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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「文学の階級性」3

3.今回の「天上の本より難しい」無産文学理論の翻訳は、梁氏に少なからぬ影響を与えた。内容は理解できぬが、影響は受けたというのは滑稽なようだが、ほんとのようだ。この評論家は「文学に階級性はあるか?」で:「私は今、所謂無産文学理論を批評しているが、ただ私の理解できる少しばかりの材料によるのみ」と言う。これはとりもなおさず、この理論に関する知識は極めて不完全だと言っているに等しい。 但し、この罪に対しては、我々(「天上の本」より難しい本の訳者すべてを含むので「我々」と称す)も責任の一端しか負えない。残りは作者自身の無知と怠慢によるものだ。「ルナチャルスキーとかプレハーノフ」の本は私も知らない。「ボゴダーノフの類」の三つの論文とトロツキーの「文学と革命」の部分訳なら英訳が出ている。英国には「魯迅氏」はいないから、訳もきっと非常に分かりやすいだろう。梁氏は偉大な無産文学の誕生を待ってみよう。待とう、と彼の忍耐と勇気を示しておきながら、今回理論に対しては、いささかも待てないのか?他の本を探してからというわけにはゆかぬのか。有るのを知らないで求めぬのを無知といい、知っていながら求めぬのを怠慢と言う。単に黙坐してるなら、それも「爽快」かもしれぬが、一旦口を開いたら冷気は喉にすぐ入ってくる。 例えばあの「文学に階級性はあるか?」という高名な文章の結論は階級性は無いというもの。階級性を抹殺しようとする点、もっとも徹底しているのは、呉稚暉氏の「何がマ(馬)ルクスや牛クスだ!」と、某氏の「世の中に階級というものは無い」という学説だと思う。本当にそうなら全ての議論は収まり、天下太平となる。しかし梁氏は、その「何がマルクスか」の毒にあたってしまい、まず多くのところで、資本制度が行われていて、その制度の下で無産者がいるということを認めている。しかしこの「無産者はもともと階級の自覚は無い。数名の同情心にあふれた、過激なリーダーたちがこの階級観念を彼らに授けたのだ」彼らに聯合をうながし、闘争の願望を抱かせた。その通りだが、伝授者は同情心からなどではなく、世界を改造しようと考えたからだと思う。況や「もともとそんな意識も無い」ものは自覚のしようもないし、激発のしようもない。自覚し激発できるのは、もともと有ったからである。 もともと有るものは、暫くは隠せても、ガリレーの地動説、ダ―ウィンの生物進化論のように、当初は宗教家に焼殺されたり、保守派から攻撃されたが、今の人々はこの両説を奇としなくなった。それは地球が自転しており、生物が確かに進化しているからだ。存在を認めておきながら、存在せぬと粉飾することは、神技でなければできぬことだ。 しかし、梁氏は自ら闘争をしなくてすむ方法を持っていて、ルソーの言うように:「資産は文明の基礎」で「資産制度を攻撃するのは文明に歯向かうもの」で、「一無産者が将来見込みがあるとすれば、一生苦労をいとわず、勤勉につとめれば、何名かは相当の資産を得ることができる。これこそ正当な生活闘争の手段である」ということを正しいと考えている点だ。 私が思うに、ルソーは150年前に亡くなっているが、過去と未来の文明が、全て資産を基礎としているとは考えていなかったろう。(但し、経済関係を基礎とするというなら、それは正しいが)ギリシャ・インドには文明があり、繁栄した時はどちらも資産社会ではなかったということは、彼も知っていたろう。知らないとしたら、それは彼の間違いだ。 無産者は苦労して有産階級に這い上がる「正当」な方法は、中国なら金持ちの旦那衆が気分の良い時、貧しい労働者に訓示を垂れるという例がある。実際今も「苦労して勤勉に」上級に這い上がろうとする「無産者」も大変多い。しかしそれはこの「階級観念を伝授する」人がいない場合である。