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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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中華民国の新「ドンキホーテ」たち

16世紀末、スペインの文人セルバンテスは大作「ドンキホーテ」を書いた。このキホーテ先生は剣豪小説にとりつかれ、古代の遊侠に倣おうと壊れた甲冑を着、痩せ馬に乗り、
従者一人を連れて漫遊し、妖怪を斬り、服従させ、暴虐者をやっつけて民を安んぜんとした。ところが、もうそんな古色蒼然たる時代は終わり、多くの笑い話を残したのみだった。
幾多の苦労をなめ、ついに大きなペテンにかかり、重傷を負って狼狽して帰り、家で死んだが、臨終の時、やっと自分がなんら大した侠客でもなく、凡人に過ぎぬと覚った。
 この古典は去年中国でも大変多く引用され、このあだ名を頂戴した人はどうもうれしくないようだった。確かにこの書物ボケはやはりスペインの書物ボケで、「中庸」を尊ぶ中国にはこれまで無かった類のものだ。スペイン人は恋を語るにも、毎日女の家の窓の下で歌う。カトリックを信じるとなると異端を焼き殺し、革命となると教会を破壊し、皇帝を蹴りだす。だが、我が中国の文人学者は、女の方から誘引されたと言うし、諸々の宗教の源は同じゆえ、寺社は保存すべしという。宣統帝は革命後も長年の間、宮殿で皇帝のままでいるのを許してきたではないか、と。
 先日の新聞に何名かの店員が剣豪小説にかぶれて、忽然(武術で有名な)武当山に行き、
修業したなどはキホーテに似ている。がその後どうなったか続報が無い。あまたの奇跡を起こしたとか、暫くして家に戻ったか知らぬ。「中庸」を旨とする例からすれば、多分家に戻ったのだろう。
 その後中国式「キホーテ」の登場は「青年援馬団」(馬という抗日将軍への支援団)だ。
しかし兵でもないのに戦場に行くと言いだし:政府は国際連盟に提訴しようとしているが、彼らは自ら動き出そうとし:政府はそれを許さぬが、どうしても行くという。中国にも鉄道ができたのだが、一歩一歩歩いて(東北まで)行くと:武器は大事だが、ただただ精神を重視する、と。これらすべては確かに「ドンキホーテ」と呼ぶに十分である。だがやはり中国の「ドンキホーテ」で本物は一人だが、彼らは団体:彼を送りだしたのは嘲笑で、
彼らを送ったのは歓呼:彼を迎えたのは「いぶかり」だが、彼らを迎えたのはこれも歓呼:
彼は深山に住んだが、彼らは(上海近郊の)真茹鎮に駐屯:彼は粉引き小屋の風車を戦ったが、彼らは常州で櫛簪の女と戯れ、美女に出会った。なんたる幸い。(「申報」12月号
「自由談」参照)その苦楽の差たるやかくの如し。嗚呼!
 確かに古今内外、小説はあまた有り、中には「棺を担いで」「指を切って」「秦庭に哭し」
「天に誓って」などの決死の物語は多い。今も目にし、耳にするは、棺を担ぎ、指を切り、
孫文陵に哭して出発を宣誓するなどから免れていない。五四運動のころ、胡適之博士が
文学革命を講じた時、「古典は用いぬ」ように、としたから今や行動でも用いぬ方がよいではないか。
 20世紀の戦争小説では少し古いので、レマルクの「西部戦線異状なし」レンの「戦争」
新しいところでは、セラフィモヴィッチの「鉄の流れ」やファジェーエフの「毀滅」があるが、それらにはこの様な「青年団」は出てこない。彼らは皆本当に戦ったのだ。
訳者雑感:
岩波映画が文化革命の中国の青年たちが団を組んで、全中国を歩いて回った映画を造った。
「夜明けの国」という題だった。巨大な赤旗を先頭に百名、二百名もの男女が、津々浦々の農村を回って、この革命を宣伝し、「文化大革命」を広めようとした。彼ら彼女らの目は
生き生きとしていた。現実に訳者が江西省南昌で3日ほど旅に同行してくれた小柄の女性は、すがすがしかった。
 鉄道もあったし、それに乗って辺境に下放された青年もたくさんいた。だが、映画に見るように、徒歩が基本であった。全国を歩くことで、自分の見聞も広まり、相手の農民たちも彼らから影響を受けたという。だが、中には無銭飲食だけするような輩も多くいた。
彼らは寺社を破壊し、財産を持ち出して、そうすることが「文化革命」だとした。
旧を破壊しなければ、新は立てられないというのがお題目。「破旧立新」だ。
 魯迅がここで痛罵しているのは青年団だが、彼らとは180度違う青年たちもいて、やはり徒歩で広大な祖国の大地を歩き続けた。司馬遷が若いころに祖国の各地を巡ったように。
それが統一への一歩となったと思う。
 文革が批判されて以降、「夜明けの国」で見たような瞳を見ることは稀になった。
   2011/10/15訳


 

