の給与が未払いでも生活できたのは、もともと高給で蓄えがあったのか、兼任の講師料や原稿料などで凌いできたのだろう。それにしても1回目は3元、2回目は6元、というのは給与の1%とか2%で、これでもなにがしかの足になったのであろうか。
 魯迅を北京から追い出そうとした章、劉たちの目論見は、官位的には彼を追い詰めたが、経済的には未払い給与支給が助けとなり、北京からの追放は果たせなかった。だが彼は翌8月北京を去ることになった。これにはいろいろな事情があるようで、これからおいおい翻訳してゆくことで明らかになろう。
 この当時まだ現在のような「銀行」が整備されておらず、「銭票」という名の
「手形」を発行する金融業者が中国各地に支店を開き、そこが発行する「票」で、大きな金額の支払いに充てていた。山西省の平遥には当時全国一の金融街があり、中国の「Wall Street」と呼ばれていた。訳者が前に訪問したとき、90年ほど前の町並みが保存されていて、大勢の中国人が観光に訪れていた。なぜこんな(日本人的には)内陸の奥地に金融街ができたのだろうかと不思議に思った。説明に依れば、南方のお茶を大量に内蒙古、モンゴルなど北方へ(モンゴル経由ロシアとか)販売する商取引が大変盛んで、その代金の支払いに「銭票」が不可欠であった由。富山の薬売りと同じで、多額の商品代金を現金(銅銭)で国元に持ち帰るのは、物理的にも重くて大変だし、途中強盗に奪われる危険が高い。それで「銭票」という手形を介して安全な取引にしたのが、この奥地に金融街が出来上がった由縁であった。
因みに、日露戦争の取材に満州奥地に入る外国人記者の必要物資を運ぶ大八車の写真には、車一杯に千枚ずつ紐を通した銅銭の山が積みこまれている。説明に奥地で食糧を調達するには、これでないと何も買えないからとある。
 魯迅が教育部に奉職して「高官」として勤務していたころ、月給三百元というのは、どれくらいのものだったか知りようもないが、3元とか6元の支給が意味を持っていたということから判断すると、相当なものであったことは、間違いないだろう。
 それが論敵、章士釗により解任されたということは、彼にとっても大きな痛手で、一家を養うために苦労した。それ以外もろもろの事情によって、北京を離れざるを得なくなった。この年は彼にとって大きな節目の年であった。
 2010/12/31
 

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7月8日

 午前、伊東医師の所に歯の治療に行く。客間で待つ間、無聊だった。壁には織物の絵と2対の聯が掛っているだけ。一つは江朝宗ので、もう一つは王芝祥
の。署名の下にそれぞれ二つの印があり、一つは名前でもう一つは称号:江のは「迪威将軍」王のは「仏門弟子」とある。
午後Miss高来訪。おやつが切れていたので、大事に取っておいた「口角のおできに効く柿霜糖を皿に盛って出す他なし。普段はおやつがあり、客にはそれを出すのだが:当初はMissMr.は一視同仁だったので、Mr.はややもすると出したおやつを一つ残らず平らげてしまうので、私の方が少し不満に感じ、自分も食べたいなら又買いに行かねばならぬ。そこで戒めとして方針変更し、やむをえないときは落花生に代えた。これは大変有効で、そうは沢山食べられぬし、あまり手を出さない人には丁寧に勧め、落花生の嫌いな織芳などは逡巡して逃げ去った。去年の夏にこの落花生政策を発明してからは今も継続中。しかし
Missはこの限りに非ずで、彼女らの胃は彼らより五分の四ほど小さく、消化力も十分の八ほど弱いので、小さなおやつでも大抵半分は残すし、砂糖菓子でも少しは残す。いくつか並べても少し食べるだけで、私の損失は極わずかだから「なんぞ改めんや」。
 Miss高はたまにしか来ない客ゆえ、落花生政策は取り難い。他におやつはなかったので、柿霜糖を出すしかなかった。これは遠方からのお土産の名菓で、勿論見栄えも立派だ。
 これはそんじょそこらの物とは違うから、まず來源と効用を説明せねばと思ったが、Miss高は一目瞭然。彼女はこれは河南の汜水県の銘菓で柿霜から作ったものと言う。最上品は濃い黄色で、淡い黄色は純粋の柿霜じゃない。これを舐めるとす―っとして、もし口角におできができたらこれを含むと徐々に口角から流れ出てすぐ治る、と。
 彼女は私の耳学問よりずっと詳しく、もう何も言えなくなった。この時になって、彼女が河南人だったことを思い出した。河南人に柿霜糖を勧めたのは、私に紹興酒を勧めるようなもので、まさに「その愚や、及ぶべからず」だ。
「茭白(マコモ)」の芯が少し黒いのを我々は灰茭といい、田舎の人間すら食べないが、北京では大宴会にもこれが出る。白菜は北京では一斤いくら、一車いくらで売られるが、南方に行くと根元を縄でしばり、八百屋の前に架け、買う時は一両(1/10斤)いくら、半株いくらで買い、火鍋の煮えたぎったところに入れたり、フカヒレの下に敷く。だがもし北京で私に灰茭を勧める人がいたり、
あるいは北京人が南方に行った時、白菜の煮たのを勧められたら、「おバカさん」とまでは言われないとしても、間の抜けたことを、と言われるだろう。
 しかるに、Miss高は一切れ食べて主の面子を立てて呉れたのだった。
 夕方ぼんやり坐りながら、これは河南以外の人に勧めるべきだったと考えながら食べている内に、平らげてしまった。
 凡そ物は希なるを以て貴しとす。欧米留学生の卒論は李白や楊朱、張三がいい。バーナード・ショーやウェルズなどはよくない。ましてやダンテなどは、「ダンテ伝」の作者バトラーもダンテの文献についても実際は読み終えてないと言っているくらいだ。中国に帰ってからバーナード・ショーやウエルズ、更にはシェークスピアなどどしどし講じたらよい。某年某月、私はマンスフィールドの墓前で痛哭した云々とか、某年某月、某所でAフランスと会った時、彼は私の肩を叩いて:君は将来私のようになる!と言った云々、と言えば良い。
「四書」「五経」の類に至っては、本国ではなるべく語らぬ方が良い。「流言」をそこに混ぜこんでも、「学理と事実」の妨げになることはなかろう。
 
