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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「塵影」への題辞

 私自身、今中国は大きな時代に向かいつつあると感じる。ただこの大きなというのは、必ずしもこれで生を得られることを指すのではなく、そしてまたこれで死ぬのでもない。
 愛に身を献じた者の多くがこれで亡くなった。その前に、意中のそして且つ意外な戯れを玩んで、愉快と満足、単に美しいとか派手さを、当事者でありながら、ただ傍観している人たちに贈った:と同時に何人かの人たちに重圧も与えた。
 この重圧が除去されてはじめて、死ではなく、生が得られる。これが大きな時代の意味である。
 異性に愛を見、百合花に天国を見、石炭ガラを拾う老婦の魂に拝金主義を見、世界が機関銃の庇護下の仁義で治められている今この時、この場所で、このようなニュースを耳にすると、実に気分が良い。美酒を飲むごとしである。
 しかし「塵影」がもたらしたのは重圧であった。
 今日の文芸は往々、人の気分を害すが、それもまた仕方がないことである。
でなければ、自ら文芸から逃げ出すしかない。または文芸から人生を推し出すしかない。
 誰がこれ以上に仁義と金のために実態を描き、三筋の「けがれた」血のために真に迫る描写をできようか?
「塵影」を読んでみた。その愉快さと重圧はいろいろな人たちの心に留まることであろう。
 しかし、結末で、「塵影」は私にうまい酒を飲ませてくれた。
 作者は(殺された熊履堂の子の幼稚園生)小宝を留まらせ、その後小宝が死を得たのか生を得たのか教えてくれない。作者は我々が受け止められぬほどの重圧を感じるのを願わない。それは良いことだ。我々は今中国が大きな時代に向かっていると感じているからだ。
      1927年12月7日 魯迅 上海にて
訳者雑感:
 「塵影」という黎錦明の作品を読まなければ、雑感すら持ちえないだろう。
出版社注のあらすじは蒋介石の国民党が「清党」を行った前後の、田舎の土豪劣紳と国民党軍官が結託して、革命勢力を襲撃しようとするのに敢然と立ち向かって殺された人たちの物語の由。父親が殺された小宝は幼稚園から、「打倒列強、軍閥排除!」という歌を歌いながら帰るのだが、結末はどうなったか教えてくれていない。しかし魯迅はこうした作品が出てきたこと、それに大きな時代に向かっていると感じて、題辞を書く気になったに相違ない。
         2011/04/04訳

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革命文学

今年南方で「革命」と皆が叫ぶのは、去年北京で「赤退治」と叫んだのと同じように盛大である。
 この「革命」が文芸界にも侵入してきた。
 最近広州の新聞に4人の文学家を師と仰ぐべきとの指示がでた:イタリアの
D’Annunzio,ドイツのHauptmann,スペインのIbanez,中国の呉稚暉。
二人は帝国主義者、一人は本国政府にとっては叛徒、一人は国民党救護の発起人。全員を革命文学の師と仰げというと、革命文学もおかしなことになる。それはとても至難の業であるから。
 世間は往々やむなく二種の文学を革命文学と誤解する:一つは一方の指揮刀の庇護のもと、敵を排斥罵るもの:もう一つは紙の上に「倒せ、撃て!」とか
「血でもって。血のなんとか」が一杯書かれているもの。
 これが「革命文学」なら「革命文学家」になるのは実に痛快で安全なことだ。
指揮刀の下で罵り、裁判の席で罵倒し、官営の新聞で罵るのはまことに偉大で、
一世の雄で、その妙の骨頂は、罵られたものは敢えて反論できない点にある。
 また有る人は言う。これに反論できないというのは何たる臆病ものよ。敵は
「殺身成仁」の勇もないのが第二の罪状だという。これで愈々革命文学家の英雄たるを明らかにすることができる。惜しいかな、この文学は決して強暴者に対する革命では無く、失敗者に対する革命に過ぎぬということだ。
 唐の人はこのようなことはとうに知っていて、うまいことを言っている。
貧乏書生が冨貴な詩を作ろうとすると「金」「玉」「錦」「綺」などの字を多用し、自分では豪華と思っているが、その実貧乏で愚だということを露見させているのを気づかない。真の富貴の景象をかける人は「笙歌は院落に帰し、灯火は楼台に下る」とし、まったくあのような字は使わぬ。「倒せ、撃て」「殺せ、殺せ」
などの字は聞いているとまことに英雄的だがただの団扇太鼓に過ぎぬ。たとえ
陣太鼓としても前方に敵軍もなく後方に自軍もなければ、何の張合いもない太鼓に過ぎぬ。
 根本問題は作者が「革命人」か否かであると思う。もしそうならどんなことを書いても、どんな材料を使ってもすべて「革命文学」である。噴水から出るのは水で、血管から出るのはすべて血である。
「革命の賦を作り、五言八句で」というのも盲目の試験官を騙すだけだ。
 ただ「革命人」はめったにいない。ロシア十月革命のときは確かに多くの文人が革命に尽力しようとしたが、事実の狂風に対して、結局手も足も出せなくなった。顕著な例は詩人エセーニンの自殺と小説家ソーボリで、彼の最後の言葉は「もう生きてゆけない!」だった。
 革命時代に大声で「生きてゆけぬ!」と叫ぶ勇気こそ革命文学を書くことができる。エセーニンとソーボリは結局革命文学家ではなかった。なぜか?
ロシアが本当の革命のもとにあったからだ。革命文学家が風のごとくに起こり、
雲のごとくに湧くところは実は革命のないところだ。 (27.10.21発表)

訳者雑感:
 中国の文学文芸は時の政権、政府の提灯持ちという面が、どうしてもぬぐいきれない。お上が「革命」といえばその先棒を担ぐようなものばかりが発表、出版され、いい気になっているが、一般庶民は見向きもしない。その一方で
反政府、お上に徹底的に反抗する反骨のものもあるが、それらは常に弾圧され
焚書とか発禁処分されてきた長い歴史がある。処分の徹底さたるや、前王朝の
ものが自分に都合が悪いとなると国中の書物をすべて集めさせ燃やしてしまう。
それゆえ、燃やされて一冊もない書物が、日本などの武家屋敷の蔵で発見され、
中国に持ち帰って復刻された例も多い。
 話を提灯文芸に戻すと、1949年の新中国建設以来、共産党宣伝部のお触れに
基づいて「労農兵のための文芸」を創作しようという掛け声がかかると、一斉にそれらをテーマにした文芸が現れるが、地に足がついてないから本当の労農兵たちに人気のない作品ばかりが大量に出回った。
 魯迅の末尾の言葉でそれを表現するなら、労農兵文学家が風のごとくに起こり、雲のごとくに湧くところは、実は労農兵が疲弊して文学を読むようおな余裕のないところだ。
  2011/04/02訳
 




