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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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6月26日晴。

 午前、霽野の故郷からの手紙拝受。中身は少なく、家に病人が出、家族全員は何の防ぎようも無いので、病原菌に襲われる恐怖に陥り……:
末尾に更に何句かの感慨あり。
 午後、績芳が河南より来訪、少し話してすぐ去った。つまらぬものだが食べてくださいと「方糖」二包を呉れた。績芳は少し太ったようだし、忙しそうで、それに正装の馬褂を着ているので、もうじき役人になるのだろうと思った。
 包を開けてみると黄棕色の丸い小さな薄片で、なぜ「方(四角)」というのかと思った。食べてみると冷やっと口当たりも良く、確かにうまい。なぜこれを「方糖」と呼ぶのかわからない。だがこれも彼が役人になる証だろう。
 景宋(許広平の筆名)の言うには、河南のどこかの名物で、干し柿の霜を使って(河南では霜を方と発音する:出版社注)冷やっとした風味。口角におできの類ができたら、これをつけるとすぐ治るそうだ。どうりでこんなに口当たりが良いのは、造化の妙で、干し柿の霜から濾過したからだという。惜しいかな、説明前に半分くらい食べてしまった。さっそく残りをしまい、将来、口角におできが出来た時に備えた。
 夜、しまって置いた干し柿の霜の大半を食べてしまった。というのも口角におできができるケースは少ないし、新鮮なうちに食べるに如かずと思ったからで、一つ食べだすと、次から次へと食べてしまったのだ。
 
 628日 晴、大風。
 午前、外出。主目的は買薬。街中、五色の国旗:軍警が林立している。豊盛
胡同中段に着くと、軍警に小さな胡同に引き入れられた。暫くすると大通りに黄塵が舞い、自動車が通り、又暫くして一輌:また一輌、又次の一輌…。
車中の人間は見えぬが、金縁帽は見えた。車の側に兵が立ち、紅い絹を結んだ刀を背負い:小胡同の人たちは粛然と畏敬した。それから暫くするともう車は来なくなり、我々は徐々にこっそりと抜け出したが、軍警も何も言わなかった。
 西単牌楼大通りまで来ると、街中は五色国旗と軍警が林立していた。ボロ着の子供たちがビラを抱え:呉玉帥歓迎の号外!と叫びながら私の所に寄ってきたが、買わなかった。(当時の北京では号外は買うものだったようだ)
 宣武門口に近づくと、黄色の制服で顔中汗まみれの男が外から入って来て大声で:こん畜生!と怒鳴った。多くの人が彼の方に目を向けたが、通りすぎていったので、誰も注意しなかった。宣武門の城門下で又一人のボロ着の子供がビラを抱え、黙って私に一枚握らせた。受け取って見ると石刷りの李国恒先生の宣伝で、大意は長患いの痔が国手のだれそれ先生のお陰で治った云々と。
目当ての薬局に着いたが、外に一群の人が、口角泡を飛ばす二人を取り巻いて見物している:浅藍色の古びた洋傘が薬局の入り口を塞いでいる。それを推してみたがとても重い。すると傘の下から頭が出て来て「何の用だ?」と聞く。
薬を買いに来たと告げたが、彼は頭を戻してケンカを眺めている。洋傘の位置は元のまま。一大決心をして猛然と突っ込み、店に入った。
 店内にはテーブルの横に外国人が一人いるだけで、店員たちはみな同胞で
清潔な服を着ていた。なぜか私はわけもなく10年後に彼らがすべて高等華人に
なり、私が下等人になってしまうように感じた。それで丁寧に処方と瓶を、髪
を分けた同胞に渡した。
85分」彼は受け取って歩き出しながら言った。
「え、なにー!」ついたまらず下等なくせが出てしまった。薬代は8毛、瓶代は普通5分だ。今回瓶を持ってきたのになぜ5分払わされるの?
この「え、なにー!」は我が国の罵言「他媽的」と同じ効果あり、このような場合、多くの意味を含む。
8毛」彼はすぐ認め、5分引いた。まことに「善に従うこと流れる如し」で
正人君子の風格あり。
 8毛払い少し待つと薬を持って出てきた。この種の同胞に接すには、時に余り下手にでてはよろしくないと思い、ふたを開けて目の前で飲んでみた。
「間違いないよ」彼は聡明で私が彼を疑っていることを感づいていた。
「おおー」私はうなずいて同意した。だがやはり変だ。私の味覚はマヒしておらず、今回とても酸っぱく感じた。彼はいい加減に計ったようで、あきらかに稀塩酸が多すぎるが、それはたいした問題ではない。毎回飲む量を減らすか、水をちょっと足せば、数回余分にのめる。それで「おおー」と言った:「おおー」
は、どちらも可だという中間にあり、真意の所在をあいまいにする返事だ。
「じゃーさよなら」と瓶を持って歩きながら言った。
「さよなら。水は飲まないの?」
「飲みません。さよなら」
我々は礼教の邦の国民だから結局は礼で譲った。
 ガラス戸を開け、つよい日射の下、土埃の中を急いだ。東長安街の左にまたもや軍警が林立している。横切ろうとすると巡査が手を広げ:ダメ!と叫ぶ。
すぐそこまでだと言ってもダメの一点張り。その結果迂回を余儀なくされた。
L君宅にたどりつき、門を叩くと小使いが出、L君は不在で、昼食まで戻らぬという。もうじきその時間だから、ここで待つと言うと、ダメです、との答え。
お名前はと聞くので、とても狼狽し、こんな遠くまで苦労して来たのに無駄骨になったかと残念に思った。十秒ほど考え、ポケットから名刺を取り出し、奥さんにこんな人が来て待たせてもらいたいと言うが、良いかどうか聞いてきてほしいと頼んだ。半刻ほどして戻って来て、やはりダメだと言う。先生は3時まで帰らないから、その頃にまた来てくれという。
 10秒ほど考え、C君を訪ねることにした。強い日差しの土埃の道を急ぐ。
今度は阻むものなく着いた。門を叩き来意を告げると、開門した者が在宅か否かを見て来ますと答え、今回は大いに希望あり。果たして即刻私を客間に案内してくれ、C君もかけて来た。私はまず昼食を所望した。それで私にパンと葡萄酒を出してくれ、主人は面を食べた。結果一皿のパンは私がたいらげ、バターは残したが、4皿のおかずは殆ど無くなった。
 昼食後5時まで閑談した。
 客間の外は大きな空き地で木がたくさんある。子供たちが果樹の下で、
わいわいとはしゃいでいる。C君は、リンゴが落ちてくるのを待っているのだ、という。ルールがあり、落ちてきたリンゴは拾った子のものになる。子供たちの忍耐に興味がわき、こんな迂遠なことを肯んじる子がいるかと思った。辞去しようとしたとき、3人の子が一つずつリンゴを手にしていた。
 帰宅して朝刊を見ると、『…呉は長辛店で一晩すごした。上述の理由以外に、別のこともあり、保定出発後、(秘書長の)張其鍠が彼の為に占いをした結果、
28日に北京に入るのが吉と出、必ず西北(地区)を平定すると出た由。27日の
入京は良くないといい、呉はそれをその通りだと信じた。これもまた呉氏が一日遅れて入京した理由なり』これが今日の半日の運をダメにしたのだと思い、運が悪かったからやはり占ってみるに限ると思い、今夜の吉凶を見てみよう。
だが、占いの法を知らないし、筮竹も亀の甲もないからどうしようもない。
しばらくして新しい方法を発明した。無作為に本を取り出し、目を閉じて頁を開き、指で押さえたところを、目を開けて見てその2句を卜辞とするのだ。
 取りだしたのは「陶淵明集」で決めた通り試してみた。
その2句は「意を寄す一言の外、茲(この)契、誰ぞよく別せん」と。
いろいろ考えてみたが、何のことかさっぱり分からぬ。
 