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再び「順」な翻訳について

この「順」な翻訳が出てからだいぶ経ったが、大文学家と翻訳理論の大家は誰も気にしなかった。但、偶然私の集めた「順訳モデル大成」の原稿本にこの項目を訳したので、再度取り上げることにした。
 中華民国19年8月3日の「時報」に一号活字で「両手に針を穿たれて…」という題で、こうある:
 『共産党に捕まったが、身代金を払って長沙から逃げてきた中国商人と従者二名は昨日、
難を避けて漢口に到着。主僕らは鮮血淋漓に友人に語って曰く:長沙に共産党のスパイがおり、多くの資産階級が29日朝捕まり、我らは28日夜に捕まり、針で手を穿たれ、秤に乗せられて、とそれを語る時、布を解いて穿穴を示し、鮮血はなお淋漓。…(漢口2日、
電通)の電報』
 これはもちろん「順」で、少し注意すると疑わしい点もあるが、例えば、1.主人は資産階級だから「鮮血淋漓」だが、二人の僕は多分貧乏人なのに、なぜ同じように「鮮血淋漓」なのか? 2.「針で手を穿つ、秤に乗せ」は一体何をしたのか?重さをはかって、
罪名を決めるわけではあるまい。但、そうであっても、文章は「順」であり、社会的にも
もともと共産党の行為はへんてこな奇怪なものとされ:況や「玉歴鈔伝」(地獄の責苦を解いたもの)を見れば、十殿閻魔王の某殿で、天秤で罪人を計る方法があるから、「秤にのせて」云々も奇とするには足りぬ。だが秤にのせるにはフックでかける要も無く、「針」を使うのは特別のようだ。
 幸い同日の日本語の「上海日報」に偶然、電通社の同じ電報を見、「時報」の訳者が「硬訳」にこだわり、「順」を求めたので、少し「不信」になったものと判明した。
 「信」で「不順」に訳すとすると大略は下記のようになる:
『彼ら主僕は恐怖と鮮血に染まった経験談を当地の中国人に語った。共党軍中に長沙の事情に詳しい者がおり、我らは28日の夜半に捕まり、拉致された時、腕に孔をあけられ、鉄線で穿たれ、数人或いは数十人が一串にされた。語った時、血に染まった布で包んだ手を示し…』
 これで分かったのは、「鮮血淋漓」なのは彼ら主僕ではなく、彼らの経験談で、二人の僕の手は何の洞もない。手を穿ったのは日本語で「針金」とあり、本来鉄線と訳すべきで、
「針」ではない。針は衣服を縫うものである。「秤に云々」は一言も触れて無い。
 我々の「友邦」の友人は中国の古怪なことを紹介するのがとても好きらしく、特に「共産党」について:あの4年前の「裸体行進」をほんとの様に伝えたので、中国人もつれて
何カ月も騒いだ。実は警察が鉄線で植民地の革命党の手を穿ち、一串にして引っぱって行ったということで、所謂「文明」国民のしたことであって、中国人はそのやりかたすら知らなかった。鉄線は農業社会では生産してこなかったから。
 唐から宋まで迷信で「妖怪(人)」は鉄索で鎖骨を穿ち、変幻を防いだが、もう久しく使われなかったので、知ってる人もいなくなった。文明国の人は自分の使う文明的方法を、中国に持ち込み、中国にはそんな文明は無かったため、上海の翻訳家も分からないので、
鉄線で穿つのではなく、閻魔殿でのやり方に照らし、「秤」ではかって、事を片づけてしまった。
 デマとデマの提灯持ちは一瞬にして馬脚をあらわした。

訳者雑感:
 中国の昔の映画にでてくる犯罪人を連行するシーンは、首かせをつけ、両手は手錠をかけたように縛っている。確かに農業社会だから鉄線などはなく、首かせも木なら、縛るのも縄であった。
 鉄線を両手に穿つというのは、日本語の方では腕に孔をあけられとある。考えただけでおぞましいが、いずれ死刑にするための連行で、それを見に来る群衆への見せしめとしては、とても威力があったのだろう。
 それにしても、針金という日本語の漢字を「縫い針」と訳した上海の翻訳家は以て他山の石である。私自身にも同様の間違いを起こしているに違いない。反省。
       2011/10/15訳


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風馬牛

「順で不信」の方がましだと唱える御大将趙景深氏は近頃なんら大作も訳さず、主には
「小説月報」に「海外文壇ニュース」を紹介するのみ。これも勿論感謝すべきだ。あのニュースは彼が文献を訳したものか、それとも自ら問い合わせたとか研究したものか?知るすべも無いが。訳したものでも大抵は出所の説明がなく、調べようも無い。当然「順で不信」訳を唱える趙氏はそんなことに気を使う必要も無く、多少の「不信」があっても宗旨貫徹ということだろう。
 然るに私はひとつの疑問がわいた。
 「小説月報」2月号に氏は「新群衆作家近況」と題して、そのひとつに「Gropperはサーカスの絵入り物語『Alay Oop』を脱稿、とある。これは極めて「順」だが、この本の絵を見ると、サーカスではない。英語の辞書で書名の下の2行の英文注記の「Life and Love Among the Acrobats Told Entirely in Pictures」を調べて分かったのは「サーカス」の物語ではなく、「サーカス団員たち」の物語だった。こうなると勿論「不順」だが、
内容はそうなのだから、別の言い方も思いつかない。「サーカス団員」でなければ「Love」は生まれない。
「小説月報」の11月号に趙氏は「Thiessが四部曲完成」と教えてくれ、「最後の一冊、『半人、半牛怪』(Der Zentaur)も今年出版された」という。この「Der」を見て、ちょっと驚いた。これはジャーマン語で、辞典を引こうとすれば、(ドイツ系の)同済学校以外ではなかなか手に入らぬから、敢えて二心を持とうとは思わない。だが、その次の名詞を書かねば良かっただろう。書いたがために、叉疑問雑念が起こってしまった。この字は多分ギリシャ語で英語の辞書にもあり、しばしばそれを画題にしているのを目にする。上半身は人で、下半身は馬で、牛ではない。牛馬は同じ哺乳類だから「順」にするためには、混用しても構わぬが、馬は奇蹄類、牛は偶蹄類であるから分別した方が良い。「最後の一冊」を出すにあたり、わざわざ「牛」(ホラ)を吹いたら、趙氏の有名な訳「牛乳路」(Milky Way:銀河の意)を連想させられた。これは直訳又は「硬訳」のようにみえる。がじつはさにあらずで、縁もゆかりもない「牛」が入り込んだのだ。
 この故事は辞書をひくまでもなく、絵を見ればすぐわかる。ギリシャ神話の大神ゼウスは女性をとても好む神で、ある時人間世界に来て、某女子との間に男児をもうけた。物事には必ず偶があり、ゼウスの妻は大変嫉妬深い女神で、彼女はそれを知るや、机を叩くや椅子を鳴らすの大騒ぎ。その子を天上に取り上げ、機を見て殺そうとした。が、その子はとても天真で、そうとはつゆ知らず、あるとき奥方の乳頭をくわえて乳を飲もうとしたので、彼女は驚いてその子を押しのけ、人間世界にけり落とした。だが、彼は死ななかっただけでなく、後に英雄となった。
 だが、彼女の乳汁は「牛乳路」となった――いや「神乳路」とすべきだが。
白人たちはすべての「乳」を「Milk」と呼ぶし、缶入りの牛乳を見慣れているので、
時に誤訳も免れぬのは、むべなるかなで怪しむには足りぬ。
 しかし翻訳に関しては、一家言ある名人が、馬に出会って昏迷し、牛を愛することが、
性となり、「牛頭は馬嘴に合わぬ」訳も、少しは話のタネにすべしか――他人の話のタネにすぎぬし、これでギリシャ神話を少し知ることができたにすぎぬが、趙氏の「信で不順は順で不信(な訳)に如かず」の格言にとっては何の損害も無いことではある。
 これを称し「乱訳万歳!」という。