訳者雑感:
 魯迅が役人になりそうな友人からもらった柿霜糖の黄色は濃かったかどうか。
私は濃くなかったのではないかと思う。
Miss高の言によれば、濃くないのは純粋の干し柿の霜から作ったのではない由。それでも彼女は魯迅の面子を立てて一切れ食べて呉れた。だから魯迅は、芯の白くないマコモが北京の宴席で重宝されることや北京の白菜が南方で貴重にされることを書いた後に、凡そ物は希なるを以て貴しとすると論じている。
 欧米留学帰国組が、彼の地でちょっと12度会った著名な文学者たちを引用して、自分の箔をつけたりしていながら、実際は薄っぺらな思想しか持ち合わせていないこと、生半可な理解認識しかない「四書」「五経」を持ち出したりして、古文古典を間違って使っていることすら自覚せずに、魯迅の「口語文」を攻撃してくる論敵への反撃である、と思う。
 当時の欧米文化の中国への紹介はまだまだ遅れていて、口語での翻訳もいまだしの感があったのだろう。彼は友人たちと共にせっせと翻訳に精をだした。
彼はそれらの文学を中国の青年たちに紹介することに情熱を傾けていた。特に
青年たちに勇気を与える作品。感動させる作品を。その前に彼自身がそう感じたものであること、言うまでも無い。
  2010/12/25
 
 