訳者雑感:
 魯迅にとって薬局に薬を買いに行くというのは、子供のころに自分の背より高いカウンターに質草を預けて、見下されたような格好でお金を手にした後、
父の薬を買いに行った薬局のことが脳裏から離れなかったことだろう。
 大都会北京の薬局で働いている若い同胞たちが、清潔な(白衣?)服を着て、
薬を買いに来た患者に応対する。彼らが「高等な人種」で自分が下等に見えてしまう。最近はだいぶ親切になってきたが、20年前ですらそうした店の店員の接客態度は、売ってやる的な横柄さに何回もカチンときたことがある。普通の商店でそうだから、薬局となるとこれはもう大変なものだった。
             2010/12/09

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馬上日記 6月25日晴


 病。――今頃書くのは余計なことのようだ。というのも発病は十日前で、今はだいぶ良くなった。が余波は続いており、これを日記の書き始めとする。才子の言に従い、三大苦難を挙げると:一に窮乏、二に病気、三に社会的迫害と言う。その結果、愛する人を失い、専門用語では失恋となる。私の書き出しは二に近いが、実はさにあらず。端午の節句前、原稿料が入り暴食したので、消化不良で胃が痛みだしたため。私の胃は運勢(生年月日の干支で占う:出版社注)的に良くなく、これまでも具合が悪い。医者に診てもらおうとした。漢方医は玄妙極りなしというし、内科は良いとは言うが、私は信じない。西洋医は有名な医者は診察料が高く、忙しいから見立てもいい加減。無名な医者は安いがちょっとためらう。事情がこうであれば胃病はそのまま放って置くほかない。
 西洋医が梁啓超の腰の手術(失敗)後、非難ごうごうで腰に関する研究など何もしたことの無い文学家まで「義によってひと言」発した。それと同時に「漢方医は素晴らしい」論もこの動きに応じて起こった。腰の病ならなぜ黄蓍(シ)
を服さないのか?何とか病なら鹿茸を服用すべきだ、と。ただ、西洋医の病院からしょっちゅう死体が運び出されるのも確かだ。かつてG先生に忠告したことがある:病院を開くなら、回復の見込みの無い病人は入院させないようにと:
治って退院する人は誰も気にしない。死んで担がれて出ると、すぐ広まる。特に有名人は尚更だ。私の本意は何とか(西洋の)新医学を広めようとすることから発しているのだが、G先生は私の良心が腐っているように感じたらしい。もちろんそう考えるのがいけないというのではないから、彼の好きなように任せよう。
ただ、私は私の説を実行している病院は大変多いと思う。彼らの本意は新医学を推進しようというところにはない。この国の新しい西洋医はまだ大抵模糊としていて、その原因は一つにはまず漢方医と同じく江湖の秘訣を学び、和水の龍胆丁幾両日份八角:嗽用(うがい)の淡硼酸水、一瓶一元てな具合。診断学
については私ごとき門外漢には判らぬ。要するに、西洋医学は中国ではまだ
萌芽せぬうちに腐敗に近づいているということだ。私は西洋医しか信じないが、近頃それすらもとみに退歩してしまった。
 数日前、季茀(許寿裳)とそんな話になり、私の病については、知人に処方箋を書いてもらえば、何も博士に頼んで余計な出費することも無い、という。
翌日、彼が目下研究中のDr.Hに診てもらう手筈をしてくれた。処方を貰い、当然のことながら、稀塩酸にもう二種、ここに書くまでも無い:私が一番有難かったのはSirup Simpelを添加して甘く飲みやすい。薬局で配合してもらうのだが、又もや問題発生。薬局もいい加減で、無い薬は他の薬に代替するか割愛かという。結果、Fraulein.H(許広平女士)に託して遠くの大きい薬局まで足を運んでもらう仕儀となった。
 かくして(人力)車代を足しても病院の薬代より4分の3も安くなった。
 胃酸は外来の援軍を得て強くなり、一瓶飲み終わらぬ内に痛みは止んだ。数日飲むことにしたが、第二瓶は奇妙で、同じ薬局、同じ処方だが薬味が違う:
前のように甘くないし酸っぱくも無い。自己検診したら発熱も無く、舌苔も厚くない。明らかに薬水が疑わしい。二回飲んだが悪いところは無い:幸い急病でもなく大したことも無いのでそのまま飲み終えた。第三瓶を買いに行った時、少し厳重に質問したら、糖分を少なくしたとの答え。その意味は、大事な薬そのものは間違いないとのこと。中国の事情は誠に稀奇で、糖分が少なくなり甘さが減っただけでなく、酸味も無くなった。確かに「特別の国情」に違いない。(袁世凱が帝政に復古しようとした時の、米人顧問の同意の言)
 現在、病人に冷酷だと大病院を非難する人が多いのは、病人を研究対象にしているからだと思う。大概はその通りで、院内の「高等華人」は病人を下等な研究対象としているのが多い。行きたくなければ、私人の経営する病院に行くしかないが、診察料と薬代はとても高い。知人に処方してもらい買薬すると薬水が前後で違ってくる。
 これは人の問題。仕事の仕方がいい加減だと、何でも疑うことになる。呂端
(宋代の宰相)は、大事は決しておろそかにしないが、小事は多少のことは目をつぶる、というのは我々中国人の雅量を示すに足るが、我が胃病はそのために長引いてしまった。宇宙の森羅万象中、我が胃病など小事に過ぎぬし、問題にもならぬことだろう。
 質問後の第三瓶の味は第一瓶と同じだったので、悩みは解消した。即ち、あの第二瓶には一日分の薬に、2日分の水が入っていたので、味も本来のものに比べ半分薄かったためだ。
 薬にも苦労したが、病は良くなった。略快癒したが、Hは髪が伸びたと攻め、
なぜ早く床屋に行かないのかという。この種の攻撃は聞きなれているので、「反論する勿れ」だが、仕事をする気にもなれず、引き出しを整理した。反故をめくっていると、紙束があり、数年前に書き写したもので:これを眺めて私は日一日と怠け癖がついてきたと思った。今ではとうにこうしたことをしようと思わなくなってしまった。当時はデタラメな標点の多い文章の印刷物を批判攻撃しようとしていた。反故の中にとても奇妙なのが多くあった。屑かごに放ろうとしたが、幾つかは棄てるに忍びぬので、ここに書き写してすぐ印刷し、ともにみてみることにしよう。その他はマッチとの交換の足しにしよう。
 (数例の句読点の付け方の差に依って、文章が出鱈目になることの例示だが
日本人にはそのウイットというか鑑賞は困難な面があり、割愛する。魯迅の意図は口語文普及のため、古文が句読点の打ち方ひとつでもとんでも無い状態だと言う事を示すことにあったと訳者は推測する。カネオクレタノムの類)
 
訳者雑感:
 魯迅の西洋医院を開こうとするGさんへの「忠告」が気になる。
「回復の見込みの無い病人は受け入れないように」という忠告の本意は西洋の医学を広めようとすることから発している、と魯迅は記す。
病気が治癒して退院していく患者が多くても誰も知らないし、気にもしない。
一方毎日死者が担がれて行く光景は、それを見た市民がそれみたことか、西洋医もたいしたことは無いと陰口する。(当時は自動車もなく、大抵は戸板にのせられて出てゆく。訳者が北京の新僑飯店に駐在していた1980年代でも、その前の大病院にはリヤカーの上に戸板をのせて病人を運んでいた。)
 魯迅は「父の病」という作品で、長年の主治医から別の有名な医者を推薦するから、自分は手を引く、と引導を渡されてしまう場面がある。もちろんいろいろ手を尽くしてくれたのだが、最期のところは、自分の手から放したい。それが自分の医者としての外聞、世間体に密接に関わって来る。
 魯迅がGさんに、回復の見込みの無い患者は受け入れぬこと、というのは
とても冷酷なようだが、Gさんの病院が毎日死者を出してしまうようだと、新医学を庶民に広めるための逆効果にしかならぬことを気づかったのだ。
 しかし彼は、魯迅の気づかいをおかしなことを言う者だと、取りあわない。
治る見込みの無さそうな重病人を治すことが医だと堅い信念に裏打ちされたものか、或いはそれが病院経営の収入基盤だと考えてのことか。
 
