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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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魏晋の気風(きっぷ)及び文章と薬&酒の関係

今日の話は黒板に書いたテーマについてです。
 中国文学史は本気で研究すると容易ではありません。古い物は材料が全く少ないし、新しいのは多すぎます。それでまとまった文学史はまだありません。これから話すのはその一部で材料も少なく、研究もとても困難なのです。
我々がある時代の文学を研究しようとするとき、最低作者の環境と経歴、著作を知る必要があります。
 漢末魏初の時代は大変重要で、文学でも重大な変化が起き、黄巾と董卓の大乱後、且つ党錮の争いの後です。この時曹操が現れました。――曹操と言うとすぐ「三国志演義」を連想し、舞台のあの隈取りの奸臣を思い浮かべますが、
それは曹操観察の正しい方法ではない。歴史を振り返ると、その記載と論断はときどき極めてあてにならない、信じられない点が大変多い。それは通常我々が知っているのは、長期間続いた王朝にはいい人が多く;短いのには大抵いい人間がいないことでわかります。なぜでしょう?長い王朝の歴史を書くのは本朝の人で、当然本朝の人を持ちあげるが、短いと別の王朝の人が書くので、自由に前の王朝の人を貶斥するからで、それで秦にいい人は一人もいない。曹操の時代は頗る短く、次の王朝の人に悪く言われる例から逃れられません。しかし曹操は良くやった人で、少なくとも英雄といえましょう。私は曹操の一党ではありませんが、何はともあれ、非常に敬服しています。
 当時の文学を研究するのは先人のお陰で少し楽になりました。文集としては清の厳可均の編輯した「全上古三代秦漢三国晋南北朝文」があります。その中で役立つのは、「全漢文」「全三国文」「全晋文」です。
 詩では丁福保の編輯した「全漢三国晋南北朝詩」――丁福保は医者で今も
健在です。
 この時代の文学評論を輯録したのは劉師培編の「中国中古文学史」で、これは北大の講義録で劉先生は亡くなられましたが北大が出版しました。
 上記三冊は研究にたいへん役に立ちます。この時代の文学が異彩を放っていることが明確に読み取れます。今日話すのは劉先生が著書に詳述されているところは簡略にし:劉先生が略されている所を詳しく話します。
 董卓後、曹操が権力を握った。彼の治下で一番の特色は刑名を大事にした事。
立法は大変厳格で、大乱の後のため、みなが皇帝になろうと反乱を企てたのでこうせざるを得なかった。彼自身かつて「もし私がいなければ何人の男が王や
帝を称したことか!」と言った。これはまんざら荒唐でもない。そのため文章にも影響があり、清峻な風格を成した。――即ち文章は簡約で厳明な意味を持たねばならぬ、と。
 このほかの特色は通脱を大事にした点。小事にこだわらぬ豪放さ。彼はなぜそうしたのか?当時の気風と大きな関係がある。党錮の禍以前、凡そ党内の人はみな、自ら清流を任じたが、「清」を前面に出しすぎ固執してしまったので、
漢末になると清流の挙動がとてもおかしなものになった。
 一例として、名士の処へ普通の人が訪問する際、まず何か話をし、それが気に入らないと傲慢な処遇を受け、屋外に坐らされ、会見そのものを拒否された。
 又ある人は姉の夫と気が合わないのだが、姉の家で食事をした後、金を払おうとする。姉は要らないというと、彼は門を出てからその金を道に捨て、払ったことにして帰る。
 個人的にこんなことをしても大したことにならぬが、天下を治める時にこんなことを執拗に行ってはたまったものではない。それでこうした弊害をよく知っていた曹操はこの気風に反対し、通脱を提唱した。通脱とは自由気ままの意。
この提唱は文壇に影響し、思ったまま、そのまま書いた文章が沢山生まれた。
 考え方も通脱の後、固執を排除し異端と外来の考え方も十分容れることができたので、儒教以外の考え方も次々に導入された。
 まとめると、漢末魏初の文は清峻で通脱と言える。曹操自ら文章改造の祖師でもあるが、残念ながら彼の文は余り伝わっていない。彼は大胆で、文も通脱で大変力強い。文を書くときは何の忌非も気にせず、思ったことを書いた。
