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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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准風月談(風月談を准可す)前記

准風月談(風月談を准可す)前記
 民国建国22年5月25日「自由談」の編者の「海内文豪は今後大いに風月を談じて
貰いたい」との呼びかけ以来、
老舗の風月文豪が我が意を得たりと至極ご満悦だったが、
冷淡なのも、洒落たのもあり、更には単に「文壇のスパイ」しか能の無い狆ころたち
すら、彼らのご立派な尻尾をピンと立てたりもした。
面白いのは、風雲を語れる人は、風月も語ることができるとしていることだ。
風月を語れというなら、語ってみることにしましょう。
といっても例によって、御意の通りには参らぬでしょうが。
 題目を一つの絞って作家を制限しようとするのは実際はできない相談だ。
試しに「学びて時に之を習う」という題目を出して、
前朝の遺少(清朝の遺老の老を少<若い>と変えた)と車夫に八股文を書かせたら、きっと全く違ったものになるだろう。
当然、車夫のは全く通じないデタラメなものとなるが、この通じぬデタラメこそが、
遺少たちの天下を倒したのだ。
昔の話にも:
柳下恵(古代の賢人)は飴を見て「養老できる」と言ったが、盗跖(下恵の弟で大泥棒)はこれで閂(かんぬき)をはずせると言った。
彼らは兄弟で、同じものを見ても、思いついた用途は天地の差がある。
「月白く、風清きこの良き夜は何とせん?」(蘇軾の詩)よろしい。風雅の極みだ。
もろ手で賛成する。だが、同じ風月でも「月の暗いは殺人の夜、風の強いは放火の天」というのも一聯の古詩ではないか?
 我が風月談も騒がしいものになったが、それは「殺人放火」の為に非ず。
しかし「風月を大いに談ぜよ」を「国事を談ずるな」と取るのは誤解である。
「国事を漫談する」のは問題無いし、「漫」であるかぎり、
放たれた鋒先がある人の鼻に命中さえしなければ問題無い。
それは彼の武器で看板でもあるからだ。
 6月から色んな筆名を使い始めた。一つには面倒を省くため。
もう一つはある人が罵っている様に、読者は内容を見ないで、
作家名しか注意しないというのを避けるため。
だがこうして書いて見たら、視覚によらずに、専ら嗅覚に頼る「文学家」を疑心暗鬼にさせ、彼らの嗅格が全体と一体となって進化していないため、
新しい作家の名を見ると、
すぐ私の仮名だと疑い、私に対して吠えて鳴きやまず、
その結果ひどいことには読者も
その騒ぎのために、訳が分からなくなってしまった。
当時使った筆名を各篇下に残し、自ら負うべき責めを果たそうと思う。
 もう一点、以前との違いは、発表時に改削されたものは大抵補い、
傍点をつけて分かるようにした。改削が編者や編集長によるのか、
官憲の検査によるかは今では弁別の法も無いが、推想するに、
文を変更するのは諱忌(いむべきもの)を取り去ることで、
文章として脈絡があるのは、大抵編者によるもので、でたらめに削除され、
語気の繋がりに構わず、意味が通るかも構わぬものは、欽定文である。
 日本の刊行物にも禁忌がある。但し、削除箇所は空白か破線で、読者もそれと知る。
中国の検査員は空白を許さず、必ず文字を続けるから、
検査の際の痕跡が分からぬので、
あいまいな表現はすべて作者のせいにされる。
このやり方は、日本より進化しているから、中国検閲史上、
極めて価値ある故事として、残すことを提案する。
 去年の略半年間に随時書いたものが、知らぬうちに1冊となった。
雑多な文に過ぎぬから「文学家」から、取るに足りぬと言われるだろう。
だが、こういうような文章は、
今はだいぶ少なくなったし、「落ち穂拾い」の人たちも、
この中から何か拾えるかもしれないから、これも暫く生きて行けると信ずるので、
1冊として印刷したわけだ。
      1934年3月10日 於上海

訳者雑感:
「准風月談」を日本語読みする際「じゅんぷうげったん」とすると、
順風の意味がまず浮かぶので、そんな風に誤解していた。
正しくはジュン 風月談なのだ。
内容を訳してみて、1933年前後の上海で魯迅は官憲の検査が厳しくなって、
魯迅の名では雑文を出せなくなっていたことが分かる。
それで6月から色々なペンネームを使っていろんな雑誌に寄稿していたのだ。
 松本重治の「上海時代」に彼が長与善郎を魯迅と引き合わせたことが出ている。
その席で、日本も検閲がうるさくなってはきていて□□や伏せ字などで出版界も大変だとはいうが、上海では魯迅の名前で作品をだすことすらできなくなっていることなど、
日本より数段厳しいことなどが話題になったこと、
魯迅が来る途中の通りで見かけたすごく豪華な棺桶を見て、
入りたくなったよ、などとの「冗談」を長与は誤解して、
魯迅がとても暗い印象を受け、それを日本の雑誌に書いている。
それに対して、魯迅はそうではないということを増田に伝えているのだが…。
当時、魯迅の体も大分悪くなっていたこともあり、日本に来て治療を受けながら、
作家活動をしてはどうかと色んな人から勧められたが、行かなかった。
 官憲の検査が厳しくなって、書きたいものも書けなくなるし、
原稿料もろくに貰えない状態だが、やはり中国にいなければ、
彼は何も書けなくなるから、と断った由。
2012/05/12訳

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