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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「硬訳」 文学の階級性 2


2.
だが私が最も面白いと感じたのは、引用した梁氏の文中に「我々」という
字が2か所あることで、「多数」や「集団」という気配が濃厚なことだ。勿論
作者は、一人で執筆しているのだが、気分は一人ではなく「我々」というのも
間違ってはいないし、読者に力強さを感じさせ、一人だけの双肩で責任を負っているのではない。しかし「思想が統一できぬ時」「言論が自由であるべき時」
正に梁氏が資本制度を批評するのと同様、ある種の「弊害」もある。例えば、
「我々」には我々以外の「彼ら」があり、新月社の「我々」は私の「死訳の
風潮を放置してはいけない」と考えるが、それとは別に、読んでも「何も得る所は無い」とは思わない読者もおり、私の「硬訳」はまだ「彼ら」の中に生存していて、「死訳」とは一定の区別があるのだ。
 私も新月社にとっては「彼ら」の一人で、私の訳と梁氏の求める条件とは、
全てが異なるからだ。
 あの「硬訳を論ず」の冒頭に、誤訳は死訳に勝るとして:「一冊の本に断じて
全てが曲訳というものはありえない…部分的に曲訳、或いはそれが間違いであり、読者を誤解させたとしても、またその間違いが大きな害を及ぼすかもしれぬが、結局は読者が爽快に感じるのだ」という。最後の2句は、圏点をつけても良いくらいだ。私はこれまでそんなことはしたことも無い。私の訳は元来、読者の「爽快」を博すためではない。往々にして不愉快にさせ、甚だしきは、憂鬱にさせ、憎悪させ、憤慨させるものが多い。読んで「爽快」になるというのは、新月社の面々の訳で:徐志摩氏の詩、沈従文凌叔華氏の小説、陳源氏の閑話、梁実秋氏の評論、潘光旦氏の優生学、それにバビット氏の人文主義がある。
 だから梁氏が後文にいうように:「こういう本は地図で探すように、指で語法の脈絡関係を探りながら」云々というのは、とてもおかしなことに思える、
言わずもがなではないかと思う。私に言わせれば、「こういう本」を読むのは、
地図で探すように指で「語法の脈略関係」を探るように読むものなのだから。
地図で探すのは「楊貴妃出浴図」や「寒季の三友(松竹梅)図」を眺めるような「爽快」さ、は無い。甚だしきは、指で探る(というのは多分梁氏自身がそうしているからで、地図を見慣れている人は、目だけで簡単に探せる)ことも
せねばならぬこともあろう。但し、地図は死図ではない:だから「硬訳」は
同じ労を費やすけれど「死訳」とは「一定の差」がある。ABCDを習ったから、
自分は新学派だと任じていたとしても、化学方程式とは関係なく何も分からないとか、ソロバンができるから、算術家だと自任していても、やはり筆算での
演算を重視するなら、やくたいもない。
 今の世の中、一人の学者が全てのことに関わりあうことはできない。
しかるに、梁氏はその例外で、「前後の文章が無いから、意味は判然としないが」と言いながら、私の訳を三段引用しているのだ。また「文学に階級性はあるか」という文でも似た手口で2首の訳詩を引用して「きっと偉大な無産文学はまだ出現していないから、私は待つことにしよう。待ってみよう。待とう」と。
 この方法は誠に「爽快」だ。しかし私はこの月刊「新月」の創作――そう、
創作なのだ!――「引っ越し」の第8ページから一段を引用しよう。
「ヒヨコに耳はあるの?」
「ヒヨコに耳が有るのを見たことはないわ」
「それなら、どうやって私の声が聞こえるの」
彼女は一昨日、四(よん)おばさんが教えてくれた、耳は音を聞くため、目は
ものを見るためにある、ということを思い出していた。
「この卵は白い鶏のなの、黒い鶏のなの?」枝児は四おばさんの答える前に、立ち上がって、卵を触りながら訊いた。
「今はまだ分からない。ヒヨコに孵ったらわかるよ」
「婉児ねえさんは、ヒヨコは鶏になるのよと言ったわ。このヒヨコたちも鶏に
なるの?」
「餌をあげて、大事に育てれば、大きくなるよ。この鶏だって買って来た時は
こんなに大きくなかったでしょ」
 もう十分だろう。「文」は分かるし、指で脈絡を探すまでもない。しかし私は
「待って」もいられない。この一段は「爽快」でもないし、ほとんど創作とは
縁遠いしろものだ。
 梁氏は最後に詰問して曰く:「中国語と外国語は違うから…翻訳の難しさはここにある。もし二つの言葉の文法や句法が全く同じなら、翻訳という仕事は成り立たつだろうか?…句法を変換してみて読者が分かるようにするのが第一義で「辛抱強く」というのは楽しいことではないから、更に「硬訳」も「元来の
精悍な語気」を保てるとは限らぬから。
 もし「硬訳」が「元来の精悍な語気」を保てるなら、正に奇跡だろうし、それでも中国語に「欠点」があるなどと言えようか?
 私もそれほど愚かではないから、中国語と同じ外国語を探そうとか、「文法、
句法の全く同じ外国語を望んだりはしない。が、文法が複雑な言葉は、外国語に翻訳し易いし、語系として近いのは訳し易いと思う。だがやはり一つのれっきとした仕事である。オランダ語のドイツ語訳、ロシア語のポーランド語訳は
仕事ではないといえようか?日本語と欧米語はたいへんな「違い」があるが、
彼らは徐々に新しい句法を増やしていて、古文に比べて、翻訳にも便利で、しかも元来の精悍な語気を失っていない。最初はもちろん「句法の脈絡関係」を手探りしなければならず、一部の人には「不愉快」な気持ちにさせたが、
それらの過程を経て、今では同化し、自分のものとなった。中国の文法は日本の古文よりさらに不完備な点が多いが、変遷はしてきており、「史記」「漢書」ではもう「詩経」と違っている。今の口語文も「史記」「漢書」とは違っており、
いろいろ増やし、造語してきている。
 唐の仏典漢訳や、元の(モンゴル語の)詔勅の漢訳は、当時としては「文法句法詞法」など新たに作ったものだが、習慣的に使われるようになり、指でなぞらなくても分かるようになった。今また「外国語」の多くの句が入ってきて、
新造せねばならなくなり、悪く言えば硬造となった。
 私の体験ではこうして訳した方が、何句かに分けるより、元来の精悍な語気が保てるが、新造の漢訳を待たねばならぬから、そこに元々の中国語の欠点が有るわけである。何も大仰に奇跡とか、なんとかせねばと言うほどの事も無い。
 ただ「指で探りながら」とか「辛抱して」などに依存するのは不要で、そんなことは、有る人たちには「不愉快」だろう。だが私は元来「爽快」とか「愉快」をそういう諸公に献じようなどとは思ってもいないし、若干の諸君が何か
得る所が有れば、梁氏「たち」の苦楽や「何も得る所なし」などは、「私には
浮雲の如し(論語)」である。
 但し、梁氏はもとより無産文学理論に助けを求める必要も無く、依然として
御わかりになっていないのは、例を挙げると、「魯迅氏が数年前に翻訳した文学、
例えば厨川白村の『苦悶の象徴』は分からないではないが、最近訳したものは、
風格が変わったようである」と言う点だ。
 常識が少しでも有る人ならご存知だろうが「中国語と外国語は違う」が、同じ外国語でも作者各人の書き方「風格」と「句法の脈略」も大いに違うし、文章も長いのや、簡潔なの、名詞も一般的なものと専門的なものなど、同じ外国語でも難易度に差がある。私の「苦悶の象徴」の訳は今と同じで、規則に従い、句をおって、甚だしきは一字ごとに訳したが、梁氏にはおわかり戴けたようで、
やはり原文がもともと分かりやすかった故か、或いは梁氏が中国の新進の評論家の故だろう。文中に硬訳した句は比較的見慣れたものだったためだろう。
寒村で「古文観止(古典文集)」しか読んでない学者たちにとってはきっと
「天上の本」よりずっと難しいことだろう。
      2011/07/14
 