2007年、大連の住まいの隣にも大病院があり、朝6時ごろ花火の音が数発する。毎日ではないがほぼ隔日で、目が覚める。
運動会でもお祭りでもないのになぜかと訝った。
事情を知る人に聞くと、病院で大往生した死者への家族からの花向けとして花火が打ち上げられるのだそうだ。本人の長い闘病生活を家族が支えてきた。それが終るのだ。冥土への送り火であり、それを天に知らせるのだ。
 周恩来が亡くなったとき、中南海で爆竹が鳴らされた。それは毛沢東がそうしたのだと伝えられた。何人かの中国観察者は、それは毛沢東が周恩来の死を喜んだからだ、と解説していた。
大連の病院の死者への花向けとの解釈に従うと、どうなるであろうか。
  2010/12/07
 

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馬上日記(下馬前の)予序

本文を書く前の序を予序と言う。
 日記を書くのは、自分が後に見るため:世の中、こういう日記を書く人は少なくない。その人が有名になれば、死後出版され:読む人も格別の興を持つ。書いた時は「内感篇」外冒篇(段祺瑞の発表した文への風刺:出版社注)のように恰好をつけることはしないので、ほんとの面目が見られるからだ。これが日記の正統派と思う。
 私の日記はそうじゃない。記すのは来信往来、金銭出納で、真面目も出てこぬし、更には嘘もまことも無い。例えば22日晴れ。Aより来信:B来訪。
33日雨。C校の給与X元受領。Dに返信。一行で終る。しかし他に記事がある場合、紙が惜しいので前日の余白に書く。要するにあてにならぬ。が、Bの来訪が21日か2日かはたいした事ではなく、書かなくても良いと思う。実際書かないのも多い。誰からの来信かを書く目的は返信の為で、いつ返事したか、特に学校の給与は何年何月の分を何割貰ったか、こまごまとしたもの、しっかり覚えておけないのを、チェックの為に記帳せねば、二つともあいまいにせず、債権がどれだけあり、将来もし全額回収したら、どれほどの小富翁になれるか知りたいためで、それ以外、何の野心も無い。
 吾同郷の李慈銘先生は日記に著述し、上は朝廷への文に始まり、中は学問のこと、下は罵詈雑言まで記録した。果たせるから現在その手迹を石印し、一部五十元で売り出した。が、こうした情勢では学生は言うまでも無く、先生方もとても買えまい。その日記に書いてあるのだが、彼が一函に装丁するごとに、人が借りに来て写しが広まった由。まさしくこれは遠い将来の「死後」を待つ必要もない。これは日記の本流ではないが、志ある人が何か書こうとし、褒貶の気持ちがあり、人に知ってもらいたいと思う一方、人に知られたくないなら、これを真似るのも悪くは無い。何かちょっと口語を書いて、百年後に発表する本の中に入れるなどは、まことに間の抜けた話だ。(2025年に発表するという論敵への風刺)
 この日記は(段祺瑞の文のように)「厚く望む」というようなものでもなく、
上述のような簡単なものでもなく、今はまだ書いてないが、これから書こうとするものだ。45日前、半農に会ったら「世界日報」の副刊を編集するので何か寄稿せよ、という。それはいいのだが、何を書くか?これが難しい。副刊の読者は学生が多く、皆経験もあり、「学びて時にこれを習う亦楽しからずや」とか「人心古議ならず」など、文章を書くことの味を十分知っている。人は私を
「文学家」と言うが、決してそうではない。彼らの話を信じないでほしい。その証拠に私は文章を書くのが最も怖いのだ。
 しかし承諾した以上、何か考えねば。いろいろ考えたが、偶にちょっと感じたことを、平素は怠けてすぐ書かないでおくと忘れてしまう。もし馬上(すぐ)に書くと雑感みたいになる。それで決めた:思い到ったらすぐ書きとめ、すぐ寄稿する。それを私の出勤簿としよう。これはまず第三者に見せるための準備だから、多分本当の真面目とは限らず、少なくとも己に不利なことは蔵して置こう。この点、読者の了解を願う。
 もし何も書けなければ直ぐやめにする。だからこの日記はいつまで続くか判らない。    26625日 東壁の下で。
 訳者雑感:
 訳者が大連にいたころ、「馬上(マーシャン)」を自らのあだ名として、皆からとても親しまれた人がいた。彼はとてもマージャンが好きで、誘われたら決して断らない。しかし自ら設営したりするようなことはしなかった。中国の人たちからも慕われ、よく三人で一人足りないからと、中国人の仲間の中にも
入って打っていた。
 日本の会社は大抵5時まできっちり仕事をするのだが、大連の人たちは2時でも3時でも、なに気にすることなく始めていた。多分4時か5時ころにその内の一人に用ができて、一人足りなくなると、彼の携帯に電話がかかって来る。
 その時彼は5時まで会社から出られないので、相手への返事は「馬上」「馬上」
と連呼することになる。彼の方も仕事より楽しいに決まっているから、その発音がマーシャンなのかマージャンなのか聞き分けできないくらいになる。
 日本でこの馬上を使うのが上手いのは「蕎麦屋の出前」だろうか。注文受けた客から、催促の電話。「はいただいますぐ参ります」は正直な方だが、それが
10分か20分か待つ方にはとても長い。
 もう一つ葡萄の美酒夜光の杯 飲まんと欲すれば、琵琶の後の「馬上催」だ。
この馬上は 琵琶を弾く人が馬の上に乗っているという解釈と、出陣の催促の
「馬上マーシャン」という解釈。訳者はどちらが詩としての趣があるかについて、いろいろ考えたことがある。馬上の琵琶か、琵琶が馬上、馬上と促すのか。
冒頭に戻って、マーシャンマージャンではないが、馬上の琵琶が、この調べが終わったら、出陣だよと告げているのだろうか。行軍は熱い日中を避けて、夜行が多かったのだろうか。詩の作者は実際には出陣した訳ではなく、当時流行した辺塞詩のメロディに詩をつけたともいわれている。いろいろ解釈できるのが唐詩の面白さだろう。
 ヴィエトナム戦争のころ流行した反戦歌の中にも、明日月曜になれば戦場行きの船に乗らねばならない、というフレーズが出てくる。最後の日曜の夜に、この歌を聞きながら、「馬上」乗船せよとの船長の命令が、出征兵士の望郷の念、
平和に葡萄酒を飲める世界からの離愁をかきたてる。古来征戦幾人回。
    2010/12/05

