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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「文学の階級性」4


 梁氏は先に無産者文学理論の誤りは「階級と言う言葉で文学を束縛している
から」で、――資本家と労働者は違いもあるが、同じような面もあり、「彼らの
人間性に(この字に原文は圏点を付す)差は無い」共に喜怒哀楽を持ち、恋もし、(但しここでいう意味は、恋そのもので、恋の形式ではない)「文学はこうした最も基本的な人間性を表現する芸術だ」からと言う。これは矛盾しており、空虚な言葉である。文明が資産を基礎とし、貧乏人が懸命になって「金持ち」に這い上がろうとするなら、「這い上がる」ことが人生の要諦で、富翁になるのが人間としての至尊なら、文学も資産階級を表現しておればそれで十分で、それをなぜ「同情心を以て」「劣敗」の無産者と一緒にする必要があろうか?
 況や「人間性」「そのもの」はどのように表現するのか?たとえて言うなら、
元素と化合物は化学的性質として化合力があり、物理的性質は硬度があるが、
その化合力と硬度を表すには2種類の物質で表さねばならない。物質を使わずに、化合力と硬度をただ単に「そのもの」で表すという妙法は無い:しかし
一旦物質を使うということになると、その現象は、それぞれの物質により違ってくる。
 文学も人間を借りてこなければ、その「性」を表せない。もし人間を使うなら、それは階級社会においては、どうしても所属する階級性から逃れられない。
「束縛」で規制せずとも、実際は必然的にそうなる。勿論「喜怒哀楽は人の情
也」で、貧乏人は、商売で大損する悩みは無いし、石油王は北京の石炭ガラ拾いの老婆の辛酸を知るわけもなく、飢饉の罹災者は金持ちの旦那衆のように蘭の花を愛でようなど思いもしない。(紅楼夢の)賈府の(召使いの)焦大は、林家の令嬢を愛そうなど滅相も無いことである。
 「汽笛だ」「レーニン!」などは無産文学ではないし「あらゆるものよ!」「全人民よ!」「喜ぶべきことが起こった!人々は喜びにあふれた!」も、「人間性」の「本質」を表した文学ではない。もし最も普通の人間性を表した文学を至高とするなら、もっとも普遍的な動物性――栄養、呼吸、運動、生殖――の文学、或いは「運動」を除いた生物性を表現した文学が、きっとその上に有るだろう。もし我々は人間だから、人間性を表現する権限があるというなら、無産者は無産階級であるから、無産階級を書こうとするのだ。
 次に梁氏は作者の階級と作品は無関係という。トルストイは貴族出身で、貧民に同情したが階級闘争は主張せず:マルクスは無産階級の人間でもなく:生涯貧苦にあえいだジョンソン博士の志行言動は貴族以上のものだった。従って
文学評価は作品そのものを見るべきで、作者の階級や身分をからめるべきではない。これらの例も文学に階級性がないことを証明するには足りぬ。
 トルストイは貴族出身ではあるがゆえに、古い垢を洗いきれずに、ただ貧民に同情するのみで、階級闘争を主張しなかっただけである。マルクスは元々
無産階級の人間ではないし、文学作品も無いが、もし彼が何か書いたとしても、
それが型通りの恋愛ものでないとは言えぬ。ジョンソン博士については、生涯
貧苦にあえいだが、志行言動は王侯以上のものだったという点は、私は英国文学と彼の伝記を知らないので、その理由は分からない。多分彼は元々「苦労して勤勉に一生働けば、かならず相当の財産を築ける」と思い、再び貴族階級に這い上がろうとしたが、はからずも「劣敗」してしまい、相応の財産も築けず、見かけ倒しの「爽快」さに浸っているほか無かったのかもしれぬ。
 その次に梁氏は:「良い作品は永遠に少数者の独占物で、大多数は永遠に愚かで、文学とは永遠に無縁だ」と言い、観賞力の有無は階級とは関係ないという。
「文学観賞力も天生のある種の福」であるから、無産階級にも「天生のある種の福」を備えた人がいる。私の推論ではこの「福」さえあるなら、貧しくて教育を受けられず、目に一丁字も無かった人も、「新月」月刊を鑑賞できるから、
「人間性」と文芸「そのもの」には階級性が無い証拠にできる、と言う。
 但し梁氏も、天生この福のある無産者は多くないと知っているから、別途あるものを彼らに見させ「例えば、なにか通俗的戯劇、映画、探偵小説の類」を「一般の農民、労働者は娯楽に飢えているから、多分少しは芸術的な娯楽も
必要」だからだ。こう見て来ると、文学は確かに階級により違ってくるが、それは観賞力の高さが影響してくるので、この力の修養は経済とは関係なく、上帝の賜物「福」による。従って文学家は自由に創造し皇室や貴族の御雇になるべきではなく、無産階級の威嚇も受けるべきではなく、提灯持ちの文章を書くべきではない。これはその通りだ。我々の目にする無産文学の理論にもまだ、
