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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「芸術論」訳序


一。
 Plekhanov(プレハーノフ、以下プ氏と略す)は1857年、タンボフ州の
貴族の家に生まれた。それから成年までの間は、ロシア革命運動史で丁度知識階級が提唱した民衆主義が隆盛から凋落に至る時であった。彼らは当初ロシア民衆即ち大多数の農民はすでに社会主義を理解していて、精神的自覚はしていないが社会主義者となっているから民衆主義の使命は只「民衆の中に入れ」
(フナロード)であり、彼らにその境遇を説明し、地主と官吏への憎悪をうまく誘引すれば、自からすぐにでも決起し、自由な自治制即ち無政府主義の社会組織を実現できる、と考えていた。
 但し、農民は民衆主義者の宣伝に殆ど耳を傾けず、逆にこうした進歩的貴族子弟に不満を持った。アレキサンダー二世の政府は彼らに厳しい刑罰で臨み、一部の人は目を農民から離し、西欧先進国に倣い、有産者の享有せる権利争奪の為に争った。それで「土地と自由党」は「民意党」に分裂し、政治闘争に入ったが、手段は一般的な社会運動ではなく、単独で政府と争い、全力を挙げてテロに奔った――暗殺である。
 青年プ氏もこうした社会思潮の下で革命運動を始めた。だが、分裂の際も尚
農民社会主義の根元的見解に固執し、テロリズムに反対し、政治的公民の自由獲得に反対し、別に「均田党」を組織し、唯ただ農民叛乱を嘱望した。すでに独自の意見を持ち、知識階級が単独で政府と争っても革命成功はおぼつかないと考え、農民はもとより、社会主義的傾向が強い労働者もたいへん重要だと考えるようになった。
「革命運動におけるロシア労働者」という本の中で、労働者は偶然都会に来ている工場の農民である。社会主義を農村に持ち込もうとすれば、こうした農民(出身の)労働者が最適の媒介者になる。農民は労働者のいうことを信用するから、知識階級よりいい、と述べている。
 事実は彼の予測通りだった。1881年テロリストがアレキサンダー二世を暗殺した時、民衆はまだ決起せず、公民も自由を得られず、有力な指導者は殺され、捕えられ「民意党」は殆ど消滅の危機に瀕した。党に属さず、労働者の社会主義に傾いていたプ氏なども、ついに政府に圧迫され、国外に逃亡した。
 彼はこの時、西欧の労働運動に近づき、マルクスの著作を研究し始めた。マルクスの名はロシアでは早くから知られ:「資本論」第一巻は他国より早く訳され:多くの「民意党」の人たちは彼と個人的に知り合い、連絡しあった。
 だが、彼らがたいへん尊敬しているマルクス思想は、彼らにとっては純粋な
「理論」に過ぎなかった。ロシアの現実には合わず、ロシア人とは無関係で、
ロシアには資本主義が無いからロシアの社会主義は工場には生まれず、農村に
生まれると考えていた。但、プ氏は当時のペテルブルグの労働運動を回想した際、農村への疑惑が生じ、原書でマルクス主義文献に精通していたから、この疑惑が増大した。そこで当時の全ての統計材料を集め、真のマルクス主義の方法で研究し、ついに資本主義が実際にロシアにも存在することを確信した。
 1884年「我々の対立」を発表した時の手紙で、民衆主義の誤りを指摘し、
マルクス主義が本当に正しいことを証明した。この本で大衆として農民に指示するのは、今や社会主義の支柱にはなれぬ、と書いた。ロシアでは当時都市の工業がまさに発達しつつあり、資本主義制度も形成されていた。必然的にこれに伴って興るのは、資本主義の敵、即ち資本主義を滅ぼそうとする無産者である。従ってロシアも西欧と同様、無産者は政治改造に対して、最も意味ある階級である。その境遇から言って、革命を堅持し組織するのは、他の階級より大きな力があり、将来のロシア革命の射撃兵として最も適切な階級だった。
 以来プ氏は自分自身が偉大な思想家となったのみならず、ロシアのマルクス主義の先駆けとなり、覚醒せる労働者の教師、指導者となった。
二。
 但、プ氏の無産階級に対する殊勲はせいぜい理論的な文章を発表したことだけで、彼自身の政治的意見は常に揺れ動いた。
 1889年社会主義者がパリで第一回国際会議を開いた時、プ氏は「ロシアの
革命はただ労働者の運動に依って初めて勝利でき、これ以外に解決の道は無い」と言った時、欧州の著名な多くの社会主義者たちは真っ向から反対した:しかし暫くして彼の業績は現れてきた。文章には「歴史上の一元的現象の発展」(略して「歴史的一元論」)が1895年に出版され、哲学の領域から民衆主義者との闘争、唯物論擁護でもってマルクス主義の全時代もこれに教えを受け、これで戦闘的唯物論の根源を理解した。後の学者は当然それを突いて論評した。しかしシベノフは「この注目すべき著作を、新時代の人々に説いて、うまく講釈すれば、これ以上すばらしいことはない」と言った。事実、翌年彼の弟子たちと民衆主義者との闘争の結果、紡績工場の労働者3万人の同盟ストがペテルブルグで起こり、ロシア史に新時代を画した。
ロシア無産階級革命の価値が初めて世間に認識され、当時ロンドンで開かれた社会主義者第4回国際会議でも、本件は大きな驚嘆と歓迎を受けた。
 然るにプ氏は畢竟理論家にすぎなかった。19世紀末にレーニンが活動を始めた時、レーニンは彼より若く、二人は当然何の相談をせずとも分業を行った。彼は理論面に長じ、敵に対しては哲学的論戦を挑んだ。レーニンは最初の著作以来、専ら社会政治問題と党と労働者の組織に取り組んだ。彼らはこの時、頬骨と顎の関係で、編集発行した新聞はIskra(火花)、撰者の中に不純分子もいたが、当時は労働者と革命者の為に重要な仕事をし、更には一歩進めて奮闘して民衆主義派の知識分子を揺さぶった。
 特に重要なのは文章と実際の活動であった。当時(1900-01年)革命家は自分の小宇宙に閉じこもり、全国展望を知らず、全国展望に依拠してこそ革命が達成できることを悟っていなかった。また正確な計算なしに、どれだけの勢力を使えば、どれだけの効果が得られるかに考えが及ばなかった。
この時代、中央集権党を試ろみ、全無産階級を統一した全国的政治組織の観念は新奇で異端とされ、実現困難だった。「火花」はただ単にこの観念を論説に発表するのみならず、「火花」という団体を組織し、当時の錚々たる革命家の百から百五十人の「火花」派が加入し、プ氏が新聞に発表した文章を使って運動を展開する計画を実行した。
 但、1903年に露国マルクス主義者がボリシェビキとメンシェビキに分裂し、
レーニンは前者の指導者となり、プ氏は後者だった。それから二人は時に離れ、時に合したが、1904年の日露戦争の時、ツアーリの戦敗を希望し、1907年から1909年の党の受難時代には、彼は常にレーニンと同心だった。特に後半の一時期は、ボ派の勢力の大部分は国外逃亡を余儀なくされ、各所で堕落し、至る所にスパイがいて、皆互いに監視しあい、恐れ猜疑した。文学では淫蕩文学が盛んとなり、「シャーニン」はこの時現れた。
 この情勢は全革命の内に侵入してきた。党員は四散し、それぞれ小団体となり、メンシェビキ派の中の取り消し派(機会主義派。白色テロ派)は、ボ派に挽歌を与えた。この時大声をあげて叱咤し、取り消し派主義を撃破すべしと、
訴え、ボ派をサポートしながら、身はメンシェビキ派の権威だったプ氏は、新聞各紙や国会で、勇敢に支援を続けた。それでメンシェビキ派の別派は「彼は
ボケてしまい、地下室の歌手になってしまった」と嘲笑した。
 革命復興を謀り、新組織の新聞は1910年からZvezda(星)を発行、プ氏と
レーニンは国外から投稿したから、勢い両派合作の機関紙は、明確な政治方針を示せなかった。但、新聞と政治運動の関係に緊張が高まると、提携の性格が徐々に失われ、プ派はついに完全に姿を消し、新聞はボ派の闘争機関となった。1912年、両派はまたPravda(真理)を共同発行し、事件が起こると、プ氏はまたあっという間にことごとく排除され、「星」の時と同じ道をたどった。
 欧州大戦が始まり、プ氏はドイツ帝国主義を欧州文明と労働階級の最も危険な仇敵とし、第二インターの指導者と同じく、愛国的立場から、最も憎むべきドイツと戦い、何のためらいも無く本国の資産階級及び政府と提携し妥協した。
1917年2月、革命後、本国に戻り、社会主義的愛国者団体を組織し「協同」と
名付けた。然るに露国無産階級の父、プ氏の革命感覚はこの時すでにロシアの労働者を動かす力を失っていて、ブレスタット講和後は殆ど全く労農ロシアに
忘れ去られ、1918年5月30日当時のドイツ占領下のフィンランドで孤独の内に死んだ。臨終の時、「労働者階級は私の活動をしっかり受け止めてくれているか?」とうわごとで問うた由。
三。
 彼の死後、Inprekol(第8年54号)に「G.V.Plekhanovと無産階級運動」という一篇が彼の生涯の功罪を簡括論評している――
 『…その実、プ氏は次のような疑問を抱くべきだった。何故だ?若い労働者階級は、彼の知っていることについて、愛国社会主義者として、メンシェビキ党員として、帝国主義の追随者として、革命的労働者だと主張する者として、ロシア資産階級の指導者ミィヤコフと妥協する人間になったのか?労働者階級の道とプ氏の道は余りにも隔たってしまったのだから。