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半農の為に「何典」の序を書いた後に

23年前偶然光緒5年(1879)出版の「申報館書目続集」に「何典」の要約を見た。内容は下記:
『 「何典」十回(回章)、過路人 編、纏夾二先生評、太平客人 序。書中、
諸人を引用、活鬼あり、窮鬼あり、活死人なり、臭花娘あり、畔房小姐あり:
閲読したがとても面白い。その論述は三家村の俗語で:無から有を生じ、忙中閑を偸む。内容は鬼話:人物は鬼名:内容は鬼心を開き、鬼顔に扮し、鬼火を釣り、鬼戯を演じ、鬼棚を建てる。曰く:「何の典に出るか」今より後、人は俗語を文とするは、曰く:出所は「何典」のみ』
 いかにも風変わりなので、気に留めて探したが入手できず;古書店に詳しい常維鈞に託したが無い。今年(劉)半農が(北京の古書街)廠甸廟市で偶然見つけ、校点をつけ印刷すると知り喜んだ。その後彼は校正刷りを続々寄せて来、短い序を書けと言ってきた。私が出来るのはせいぜい短序くらいだと彼は知っていた。しかし私は躊躇してそんな才能は無いと思った。多くの事はその方面のプロがやるのが一番で、評点は汪原放だし、序は胡適之を推すし、出版は亜東図書館に頼むのが良い。劉半農、李小峰、私等はその任に非ず、と思ってきた。それなのに何行か書くことになった。何故か?ただ私が何か書こうと決めたからに過ぎぬ。
 始めようとする前に戦になり、砲声流言の中、落ち着いて執筆に取り掛かれず、そうこうしている内、ある文士が何とかいう新聞で半農を罵っているのを知り;「何典」の広告は高尚からほど遠く、大学教授もついにここまで堕落したか、と。それを見て頗る凄然な気持ちになり、別のことを思い出したのは「大学教授もここまで堕落したか」と考えたからだ。それからというもの、「何典」を見ると苦痛になり、一句も書けなくなった。
 確かに大学教授は堕落している。背の高いのも低いのも、白いのも黒も灰色も。ある者は所謂堕落に過ぎぬが、私はそれを困苦と呼ぶ。困苦と呼ぶ一端は身分を失ったことだ。以前<‘他媽的’を論ず>(相手をこっぴどく罵る言葉)を書いたとき、青年道徳家がやみくもに嘆いたこともあり、何をまた身分うんぬんか?となるが、やはり身分について書く。私は、仮面をかぶった紳士を「深く悪み、痛絶せんと思う」が、彼らは「学者ゴロ」の世家ではないという:所謂「正人君子」がとんでも無いと首を横に振るのを見ると、邪な連中と一緒にされたくないということだろう。偏見なしに言えば、大学教授が滑稽なものを書く、或いは甚だしく誇張した宣伝をするのは奇とするに足りない。たとえ口から出る言葉がすべて<他媽的>というような宣伝も奇とするに足りようか?だがここではうまく使っている。私は19世紀に生まれ、所謂「孤桐先生」と同じ部(省)で数年役人をした。官(役人)というのは―上等人―という気分はなかなか退かない。だから教授に最もふさわしいのは教壇に上ることと思っている。そしてそれには十分な給与がなければならぬ。兼任もやむを得ぬ。この主張は多分現在の教育界ではみな一致して賛成する望みが出てきたが、去年何とかいう公理の会で、兼任を攻撃する公理維持家が、今年も自らは何も言わずに内緒で兼任しているが、「大新聞」には一切出ないし、自らも勿論宣伝の必要もないと(黙している)。
 半農は独仏で音韻を何年も学び、私は彼の仏語の本は読めないが、そこには中国語混じりの高低の曲線が書かれているのを知るのみだが、要するに本になっている以上、だれか解る人がいるのだ。だから彼の正業はやはりこうした曲線を学生たちに教えることだと思う。しかし北京大学は(政府から支給が滞り)
まもなく繰り上げ休校となり:彼は兼任も無い。だから私がいかに上等人であろうとも、彼が本を売ることには反対できない。売ると決めたなら勿論たくさん売りたい。そのためには宣伝が必要。宣伝となると勿論、良い本だと言わねばならない。まさか自分が出す本の宣伝につまらないといい、諸氏に一読の値打ちも無いなどと言えようか?
 私の雑感を一読の価値も無いと宣伝したのは陳源だ。――ついでに自分の宣伝もすると、陳源が何を以て私の逆宣伝をしたのか?私の「華蓋集」を見ればすぐ明白となる。主な読者各位、見てください!早く!一冊六角大洋、北新書局発行です。
思い返せば20余年前、革命に従事した陶煥卿は窮した揚句、上海で会稽先生と
自称し催眠術を教えて口を糊していた。ある日彼が私に、何か一嗅ぎすればす
ぐ眠らせる薬は無いかと訊ねたことがある。彼の術があまり効き目のないので
薬に助けを求めているのが分かった。大衆の面前で催眠を試みるのは容易では
ない。彼の求めている妙薬を知らないので助けようが無かった。23ヶ月後新
聞に投書(或いは告示)が出、会稽先生は催眠術を知らないペテン師だと。清
朝政府はこうした手合いよりはしこくて、彼の逮捕状を出す時、対聯にして
『「中国権力史」を著し、日本催眠術を学ぶ』とした。
 「何典」がまもなく出版されるころ、短序の提出時期が迫った。
夜雨がしとしとと降っている。筆を執りふと麻縄を帯にした困窮せるを
思い出し、「何典」とまったく関係の無い思いにかられた。が、序文を書かねば
ならぬ。書くしかない、印刷に回すほかない。私は半農を(革命時に革命者を
呼んだ)「乱党」と比べたりはしない。――現在の中華民国は革命によってでき
たが、多くの中華民国国民はいまだに全てのあの当時の革命者を乱党とみなし
ているのは明らかだ。しかしこの時、従前を回想し、何名かの友達に思いが及
ぶと、自分はやはり無力だと感じるのみ。
 短序はなんとかできた。さまにはなっていないが、ともかく完了。私はこの
時に感じた別の気持ちを書いて発表し、以て「何典」の広告としよう。
 525日夜  東壁にぶつかりながら、記す。
 
訳者雑感:
 魯迅は日本から帰国して、故郷で教職に就いていたが、1912年南京臨時政府
成立し、教育総長になった蔡元培に招かれ、南京に赴いて教育部部員となった。
その後政府とともに北京に移り、教育部簽事という役に就任。これが彼の身分
と収入になった。それが本篇とその前に触れられる簽事を解任され、身分を失
った、を指す。その原因は彼が徹底的に批判を続けた教育総長章士釗に解任さ
れたためで、その後裁判所に訴え、勝訴して復職したが、翌年これまで書いて
きたもろもろの要件で、夏にアモイに去った。
 日本の文部省の役職についた文人が、その直属のトップを徹底的に批判する
という例はあまり見かけないし、中国でも稀かもしれない。しかし2千年の
歴史に書かれたものの中には、親子三代にわたって、「王が先の王を弑す」と
いう表現を、殺されても、殺されても書き続けたという。このあたりが民族的
にとてもかなわないな、と思う。
    2010/12/01
 

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もう一度

 去年「熱風」編集時、紳士たちの所謂「下心のない真面目な」気持ちから、相等削った。そのうち一篇は入れようと思ったが、原稿が見当たらず、欠落せざるを得なかった。今、出てきたので「熱風」再版時に入れて広告し、私のファンにもう一冊買ってもらうのも悪くないが、止めにした。それは実に面白くも無いからで、もう一度載せるより、この雑感第三集に入れて補遺としよう。
 これは章士釗氏に関するもので――
   「二個の桃が三人の読書人を殺した」についてである。
 
 章士釗氏は上海で彼の所謂「新文化」を評して、「二桃殺三士」(文語表現)
がいかに素晴らしく、「二個の桃が三人の読書人を殺した」など最低だと説き、新文化は「是亦やんぬるかな」と帰結した。
是亦やんぬるかな!「二桃殺三士」はよく見かける故事で、旧文化の本に出てくる。だが誰がこれを謀りしか?というと、相国斉晏子」となる。ならば我々は「晏子春秋」を見てみようではないか。
「晏子春秋」は今上海石印本があり、入手は容易。この古典はその本の巻二にある。大意は「公孫接田開疆古冶子(の三人が)景公に事へ、勇力は搏虎を以て聞こえ、晏子は過ぎ趨いしも、三子は起たず」それを晏老先生は無礼と思い、景公に彼らを除くよう説いた。その方法は景公から人をやって彼らに二個の桃を届けさせ、「お三方の攻労に照らして桃をお食べなされ」と告げさせた。
そこで一悶着となった:
 「公孫接は… (原典引用は省略:訳者、下に魯迅の要約あり、興味ある人は原典参照)
 