訳者雑感:日本で天の川をミルキーウエイと表記する人も別に珍しくもなくなった。
1930年代の中国でそれを「牛乳路」と漢字で表記し、銀河とか天の河という従来の表記より新鮮なイメージを持たせようとしたのだろうか。
 唐詩の英訳を見ていて、漢字の逐誤訳に出会って驚くことが多い。特に中国人で英語の堪能な(というか、
英会話は問題ないほどの達者な)人でも、中国語の本来のニュアンスには頓着せず、そのまま「柳色新」を  Color of Willow Newと辞書の一番目に出てくる意味をそのまま使って平気な人もいる。ひどいのになるとWillow Color Newで、これは香港や上海の租界で使われて来た、外国人相手のビジネスで通じればよいというピジンイングリッシュの影響だろう。
 今日の政治の世界でも中国的発想から、彼らの論理を漢字で表現するのに何の抵抗というか、気配りもしていないことが多々ある。
 南シナ海の島の帰属を巡って、ベトナムやフィリピンが抗議するのに対して、小国ベトナムの反抗を断乎として懲らしめねばならぬ云々という論調である。
 戦前の日本が「大日本帝国」と称して、東亜の迷える子羊たち、小国、植民地にされている諸国を統合して「大東亜共栄圏」などと思いあがったころを彷彿させる。
 もちろん彼らの人口、面積と比較したら、ベトナム、フィリピン、それに我が日本すらも
みな小国には相違ないだろうが、それは大国が使う言葉ではない。相手の立場で考えない国の発想だ。
    2011/10/13訳









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「読み易い」翻訳

 この一年余、「硬訳」を目の敵の様に攻撃した名人は、三代あった:最初は祖師梁実秋教授、次に従弟の趙景深教授、最近では徒孫の楊晋豪大学生。但しこの三代の内、趙教授の主張が一番鮮明且つ徹底しており、その精義は――
『信(原文に忠実)で不順(読みにくい)は、順(読み易く)で不信(多少忠実でない)に如かず』という。
この格言は奇奇古怪だが、読者には効用があるようだ。「信で不順」な訳は、ちょっと読んだだけで疲れてしまい、読書で気持ちを安らげようとする人には、当然趙教授の格言を敬服する。「順で不信」の訳については、原文を対照せねば「不信」がどこにあるかも分からない。しかるに原文を対照できる読者は中国に何人もいない。こうなると、読者は訳者よりたくさんのことを知らねば、その誤りを見つけられぬし、どこが「不信」なのかも分からぬ。さもなくば、いい加減に頭の中に放り込むよりほかない。
 私は科学について、余り知らぬし、外国の本も大して持っていないので、訳を読むほかないが、近頃たまたま、疑わしい点に出会った。例えば、「万有文庫:の周太玄氏の「生物学概説」に――
『最近二―ルとエールの両氏は麦について…』
私の知る限り、スウェーデンの有名な生物学者、Nilsson-Ehleが小麦の遺伝の実験をしているが、彼は一人で複姓を持っているので「ニールソン・エール」と訳すのが正しい。それを両氏とか及びとするのは順ではあろうが、別々の人間かと思わせる。まあこれは小さなことだが、生物学を講じるにはこうした細かい点も祖略にしてはならない。我々も暫くあいまいなままとなってしまう。
 今年の「小説月報」3月号の馮厚生氏訳「老人」に次の一文があり――
『彼は傷寒病(腸チフス:但し漢方医では風邪を指すこともあり:訳者)から流行性感冒の重症になり…』
これも大変「順」ではあるが、私の知る限り、流行性感冒はチフスより重症な病気ではなく、一方は呼吸器系、他方は消化器系の病で、どんなに「変」じようとも「変」じられぬものである。ここは「傷風」或いは「中寒」とすべきで、それなら変じられる。だが小説は「生物学概説」と比べようもないから、そのままとしておこう。今回もう一つ奇特な実験を見てみよう。
 この実験は何定潔と張志耀の両氏の米国Conklinの「遺伝と環境」の共訳で、訳文――
『…彼らはまず兎の眼の髄質の水晶体を取り出し、家禽に注射し、家禽の中で「代晶質」が生成され、この外来の蛋白質精を透視できるようになってから、再度家禽の血清を取り出し、受胎した雌兎に注射する。雌兎はこの注射により、その多くは耐えきれずに死亡するが、それらの眼あるいは晶体には何ら障害の跡は見られず、それらの卵巣内の蓄卵は、何ら特別な障害も見られなかった。それらが、それ以降生んだ子兎は残欠不全の眼をもったものは無かった』
 この文章は頗る「順」でよく理解できる。但し良く見ると分からなくなってくる。
1.「髄質の晶体」とは何か?水晶体は髄質皮質に分かれていないから。
2.「代晶体」とは何か?私は原文と照らし合わすことはできないが、悩んで考えに考え、
下記のように改訳すべきだと思った――
『彼らはまず兎の眼の中の漿状を製成する(注射に便利なように)水晶体を取り出し、家禽に注射し、家禽がこの外来の蛋白質(即ち、漿状の水晶体)に感応して「抗晶質」(即ちこの漿状水晶体に抵抗した物質)を発生するまで待つ。その後再びその血清を取り出し、懐妊中の雌兎に注射する…』
 以上、随意に数例を挙げたが、この外にもつい他の事にまぎれて忘れてしまった物も多い。そして多くは私の気づかぬままにすりぬけてゆき、間違ったまま私の頭の中に入っている。但し、この数例は、我々には「信で不順」な訳というものは、読んでも分からないというだけで、少し考えれば分かるようになるかもしれないが、「順で不信」な訳は人を誤らせ迷わせ、どう考えても分からぬし、分かったような気になったなら、それはまさしく、
迷路に入った訳(わけ)だ。