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そうですか

77日 晴。
 日々の天気は書いている当人も面倒ゆえ、今後は書かないことにする。
北京は幸い大抵晴れの日が多い。もし梅雨時なら、午前晴れ、昼過ぎ曇り、午後一時大雨、泥壁の崩れる音、聞こゆ。となるが書かないことにしよう。私の日記は将来気象学者が参考にすることはありえないから。
 午前、素園を訪問、閑談す。彼の話では、ロシアの有名な文学者Piliniakが先月北京に来たが、もう去った由。
 彼が日本を訪問したのは知っていたが、中国に来たのは知らなかった。
 この2年で、中国に来た有名な文学者は、私の知っているのは4人で、一人は勿論有名なタゴール、即ち漢字名「竺震旦」(竺はインド、震旦は古代インドが中国を指した言葉:出版社注)だが、インド帽をかぶった震旦人(徐志摩)に引っ張り回され、訳も分からないうちに去った。その後、イタリアで病に倒れ、震旦の「詩哲(徐志摩)」を電報で呼び寄せたが、「その後はどうなったか」知らぬ。
 今度はガンジーを中国に呼ぼうとしていると聞くが、この忍耐力卓越の偉大な人は、インドで生まれ、英国支配下のインドでこそ活動できる偉人に、中国に足跡を印させようとしている。だが、彼のはだしが華土を踏む前に、山影から暗雲が垂れ込めようとしている。
 次はスペインのIbanezで、中国には早くから紹介されてきたが、欧洲大戦時に人類愛と世界主義を強く提唱した人で、今年の全国教育連合会の議案からすると、彼は中国にふさわしくないので、誰も見向きもしなかった。というのも我々の教育家は民族主義を掲げているから。
 あとの二人はロシア人。一人はSkitalez,もう一人がPiliniakだ。二人ともペンネームでSkitalezは国外亡命中、Piliniakはソ連の作家で、自伝では革命初年からパン粉を買うために一年余忙しかった。それから小説を書き出したが、魚油をすすりながらで、こんな生活は中国では、一日中窮乏を訴えている文学家もきっと夢にも想像できないだろう。
 彼の名は任国楨君編訳の「ソビエトロシアの文芸論戦」に出ているが、訳は一冊も無い。日本では「IvanMaria」が訳されているが文体も特異で、この点だけでも中国人の目から―中庸の目―すると新奇に映る。文法は欧化され一部の人には目にガラス片がついたように見えるし、ましてや文体も欧化以上に奇抜である。そっときてそっと去ったのは実に幸いだった。
 それに中国では「ソビエトロシアの文芸論戦」に名前が出ているだけだが、
Libedinskyは、日本では「一週間」という小説も訳されている。彼らの紹介の早さと量は実に驚くほどだ。我々の武道家は彼らを祖師と仰ぐが、文人は彼らの文人の良さを少しも学ぼうとしない。このことから言えるのは、中国の将来は日本より必ずや泰平楽でいられるというものだ。
IvanMaria」の訳者、尾瀬敬止氏は言う。作者の考えは「リンゴの花は、古い中庭にも咲く、土があるかぎり、きっと咲く」と。そうであれば、彼はやはり懐旧の念から脱しきれていないことになる。しかし彼の目は革命を自らの体で感じ、そこには破壊があり、流血があり、矛盾があるが、創造が無いということではないと知っていて、決して絶望することは無かった。これこそまさに革命の時代に生きた人のこころだ。詩人Blockもそうである。彼らは勿論ソ連の詩人だが、純粋マルクス的な目から見ると、議論すべき対象が多いのも当然だ。だがトルストイ的文芸批評ならそんなにきびしい評価にはならぬと思う。
 惜しいかな、彼ら最新の作者の作品「一週間」をまだ見てない。
 革命の時代は多くの文芸家が委縮し、多くの文芸家は新しい疾風怒濤の大波に突き進んで行くが、のみ込まるか、或いは負傷してしまう。のみ込まれた者は消滅してしまうが、負傷した者は生きて自分の生活を切り開き、苦痛と愉悦の歌をうたう。それらが逝き去った後、次の新しい時代が現われ、より新しい文芸が生み出される。
 中国は民国元年の革命以来、所謂文芸家は委縮せず、負傷もせず、勿論消滅もせず、苦痛と愉悦の歌も無かった。それは新たな疾風怒濤の大波が無かったからであり、そしてまた革命が無かったからである。
 
訳者雑感:
 飛行機が無かったころ、タゴールやガンジーなどは船に乗って、いろんな国を訪れている。一生のうちに一度しか足を踏めないという思いからか、訪れた先での話も大変貴重で、大切に記録されている。活字に翻訳された本人の言葉を、肉声で直接聞きたいという外国の支持者、応援者を前にしての話は、舞台の役者と観客のように、時と共に去って戻らぬ音楽、芝居と同じである。
 孫文の大アジア主義も、神戸での演説が出発点であり、国内だけでの活動からは、出てきにくい性質のものだったろう。言葉を発する人が、自分を呼び、応援してくれる外国人を前にしての昂揚がなさしめたとも言える。
 魯迅は中国内のいろいろな所に出かけて講演していて、それが残されている。その講演の人を魅了する力は、書かれた雑文の数倍もあろうかと思う。
 惜しいことに彼は日本から帰国後、日本を再訪したことが無い。日本の文芸出版社などから何回も招かれたのだが、彼は日本に出かけなかった。
もし元気なうちに東京か仙台で日本人に何か語ってくれたらきっと素晴らしい話を聞けたろうに、と思う。
  2010/12/23

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