訳者雑感:
 中国語の欠点は、外国語を日本の様に音をそのままカタカナ表記で済ませ、
その意味を原義どおりに認識するということが難しいということが言われる。
アメリカを日本ではアメリカとか米国というが、中国語では美国といい、イギリスは英国でこれは多分日本が輸入したのだろうが、英明な気分が伝わる。
フランスは仏と訳していたこともあったそうだが、仏教とは無関係だとして
法律の国だから、法国。ドイツは独ではなくて徳のあるというイメージの徳国。
これは欠点であると同時に、一字一字が意味を持っているという特長でもある。
漢字の裏に秘められた意義から離れてその音だけを使うことは難しい。
日本語のカタカナ語も外来語の原義を正確に認識して使うことは非常に難しいことではある。テレビと電視、パソコンと電脳、ラジオと無線電(収音機)などの具象的な物なら認識は容易だが、デモクラシーとかコミュニズム等は李大釗の頃は、徳(デモクラシ―の頭文字)、亢(コミュニズムの頭文字)などを充てていた由。右からの縦書き、または横書きではローマ字を挿入するのは難しかっただろうから、漢字に変換せねば読みづらいこと甚だしかったろう。
今は左からの横書きが主流となり、縦書きの本は古文を除けば、殆ど見書かなくなった。しかし、左からの横書きでも日本の本のように、ローマ字のまま引用されているケースは科学書を除くと大変少ないと思う。
 外国の人名、地名はぜひともローマ字でそのまま記載して欲しいと思う。
日本で中国の人名、地名に中国音でルビを付けるようになったが、中国で東京や山田を日本音のローマ字でルビをふった文章は殆ど、見かけない。
 