訳者雑感:
 魯迅が翻訳したものを「硬い訳」で読むのに指で地図を調べるようにせねばならぬ云々と批判した三代の攻撃相手を名指して、反駁しようとするのが本文だ。この中で辞書によると、傷寒病については「中国医学では風邪のことも指す」という説もあるが、一般的には腸チフスであるから、ここはそれで良いとも思うが、訳者は傷風と書いたつもりが寒に
書き間違えたかも知れぬ。
 魯迅の主張は、あくまで「硬い訳」でも「原文に忠実」であれば、よく考えれば理解できるようになるが、原文に忠実でない読み易さだけを前面に出した訳は、間違ったまま頭の中に入り込んでしまって、取り返しのつかぬ迷路にはまり込んでしまう、というものだ。
 我々は翻訳でなくとも、勝って解釈して読み違えることがよくある。文章は相手に自分の訴えたいことを正しく伝えることで、その役目を果たす。孔子の言う:辞は達するのみ。
自分の真意が相手に正しく伝えるもので、ソレダケのものである。その何と難しいことよ。
   2011/10/12訳

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知るも難、行うも難。

 中国の昔からのしきたりでは、皇帝になり安定した政治をやろうとした時や、具合が悪くなった時は、決まったように文人学士に下問する。安定にしようとする時は「武を止め、文で修めん」との言葉で粉飾し:具合が悪くなると彼らは本当に「治国平天下」の大道を有していると思って下問する。よりありていに言えば、「紅楼夢」にいうように「病篤ければ、むやみやたらに医者に診てもらう」だ。
 「宣統帝」が退位して無聊になったとき、我々の胡適之博士がかつてこの任を果たした事があった。
 会見後も奇怪なことに、人々はまずどうしたわけか、彼らがお互いにどう呼び合ったかを訊いた。博士曰く:
「彼は私を先生と呼び、私は彼を皇上(陛下:訳者)と呼んだ」と。
その時は国家の大計は何も触れなかったようで、この「陛下」は後になって何首か雑詩をつくり、無聊のままだったが、暫くして金鑾殿(皇帝の正殿)から追い出されたが、今叉
羽振りが良くなり、東三省に行ってもう一度皇帝になろうと考えている由。そして上海では、「蒋が胡適之と丁文江を召見」と聞く:
 『南京特電:丁文江、胡適は南京で蒋(介石)に謁す。今回は蒋の召を奉じ、大局につきご下問あり…』(10月14日「申報」)
今現在、誰も彼がどのように呼んだかを問うていない。なぜか?もうそれは分かっているからで、今回は「私は彼を主席と……」!
 安徽大学学長劉文典教授は「主席」と呼ばなかったため、何日も入牢させられ、やっとのことで保釈されたが、同郷で昔からの同僚だから、博士は当然知っているから、「私は彼を主席と呼んだ」!に違いない。
 叉誰も彼に何を「ご下問」されたか訊いていない。
 なぜ?これも「大局」と知っているから。しかもこの「大局」も「国民党専制」と「英国式自由」との論争などという面倒な問題や「知るは難かしいが、行うは易しい」と、
「知るは易しいが、行いは難しい」的なややこしい論争でもなかったから、博士はすぐに、
出てきたわけだ。
 「新月派」の羅隆基博士曰く:「根本的に政府を改組し、…全国各界の人材がそれぞれの
政見を代表するのを認める政府、……政治的意見も犠牲にすることができ、また当然犠牲にすべきである。(「瀋陽事件」=満州事変について)
 それぞれの政見を代表する人材、政府の改組、そして政治的意見を犠牲にする。この種
の「政府」はじつに神妙極まりない。
 但し、「知るは難しいが、行うは易しい」(孫文の言葉で蒋介石が引用:訳者、案ずるより産むが易し、というニュアンスで革命に取り組めの意)という人が、「ご下問」したのも、
「知るも難しいし、行うも難しい」(胡適の言葉)の人に下問されたのも何かの前兆か?
訳者雑感:
 蒋介石が胡適らに下問したことを風刺しているのだそうだ。英国的な自由制度を唱えてきた胡に「国民党専制(独裁)」を掲げる蒋介石が下問した「大局」は結局どうなったのか。
蒋介石を主席と認めなかった胡の同郷の同僚は牢に閉じ込められた。これが独裁である。
自分を認めない、自分の政権政府に反抗する者は逮捕する、というやりかたは21世紀の今日の政権も何ら変わる所は無い。それを知りながら政権から下問を受けたら、政権の都合の良いように受け答えして、政権内で自分の位置を保って行く。それが長い伝統に裏打ちされた、「文人、学士」の名利追求の道であった。それで歴史に名を残すことが、文人の務めであった。魯迅も辛亥革命後の政府の教育省の役人を永い間続けてきた。それに見切りをつけるのは、追い回されて逮捕されそうになったからであって、もし逮捕されるほどの危険が身に及ばなかったら、胡適とさほど隔たったことにならなかった可能性はある。
 漢民族としては、時の政権の内部で立身出世をすることが、第一義であって、反体制とか謀叛というのは、食いつめるか、逮捕、入獄させられる危険でもないと起こさないだろう。正史に名を残すのが「孝」の最たるものであったから。
    2011/10/11訳

