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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「硬訳」 文学の階級性 2


2.
だが私が最も面白いと感じたのは、引用した梁氏の文中に「我々」という
字が2か所あることで、「多数」や「集団」という気配が濃厚なことだ。勿論
作者は、一人で執筆しているのだが、気分は一人ではなく「我々」というのも
間違ってはいないし、読者に力強さを感じさせ、一人だけの双肩で責任を負っているのではない。しかし「思想が統一できぬ時」「言論が自由であるべき時」
正に梁氏が資本制度を批評するのと同様、ある種の「弊害」もある。例えば、
「我々」には我々以外の「彼ら」があり、新月社の「我々」は私の「死訳の
風潮を放置してはいけない」と考えるが、それとは別に、読んでも「何も得る所は無い」とは思わない読者もおり、私の「硬訳」はまだ「彼ら」の中に生存していて、「死訳」とは一定の区別があるのだ。
 私も新月社にとっては「彼ら」の一人で、私の訳と梁氏の求める条件とは、
全てが異なるからだ。
 あの「硬訳を論ず」の冒頭に、誤訳は死訳に勝るとして:「一冊の本に断じて
全てが曲訳というものはありえない…部分的に曲訳、或いはそれが間違いであり、読者を誤解させたとしても、またその間違いが大きな害を及ぼすかもしれぬが、結局は読者が爽快に感じるのだ」という。最後の2句は、圏点をつけても良いくらいだ。私はこれまでそんなことはしたことも無い。私の訳は元来、読者の「爽快」を博すためではない。往々にして不愉快にさせ、甚だしきは、憂鬱にさせ、憎悪させ、憤慨させるものが多い。読んで「爽快」になるというのは、新月社の面々の訳で:徐志摩氏の詩、沈従文凌叔華氏の小説、陳源氏の閑話、梁実秋氏の評論、潘光旦氏の優生学、それにバビット氏の人文主義がある。
 だから梁氏が後文にいうように:「こういう本は地図で探すように、指で語法の脈絡関係を探りながら」云々というのは、とてもおかしなことに思える、
言わずもがなではないかと思う。私に言わせれば、「こういう本」を読むのは、
地図で探すように指で「語法の脈略関係」を探るように読むものなのだから。
地図で探すのは「楊貴妃出浴図」や「寒季の三友(松竹梅)図」を眺めるような「爽快」さ、は無い。甚だしきは、指で探る(というのは多分梁氏自身がそうしているからで、地図を見慣れている人は、目だけで簡単に探せる)ことも
せねばならぬこともあろう。但し、地図は死図ではない:だから「硬訳」は
同じ労を費やすけれど「死訳」とは「一定の差」がある。ABCDを習ったから、
自分は新学派だと任じていたとしても、化学方程式とは関係なく何も分からないとか、ソロバンができるから、算術家だと自任していても、やはり筆算での
演算を重視するなら、やくたいもない。
 今の世の中、一人の学者が全てのことに関わりあうことはできない。
しかるに、梁氏はその例外で、「前後の文章が無いから、意味は判然としないが」と言いながら、私の訳を三段引用しているのだ。また「文学に階級性はあるか」という文でも似た手口で2首の訳詩を引用して「きっと偉大な無産文学はまだ出現していないから、私は待つことにしよう。待ってみよう。待とう」と。
 この方法は誠に「爽快」だ。しかし私はこの月刊「新月」の創作――そう、
創作なのだ!――「引っ越し」の第8ページから一段を引用しよう。
「ヒヨコに耳はあるの?」
「ヒヨコに耳が有るのを見たことはないわ」
「それなら、どうやって私の声が聞こえるの」
彼女は一昨日、四(よん)おばさんが教えてくれた、耳は音を聞くため、目は
ものを見るためにある、ということを思い出していた。
「この卵は白い鶏のなの、黒い鶏のなの?」枝児は四おばさんの答える前に、立ち上がって、卵を触りながら訊いた。
「今はまだ分からない。ヒヨコに孵ったらわかるよ」
「婉児ねえさんは、ヒヨコは鶏になるのよと言ったわ。このヒヨコたちも鶏に
なるの?」
「餌をあげて、大事に育てれば、大きくなるよ。この鶏だって買って来た時は
こんなに大きくなかったでしょ」
 もう十分だろう。「文」は分かるし、指で脈絡を探すまでもない。しかし私は
「待って」もいられない。この一段は「爽快」でもないし、ほとんど創作とは
縁遠いしろものだ。
 梁氏は最後に詰問して曰く:「中国語と外国語は違うから…翻訳の難しさはここにある。もし二つの言葉の文法や句法が全く同じなら、翻訳という仕事は成り立たつだろうか?…句法を変換してみて読者が分かるようにするのが第一義で「辛抱強く」というのは楽しいことではないから、更に「硬訳」も「元来の
精悍な語気」を保てるとは限らぬから。
 もし「硬訳」が「元来の精悍な語気」を保てるなら、正に奇跡だろうし、それでも中国語に「欠点」があるなどと言えようか?