伝授されたら、一人ひとりが這い上がろうとするのではなく、正に梁氏の言うように、「彼らは一つの階級であり、組織しようとし、集団となって常軌に従わず、一躍して、政権・財産権を奪取し、一躍支配階級になる。しかしそれでもなお「苦労して勤勉に働き、将来きっと相当な資産を持てる」と思う「無産者」も勿論いる。それはやはり、まだ金もうけできていない有産者である。梁氏の忠告は、無産者には嘔吐すべきものであって、ただ単に旦那衆と互いに御世辞をいいあっているに過ぎない。 それなら将来はどうなるのか?梁氏は心配無用という。「この種の革命の現象は長続きせず、自然進化を経て、優勝劣敗の法則が証明するし、利口で才能のある人が優越な地位を占め、無産者は相も変わらず無産者のままだ」という。 しかし無産者も多分わかっているように、「反文明の勢力は早晩文明勢力に征服される」から所謂「無産階級文化――そこには文芸・学術も含む――をうち立てようとするだろう。 さあこれから、やっと文芸批評の本題に入るとしよう。     訳者雑感: 魯迅自身、自分はどちらの階級に属していたかは明白に意識している。中国には、裸一貫で天秤棒を担いで1年365日休まず働いて、資産を蓄え、それを元手(資本)に商売を始め、店を構え、それを拡充して、旦那衆の仲間入りを果たす、という中国の夢が、かつてのアメリカンドリームと同じように、3千年以上続いてきた。東南アジアに渡って成功した移民たちは、殆どこの例に属す。魯迅の先祖も中国の内陸から紹興に移ってきて、成功した移民であった。 本文では、そうした中国夢の伝統に根ざした梁氏の「文学に階級性は無い」という説に対して、猛烈に反論を展開している。彼自身も文芸・文学は閑と銭のある人間しか書けないし、鑑賞もできないという考え方で育ってきたし、事実それを認めてもいる。しかしロシアでの「無産階級の文芸」論など懸命になって読み、理解しようとして、自分の影でもある梁氏に反論している。それはつい数年前までの自分が考え、感じていたことだからよく分かるのだ。 これまでの文芸は、中国の夢を叶えるために現状肯定派たち、既得権を手放したくない人々によって守られ育てられてきたものだ。それを一度こわして、無産者が集団となって、一躍支配者になるような仕組みを作ることが必要だ。そのための文芸は どういう方向を目指すのか。 さあ これから本題に入ろう。 というまえがきだと思う。  ここまで訳してきて、22日の日経新聞に「中国の都市化」が改革開放の結果 20数パーセントから40数パーセントに上昇したと報じていた。13億人の内、 2-3億人が農村から都市に移ってきた計算だ。しかし新聞に依ると、中国の都市にインドやインドネシアなどの様な農村から来た人たちのスラム街が無いのは、農村戸籍を都市戸籍に移させない政策に拠っているとしている。 現実には外国人記者には見えない所、見えない形での貧民屈はあるのだが、ボンベイやジャカルタのようなスラム街を形作っていないだけである。都市に流れ込んでくる(農)民工たちは、農村で小麦を植えているだけでは、生活してゆけないから出てきたのであって、政府は小麦の買い上げ価格を引き上げて、農民が都市に出稼ぎに来なくても生活できるように努力はしている。 しかし、全ての民工がそうだとは言えないが、その中には、梁氏の指摘したように、「苦労して勤勉に働いて」元手をためて上級に這い上がろうとする農民も多いのは確かだ。大連の街中でも、四川省や雲南省から来た人々が、リヤカー一台でチリンチリンと故物回収に回り、集めてきた瓶やペットボトルをなどを、4-5人の家族みんなでひとつひとつより分け、それぞれの買い手の所へ持ちこんで、生計を立てている。携帯電話を持ち、商売になりそうな物件の情報交換もしているが、日に焼けた顔には暗さは微塵もない。いつか元手をためて、三輪自動車を買い、更にはトラックを買おうと彼らの中国の夢は膨らむ。    2011/07/22訳

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