それで曹操は人材を求める時もこう言った。不忠不孝の者も構わぬ。才覚さえあれば良い。これも他の人はとても言えないことだ。曹操の詩は「鄭康成は酒を飲み、地に伏せて気絶した」と言う表現で、つい直近のできごとを取り上げたが、これも他の人はとてもできない事。更に人が死ぬ時、遺言を書くが、それは名士にとって超モダ―ンなことで、当時の遺言は決まった格式があり、死後何処どこに埋葬すべしとか、或いは某名士の墓の傍らにというのが多かった:だが彼は違う。彼の遺言は格式張らぬだけでなく、内容も服と伎女をどう処置すべきかなども書いた。
 陸機は「世の謗りを後王に残す」と書いたが、私はなにはともあれ、聡明な男だと思う。文を書くだけでなく、それを実行する手段も持っており、天下の方術師、文士を統べて網羅してしまい、外に逃れて悪さをせぬようにした。
それで彼の帷幄には方術師文士がうじゃうじゃいた。
 孝文帝曹丕は長子で父業をつぎ、漢を簒奪して帝位に即いた。彼も文章が好きで、弟の曹植と明帝曹叡はみな文章を好んだ。その時、通脱の他に華麗が加わった。丕は「典論」を書き、現在完本は残ってないが、その中に「詩賦は麗を欲す」「文は気を以て主とす」とある。「典論」の細かい断片は唐宋の類書(検索用の断片を集めたもの)にあり:整った形の「論文」は「文選」にある。
 その後、一般の人は彼の意見を適切とは思わず、彼の言う詩賦は必ずしも教訓を寓する必要はないとか、詩賦は寓意を持つようにすべきということに反対するとの見解は、近代の文学の観点からすると、曹丕の時代は「文学の自覚時代」或いは近代でいう芸術の為の芸術(Arts for Arts Sake)の一派です。
だから、曹丕の詩賦はたいへん素晴らしく、更には「気」を主としたため、華麗の上に壮大さが加わりました。
要するに、漢末魏初の文章は「清峻、通脱、華麗、壮大」と言えます。文学的見地では曹丕と曹植は表面的には差があります。曹丕は、文章は名声を千載に留めることができる:だが曹植は、文章は小道で、論じるに足りぬという。
 私は曹植は、心にもないことを言ったと思う。二つの原因があり、第一に
植の文章はたいへん素晴らしく、人は大概自分のしたことに不満を感じ、他人を羨む者で、彼の文章はすでにたいへんうまいので、文章は敢えて小道と言った:第二、植の活動目標は政治に在り、その方面で志を得られなかったので、文章は無用とまで言ったのだと思う。
 曹操曹丕以外に更に次の七人がいる:孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨、みな文章の達人で後に建安七士と称された。七人の文は少ししか残っていず、我々にはなかなか判断できない:ただ大抵は「悲憤慷慨、華麗」な文で、
華麗は曹丕の主張したもので、慷慨は天下大乱に際し、親戚朋友が乱で死ぬ者が特に多く、文は悲涼と激昂と慷慨となるのを免れなかった。
 七士の中では特に孔融は曹操と悶着を起すのを好んだ。曹丕は「典論」で孔融を論じたため、彼も「建安七士」に列せられた。だがそれは正しくない。
全く別のものだ。だが当時彼の名声は非常に高く、孔融は文を作る時、好んで諷嘲の筆法を用いたので、曹操は大変不満だった。孔融の文章は今日、少ししか残っていないが、それらをすべて見ると、他の人は余り諷嘲しておらず、曹操だけに向けられている。曹操が袁氏兄弟を破った時、曹丕は袁煕の妻、甄氏を自分の物にしたことに対し、孔融は曹操に出状し、武王が当初、紂を征した時、妲妃を周公に与えたと説いた。曹操が出典はと問うと、現在を以て、古に比すと、大抵はこの通りだと説いた。また曹操が禁酒を命じ、酒は国を亡ぼすゆえ禁じねばならぬ、というと、孔融は反対し、女は国を亡ぼすとも言うが、なぜ婚姻を禁じないのか?と反問した。
 実は曹操も酒を飲んだ。彼が「何を以て憂いを解くや?ただ杜康(酒の意)のみ」という詩を見ればそれが分かる。どうして彼の行為と論議に矛盾が起きたのか?彼のせいではない。彼は政治の当事者だから、そうせざるを得ぬが、
孔融は傍観者ゆえ、好き勝手なことが言えたためだ。曹操は彼が何回も反抗するので、別のことにかこつけて殺してしまった。彼は次の二点を主張したため多分不孝の罪だったであろう。
 第一、孔融は母と子の関係は瓶の中の液体と同じ。瓶からそれを注いだら、
母子の関係は完了したとみなした。第二、天下に飢饉が起きた時、少し食糧があったら、父に食べてもらうかどうか?彼の答えは:もし父が良くない人間なら、他の人に与えるも可也でした。曹操は彼を殺そうと思い、こういう発言を彼の不孝の証として殺してしまった。曹操が生きていたら訊いてみたいものです。最初、人材を求める時、不忠不孝でも構わぬと言っていたのに、なぜ不孝の名で殺してしまったのか?しかし事実はもし彼が生き返っても誰も訊けまい。もし訊いたら、たちどころに殺されてしまうでしょう!