 しかるに、我々は何の躊躇も無く、プ氏をロシア労働者階級、いや、国際労働者階級の最大の恩師の一人と考えている。
 なぜそうだと言えるのか?決定的な階級闘争の時、プ氏は防戦一方だったではないか?そうだ、確かにその通りだ。しかしこの決戦のずっと前から活動していて、彼の理論的著作はプ氏の遺産の中で、大変貴重なものである。
 ただ正しい階級的世界観の為に戦った闘争は階級間の争いの諸形態の中で、
最も重要なものの一つである。プ氏はその理論的著作で数世代にわたって、多くの労働者革命家たちを育てた。そして叉これにより、ロシア労働者階級の政治的自主の確立のため、出色の仕事をした。
 プ氏の偉大な功績はまず民意党に対し、前世紀の70年代、ロシアの発展を信じ、ある特別な、即ち非資本主義路線の知識階級の同志として、彼が闘争の道を歩んだことだ。
 あの70年代以降の数十年、ロシアの資本主義の大きな発展は、どれほど民意党の人たちの見解が誤りであり、プ氏の見解が正しかったかということを顕著に示した。
 1884年プ氏の編集した‘労働解放を目的とした’団体(労働者開放団)の
綱領はまさしくロシア労働者党の最初の宣言であり、また1878年から79年に
至る労働者の動揺に対する直接の解答である。
 彼は言う―――
 「できる限り迅速に労働党を作り、現今のロシア経済及び政治の全ての矛盾を解決するのが、唯一の手段だ」
 1889年プ氏はパリ国際社会主義党大会で言った――
「ロシア革命運動は、革命的労働者運動によってのみ勝利できる。これ以外に
解決の道は無い。またあり得もしない」
 これはプ氏の有名な言葉で、決して偶然出たのではない。プ氏はその偉大な天才的才能で市民の民衆主義の革命の中に無産階級の主権を擁護し、数十年の長きにわたった、それと同時に自由主義的有産者は帝制との闘争の中で、怯懦にもスパイとなり、日和見者たちの思想と化した、と発表した。
 プ氏はレーニンと共に「火花」の創立来のリーダーだった。ロシアに正当な組織を作るための闘争について「火花」が果たした偉大な組織的な仕事は、広く知られている。 
 1903年から17年のプ氏は何回もぶれたが、それは革命的マルクス主義に反し、メンシェビキの方へ歩んだためだ。彼を革命的マルクス主義の諸問題に背かせたのは、何だったのだろう?
 まず農民の革命の可能性に対する過小評価。プ氏は民意党人の有害な面に対する闘争の中で、農民のさまざまな革命的努力を見落としていた。
 次に、国家の問題。市民の民衆主義の本質への理解が欠如していた。即ち、
資産階級のものである国家機関を粉砕する必要についての理解が欠如していた。
 最後に資本主義の最後の段階としての帝国主義の問題及び帝国主義戦争の性質に関する問題への理解が欠如していた。
 要するに、――プ氏はレーニンの強い点に弱かった。彼は‘帝国主義と無産階級の革命時代のマルクス主義者’になれなかった。だから彼がマルクス主義者となったのも、全てが結末を迎えたときだった。プ氏はそれで、Rosa Luxemburgの言うように、徐々に「尊敬すべき化石」になっていった。
 露国のマルクス主義建設者プ氏は、単にマルクスとエンゲルスの経済学、歴史学及び哲学の媒介者ではない。それら全領域にわたり、出色で独自の労作を残して貢献した。露国の労働者とインテリ階級にマルクス主義は人類の思索の全史的に最高の科学の完成だと明確に理解させることに関して、プ氏は力を発揮した。
 プ氏のいろいろな理論上の研究は、彼の観念形態の遺産の中で、疑いなく最も貴重なものである。レーニンはかつて純心な青年たちに、プ氏の著作を研究するよう、しばしば勧めた。――「もし、これ(プ氏の哲学的著述)を研究しなければ、誰も意識的に、真の共産主義者にはなれない。これは国際的な全てのマルクス主義文献中で、最も傑出した作品である」(レーニンの言)
四。
 プ氏はマルクス主義の芸術理論にも基礎を築いた。彼の芸術論はまだ厳然とした一つの体系を成してはいないが、彼の遺した方法と成果を含む著作は、単に後人の研究対象のみならず、マルクス主義芸術理論を打ち立てたと称しても
はじないだけの社会学的美学の古典的文献である。
 この中の三篇の手紙形式の論文は、彼のこの種の著作の片鱗に過ぎない。
 第一篇「芸術論」はまず「芸術とは何か」を提起し、トルストイの定義を補正し、芸術の特質を感情と思想の具体的形象の表現と断定。そこから更に進んで、芸術も社会現象だということを明確にし、従って観察の際も必ず唯物史観の立場をとり、そしてこれと異なる唯心史観(St.Simon,Comte,Hegel)に批判を加え、これと相対的に生物の美的趣味のダーウィンの唯物論的見解を紹介した。彼はここで、反対者の主張が生物学から来る審美感の起源の提議を仮に設定し、ダーウィン本人の言葉を引用し、「美的概念…は種々の人類種族の中で、
非常にいろいろあり、同一人種の各国民の中にさえも同じではないことがある」と説いた。この意味は、「文明人の中で、このような感覚は各種複雑な観念及び、思想と連鎖結合したもの」だ、と。
 それで、「生物学から社会学へ向かわねばならず、ダーウィンの領域のあの
人類を「種」と考える研究はこの種の歴史的運命を研究すべきだ、とした。
もし、唯芸術のみを言うなら、人類の美的感情の存在の可能性(種の概念)は、
それが現実の条件(歴史的概念)が高めた方向に移って行く。
 しかしプ氏はここで、この重要な芸術生産の問題として、生産力と生産関係の矛盾及び、階級間の矛盾を解明し、どういう形で芸術面に影響を及ぼすか:
当該生産関係に立った社会的芸術は叉、どのように個々の形をとるか、他の社会の芸術とははっきりと異なっている、とした。
 このダーウィンの「対立する根源的影響」という言葉は、ひろく例を引き、
社会的条件の美的感情の形との関係を説明し:並びに社会的生産技術と韻律、
階調、均整法則との相関を説明している。
 且つまた、近代フランス芸術論の発展(Stael,Guizot,Taine)を批判している。
 生産技術と生活方法が最も密接に芸術現象に反映するのは原始民族に関してだ。プ氏はこうした原始民族の芸術を解明することで、マルクス主義芸術論の
難題に取り組んだ。第二編「原始民族の芸術」は、まず人類学者旅行家などの
実見談に基づき、ブッシュマン、Vedda,インディアン、及び他の民族の生活を、
狩猟、農耕、財貨分配などの事例を引き、原始狩猟民族の実際上の共産主義的結合を証し、かつブッチャ―(ドイツ人)の説はあてにならぬ、とした。
 第三篇「原始民族の芸術を再び論ず」は、遊びの本能は、労働以前にあるという人々の誤りを批判し、豊富な実証と厳正な論理を使って、有用な対象の生産(労働)が芸術生産に先んじていたというこの唯物史観の根本命題を究明した。詳しく言うと、プ氏の究明は社会的人間の事物と現象を見ることは、最初、
功利的観点からだったが、後にやっと審美的観点に移ったという点だ。全人類が美しいと思うものは、有用であり――生存の為と自然及び他の社会人の人生に闘争上有意義なものである。効用は理性から認識されるが、美は直感的能力で認識される。美を享楽する時、殆ど効用は考えないが、科学的分析により、発見される。従って、美的享楽の特殊性は即ちその直接性にあり、而して、美的愉楽の根底に、もし効用がその下に伏せっていなければ、それは必ずしも
美しくはない。人は美の為に存在するのではなく、美は人の為に存在するのだ。
――この結論は唯心史観者がプ氏を深く憎み、拒絶するもので、社会、種族、
階級の功利主義的見解を芸術に持ち込んでしまった。
 第三篇の結末でプ氏はこれを引き続いて討論するよう準備し、人種学上の旧式分類が完全に合致するか否かだ。だが、それは結局果たせずに終わり、これで終わりとするほかなかった。
五。
 本書の底本は日本の外村史郎の訳だ。既に、林柏修氏の訳があり、本来は
再訳の要も無いのだが、叢書の目録に早くから決まっていて、やはりこの様な
徒労に近い仕事をする仕儀となった。
 翻訳の際は常に林氏の訳を参考し、日本語より更に適切な名詞を採用し、時に、文章の構成も大筋で影響を受けたし、前車を鑑とし、私が何回も誤訳するところを救ってくれたので、心から感謝せねばならぬ。
 序言の4節は、第3節以外は全て訳出したほか、それ以外はシべノフの
「ロシア社会民主労働党史」山中封介の「ロシア革命運動史」と「プロレタリア芸術教程」の余禄の「プ氏と芸術」などを参照した。臨時に急いで取り組んだゆえ、誤訳も多いだろうが、あらけずりな踏み台的導入部とさせてもらう。
 一番重要な芸術全般について触れなかったのは、先にワレフソンの「プ氏と芸術問題」が出版されており、「ソビエトロシアの文芸理論」(「未明叢刊」の一)の後、レシネフの「文芸批評論」とヤコブレフの「プ氏論」(共に本叢書の一)が出版され、簡明で広範ゆえ、訳者はその万分の一もできそうにもないから、触れずに如かず。読者は自分で彼らの文章を研究されんことを願う。
末尾の一篇は蔵原惟人訳「階級社会の芸術」を訳したもので、「春潮月刊」に
載せたもの。その中でプ氏の文芸についての見解を自序した文章があり、本書の第一篇と対比できるので巻末に載せた。
 但し、訳文を自省すると今回のもやはり「硬訳」であり、これしか能力がなく、読者はやはり指で線をたどり、地図を見る如くに読まねばならぬ:実に非常に申し訳ないことだ。  
  1930年5月8日夜、魯迅 校訂終了後 上海閘北寓廬にて
 