 書き写すのも面倒だが、要するに、二人は自分たちの功が古冶子に及ばぬと愧じて自殺。:古冶子も一人生き残るのを願わず、自殺。
そこで「二桃殺三士」と相なった次第。
この三士が旧文化の心得があったか堂かは知らぬが、「読書人」とは言えぬ。もし「梁父吟」が説くのも「二桃殺三士」と言うならもちろん了然とするが、
それは五言詩で、増字不能だから「二桃殺三士」とするほかない。それで、
章士釗氏を害し、「二個の桃が三人の読書人を殺した」と解させたものか?
 旧文化も実に難解で、古典も誠に覚えにくい。それゆえ、二個の旧い桃が祟るのも免れぬ:その当時、三人の読書人がそれで落命しただけでなく、今に至るも一人の読書人に醜態をさらけ出させた。「是亦やんぬるから!」
 去年「毎下愈況」(論敵がこれを引用間違いした)問題で、自ら公平と任じている青年から教訓を受けた。というのも、彼が私の「簽事」の役職を罷免したので、彼のことを特に辛辣に皮肉るのか、と。今ここで声明せねばならぬ:
それは19239月のことで、「晨報副刊」に載せたもの。当時の「晨報副刊」の編集はタゴール氏のお伴をした「詩哲」ではなく、まだ人を死に追いやる責任も無く、自分の使命を殺していたので、合間に私の如き俗人の文も載せたのだ:私の方も当時、その後に「孤桐先生」と称されるようになる人に微塵の恨みも持っていなかった。その「動機」は多分口語の流行を少し手伝ったというに過ぎぬ。
 こうした「禍は口から」の秋、自分を少し周到に弁護してみよう。或いはまた曰く、そもそも今回の補遺は「水に落ちた犬を打つ」の嫌いはあるが、「動機」が「不純」だというが、私は決してそうは思わない。勿論つい最前、士釗秘書長は帷幄の設立準備運動で、公に名を借りて私事を済ませ、学生を謀殺し、己と意見を異にする者を捕えた際、「正人君子」は時に相助け、容疑者の逃亡を譏しり笑って「孤桐先生」「孤桐先生」熱っぽく騒いでいたころと比べると、目下は誠に落寞の感を免れぬ。が、私の見るに彼はまだ決して水に落ちてはいないし、租界に「安住」しているに過ぎぬ。北京は従前通り、彼の子飼いの連中が牙をむき出し、爪をといでいる、彼と結託した新聞社が黒白を顚倒し、彼が作った女学校には風波が立ち、依然として彼の世界である。
「桃」の小さな打撃など、あに「水に落ちた犬を打て」と同日に語れようか?!
 何故か知らぬが、「孤桐先生」は「甲寅」で弁じ始め、これも小事に過ぎぬと
言う。それはその通りで小事に過ぎぬ。小さな間違いでどうして又傷つくのか?
たとえ晏子を知らずとも、斉国を知らずとも、中国に損は無い。農民は誰も「梁父吟」を知らないが、農業で救国もできる。ただ私は口語を攻撃する暴挙にでるのは、全くなんの必要もないと思う。口語で文語に代えるのは多少妥当でないとしても、小事に過ぎぬと思う。
 「孤桐先生」の門下に入ったことも無いし、卓上、寝台、床の上すべてがドイツ語の本という光栄を拝見したこともないが、偶然目にした彼の「文語」で彼は法律的に頼りにならぬこと、道徳習慣も一度できたら二度と変わらないということはない、ということがよく分かった。分かったことをその通り口にすると、改革者になる:分かっても言わないで、逆に人を欺瞞するのに使うと「孤桐先生」と「その流派」となる。彼の文語保護の骨子はこれに過ぎぬ。
 もし私の検査検証が正確なら、「孤桐先生」も<閑語>の所謂「一部の志士」
の通弊で「妻子」の為にお疲れのようだ。以後ドイツ語の「産児制限」の本を数冊お求めになるべきだろう。  524
 
訳者雑感:
 「水に落ちた犬を打て」というのは、日本人にはなかなか理解しがたいものがある。武士の情け、哀れな状態に陥った敵には手心を、というのが日本人。
刀を落とした敵に、それを拾う猶予を与えて、再び真剣勝負というのが美学。
ところが中国人の発想では、人に噛みつき、悪さをしてきた犬が水に落ちたら、
這い上がる前に、棒でびしびし叩き、這い上がれないまでに打ちのめせ、というのだ。もし犬が這い上がって来るまで猶予したら、今度は自分が咬まれ、大変な目にあう恐れが強い。
 日本の政治では首相が退任してから彼の在職中の悪事をさらけ出して、二度と立ち上がれなくするような例は稀だ。中国や台湾では、一旦トップの座を追われたら、次の政権からどんな酷い仕打ちを受けるか恐怖で戦々恐々となる。
 日本の首相たちが在職中にそれほどあこぎなことをしてこなかったというのも、根底のところにある。台湾の陳水篇、韓国の歴代大統領の多くは退任後に
自殺に追い込まれる例が多い。今回の北朝鮮の三代世襲も、もし第三者に政権を譲ったら、金家二代のすべてを完膚なきまでに否定破壊されるのを一番懼れているのだ、という見方が説得力を持つのも不思議なことだ。
 2010/11/29

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新しき薔薇――やはり花なき

 「語絲」(魯迅らの雑誌)が中型になるので、古い題を使うのを止める。
そこで奮発して「新しき薔薇」としよう。
――今回は花が咲くだろうか?
――ううーん、そうとも限らぬようだ。
 つとに自覚していることだが:私は自分を中心にものを考えるようだ。道理といえども、「自分の考える」道理で、情勢というのも私の見る所の情勢だ。
一月前に杏と桃の花が咲いたそうだが、私は見ていないので、杏と桃が咲いたと、思っていなかった。
――しかしそれらはありのまま存在する。――学者はそう言うだろう。
――よし! そうとしよう。――謹んで学者たちにそう答える。
「公理」を説く人は、私の雑感は読む価値も無いという。その通りだろう。私の雑感を読んで、魂消てしまうのだ――もし魂があるとすればだが。私の話がもし「公理」を説く人の口に召すのなら、私も「公理維持会」の会員になっているのではなかろうか?それだけでなく、その他の全ての会員になっているのではなかろうか?私の言葉は彼らと同じになっているのではなかろうか?多くの人と多くの言葉が、一人の人の言葉と同じになっているのではなかろうか?
「公理」は一つしかない。しかしそれはとうに彼らが持ち去って行ってしまった。だから私には一つも残されていない。
 
 今回「北京市内各所の外国旗」が特に目に余るので、学者たちは憤慨し:
「……東郊民巷地区以外では中国人も外国人も生命財産の護符として外国の国旗を借りて来て掲揚してはならぬ」と言う。(恥知らず!と論敵の学者の非難)
 これは確かにその通りだ。「生命財産を守る護符」として「法律」があるのだから。もし安心できぬならもっと穏当な旗:紅卍旗を使えば良い。(仏教慈善団体の旗)これなら国内と外国(租界を指すか)の間に介在して、「恥知らず」と
「恥を知る」の両方を超越していて――確かに良い旗だ。
 
 清末以来「国事を談ずるなかれ」の張り紙が酒楼飯館に貼られ、今なお辮髪とともに無くなっていない。だから時にもの書きを困らせる。
 しかしこのごろ面白いものも出て来た:それは他人が筆禍にかかるのを喜ぶ人のものした文章だ。
 利口な人(論敵を指す)の話も、日ごとに聡明さを増す。318日に害された学生に同情する。彼女はもともと参加したくなかったのに、教職員の慫恿を受けて行ったのだ。
「直接或いは間接的にロシアの金を使った人たちも」情として諒とせねばならに。「彼ら自身はひもじさに耐えられたとしても、妻子を食べさせずにはおられなかったから!」
 甲を押しやって、乙を陥れ、情をもって諒としながら、罪を着せる:特に彼らの行動と主張は、一銭にも値せぬことがよくわかる。
 しかし趙子昴の馬の絵は、鏡に映した自分の形相だという。(論敵が魯迅の文は、鏡に映った自分に罵っているとの避難を引用して)
 
「妻子の飯の為」というと、「産児制限」問題が出てくる。まずはサンガ―夫人が訪中時、「一部の志士」はとても不満で、彼女は中国人の種を滅亡させるものだと非難した。
 独身主義には多くの人が今も反対で、産児制限もうまく行かぬ。赤貧の紳士に勧める最高の方法は金持ちの女性を妻にすることだ。恥も外聞もなく、ひとつの秘訣を教えてしんぜよう:「愛」するがためと口にだすことである。
 「ルーブル」十万元を巡って、今回教育部と教育界に紛糾が生じたが、すべては少しでも自分のものにしようとしたためだ。これも「妻子」の為だろう。
但し、このルーブルとあのルーブルは一緒じゃない。これは庚子賠償金の返還で:義和団の「扶清滅洋」に対する(八国)聯軍の入京せる余沢である。
 あの年代は覚えやすい、19世紀末、1900年、26年後我々は「間接的に」義和団の金で、「妻子」に飯を与えている:もし(義和団の)「大師兄」の魂があるのなら、きっとがっかりするだろう。
 さらに言えば、各国が中国で行っている「文化事業」なるものもこの時の賠償金だ…。        523
 
