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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「塵影」への題辞

 私自身、今中国は大きな時代に向かいつつあると感じる。ただこの大きなというのは、必ずしもこれで生を得られることを指すのではなく、そしてまたこれで死ぬのでもない。
 愛に身を献じた者の多くがこれで亡くなった。その前に、意中のそして且つ意外な戯れを玩んで、愉快と満足、単に美しいとか派手さを、当事者でありながら、ただ傍観している人たちに贈った:と同時に何人かの人たちに重圧も与えた。
 この重圧が除去されてはじめて、死ではなく、生が得られる。これが大きな時代の意味である。
 異性に愛を見、百合花に天国を見、石炭ガラを拾う老婦の魂に拝金主義を見、世界が機関銃の庇護下の仁義で治められている今この時、この場所で、このようなニュースを耳にすると、実に気分が良い。美酒を飲むごとしである。
 しかし「塵影」がもたらしたのは重圧であった。
 今日の文芸は往々、人の気分を害すが、それもまた仕方がないことである。
でなければ、自ら文芸から逃げ出すしかない。または文芸から人生を推し出すしかない。
 誰がこれ以上に仁義と金のために実態を描き、三筋の「けがれた」血のために真に迫る描写をできようか?
「塵影」を読んでみた。その愉快さと重圧はいろいろな人たちの心に留まることであろう。
 しかし、結末で、「塵影」は私にうまい酒を飲ませてくれた。
 作者は(殺された熊履堂の子の幼稚園生)小宝を留まらせ、その後小宝が死を得たのか生を得たのか教えてくれない。作者は我々が受け止められぬほどの重圧を感じるのを願わない。それは良いことだ。我々は今中国が大きな時代に向かっていると感じているからだ。
      1927年12月7日 魯迅 上海にて
訳者雑感:
 「塵影」という黎錦明の作品を読まなければ、雑感すら持ちえないだろう。
出版社注のあらすじは蒋介石の国民党が「清党」を行った前後の、田舎の土豪劣紳と国民党軍官が結託して、革命勢力を襲撃しようとするのに敢然と立ち向かって殺された人たちの物語の由。父親が殺された小宝は幼稚園から、「打倒列強、軍閥排除!」という歌を歌いながら帰るのだが、結末はどうなったか教えてくれていない。しかし魯迅はこうした作品が出てきたこと、それに大きな時代に向かっていると感じて、題辞を書く気になったに相違ない。
         2011/04/04訳

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