訳者雑感:
 名前くらいしか知らないプレハーノフの「芸術論」の翻訳の序を訳しながら、
プレハーノフのことを少し皮相的にかじってみた。もはや日本の図書館でもあまり彼の著作を置いているところはない。伝記では彼もユダヤ人だったとある。マルクスを本格的にロシアに紹介した人間だが、メンシェビキ(少数派)だったから、ボリシェビキのレーニンたちによって、少数派という立場に追い込まれ、最後はフィンランドで死んだ。
 メンシェビキ(少数派)という名称というのは後の実権を握った多数派の人たちがつけたのだろう。仏教でも我々は大乗仏教として、南進した仏教を小乗仏教と呼んでいるが、彼らはそれを見下した意味があるとして受け入れない。
 プレハーノフは、魯迅の序文によれば、農民に頼っていては革命できない。
都市の工場労働者を組織しなければロシアは革命できない、と説いた由。
 農民の力を過小評価していた、という点は後の中国の農村から都市を包囲する、という中国共産党にとって反面教師的でもある。
 その後のコミンテルンはやはり国民党を支援していて、延安で農村から都市を包囲しようとしていた中国共産党とは一線を画していた。逆にスノーとか
スメドレーなどのアメリカのジャーナリストたちの方が、延安をサポートし、
世界に彼らのことを紹介し続けたのも、歴史の皮肉であろう。
 組織としてのコミンテルンは官僚化し、硬直化していて、個人として自由な
立場で行動していた米国などのジャーナリストや文芸家の方が、目が確かだったようだ。彼らは蒋介石率いる国民党政府がどれほど腐敗し大衆から見放されていたかを明確に認識していた。
     2011/08/30訳
 
 

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「進化」と「退化」まえがき

 これは十年来訳者が翻訳した百篇近い文章から、余り専門的ではない物を選び、読みやすく一冊にまとめ、広範な読者に伝わるようにしたものである。
1.これを読めば最近の進化学説の状況と 2.中国人の将来の運命が分かる。
 進化論が中国に入って来たのは頗る早く、遠くは厳復がハックスレーの「天演論」を訳述したが、空しい名詞をただよわせただけだった。第一次大戦時代、論客たちにたいへん誤解され、今や名目すら気息奄々の状態。その間学説は数次の変遷をへて、De Vriesの突然変異説が興り、またすたれ、ラマルクの
環境説は廃されて叉復興し、我々は自然に生息しているが、自然の大法則の研究は、大抵がまだ意を尽くし切れていない。本書の首尾は、各2編で、新ラマルク主義の立論で概略を窺い知ることができ、欠けたところをほぼ補う。
 但し、最も大切なのは巻末の2編で、砂漠が南進しつつあることや、栄養を保持することが難しくなっていることは、中国人にとって特に重要で、極めて切実な問題であり、解決できぬと結果は滅亡を意味する。中国古史の探索の難しさを解くことができるし、中国人が(世界で)一番耐久力がある、という
謬説を打破できるのは、副次的な収穫に過ぎぬ。森林を伐採し尽くし、水沢は
枯渇し、将来一滴の水が血液と等価となる。これを現在と将来の青年に記憶してもらえるならこの本の収穫は非常に大きい。
 然し、自然科学の範疇はここまでで、与えられた解答も只只治水造林だ。これは一見とても簡単容易なようだが、事はけっしてそれだけでは済まない。私はスメドレー女史の「中国の農村生活断片」の二つの話を引用してその証としよう。―――
 『彼女は明日(北京の昔からの皇帝の狩場)南苑に行き、獄吏に頼んで、彼女の親属を釈放してもらう、と言った。其の人は60人のそれぞれ個別の村人で、男も女もいて、3か月前に捕えられ収監された。そこでは、食べるものがすべて無くなってしまったから、木の枝を切り、樹皮を剥いだ。彼らがこうするしかないのは、反乱の為ではなく、只木材を売って食糧を手に入れるためだ。』
 『… 南苑の人々は収穫が無く食料も無く仕事も無い。この2畝(ム―)の田んぼも何の役に立つものか。… ちいさな擾乱でも、千人もの人が災民となってしまう。…南苑は当時(北京を軍閥が戦場としていた結果)樹木のほか、何も無くなり、農民が樹木に手をつけた時、警察は彼らを捕えて収監した』
     (「萌芽月刊」5期177頁)
 こうした樹木保護法の結果、樹皮を剥ぐことが増え、草の根を掘る人が増え、砂漠化を速めてしまった。但し本書は自然科学を範疇とするため、こうした点には触れていない。
 この自然科学を論じることに次いで、更に一歩進め、解決を見いだせれば、
社会科学が生まれる。
             1930年5月5日
訳者雑感:
 食べるもの(中国語の原文は「生活手段」)が本当に何も無くなったとき、
戦前の中国人はどうやってしのいだか。我が子を他人の子と換え、食らった、という話を何回か読んだ。それほどになる前は、木の皮、草の根を食べたという展示を何か所かで見た。その結果、その地域一帯は禿げ山になり砂漠化した。
 改革開放が進む中国では、もうこういうことを展示する所は無くなってしまったようだ。30年前までは、各地で戦前の農民が地主の搾取と自然の災害で、
食べるものが全くなくなってしまい、樹皮や草の根を食べたという実物大の
農民たちの像がたくさん展示されていた。いずれも昔の、食うや食わずの苦しい生活から今日のように何とか食べられるようになったのは、共産党の御蔭だ、
だから共産党に感謝して、農業生産を高めて、豊かになろう! であった。
 だが現実は人民公社の仕組みでは、だれも懸命になって働こうとせず、生産高も増えず、農民の生活は豊かになることはなかった。
 改革開放政策下、請負制を導入して、各戸に配分したら途端に生産意欲が向上し、農村に活気が生まれ、郷鎮企業なる村営企業が生活手段を広げて行き、
天災も比較的少なかったから、一気に右肩上がりに成長を始めた。
 しかし、長年小麦などの買い上げ価格を(都市住民の生活防御のため)引き上げなかった咎めが出て、膨大な数の農民が農作だけでは食べてゆけず、都市への出稼ぎ工(農民工)となって、小麦畑は放置される所が出てきた。
 耕作されない農地が増え、農村が荒廃したので、数年前から小麦の買い上げ価格を引き上げ、農民に生産意欲を持たせるようにしたが、出稼ぎの状態は
改善されず、都市には多くの農民工とその子供たちが何の保護もなく暮らしている。日本でも冬季の出稼ぎが状態であった時代があった。今の中国はあの頃の日本なのだろうか。あと何年或いは何十年すれば農民工が無くなるだろうか。
そのときが来たら、中国の成長も緩やかになり、成熟した社会になるだろうか。
     2011/08/22訳
 