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宣伝と芝居じみた演技

 先に触れた日本人が中国人の国民性に言及した文章に、往往「宣伝がうまい」という。
その説明を良く読むと、「宣伝」とは通常のPropagandaの意味ではなく、「対外的にウソをいう」の意味がある。
 この種の話にもそれらしき形跡がある。例えば、教育費は使い果たしたが、それでもなお幾つかの学校を開設し恰好をつけようとし:全国民の9割が文盲だが、博士を何名か召致し、西洋人に対して中国人の精神文明を語らせる:今でも拷問や首切りのし放題の
くせに、一面では外国人に見せるために、西洋式の「モデル監獄」の維持し支える。更に敵前から遠く離れた将軍にかぎって、大げさな電報を打ち「国家の先駆け」となって云々と言う。体操の授業さえ出たがらないボンボン学生が軍服を着て、「敵を殺すのは朝めし前」
とほざく。
 だがこれらも究極的には本当らしき影形はあり:いくつかの学校、何人かの博士、監獄、
電報、軍服などの例はちょくちょくあることだ。
 だから「ウソでたらめを言う」とするのは間違いであり、これが即ち我々が言うところの「芝居をやる」ということだ。
 但し、この普遍的な芝居をやるのは、本当の芝居よりたちが悪い。本当の芝居はただ一時の事で、芝居が終われば平常に戻る。楊小楼(役者)の「単刀赴会」、梅蘭芳の「黛玉葬花」は舞台で演じる時は関羽や林黛玉だが、舞台から下がればただの人だから、余り弊害は無い。一度演じたら永遠に青龍偃月刀や鋤頭を持って、関さんや林妹を自任し、怪しげな声色やそぶりで唄ったりしたら、もはや熱に浮かされたと言うほかない。
 不幸にして「天地は大いなる戯場」だと思うゆえに、普遍的な戯を演じる者は舞台から下りることはない。楊縵華女士は天然の脚(纏足でなく)で、小国ベルギーの女性のいう
「中国女性纏足説」を蹴っ飛ばし、面子を保つための権謀で、囲みを解いたのはまあ諒と
することも可である。
 だが、それもそのあたりで止めるべきだと思う。今部屋に戻り、文章を書いているのは、
楽屋に戻っても青龍偃月刀を放そうとせず:且つその文を中国の「申報」に発表するというに至っては、まったく青龍偃月刀を手に、意気揚々と自分の部屋に戻るようなものだ。
まさか彼女は本当に中国女性がかつて纏足をしていたこと、そして今もまさにしていることを忘れたわけじゃあるまい。それとも中国人はみな自己催眠にかかって、全国の女性は
すでにハイヒールを履いているとでも思っているのだろうか? 
 これはほんの一例だが、よく似たことはとても多い。だが夜も明けそうだからここらで。
   
訳者雑感:
 日本語のニュアンスでは「芝居じみた」ことをする相手は信用ならぬということだが、中国で暮らしてみてつくづく感じるのは、彼ら彼女らが、日々の暮らしの中で、いかに自分が「京劇などの伝統劇」の中の登場人物のように振舞えるか、に腐心しているということだ。伝統劇には様々な性格を持った、そして殆どの中国人をカバーできるくらいの幅広い役割と個性を備えた人間が登場する。それで、こういうシチュエーションで自分が誰それのような立場に立たされたら、どう受け答えして演じればよいか、が脳裏にすぐ浮かぶらしい。そして歴史に名を汚さぬように、後世に名を残すにはどう受け答えし、立ちまわればよいかを判断材料にする。従って、かつての歌舞伎好きの日本人がそうした以上に、
芝居のなかのセリフをそらんじるほど覚えていて、それをうまく使いこなせたと自覚できれば、有頂天になるほどだ。
 中国人が宣伝がうまいというのは、本当である。民主党とか自民党の宣伝のまずさに
比べたら、中国共産党の宣伝はずばぬけている。それは伝統劇の唱やセリフをそらんじるほどのめりこんできた伝統だろう。日本の政治家で歌舞伎のセリフなどそらんじられる人はどれほどいるだろうか。
     2011/10/08訳
 