 孔融と同じく曹操に反対した者に、袮衡がいた。後に黄祖に殺された。袮衡の文も実にいい。彼と孔融は、当初「気を主として」文を書いた。だから漢代の文が壮大になったのは、時代が然らしめたのであって、曹操親子の功というだけではない。ただ華麗で見栄えが良いのは曹丕の提唱した功である。
 かくして明帝の時に文は大きく変化した。
 それは何晏が出たためである。
 何晏の名声は大変なもので、地位も大変高く「老子」「易経」の研究を好んだ。
彼がどんな人間だったか、真相は分からぬし調査も難しい。曹氏の一派だったため、司馬氏は彼を嫌った。だから彼らの何晏への記述は不満一杯で、そのため、多くの伝説を生み、彼は顔におしろいを塗っていたと言う人もおり、生まれつき白い顔でおしろいは塗っていないという人もいた。結局のところは私も良く判らない。
 だが次の二点はみな良く知っている。第一、空談を好み、空談の祖師。第二、
薬が好きで服薬の祖師と云われる。
 それ以外に名理を論じるのも好んだ。体が弱いので、薬は飲まざるを得ない。
それも尋常のものではなく、「五石散」という薬を飲んだ。
 これは一種の毒薬で、彼が初めて飲んだ。漢代、皆は怖がって飲まなかったが、何晏は少し処方を変えて飲んだ。五石散の基本は大抵五種の薬:石鍾乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂。このほか、別の薬も入っているかもしれない。但 今はその中身を細かく研究する必要も無い。皆さんも飲みたいとは思わんでしょう。
 本にはこの薬は大変な良薬で、飲めば弱い体も強くなる。それで彼は裕福だったから飲み始め:皆も倣って飲みだした。その当時、五石散の流す毒は清末のアヘンと同じで、服薬しているかどうかで、金持ちかどうかが分かった。今、
隋の巣元方の「諸病源候論」にその一部が見られる。これに依ると、この薬を飲むのは大変面倒なことが分かる。貧乏人はとても飲めない。たとえ飲めてもちょっと注意を怠ると毒死してしまう。飲んだ初めは何ともないが、後から薬が効いてくると大変なことになるので「散発」という。もし「散発」しないと、弊害が出て来て、なんの薬にもならない。そのため、飲んだ後休んでいてはだめで、歩かねばならない。歩いて始めて「散発」が可能となる。それで歩くことを「行散」という。六朝の詩にある:「城東に行散す」というのがそれです。
後世、詩を作る人がそれを知らず「行散」を歩行の意味と考え、服薬しなくても「行散」の2字を詩に書いたが、おかしな話である。
 歩行後、全身が発熱し、その後悪寒がする。普通悪寒には服を重ね着して熱い物を食べるが、服薬後の悪寒はそれとは逆に、服を脱いで、冷食し、冷水を浴びるのです。もし沢山着て熱い物を食べると死んでしまう。それゆえ五石散は一名、寒食散という。ただ一つだけ冷たくなくても良いのが酒です。
 この薬を飲んで、服を脱ぎ、冷水を浴び、冷食し熱燗を飲む。こうすると五石散を飲む人の多くは厚手の服を着る人が少なくなる。例えば広東でこれを提唱したら、1年後には洋服を着る人はいなくなるでしょう。肌から発熱するため、体にぴったりした服は着られない。皮膚が服と擦れて傷つかないようにゆったりした服でないとだめです。今日多くの人が晋の時代は軽やかな皮衣に緩やかな帯、寛いだ服を着ているから当時の人たちは高逸だと思っているが、実は彼らが服薬していたためだということは知らない。あるグループの人たちが服薬して寛いだ服を着ると、服薬しない名士たちも彼らに倣って寛いだ服を着始めた。
