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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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香港の孔子聖誕祝賀

記者殿(編者):
 香港の文宣王大成至聖 孔夫子の聖誕祝賀は極めて盛大です。北では、東隣の日本が鼓吹しただけですが、当地では香港総督が率先し、実事求是で、教導もしっかりしています。僑胞たちもまた本国の至聖を崇拝し東方文明を守り、その光大さを発揚し、極めて盛んです。今年の聖誕は特ににぎやか。文人雅人も陶園に集まり、即席で揮毫し、国粋を示した。
各校もすべて聖礼を行い、各界からの参観を歓迎、夜には新劇を演じ、映画を上映、聖(教)興隆に協力した。超然学校(校名)は毎年聖誕祝いに、慣例通り新たな対聯を門に貼るが、今年のは特に出色です。謹んで内地の皆さまに示し、以て帝国主義者を打倒しようと念じます。

 乾(天) 男子校の門聯 
 本、魯の史(官)が「春秋」を作り、斉の田恒を罪し、地の義、天の経で、
賊と乱臣を打倒し、赤化宣伝を受けぬよう、父の仇を討って孝を行い、財産を共有し、妻を公有とするは(共産公妻)、綱紀常倫を破るもの也。
 三都を堕し、蔵せる甲(かぶと)を出し、少正卯を誅し、風行き雷歴し、
貪官と悪い役人を除き、青年を徳育訓練し、修身斉家、親を愛し、年長者を敬い、世道人心を挽回せん。

 坤(地) 女子校の門聯
 母は子に凭(より)貴く、妻は夫に藉(より)栄える。只今聖を祝う誠心は正に懍(おそれ従う)を遵守し、(父、夫、子に)三従す。口を開けば自由、閉じても自由というは、自由をはき違えている。潮流に趨附(附けば)水の性と成る。
 男は乾(天)に剛を稟(はか)り、女は坤(地)に順を占う。これ尊孔主義は決して四徳にたがわず、ややもすると有るとか無いとか言うが、至れば、言うところを知らず、社会に随って頭角を現す。

 埋せるも合と言い、セ(ま)せるも何と言い、なければ無しと言いう、蓋し
女子と小人は雅訓を知らぬゆえ、俗字を使うのみ。世論の類は、優れしもの多いが、今はただ「循環日報」に掲載されたもの一遍のみ採録し、概況を示す:

    孔誕祝聖の言葉に感あり    佩蘅  
 金風爽気を送り、涼露秋に驚く。今また孔誕の時にあたる。近来聖教衰え、
邪説はびこり、礼孔の挙、ただ香港の人、猶あい奉じるも、内地の多くの人は気にもせぬ。蓋し、新法が出てから、昔の道徳、日に日に淪亡(りんぼう)。新人物が出てから、古くからの聖賢はすべて淘汰。一般学生はレーニン:マルクスの類の謬説を崇め、二千年来、太陽・星の如く輝けし聖教をなんとも思わない。それどころか攻撃して滅ぼそうとする。その相手を謗ること、腐れりとか老朽せりという。事実そうであれば若曹少は事を更めず。粗忽で支離滅裂、彼の新学説で私利を図ろうとし、古人の大義微言は、肉にささった刺の如く、眼中の釘の如し。これを除去すれば後は快適になる。今孔子が打倒される列に立たされたとき、孔誕にあたり何を言うべきや。嗚呼。今後もこのようでは、人道も禽獣以下になる。幸い海隅のこの地にて古風はまだ消えず。礼教はなお存す。この祝聖のとき、みなで協力して盛大に祝う。もちろん吾人の祝聖
は、形式的な記念とはいえ、なお孔教の精神を重んず。孔教は倫理を重んじ、実行を重んず。所謂斉家治国平天下は近くから遠くへ及ぶ。内から外へ、皆
守るべき軌道を持ち、天は不変、道も不変。強靭なノミのような理由を得てからは、暴民が騒いで聖教をつぶそうとしても、浮雲の翳り。日月の明を傷つけられようか。吾人が愚昧で世道も衰え、今を傷み昔を思う。まずは大義を発し、羽翼を微言す。孟子の言うように、楊墨を遠ざけることができるのは聖人の徒なり。今世に生き、群言混淆し、異説争鳴。人の陰口は恐ろしいもの。非も積もれば是となる。聖教にとっては難物となる。ただ楊墨に対しても詞を尊び、
これを避す。吾道のために干城となす。中流の砥柱とし張皇の耳目の如し。
涂飾儀文、以て敷衍を心とす。例行の挙をなせ。吾は祝聖の諸公を所望するにあらず、感ありてこれを以上の如く書すなり。