誰か、或いはある階級の文学家が皇室貴族の御用文学を書くべきでなく、また、
無産階級の威嚇を受けて提灯持ちをすべきだなどと言う文章を見たことは無い。
ただ、文学には階級性があり、階級社会では文学家は自分では「自由」と考え、
階級を超越していると思っていても、無意識に当階級の階級意識に支配されており、そうした創作は決して別の階級の文化ではないというだけのことだ。
 例えば、梁氏の文章は元々文学上は階級性を打ち消して、真理を広めんとしたものだが、資産を文明の宗祖と考え、貧民を劣敗者のカスとみなしており、
一瞥しただけで、資産家の闘争の為の「武器」――いや「文章」だと分かる。
無産文学の理論家は「全人類」のための「階級を超越」した文学理論を主張することは、有産階級を助けるものと考えており、ここに極めて明確な例証を与えている。成仿吾の如く「彼らは必ず勝利するから、彼らを指導し慰めに行こう」と言い、「行こう」と言った後で、味方以外の「他の連中」を「追い払おう」というような無産文学家は、言うまでも無いが、梁氏と同様、無産文学理論に対して「自分の都合のいいように解釈する」という間違いを犯している。
 次に梁氏が最も痛恨するのは、無産文学の理論家が、文芸を闘争の武器、即
宣伝道具にすること。彼は「誰かが文学を別の目的を達成するために使うことに反対しない」が「宣伝の文言を文学と称するのは、認めない」という。
私はこの意見は、自分に寛容な話だと思う。私の見る限りのそれらの理論は、
凡そ文芸たるもの、すべからく宣伝であり、誰もただ単に宣伝的な文言を、即
文学だとは主張していない。一昨年来、中国にはまことに多くの詩歌小説に、
明らかにスローガンや標語をはめ込んで、無産文学だと考えてきたものがいる。
だが、ただそれは内容と形式のせいであり、無産の気配は微塵も無く、スローガンと標語を使わないと、それが「新興」なものだと示すことができなかったためで、実際は無産文学ではなかった。今年有名な「無産文学の評論家」である銭杏邨氏は「拓荒者」に、ルナチャルスキーの言葉を引用して、彼は大衆が
分かる文学を推進することが大切で、スローガン標語を使うのをむやみに咎めてはいないし、それでそうした「革命文学」を弁護していることが分かる。が、
それも梁氏同様、悪気なしに曲解していると思う。ルナチャルスキーの所謂
大衆が分かる言葉というのは、トルストイが農民の為に書いた小冊子のような
文体で、農民や労働者が、一度読めばすぐ分かる語法、歌調、諧謔を指しているのだ。Demian Bedniiがかつてその詩歌で赤旗賞をもらったが、彼の詩には、標語もスローガンも無かったということを見れば明らかだ。
 最後に梁氏は作品の出来を見ようとする。これは正しいし確かな方法だ:が、
たった2首の詩を引用して血祭りに上げるのは間違っている。「新月」に、「翻訳の難しさを論ず」を載せたことがあるが、なんと対象の翻訳は詩であった。
私の見た限りでいえば、ルナチャルスキーの「解放されたドン・キホーテ」
ファジェーエフの「潰滅」グラトコフの「セメント」は過去11年間、中国で
これに匹敵するような作品は無い。これは「新月社」流の資産文明のせいであり、且つまた衷心よりそれを擁護する作家を指して言っているのだ。無産作家と称する者の作品中に、相当の成績を上げた人を挙げることもできない。銭杏
邨氏も弁護し、新興階級は文学の領域でもまだ幼稚で単純だから、彼らに即刻良い作品を求めるのは「ブルジョア」の悪意だという。この言葉は農民と労働者にとっては確かにその通りだ。そんな無理な要求をするのは、永い間寒さに震え飢えさせておきながら、なぜ金持ちの旦那衆のように太れないのだ、と責めるようなものだ。しかし中国の作者は今、つい先ほど鋤や斧の柄から手を放した人でなく、大多数は学校でのインテリで、何人かは既に有名な人で、自分のプチブル階級意識を克服した後、それまでの文学の本領を失ってしまったのか。そんなことはない。ロシアの老作家アレクセ―・トルストイやベレサーエス、プリシ―ビンは、今も良い作品を書いている。中国ではスローガンはあるが、随同して実証する者のいないのは、その病根は「文芸を階級闘争の武器にする」ということには無く、「階級闘争を借りて文芸の武器にする」ことにあり、
「無産者文学」という旗の下に、突如とんぼ返りをする人たちを大勢集めたためで、去年の新本の広告には殆ど革命文学でないものは無いありさまで、評論家もただ弁護するのが「清算」だと考え、文学を「階級闘争」の援護の下に座らせ、文学自体には必ずしも注力せず、その結果文学と闘争の双方とも関係が薄らいでしまった。