 又、服薬後皮膚が擦れて傷つきやすいので、靴は不便で靴下も穿かず、サンダルをはいた。だから晋人の画像や当時の文を見ると、寛衣で靴をはかずサンダル履きできっと気持ちがいいし、瓢逸だと思うが、実は心中は大変苦しいのです。
 そして皮膚が傷つきやすいので新品の服は着られず、古着の方が良いし、あまりこまめに洗うわけにはゆかず、洗えぬから虱が増える。それで彼らの文中での虱の地位は高く「虱をつぶしながら談ず」は当時、美事と伝えられた。もし私が講演中に虱を始めたら、みっともないと言われましょうが、当時は構わない。習慣の違いだからこれは正に清朝でアヘンを吸うのを提唱したのと同じで、我々は両の肩の聳えた人を見ても奇怪な男とは思わなかったのと同じです。
今日では通じませんが、多くの学生の肩が一の字のようになっていたらとても奇怪に思うでしょう。
 このほか、散を飲む時の状態や諸般のことが分かる本に葛洪の「抱朴子」がある。
 東晋になると偽物が増え、路傍で横になり、「散発して羽振りの良さ」を示した者も出た。丁度清の時代に読書を尊び、墨を唇に塗って、ついさっきまで字を書いていたと言わんばかりの格好と似ている。それで私は、ゆったりした服でサンダル履き、ザンバラ髪等は、後世の人が倣ったもので服薬しない者もまねたのであって、(彼らの)理論提唱とは無関係だと思います。
 また「散発」は空腹ではダメで、冷食を掻きこむように早く食べねばならず、間を置かず、一日何回かも決まっていなかった。そのため、晋の時代には
「喪中も礼を無くす」というようになった。――元来魏晋時代は父母への礼はたいへんやかましかった。例えば、人を訪問する時、その前に必ずその人の父母と祖父母の名を訊き、諱(いみな)を避けねばならない。さもないと一言でも口から発せられたら、もしその人の父母が亡くなっていたら、主人は大声で泣き出すし、――父母を思い出すから――大変なことになる。
 晋の礼は喪に在っては痩せて、食事も少なくし、酒も飲めないのだが、服薬後は命の為にそんなことも言っておられず、おおいに食らうしかない。だから、
喪に在っても礼をとやかくいわない、となる。
 喪に居る時にも酒食するのは、羽振りの良い名流が唱え万民もこれに従った。
それでこれらの人を名士派と尊称するようになった。
 散を飲むのは何晏が始めたが、彼と同志の王弼と夏侯玄の二人も彼と同じく服薬の祖師で三人が唱え、多くの人が真似た。彼ら三人は文章もうまく、夏侯玄の作品は余り残ってないが、王と何の二人の文は今も見ることができる。彼らは正始(年間)に生れたので、「正始の名士」という。
 但、この習慣の末流は服薬するのみ或いはしまいには飲んだふりをするだけで、文章は書けなかった。
 東晋以後、文を書かず清談に流れたのは「世説新語」に見られる。そこでは空論ばかりで文章は少なく、三人に比べると大きな違いがある。三人の内、王弼は二十余歳で若死にし、夏侯と何の二人は司馬懿に殺された。二人は曹操との関係から、死ぬ他なかった。それはちょうど曹操が孔融を殺した時と同様、不孝という罪名を着せられた。
 二人の死後、論者の多くは魏とのからみで罵っているのだが、何晏が罵られるに値するのは、服薬の発起人だからで、この風習は魏晋から隋唐まで続き、唐になって「解散方」というのまでできた。即ち五石散を解毒する処方で、まだ五石散を飲んでいた者がいた証だ。しかしだいぶ減ったであろう。唐代以降
誰も飲まなくなったが、その理由は未詳。多分弊害が多く、利が少ないためで
アヘンと同じか?