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再び香港について

行くのさえ「怖い」と思っていた香港を通過するのは9月28日で3回目。
 一回目は荷物も少なかったから無事だった。2回目に身一つで往復した状況は前に書いた。今回は前2回より不安だった。というのも「創造月間」の王独清さんの通信に、英国に雇われた中国の同胞が上船して行う「検査」の怖さ、面罵するか殴る蹴る、或いは金を出せという。それなのに私は十数箱の書籍を三等船室に、六箱の書籍と服類を自分の船室に携行していたからだ。英国旗をつけた同胞のやり方を見るというのも経験だが、その代償は大変大きい、と思った。これだけの箱から引きずり出された物を、又整理再梱包するだけで半日かかる:ほんとに実地検分するなら一二個にしてもらうのが最善だ。しかし、ことここに至っては彼のする通りに従う他は無い。金を渡すか、一つずつ検査させるか?検査となると私一人でどう対応しようか?
 船は28日香港着。当日は何も無かった。翌日午後ボーイが怱々と走り来て、部屋の外から手招きして告げた:
「検査です!鍵を開けてください!」
 私は鍵を持って三等船室に入った。そこには二人の濃緑の制服を着た英属の同胞が、鉄の串棒を持って箱の傍らに立っていた。中身は古書だと言ったが、まるで通じないようで「開けろ!」というのみ。
「それもそうだ、誰が見ず知らずの私の言う事を信じてくるものか」と思った。
もちろん私は開けに来たので、二人のボーイの助けを借りて開けた。
 検査を始めると、香港と広州の違いが分かった。広州を出る時も検査されたが、広州の検査官は顔色もよく、私の言う事を聞いてくれた。包や本を取り出して見た後、元の場所にきちんと戻してくれた。確かにそれは検査であった。
だがこの「英人の楽園」たる香港は全く違った。検査官の顔は青いし、私の言う事が通じぬようだ。箱の中身をすっかり出して引っ繰り返してみる。紙包の紙を破る。本箱から本を引っ張り出して箱より六七寸高く積む。
「開けろ!」それから二箱目。
 そこでちょっと試しに「見ないで済ますわけには」と小声で聞いてみた。
「十元出せば」と小声で答え。意味は通じた。「二元でどう?」もう少し出しても良いと思ったが。この検査方法は実に厳しいから、十箱こんな具合にやられたら、少なくとも5時間かかる。しかし手元に一元札は二枚しかない。十元札は持っているが、その時は出したくなかった。
「開けろ!」
 二人のボーイが二箱目を甲板に担いできた。彼は法に照らして懲らしめる如く、一箱の本を一箱半にし、数個の紙包みも破った。「検査」の一方で交渉を始め、私は五元に上げ、彼は七元まで下げた。がそれ以上進展しなかった。その時はすでに五箱目にかかっており、周りは騒ぎを見に来た野次馬で一杯。
 箱は半分以上開けられ、いっそもう全部させようと思い、交渉はやめ、ただ
「開けろ!」に任せた。二人の同胞もどうやら飽きてきたのか、段々当初のように箱を引っ繰り返さなくなった。一箱から二三十冊取り出し、箱の上に置いて、検査済みの印をつけた。手紙の束が彼らの興味を頗る惹起させたようで、精神を奮い立たせて、四五封見たが、すぐ戻した。その後、もう一箱開けたが、
乱雑に積まれた本から離れてゆき:これで終了した。
 よく見ると八箱開けたが、残る二つはそのまま手つかず。この二つは、すべて伏園の本で彼に頼まれて上海に運ぶ物。自分の物は全てメチャクチャにされた。「吉運の人は天の恵みあり。伏園はほんとに幸運だ。私ときたら、華蓋の運(一般人には災難の運)がまだ消えずにとりついている。ああなんとしたことか」と思いつつ、しゃがんで乱れた本を収拾しだし、数冊収拾したところに、ボーイがキャビンの入り口から大きな声で「船室の検査です、鍵を開けに来てください!」と叫ぶ。
 本の整理は三等船室のボーイに託し、走って部屋に戻った。果たして二人の英属同胞がとうに来ていた。ベッドカバーはめくれ、乱雑に散らかされ丸椅子がシーツの上に放ってあった。中に入ると身体検査で財布を調べられた。名刺で名を見るのかと思った。だが名刺には見向きもせず、十元札が2枚あるのを見て返してくれ、しっかりしまっておけと言った。私が失くすのを心配しているかのようだ。
 次にトランクを開け、中は全て服で10枚ほどひろげてベッドに乱雑に放った。その次はバスケット、銀貨で7元を包にしたのを調べたが一言も言わぬ。底に10元の包があったが、発見されなかった。次に長椅子の上の布の包を見、中に銀貨の包が10元、バラで4-5元、銅銭数十枚があったが、見終わっても無言のまま。次は衣料箱。これは恐ろしかった。鍵を開けるのも少し手間取り、同胞は鉄串で錠前を壊しそうな勢いだったが、何とか開けることが間にあってセーフ。中は衣料でやはり例の通り乱雑に広げられ、少しも手を緩めない。
「十元出せば、検査はしないが」と同胞の一人が服を調べながら言った。
 私は布包みのバラの十銭銀貨を彼に渡したが、受け取らない。かぶりを振って「検査」に戻った。
作業は二手に分かれた。一人がトランクと衣裳箱、もう一人はバスケットを検査しはじめた。やり方は三等船室の時とは違った。あちらでは只ひっかきまわしただけだったが、今回は毀損に変わった。魚肝油の紙箱を破り、床に放り、鉄串で蒋径三君がくれたライチ―の香りの茶葉の缶に穴を開けた。穴をあけて
ためつ、すがめつし、卓上の小刀に目をやった。これは北京にいたとき、十数銭で白塔寺の(縁日)で勝った物を広州に持参して、今回楊桃を剥いたもの。
後で計ると柄を含めて華尺で5寸3分しかないのに犯罪だと言われた。
「凶器だからお前は罪を犯した」彼は小刀を手にして私を指して言った。
 私は答えなかった。そしたら彼は小刀を降ろして塩煮落花生の包装紙に指で穴を開けた。それから蚊取り線香を手にして、
「これは何だ」
「蚊取り線香です、箱に書いてあるでしょう」と答えた。
「いや、どうもあやしい」
 といって一本取り出して嗅いだ。
その後どうなったかは知らない。同胞はこの衣裳箱の検査を終えたため、私は二箱目を開けねばならなかった。その時大変困ったのは。その箱には服や書物ではなく細々した物:写真、ノート、自分の訳稿、人の原稿、新聞雑誌の切り抜き、研究資料……。壊され、ひっかき回されたら損害は甚大と心配した。すると同胞は忽然布包みの方に目を向けた。私は、はたと悟って、その中の十元分入った十銭銀貨の束を取り出し、彼に見せる決心をした。彼は頭をひねって入り口の方を見てから手を伸ばして受け取ってから、二箱目に済みの印しをつけ、もう一人の同胞の所へ行った。多分何かの暗号を伝えたのだろう。だが
彼は不思議なことに金は持って行かず、枕の下に置いて出て行ってしまった。
 この時もう一人の同胞はまさに彼の鉄串で憎々しげにビスケット類の入った瓶の封を切っていた。私は暗号を聞いたらすぐ止めて呉れると思っていた。ところがそうじゃなかった。相変わらず作業を続け、封を開け、蓋の板を床に投げて二枚に割って中からビスケットを取り出し、ひねってから又瓶に戻し、そこでやっと両の手を大きく振って去って行った。
 天下太平。塵煙の舞う中、めちゃくちゃにされた部屋に坐って、二人の同胞がひっかきまわした事が決して悪意ではないことを悟った。例え交渉が成立しても、何がしかはメチャクチャにして「人の目を欺くため」の凌乱が検査を済ませた証になる。
 王独清氏は言っていた。同胞のほかにまだ大きい鼻で白い肌の主人がいることを。金を受け取る時に、入り口の方を見たのは多分このためだ。
だが私はまだこの主人には会っていない。
 後半の毀損は少し悪意があった。だがその咎は私が十銭銀貨で済まそうとして、紙幣を渡そうとしなかった為だったのが悔やまれる。銀貨を制服のポケットに入れるとずしりと重くて主人に露見するリスクが高いから、暫く枕の下に置くしかない。きっと仕事が終わったら取りに来るだろうと思った。
 革靴の音がコツコツと近づいてきて、部屋の外で止まった。見ると白人でとても太っている。多分同胞の主人だろう。
「終りましたか?」笑みを浮かべて尋ねてきた。
確かに主人らしい口吻。一目瞭然なのに今更何を訊くのか。或いは私の部屋が特段にメチャクチャだから慰めんとするにや。はたまた嘲笑せるや。
 部屋の外の「大陸報」の付録の図面を拾って、もともと何かを包んでいたのだが、同胞が破って捨てたのを、壁にもたれて見た後、ゆっくりと去った。
 主人が去ったので「検査」は終了と思い、一番目の衣裳箱を整理梱包した。
だがまだダメで、別の同胞が来て、「開けろ!」と言い、検査するというので、
こんなやり取りになった。
「彼がもう調べたよ」と言うと、
「まだ見てない。まだ開けていない。開けろ!」
「今再梱包したばかりなのに」
「お前のいうことは信じない。開けろ!」
「検査済みの印しがあるでしょ」
「ということは、金を出したのだな。賄賂を使ったな…」
「……」
「いくら出した?」
「仲間に聞いてください」
 彼は去った。ほどなくして又あの男があわただしくやって来て、枕の下から金を取り出し、その後はもう誰も来なくなり、本当の天下太平となった。
 それでやっと荷物の収拾を始めた。卓上に色んな物、カミソリ、缶切り、木の柄の小刀などが集められていた。もし十元の銀貨を出さなければ、これらを「凶器」として、更には怪しい香りだとして私を脅かしに出たことだろう。だがあの香は卓上には無かった。
 船が動きだすと静かになった。ボーイと閑談していると、この検査の騒動は、
私に咎があると悟った。
「貴方はとても痩せているから、アヘン売人だと疑われたのさ」と言う。
実際それを聞いて愕然とした。正に人の寿命は限りがあるが、「世故」は窮まりなし。これまで他人と飯櫃を争って釘にぶつかったことは多かったが、飯櫃さえ争わねば妨害はされないと思ってきた。去年アモイで飯を食うのも難しいが、
食わないというのも又、とりわけ「学者」たちに文句を付けられ、分をわきまえぬ輩との批判を浴びた。ヒゲの形も国粋と欧式の別があり、勝手にできない。
有る人が新聞で私に警告したのだが、私のヒゲは灰色とか赤色にしてはいけないという。体もあまり痩せすぎてはいけないとは、香港に来て始めて悟った。
以前は夢にも思わなかった。
 確かに検査の同胞を監督していた西洋人は良く食べ、でっぷりと太っていた。
 香港は只一つの島とはいえ、中国の多くの地方の現在と将来の縮図を活写している:中央に何人かの西洋人の主人がいて、その手下はへいこらしてばかりの「高等華人」と一群の手先となった奴隷根性の同胞。このほかは即ち、すべて黙々と苦しみを舐める「土人」。それに耐えられるものは「租界」で死に、耐えられぬ者は深山に逃れる。苗族瑶族は我々の先輩だ。
   九月二十九日 海上にて。

訳者雑感:
2008年に重慶から中国の遊覧船に乗り、三峡下りをした。空港から乗船場まで高速道路で向かった。ネオンのまぶしいほどのキラキラの香港のような夜景を眺めながら、ケーブルカーで川面に降り8時ごろに上船した。三階の一等船室でベッドもカバーがかけられソファもまずまずで、不潔感は無かった。
 さてカバンからウイスキーを取り出して、夜景を肴に三峡下りを楽しもうかと思っていると、誰かがドアをノックする。ドアを開けるとボーイの格好をした男が入って来て、これから3日間の船旅を気分よく過ごしてもらうために、
部屋をきれいにして、花と茶菓子を準備したとかなんとか訳のわからないことを言い、ついてはチップとして百元出せとユスリのような態度。さもないと、3日間でいろいろ面倒なことになりそうな雲行きである。
 さてどうしたものかと思案。別に百元をケチるつもりはないが、どうも釈然としない。本当の部屋付きボーイなのかどうかも得体が知れぬ。船が岸壁を離れる前に出さないと面倒なことになるという。おかしいな、と感じて、十元なら出すが、百元もチップを出すつもりはない、というと、十元などはした金じゃ引きさがらぬという。すこし押し問答していたら、アナウンスで船が出るから、見送りの人たちは下船するようにと言っているようだ。
 ボーイの格好をしたくだんの男は、急にあわてだし、十元だせというところまで来た。これはなにか怪しいと睨んで、本当にお前がこの部屋のボーイかと
問い詰めたら、にやにやしながら部屋を出て行った。
 その後、本物の乗務員が切符を改めに来たので、さきほどのことを持ち出して聞いたところ、そうした事があったらすぐ私に連絡してくれという。とは言いながら、その手の連中が毎回こうしてチップをねだりに船室に入って来るのを防ごうとはしていないようだ。
 このあたりの阿吽の呼吸は、船と言う閉じられた空間で大陸中を旅する者と、
それを支える河川運行サービス業の長いながい、曰く言い難いならわしがあるのだろう。
「日本奥地紀行」で有名なイザベラ バードの「中国奥地紀行」に武漢から船で三峡上りをするシーンが描かれている。当時岸の断崖のようなところに造られた道に船を曳航する人夫が何組もの隊を組んで、どこどこからどこどこまで
船を流れに逆らって引っ張る難行が、何日も何日も繰り返され、揚句には力尽きて、岸に留め置かれるような事態になって、乗客はいらだつ。それで交渉が始まり、曳航費の値上げで決着する。足元をみるというか、道中ゴマのハエというか、これは何も中国に限ったことではないし、江戸時代の東海道でも私の祖父が小さい頃には、そうした人夫がそれで生計を立てていたと話してくれたことを思い出した。
 それにつけても魯迅のこの時代、1927年ころでも、同じ中国ながら広州から上海に向かうのに、英国人の主人が監督する船にしか乗れないというのは、どうしたものであろうか。中国籍の主人が監督する船の方がよりリスクが高かったのか、或いは香港経由の船は英系資本に牛耳られて、中国系は締め出されていたものか。
 香港が1997年に返還されるまで、特に1972年に日中国交回復するまでは、
多くの外国人は、というか殆どの外国人は香港経由でしか中国に入国できなかったし、台湾人も香港経由でした中国に入れなかった。1927年のころの中国は
北京、南京、広州とそれぞれが別の政府を持っていたような状況であったから、
香港経由で行くしかなかったのであろう。汽車での移動は、映画「上海特急」
で描かれていた如く、軍閥の争いに巻き込まれて、いつなんどき列車がハイジャックされないとも限らない。その点英国旗を掲げた船なら十元は取られても
身の安全は保たれたのだろう。この後魯迅は上海でも共同租界で身の安全を計りながら生を終えることになる。
     2011/04/01訳
 