 しかし中国の目下の一時的現象は、無産文学の新興の反証とするには足りない。梁氏もそれは御承知のようで、彼も最後に譲歩して、「無産階級革命家が、
彼の宣伝文学を無産文学と称すなら、それは一種の新興文学とみなし、文学の新しい収穫とみなすほかないが、資産的文学を打倒せよと声高に叫ぶことは無かろう。文学の領域はとても広いから、新しい物もその位置はどこかにあるから」と。但しこれはあたかも「中日親善、共存共栄」の説の如しで、まだ羽も
生えそろっていない無産者からすると、一種の欺瞞である。それを望む「無産文学者」は現在実際にいるだろうが、それは梁氏のいう「出世の見込みのある」
資産階級に這い上がろうとする「無産者」の類で、彼の作品は貧乏書生の(科挙試験の最優等生の)状元に合格できないとこぼす時のグチや不平であって、
初めっから這い上がるまで、およびそれ以後も決して無産文学ではない。無産者文学は、自分たちの力で自分たちの階級を解放すること、及び一切の階級闘争の一翼となることで、求めているのは全面的な地位で、単なる一角一隅の地位ではない。文芸評論界に比すなら「人間性」の「芸術の殿堂」(これは成仿
吾氏から暫時借用する)に、2脚の虎皮張りの豪華な椅子に、梁実秋・銭杏邨両氏に並んで(王様然と)南面して坐ってもらい、一人は右手に「新月」もう一人は左手に「太陽」を持ってもらえば、本当に「労資」競艶の壮観だろう。
 
訳者雑感:
 無産文学という言葉は、戦前の日本語ではプロレタリア文学と呼ばれていたものだろう。小林多喜二の「蟹工船」などがそれだが、戦後それらは主流になることは無かった。ところが最近はまた別の観点から読まれ始めている。背景は何だろうか。非正規派遣という言葉が暗示するのは無産者だからか。
 「無産」とか「無産者」「無産階級」というのは有産者(階級)に対する言葉で、それまでは有産者の物であった「文学」を無産者にも、というのが無産文学を主唱した人たちの考えであった。しかし、無産者たちの中には、一生懸命
勤勉に働いて、資産を持てるようになって、資産階級に這い上がろうとする人が結構いた、と魯迅も梁氏以上に認識している。
 1949年に共産党政権が成立したが、上海や天津などの租界のあった大都会は
もちろん、山西省などの田舎でも、戦前の「大金持ち」「民族資本家」などは、
一定の財産所有を許されていたし、彼らの協力無しには新中国の建設もなにも
はかどらなかったから、やむを得ぬ措置であった。
 それが20年経って、1960年代の後半になっても一向に改善されるどころか、
無産者の生活は飢饉などで悲惨な一方、有産者たちは裕福に暮らしていた。これを自己の復権を図る毛沢東とその取り巻きたちが、なんとかせねばならぬ、と考えた結果、発動したのが、「プロレタリア文化大革命」であった。
 当時はほんの「一握り」の実権派、すなわち有産者、を「資本主義の道」を
歩む「走資派」と呼んで、「ソ連の修正主義」と同様に、批判否定して叩き潰そうとしたのが、このプロレタリア文化大革命であった。
 私の知っている「資産」を戦前から受け継いで暮らしていた人々は、家を追い出され、牢に繋がれた。有産者はすべて無産者になった。これが、この文化大革命の最大の目的であり、成果だとも言えよう。
 しかし、10年ほど、そうした運動が続いたが、結局は政権を我がものにしようと企む人たちの間の、権力闘争に堕してしまったから、人々の暮らしは益々
困窮し、世界的にも最貧の状態、無産と化した。
 これではならじと「改革開放」に立ち上がったのが30数年前。人民公社は
廃止。農民にそれぞれの土地を分けて、請負制にした。地方政府に土地の使用権を分譲できるようにして、香港をはじめとする日欧米の外資を呼び込み、産業を復興させた。それによる雇用創出と税収増大で、豊かになり始めた。
 「無産階級」の為に発動したプロレタリア文化大革命の結果、まずは、沿岸の開発区をはじめとする大都市の「無産者」を「有産者」に変え、農村から
出稼ぎに都市に出てきた「無産者」をも「有産者」に変えつつあった。
 今、大都市に昔から住んでいた人々は、高層の豪華マンションを所有し、立派な家具付きの家で暮らす。大都市の半分以上は中流以上の「有産者」となって、マイカーが北京の路上を常時渋滞にするほどになった。
 ロッキード事件で退陣させられた田中角栄の受け取った賄賂は3億円であった。温州の大事故を起こした鉄道建設で前任の鉄道相たちが取った賄賂はなんと2千億円という。大変な資産階級を生みだしたものだ。
 21世紀の中国で「蟹工船」のような「無産文学」を読む人はいるだろうか。
            2011/07/27

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