 晋の名士、皇甫謐は「高士伝」を書いた。彼はさぞかし高邁な人だと思われているが、服薬していて、自ら服薬の苦しみを書いている。薬が効きだすと少しでも注意を怠ると、命を落とす。少なくとも大変な苦しみを味わい、発狂しそうになり、聡明な人も痴呆になる。だからしっかりと薬性を知って、救助法を会得し、かつ家族もよくその薬性を知っておかねばならない。晋の人はカンシャク持ちが多く、高慢で発狂し、性質も火の如く荒っぽいのは多分服薬のせいで、ハエがうるさいと言って、剣を抜いて追いかけた:話をしても馬鹿げたのが良いとして、時には全く瘋癲に近い。だが晋代には痴を良しとするのまで
現れたが、これも多分服薬のせいだろう。
 魏末、何晏たちの外にもう一つのグループが現れた。「竹林名士」といい、
七人なので「竹林七賢」ともいう。正始の名士は服薬したが、竹林名士は飲酒。
竹林の代表は嵆康と阮籍。但し、竹林の名士は酒を飲むだけでなく、嵆康は服薬もした。阮籍は飲酒専門の代表。だが、嵆康も飲酒し、劉伶も同じ。彼ら七人はたいてい皆、旧礼教に反抗した。
 この七人の性癖はそれぞれ異なる。嵆康阮籍の両名の性癖は雄大で:阮籍は老年になって良い方に向かったが、嵆康は始終ひどかった。
 阮は若いころ、彼を尋ねて来る人に対して、青眼と白眼で区別した。白眼とは多分まったく瞳が見えぬ状態なのだが、長いこと練習してモノにしたのだろう。青眼なら私もできるが、白眼はうまくできぬ。
 後に阮籍は「人の良しあしを口にしない」境地に達したが、嵆康はまったく改めなかった。その結果、阮籍は天寿を全うしたが嵆康は司馬氏の手で殺された。孔融何晏などと同じく不幸にも殺害された。これも多分服薬と飲酒の差のせいか:服薬は仙(人)になれ、仙人は俗人を侮る:飲酒では仙人になれず、
いい加減のところでお茶をにごす。
 彼らのふるまいは、飲酒するときはたいてい衣服も冠も脱いでしまう。通常こんな状態だと我々は無礼だと思うが、彼らは違った。喪のときも慣例通りに泣くとは限らず、子は父の名を呼んではいけないが、竹林七賢たちは、子は父の名号を呼ぶことができた。今まで伝わって来た旧礼教では、竹林七賢を認めなかった。劉侯――彼は皆さんご存知の「酒徳頌」を書いたが、――世間で昔から定められてきた道徳を守らず、こんなこともありました。ある時客が面会に来た時、彼は服を着なかった。客が責問すると、答えて曰く:天地は我が家、
家は我が服、君たちはなぜ我が褌の中に入って来たのだ?と。
 阮籍などさらに大変で、上下関係も古今の違いも認めず、「大人先生伝」に、
「天地は解け、六合は開け、星辰は隕(落ち)日月は頽(たいす)、我、騰(ほん)して上に昇って何を懐かんか?」とあり、その意味は、天地神仙はみな無意味で、すべて不要だから世上の道理はもう争う必要も無く、神仙も信ずるに足りぬ。一切が虚無なのだから。酒を飲んで暮らすのが一番。それにもう一つの理由は、飲酒は単に彼の考えに依るだけでなく、大半は環境のせいである。
その当時、司馬氏が位を簒奪していたが阮籍の名声は大変高かったので、何か
発言しようとしても極めて困難だったから、酒を増やして発言を減らすほか無かった。万一ヘンな発言しても酒のせいにして許しを得た。一度司馬懿(出版社注には司馬昭が正しい、以下同じ)阮籍に縁談を申し入れたが、阮籍は二ケ月間ずっと酔い痴れて、申し込みをさせなかった、というので分かる。
 阮籍の文と詩は大変すばらしい。彼の詩文は慷慨激昂してはいるが、多くの意味を隠して顕わさぬ。宋の顔延之すら余り分からぬと言っているほどで、
我々は今日、当然ながら余り理解できない。詩に神仙を説くが、本心は信じていない。嵆康の文は阮籍より上で考えも新しく、多くは当時の旧説に反対している。孔子曰く:「学びて時に之を習う、亦説しからずや?」嵆康の「難自然、
好学論」は違っている。人は決して学びを好まず、もし何もしなくても飯が食えたら、自由に閑遊し、勉強など好きにならぬだろう。今日人が好学というのは、習慣からやむを得ずというだけだ、という。更に管叔蔡叔は、周公を疑い、
殷の民を率いて謀叛したから誅され、いままで悪人とされてきたが、嵆康の
「管蔡論」は従来の意見に反対し、この二人は忠臣で、周公を疑ったのは互いの場所が大変離れていて、消息が不正確なためだったとしている。