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新しい「女将」

上海の図版製作は他所より優れているようで、新聞の日曜版の付録画報や書店の月報何とか画報も他より生彩がある。これらの画報に並んだ大人諸先生方の何とか会の開会式や閉会の記念写真の他に、必ず「女士」のも載せないといけないようだ。
「女士」の尊顔をなにゆえ社会に紹介する必要があるのか?説明を見れば明らかで、例:
 「A女士、B女学校のQueen,趣味は音楽」
 「C女士、D女学校の優等生、狆を飼うのが好き」
 「E女士、F大学卒、G氏の五女」
 衣装をみると:春はすべて流行のファッションをぴたっと着こなし、細い袖:夏は裾と袖をくつろげて、海浜に座り「海水浴」と称し、天気が暑いからそれも当然:秋立つと、涼しくなってきたが、はからずも日本兵が東三省に侵入してきて、画報も白いワンピースの看護服或いは捧げ銃の軍装した女性兵士たち。
 これらは戯劇性があり、読者を喜ばせる。中国は元来戯劇性を好み、田舎の舞台でも往往、対聯に片や「戯場は小天地」もう片方は「天地は大戯場」と掲げられている。戯を演じ出すと、田舎のため「乾隆帝の江南行き」などの類は演じられず、往往「双陽公主、狄を追う」や「薛仁貴、親(しん)を招く」などで、登場する女戦士を観客は女将と呼ぶ。彼女は雉の尾を挿し、双刀を執り、(或いは両端に剣先のある長い槍)舞台に登場するや、
観客は身を乗り出す。明らかに戯にすぎぬと分かっていても、見るほどに興奮してくる。
 長年訓練を重ねた軍人も鼓響一声、突然無抵抗主義者に変ず。(満州事変での蒋介石が対日無抵抗主義に変わったことを指す:訳者)そこで遠路の文人学者は「乞食が敵を殺す」や「屠殺者が仁と成る」「奇女士の救国」などの伝奇の古典を大いに談じ、銅鑼を一発鳴らして、思いもよらなかった人間に「国の為に栄光を取り戻させ」ようとする。同時に画報に、これらの伝奇の挿絵を載せる。だが、まだ剣仙の一本の白光を提起するには至っていないのは、やはり切実に考えているからだ。
 ただ誤解しないで欲しいが、私は「女士」たちが皆部屋のなかにいるべきだとは言っていない。私は単に雄兵がかぶとを解き、Missが銃を執るのは戯劇性に富むと言っているに過ぎない。事実が証明する。
1.誰も日本が「中国軍を膺懲」している看護兵部隊の写真を見ていない。
2.日本軍に女将はいない。それにもかかわらず、確かに戦を始めた。それは日本人は物事を行うものは行い、戯を演じるものは演じ、けっしてそれをまぜこぜにはしないから。

訳者雑感:1931年9月18日に日本軍が満州事変を仕掛けた時、張学良はすぐ不抵抗を宣言し、これを蒋介石の発言のように扱った。どちらが先に言いだしたか、論議の的だが、今やそれよりも、魯迅の指摘するように「雄兵はさっさとかぶとを解き、女将が救世主の如く現れる」などの戯劇性を専らはやし立ててうやむやの内に「9.18事変」後の情勢を受け入れてしまう「国民性」を新しい「女将」ととらえている。 2011/10/07訳

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唐時代の追っかけ

上海のモボがモガをひっかける時、第一歩は追い続けて離さない、これを「追っかけ」という。漢字では「釘梢」と書き、「釘」はくっついて離れぬ意、「梢」は末尾、後ろの意で言い換えると「追躡」(尻を追い回す)だろう。追っかけの専門家によれば、第二歩は、
「話に引き込む」ことで:罵られようとも、大いに望みありで、罵倒も言語のやりとりだから、「話に引き込む」の始まりとなる。
私は、こんなことは今日の租界だけと思っていた。今「花間集」で唐時代にもそういうことがあったと知った。それは張泌の「浣渓紗」調十首のその九にあり:

晩に香車を逐って鳳城に入り、東風斜めに繍帘の軽きを掲げ、
嬌慢な視線を投げかけ盈盈と笑う。
 消息いまだ通じず、何の計を使うべきや。すべからく佯酔(酔ったふり)して
随行すれば、依稀に「太狂生」(きちがい)というのが聞こえる

 これは現代の釘梢法と同じだ。口語詩に訳すと:
 夜、洋車を追って、路上を飛ばす
 東風はインド更紗の裳裾を吹き上げ、脚がほのみえる。
 いたずらっぽい流し眼を投げかけ、なぞの笑みを浮かべる。
 なかなかうまく話しかけられない。どうしよう?
 ただ、酔ったふりして追っかけるのみ。
 なんと「殺千刀」(死んじまえ)と罵られたようだ。
 但し、古書を探せば、もっと古い時代のもあるかもしれぬ。博学のご教示を望む。
「追っかけ史」の研究者に役立つことと思う。

訳者雑感:
1931年の満州事変の後、魯迅でもこういう文章を書いていたことに興味がわいた。
従来の翻訳はあまり取り上げてこなかったようだ。これも魯迅が古小説研究のため、
丹念に読み返していた副産物だろうが、日本でも戦争の始まるまでの10年間は、重苦しい暮らしの中にも、モボモガが都市の夜を彩っていた。
唐代でも安史の乱を筆頭に、何回も全国的な戦乱があって、杜甫や李白なども戦に巻き込まれ、逃れながら詩を残してきたわけだ。暮らしている町、西安や上海の町のどこかで現実に兵隊が人間を殺し、その翌日か2-3日後には金の鞍をつけた貴族の若者がペルシャ人のホステスがいる酒場にでかけ、女の尻を追いかけている。
国が乱れてもこうした営みは不変であった。流行はすたれるが、その源流は不易だろう。
    2011/10/05訳