 閑話休題。魯迅が本文で唐代の仏典とか元代の詔勅のモンゴル語から中国語への転換を通じて、中国語も外国語の翻訳に対応するため、変化してきたと指摘している。三蔵法師は、サンスクリット語を解したわけではないが、サンスクリット語を解する人たちにその原義を口頭で中国語の口語文に転換してもらい、それを彼の言語中枢を駆使して、文章語としての漢語に転換したものだと
言われている。音も近く意味もそれなりに正確に近い訳と感心するが、般若心経の最後のギャーティ ギャーティは音そのままにしてある。これが原義を損ねず、その意味は「かくかくしかじか」と諭すことの方が受け入れる人に力強い印象を与えるに違いないと確信したからであろう。
 魯迅がもう一つ挙げている、元代の詔勅の漢語訳のことだが、現代中国語の
文章は、ウラルアルタイ語系の言い回しに大きく影響を受けていると言われていることと関係すると思う。魯迅自身も彼の中国語は日本語の影響を受けていると認識していたと思う節がある。訳者もシンガポール、北京、上海、天津、
大連などで、日本語を解する中国人と話していて感じることは、彼らは私が日本人であることを頭のどこかに感じながら、私に向かって日本人が理解しやすいような中国語で話してくれることを、しばしば感じたものだ。彼ら同志が、
夢中になってケンカ腰で罵りあっている時のネイティブな漢語とは違うようだ。
 それは、元代のモンゴル人がモンゴル語で公布する詔勅を漢語に訳すときから、始まったのではないかと思う。元が明に追われて、又純化がなされたかも
しれぬが、次にやってきた満州族も同じようなウラルアルタイ語系の文法句法でものごとを考えしゃべるから、彼らはモンゴル人のようにモンゴル語を押し付けたりするのではなく、彼ら自身が漢語を習得する段階で、満州語の言い回しで漢語をしゃべりだしたので、満州人の役人がしゃべる漢語に合わせて、被支配者の立場であった多くの漢族官吏や商人、町民たちが彼らに理解しやすい
文法、句法で漢語を変化させていったものではないか、と思う。
古文ではS V O、我写信了、と簡潔明瞭であったが、S O Vという形も、時には便利だと感じて、 我把信写完了という口語を文章化して定着させたのではないか、と思う。本訳文体が古めかしい従来の文体より新鮮に感じたとき、
翻訳口調が定着していったのだろう。(上記の漢語は「手紙を書いた」の意)
 それにつけても、昨今の流行歌(?)、もはやこの言葉も手垢がついてしまって、殆ど使われなくなったが、歌詞の半分以上がカタカナ語、或いはローマ字
そのままの歌がなんと増えたことよ。題名そのものも英語のままで、これで
本当に日本人同志の意思疎通が図れているのか、疑わしくなるほどだ。だが、
これも、満州人に支配された漢族が漢語を変化させざるを得なかったように、
米国に占領されて映画や音楽などのアメリカ文化を浴びるほどに施されて来た影響によるものなのだろうか。戦後の20年ほどは確かに英語の氾濫が到るところで起こったが、古い日本映画や音楽も大切にされてきたし、我々世代の心に残っているものは、アメリカのものと日本のもの両方が入り混じっていると思う。それが2000年前後から、逆に殆どがカタカナ、ローマ字表記の文化に変換してきたのは、どうしてだろうか。脱漢字文化には違いない。
    2011/07/14記す。
 
 
 

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