 しかし一番多くの人の注意を引き、命に危険をもたらしたのは「山巨源と絶交する書」の「非湯武而薄周孔」である。司馬懿はこの文章により嵆康を殺した。湯・武・周・孔を非薄(否定)するのは今日では大した問題ではないが、当時は大変なことであった。湯武は武力で天下を平定した:周公は成王を補佐し:孔子は堯舜を祖述し、堯舜は天下を禅譲した。嵆康はそれらをすべて良くないとした。そうすると司馬懿が位を簒奪するにはどうしたらよいのか?やりようがない。この一点で嵆康は司馬氏の為政に直接の影響が出てきて、死ぬ他無くなった。嵆康が殺されたのは友人の呂安の不孝が彼にも及んだためで、罪名は曹操が孔融を殺したのと同じ。魏晋は孝で天下を治めたから不孝は殺さねばならない。なぜ孝で天下を治めたか?天子の位を禅譲でうまいこと奪ってきたから、もし忠で天下を治めるとなると、彼らの立脚点が揺らぎ、こともうまく運ばなくなってしまい、立論できなくなる。従って孝で天下を治めねばならない。ただ単に不孝だけならたいしたことにはならないが、嵆康はそれを論じだしたのだ。阮籍は彼と異なり、倫理上のことはあまり触れず、それで彼の結末も異なった。
 とはいえ魏晋人もすべてゆったりした服を着て、飲酒ばかりしていたわけではない。反対の者も多い。文章では斐頠の「崇有論」があり、孫盛の「老子大賢に非ず論」がある。これらの書はすべて王・何たちに反対したものです。史実では何曾が司馬懿に阮籍を殺すよう何回も勧めたが、彼は聞き入れなかった。それは阮籍の酒のせいであって、時局との関わりは少なかったためだという。
 しかし後世の人は嵆康阮籍を罵り出した。人は次々に罵倒し続けて今日まで1,600年余。季札は:中国の君子は礼儀に明るいが、人心を知ることに暗い、という。これはその通りで、おおよそ礼儀に明るければ、必ず人心を知るのに暗いので、古来多くの人は冤罪を受けた。例えば:嵆康の罪名はこれまで礼教を損壊したとされてきた。だが、私の個人的な意見では、この判定は間違いだ。
魏晋時代、礼教崇拝は大変なものだったように見えるが、実際は礼教を壊してしまっており信じてはいなかった。表面上礼教を損壊した者が、礼教を認め、大変信じていた。魏晋の時代、所謂礼教を崇拝していたのは、自分たちの利益のためで、その崇拝も偶々崇拝したというに過ぎず、曹操が孔融を殺したことや、司馬懿が嵆康を殺したのも、すべて彼らは不孝と関わりあったためだが、実際には曹操も司馬懿もなんら著名な孝子でもないし、その名目で自分に反対した者を罰したのだ。そこでまじめに生きている人は彼らがこれを利用して、礼教を汚し(冒涜し)たと考え、それに不満を持ったものたちの極みは、他に
なすすべもなく、憤慨して礼教を論じなくなり、信じなくなり、ついには反対するまでになった。――だが実際にはポーズだけに過ぎず、本心は礼教を信じ、大事な宝として、曹操や司馬懿より迂遠なほどに固執していた。もっと分かりやすい比喩で言うと、ある軍閥が北方で――広東の人の北方と私のいつもいうのとは限界が少し違い、私の北方は山東山西直隷河南辺りですが――その軍閥は以前は国民党を弾圧していたのだが、後に北伐軍が勢力を持つと、青天白日旗を掲げて、自分もつとに三民主義を信じており、総理の信徒だと言う。
それでも不足だとして総理の記念週間を催す。このとき本当の三民主義の信徒は、それに参加するかどうか?参加しなければ、お前は三民主義に反対したから罰すると言って殺されます。しかし彼の勢力下ではほかに方法は無く、本当の総理の信徒は、三民主義を口にしなくなる。或いは人が嘘っぱちのことを言うと、眉をしかめるから、あたかも三民主義に反対しているような格好になる。
 従って、魏晋に礼教に反対したといわれている人の多くもこんな具合だったと思う。彼らは迂遠な人々で、礼教を宝のように大切にしていた。
 もう一つの実証は凡そ人々の言論思想行為は、もし自分が正しいと思えば、世の中の人も自分の友人も皆同じようにするように、と願うはずだ。但し嵆康
阮籍はそう思わず、自分を摸倣するのを願わなかった。竹林七賢に阮咸と云う者がいた。阮籍の甥で同じになってよく飲酒した。阮籍の子、阮渾も仲間に加わろうとした時、阮籍は加わる必要なしといい、一族にはすでに阿咸(阿は名の前に付ける称)がいるからそれで十分だ、と。もし阮籍が自分の行為が正しいと思うなら、子を拒否しないだろう。だが拒否したということから、阮籍は自分のやり方が良いとは考えていなかったことが分かる。