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小雑感

 蜜蜂は針で一回刺すと死んでしまう。犬儒の針は使うことで自分の命を伸ばすことができる。
 両者はこんなにも違う。
 
 ジョン ミルは:専制政治は人間を冷嘲させるという。然し彼は共和が人を沈黙させることは知らなかった。

 戦場に行くなら軍医:革命なら後方:人を殺すなら殺し屋:英雄みたいでかつ自身は安全だ。

 有名な学者と話す際は、偶には分からぬ所があるふりをするがよい。余り分からないと軽んじられるし、分かりすぎると厭悪される。偶に分からぬ所があるというのが双方に具合が良い。

 世間は武士が指揮刀を振るう事は知っているが、文人も振るえるというのは知らない。

 次から次に講演録が出される。惜しいことに彼がどういう背景で先に話したことと、今回のことが大きく違っているかを明らかにしていない:そしてまた
講演時に自分が自分の話を本当に信じているか否かも明らかにしていない。
(清党以前と清党後の蒋介石たちの講演が聯ソから反ソ反共に転換したことについて:出版社注)

 権勢家の利口な人びとは色々あって昨日死んだようだが、貧しくて愚鈍な者は本当に昨日殺されてしまった。(蒋介石、汪精衛たちが昨日までの自分は死んで、新たに生き返ったように活動する云々という発言に対して:出版社注)

 かつて羽振りの良かった者は復古しようとし、今権勢のある者は現状保持に努めようとし、未だ権勢を手にしていない者は革命しようとする。
大抵はそうだ。大抵!
彼らの言う復古とは記憶に在るつい数年前に戻るのであって、虞夏商周へ戻るのではない。

 女の天性には母性と女児性はあるが、妻性はない。
 妻性とは逼られて成るもので、ただ母性と女児性の混合にすぎぬ。
 サギ防止。
 自称盗賊は防備の必要は無い。逆に良い人間である:自称正人君子は用心すべし。本当の盗賊なのだから。

 階下の男は病気で死にそうで、隣はレコードを聞いている。向かいでは子供と遊んでいる。階上の二人は笑い転げ、牌の音。河の船では亡くなった母を哭す女。
 人類の悲しみと歓びは通じ合えぬ。只騒いでいるだけだ。

 ボロ着の男が通ると狆はキャンキャン鳴くが、主人の意を受けたとかけしかけられたものとは限らぬ。狆は往往にして主よりも手厳しい。
 きっとまもなくボロを着るのを許さぬという日が来よう。守らないと共産党にされる。

 革命、反革命、不革命。
 革命者は反革命者に殺された。反革命者は革命者に殺された。不革命者或いは革命者になろうとした者は、反革命者に殺され、何もしようとしなくても、
革命者や反革命者に殺された。
 革命、革命を革し、革命を革したものを革し、革革革革…と(果てしない)。

 寂莫を感じた時、ひとは創作する:きれいさっぱり何も無くなったら創作も無いし、愛する者もひとつも無くなる。
創作はかならず愛に根ざす。

 楊子は文字を書いて残さなかった。
 創作は自分の心を叙すといえども、かならずひとが見るのを願う。
 創作は社会性を持つ。
 しかし時にはただ一人さえ見て呉れればそれで満足だ:親友、恋人の。
 (訳者雑感:魯迅は文を書くのは自分の弁護のためということを書いている
一方で、文を書くのは人の為とも言う。 「為我」を唱えた楊子は文を遺さなかった。文を残すのは人の為であって、「為我」と相いれないから、という。
禅宗に「不立文字」なる言葉がある。自己の悟りに精進するのが一番大切で、
後の人のために文字に書いて残すことはしない、と。インドでは歴史を文字に残すということを大事にしなかった。それでも実際に起こったこと、生きた人の行跡は語り継がれては来た。)

 人は往々にして和尚を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎むが、道士は憎まない。この理が分かれば中国のことは大抵分かる。
(訳者雑感:裏返せば、外国人には道教はなかなか理解困難で、中国のことは
大抵わからないことばかり、ということか?
中国人は外来の宗教の伝道者をしばしば憎むが、地の宗教である道教の道士は憎いと思わないのか?いい加減なごまかしで庶民を迷信させ、でたらめばかりするというのが、道士についての一般的常識としながらも憎まないのはなぜか)

 自殺しようとする人も大海原で死ぬのを怖がる。夏には死体が早く腐爛するのを怖れる。
 水の澄んだ池、涼爽な秋夜に自殺する。

 凡そ当局が「誅」した者はみな有「罪」である。
 劉邦は秦の苛政暴政を除き、「父老」と法三章を約した。
 後にやはり一族皆殺しも行われ、書物の私的所有も禁じ、秦の法律に戻った。
 法三章とは口だけだった。

 半袖を見ると白い二のうでを思い浮かべ、そこから全裸を連想し、そしてすぐ生殖器を思い浮かべ、性交、雑交、私生児を思い浮かべる。
 中国人の想像は惟この方面ではかくも飛躍進化する。
       九月二十四日。
   2011/03/23訳



 