訳者雑感:
 どの国も公金の取りあいはすさまじいものがある。それをどれだけ分捕ってくるかが、そのポストに就いている人間の政治的力量を示すから紛糾する。
魯迅が括弧付きで引用する「妻子」に飯を与えるため、という言葉は、いろいろなものを内包している。子分、部下、取り巻き、支援者、それ以上に大切なのは、自分の上司、即ち時の大総統、首相などの権力者。それらにどれだけの資金提供ができるかが、彼の次のステップへの原動力となる。そういう社会の仕組みが、公金の分捕り合戦となる。
 仕分け作業も最初は清新であったが、3回目となると自分たち与党が作った
ものを与党内で削りあうのだから、紛糾しないのなら、残された道は妥協しかない。誰と誰が妥協するのか。談合そのものだ。    2010/11/26
 

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花なき薔薇 3

1.
 天津の紙が北京に運べないので、印刷にも戦争の影響が出、旧雑感集「華蓋集」も印刷にまわして2カ月しても校正排字が半分も進んでない。残念ながら先に載せた予告が、陳源教授の「逆宣伝」を引きだしてしまった。―――
  「私は魯迅氏の人格を尊敬しないから、彼の小説が良いとは云わないということはできない。そしてまた、彼の小説を敬服するから、その他の文章を称賛するということもできない。彼の雑感は「熱風」の23篇以外、実に一読の価値も無いと思う」(「現代評論」71 <閑話>)
 これはなんとも公平な話だ!もともと私も「今は昔に及ばぬ」で:「華蓋集」の売れ行きは「熱風」と比べると悲観せざるを得ぬ。更に私の小説を書くのは
「人格」とは無関係とは思いもよらなかった。「非人格」な文字は新聞記事のようなもので、それが教授を「敬服」せしめるとは、中国は毎日さまざまな事が入り乱れて起こるようだ。それゆえ実に一読の価値も無い雑感も、これからも存続するかもしれない。
2.
 ドンキホーテで有名なセルヴァンテスは、乞食のような状態でこれを書いた、
とは中国の学者が言い出した流言に過ぎぬ。彼はドンキホーテが騎士の物語を読んで気が狂って自ら騎士となり弱者を助けにゆく。親族は読んだ本が問題と知り、隣の理髪師に調べてもらい、彼は良書を数冊残し、他は全て焼いた。
 多分焼いたのだと思うが定かではない。どれ程焼いたか忘れた。選ばれた
「良書」の作家たちは、当時この小説の目録を見て、きっと赤面苦笑したことだろう。
 中国では日々なんでも妄りに起こっているようだが、嗚呼哀しいかな!我々は「苦笑」すら、できない。
3.
 他省の人から私の安否を問う速達が届いた。北京の情勢に疎く、流言に惑わされたのだ。北京の流言は、袁世凱の帝位僭称から張勛の復辟、章士釗の「学風整頓」まで、一脈通じていて、歴来かくの如し。今もまた同じ手口だ。
 最初はさる筋が某校を閉鎖し、誰それを逮捕とくる。これは某校の誰それを怯えさせるため。次に某校は既にもぬけのカラになり、誰それは逃走したと。
これはその筋に扇動させるため。
 更にさる筋は甲校を捜査し、乙校にも捜査に入る予定。これは乙校を怯えさせ、その筋を扇動するため。
「平素なんらやましいことがなければ、夜半に門を叩く音がしてもびっくりしない」乙校はやましくなければ、どうして怯えさせることができようか?
しかるに、少し冷静にジタバタしないのが一番だ。まだ次の手もあり、乙校は
昨夜徹夜で朝まで赤化書籍を完全に焚書した、と流すこともする。
 それで甲校は捜査を受けた事実は無いと訂正し、乙校はその種の書籍は絶対に無いと訂正する。
4.
 そこで、「道」を守るべき新聞記者や、穏和な大学の学長までも六国飯店に逃れ、公理を説く大新聞社も看板を撤去し、学校の受付も「現代評論」を売らなくなり:(玉の産地の)「昆岡は火焔に包まれ、玉石ともに焚えてしまった」
 その実、そこまでは至っていないと思う。だが、流言は確かに造謡者の本心から望んでいることで、そこから一部の人たちの思想と行為が分かる。
5.
 中華民国97月、直皖(河北省と安徽省)戦争が起こり、8月皖軍が潰滅、
徐樹(金+争)等9人が日本公使館に避難。このときちょっと面白い事が起こり、正人君子――これは今のそれでは無い――が直派の軍人に改革論者の殺戮を説いたが、成功しなかった。この事は人々の記憶からとっくに消えたが、その年の8月の「北京日報」を見ると、大きな公告が載っており、そこには「某大英雄は勝利後、邪説を粛清し、異端を誅戮すべし、等等、古色蒼然たる名言が残る。
 その広告は署名入りだが、ここで公にする必要もなかろう。だが現在、暗がりに身を潜める流言者と比べると、「今は昔に及ばぬ」感を免れぬ。思うに、百年前は今より良かったし、千年前は百年前より良いし、一万年前は千年前より
良い……、とりわけ中国では多分確かにその通りだ。
6.
 新聞のコーナーに青年への諄々たる教戒が載っている:文字の書いてある紙を大事にせよ:国学を心に留めよ:イプセンはかくかく:ロマンロランはしかじか、と:時代と文言は違うが、その含意はよく耳にしたもので:まさしく幼年時代に老大家から聞いたものと変わらない。
 これもどうやら「今は昔に及ばぬ」の反証。但し世事には例外がつきもので、
前段で述べたことに対して、これも一つの例外とするほかない。  56
訳者雑感:
 「今は昔に及ばぬ」は3千年の中国の歴史で「理想的な社会は、神話伝説の中にあった」とする不思議な発想から出ているようだ。
 孔子がその発売元だったと思う。彼の生きた時代から戦国時代にかけての
諸国入り乱れての内戦状態は、その状態になる数百年前の周建国時を理想として、今は昔に及ばぬ、と戒め、いにしえに復そうとした。復古である。
 復古とは改革を称える邪説や異端を粛清、誅戮すること。2010/11/25

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こんな赤狩り


北京天津間の大小何回かの戦で、赤狩りの為に何人死んだだろう。
執政府前の一斉射撃で請願者47人、負傷者百余人。「暴徒を扇動した」徐謙等
5人も「赤狩り」された。奉天の飛行機(張作霖軍)が北京を三度空襲し、爆弾投下で婦人二人が死に、子犬が負傷したのも「赤狩り」の結果。
 北京天津間で戦死した兵士と、空爆で死んだ婦人二人と負傷の子犬が「赤」だったか否か、まだ法令が出てないので判らない。政府前で殺された47人については法令が出て、「誤殺傷」と云う。首都検察庁の公文書に「今回の請願の
趣旨は正当で不正行為は無かった」とし、国務院会議は「特段の哀悼」の意を表すという。しからば徐謙たちの率いた「暴徒」はどこへ行ったのか。彼らは護符と呪文で銃砲を避けられたのか?
 要するに、狩りはなされた、そして赤はどこへ行ったのか。赤がどこへ行ったかは、さて置くとして、結局「烈士」は埋葬され徐謙等は逃亡し、三人の
ロシアの賠償金返還(検討)委員が欠員となった。6日の「京報」は「昨日
9校の教職員連合代表会議が法政大学で開かれ、査良釗主席はまず前日に返還委員会を改組し、教長の胡仁源氏への引き継ぎ状況を報告し、略云、政府は今回、外務、教育、財政の三省の事務官が委員を引き継ぐとした点に対し、同氏は絶対反対で、それは3人の人格に反対するのではなく、返還額が大変巨額だからで、中国の教育界がそれを大いにあてにしている為で…」と。
 又あるニュースの題目は「五私大も返還委員会に注目」と言う。
 47人の死は「中国教育界」に大変浅からぬ功をもたらした。従って、「特段の哀悼」を捧げるのを誰が良くないと言うのか!?
 これから後、願わくは「中国教育界」には、己と異なる意見を持つ者に対して「ルーブル党」と呼ばわることのなきように。
      46
訳者雑感;
 アメリカは義和団の件で清朝からの賠償金を、返還して協和病院などを作ったという。ロシアもそれにならってか、ロシア革命後、それまで清国との条約で手にしていた特権を放棄し、賠償金の返済を宣言した。日本などはどうしたのであろうか?
今回、請願の惨殺の結果、3人のロシア賠償金検討委員が欠員のなった結果、
教育関係にそのお鉢が回ることになった。これまで[改革]に執拗に反対してきた「中国教育界」のお偉方は、自分に異を唱える改革推進者を「ルーブル党」と決めつけ、ソ連から利用されていると批難してきたが、自分たちもロシアからの返還金を獲得しようと躍起になりだしたのだから、「赤狩り」の結果が、こんなことになるとは思いもよらなかった展開だろう。  2010/11/23
 