 
 これは十年来訳者が翻訳した百篇近い文章から、余り専門的ではない物を選び、読みやすく一冊にまとめ、広範な読者に伝わるようにしたものである。
1.これを読めば最近の進化学説の状況と 2.中国人の将来の運命が分かる。
 進化論が中国に入って来たのは頗る早く、遠くは厳復がハックスレーの「天演論」を訳述したが、空しい名詞をただよわせただけだった。第一次大戦時代、論客たちにたいへん誤解され、今や名目すら気息奄々の状態。その間学説は数次の変遷をへて、De Vriesの突然変異説が興り、またすたれ、ラマルクの
環境説は廃されて叉復興し、我々は自然に生息しているが、自然の大法則の研究は、大抵がまだ意を尽くし切れていない。本書の首尾は、各2編で、新ラマルク主義の立論で概略を窺い知ることができ、欠けたところをほぼ補う。
 但し、最も大切なのは巻末の2編で、砂漠が南進しつつあることや、栄養を保持することが難しくなっていることは、中国人にとって特に重要で、極めて切実な問題であり、解決できぬと結果は滅亡を意味する。中国古史の探索の難しさを解くことができるし、中国人が(世界で)一番耐久力がある、という
謬説を打破できるのは、副次的な収穫に過ぎぬ。森林を伐採し尽くし、水沢は
枯渇し、将来一滴の水が血液と等価となる。これを現在と将来の青年に記憶してもらえるならこの本の収穫は非常に大きい。
 然し、自然科学の範疇はここまでで、与えられた解答も只只治水造林だ。これは一見とても簡単容易なようだが、事はけっしてそれだけでは済まない。私はスメドレー女史の「中国の農村生活断片」の二つの話を引用してその証としよう。―――
 『彼女は明日(北京の昔からの皇帝の狩場)南苑に行き、獄吏に頼んで、彼女の親属を釈放してもらう、と言った。其の人は60人のそれぞれ個別の村人で、男も女もいて、3か月前に捕えられ収監された。そこでは、食べるものがすべて無くなってしまったから、木の枝を切り、樹皮を剥いだ。彼らがこうするしかないのは、反乱の為ではなく、只木材を売って食糧を手に入れるためだ。』
 『… 南苑の人々は収穫が無く食料も無く仕事も無い。この2畝(ム―)の田んぼも何の役に立つものか。… ちいさな擾乱でも、千人もの人が災民となってしまう。…南苑は当時(北京を軍閥が戦場としていた結果)樹木のほか、何も無くなり、農民が樹木に手をつけた時、警察は彼らを捕えて収監した』
     (「萌芽月刊」5期177頁)
 こうした樹木保護法の結果、樹皮を剥ぐことが増え、草の根を掘る人が増え、砂漠化を速めてしまった。但し本書は自然科学を範疇とするため、こうした点には触れていない。
 この自然科学を論じることに次いで、更に一歩進め、解決を見いだせれば、
社会科学が生まれる。
             1930年5月5日
訳者雑感:
 食べるもの(中国語の原文は「生活手段」)が本当に何も無くなったとき、
戦前の中国人はどうやってしのいだか。我が子を他人の子と換え、食らった、という話を何回か読んだ。それほどになる前は、木の皮、草の根を食べたという展示を何か所かで見た。その結果、その地域一帯は禿げ山になり砂漠化した。
 改革開放が進む中国では、もうこういうことを展示する所は無くなってしまったようだ。30年前までは、各地で戦前の農民が地主の搾取と自然の災害で、
食べるものが全くなくなってしまい、樹皮や草の根を食べたという実物大の
農民たちの像がたくさん展示されていた。いずれも昔の、食うや食わずの苦しい生活から今日のように何とか食べられるようになったのは、共産党の御蔭だ、
だから共産党に感謝して、農業生産を高めて、豊かになろう! であった。
 だが現実は人民公社の仕組みでは、だれも懸命になって働こうとせず、生産高も増えず、農民の生活は豊かになることはなかった。
 改革開放政策下、請負制を導入して、各戸に配分したら途端に生産意欲が向上し、農村に活気が生まれ、郷鎮企業なる村営企業が生活手段を広げて行き、
天災も比較的少なかったから、一気に右肩上がりに成長を始めた。
 しかし、長年小麦などの買い上げ価格を(都市住民の生活防御のため)引き上げなかった咎めが出て、膨大な数の農民が農作だけでは食べてゆけず、都市への出稼ぎ工(農民工)となって、小麦畑は放置される所が出てきた。
 耕作されない農地が増え、農村が荒廃したので、数年前から小麦の買い上げ価格を引き上げ、農民に生産意欲を持たせるようにしたが、出稼ぎの状態は
改善されず、都市には多くの農民工とその子供たちが何の保護もなく暮らしている。日本でも冬季の出稼ぎが状態であった時代があった。今の中国はあの頃の日本なのだろうか。あと何年或いは何十年すれば農民工が無くなるだろうか。
そのときが来たら、中国の成長も緩やかになり、成熟した社会になるだろうか。
     2011/08/22訳
 
 

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「主を失った」「資本家の益体も無い走狗」

梁実秋氏は「拓荒者」で自らを「資本家の走狗」と称し、自分としては「私は怒らない」と書いている。以前の「拓荒者」第二期672頁の定義に依ると、
「私自身はどちらかと言えば無産階級の一人のように感じていたが」の後で、
次いで、走狗の定義は「凡そ走狗になるのは、すべて主人の歓心を得て、恩恵に預かろうとする」為であり、そこで疑問として
 『「拓荒者」は私を資本家の走狗というが、それはある特定の資本家か、或いは全ての資本家か?私の主人が誰なのか知らない。もし知っていたら、きっと
何冊かの雑誌を持参し、主人に奉じて、論功してもらおうとするだろうし、
或いは、英国ポンドかルーブルの賞金を賜ろうとするだろう。…ただまじめに働いていれば、何がしかの収入は得られ、生計は維持できる。
どのようにすれば、走狗になれるのか、どうすれば資本家の帳場に行きポンド金貨を拝受できるのか、どうすればXX党へ行ってルーブルをもらえるのか。こうした本領を、私はどうして知りえようか?』
 これはまさしく「資本家の走狗」の生きた肖像だ。凡そ、走狗は特定の資本家の庇護を受けているとしても、実は全ての資本家に属し、従って全ての金持ちには従順で、全ての貧乏人には吠えたてる。誰が自分の主人か知らぬというのは、正しく全ての金持ちに従順なためで、全ての資本家に属する証なり。誰にも庇護されず、飢えて痩せこけ、野良犬に変じても、全ての金持ちに尻尾を振り、貧乏人には吠える。だが其の時には誰が主人かよけい分からなくなっているに過ぎぬ。
 梁氏は自分がどんなに辛い目にあっているかと書き、「無産階級」(即ち梁氏がかつて言ったところの「劣敗者」)のようで、「主人は誰か」も知らないというのは、後ろの組に属するのであり、より正確には何文字かを加えて、「主を失った」「資本家の走狗」と称すべしだ。
 然しこの名にもまだ欠点があり、梁氏は智誠のある教授であるから、一般人とは異なる。彼はもう「文学に階級性があるのか?」と言わなくなったが、
「魯迅氏に答える」の中で、大変巧妙に電柱に書かれた「武装してソ連を守れ」
という句を挿入し、新聞社のガラスの文句を混ぜ合わせ、上記の文章に「XX党へ行ってルーブルをもらえ」という箇所を引用している。故意に伏せたX二つは、誰でも「共産」の2字だと分かる。「文学に階級性がある」と主張した者は、梁氏を怒らせ「ソ連擁護」や「ルーブルをもらう」という罠は、段祺瑞の
衛兵が学生を銃殺し「晨報」に、学生は数ルーブルの為に命を落としたとか、自由大同盟に私の名が出たら、「革命日報」の「通信欄」に「金ぴかのルーブルで買収された」などと書くのは、いずれも同じ手法だ。梁氏も多分主人の為に、匪類(学匪の意)を嗅ぎつけ、ある種の批評を出しているが、この職業は
「ヤクザの手先」に比べても更に下賤である。
 国共合作時代、文書や演説でソ連を賞賛するのが大流行したが、今や全く違うし、新聞や電柱のビラに載る「XX党」は警察の取り締まりが厳しくなっている。そういう状況で、敵を「ソ連擁護」「XX党」と名指しするのはまさに時流にのっており、多分主人から「何がしかの恩恵」を得られるだろう。
但し、梁氏の意が「恩恵」や「ポンド金貨」にあるというのは、濡れ衣であって、決してそんなことはない。だがこの助けを借りて、「文芸批評」の窮状を救わんとするくらいだろう。
それだから文芸批評の面から言えば、「走狗」の前に「益体も無い」という一字を追加せねばならない。
       1930、4,19.
訳者雑感:
 原文の「資本家の走狗」というのは、お金のために資本家に尻尾を振る犬であり、この犬は金の無いものには見向きもせず、やたら吠えたてる。魯迅はここで、梁氏がただ単に金のために文をものする教授ではなくて、文芸批評の窮状をなんとかしようと懸命に書いているのでしょう、と皮肉たっぷりである。
 しかし、梁氏の文章は迫力に欠け、使う手法も段祺瑞がやった「陳情の学生らを射殺した」時に使った同じ手口「ルーブルをもらっている」という句を、
魯迅攻撃にも使うという陳腐なものであった。それで、犬の前に「乏」という字を付けくわえた。辞書には:へこたれた、力の無い、役に立たない、とあるので、「益体も無い」とした。文芸批評、資本家のいずれにも役に立たない、と。
 さて日本でもかつて左翼を攻撃する時、モスコーから金をもらっている連中
というのが常套句であった。実際にソ連の貿易公団との取引で、通常では考えられぬほどの収益を上げられるのは、その一部又は大半をそういう方面に転用せよとの暗黙の指示であった。
 中国もそれに倣ったのか、友好商社経由でした貿易を許さず、台湾との取引を重視する会社は「周四原則」でこれを排除し、親中国派を育て、そこに貿易で得られる収益が落ちるようにした。右翼はそれを攻撃するに「中共の手先」と呼んだ。それに対する反撃は「資本家の犬」であった。やはり益体も無い犬が殆どであった。
                 2011/08/21訳