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魏晋の気風(きっぷ)及び文章と薬&酒の関係

今日の話は黒板に書いたテーマについてです。
 中国文学史は本気で研究すると容易ではありません。古い物は材料が全く少ないし、新しいのは多すぎます。それでまとまった文学史はまだありません。これから話すのはその一部で材料も少なく、研究もとても困難なのです。
我々がある時代の文学を研究しようとするとき、最低作者の環境と経歴、著作を知る必要があります。
 漢末魏初の時代は大変重要で、文学でも重大な変化が起き、黄巾と董卓の大乱後、且つ党錮の争いの後です。この時曹操が現れました。――曹操と言うとすぐ「三国志演義」を連想し、舞台のあの隈取りの奸臣を思い浮かべますが、
それは曹操観察の正しい方法ではない。歴史を振り返ると、その記載と論断はときどき極めてあてにならない、信じられない点が大変多い。それは通常我々が知っているのは、長期間続いた王朝にはいい人が多く;短いのには大抵いい人間がいないことでわかります。なぜでしょう?長い王朝の歴史を書くのは本朝の人で、当然本朝の人を持ちあげるが、短いと別の王朝の人が書くので、自由に前の王朝の人を貶斥するからで、それで秦にいい人は一人もいない。曹操の時代は頗る短く、次の王朝の人に悪く言われる例から逃れられません。しかし曹操は良くやった人で、少なくとも英雄といえましょう。私は曹操の一党ではありませんが、何はともあれ、非常に敬服しています。
 当時の文学を研究するのは先人のお陰で少し楽になりました。文集としては清の厳可均の編輯した「全上古三代秦漢三国晋南北朝文」があります。その中で役立つのは、「全漢文」「全三国文」「全晋文」です。
 詩では丁福保の編輯した「全漢三国晋南北朝詩」――丁福保は医者で今も
健在です。
 この時代の文学評論を輯録したのは劉師培編の「中国中古文学史」で、これは北大の講義録で劉先生は亡くなられましたが北大が出版しました。
 上記三冊は研究にたいへん役に立ちます。この時代の文学が異彩を放っていることが明確に読み取れます。今日話すのは劉先生が著書に詳述されているところは簡略にし:劉先生が略されている所を詳しく話します。
 董卓後、曹操が権力を握った。彼の治下で一番の特色は刑名を大事にした事。
立法は大変厳格で、大乱の後のため、みなが皇帝になろうと反乱を企てたのでこうせざるを得なかった。彼自身かつて「もし私がいなければ何人の男が王や
帝を称したことか!」と言った。これはまんざら荒唐でもない。そのため文章にも影響があり、清峻な風格を成した。――即ち文章は簡約で厳明な意味を持たねばならぬ、と。
 このほかの特色は通脱を大事にした点。小事にこだわらぬ豪放さ。彼はなぜそうしたのか?当時の気風と大きな関係がある。党錮の禍以前、凡そ党内の人はみな、自ら清流を任じたが、「清」を前面に出しすぎ固執してしまったので、
漢末になると清流の挙動がとてもおかしなものになった。
 一例として、名士の処へ普通の人が訪問する際、まず何か話をし、それが気に入らないと傲慢な処遇を受け、屋外に坐らされ、会見そのものを拒否された。
 又ある人は姉の夫と気が合わないのだが、姉の家で食事をした後、金を払おうとする。姉は要らないというと、彼は門を出てからその金を道に捨て、払ったことにして帰る。
 個人的にこんなことをしても大したことにならぬが、天下を治める時にこんなことを執拗に行ってはたまったものではない。それでこうした弊害をよく知っていた曹操はこの気風に反対し、通脱を提唱した。通脱とは自由気ままの意。
この提唱は文壇に影響し、思ったまま、そのまま書いた文章が沢山生まれた。
 考え方も通脱の後、固執を排除し異端と外来の考え方も十分容れることができたので、儒教以外の考え方も次々に導入された。
 まとめると、漢末魏初の文は清峻で通脱と言える。曹操自ら文章改造の祖師でもあるが、残念ながら彼の文は余り伝わっていない。彼は大胆で、文も通脱で大変力強い。文を書くときは何の忌非も気にせず、思ったことを書いた。
それで曹操は人材を求める時もこう言った。不忠不孝の者も構わぬ。才覚さえあれば良い。これも他の人はとても言えないことだ。曹操の詩は「鄭康成は酒を飲み、地に伏せて気絶した」と言う表現で、つい直近のできごとを取り上げたが、これも他の人はとてもできない事。更に人が死ぬ時、遺言を書くが、それは名士にとって超モダ―ンなことで、当時の遺言は決まった格式があり、死後何処どこに埋葬すべしとか、或いは某名士の墓の傍らにというのが多かった:だが彼は違う。彼の遺言は格式張らぬだけでなく、内容も服と伎女をどう処置すべきかなども書いた。
 陸機は「世の謗りを後王に残す」と書いたが、私はなにはともあれ、聡明な男だと思う。文を書くだけでなく、それを実行する手段も持っており、天下の方術師、文士を統べて網羅してしまい、外に逃れて悪さをせぬようにした。
それで彼の帷幄には方術師文士がうじゃうじゃいた。
 孝文帝曹丕は長子で父業をつぎ、漢を簒奪して帝位に即いた。彼も文章が好きで、弟の曹植と明帝曹叡はみな文章を好んだ。その時、通脱の他に華麗が加わった。丕は「典論」を書き、現在完本は残ってないが、その中に「詩賦は麗を欲す」「文は気を以て主とす」とある。「典論」の細かい断片は唐宋の類書(検索用の断片を集めたもの)にあり:整った形の「論文」は「文選」にある。
 その後、一般の人は彼の意見を適切とは思わず、彼の言う詩賦は必ずしも教訓を寓する必要はないとか、詩賦は寓意を持つようにすべきということに反対するとの見解は、近代の文学の観点からすると、曹丕の時代は「文学の自覚時代」或いは近代でいう芸術の為の芸術(Arts for Arts Sake)の一派です。
だから、曹丕の詩賦はたいへん素晴らしく、更には「気」を主としたため、華麗の上に壮大さが加わりました。
要するに、漢末魏初の文章は「清峻、通脱、華麗、壮大」と言えます。文学的見地では曹丕と曹植は表面的には差があります。曹丕は、文章は名声を千載に留めることができる:だが曹植は、文章は小道で、論じるに足りぬという。
 私は曹植は、心にもないことを言ったと思う。二つの原因があり、第一に
植の文章はたいへん素晴らしく、人は大概自分のしたことに不満を感じ、他人を羨む者で、彼の文章はすでにたいへんうまいので、文章は敢えて小道と言った:第二、植の活動目標は政治に在り、その方面で志を得られなかったので、文章は無用とまで言ったのだと思う。
 曹操曹丕以外に更に次の七人がいる:孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨、みな文章の達人で後に建安七士と称された。七人の文は少ししか残っていず、我々にはなかなか判断できない:ただ大抵は「悲憤慷慨、華麗」な文で、
華麗は曹丕の主張したもので、慷慨は天下大乱に際し、親戚朋友が乱で死ぬ者が特に多く、文は悲涼と激昂と慷慨となるのを免れなかった。
 七士の中では特に孔融は曹操と悶着を起すのを好んだ。曹丕は「典論」で孔融を論じたため、彼も「建安七士」に列せられた。だがそれは正しくない。
全く別のものだ。だが当時彼の名声は非常に高く、孔融は文を作る時、好んで諷嘲の筆法を用いたので、曹操は大変不満だった。孔融の文章は今日、少ししか残っていないが、それらをすべて見ると、他の人は余り諷嘲しておらず、曹操だけに向けられている。曹操が袁氏兄弟を破った時、曹丕は袁煕の妻、甄氏を自分の物にしたことに対し、孔融は曹操に出状し、武王が当初、紂を征した時、妲妃を周公に与えたと説いた。曹操が出典はと問うと、現在を以て、古に比すと、大抵はこの通りだと説いた。また曹操が禁酒を命じ、酒は国を亡ぼすゆえ禁じねばならぬ、というと、孔融は反対し、女は国を亡ぼすとも言うが、なぜ婚姻を禁じないのか?と反問した。
 実は曹操も酒を飲んだ。彼が「何を以て憂いを解くや?ただ杜康(酒の意)のみ」という詩を見ればそれが分かる。どうして彼の行為と論議に矛盾が起きたのか?彼のせいではない。彼は政治の当事者だから、そうせざるを得ぬが、
孔融は傍観者ゆえ、好き勝手なことが言えたためだ。曹操は彼が何回も反抗するので、別のことにかこつけて殺してしまった。彼は次の二点を主張したため多分不孝の罪だったであろう。
 第一、孔融は母と子の関係は瓶の中の液体と同じ。瓶からそれを注いだら、
母子の関係は完了したとみなした。第二、天下に飢饉が起きた時、少し食糧があったら、父に食べてもらうかどうか?彼の答えは:もし父が良くない人間なら、他の人に与えるも可也でした。曹操は彼を殺そうと思い、こういう発言を彼の不孝の証として殺してしまった。曹操が生きていたら訊いてみたいものです。最初、人材を求める時、不忠不孝でも構わぬと言っていたのに、なぜ不孝の名で殺してしまったのか?しかし事実はもし彼が生き返っても誰も訊けまい。もし訊いたら、たちどころに殺されてしまうでしょう!
 孔融と同じく曹操に反対した者に、袮衡がいた。後に黄祖に殺された。袮衡の文も実にいい。彼と孔融は、当初「気を主として」文を書いた。だから漢代の文が壮大になったのは、時代が然らしめたのであって、曹操親子の功というだけではない。ただ華麗で見栄えが良いのは曹丕の提唱した功である。
 かくして明帝の時に文は大きく変化した。
 それは何晏が出たためである。
 何晏の名声は大変なもので、地位も大変高く「老子」「易経」の研究を好んだ。
彼がどんな人間だったか、真相は分からぬし調査も難しい。曹氏の一派だったため、司馬氏は彼を嫌った。だから彼らの何晏への記述は不満一杯で、そのため、多くの伝説を生み、彼は顔におしろいを塗っていたと言う人もおり、生まれつき白い顔でおしろいは塗っていないという人もいた。結局のところは私も良く判らない。
 だが次の二点はみな良く知っている。第一、空談を好み、空談の祖師。第二、
薬が好きで服薬の祖師と云われる。
 それ以外に名理を論じるのも好んだ。体が弱いので、薬は飲まざるを得ない。
それも尋常のものではなく、「五石散」という薬を飲んだ。
 これは一種の毒薬で、彼が初めて飲んだ。漢代、皆は怖がって飲まなかったが、何晏は少し処方を変えて飲んだ。五石散の基本は大抵五種の薬:石鍾乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂。このほか、別の薬も入っているかもしれない。但 今はその中身を細かく研究する必要も無い。皆さんも飲みたいとは思わんでしょう。
 本にはこの薬は大変な良薬で、飲めば弱い体も強くなる。それで彼は裕福だったから飲み始め:皆も倣って飲みだした。その当時、五石散の流す毒は清末のアヘンと同じで、服薬しているかどうかで、金持ちかどうかが分かった。今、
隋の巣元方の「諸病源候論」にその一部が見られる。これに依ると、この薬を飲むのは大変面倒なことが分かる。貧乏人はとても飲めない。たとえ飲めてもちょっと注意を怠ると毒死してしまう。飲んだ初めは何ともないが、後から薬が効いてくると大変なことになるので「散発」という。もし「散発」しないと、弊害が出て来て、なんの薬にもならない。そのため、飲んだ後休んでいてはだめで、歩かねばならない。歩いて始めて「散発」が可能となる。それで歩くことを「行散」という。六朝の詩にある:「城東に行散す」というのがそれです。
後世、詩を作る人がそれを知らず「行散」を歩行の意味と考え、服薬しなくても「行散」の2字を詩に書いたが、おかしな話である。
 歩行後、全身が発熱し、その後悪寒がする。普通悪寒には服を重ね着して熱い物を食べるが、服薬後の悪寒はそれとは逆に、服を脱いで、冷食し、冷水を浴びるのです。もし沢山着て熱い物を食べると死んでしまう。それゆえ五石散は一名、寒食散という。ただ一つだけ冷たくなくても良いのが酒です。
 この薬を飲んで、服を脱ぎ、冷水を浴び、冷食し熱燗を飲む。こうすると五石散を飲む人の多くは厚手の服を着る人が少なくなる。例えば広東でこれを提唱したら、1年後には洋服を着る人はいなくなるでしょう。肌から発熱するため、体にぴったりした服は着られない。皮膚が服と擦れて傷つかないようにゆったりした服でないとだめです。今日多くの人が晋の時代は軽やかな皮衣に緩やかな帯、寛いだ服を着ているから当時の人たちは高逸だと思っているが、実は彼らが服薬していたためだということは知らない。あるグループの人たちが服薬して寛いだ服を着ると、服薬しない名士たちも彼らに倣って寛いだ服を着始めた。
 又、服薬後皮膚が擦れて傷つきやすいので、靴は不便で靴下も穿かず、サンダルをはいた。だから晋人の画像や当時の文を見ると、寛衣で靴をはかずサンダル履きできっと気持ちがいいし、瓢逸だと思うが、実は心中は大変苦しいのです。
 そして皮膚が傷つきやすいので新品の服は着られず、古着の方が良いし、あまりこまめに洗うわけにはゆかず、洗えぬから虱が増える。それで彼らの文中での虱の地位は高く「虱をつぶしながら談ず」は当時、美事と伝えられた。もし私が講演中に虱を始めたら、みっともないと言われましょうが、当時は構わない。習慣の違いだからこれは正に清朝でアヘンを吸うのを提唱したのと同じで、我々は両の肩の聳えた人を見ても奇怪な男とは思わなかったのと同じです。
今日では通じませんが、多くの学生の肩が一の字のようになっていたらとても奇怪に思うでしょう。
 このほか、散を飲む時の状態や諸般のことが分かる本に葛洪の「抱朴子」がある。
 東晋になると偽物が増え、路傍で横になり、「散発して羽振りの良さ」を示した者も出た。丁度清の時代に読書を尊び、墨を唇に塗って、ついさっきまで字を書いていたと言わんばかりの格好と似ている。それで私は、ゆったりした服でサンダル履き、ザンバラ髪等は、後世の人が倣ったもので服薬しない者もまねたのであって、(彼らの)理論提唱とは無関係だと思います。
 また「散発」は空腹ではダメで、冷食を掻きこむように早く食べねばならず、間を置かず、一日何回かも決まっていなかった。そのため、晋の時代には
「喪中も礼を無くす」というようになった。――元来魏晋時代は父母への礼はたいへんやかましかった。例えば、人を訪問する時、その前に必ずその人の父母と祖父母の名を訊き、諱(いみな)を避けねばならない。さもないと一言でも口から発せられたら、もしその人の父母が亡くなっていたら、主人は大声で泣き出すし、――父母を思い出すから――大変なことになる。
 晋の礼は喪に在っては痩せて、食事も少なくし、酒も飲めないのだが、服薬後は命の為にそんなことも言っておられず、おおいに食らうしかない。だから、
喪に在っても礼をとやかくいわない、となる。
 喪に居る時にも酒食するのは、羽振りの良い名流が唱え万民もこれに従った。
それでこれらの人を名士派と尊称するようになった。
 散を飲むのは何晏が始めたが、彼と同志の王弼と夏侯玄の二人も彼と同じく服薬の祖師で三人が唱え、多くの人が真似た。彼ら三人は文章もうまく、夏侯玄の作品は余り残ってないが、王と何の二人の文は今も見ることができる。彼らは正始(年間)に生れたので、「正始の名士」という。
 但、この習慣の末流は服薬するのみ或いはしまいには飲んだふりをするだけで、文章は書けなかった。
 東晋以後、文を書かず清談に流れたのは「世説新語」に見られる。そこでは空論ばかりで文章は少なく、三人に比べると大きな違いがある。三人の内、王弼は二十余歳で若死にし、夏侯と何の二人は司馬懿に殺された。二人は曹操との関係から、死ぬ他なかった。それはちょうど曹操が孔融を殺した時と同様、不孝という罪名を着せられた。
 二人の死後、論者の多くは魏とのからみで罵っているのだが、何晏が罵られるに値するのは、服薬の発起人だからで、この風習は魏晋から隋唐まで続き、唐になって「解散方」というのまでできた。即ち五石散を解毒する処方で、まだ五石散を飲んでいた者がいた証だ。しかしだいぶ減ったであろう。唐代以降
誰も飲まなくなったが、その理由は未詳。多分弊害が多く、利が少ないためで
アヘンと同じか?
 晋の名士、皇甫謐は「高士伝」を書いた。彼はさぞかし高邁な人だと思われているが、服薬していて、自ら服薬の苦しみを書いている。薬が効きだすと少しでも注意を怠ると、命を落とす。少なくとも大変な苦しみを味わい、発狂しそうになり、聡明な人も痴呆になる。だからしっかりと薬性を知って、救助法を会得し、かつ家族もよくその薬性を知っておかねばならない。晋の人はカンシャク持ちが多く、高慢で発狂し、性質も火の如く荒っぽいのは多分服薬のせいで、ハエがうるさいと言って、剣を抜いて追いかけた:話をしても馬鹿げたのが良いとして、時には全く瘋癲に近い。だが晋代には痴を良しとするのまで
現れたが、これも多分服薬のせいだろう。
 魏末、何晏たちの外にもう一つのグループが現れた。「竹林名士」といい、
七人なので「竹林七賢」ともいう。正始の名士は服薬したが、竹林名士は飲酒。
竹林の代表は嵆康と阮籍。但し、竹林の名士は酒を飲むだけでなく、嵆康は服薬もした。阮籍は飲酒専門の代表。だが、嵆康も飲酒し、劉伶も同じ。彼ら七人はたいてい皆、旧礼教に反抗した。
 この七人の性癖はそれぞれ異なる。嵆康阮籍の両名の性癖は雄大で:阮籍は老年になって良い方に向かったが、嵆康は始終ひどかった。
 阮は若いころ、彼を尋ねて来る人に対して、青眼と白眼で区別した。白眼とは多分まったく瞳が見えぬ状態なのだが、長いこと練習してモノにしたのだろう。青眼なら私もできるが、白眼はうまくできぬ。
 後に阮籍は「人の良しあしを口にしない」境地に達したが、嵆康はまったく改めなかった。その結果、阮籍は天寿を全うしたが嵆康は司馬氏の手で殺された。孔融何晏などと同じく不幸にも殺害された。これも多分服薬と飲酒の差のせいか:服薬は仙(人)になれ、仙人は俗人を侮る:飲酒では仙人になれず、
いい加減のところでお茶をにごす。
 彼らのふるまいは、飲酒するときはたいてい衣服も冠も脱いでしまう。通常こんな状態だと我々は無礼だと思うが、彼らは違った。喪のときも慣例通りに泣くとは限らず、子は父の名を呼んではいけないが、竹林七賢たちは、子は父の名号を呼ぶことができた。今まで伝わって来た旧礼教では、竹林七賢を認めなかった。劉侯――彼は皆さんご存知の「酒徳頌」を書いたが、――世間で昔から定められてきた道徳を守らず、こんなこともありました。ある時客が面会に来た時、彼は服を着なかった。客が責問すると、答えて曰く:天地は我が家、
家は我が服、君たちはなぜ我が褌の中に入って来たのだ?と。
 阮籍などさらに大変で、上下関係も古今の違いも認めず、「大人先生伝」に、
「天地は解け、六合は開け、星辰は隕(落ち)日月は頽(たいす)、我、騰(ほん)して上に昇って何を懐かんか?」とあり、その意味は、天地神仙はみな無意味で、すべて不要だから世上の道理はもう争う必要も無く、神仙も信ずるに足りぬ。一切が虚無なのだから。酒を飲んで暮らすのが一番。それにもう一つの理由は、飲酒は単に彼の考えに依るだけでなく、大半は環境のせいである。
その当時、司馬氏が位を簒奪していたが阮籍の名声は大変高かったので、何か
発言しようとしても極めて困難だったから、酒を増やして発言を減らすほか無かった。万一ヘンな発言しても酒のせいにして許しを得た。一度司馬懿(出版社注には司馬昭が正しい、以下同じ)阮籍に縁談を申し入れたが、阮籍は二ケ月間ずっと酔い痴れて、申し込みをさせなかった、というので分かる。
 阮籍の文と詩は大変すばらしい。彼の詩文は慷慨激昂してはいるが、多くの意味を隠して顕わさぬ。宋の顔延之すら余り分からぬと言っているほどで、
我々は今日、当然ながら余り理解できない。詩に神仙を説くが、本心は信じていない。嵆康の文は阮籍より上で考えも新しく、多くは当時の旧説に反対している。孔子曰く:「学びて時に之を習う、亦説しからずや?」嵆康の「難自然、
好学論」は違っている。人は決して学びを好まず、もし何もしなくても飯が食えたら、自由に閑遊し、勉強など好きにならぬだろう。今日人が好学というのは、習慣からやむを得ずというだけだ、という。更に管叔蔡叔は、周公を疑い、
殷の民を率いて謀叛したから誅され、いままで悪人とされてきたが、嵆康の
「管蔡論」は従来の意見に反対し、この二人は忠臣で、周公を疑ったのは互いの場所が大変離れていて、消息が不正確なためだったとしている。
 しかし一番多くの人の注意を引き、命に危険をもたらしたのは「山巨源と絶交する書」の「非湯武而薄周孔」である。司馬懿はこの文章により嵆康を殺した。湯・武・周・孔を非薄(否定)するのは今日では大した問題ではないが、当時は大変なことであった。湯武は武力で天下を平定した:周公は成王を補佐し:孔子は堯舜を祖述し、堯舜は天下を禅譲した。嵆康はそれらをすべて良くないとした。そうすると司馬懿が位を簒奪するにはどうしたらよいのか?やりようがない。この一点で嵆康は司馬氏の為政に直接の影響が出てきて、死ぬ他無くなった。嵆康が殺されたのは友人の呂安の不孝が彼にも及んだためで、罪名は曹操が孔融を殺したのと同じ。魏晋は孝で天下を治めたから不孝は殺さねばならない。なぜ孝で天下を治めたか?天子の位を禅譲でうまいこと奪ってきたから、もし忠で天下を治めるとなると、彼らの立脚点が揺らぎ、こともうまく運ばなくなってしまい、立論できなくなる。従って孝で天下を治めねばならない。ただ単に不孝だけならたいしたことにはならないが、嵆康はそれを論じだしたのだ。阮籍は彼と異なり、倫理上のことはあまり触れず、それで彼の結末も異なった。
 とはいえ魏晋人もすべてゆったりした服を着て、飲酒ばかりしていたわけではない。反対の者も多い。文章では斐頠の「崇有論」があり、孫盛の「老子大賢に非ず論」がある。これらの書はすべて王・何たちに反対したものです。史実では何曾が司馬懿に阮籍を殺すよう何回も勧めたが、彼は聞き入れなかった。それは阮籍の酒のせいであって、時局との関わりは少なかったためだという。
 しかし後世の人は嵆康阮籍を罵り出した。人は次々に罵倒し続けて今日まで1,600年余。季札は:中国の君子は礼儀に明るいが、人心を知ることに暗い、という。これはその通りで、おおよそ礼儀に明るければ、必ず人心を知るのに暗いので、古来多くの人は冤罪を受けた。例えば:嵆康の罪名はこれまで礼教を損壊したとされてきた。だが、私の個人的な意見では、この判定は間違いだ。
魏晋時代、礼教崇拝は大変なものだったように見えるが、実際は礼教を壊してしまっており信じてはいなかった。表面上礼教を損壊した者が、礼教を認め、大変信じていた。魏晋の時代、所謂礼教を崇拝していたのは、自分たちの利益のためで、その崇拝も偶々崇拝したというに過ぎず、曹操が孔融を殺したことや、司馬懿が嵆康を殺したのも、すべて彼らは不孝と関わりあったためだが、実際には曹操も司馬懿もなんら著名な孝子でもないし、その名目で自分に反対した者を罰したのだ。そこでまじめに生きている人は彼らがこれを利用して、礼教を汚し(冒涜し)たと考え、それに不満を持ったものたちの極みは、他に
なすすべもなく、憤慨して礼教を論じなくなり、信じなくなり、ついには反対するまでになった。――だが実際にはポーズだけに過ぎず、本心は礼教を信じ、大事な宝として、曹操や司馬懿より迂遠なほどに固執していた。もっと分かりやすい比喩で言うと、ある軍閥が北方で――広東の人の北方と私のいつもいうのとは限界が少し違い、私の北方は山東山西直隷河南辺りですが――その軍閥は以前は国民党を弾圧していたのだが、後に北伐軍が勢力を持つと、青天白日旗を掲げて、自分もつとに三民主義を信じており、総理の信徒だと言う。
それでも不足だとして総理の記念週間を催す。このとき本当の三民主義の信徒は、それに参加するかどうか?参加しなければ、お前は三民主義に反対したから罰すると言って殺されます。しかし彼の勢力下ではほかに方法は無く、本当の総理の信徒は、三民主義を口にしなくなる。或いは人が嘘っぱちのことを言うと、眉をしかめるから、あたかも三民主義に反対しているような格好になる。
 従って、魏晋に礼教に反対したといわれている人の多くもこんな具合だったと思う。彼らは迂遠な人々で、礼教を宝のように大切にしていた。
 もう一つの実証は凡そ人々の言論思想行為は、もし自分が正しいと思えば、世の中の人も自分の友人も皆同じようにするように、と願うはずだ。但し嵆康
阮籍はそう思わず、自分を摸倣するのを願わなかった。竹林七賢に阮咸と云う者がいた。阮籍の甥で同じになってよく飲酒した。阮籍の子、阮渾も仲間に加わろうとした時、阮籍は加わる必要なしといい、一族にはすでに阿咸(阿は名の前に付ける称)がいるからそれで十分だ、と。もし阮籍が自分の行為が正しいと思うなら、子を拒否しないだろう。だが拒否したということから、阮籍は自分のやり方が良いとは考えていなかったことが分かる。
嵆康は彼の「絶交書」を見れば、態度の驕傲なことが分かる:一度など、家で鉄を打っていて、彼は鉄を打つのが好きで、鐘会が訪ねて来た時もただ打つのみで、彼に取りあわなかった。鐘会は面白くないから帰るほかなかった。その時嵆康は口を開いて、「何を聞いてきて、何を見て帰るや?」と訊ねた。鐘会応えて曰く「聞いてきたことを聞き、見るべきことを見て帰る」。これも嵆康が殺されることになった禍根の一つ。
しかし私は彼が子に見せるために書いた「家戒」――嵆康が殺された時、子はまだ十歳で、これを書いた時は十歳未満――を見ると、全く別人のように感じる。彼はその中で、子に成人になる為の注意として、一条一条と教訓を書いている。上司の所へはそう頻繁に行ってはならない。泊ってもいけない:上司が客を送り出す時、彼の後ろに居てはならぬ。将来彼が悪い人間を処分する時、
お前が蔭で密告したとの嫌疑を受けるから。もう一つは、宴席で口論が始まったら、すぐその場を去るように。(傍らで批評しなくてもすむように)両者の間で、きっとどちらが正しいかと云う事になり、批評をせねば納まりがつかず、
どうしても甲乙是非を付けねばならず、片方から怪しからんと恨まれないようにするため。又人が酒を勧めたら、飲みたくなくても決して断ってはならぬ。
必ず和気あいあい杯を挙げるべし。
 こうみてくると、実にとても奇異に感じる:嵆康はあれほど傲慢なのに、子に教える時はこんなに月並みである。ここから分かるのは、嵆康も自分の挙動に満足していなかったこと。だから一人の人間の言行を評するのは実にむつかしい。世間では父に似ぬ子を「不肖」と称し、悪いと考えるが、この世にまさに自分の子が父親に似るのを願わぬ人もいるとは知らなかった。阮籍嵆康をみるとまさにそれだ。これは彼らが乱世に生まれたため、やむを得ずこうなったので、彼らの正体ではない。
 ただ又ここから魏晋の礼教破壊者という人は、実は礼教を信じ固執した極みの結果であったことが分かる。
 しかし何晏王弼阮籍嵆康の流は、彼らが高名だったから、一般人が学ぼうとしても、学べるのは表面的なものに過ぎず、彼らの本当の内心は分からなかった。ただ彼らの表面だけ学んだから、世の中には大変沢山の意味も無い空談と飲酒が増えた。多くの人は端無くも空談と飲酒だけで、ものごとを成し遂げる力も無く、政治的にも何の影響もなく、「空城の計」を玩ぶのが関の山で、実際的なことは何もなかった。文学上も然りで、嵆康阮籍は酒を欲しいまま飲んでも、文をよくしたが、後に東晋になり空談と飲酒の遺風は残ったが、嵆康阮籍の書いたような万言の大文章も無くなった。
 劉勰は「嵆康は師心を以て論を遣り、阮籍は使気を以て詩を命ず」といった。
この「師心」と「使気」は魏末晋初の文の特色で、正始の名士と竹林の名士の精神が滅んでからは、もう「師心使気」で文を作る者はいなくなった。(思うままに、意気に感じて文をつくる意)
 東晋になって気風が変わった。社会の考え方もだいぶ静かに落ち着き、各処に仏教の考えが入った。また晋末になると乱にも慣れて来て、簒奪にも慣れ、文も穏やかなものになった。それを代表するのが陶潜。彼の生き方は気ままに酒を飲み、食を乞い、うれしい時は談論して文を作り、憂いも無く怨みもない。
だから今日人は「田園詩人」という。非常におだやかな田園詩人である。彼の、生き方を真似るのは容易ではない。たいへん貧乏していても心は平静で、家に米がなければ他人の家の門に立ち、乞い求める。貧している時に来客があり、靴も無いというのでその客は家人に持ってこさせて彼に与えたら、彼は足を伸ばして喜んではいたという。(お金がない時に手を伸ばすのと同じ)
 そんな状態でも少しも気にせず、相変わらず「菊を採る東籬の下、悠然と南山を見る」。このような自然のままの生き方は、並大抵では真似できません。
 貧して服もボロボロになっても東籬の下で菊を採り、偶々頭を挙げ悠然と南山を見るとは、なんと自然のままでしょう。今日の租界に住んで花匠を雇い、数十盆の菊を植えて詩を作り「秋日菊を賞で、陶潜に效ふ」といって、自分じゃ淵明の高い心意気に合致せりと思っているが、お話になりません。
 陶潜の晋末は孔融の漢末と嵆康の魏末に略同じで、王朝の改易が将に近づいた時です。ただ彼は慷慨のそぶりは些かも見せなかったので「田園詩人」の名を博しました。但し「陶集」の「述酒」篇は当時の政治に触れている。これを見ると彼も世事について決して遺忘したとか冷淡ではないことが分かる。只彼の生き方が嵆康阮籍よりずっと自然だったに過ぎず、人の注意を引かなかっただけだと知れる。
 もう一つの原因は前述の如く習慣の問題で、当時の飲酒の風習は受け継がれるに従い、何も奇怪に感じなくなり、且また漢魏晋と伝わって時代もたいした差は無いのに変遷が極めて頻繁で、見慣れてしまったらもうそんな感触もなくなり、陶潜が孔融嵆康より穏やかなのは当然のことでしょう。例えば、北朝の墓志には官位の昇進は往往詳細に書いてあり、仔細に見ると二三の王朝に出仕しているが、当時は特に奇とも思わなかった。
 私の考えでは、たとえ昔の人といえども、詩文がまったく政治を超越した、
所謂「田園詩人」「山林詩人」というのはいない、と思います。人間世界を完全に超越した人もいない。この世を超越したのなら、当然、詩文すらもない。
詩文は人の営みで、詩があるということから世事を忘れることができなかったことが分かります。
 墨子の兼愛、楊子の「為我」(利己)がいい例です。墨子は当然文を書くので
すが、楊子は本來、文を書くべきではありません。それこそが「為我」なので
す。もし本を書いて人に見せたらそれは「人の為」になってしまうからです。
 このことから陶潜は塵世を超えられず、朝政に気があったことが知られます。
「死」も忘れられず、それも彼の詩に出ています。別の見方から研究すると、
旧説と違う人物になりそうです。
 漢末から晋末の文章の一部の変化と薬と酒の関係は私の知る限り大概こんな
ところです。学識も浅く詳細な研究も無いのに、このような暑い雨の日に、
諸君の多くの時間を費やしてすみませんでした。この辺で終わりにします。
(本講演録は1927年8月に何回かに分けて「民国日報」副刊「現代青年」に
掲載された:出版社注)