 私もそれほど愚かではないから、中国語と同じ外国語を探そうとか、「文法、
句法の全く同じ外国語を望んだりはしない。が、文法が複雑な言葉は、外国語に翻訳し易いし、語系として近いのは訳し易いと思う。だがやはり一つのれっきとした仕事である。オランダ語のドイツ語訳、ロシア語のポーランド語訳は
仕事ではないといえようか?日本語と欧米語はたいへんな「違い」があるが、
彼らは徐々に新しい句法を増やしていて、古文に比べて、翻訳にも便利で、しかも元来の精悍な語気を失っていない。最初はもちろん「句法の脈絡関係」を手探りしなければならず、一部の人には「不愉快」な気持ちにさせたが、
それらの過程を経て、今では同化し、自分のものとなった。中国の文法は日本の古文よりさらに不完備な点が多いが、変遷はしてきており、「史記」「漢書」ではもう「詩経」と違っている。今の口語文も「史記」「漢書」とは違っており、
いろいろ増やし、造語してきている。
 唐の仏典漢訳や、元の(モンゴル語の)詔勅の漢訳は、当時としては「文法句法詞法」など新たに作ったものだが、習慣的に使われるようになり、指でなぞらなくても分かるようになった。今また「外国語」の多くの句が入ってきて、
新造せねばならなくなり、悪く言えば硬造となった。
 私の体験ではこうして訳した方が、何句かに分けるより、元来の精悍な語気が保てるが、新造の漢訳を待たねばならぬから、そこに元々の中国語の欠点が有るわけである。何も大仰に奇跡とか、なんとかせねばと言うほどの事も無い。
 ただ「指で探りながら」とか「辛抱して」などに依存するのは不要で、そんなことは、有る人たちには「不愉快」だろう。だが私は元来「爽快」とか「愉快」をそういう諸公に献じようなどとは思ってもいないし、若干の諸君が何か
得る所が有れば、梁氏「たち」の苦楽や「何も得る所なし」などは、「私には
浮雲の如し(論語)」である。
 但し、梁氏はもとより無産文学理論に助けを求める必要も無く、依然として
御わかりになっていないのは、例を挙げると、「魯迅氏が数年前に翻訳した文学、
例えば厨川白村の『苦悶の象徴』は分からないではないが、最近訳したものは、
風格が変わったようである」と言う点だ。
 常識が少しでも有る人ならご存知だろうが「中国語と外国語は違う」が、同じ外国語でも作者各人の書き方「風格」と「句法の脈略」も大いに違うし、文章も長いのや、簡潔なの、名詞も一般的なものと専門的なものなど、同じ外国語でも難易度に差がある。私の「苦悶の象徴」の訳は今と同じで、規則に従い、句をおって、甚だしきは一字ごとに訳したが、梁氏にはおわかり戴けたようで、
やはり原文がもともと分かりやすかった故か、或いは梁氏が中国の新進の評論家の故だろう。文中に硬訳した句は比較的見慣れたものだったためだろう。
寒村で「古文観止(古典文集)」しか読んでない学者たちにとってはきっと
「天上の本」よりずっと難しいことだろう。
      2011/07/14
 
訳者雑感:
 中国語の欠点は、外国語を日本の様に音をそのままカタカナ表記で済ませ、
その意味を原義どおりに認識するということが難しいということが言われる。
アメリカを日本ではアメリカとか米国というが、中国語では美国といい、イギリスは英国でこれは多分日本が輸入したのだろうが、英明な気分が伝わる。
フランスは仏と訳していたこともあったそうだが、仏教とは無関係だとして
法律の国だから、法国。ドイツは独ではなくて徳のあるというイメージの徳国。
これは欠点であると同時に、一字一字が意味を持っているという特長でもある。
漢字の裏に秘められた意義から離れてその音だけを使うことは難しい。
日本語のカタカナ語も外来語の原義を正確に認識して使うことは非常に難しいことではある。テレビと電視、パソコンと電脳、ラジオと無線電(収音機)などの具象的な物なら認識は容易だが、デモクラシーとかコミュニズム等は李大釗の頃は、徳(デモクラシ―の頭文字)、亢(コミュニズムの頭文字)などを充てていた由。右からの縦書き、または横書きではローマ字を挿入するのは難しかっただろうから、漢字に変換せねば読みづらいこと甚だしかったろう。