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空談

1.
 これまで請願がいい事とは思って来なかった。しかしそれは決して318日のような惨殺を心配していたからではなかった。あのような惨殺は、全く思いもしなかった。私はこれまで「刀筆吏(法廷役人)」の目で中国人を見てきたが、彼らが麻痺して良心を無くしたのを知った。ともに語るに足らず、単なる請願、しかも徒手の相手に、こんな陰毒と凶暴に至るとは思っても見なかった。事前に知っていたのは多分段祺瑞、賈徳耀、章士釗と彼らの同類だけだろう。47人の男女青年は完全に騙され、死へ誘い込まれたと言ってよい。
 ある連中は――何と呼ぶべきか思いつかぬが:群衆の領袖は道義上の責任を負わねばならぬ、と言った。この手合いは徒手の群衆に向かって発砲すべきで、
執政府前は「死地」で、死者は自ら網にかかったと考えているようだ。群衆の領袖はもともと段祺瑞等と気脈を通じているわけでなく、グルでもない。どうしてこんな陰険な毒手を予測できようか。こんな毒手は少しでも人間性を持ち合わせていれば、万が一にも思い到らないものだ。
 もし段祺瑞のあやまちを挙げるなら2点:一は請願が有効だと考え:二は相手を余りにも甘く見すぎたこと。
2.
 只、以上は事後の話。この事の発生前、誰もこんな惨劇が演じられようなど思ってもいなかった。せいぜい例に依って徒労に終わるのが関の山、と。
だが、学のある聡明な人間だけが事前に請願が死地に赴くのを自認するものだと予測していたのである。
 陳源教授の「閑話」に:我々は女志士諸君に以後は群衆運動にあまり参加せぬよう勧告しようとしたが、彼女らはきっと我々が彼女らを軽視していると反論してくるので、余計な口出しはしないでいた。しかし未成年の男女児童は、以後どんな運動にも参加せぬよう望まずにはいられない」(「現代評論」68
どうしてだろうか?各種運動に参加したために、今回のような「銃弾の雨の危険を冒し、死傷の苦を舐める」ことになったからである。
 今回47もの命で購ったのはたった一つの見識のみ。執政府前は「銃弾の雨」
の場で、死にに行くようなもの。成人した人間で自分で望む者のみが許される。
 「女志士」と「未成年男女児童」が学校の運動会に参加するのはさしたる危険は無いと思った。「銃弾の雨」の中を請願に行くのは、青年男子諸君も以後
絶対にしないよう、しっかり覚えておいて欲しい。
 今どんな状態かというと、数篇の詩文と話のネタが増えただけ。数名の名士と当局が埋葬地を相談中で、大請願が小請願に改められた。埋葬は当然で在り妥当なことだが、奇怪なのはこの47名の死者は、老いて死んだものの埋葬地が無いので、なんとか公有地をひねり出そうとしているかのようだ。万生園はとても近いが、四烈士の墳には三つの墓碑に一字も刻まれていない。円明園は遠い。
死者がもし生き残った人の心に埋められなければ、それはもう本当に死んでしまったのだ。
3.
 改革は勿論流血を免れぬが、流血が即改革には結びつかない。血の応用はお金と同じで、ケチってはだめだが、浪費も大きな間違いだ。今回の犠牲者に対し、痛切なる哀傷を感じる。
 但し、こんな請願は爾後止めるがよい。
請願はどの国にもあるが、死に至ることはない。「銃弾の雨」を消除できぬ限り、
中国は例外であることを知った。正規の戦法は相手が英雄の時に用いるべきで、
漢末は人心も相当古風と思われているが、小説(三国演義)の典故の引用するのを許してもらうならなら:許褚は裸で陣に臨み、何本もの矢に当たった。それを(清の評者)金聖嘆は笑って:「誰が裸で行けと命じた?」と述べた。
 現在のようにおびただしい火器が発明された時代、戦は塹壕を使う。これは決して命をケチるのではなく、無駄死にさせぬためで、戦士の命は尊いからだ。
戦士が少ないところではより尊い。貴いと言うのは「家の中に珍蔵」せよということではない。僅かな元手で最大の利息を稼げということで、少なくも売り買いに値せねばならぬ。多くの人の血の流れで一人の敵を淹死させよ、とか、
同胞の死体で穴を埋めで進めなど、陳腐な話だ。最新の戦術から見れば、大変な損失。今回の死者が後の者に残した功徳は、多くの(悪い)連中の人相をあばきだし、思ってもみなかった陰険な腹を暴露させ、戦いの後継者に他の方法で戦うよう教えてくれたことだ。    42
訳者雑感:
 中国の志士たちの純粋な気持ちには、誇張されたスローガンというか、伝統的な劇(昆劇、京劇など)のセリフのようでなくちゃならぬ、という「美」学
がめんめんと受け継がれている。日本では切腹というのが武士の美学だが、例えば「覇王別姫」で虞美人は項羽の前で、項羽の剣を奪って、自ら首を刎ねる。
それが、意味することを観客は、それぞれの人生経験からふり返って考える。
 英雄の捲土重来を願って、重荷になるのを自ら断つ。日本の戦国時代の落城にも、何人もの女たちが自刃した。愛する殿のためである。
 今回の請願で銃弾の雨に惨殺された47の命は、当時誰も想像すらしなかったことだが、請願が政府転覆を企てる動きに発展することを懼れた段政府の予防戦法だったのだ。ここでも「血の海で敵を淹死させよ」とか「同胞の死体で、穴を平らに埋めて進め!」といった冒険主義的勇ましさをスローガンとして、
掲げてきた、「歴史劇」の中のセリフ通りにやろうとする、「劇」に範をとることが、一番安心できると錯覚させる中国の伝統が見られる。
 日本でも、義経を逃すべく、単騎敵の矢玉を受ける弁慶は英雄視されるが、
それを真似ようという人間は、中国ほど多くは無いようだ。
   2010/11/22