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脚で報国

脚で報国
 今年8月31日の「申報」の「自由談」で「寄萍」の名で楊縵華女士の遊欧雑感をみた。その一節が面白いので下記する:
 『…ある日我々はベルギーの農村に行った。大勢の女性が競って私の足を見にきた。足を伸ばして彼女らに見せ、やっと彼女らの好奇の疑問を解いた。
ある女が言った「これまで中国人を見たことは無いが、小さい頃、中国人は
尻尾(辮髪のこと)があり、妾を持とうとし、女性は皆小さな足で、歩く時はゆさゆさと揺れると聞いてきた。それはみな事実ではないと分かった。誤解を許してね」と。またもう一人の東アジアの状況に詳しいという人が、中国では
国中で兵匪が騒ぎを起こし、人民は地獄のような暮らしをしているそうだ、とかいい加減な話をたくさんしゃべった。私はそれに対して「そんな話はみな根も葉もないことだ」と答えた。同行の某君はとても滑稽な話をした。「貴方たちは建国数千年の大中華民国をなかなか理解できないでしょう。我々の革命が成功したら、今度は顕微鏡で貴方たちのベルギーを探さねばならぬことでしょう」
そこで大笑いして散じた。
 楊女士は彼女のおみあしでベルギー女性を征服し、国の名誉を増したが、「間違い」が2点あり、
1.我々中国人は確かに尻尾(辮髪)があったし、纏足もし、妾も蓄えたし、
今もまだ持っている。
2.楊女士の脚は全中国女性の脚を代表できない。留学する女性が全中国女性を代表できないのと同じことだ。留学生の大多数は家が金持ちか、政府の派遣で、将来家族と国に名誉を増すためである。貧しくて教育も受けられぬ女性と
同日には語れない。だから今でも纏足をして「ゆらゆら揺れながら歩く」女性は多い。
 困苦に至っては、多言するまでも無い。同じ「申報」に載った多くの「和平
アピール」の電文や、緊急支援を募る広告、兵乱と身代金目的の誘拐記事を見れば、国外留学の坊ちゃんやお嬢さんも、いかに遠く離れているから知らないと言えようか。顕微鏡で見てみようと思うなら、望遠鏡で見てみようとは思わないのか?況や望遠鏡など使わなくても、同じ楊縵華女士遊欧雑感」にある:
 『在外公館の困窮について、今日に始まったことではない。ここ数年、年ごとに悪化している由。国慶節や重要な記念日に慣例に従って外国の賓客を招待し盛典を催して、国運がまさに興るのを祝うべきだし、兼ねて各友好国との、
友情を培っておくべしで、かつては在外公館は必ず盛宴を開き、上賓を歓待したが、去年は館費の予算が乏しく、茶会となってしまった。目下の状況から、
今年は茶会も開けないだろう。国際的な体面を大事にする点では日本だろう、
政府の行政予算は特に切りつめても在外公館の経費だけは充足させており、単にこの点だけでも、我が形勢のつたなさが分かる』
 在外公館は本国を代表しており、彼女の「国運まさに興らんとする事を慶祝」
しようにも「毎回悪化の状況」にあり、孟子曰く:「民足らざるに、君子いずくんぞ、足るや」で、人民がどんな生活をしているかは、考えてみればすぐわかることだ。 しかし小国ベルギーの女性たちは要するに純であり、許しを請わねばならぬが、彼女らが本当に「建国数千年の大中華民国の国民は往往にして、
自ら欺き、人をも欺く不治の病にあることを知ったら」それはまったくメンツ
丸つぶれだ。
 もしそうなったらどうしたらよいだろう?思うに、やはり「そこで大笑いして散じる」しかないだろう。   

訳者雑感:
 1930年代の10年は戦争の前のあだ花ともいうべき「資本主義の最後の享楽」を上海一帯の限られた人々がエンジョイしていたと言えるだろう。
結果論として日本が軍国主義に更に拍車をかけ、ドイツなどと手を結んで、米欧諸国を敵に回し、中国の広大な国土を我がものにしようとしたわけだが、その十年前までは、戦争も局地的なもので、まさかあれほどに拡大し、史上例のない残酷な戦争になるとは、殆どの人が想像すらしていなかったに違いない。
 魯迅もベルギーの事を小国という冠詞をつけて記述している。大国中国からすれば、顕微鏡であらさがししなければならぬほどの小国だ。と笑って散じるほかないほどの話柄にしてしまう。
 今南の海域の領有権を巡ってフィリピンやベトナムともめている。そのニュース報道に、冠詞として「小国」フィリピン、「小国」ベトナムと国内向けの
活字として報じることは、三千年の歴史を持つ大国としての自尊心をくすぐる
ものとしか言いようがない。これは賄賂とか腐敗とかありとあらゆるかつての
中国の官僚たちがやってきた畜妾も含めて、自ら欺き、人をも欺く不治の病からまだ治っていないことの証のようだ。
      2011/10/03訳


 