今は左からの横書きが主流となり、縦書きの本は古文を除けば、殆ど見書かなくなった。しかし、左からの横書きでも日本の本のように、ローマ字のまま引用されているケースは科学書を除くと大変少ないと思う。
 外国の人名、地名はぜひともローマ字でそのまま記載して欲しいと思う。
日本で中国の人名、地名に中国音でルビを付けるようになったが、中国で東京や山田を日本音のローマ字でルビをふった文章は殆ど、見かけない。
 
 閑話休題。魯迅が本文で唐代の仏典とか元代の詔勅のモンゴル語から中国語への転換を通じて、中国語も外国語の翻訳に対応するため、変化してきたと指摘している。三蔵法師は、サンスクリット語を解したわけではないが、サンスクリット語を解する人たちにその原義を口頭で中国語の口語文に転換してもらい、それを彼の言語中枢を駆使して、文章語としての漢語に転換したものだと
言われている。音も近く意味もそれなりに正確に近い訳と感心するが、般若心経の最後のギャーティ ギャーティは音そのままにしてある。これが原義を損ねず、その意味は「かくかくしかじか」と諭すことの方が受け入れる人に力強い印象を与えるに違いないと確信したからであろう。
 魯迅がもう一つ挙げている、元代の詔勅の漢語訳のことだが、現代中国語の
文章は、ウラルアルタイ語系の言い回しに大きく影響を受けていると言われていることと関係すると思う。魯迅自身も彼の中国語は日本語の影響を受けていると認識していたと思う節がある。訳者もシンガポール、北京、上海、天津、
大連などで、日本語を解する中国人と話していて感じることは、彼らは私が日本人であることを頭のどこかに感じながら、私に向かって日本人が理解しやすいような中国語で話してくれることを、しばしば感じたものだ。彼ら同志が、
夢中になってケンカ腰で罵りあっている時のネイティブな漢語とは違うようだ。
 それは、元代のモンゴル人がモンゴル語で公布する詔勅を漢語に訳すときから、始まったのではないかと思う。元が明に追われて、又純化がなされたかも
しれぬが、次にやってきた満州族も同じようなウラルアルタイ語系の文法句法でものごとを考えしゃべるから、彼らはモンゴル人のようにモンゴル語を押し付けたりするのではなく、彼ら自身が漢語を習得する段階で、満州語の言い回しで漢語をしゃべりだしたので、満州人の役人がしゃべる漢語に合わせて、被支配者の立場であった多くの漢族官吏や商人、町民たちが彼らに理解しやすい
文法、句法で漢語を変化させていったものではないか、と思う。
古文ではS V O、我写信了、と簡潔明瞭であったが、S O Vという形も、時には便利だと感じて、 我把信写完了という口語を文章化して定着させたのではないか、と思う。本訳文体が古めかしい従来の文体より新鮮に感じたとき、
翻訳口調が定着していったのだろう。(上記の漢語は「手紙を書いた」の意)
 それにつけても、昨今の流行歌(?)、もはやこの言葉も手垢がついてしまって、殆ど使われなくなったが、歌詞の半分以上がカタカナ語、或いはローマ字
そのままの歌がなんと増えたことよ。題名そのものも英語のままで、これで
本当に日本人同志の意思疎通が図れているのか、疑わしくなるほどだ。だが、
これも、満州人に支配された漢族が漢語を変化させざるを得なかったように、
米国に占領されて映画や音楽などのアメリカ文化を浴びるほどに施されて来た影響によるものなのだろうか。戦後の20年ほどは確かに英語の氾濫が到るところで起こったが、古い日本映画や音楽も大切にされてきたし、我々世代の心に残っているものは、アメリカのものと日本のもの両方が入り混じっていると思う。それが2000年前後から、逆に殆どがカタカナ、ローマ字表記の文化に変換してきたのは、どうしてだろうか。脱漢字文化には違いない。
    2011/07/14記す。
 
 
 

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1930年 「硬訳」と「文学の階級性」

1.