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劉和珍君の記念に

1.
 中華民国15325日、国立女子師範大学が18日に段祺瑞執政府前で害された劉和珍楊徳群両君の追悼の日、一人で礼堂の外を徘徊しているとき、程君に会い、彼女は私の方に来て「先生、劉和珍の為に何か書かれました?」と訊くので「いや」と答えた。彼女は、「何か書いてください:劉和珍は生前、先生の文章をとても愛読していましたから」と言った。
 それは私も知っていた。私の編集した雑誌は往々にして初めはあるが終わりは尻切れになるのが多いので、売れ行きは振るわなかったが、こんなに生活が苦しい中でも「莾原」を、年間予約してくれた中に彼女がいた。私もつとに何か書かねばと感じていた。これは死者とは関わりは無いが、生存者としては、多分これくらいしかできない。もし私が「天に魂が在る」のを信じているなら、勿論大きな慰めになるが――今はこれくらいしかできない。
 しかし実は何も言葉が出てこない。ただ、今私がいるのが人間の世界では無いと感じる。40余名の青年の血が私の周りに充ち溢れ、呼吸も視聴も困難な状態で、一体どんな言葉を発せよう。長歌で哭すのは、痛みが落ち着いてからでなければできぬ。そして事件後、数名の所謂学者文人の陰険な論調は、特に私の悲哀を募らせた。私はすでに憤怒を通り越してしまった。私はこの非人間世界の暗黒な悲涼を腹の底から嘗め:私の最大の悲哀をこの非人間世界に示し、そこに住む連中が私の苦痛をみて快哉を叫べば、これを後に死ぬ者からのささやかな供物として、死者の霊前に献じるとしよう。
2.
 真の猛士は、真正面から惨憺たる人生に直面し、飛び散る鮮血を正視する。
これはなんという哀痛か、そしてなんという幸せか。しかるに、造物主は常に凡人のために、時を過ぎさせ、旧跡を洗い流し、わずかに淡紅の血の色と微量の悲哀の中に暫し生を偸ましめ、この似て非なる人間世界を存続させる。
こんな世がいつ終わるのかしらない。我々はまだこんな世に生きている:つとに何か書かねばならぬと思ってきた。318日から早2週。忘却の救主はすぐやって来てしまう。私は本当になにかを書かねばならぬ。
3.
 40余人の害されし青年のうち、劉和珍君は私の学生だ。学生については、これまでいろいろ思い、あれこれ言ってきたが、今、いささかためらいを覚え、
彼女に対する私の悲哀と尊敬を献ずべきと思う。彼女は「これまでいい加減に生きてきた私」の学生ではなく、中国のために死んだ中国の青年である。
 彼女の名を目にしたのは去年の夏の初め、楊蔭楡女士が女子師範大学学長として、在校生6名の自治会役員を退学させた時、その一人だった。面識は無かった。多分劉百昭が男女の武将を率いて強制退去を実行後、ある人が一人の学生を指して、あれが劉和珍だと言った。そのとき初めて名前と実体が一致したが、少しいぶかしく感じた。平素の感じでは権勢に屈せず、大きな権力を持つ学長に反抗する学生は、何はともあれ傑出した鋭い人間だろうと思っていたが、いつも微笑を絶やさぬとても穏和な感じであった。
宗帽胡同に部屋を借りて授業を始めたころ、彼女は私の講義に出て来て、それから会う機会が増えたが、始終ほほ笑み、穏和な子だった。学校が元に復し、往時の教職員は責任を尽くしたとして、次々に退任の準備にかかった時、彼女は母校の前途を憂えて、悲しんで涙を流した。その後、会う事はなくなった。私の記憶ではそれが永別となった。
4.
 18日朝、午前中に群衆が執政府前に請願に向かう事を始めて知った:午後、
凶報を受け、衛兵が発砲し死傷者数百人、劉和珍君がその中にいることを知った。だがこの噂は信じられなかった。これまで何の憚りも無く、悪意の目で中国人を観てきたが、よもやその下劣凶暴さがこれほどとは信じられなかった。
まさかいつも微笑を絶やさぬ穏やかな劉和珍君が、端無くも何故に執政府の前で、血の海に身を投じることになったのか。
 だが即日それが事実だと証明された。証拠は本人の死骸。もう一つは楊徳群君のだ。更に単なる殺害ではなくまぎれも無い虐殺だ。体に棍棒の傷痕がある。
 だが段政府は即時公告し、彼女らを「暴徒」とした!
 続いてデマが飛び、彼女らは人に利用されたのだ!と。
 惨状はもう見るに忍びない:流言は聞くに耐えない。これ以上なんの言葉があろうか?衰亡する民族が黙したままで声のないのが分かった。
沈黙、沈黙だ。沈黙の中で爆発もしないで、沈黙の中で滅亡してゆく。
5.
 しかし私はまだ言わねばならぬ。
 自分の目で見たのではないが:彼女、劉和珍君はその時、欣然と請願に参加したそうだ。もちろん請願だけだし、普通の人間ならまさかこんな罠がしかけられているとは思わないだろう。だが、執政府の前で被弾した。背から斜めに心肺を貫通したのが致命傷となったが、即死ではなかった。一緒に参加した張静淑君が助けようとして4発被弾、その一発はピストルでその場で倒れた。
一緒だった楊徳群も助け起こそうとしたが被弾。弾は左肩から胸の右を貫き、倒れた。彼女は起き上がろうとしたが、衛兵が彼女の頭部と胸部に棍棒をみまい、死亡した。
 いつも微笑を絶やさぬ穏やかな劉和珍君は本当に死んでしまった。これは真実で、死骸がその証拠である;沈着で勇敢、友愛の塊、楊徳群も死んだ。本人の死骸が証拠:ただ一人これも冷静沈着で勇気有る友愛の張静淑君は病院で呻吟している。3人の女性が従容として文明人の発明した銃弾の集中砲火を浴び、転輾としている、これはまた何という心を驚かし、魂を揺さぶる偉大なことか!
中国軍人の婦女子殺戮の偉業、八国連軍の学生征伐の武功、それらすべてが、不幸にも今回の血痕に抹殺されてしまった。
 しかるに内外の殺人者たちは、あろうことかふんぞり返っており、めいめいの顔に血痕の汚れが付いているのを知らぬ…。
6.
 時は過ぎゆき、街は旧のまま太平であり、あの程度の数の命は、中国としては数にも入らず、せいぜい悪意の無い閑人の食後の話のネタを供するに過ぎぬ。或いは悪意の閑人の「流言」の種に過ぎぬ。それ以外の深い意義について考えると、大変な虚しさを感じる。実際、徒手空拳の請願に過ぎないのに、どうしてこうなってしまったのか。人類の血で戦った前史は、丁度石炭ができる過程のように、大量の木を使って、ほんの小さな一かけらが出来てきたのだ。しかし請願はその数に入らぬ。況や徒手空拳をや。
 しかし血痕は残っており、知らぬ間に拡大する。少なくとも親族、師友、愛する人の心に浸漬し、たとえ時が流れて洗われて薄い色に変じても、微漠な悲哀の中に、微笑と穏やかな面影は永遠に残る。陶潜は言った「親戚はなお悲しんでいるが、他の人はすでに歌いはじめた。死ねば何をかいわんや。屍を山に託すのみ」もしこんな風にできるのであれば、十分すぎるほどだ。
7.
 すでに述べたが:私はなに憚ることなく、悪意の目で中国人をみてきたが、今回は多くの点で、その私にとっても予想外のことばかりで、一つは当局がかくも凶暴なこと、もう一つは流言家がかくも下劣なこと、そして最後の一つは、
中国の女性が難に臨んでかくも従容としていたこと。
 私がみてきた中国女子の物事への取り組みは、去年から始まり、少数だが堅固な決意で不とう不屈の精神で対処するのをみて、しばしば感嘆した。今回、弾丸の雨の下の相互救助は、自分の死を憂えぬ事実は、中国女子の勇毅が、陰謀な罠にはめられても、数千年の抑圧にも屈せず、消え滅んではいないということを証明するに足る。今回の死傷者の将来の意義を求めようとするなら、その意義はここにある。
 いい加減に生きてきたものは、淡紅の血色にかすかな希望を見いだし:真の
猛士は奮然と前進する。
 嗚呼、もうこれ以上言葉がでない。これを劉和珍君の記念とする!
         41
訳者雑感:
人類の血であがなわれた前史を、石炭のできる過程に譬えている。大量の血を
流して、ほんのひとかけらの石炭ができてきた、と。しかるにこの虐殺で流された血は、一体どのくらいの粒の石炭に変じられるのか?虚しさしか残らぬ。
当時の北京に暮らしていた99%の中国人は、彼女らが「人に利用された」と
いう流言をまともに信じていないとしても、なにも好き好んで徒手空拳で、請願に参加して、犬死にすることもなかろうに、と茶館や食堂での世間話のネタにしているさまが、目の前に浮かんでくる。義は女学生の側にあるとは、意識していながら、段政権の下ではいかんともしようがない、という閉塞感。それでも中国人は、空に戦闘機が旋回していようと、生きてきた。318日に起きたことなど、しばらくしたら忘却の彼方へと押しやって、生きるしかない。
魯迅も、長歌(弔歌)は痛みが落ち着いてからでなければ書けぬとしながら、
事件後2週間でこれを書いた。「忘却の為の記念」に。
       2010/11/20
 

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