訳者雑感:
 魯迅は「食人」の元祖である礼教を徹底的に批判し破壊することでしか、
腐敗した中国を変革できないと、いろいろな場面で書いている。
 それは礼教を道具として使い、「不孝」という罪名で人を殺す為政者への反抗であった。
 「魏晋の気風」と題した講演の中で、魏晋時代に礼教を損壊しようとした
嵆康阮籍たちは、実は本当は迂遠なまでの礼教信奉者であって、礼教を道具として人を殺して天下を簒奪した司馬氏などは、実際は「たいして礼教を信じていなかった」と喝破している。
 この講演を青年たちに話しかけている広州の魯迅は、本心は礼教を信じていたのだが、乱世の為政者たちが、手あかのついた「礼教」で人を殺し、人を食らうのを許しておけないという激しい気持ちであったのだろう。
 彼自身は子供のころから「礼教」で教育を受け、科挙の試験に合格するために礼教の書物を諳んじるように何度も何度も読んできて、礼教の教えが漢民族に骨の髄までしみとおっていることを本当に感じていた。
 30年以上の内乱の後、共産党が政権を執り、社会主義を標榜して国家建設を行ってきたが、30年前から、マルクスとは手を切り、独自の経済改革を実施し
沿岸地域では飛躍的な経済的発展を遂げた。だが腐敗と格差は日を追うごとに
深刻になってきている。それをなんとかしなければならない。
 3月中旬の温家宝首相の記者会見での「腐敗問題が大変大きな危険をもたらす
状態にある」からそれを人々が批判監督して正さねばならない、というのは切実な問題である。腐敗はどの国にもあるが、中国の地方政府の首長とその部下らの腐敗は実に眼を蓋いたくなるほどひどい。精神的な支柱を失った人々には、他により所がなく、自身の利を第一に追求するという腐敗しか残ってない。
温首相の切実なる願いは彼自身が「憂国不謀身」で国を憂い、自己の利を謀らない、という生き方を、全国の首長たちが学んでくれることだろう。
 21世紀の今日、礼教は再びそれを使って精神的支柱のよりどころにしようと
考える為政者によって、蘇生しつつあるようだ。
孔子の巨大な像が天安門前広場に建てられた。中国の新聞に「孔子再就職」と
見出しが大きく出た。元の職場に!
  2011/03/21訳

