もう一つ新しい「世故」の話。
以前私は金貸しは金持ちと思っていた。近頃はそうでもないと悟った。「新時代」には精神的な資本家がいることを知った。
もし君が中国は沙漠のようだと言ったら、この資本家はやって来て、私は泉だという。世間は冷たいと言うと私は発熱体という。暗いと言えば太陽という。
ああ!この世の立派な看板はみな持って行かれてしまった。
それだけではない。彼は君を潤し、暖め、照らしてくれるという。
彼は泉であり発熱体で、また太陽であるから。
これは恩典である。それだけじゃない。君が小さな財産を持っていたら、それは彼が君に与えてくれたものだ。なぜか?もし彼が共産を提唱したら、君の財産は公に供せねばならぬが、提唱しないから、君の今の財産があるのであって、それは当然のことながら彼が君に与えて呉れたことになる。
君に恋人がいるならそれも彼が与えて呉れたものだ。なぜなら彼は天才で革命家だから、多くの女性が渇仰して身を投じる程で、彼がひと声「おいで」と言えば、みなとんでゆく。君の恋人もその中にいる。だが彼は「おいで」と言わないから、君の今の恋人がいるわけだ。それで当然のことながら彼が君に与えて呉れたのだ。これも一恩典だ。
それだけじゃない!彼が君の所へ来る時は毎回一担の「思いやり」を持って来る!百回だと百担。もしそれを知らないなら、それは君が心の目をもっていないからだ。一年経ったら利子に利子がつき二三百担…。
ああ!これもまた大変な恩典だ。
そこで計算してみると大変なものだ。こんな大きな資本を貸してやって、一人の魂も買えぬというのか?革命家は遠慮深いから、君に対して何もお礼は要らぬから自由に使ってくれという。――実際は使う所まではゆかず、「手伝う」だけに過ぎぬが。
もし君が命令通り「手伝」わねば、その罪は大変重い。忘恩負義の罪として天下に布告される。それだけには留まらず、更にもっと沢山の罪をエンマ帳に載せ、一旦革命が成功したら君はもう「身は敗れ名は裂け」てしまう。
そうなりたくなければ、一筋の道しかない。急いで「手伝って」贖罪するのだ。
私は不幸にも「新時代の新青年」の身辺にこうしたエンマ帳が沢山隠されているのを見てしまった。そして彼らも「身は敗れ名は裂け」ることにたいへんな脅威を抱いていることも知った。
それでまた新たな「世故」を得た:門を閉ざし、酒瓶の栓をしっかりしめ、
札入れをしっかり握って離さない。こうすれば私は潤いと光と熱をしっかり保持できる。私は物質的なものしかみない。
九。十四。
訳者雑感:
この段は比喩に富んで、理解するのが難しい。最後の物質的なものしかみない、というのが鍵だ。
一旦は魯迅に師事してきた青年たちが、矛先を変えて攻撃に転じた。青年たちのエンマ帳には魯迅を攻撃する罪状がいっぱい書かれている。
物質的な金貸しは、金さえ返せばそれで精算できる。魯迅は父の病のために
質屋に通って、金を工面した。多分質草は取り出すことは無かったろうが。
しかし、この段で触れている精神的な金貸しは、泉や熱や太陽という看板を掲げて、それに「思いやり」までくっつけて、彼らの仕事を手伝えと命じる。
手伝わなければ、忘恩負義の罪状を天下に布告する。それが「新しい青年」たちの「金貸し」の手法であった。そんな「青年」たちへの「決別状」とみる。
2011/03/10訳
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