忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

アモイ通信3

 小峰兄:
 27日に送った原稿2篇は着きましたか。この種のものは本来書いても書かなくてもよいのだが、当地の青年たちが何か書けというし、他に何も書くことの無いのに苦しみ、何枚か書いて送った次第。当地にも何かアモイを批評するものを書けと言う人がいるが、今まで一行も書いてない。言葉も通じず、いろんな仔細を知らぬから、どこから書いてよいのかも分からぬ。例えば当地の新聞は先日来、連日のように「黄仲訓が公有地を占有」との見出しで書き立てたが、黄仲訓がどんな人物で、経緯も知らぬので、もし批評したら、本物の批評家が笑い転げるでしょう。他人が批評するのを妨げはしません。私が他人の批評を許さないというのは誣告です。私にそんな権力はありません。しかし私に編集させるなら、良くないと思ったら載せないし、実際、訳も分からぬ何とか運動の傀儡になる気はさらさらありません。
 数日前、(学生の)卓治君が目をギョロっとさせて、人が根拠も無く貴方を罵ったら、反駁して罵り返すべきだ、という。また多くの人が貴方の書いたものを読みたがっているから、黙っていてはだめだ。彼らが迷って仕舞う、貴方はもう自分ひとりのものではない、と。それを聞いて、ぶるっと震えが来ました。
以前、ある人が青年たちに、私のように古文を沢山読めと説教していた時と同じくらいに震えました。
嗚呼、一度紙製の冠をかぶると、公のものになり、援助する義務を負い、必ず反論してすぐ罵しり返さねばならぬ。もしそうであれば、一刻も早くそんなものは脱いでしまって、自由を取り戻すにしかず、です。
貴方はどう思いますか。
 今日もぞくっとする事件にあいました。アモイ大学の職務は病と称して、辞職しました。何もやれぬなら逃げるに如かず、です。しかし多くの学生が、せっかくアモイ大学改革のニュースを見てやってきたのに、半年もせぬ内に、今日はこの人、明日はあの人と去り、どうすれば良いのかと訴えてきます。これには私も実に困り果て、何も言えないのです。「思想界の権威者」或いは「思想界の先駆者」という、紙を糊でつけただけの冠が、あにはからんやかくも多くの人の子弟を誤らせたのか。数回の広告が、(私が載せたのではないが)彼らを他の学校から騙して来させたのに、結果として自分の方が逃げてしまう。
まことに申し訳ないことです。北京でもっと早く黒幕的な記事を書いて、学生たちを引きとめる人がいなかったことを悔やみます。
「面談の時はあいそがいいが、顔が見えない所では、攻撃する」式哲学は時に人の子弟を誤らせるようだ。
 細かい事情は多分御存じないでしょうが、私の最初の考えでは、確かにここに2年いて、授業以外に以前集めた「漢画象考」と「古小説鈎沈」を出そうと思っていた。この2冊の本は自分では出せないし、貴方に出してくれとも言えない。買う人は大変少ないし、当然コスト割れだから。資金のある学校しか出せない。だがここに来てこの状況からみて、「漢画象考」を出す望みも消え、自ら年限を1年に縮めた。もう去っても良いと思っていたのだが、林語堂の勤勉さと、故郷のために何かしようとする熱意のために口に出せなかった。その後
予算もあやふやになったが、語堂が頑張って校長が言うには、原稿を持ってくれば即印刷するとの由。さっそく持って行き、十分間程目の前に置いただけで持ち帰って来た。それ以後何の音沙汰も無い。結果は、ただ私の手元には原稿が確かにあり、ペテンでは無いと証明したに過ぎぬ。そのとき「古小説鈎沈」を出す望みも消えてなくなった。年限も半年に縮めた。語堂は校務と授業以外に闇討ち騙し討ちを防がねばならぬし、自分の関係無いことに心身ともに疲れ果て、まったく冤罪を着せられたようだ。
 一昨日の会議で、国学院の週刊(発行物)もほぼ廃刊になったのだが:校長の考えでは理科の主任のような人間を顧問にし、互いの気持ちを通じさせようとのことらしい。アモイの風習が理解できない。なぜ国学研究が理科主任の気分を害したのか。そして顧問と言う縄で彼を絡ませなければならぬのか。気持ちを通じ合わせる法は、研究したことも無いが:(同僚の)兼士も辞めたから私も辞めることにした。
 休暇まであと3週間あり、本来休んでも構わないが、ここでは教職員の給与について細かいことを言い、学校を10日ほど休むとその分を引こうとするので、休暇中の給料をもらおうとは思わぬから、今日までとし1カ月分引けばよいと思う。昨日もう試験も出題した。採点は翌月だが一銭も貰わない。見終わったら出発するから、もう刊行物は送らないでください。次の住所が決まったら連絡しますからそちらに送ってください。
 最後に例により天気について。例にといっても私のことだから批評家が私に天下の青年に対して、みな私の例のように、というのを強制しようとしていると非難すると面倒だから、決してそうではないと付言します。
 気温は確かに寒くなり、草木も前より黄葉したが、門前の秋葵のような黄色い花はまだ咲いていて、山里には石榴花もある。ハエは見かけなくなったが、蚊はときたま出る。夜も更けたのでお休み。 
    魯迅 1231
P.S. 又目が醒めた。拍子木の柝で五更と知る。学校の新業務が先月から増えて
夜回りも一人じゃない。聞いていて、夫々の鳴らし方が違う。はっきり2種あるのが分かる。
 ちょん ちょん ちょん ちょちょん!
 ちょん ちょん ちょちょん ちょん!
時を告げる柝の打ち方も流派があるのを知らなかった。
それをニュースとして併せ報告します。
 
訳者雑感:
 魯迅や林語堂たちのような著名な文人が、アモイ大学の改革のための「客寄せパンダ」の如く、1926年前後にたくさん集まって来た。魯迅の日記にも同年
98日に「顧頡剛(クーチエカン)より宋濂の「諸子弁」一冊贈らる」とある。
魯迅着任当時は、互いに行き来し合い、林たちを盛りたてて行こうとしたのであろう。だが、それはその後、本文に見られるようにもはや何もやることのないまでにあいそ尽かしをして、4か月で逃げ出すはめになる。
顧頡剛は「古史弁」を発表して、当時有名な歴史学者で、且つ胡適とも親交があった。次の「海上通信」に触れるように、胡適派と魯迅派の争いと外部からはとらえられているが、実際はどうだったろうか。中国の諺に「文人相軽んず」「文章は自分のが良い、女房は人のが良い」という。
 デユーイの実存哲学をベースとする胡適と魯迅の考えは折り合う事はなかったであろう。胡適は駐米大使も務め、新中国建国後は米国に亡命後、台湾に逃れた。
 1926年当時の混乱した中国にあって、多数派、実権に近かったのは胡適の方であったろう。学歴の高い「学者」たちにとって、厳しい批判をぶつけてくる
「学者でもない」辛辣な論客魯迅は煙たかったに違いない。それで所謂「学者」
たちに村八分のようにされて、追い出された形であろう。
 中国の文人たちの党派闘争の長い伝統は、いつもあいまいで尻切れトンボで
論戦を終結させてしまう日本の常識では考えられないほど熾烈で、その後魯迅と林語堂の間ですら、フェアプレーを巡って、「水に落ちた犬を打て」と主張する魯迅と林語堂は、激しい論戦を交えることとなる。生存競争そのものだ。
   2011/01/22

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R