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新時代の金の貸し方

もう一つ新しい「世故」の話。
以前私は金貸しは金持ちと思っていた。近頃はそうでもないと悟った。「新時代」には精神的な資本家がいることを知った。
 もし君が中国は沙漠のようだと言ったら、この資本家はやって来て、私は泉だという。世間は冷たいと言うと私は発熱体という。暗いと言えば太陽という。
 ああ!この世の立派な看板はみな持って行かれてしまった。
それだけではない。彼は君を潤し、暖め、照らしてくれるという。
彼は泉であり発熱体で、また太陽であるから。
 これは恩典である。それだけじゃない。君が小さな財産を持っていたら、それは彼が君に与えてくれたものだ。なぜか?もし彼が共産を提唱したら、君の財産は公に供せねばならぬが、提唱しないから、君の今の財産があるのであって、それは当然のことながら彼が君に与えて呉れたことになる。
 君に恋人がいるならそれも彼が与えて呉れたものだ。なぜなら彼は天才で革命家だから、多くの女性が渇仰して身を投じる程で、彼がひと声「おいで」と言えば、みなとんでゆく。君の恋人もその中にいる。だが彼は「おいで」と言わないから、君の今の恋人がいるわけだ。それで当然のことながら彼が君に与えて呉れたのだ。これも一恩典だ。
 それだけじゃない!彼が君の所へ来る時は毎回一担の「思いやり」を持って来る!百回だと百担。もしそれを知らないなら、それは君が心の目をもっていないからだ。一年経ったら利子に利子がつき二三百担…。
 ああ!これもまた大変な恩典だ。
 そこで計算してみると大変なものだ。こんな大きな資本を貸してやって、一人の魂も買えぬというのか?革命家は遠慮深いから、君に対して何もお礼は要らぬから自由に使ってくれという。――実際は使う所まではゆかず、「手伝う」だけに過ぎぬが。
 もし君が命令通り「手伝」わねば、その罪は大変重い。忘恩負義の罪として天下に布告される。それだけには留まらず、更にもっと沢山の罪をエンマ帳に載せ、一旦革命が成功したら君はもう「身は敗れ名は裂け」てしまう。
そうなりたくなければ、一筋の道しかない。急いで「手伝って」贖罪するのだ。
 私は不幸にも「新時代の新青年」の身辺にこうしたエンマ帳が沢山隠されているのを見てしまった。そして彼らも「身は敗れ名は裂け」ることにたいへんな脅威を抱いていることも知った。
 それでまた新たな「世故」を得た:門を閉ざし、酒瓶の栓をしっかりしめ、
札入れをしっかり握って離さない。こうすれば私は潤いと光と熱をしっかり保持できる。私は物質的なものしかみない。 
      九。十四。

訳者雑感:
 この段は比喩に富んで、理解するのが難しい。最後の物質的なものしかみない、というのが鍵だ。
 一旦は魯迅に師事してきた青年たちが、矛先を変えて攻撃に転じた。青年たちのエンマ帳には魯迅を攻撃する罪状がいっぱい書かれている。
 物質的な金貸しは、金さえ返せばそれで精算できる。魯迅は父の病のために
質屋に通って、金を工面した。多分質草は取り出すことは無かったろうが。
しかし、この段で触れている精神的な金貸しは、泉や熱や太陽という看板を掲げて、それに「思いやり」までくっつけて、彼らの仕事を手伝えと命じる。
手伝わなければ、忘恩負義の罪状を天下に布告する。それが「新しい青年」たちの「金貸し」の手法であった。そんな「青年」たちへの「決別状」とみる。
    2011/03/10訳