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良い政府主義

 梁実秋氏は今回「新月」の「零星」(細々した事)でも、「現状不満」に賛成しているが、「今知識のある人(特に<先駆者><権威><先進>の称号の
ある人)たちの責任は、冷笑したり嘲って「現状不満」の雑感を発表するだけでなく、一歩進んで、誠実かつ積極的に‘現状’をなおす‘処方’を探し求めるべきと考えている。
 どうしてか?病気ならすぐ薬を飲むべきで、「三民主義は薬だし――梁氏は言う――共産主義も、国家主義も、無政府主義、良い政府主義も皆そうだ」と。
 今「すべての処方が一文にも値しない、とけなし、苦しんでも治る見込みはない…、というのは一体どんな心理なのか?」
 こういう心理は実にけしからぬことで非難すべきだが、実際はまだそういう雑感を見たことも無いし、例えば同じ作者が三民主義は英米の自由に背いているとか、国家主義は大変狭量だとか、無政府主義もまた空虚だ…と考えている。だから、梁氏の「零星」は彼が見た雑感の罪を誇張している。
 その実、ある主義の理由を咎める欠点、或いはそれに伴って生ずる弊害は、その主義者一人のせいではなく、元々不可とすべきものは無いのだ。
 例えば、圧搾されて痛ければ大声で叫ぶが、元来、よりすぐれた主義を考え出すまでは、じっと歯をくいしばってなければならぬとは限らぬ。だが勿論、
よりすぐれた意見を出せれば、それに越したことはない。
 しかし梁氏が遠慮して最後に置いた「良い政府主義」というのは、更に遠慮して例外とすべきで、三民主義から無政府主義までその性質の「寒暖」が如何なるものであれ、処方箋に書かれた薬名であり、石膏、肉桂の類、――服用後の利害は別として、単に「良い政府主義」という「一服の薬」は、処方上、薬の名ではなく、「良い薬材」という三文字で、偉そうな講釈をする名医の格好をした「主張」だ。それで、誰も病を治すに悪い薬材を飲むべきとは言えぬ。だが、この処方を書くのは医者でないとダメとは限らぬ。誰でも彼を一文の値打ちも無い(褒の字は賞賛の意で、ここでは通じないし、この字を知らない証になるが、ここでは、梁氏の原文通り、そのままとする)とすることも可である。
 名医が恥をかいて怒って「私の良い薬材主義を嘲笑するのか。それならお前の処方を示せ!」と怒鳴るなら、更にまた大いに笑うべき「現状」の一つだ。
 どんな主義に基づいてなくても、雑感は出てくるものだ。雑感の無窮無尽なること、実にかような「現状」が多すぎるからである。
      1930.4.17.
 訳者雑感:
「良い政府」というのは「賢人が政治を行い」、ものごとの分からない愚人を
統治するのが良いという古くからの中華の伝統だ。
孫文ですら人民を「阿斗」(秦の始皇帝の息子=愚か)と呼んでいた。
政治は彼らのために代行してやるものだ、と。立派な「正人君子」が訓政を
執るのが辛亥革命後の最初の段階だと唱えた。
 この体制では庶民は現状に不満を抱かず、政治は賢人の良い政府に任せなさい、ということであり、政治を行う賢い政府と愚かな人民という構図である。
 賢い政治家たちが行った8年間の対日抗戦期間の国民党政府は、腐敗に堕落を重ね、賄賂の公行(横行などというものではなく、おおやけに公然と)により、人民の支持を失い、それをしなかった、するポジションにいなかった共産党政府によって、台湾に追い出された。英語の「I’m not in a position」という表現があるが、実権あるポジションにいなかったことが、中国共産党の清潔さを生み出したものだ。それが1949年に権力を掌握すると途端に国民党と同じことをし始めた。 それが1968年に「資本主義の道を歩む実権派」を叩き潰せというスローガンで始まったプロレタリア文化大革命であった、と言える。
 政府は賢人が一人占めするような「良い政府」では困るのだ。
   2011/08/18訳

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出でよ! 評論家。

 正確な統計は無いが、ざっくり言って昨年来、「革命」を掲げた小説を読む人はかなり減ってきて、出版界の趨勢は社会科学に移っている。これは良いことと言わねばならぬ。最初に青年読者は宣伝色の濃厚な評論的呪文に迷い、「革命的」創作を読むことで出路を得られ、自分も社会も救いが得られると思ったので、手当たりしだい大口で飲み込んだところ、なんとその大半は、滋養はなく、新しい袋に入れたばかりの酸っぱい酒や、(肉を包むための)紅い包装紙に包まれた腐った肉だったから、胸やけし、嘔吐しそうになった。
 この苦い経験を経て、根本から治すようになり、適切な社会科学を求めたのは、本当の前進である。
 然るに、大部分はマーケットの需要により、社会科学の翻訳は雲の涌くごとくに出てきたが、まずまずの物と、とんでも無いのが書棚に雑多に陳列され、
正しい知識を探し求める読者は困惑している。しかし新しい評論家は口を開かず、評論家の顔をした連中が勢いに乗じて、「犬や猫なみ」と切り捨てている。
 これに対して我々が求めるのは、何名かの堅実で、分かりやすく、社会科学と文芸理論を本当に分かっている評論家だ。
 中国で評論家の生まれたのは久しい以前だが、それぞれの文学団体には、
それぞれひとそろいの人がいる。少なくとも詩人、小説家、更には当団体の
栄光と功績を懸命に宣伝する評論家がいる。これらの団体は改革を志す、と
の明言して、古い城壁に攻勢をかける。だが、途中で古い城壁の手前で、彼ら同志で取っ組み合いをするので、疲れてしまい、手をゆるめてしまう。ただ、
取っ組みあったに過ぎないから、大傷はなく、わずかに息が切れ呼吸が乱れる程度で終わる。息を切らしながらも自分が勝ったと思い凱歌を歌う。
 古い城壁の方は、守備兵も不要で高みの見物。こうした新しい敵が自分で唱(しょう)する喜劇を観ていればよく、黙っているが勝利は彼らのもの。
 この2年特に出色の創作はないが、私の見たところ、単行本では李守章の
「跋渉する人々(山川を歩き廻る)」台静農の「(大)地の子」葉永蓁の「短い
十年」の前篇、柔石の「二月」と「旧時代の死」魏金枝の「七通の手紙の自伝」
劉一夢の「失業以後」など、いずれも秀作だ。しかし我々の名の通った評論家、
梁実秋氏は陳源氏と呼応していることは、ここでは触れないが、成仿吾氏は
創造社の過去の栄光を懐かしむ余り、変身して「石厚生」と名を換え、その後流星の如く消え去った:銭杏邨氏は近頃ただ「拓荒者」のみ、蔵原惟人一点張りで、茅盾とつぎつぎに掴みあいの論戦をしている。各文学団体以外の作品は、
このようなドタバタした、或いは閑散とした戦場で、適当にあしらわれるか、
蹂躙されている。
 今回読書界が社会科学に向かった事は良いことで、本当の転機だが、ただ他の面にも有益であるだけでなく、文芸にもその方向を正しくさせ前進を促している。
 しかしながら、発表された作品の乱雑さと傍観者的な冷笑の中で、いとも簡単に枯れしおれてゆく。だから今真っ先に必要なのは、やはり――堅実で、明解で、真に社会科学とその文芸理論を理解している評論家の登場である。
 
訳者雑感:
 学生時代、中国人教師から中国のことわざを一日一句勉強した。その中で今もいくつか覚えているが、「文章是自己的好」というのがある。この後に続くのは「老婆是人家的好」という対で、文章は自分のが、女房は人のが一番だ、と。
中国の文芸界に良い意味での評論家がなかなか育たなかったのは何故だろう。
魯迅の指摘するように、各文学団体(社を形成)はそれぞれ内部の人間が、自分の雑誌社や団体の作品の宣伝のために「評論」的なものを書くが、広く世界を見渡して、ものごとや文芸理論をしっかり理解している評論家が少ないのは、
いずれも「文章は自分及び自分たちの仲間の物が一番」と考えているからか。
 その反動というか、魯迅をはじめ、相手を罵ったり、批判、非難、無視するのは目に余るほどである。魯迅の作品の載った雑誌は(目もくれずに)「しかるべきところへ放り込む(ゴミ箱行き)」とか、上述の通り、「犬猫なみ」として
人間扱いすらしない。新しい旗印を掲げて、旧勢力にぶつかって行く、と景気のいいことを言いながら、旧勢力と戦う前に、別の新勢力との戦いにエネルギーを消耗してしまう。このあたりは日本の様なぬるま湯の文芸界とは格段の差があるのだろう。相手をこっぴどく叩かないと、自分がやられてしまうという、
おかしな偏狭さが、余裕のある文芸を育てることを困難にしているのだ。焚書坑儒とか禁書などの歴史がそれを物語っている。墨子の書いたものは、その後儒家の政治によって、消されてしまい何も残っていなかったが、2千年経て日の目を見たといわれる。それほど徹底的に消さないと、すぐ反撃されてしまう
という恐れが強烈に残っていたからだろう。焚書坑儒の書とはとりもなおさず、
儒家の書であったわけだから。
 今日の中国に魯迅の期待したような評論家がいるであろうか。御用評論家は
存在できても、政府に反抗するような評論家は出国を余儀なくされるだけだ。
    2011/08/16訳
 
 
 