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沈んだ滓(おり)が浮上する

沈んだ滓(おり)が浮上する
 日本が東三省を占拠した後、上海一帯の新聞に「国難の声の中」でといわれている。この「国難の声の中」を棒でかきまわして、長年池底に沈んでいた古い滓や新しい滓がぶくぶくと浮上してきて、勢いに乗じて自己の存在を顕示しはじめた。
 今戦える自信ある者は、永らく考えてもみなかった洋銃の操練を試みる。戦おうと思わぬ者は、欧州大戦時のドイツ帝国に倣って、「頭を使い」「一国民」として義務を尽くそうとする。ある者は「唐書」を調べ、日本の古名は「倭奴」という:ある者は辞典を調べ、倭は矮小の意味だと言い:ある者は(異民族に抵抗した:訳者注)文天祥、岳飛、林則徐を思い浮かべる。――だがそれより積極的なのは新文芸界だ。
 その前に別件に触れるが、それは「和平の声の中」で、この声の中で、「胡漢民氏」が上海に来、青年に戒告し「力」を養い「気」を費消するなと説いた。それに対応する「霊薬」あり、という。翌日新聞に広告が出:「胡漢民先生は、対日外交は、堅固な原則を確立し、青年は力を養うべきで、気を費消すべきではなく、力を養えば、強身となり、気を費消すれば悲観となるから、強身に励み、悲観を駆逐し、まず心をのびやかにして、愉快に呵々大笑すべし」という。
 だがそんな重宝なものがあるだろうか?アメリカの古い映画の冒険家の滑稽譚で小市民の笑いを博した「親戚揃ってアフリカ漫遊」の如きか?
 本当の「国難の声の中の興奮剤」とは、「愛国歌舞公演」で「民族性の活躍で、歌舞界の
精髄であり、同胞の努力を促し、最後の勝利を達成する」と自ら言う。このたちどころに奇功を実現できる大スターは誰だろう?王人美、薛玲仙、黎莉莉だという。
 「上海文芸界は大団結」を果たした。「草野」(6巻7号)に盛況を報じ「上海文芸界同人は平時は連携が少ないが、大事な時はそれぞれが参加している団体以外に、謝六逸、朱応鵬、徐蔚南三名の発起で…集まって討論した。10月6日の午後3時、陸続と東亜食堂に集まり、…茶菓を進め、討論開始。大変多くの人が力を発揮し…最後にこれを上海文芸救国会と名付けた、という。
我々は何を「発揮」したかは知るすべもないが、眼前のやりかたからすると、「親戚揃ってアフリカ漫遊」を観て、力を養い、「愛国歌舞上演」を観て興奮し、「日本小品文選」と、
「芸術三家言」を観て更に茶菓を勧めて、発揮したのだろう。そんなことで中国は救われようか。
 まさか。そんなことは文学青年はいうに及ばす、文学少年少女も信じはしまい。
やんぬるかな。
 ではもう二つの別の面白いニュースを書こう。即ち、目下愛国文学家主宰の「申報」が発表せしもの――
 10月5日「自由報」で葉華女士は「手の打ちようがない国民に、なんで手の打ちようのある政府がありえようか?国連は絶望的だ。…非常に危険な状態で事ここに至れば一発千鈞皆で力をあわせて、
全国民は志を立て、夫々できる限りを尽くし、意見をだそうではないか、余も菲才ながら、
戦闘犬問題を以て、諸国の人とも相談する。…いろいろな犬の中で、ドイツの警察犬が一番だというから、我国も犬大作戦を取るよう声を大にして訴える…」
 同月25日の「自由談」にも「蘇民が漢口より」として「過日上海の友、王子(複姓)
仲良に文をやり、余の病のため義勇軍に馳せ参じられぬこと遺憾と申せしに、王子は……
霊薬を一包我に寄せ、培生製薬会社の益金草は、結核咳血に功能あり、試服されたし。…
余はすぐさま服してみるに咳も止み、旬日後、体力気力もやっと回復し…一旦国家に事あらば、我も必ず戎列に加わり、平生の壮志を遂げんと、敵を滅ぼすは朝飯前、何日でも行軍できる…」
 これは病人でもすぐ兵隊になれ、警察犬も愛国に協力でき、愛国文芸家の指導下、誠に
楽観できるし「敵を滅ぼすのは朝飯前」となる。
 惜しいかな、文学青年でなくとも、文学少年少女でも読んでゆくうちに、たとえ「広告」と称せずとも、旧貨を売りつけようとの新たな広告に過ぎぬと分かるし、「国難声中」或いは「和平声中」にあって、この機により儲けようとするのが見え見えである。
 またそうしようとするから、この機に乗じ、(水底から)浮かびあがり、スターも文芸家も警察犬も薬も、勢いに乗れれば、労せずして浮かびあがれる。だが浮かびあがったのは、
滓だし滓は滓に過ぎず、ひと浮きはできるが、その本性はすぐ明白となり、最後は元のように沈む運命なのだ。    10月29日

訳者雑感:
 今から80年前の1931年は満州事変など日中両国にとって抜き差しならぬことが始まったわけだが、これから本格的な日米戦争の始まる41年までの10年間は魯迅の指摘するように、水底に沈んでいた滓も浮かびあがり、旧貨も売らんかなという情勢であった。
 31年には青幇の大ボスとして有名な杜月笙の宗家の祠を上海の浦東に建設し、それに
蒋介石を含む全国のあらゆる筋からの祝いが届けられて、盛大に開かれた様が鳳凰テレビで報じられていた。
映画演劇文芸などが都市の夜を華やかにし、魯迅も日記に繁華街の映画館に何度もでかけ、
ワイズ・ミューラー主演のターザン物を喜んで観ている。
 戦争に至るまでの10年は暗いように見えるが、庶民は結構滓のような文芸すらも他に選ぶものがないゆえに、それらに引き寄せられていった。魯迅はこの当時をヤクザに仕切られていた時代と表現するが、国民党政府よりヤクザの方が人情の面ではましだったかもしれない。尚上記の「和平の声の中」というのは、対日不抵抗を指すとみられる。対日不抵抗路線宣言は蒋介石が始めたとされるが、そもそもは張学良が当時の諸般の状況からして、
彼の軍隊では日本に抵抗できないとして彼が考え実行したものだが、それを蒋介石が全国に広めたということだ。
2011/09/29訳

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