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想定外

 有恒氏の「北進週報」での、なぜ私が近頃発言しないのかとの質問に対しては、すでにお答えしたが、もう一つのことにはお答えしていない。
答えないということ、これも新しい「世故」だろうか。
 私の雑感は「罵り」にあふれている。だが今年発見したのは、私の罵りは、罵られた人にとっては、どうやらとても有利になるということだ。
 罵られたと宣伝すると、よりはっきりと分かりやすい事は言うまでも無い。それに
1.世の中には私を憎いと思っている人が多いので、罵られた人は、私を憎んでいる人と連合し、私の雑感を見せれば、彼らの義兄弟の契りとなり、「相見て笑い、心に逆らうことなし」となる。「おお!我々は仲間だ」と。
2.ある人がある事業をやって、うまくゆかぬとする。それに私が何か言えば、私に罪をかぶせられる。例えば、学校を作ったが、教師が集まらぬ時;魯迅が悪口を言ったせいだ:学生が騒ぎを起したら、魯迅が悪口を言ったせいだ。
と云う具合である。彼は清廉潔白で責任は無い。
 私はキリスト教を学んだこともないから、誰がすき好んで彼に替わって十字架を背負うことなどしてやるものか。
 しかし「江山は改めやすいが、人の本性は改め難い」というから多分そのうち、何か発言するだろう。しかし「新法」を定めた。かつて名を出した「主将」たち以外の新しい人に対しては、本名は伏せ「ある人」「某学者」「某教授」「某君」とする。こうすれば彼は私を(逆)宣伝に使う時、何か説明をしなければ使えないだろう。
一般的には「罵る」というのは良いことではないと思う人が多いが、ある人にとっては有利に働く。人間は究極的には非常に恐ろしい生き物である。
例えば人を咬み殺す毒蛇でも、商人はそれを酒に漬けて「三蛇酒」「五蛇酒」という名を付けて金儲けをする。(魯迅を毒蛇として利用する意)
 実際彼らのやり方は、(文章で)「交戦」するよりずっと厳しいものだから、雑感を書こうという気を喪失させる。
 しかし、気を取り直して、書く気になれないという雑感を書いてみるか。

訳者雑感:
 論敵は魯迅に罵られたことを逆手にとって、彼ら同士で手を握り、魯迅を
毒蛇に仕立て上げ、さらには思いもよらぬことだが、それを彼らの雑誌や本の中で宣伝して酒に漬けた文章にして売って儲ける。
 それで魯迅は本名を出して罵ることをやめた。相手が利用できないように。
河川や山は土木工事で姿を変えるのは容易いが、人の本性は改め難い。彼は
死ぬまで本性を改めることはなかった。
想定外だった敵のやり方も「世故に長けて」敵の本名を伏せて魯迅の名を使えないようにした。
  2011/03/09訳

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憎たらしいという罪

 これも新しい「世故」だろうか。
 法律上、多くの罪名はもっともらしい名が付いているが、一言で言えば:
憎たらしいという罪であり、ある人物をそう思ったら、少し懲らしめてやろうとする所から法ができた。もし広州で「清党」(蒋介石の共産党及び国民党左派鎮圧運動を指す)前なら、蔭で彼は無政府主義者だと言いふらせば良い。すると共産青年は彼を「反革命」とし有罪となる。「清党」後なら彼はCPとかCY
(いずれも共産主義者)とすれば良い。確証がなければ「親共派」という。すると、清党委員会は彼を「反革命」で有罪にする。やむを得ない時は他の事由にかこつけて法に訴える。だがそれはやはり少し面倒だ。
 以前人は有罪だから銃殺され、投獄させられると私は思っていた。今やっと分かった。多くの場合、まず人から憎たらしい奴だと思われ、ついには罪を犯したことにされるのである。
 多くの罪人は本来「憎たらしい奴」と改称されるべきだ。
     9.14.

訳者雑感:
1920年代の混乱した社会情勢で、自分が気に入らない、憎たらしいと思った相手を投獄したり銃殺するには、「反革命」というレッテルを貼りさえすれば事足りた。この方法は文化大革命の時も踏襲された。最初は一握りの
資本主義の道を歩む「走資派」を投獄の対象にしてやり玉にあげていたが、その後、内部分裂で2派に分かれ、武器を使って相手の組織に殴り込みをかけて、
「械闘」という名の殺し合いを始めた。数千万人の犠牲者が出た。
 自分に都合の悪い、自分に反対する相手、憎たらしいと思ったらすぐ反革命とか何かの罪状をつけて投獄するのが、当時と文革時の共通のやりかただった。
今はどうなっているのであろうか?
  2011/03/09訳

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「公理」の在りか

 広州の某“学者”が“魯迅の文章はもう終わりだ、「語絲」も読む必要無い”と言った。その通りだ。私の文章はすでに終わっており、去年書いたものは今年もそのまま使えるし、多分来年も使えるだろう。だが私はそれが10年20年後もそのまま使われることがないよう心から望む。もしそうなら、中国もおしまいだ。私にとって、それは自慢できることかもしれないが。
 公理と正義はみな“正人君子”に持って行かれたので、私の手元には何も無い。これは去年書いたことだが、今年もそのままである。だが手元に何も無いとはいえ、それをなんとか探し出そうと一生懸命やっている。ちょうど無一文のひとりもんが、いつも銭のことばかり考えているのと同じだ。
 私の話は終わってはいない。今年、公理の在りかを発見したのだ。発見とは言えないとしても、それが実際はどこに在るかを証明した、と言える。北京の中央公園に白い石碑があり大きな字で“公理戦勝”と彫ってある。――Yes. 
それだ。(第一次大戦で中国も公理を持つ側として参戦して勝ったの意)
 この四字の意味するところは“公理を持つ者が勝った”即“勝ったのは公理”だというわけ。
 段(祺瑞)執政は衛兵を持ち、“孤桐先生”は教育相として、請願に来た学生に発砲して勝った。それで(支持者の)東吉祥胡同に住む“正人君子”たちの“公理”がふつふつと興隆してきた。ところが段執政が隠退し“孤桐先生”も下野した。嗚呼、それで公理もそこから霊落した。どこに行ったのか?
(国民党)の銃砲が(古典的武芸の)投壺をしていた(旧政権)に勝った。
阿! (公理が)あった。南方にあったのだ。彼らはぞくぞく南下した。
 正人君子たちも久しぶりに“公理”に会えた。
私は「現代評論」の一千元補助金にこれまで口出ししてこなかったが、“主将”が私を引きずり込んで乱罵した――多分私を“首領”とみなしてだろう。何を言っても罵られ、言わなくても罵られる。それで返盃して自称“現代派”の君たちに問いたい。
今年突然計画を変更し、別の運動を起して、新しい勝利者から補助金を受け取ったのではありませんか?と。 
そしてもう一つ、“公理”の値段は一斤何元?と。
(1927年10月22日の「語絲」に掲載)

訳者雑感:
26年夏からアモイ広州にいた間、魯迅はそれまでのような切り口の文章を書かなかった。それで読者からはなぜ書かないかと問われるし、論敵からは魯迅の文章はもう終わった、と罵られた。魯迅のこの時期に書いた文章が、1年経っても2年経っても、そのまま通用してしまうほど、社会は何も変わっていない。よけい混乱するばかり。魯迅は自分の書いたものが、20年30年経ってもそのまま使えるようでは中国もおしまいだと慨嘆している。
「公理」はその時の執政府に存しており、学者風を吹かす正人君子たちは、
その公理を持っている政権にすり寄って、ポストと権力を得ようとする。
それは21世紀の今日も変わっていない。
それから100年経ってもなお使える文章を、使わせないようにしている点も似ている。
 「勝てば官軍」中国の学者文人は政治と関わって生きてこそ、その実用性が認められたと考える「俗物臭」の強いのと、そこに嫌気がさして隠居するものと大きく二分される。朱前首相は学者であり大学の行政にも携わっていたが、
首相になり、10年全力を尽くして経済改革に貢献したが、任期終了と同時に
政治の世界からあっさりと身を引いた。上記の二分の中に入らない例外である。
2011/03/05訳