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左翼作家連盟への提言

左翼作家連盟への提言
    3月2日、左翼作家連盟成立大会にての講演
 多くの事については、すでに詳しい話がなされたので、私から改めて話すことはありません。私は今「左翼」作家は、いとも簡単に「右翼」作家に変ってしまうと思っています。なぜでしょう?第一、実際の社会闘争に接してなければ、ガラス窓の部屋で文章を書いて問題を研究するだけなら、どんな過激な「左」にもなれますが、実際にぶつかると、すぐ砕け散ってしまう。部屋の中なら徹底的な主義を高談するのはとても容易だが、それはまた「右傾」するのも大変簡単なのです。
 西洋で「サロン社会主義者」と呼ぶのがこれです。「サロン」とは客間で、そこに座って社会主義を談じるのは高雅でスマートだが、実行など考えてもみない。この種の社会主義者はまったく頼りになりません。更に今、広義の社会主義思想を少しも持たない作家や芸術家、例えば、労働者農民大衆は奴隷であるべきとか、虐殺され、搾取されるべしと説くような作家や芸術家は、殆ど
いなくなった。ムッソリーニは例外。しかし彼は、文芸作品は書いていない。
(勿論こうした作家も、皆無とは言えない。中国の新月派の諸文学家と所謂ムッソリーニの寵愛するD’Annunzioがそうだ)
 第二、革命の実際状況を知らないと、簡単に「右翼」に変わる。革命は苦痛で、中には汚らわしいことや血が混入し、詩人の想像するような趣のある物ではない。その完美さは:革命といえども、特に現実の事となると、色いろ卑賎で煩わしい任務もあり、詩人の想像するようなロマンティックなものではない。革命は勿論破壊する。然る後、建設が必要で、破壊は痛快だが建設は煩わしい。だから革命にロマンティックな幻想を抱くものは、ひとたび革命が近づき、進行すると、すぐ失望してしまう。ロシアの詩人イエセーニンは、最初十月革命をとても歓迎し、「天上と地上の革命、万歳!」と叫んだ。「私はボリシェビキだ!」と言ったが、革命後には、実際の状況は彼の想像と全く違い、ついには失望して、頽廃した由。イエセーニンはその後自殺したが、この時の失望がその原因の一つ。またピリヤックやエレンブルグも同様だ。
 我が国の辛亥革命の時も同じで、多くの文人、例えば「南社」の人々は、初めは大抵革命的だった。一種の幻想を抱いていて満州人を追い出しさえすれば、
すべては「漢官威義」(漢代以来の礼儀制度)を回復でき、自分たちは長い袖の衣装を着て、冠をかぶり、帯をしめ、大股に通りを歩けると思っていた。それがどうか。満清皇帝を追い出した後、民国ができたが、状況は全く違うので、失望し、その後一部の人は新しい運動に対して、反動的となった。
 我々も革命の実際状況を知らないと、簡単に彼らと同じようになるだろう。
 また、詩人や文学家が全ての人より高い所にいて、彼の仕事は全ての仕事より高貴と考えているなら、間違っている。例えば、かつてハイネは詩人が最も
高貴だと考え、上帝は公平だから詩人は死後、上帝の所へ行き、上帝を囲んで座り、彼にお菓子を食べさせてくれる、と思っていた。今、上帝がお菓子をくれるなどの話を信ずる者はいない。だが、詩人や文学家が今も労働大衆の革命の為に活動し、将来革命が成功したら、労働者はきっと大変な報酬で特別な待遇をしてくれ特等車に乗せてくれ、特等の食事を用意し、或いは労働者がバター付きパンを捧げてくれ「我々の詩人よ、食べてください!」という:と考えるのも正しくない。実際にはけっしてそんな事はない。
多分今より更に苦しいだろう。バター付きパンなど無く、黒パンすら無いかもしれない。ロシア革命後の1-2年の状況はそうであった。こうした状況を知らぬと、容易に「右翼」に変じてしまう。事実労働大衆は、梁実秋氏のいうように「見込みのある者」でなければ、けっして知識階級を特に重視しないし、私の訳した「潰滅」のメティク(知識階級)のように、却っていつも鉱山労働者らから、あざ笑われるのだ。言うまでも無いが知識階級は、知識階級がしなければならない事があり、特にそれを軽視すべきではないが、労働階級は詩人や文学家を特別に例外的に優待する義務は無い。
 さあ、今後我々が注意すべき点を挙げてみよう。
 第一、旧社会旧勢力との闘争には、堅固な決意を以て持久戦で臨み、実力を重視すること。旧社会の根底はもともと非常に堅固であり、新たな運動はそれ以上の力が無ければ、何も動揺させられない。更に、旧社会は新勢力を妥協させるためんに有効な手段を持っているが、彼らはけっして妥協しない。中国にも新しい運動はたくさんあるが、いつも旧勢力にいいようにあしらわれて終ってきた。その原因は大抵新しい方が堅い決意に裏付けられた大きな目的意識を持たず、小さな要求がかなえられるとすぐ満足してしまうためだ。
 口語運動でも、旧社会は当初死ぬほど抵抗したが、暫くして口語の存在を許容し、少し哀れな地位を与え、新聞の片隅に口語文を載せた。しかしこれは旧社会からすれば、新しい物も何ということは無い。恐ろしくも無い。だから存在させてやってもいい、ということで、新しい方は満足し、口語文はこれで存在権を得たと思った。また、この1-2年来の無産文学運動もほぼ同じで、旧社会も無産文学を許容し、無産文学もさほどのことはないし、無産文学を玩んで、装飾として客間には骨董の磁器のほかに、無産者用の粗末な碗も置いて、別の趣とした:だが、無産文学者は文壇に小さな地位を得て、原稿も売れたので、もう闘争は不要で評論家も凱歌を歌い:「無産文学は勝利した!」とした。だが個人的な勝利以外、無産文学についていえば、つまるところそれほどの勝利といえるだろうか?況や無産文学は、無産階級解放闘争の一翼であり、無産階級社会の勢力の成長と足並みを揃え、成長するのであって、無産階級の社気的地位が非常に低い時、無産文学の文壇での地位が大変高い、というのなら、
それはただ無産文学者が無産階級から離れ、旧社会に戻ってしまったことを証するのみだ。
 第二、戦線は拡大すべきと思う。一昨年と昨年、文学面での良い戦いはあったが、範囲は実に狭かった。全ての旧文学旧思想について、新派の人々は注意を払わず、却って片隅で新文学者と、新文学者とが闘争をし、旧派の人々はのんびり傍観できるほどだった。
 第三、新しい戦士の群をつくるべし。今人手が実に少ない。我々は何種もの雑誌を出しているし単行本も多いが、書く人はいつも同じ数人。それで充実した内容は無い。一人ひとりが専門ではなく、これもやりあれもやる。翻訳も小説も、その上評論も書き、詩も書くなどで、どうしてうまくできようか?人が少なすぎるためで、人が多くなれば翻訳も専門、創作も専門、評論も専門にでき:敵との戦いも軍勢が多くなり勝利し易くなる。この点についていえば、一昨年創造社と太陽社が私を攻撃してきたとき、その力は実に薄っぺらで、私ですら後には、無聊に感じたし、反撃する気にもならぬほどだった。
私は後に、敵が「空城計」を執っているのを見破ったのです。あの頃、敵は専ら鳴り物を打ち鳴らすのみで、兵を募って将を練ろうとせず、私を攻撃する文は多かったけれど、ちょっと注意してみれば、すべて(同じ人の)変名で、
私を罵っている文句も同じ繰り返しだった。私はその時はマルクス主義の批評の論法を操れる人が私を狙撃するのを待っていたが、ついに現れなかった。
私は新しい青年戦士の養成に注力してきたし、幾つかの文学団体を作ったが、効果は小さかった。だが、我々は今後もこの点に注意すべきである。
 我々は急いで大量の新戦士をつくろうとしているが、同時に文学戦線上の人には「強靭さ」が必要だ。「強靭」とは清朝時代の様な八股文の「門を叩くレンガ」のようなやり方ではダメだという意味です。清の八股文は元々科挙に合格し官僚になるための道具で、ただ起承転結を巧みにし、「秀才挙人」(合格者)
になってしまえば、その八股はポイと棄ててしまい、生涯二度と使うことはないから「門を叩くレンガ」という。それで門を叩いて中に入ったら、棄ててしまい、身に帯びておくことも無い。このやり方を今でも多くの人が使っているのをしばしば目にする。一二冊の詩集や小説を出し、少しばかり名が売れたら、その後どこへ行ったのか、いなくなってしまう。教授か何かになって、功成り名を遂げたらもう詩や小説を書くことも無いから、永遠に現れない。
こうして中国には文学も科学もロクなものはない。然し我々はそれを必要としている。役に立つからである。(ルナチャルスキーはロシアの農民美術を大切にすべしと主張している。それを作れば外国人にも売れ、経済的な助けにもなるから、と。私はもし文学や科学で他の人々に見てもらえるようなものを作れたら、政治面でも帝国主義の圧迫から逃れる助けになると思う)。只文化面で
成績を残すには強靭さが無ければならない。
 最後に、連合戦線は共通の目的を持つのが必要な条件だと思う。こういう話を聞いたことがある。
「反動派は連合戦線をすでに持っているが、我々は団結すらしていない」彼らの目的は同じだから、行動は一致でき、連合戦線のように見える。一方の我々の戦線は統一できず、我々の目的が一致できぬ事を証明している。実は団体がそれぞれ小さく、または個人の為というのが実情だからで、もし目的が労働者農民大衆にあるとするなら、戦線ももちろんすぐ統一する。
 
訳者雑感:
 1930年3月に成立した「左翼作家連盟」は魯迅の最後の言葉のように目的が
「労働者農民大衆」のためという共通の目的があれば、戦線も統一する!と
の悲願であったが、国民党からの白色テロや共産党内の流派間の闘争の結果、
1935年末に解散する。翌36年に魯迅は死去。
 無産者文学とか階級闘争とかという旗印は、今日誰も見向きもしなくなった
ようだ。だが1930年代は中国のみならず、日本や欧米諸国で、無産階級解放の
運動は大きな潮流であった。世界恐慌など無産者がもっとも苦しい生活に追い
こめられていたからだ。
今の中国には無産者はいないだろうか。いてもそのひとたちのために文学を書こうという人はいまい。階級というのも有産と無産ではなく、党員と金持ち連中(往往にして党員だが)とそうでない一般人という区分けしかない。この
二つの間の争いは、あるかも知れぬが、マルクスの考えていたような階級闘争
とは大きな差がでてきた。
 階級闘争が不要になった時、大衆の目をどちらに向かわせるのか。民族闘争
で、目を国外に向かわせるか、あるいは…。
   2011/08/14訳
 