 その広告に言う:
 孔子の聖節を祝し、楽奏天に鈞(きんず:捧げる)。聖教を群人に彰す。
大地を歓び騰らせる、我国数千年来、孔教を崇奉し、誠は以て聖道が風化を
維持し、人心を挽救す。本会は今月27日大堯天班を演ず。当日「加官大送子」
「游龍戯鳳」を演じ、夜通しで「六国大封相」と「風流皇后」新劇を演ず。
「風流皇后」は物語の展開も斬新で、プロットも巧妙、ただこの劇は夜通しやらねばならぬので、本晩、香港政府の特別許可を得て上演する。チケットは荷李活道の中華書院孔聖会事務所にて販売する。
    丁卯年8月24日。 香港孔聖会 謹啓。

「風流皇后」という名は風雅に欠けるが「子,南子に見ゆ」は「論語」を諱せず。ただこれ「海隅の地、古風はいまだ消えぬ」もののみこの意味を知られん。
余は各種映画のごとく、復美収めるに暇あらず、新戯院は「済公伝」四集を演じ、予告者は「斉天大聖大閙天宮」、新世界は「武松嫂を殺す」などあり、全て
国粋、国光を発揚するに十分。皇后戯院の「仮面新娘(花嫁)」は隣邦の作品だが、その広告に:孔子有言、「始め、吾の人におけるや、その言を聞き、その行いを信ず。今、吾の人におけるや、その言を聞き、その行を観て、予において
ともに是に改める」という。
 君、今日「仮面新娘」を見て、孔子の言を証されたく。然る後、聖人の一言は天下の法であり、万世師表たるに恥じぬことを知る。
 さすれば、もとより聖教に裨益す。
 おお!筏に乗り海に浮かぶ。かつて至誠の微言は正を崇め、邪を避ける。幸い大英の徳政あり。愛国好古の士よ、必ず手を額にし遥かに慶すべし。一寓を得て、居民となれぬのが惜しい。
 もっぱら茲に布達し頌す(ほめたたえる)。輯祺。
      聖誕の一日後、華約瑟 謹啓。

訳者雑感:
 最近の中華文化圏では「聖誕」は主にクリスマスを指す。これを訳して初めて知ったのだが、1920年代には孔子の誕生を指していたようだ。この文章は
聖誕節の翌日に雑誌の投稿欄に寄せたものという体裁をとっている。
 西洋のクリスマスイブでも(敬虔なクリスチャンは別として)戦後の日本でも、クリスマスパーティというのは、三角帽子をかぶってキャバレーでどんちゃん騒ぎをすることが流行した。
 大英帝国の徳政下の香港では、政庁の特別許可を得て、夜通しで「演劇」が
孔子の生誕を祝って「奉納」されたもののようだ。
 魯迅の作品「奉納劇」(原題は「社戯」で従来の翻訳名は「宮芝居」など)でも、彼の故郷の各地にある神を祭る社(やしろ)の大祭に、川を挟んだ対岸に
常設の立派な「神楽殿」のような舞台で朝から一日中、出し物が演じられ、最後に夜通し演じられる「通し狂言」が呼び物となる。それが「風流皇后」とか
「仮面新娘」だというのは、大成至誠、と冠をかぶされた「孔夫子」の誕生祝いの大祭に催される。そのチケットを孔聖会の事務所で販売するとは!
 日本の神社での大祭に「能狂言」が奉納されるのは、神社信仰を形而上的に
というか、目に見える形で庶民に広めるものだが、あれほど礼教、聖教といいながら、出し物はなんとも下世話な演劇で、ほれたはれたの愛憎劇。それを
大祭の「客寄せパンダ」にしてまた「奉加金」をも頂戴する。なんと俗物的なことかと、あいた口がふさがらないが、これが衰退の一途をたどる「聖教」の
堕落せる一面だと、魯迅は 「変名」を使って投稿したもののようだ。
     2011/05/25訳

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