嵆康は彼の「絶交書」を見れば、態度の驕傲なことが分かる:一度など、家で鉄を打っていて、彼は鉄を打つのが好きで、鐘会が訪ねて来た時もただ打つのみで、彼に取りあわなかった。鐘会は面白くないから帰るほかなかった。その時嵆康は口を開いて、「何を聞いてきて、何を見て帰るや?」と訊ねた。鐘会応えて曰く「聞いてきたことを聞き、見るべきことを見て帰る」。これも嵆康が殺されることになった禍根の一つ。
しかし私は彼が子に見せるために書いた「家戒」――嵆康が殺された時、子はまだ十歳で、これを書いた時は十歳未満――を見ると、全く別人のように感じる。彼はその中で、子に成人になる為の注意として、一条一条と教訓を書いている。上司の所へはそう頻繁に行ってはならない。泊ってもいけない:上司が客を送り出す時、彼の後ろに居てはならぬ。将来彼が悪い人間を処分する時、
お前が蔭で密告したとの嫌疑を受けるから。もう一つは、宴席で口論が始まったら、すぐその場を去るように。(傍らで批評しなくてもすむように)両者の間で、きっとどちらが正しいかと云う事になり、批評をせねば納まりがつかず、
どうしても甲乙是非を付けねばならず、片方から怪しからんと恨まれないようにするため。又人が酒を勧めたら、飲みたくなくても決して断ってはならぬ。
必ず和気あいあい杯を挙げるべし。
 こうみてくると、実にとても奇異に感じる:嵆康はあれほど傲慢なのに、子に教える時はこんなに月並みである。ここから分かるのは、嵆康も自分の挙動に満足していなかったこと。だから一人の人間の言行を評するのは実にむつかしい。世間では父に似ぬ子を「不肖」と称し、悪いと考えるが、この世にまさに自分の子が父親に似るのを願わぬ人もいるとは知らなかった。阮籍嵆康をみるとまさにそれだ。これは彼らが乱世に生まれたため、やむを得ずこうなったので、彼らの正体ではない。
 ただ又ここから魏晋の礼教破壊者という人は、実は礼教を信じ固執した極みの結果であったことが分かる。
 しかし何晏王弼阮籍嵆康の流は、彼らが高名だったから、一般人が学ぼうとしても、学べるのは表面的なものに過ぎず、彼らの本当の内心は分からなかった。ただ彼らの表面だけ学んだから、世の中には大変沢山の意味も無い空談と飲酒が増えた。多くの人は端無くも空談と飲酒だけで、ものごとを成し遂げる力も無く、政治的にも何の影響もなく、「空城の計」を玩ぶのが関の山で、実際的なことは何もなかった。文学上も然りで、嵆康阮籍は酒を欲しいまま飲んでも、文をよくしたが、後に東晋になり空談と飲酒の遺風は残ったが、嵆康阮籍の書いたような万言の大文章も無くなった。
 劉勰は「嵆康は師心を以て論を遣り、阮籍は使気を以て詩を命ず」といった。
この「師心」と「使気」は魏末晋初の文の特色で、正始の名士と竹林の名士の精神が滅んでからは、もう「師心使気」で文を作る者はいなくなった。(思うままに、意気に感じて文をつくる意)
 東晋になって気風が変わった。社会の考え方もだいぶ静かに落ち着き、各処に仏教の考えが入った。また晋末になると乱にも慣れて来て、簒奪にも慣れ、文も穏やかなものになった。それを代表するのが陶潜。彼の生き方は気ままに酒を飲み、食を乞い、うれしい時は談論して文を作り、憂いも無く怨みもない。
だから今日人は「田園詩人」という。非常におだやかな田園詩人である。彼の、生き方を真似るのは容易ではない。たいへん貧乏していても心は平静で、家に米がなければ他人の家の門に立ち、乞い求める。貧している時に来客があり、靴も無いというのでその客は家人に持ってこさせて彼に与えたら、彼は足を伸ばして喜んではいたという。(お金がない時に手を伸ばすのと同じ)
 そんな状態でも少しも気にせず、相変わらず「菊を採る東籬の下、悠然と南山を見る」。このような自然のままの生き方は、並大抵では真似できません。
 貧して服もボロボロになっても東籬の下で菊を採り、偶々頭を挙げ悠然と南山を見るとは、なんと自然のままでしょう。今日の租界に住んで花匠を雇い、数十盆の菊を植えて詩を作り「秋日菊を賞で、陶潜に效ふ」といって、自分じゃ淵明の高い心意気に合致せりと思っているが、お話になりません。