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張資平氏の「小説学」

張資平氏は「最も進歩的」な「無産階級作家」であって、諸兄がまだ「萌芽」や「拓荒」の状態にある時、既に収穫に入っていた由。これ即ち進歩で、長足で飛翔するが如くに疾走し、後塵すら拝めぬ程だった。しかしその後を追跡してみると、彼が(彼の経営する)「楽群書店」に走りこむのが見えた。
 彼はかつて三角関係が売りの小説家で、女の性欲は男より我慢できぬほどで、男を求めるとき、女はとても悩む。これは勿論無産階級の小説ではない。だが、作家は方向転換したら、道を見つけて、鶏犬も飛昇する如くで、況や神仙のぬけがらをや。「張資平全集」を読むべし、と。これが収穫だ、と。おわかり?
 まだある。「申報」の報告に今年の大夏の学生は「青年の崇拝する張資平先生」に「小説学」を学んだ。中国の旧例では英語の教師は、外国の歴史も教えられる。況や小説の教師は勿論腹の中は小説で一杯である。さもなければ、書けるわけがない。ホーマーには「史詩作法」が無いとか、シェークスピアに「戯劇学概論」が無いといえないだろう?
 嗚呼、講演を聞く門徒には福があろう。これから三角関係とは、恋愛とは何かを知ることができる。
女が欲しいなら、思いもよらなかっただろうが、女の性欲の衝動は君よりずっと強く、向こうから走りよってくるのだ。友よ!待っていなさい。だが可哀そうなは、上海に住んでいなくて遠くから「崇拝」するほか無く、その門に入ることのできない青年だ。彼らはこの偉大な「小説学」を恭しく拝聴することができない。今私は「張資平全集」と「小説学」の精華を下記のようにまとめ、遥か遠くにいるこれらの崇拝者に献じ「梅を望んで渇を止める」こととしよう。
  それは即ち―― △ 。    
                    2月22日
訳者雑感:張氏は出版社注には、日本政府の「興亜建国運動」の「文化委員会」
主席を務め、大量の三角恋愛小説を書いた由。最も進歩的な無産階級作家から
方向転換して、三角関係の小説を書きまくって、自分で書店も開いたという
発展家。中国の作家とか芸術家、演劇、美術などに携わる人たちは、政治家と
手を結ぶというか、自らも政治の世界に入り込んで、政治を動かしながら、文化活動をするという伝統があるようだ。
 唐の時代の詩人は、ほとんどが役人であり、政治の中枢にいたいと願い、中枢から追い出されたときも、早く中枢に戻りたいという念を棄てきれずに、その中からたくさんの名詩を残した。
 宋の時代も、明や清でも今日に伝わる詩詞のほとんどがその系譜に繋がる。
辛亥革命後も、魯迅が論戦をいどんだ相手の半分ほどは、政治に身を置きながら文芸活動をしている。というか文芸よりも政治が主であるようだ。
 爾来、名詩詞の多くは、中枢から追い出された政治家たちの筆になるものが
多いが、毛沢東にも多くの詞が残っていて、30年前までは、中国の公共の場所や、ホテルのロビーなどの壁に、彼の詞がたくさんあった。今はどうなっているのだろうか。大半は彼の像と共に撤去されたりしたが、農村の家などには、
彼の写真とともに彼の詞がまだ残っていることだろう。
 乾隆帝は各地に出かけて、たくさんの石碑を残している。毛沢東も岳陽楼とか、南方各地に彼の字を残しているが、どうなるだろう。
  2011/08/12訳

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革命的ではない急進革命論者


革命軍の戦士の意識はすべて、正しくて確固としたものでなければならない、それでこそ真の革命軍であり、そうでなければ何の価値も無い、というなら、一見まことに正しそうで徹底した意見に見えるが、できもしない難題で空虚な理想論にすぎず、革命を害する甘い処方薬だ。
 もし帝国主義の支配下で、大衆を訓練するのに、夫々が「人類愛」を持ち、然る後、笑顔で拱手して、「大同世界」をつくろうなどが実現できないのと同様、革命者が抵抗している情勢の下では、言論や行動で大多数の人々にすべて正確な意識を持たせるのは不可能なことだ。
従って、それぞれの部隊が蜂起する時、戦士は現状に反抗するという意思表示するのであって、大筋は同じでも最終目的は大きく違ってくる。
 ある者は社会の為、或いは小集団の為、または恋人のため、或いは自分の為、
更には自殺の為などいろいろだ。然し、革命軍はそれでも前進できる。進軍の途中、敵に対して個人主義者の弾丸と集団主義者の弾丸は同じように死命を制すことができるからだ。
 いかなる戦士も死傷に際し、軍中の戦闘力を減らそうとするから、どちらも互いに等しくなる。しかし最終目的が異なるから、行軍時にある者は落後、あ
る者は脱走、ある者は頽廃、ある者は叛逆するが、進行をさまたげない限り、後になるほどこの隊伍はより純粋で精鋭になる。
 以前、葉永蓁君の「短い十年」の序を書き、社会の為に尽力したと考えたのはこの意味だった。主人公は前線に出て哨兵になり(発砲の方法すら教えてもらえなかったが)只膝を抱えて哀歌するより、或いは嘆息して筆を執る文豪たちより、真に迫るものがある。もし現在の戦士はすべて正確で鋼鉄のような堅い意識を持たねばならぬとしたら、単にユートピア的空想というだけでなく、情理にもとる苛酷な要求にしかすぎない。
 但し後に「申報」に更に厳しく徹底的な批評がのり、物語の主人公は、従軍の動機が自分の為なので、不満はさらに強くなった。「申報」は平和を一番に考えてきて、革命を最も鼓吹しない新聞だから、始め見たときはどうもそぐわぬ感じがした。それで指摘したいのは、顔つきは徹底した革命者に似ているが、実は極め付きの不革命、革命を害する個人主義の論客と、そうした批評の魂と新聞の実体をあわせてみようというのだ。
 其の一は、頽廃者で、自分には確固とした理想も力も無いため、流亡して刹那の享楽を求め:ありきたりの享楽にはすぐ飽き、時には新たな刺激を求め、
その刺激も激しくないと物足りず、快感を味わえない。革命もその頽廃組の新たな刺激の一つで、美食家が御馳走に飽き、美味にも食傷し、胃もたれした時、
胡椒と辛子の類を食べて、額に汗を少し出してから、やっと茶碗半分ほど飯を
流しこむのと同じだ。革命文芸に対しては、徹底して完全なものを求めるが、
時代の欠陥が少しでもあると、眉を寄せて一顧にも値せぬという。事実から乖離しても爽快なら良しとする。フランスのボードレールは頽廃詩人で有名だ。
革命を歓迎したが、革命が彼の頽廃生活を妨害したとき、革命を憎んだ。だから革命前夜の紙上の革命家は、とりわけ極めて徹底して激烈な革命家は、いざ
革命に臨むと、それまでの仮面を――自覚の無い仮面を、いとも簡単に脱ぎ捨ててしまうことができる。この種の史例は、ほんの小さな釘にぶつかっただけ、
低い地位に就いたり(或いはお金をもらったら)すぐ、東は東京にこそこそと逃げ出し、西はパリに向かう成仿吾のごとき「革命文学家」に献上すべきだ。
 其の一つは、何と命名すれば良いか。要は無定見で世の中は一つも正しいことはなく、自分は一つも正しくないことは無いと思っている輩。つまり、やはり現状が最善という人々。彼らは今評論家として語る時、勝手気ままに、ある種のものを探し出してきて、相反する者を反駁する。互助説を論駁するときは、
生存競争説を引っ張り出し、生存競争説を論駁したいときは互助説を使う:
和平論に反対する時は階級闘争説を使い、闘争説に反対する時は人類愛を主張。
論敵が唯心論者なら自分の立場は唯物論で、唯物論者との議論が難しくなると、唯心論者になる。
 要するに、ヤードでロシア里を測ったり、法尺でメートルを測って、いずれも合致しないのを悟るようなもの。他のもので自分に合うものは一つも無く、自分ひとりだけが不偏不倚だと思い、永遠の自己満足を得る。こうした人たちの批評と指示に従っていると、完全でなく少しでも欠点があるとすぐダメになる。
 しかし、現在の人とものごとはどこに完全無欠のものがあろうか。万全を期そうとするとなにもできない。何もしないことこそ、却って大きな問題になる。
要するに、人の生きる道は非常に煩雑で難しいから、革命家になるということは、勿論さらに難しいこと言うまでも無い。
「申報」の評論家は「短い十年」に対して、徹底した革命的な主人公を求めているが、社会科学の翻訳に対しては毒々しい冷笑を浴びせているし、そうした魂は後者の流れで、いささか頽廃者の人生への無聊に飽きて、辛子を口にして、胃を開こうという気味を帯びている。 
 