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「語絲」拘留

以下は「語絲」147号の「随感録」28を見て感じたこと。
この半年、購読している刊行物は「北新」以外、完全に届いた物は無い:「莾原」
「新生」「沈鐘」、日本の「斯文」は、内容は全て漢学で末尾の「西遊記伝奇」
があり、演義と比較しようと思っていたのだが、2冊目は欠け、4冊目以降は
杳として行方不明。「語絲」は6期分が未着で、後に書店で補充したが126号と143号は買えなかったので、内容については何も知らない。
 入手不能の刊行物は、遺失せしや?没収されしや?両方だろう。没収は北京、天津か上海、広州か?各地で発生したと思う。何故か?理由は知る由もない。
 確かなのは以下の点。「莾原」も一期拘留されたが、それには訳があって、ロシアの作品の翻訳が載っていたため。当時はロシアの露の字だけで十分魂消、動揺し、とうぜん時代や内容にまで顧慮が及ぶ暇はなかった。但し、韋叢蕪の「君山」(長詩集)も拘留された。この詩書は“赤”とも“白”とも言えぬ、まさに作者の年齢と同じ“青”なのだが、郵便局に拘留された。
黎錦明さんからの手紙に、「烈火集」送付と書いてあり、書店に頼んだが、
彼らが忘れるのではと心配で、別に一冊郵送してくれた由。半年経ったがどちらも届かぬ。十中八九没収か。火の色は“赤”だし、況や“烈”をや。通る筈がない。
「語絲」132号が届いたのは発行後6週後で、封筒に緑の大きな字で「拘留」の二字。検査機関の印と封印紙が貼ってあった。開封すると「猓猓人の創世紀」
「無題」「寂莫礼記」「撤園荽」「蘇曼珠とその友人」などすべて禁を犯しそうなものではない。「来函照登」(投稿者欄)を見たが、“情死”“情殺”等があるが、たいしたことはない。今どきそんなことはお構いなしだ。ただ「閑話拾遺」は、この号には特に少なく、二件しかない。一つは日本のことで、多分禁を犯しているようなものはない。もう一つは“清党”の残虐さを訴える手紙が来たが、
「語絲」としてもこれを載せたくなかった由で、そのせいか?だが載せなかったということを書いて、どうしてそれでダメになったのか?さっぱり分からない。それに拘留しておいてから、今になってなぜ放免したのか、何が何だか訳が分からない。
 その訳の分からぬ根源は検査員にあると思う。
中国では、一旦、事があるとまず郵便電報を検査する。この検査に当たる長は
(師団の)団長や(軍区の)区長であるケースが多く、彼らとは漢文詩歌の話は余りできない。だが、たとえ読書人だといっても、その実態は、特に所謂
革命の土地では、何を言ってもラチがあかない。直截で痛快な革命訓練に慣れ、
全てに革命精神を持ち出し、油が水面を蓋ったように、水面下の栄養を取ろうとしない。だからまず刊行物の封筒に労働者の姿を描き、手にスコップかハンマーを握らせ、“革命!革命!”“打倒!打倒!”と印刷しておけば、たいていは合格となる。今は青年軍人が馬上に旗を掲げる絵に、“厳格に取締まれ”と
描いておけば、大抵放免される。“風刺”“ユーモア”“反語”“閑話”などになると、理解が難しくて困ったことになる。理解できないから、訳が分からなくなり、その結果、さんざんな目に遭う。
 更に悪いことには、一日中検査で頭はボーっとなり、目も疲れて嫌気がさし、怒りっぽくなり、大抵の刊行物は悪い――特に理解できないようなものは厳重に取締まるべし、となる。それに関連するが、ページの縁を切らないのは、私もそれを始めた者だが、当時、別に悪意があった訳ではない。後に方伝宗さんの通信(「語絲」129号参照)で、縁を切らない装丁の提唱者を憎むべしとあり、少し立腹したが、方さんは図書館員だそうで、つまらぬ縁切りをするのは、怒りたくもなろうし、切らない党を罵るのも、むべなるかなと思ったことである。
 検査員も同じで、長くやると怒りっぽくなり、初めは細かく注意して見たが、のちには「烈火集」も怖くなり(著者の)君山も疑わしくなり、一番穏当な道:
拘留を択ぶことになる。
 2か月前の新聞に、某郵便局は拘留刊行物が多すぎて、置き場に困り、一律焼却した由。それを見て心が傷んだ。私の分が何冊かその中にありそうだ。嗚呼、
可哀そうに!吾が「烈火集」よ!吾が「西遊記伝奇」よ!吾が…!
 ついでにページを切らない件の愚痴をいうと、北京で出版に関係していた頃、
自分としては暗黙の中で、三つの緊要ともいえない小改革をしようとした。
1.首頁の書名と著者名は非対称とする:2.各篇の第一行の前に数行の余白:
3.即ち頁の縁を切らない。
これまでの結果は、1は既に香炉燭台型に戻った。2はどんなに頼んでも印刷時に職人が一行目の字を端に移してしまい、「馬耳東風」:3は最も早い反撃に遭い、ほどなく私も条件付き降伏。李社長と約束し:他は構わぬが私の著書は、切らないでくれと頼んだ。だがそれが今では、社長から送られてくる5部或いは10部は切ってないが、書店にはそんなのは一冊も置いてない。縁を切り取った「彷徨」の類が並ぶ。要するに彼らの勝ち。だからいうのじゃないが、私が社会改革とか、それに関連したことをやろうしていると思うのは、まったくの冤罪に過ぎない。さっきから頭はボーっとしてきたので板のベッドに横になり、“彩鳳牌”の紙巻き煙草を吸った。
 本題に戻ると、刊行物が暫時釘にぶつかるのは、検査員に遭遇するからだけでなく、多分本を読む青年たちも同じだと思う。先に述べた如く、革命地域の文字は直截痛快に「革命!革命!」ということで、これこそ「革命文学」だと考えている。 かつてある刊行物で見たのだが、あとがきで、作者が本編は革命のことに触れていないので、読者にすまない、申し訳ないと書いていた。しかし「清党」以後、この「直截痛快」の他に神経過敏が加わった。「命」は当然革しなければならないが、余りに甚だしい革命は宜しくない。度を越した「革」は過激に近いし、過激は共産党に近く「反革命」に変じるのだ。だから現在の「革命文学」はこの種の反革命の固執と、共産党のこの種の反革命の中間にある。
 それで問題が起こり、「革命文学」はこの両方の危険物の間にあり、如何にその純正――正宗を保つかだ。この勢いは赤化の思想と文章及び将来、赤化に走る懸念のある思想と文章を防がねばならぬことになる。例えば、礼教(儒教)
と白話(口語文)への攻撃は即赤化の心配がある。共産派は一切の古い物を無視し、口語文は「新青年」から始まり「新青年」は即ち(陳)独秀が始めたものだから。
今北京教育部の口語文禁止の通達を見て、「語絲」はきっと何らかの感慨を出すと予想するが、実は私は何も動じなかった。思想的文章すら至る所で窒息している状況下、白話だの黒話だのもはや関係ない。
 ならば、風月を談じ、女のことなどどうであろう。それもダメ。それは「不革命」である。「不革命」は罪は無いが正しくない。
 現在南では「革命文学」という一本の丸太橋しかないから、外から来る多くの刊行物は渡ることができず、ドボンドボンとみな川に落ちる。ただこの
直截痛快で神経過敏の状態の大半は実は指揮者の刀に従って変転するので、今
切先の鋭い指揮刀の方向が定まっていない。方向が定まれば良くなるだろう。
しかしそれもいくらかは、という程度だ。中の骨子が多分窒息から出られぬのは、先天性遺伝のためだ。
 少し前たまたま新聞で郁達夫氏を罵倒している記事を見た。彼の「洪水」の文章は良心のかけらもなく、漢口(政府)におもねっている、という。買って読んでみたが旧式の英雄崇拝でもはや現代の潮流に合わないというだけで、別に悪意は見られなかった。これは眼力の鋭鈍の差の証であり、私と現在の青年文学家との間にはもう大きな溝がある。だから「語絲」の不思議な失踪も我々自身、訳が分からないだけで、上記の検査員云々は、仮定の話にすぎぬ。
 145号以降は全部届いた。多分上海の分のみが拘留されたのだろう。もし本当に拘留されたのなら、それは呉(稚暉)老先生とは関係ないと思う。
 “打倒!打倒! 厳格に、厳格に!”というのはもとより老先生の手になるので、責任は免れぬが、多くのことは彼が手ずから下したものではない。中国では凡そ猛人(広州方言で有名且つ有能、そして何事にも顔の効くという三種を
兼ね備えた権勢家、ここでは呉氏を指す)は常にこの種の運命にある。
 どんな人も猛人になると、“猛”の大小を問わず彼の身辺には取り巻きが水も漏らさぬよう取り囲む。その結果、内部的には当の猛人は徐徐に凡庸になり、勢いデクに近い状態になる。対外的には他の人に猛人の真の姿を見させず、取り巻きの曲折を経て、幻を示現させる。幻の姿はというと取り巻きのプリズムか凸レンズか凹レンズかで異なる。偶々、猛人の身辺に近寄る機会があって、
取り巻き達の顔と言葉づかいを見ると、他の人たちとの応対とどれほど違うかが良く判る。外部から、猛人の親しく信用している人間の顔を見ると、デタラメかつ傲慢放縦な点は、その猛人が重用しているのはこんな人物かと思う。殊に、彼はそれがとんでもない大まちがいとは知らぬことだ。猛人の目には彼が
物腰の柔らかな実直で重用に値する人物で、話もとつとつとして顔を赤らめたりする。一言で言うなら、“世故に長けた老人”も時に、はたで見ていて決して悪くは思えないほどだ。
 しかし同時にこのデタラメな取り次ぎと度を越したへつらいが起こり、運の悪い人、刊行物、植物、鉱物はみな災難にあう。だが猛人は大抵何も知らぬ。
北京の故事を知っている人なら、袁世凱が皇帝になろうとした時のことを覚えているだろう。朝刊を見るのでも、取り巻きは、民意は彼を擁戴し、世論は一致して賛成という新聞を別途印刷して見せた。蔡松坡が雲南で起義をした段になって、「あれー!」のひと声。続けざまにマントウ20個を口に入れたのも気づかぬ有様。だがこの劇もすぐ幕が下り、袁公も龍に乗せられお陀仏となった。
 取り巻きはこの倒れた大樹からすぐ離れ、新たな猛人を探し求めた。
かつて「取り巻き新論」を書こうと思った。まず取り巻きの方法を述べ、次に中国は永遠にこの道をたどることを論じ、原因は即ち取り巻きにあり、猛人はいつでも出て来ては倒れるという興亡を繰り返すが、取り巻きは相も変わらずこのようなてあい。次に猛人が取り巻きから離脱できれば、中国は5割がた救われると論じ、結末は取り巻き離脱法。――しかし最終的には良い方策が見つからず、この新論はまだ手がつけられていない。
 愛国志士と革命青年よ、私の計画倒れで目録だけで文章が無いと責めないで欲しい。考えてはいるのだが、かつて二つの方法を思いついたが、もう一度
考え直したら、役に立たないことが判明した。
一。猛人が外部の状況を見に行く時、前もって下見とか露払いをさせるなと言うとする。露払いなぞなくても、人は猛人に会うと大抵まずは本来の状況を変えてしまうので、真相はつかみようがない。
二。いろいろな人と広範に接し、特定の一部の人に取り巻かれることの無いようにすること。だが、これも久しくするとどうしても一つの群れが勝利を収め、この最後の勝利者の包囲力は最も強大で、要するに古くからあるそのままの
運命で、龍に乗ってお陀仏となる。
 世の中の事はくるくると螺旋のようだ。「語絲」は今年南方では特に釘にぶつかるケースが多く、新しい境地に入ったようだ。どうしてだろう。これは私は容易に答えられる。
「革命いまだ成らず」は当地で常に目にする。だが私はこれはどうやらすでに
謙遜語になっており、後方の大部分の人の心は「革命はすでに成功」或いは
「革命はまもなく成る」のようである。すでに成功、或いはまもなく成るというなら、自分たちも革命家で、中国の主人公だから、全てのことを管掌する権利と義務がある、と思っている。
 刊行物は一小事とはいえ、やはり管理監督の対象で、赤化の恐れのあるものは勿論、けしからぬ事を書くのは、「反革命」に近い気持ちがあり、少なくとも人を不快にする、そして「語絲」はいつも物事を冗談ではすませないという悪い癖が抜けず、時に失踪を免れない。蓋し、なおそんな事は小事に過ぎぬが。
                   九月十五日

訳者雑感:
 広州という革命の策源地に来た魯迅は、広州の人々がもう「革命は成功」したと天狗になって、中国の主人公として、全てを管理監督し、全国に号令する
という思い上がりを、雑誌拘留という一小事に例をとって分析している。
 広州政府の取り巻き達は、北京の発行する雑誌すらも「反革命」とみなして
それらを差し押さえ拘留する。その時の方法は今と何と似ていることよ。
赤化を怖れて「火」「烈」などの言葉が入っているのは検閲の結果、中身がなんであれ、拘留となる。
 インターネットの現代の拘留方法は、天安門、チベットなどの文字がある書き込みは全て削除されたし、テレビも真っ黒な画面に変じた。最近ではエジプトという国名が入っているのも削除された。
 魯迅の指摘するように、検査官は四六時中検査ばかりで目も疲れ、頭もボーっとなって、中身まで検査する気もなくなり、単語だけで拘留するのが手っ取り早いということ。
 袁世凱の取り巻きが最後まで民意が彼が皇帝になるのを賛成していたという物語は、有名な話だが、上海の新聞でそれに反対する記事がでたとき、その部分を刷り直して彼に見せたというのは、まさに「裸の王様」だ。歴代王朝の末路はこのような取り巻きによって、滅亡の運命をたどった。
 ムバラクやカダフィなどの周囲でも似たようなことが起こっているのだろう。
    2011/03/04訳

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