 陶潜の晋末は孔融の漢末と嵆康の魏末に略同じで、王朝の改易が将に近づいた時です。ただ彼は慷慨のそぶりは些かも見せなかったので「田園詩人」の名を博しました。但し「陶集」の「述酒」篇は当時の政治に触れている。これを見ると彼も世事について決して遺忘したとか冷淡ではないことが分かる。只彼の生き方が嵆康阮籍よりずっと自然だったに過ぎず、人の注意を引かなかっただけだと知れる。
 もう一つの原因は前述の如く習慣の問題で、当時の飲酒の風習は受け継がれるに従い、何も奇怪に感じなくなり、且また漢魏晋と伝わって時代もたいした差は無いのに変遷が極めて頻繁で、見慣れてしまったらもうそんな感触もなくなり、陶潜が孔融嵆康より穏やかなのは当然のことでしょう。例えば、北朝の墓志には官位の昇進は往往詳細に書いてあり、仔細に見ると二三の王朝に出仕しているが、当時は特に奇とも思わなかった。
 私の考えでは、たとえ昔の人といえども、詩文がまったく政治を超越した、
所謂「田園詩人」「山林詩人」というのはいない、と思います。人間世界を完全に超越した人もいない。この世を超越したのなら、当然、詩文すらもない。
詩文は人の営みで、詩があるということから世事を忘れることができなかったことが分かります。
 墨子の兼愛、楊子の「為我」(利己)がいい例です。墨子は当然文を書くので
すが、楊子は本來、文を書くべきではありません。それこそが「為我」なので
す。もし本を書いて人に見せたらそれは「人の為」になってしまうからです。
 このことから陶潜は塵世を超えられず、朝政に気があったことが知られます。
「死」も忘れられず、それも彼の詩に出ています。別の見方から研究すると、
旧説と違う人物になりそうです。
 漢末から晋末の文章の一部の変化と薬と酒の関係は私の知る限り大概こんな
ところです。学識も浅く詳細な研究も無いのに、このような暑い雨の日に、
諸君の多くの時間を費やしてすみませんでした。この辺で終わりにします。
(本講演録は1927年8月に何回かに分けて「民国日報」副刊「現代青年」に
掲載された:出版社注)

訳者雑感:
 魯迅は「食人」の元祖である礼教を徹底的に批判し破壊することでしか、
腐敗した中国を変革できないと、いろいろな場面で書いている。
 それは礼教を道具として使い、「不孝」という罪名で人を殺す為政者への反抗であった。
 「魏晋の気風」と題した講演の中で、魏晋時代に礼教を損壊しようとした
嵆康阮籍たちは、実は本当は迂遠なまでの礼教信奉者であって、礼教を道具として人を殺して天下を簒奪した司馬氏などは、実際は「たいして礼教を信じていなかった」と喝破している。
 この講演を青年たちに話しかけている広州の魯迅は、本心は礼教を信じていたのだが、乱世の為政者たちが、手あかのついた「礼教」で人を殺し、人を食らうのを許しておけないという激しい気持ちであったのだろう。
 彼自身は子供のころから「礼教」で教育を受け、科挙の試験に合格するために礼教の書物を諳んじるように何度も何度も読んできて、礼教の教えが漢民族に骨の髄までしみとおっていることを本当に感じていた。
 30年以上の内乱の後、共産党が政権を執り、社会主義を標榜して国家建設を行ってきたが、30年前から、マルクスとは手を切り、独自の経済改革を実施し
沿岸地域では飛躍的な経済的発展を遂げた。だが腐敗と格差は日を追うごとに
深刻になってきている。それをなんとかしなければならない。
 3月中旬の温家宝首相の記者会見での「腐敗問題が大変大きな危険をもたらす
状態にある」からそれを人々が批判監督して正さねばならない、というのは切実な問題である。腐敗はどの国にもあるが、中国の地方政府の首長とその部下らの腐敗は実に眼を蓋いたくなるほどひどい。精神的な支柱を失った人々には、他により所がなく、自身の利を第一に追求するという腐敗しか残ってない。
温首相の切実なる願いは彼自身が「憂国不謀身」で国を憂い、自己の利を謀らない、という生き方を、全国の首長たちが学んでくれることだろう。
 21世紀の今日、礼教は再びそれを使って精神的支柱のよりどころにしようと
考える為政者によって、蘇生しつつあるようだ。
孔子の巨大な像が天安門前広場に建てられた。中国の新聞に「孔子再就職」と
見出しが大きく出た。元の職場に!
  2011/03/21訳

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