訳者雑感:原題は「非革命的急進革命論者」で従来は「非革命的……」とそのまま日本語に使われて来た。今回「革命的ではない…」とした。その意図はと
いえば、「さあ急いで革命を成功させるのだ」と扇動するような言論を展開する急進革命論者たちは、けっして革命的ではない、と言いたかったからだ。扇動的な「急進的革命論者」の論法は、魯迅が引用しているように、論敵を論破することに力点が置かれ、完全無欠を求め、現実から乖離していても構わないという激烈なものだからである。
 今回の温州列車事故でも、何よりも建設の速度と高速列車の速度を速めるのを最優先させよ、と扇動的に指示してきた「急進論者」が道を誤まらせてしまったようだ。同じ鉄道省内にもシステムとか制御関係など総合的な基礎と並行して、地道に建設しよう、速度も始めはゆっくりと、という声が「大きな声」にかき消され、もみつぶされてしまったことによるのだ。いつの時代も、威勢のいい大きな掛け声に、正しい意見はもみ消されてしまうが、大きな声を出す
人たちが、本当に「革命的」ではないのと同様に、本当の「高速鉄道建設」に
適している人たちとは言えない。
   2011/08/11訳  

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習慣と改革


 体と精神が硬化した人民は、ごく小さな改革すら阻止しようとし、表面上、自分が不便になると心配しているようにみえるが、実は自分に不利になるのを恐れているので、反対の口実は往往にして、公正かつ堂々たるものに見える。
 今年の陰暦廃止問題は元々小さなことで、大きな問題ではないのだが、商人は連日たいへんだと騒ぐ。商人だけでなく、上海の無業の遊民、公司の雇員なども嘆息して言う。これは農民の農事に不便だとか、海で働く船員の潮待ちに不便とか並べる。唐突に自分とは関係の無い農夫や船子に同情する。まことに、
いかにも博愛のように見える。
 陰暦1223日には爆竹があちこちでパンパンと鳴った。ある店員に「今年は旧暦でやれるが、来年は新暦でやるのかい?」と訊いたら、「来年は来年さ」
「年が明けてからのことさ」と、彼は来年は絶対陽暦でなきゃだめだとは信じてない。だが日めくりには陰暦は消えてなくなり、節季だけが残っている。
然し新聞には「120年先までの陰陽合暦」の広告が出た。よし、彼らは曽孫、
玄孫の代までの陰暦を用意してくれた。120年先まで!
 梁実秋氏等は数を頼むのは嫌いというが、多勢の力は偉大で、大事なことで、
改革を志す人も民衆の心の奥を知らねば、あの手この手で利益誘導して改善し、ロマンや古典などどんなに高尚な議論をしても、彼らは関心なく、わずか数人が書斎で互いに褒めあって自己満足するに過ぎない。仮にほんとうに「良心的な政府」ができて、改革令を発布しても、彼らによってすぐ元の道に戻されてしまうのだ。
 真の革命者は自ら独自の見識を持ち、ウ氏(レーニンの意)のように、「風俗」「習慣」を「文化」の中に含み、こうしたものを改革するのは非常に難しいと考えていた。これらのことを改革せねば、革命も成功したことにはならないし、
砂上の楼閣に過ぎず、すぐ倒壊すると思う。中国の最初の排満革命は、饗応者も容易に得られたのは、「光復旧物」即ち「復古」をスローガンに掲げたからで、
保守的な人々の同意が容易に得られた。だが後に、歴史上例のない開国のはじめの盛時は、一本の辮髪をむだに失っただけで、人々はたいへん不満に感じた。
 それ以降の新たな改革はことごとく失敗し、一二の改革を実行したら、反動がその何倍にもなり、上記の日めくりに陰暦を禁じたら、逆に120年先までの
合同暦が出てきた。
 この種の合同暦を歓迎する人が大変多い。それは風俗と習慣が擁護するからで、風俗と習慣の裏打ちがあるからだ。他の事もこの通りで、深く民衆の中に入らねば、そして彼らの風俗習慣をよく研究解剖し、好悪を分別し、存廃の基準を決め、慎重に施行法を選ばねば、いかなる改革も習慣の岩石に圧砕されるか、短期間、表面に浮遊するに過ぎない。
 今はもう書店で本を手に、宗教法律文芸美術…などを議論している場合ではない。するとしても、まず習慣と風俗を知り、こうした暗い部分を正視する勇猛さと毅力が求められる。もしもしっかりとこうしたことを見定めぬなら、改革のしようがない。ただ未来の光明を大声で叫ぶのは怠慢な自分をあざむき、怠慢な聴衆をあざむくだけである。 「萌芽月刊」(193031.)
    (1929109日に国民党が陰暦禁止を発布した)
訳者雑感:
 今年の旧正月のころ、香港のテレビが、東アジアで陰暦禁止に成功したのは、日本だけだと報じていた。韓国台湾はもちろん、ベトナムやシンガポールなど、世界各国に散らばる華人はすべて陰暦の正月を一番大切にする。
 本文にある通り、1223日は正月の7日前としてもう爆竹を鳴らして祝う。
正月三が日はもちろん、小正月の15日まで大変なドンチャン騒ぎで新年を祝う。
すべての農事が陰暦に基づいて行われて来たから、当然のことといえば当然だ。
 香港のテレビは過去三回、中央政府が陰暦を禁止した、という。辛亥革命のとき、それからこの1929年、そして共産党政府になったとき。しかしいずれも
掛け声倒れでうまくゆかなかった。新暦の正月は何でもない只の休日である。
日めくり(中国では最近は写真のきれいなカレンダーも好んで壁に掛けるが基本はかつての日本もそうだったように日めくりで、その日に行うべき農事とか、格言的なものが印刷されているのを好む)には陰暦が印刷されている。最近は日めくりの代わりに一日ごとに四角枡で囲った中に旧暦とか関連記事の入った大型カレンダーが流行している。
 本編で魯迅が指摘しているように、中国では、数千年来陰暦で生活してきた。
司馬遷が史官として歴史書を残したが、彼は暦もつかさどっていて、太陰太陽暦の採用に関係している由で、これで二千年以上暮らしてきて何の不便もない、
それを新暦に換えると不便に感じるし、不利になるとさえ思う。それが3回発布され、三回とも反故になった背景だろう。
 日本人も我々の祖父のころ農事は旧暦の日めくりで作業をしながら、正月や盆は新暦で祝っていた。これは祝日というお上からの押し付けの「制度」によることが大きいと思う。年末帰省するにも盆で遠くの故郷に帰るのも一定の休みがなければできない。これを明治政府が西洋の暦に合わせるという大義を掲げ、実は公務員への給与支給を減らせるという一石二鳥を狙って、強行に
施行した結果であると言われている。それに従順に従い、旧暦をいとも簡単に放棄できたのは、日本民族が淡泊なせいか。隣の韓国が日本の植民地支配を受けた後も、いまだに棄てきれずにいるのは、風俗習慣的には、大きな違いがあると言えよう。頑固と革新とはどういう関係にあるのだろう。
       2011/08/08

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「文学の階級性」その6

6.
 私は冒頭で「硬を以て自居するが実際は綿のような軟弱が新月社の特色だ」と言ったが、ここで簡単に補足して本編を終える。
「新月」刊行後、「厳正な態度」を主張したが、人を罵る相手には反撃して罵り返し、謗るものには謗り返した。このやり方は間違ってはいないし、まさしく
「其の人の道で以て其の人の身を治す」である。一種の「報復」だが自分の為ではない。第二巻67号合冊の広告に「我々は皆‘容認’の態度を保持し
(‘不容認’の態度は我々が容認しかねる相手を除き)我々は穏健で理性にかなう学説を良しとする」という。この2句もその通りだ。「目には目を、歯には歯」
で最初から一貫している。しかしこの大道を歩んで行くときっと「暴力を以て
暴力に抗す」という問題にぶつかり、これと新月社諸君の好む「穏健」とは、
相いれない。
 今回、新月社の「言論の自由」が圧迫され、旧例なら圧迫者には、圧迫で
返すのだが、「新月」に顕れた反応は「言論の自由を圧迫する者に告ぐ」一篇
のみで、まず相手の党義を引用し、次に外国の法律を持ち出し、最後に東西の
史例を引いて、凡そ自由を圧迫する者は、往往にして滅亡に至るとして、相手の立場になって、これを相手への警告としている。
 従って、新月社の「厳正な態度」「目には目を」の方針は、つまるところ、力関係が拮抗または弱い相手に対して通用するのみで、もし力の強いものに目が腫れるほど殴られたら、例外を作って、両手で顔を抑えながら「自分の目に気を付けなよ」と遠吠えするのみである。    
 
訳者雑感:
 魯迅は「新月社」の諸君に阿Qの精神を見た。それは即ち殆どの中国人が持つものである。自分より力の強い相手には、目が腫れるほど殴られても、反撃できない。そのくせに厳正な態度で、目には目をでもの事ごとに対処する、と口では言う。自分の掲げる「言論の自由」を圧迫するお上に対しては、その党の綱領にうたわれている「党義」を引用し、外国の例とか古今東西の歴史に照らし、「言論の自由を圧迫」するものは滅びると警告するのみで済ます。
 今日、言論の自由を唱えられるのは、ブログとツイッターのみ。活字メディアなどは、すぐ編集長などが更迭されたり追放されてしまう。日本ではまだ、
鉄道事故の報道がされるが、中国では殆ど報道すらされなくなった。
       2011/08/07

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