 「新月」月刊集団は近頃好調らしい。噂通りのようで、私のような交際範囲の狭い男でも2人の若い友人が第267合併号を手にしていた。中身は「言論の自由」と小説が多かった。終わりの方に、梁実秋氏の「魯迅氏の『硬訳』を論ず」があり、「死訳に近い」と考えている由。そして「死訳の風潮を放置しては成らぬ」と私の3段の訳文を引用し、又「文芸と批評」の後記に私が書いた:「しかし、訳者の能力不足と中国文の欠点から、訳し終えて一読してみても、晦渋でとても難解なところが多い。複合句をばらしてしまっては、元の語気を失うし、私にはやはりこのような硬訳以外にいい方法は無い。唯一の希望は、読者が辛抱強く読み進めてくれることを願うのみ」、という文章に御丁寧に圏点をつけ、さらに「硬訳」には二重丸をつけ、「厳正」に「批評」を下して:『我々は辛抱強く読み進めたが、得る所は何もなかった。「硬訳」と「死訳」にどんな差があるというのか?』
 新月社の声明では、なんの組織もないというが、論文には無産階級式「組織」
を痛く憎んでいるようで、「集団」という言葉は、実は組織であるということで、
少なくとも政治論文については、この一冊中にもすべてが互いに「照応」して
いて:文芸についてもこの文章は、上述の同じ評論家の「文学に階級性ありや?」
という文章の余波である。その中で:「…だが大変不幸なことに、この種の本は
私に理解できるものは一冊もない。
…とても難しいと感じさせるのは、……
まったく天上の本よりずっと難しい。…現在中国人はまだだれも自分たちが分かる言葉で、我々に無産文学の理論とは一体いかなるものかを教えてくれる文章を書いた人はいない」文字の横に圏点が付けてあるのだが、印刷の手間を考え、ここでは付けなかった。要するに、梁氏は自分を全ての中国人を代表していると任じているようだが、これらの本は自分が分からぬから、全ての中国人も分からぬと考ええいて、中国ではそうしたものの命を絶つべきだとし、「この風潮を放置しておいてはならぬ」という。
 他の「天上の本」の訳著者の意見を私は代表できぬが、私個人の問題としても、事はそう簡単ではない。第一、梁氏が自ら「辛抱強く読んだ」と思っているそうだが、本当に辛抱強く読んだかどうか、できたかどうか、やはり疑わしい。辛抱強くといっても、実は綿のごとくふわふわと読んだのではないか。それは正しく新月社の特色なのではあるが。
第二、梁氏は自ら全中国人を代表しているそうだが、本当に全国の最優秀者かどうか?も問題だ。この問題は「文学に階級性があるか?」という文章から
解釈できる。Proletaryは音訳するまでもない。意訳で十分説明ができる。だが、
この評論家(梁氏)は却って言う:『辞典にはこの言葉の涵義は体裁がよくない、
「ウエブスター大辞典」には:
A  citizen of the lowest class who served the state not with property, but only having children. ……プロレタリアは国家でただ子供を産むことができるだけの階級!(少なくともローマ時代はそうだった)』この体裁をどうこう言うこともない。少しでも常識のある人なら、現在をローマ時代と同じとは考えないし、現在の無産者をすべてローマ人とは考えはしまい。それは丁度Chemieを「舎密学」(化学)と訳しても読者はエジプトの「錬金術」と混同はしないし、「梁」氏の文章もけっしてその語源まで考証して、「梁という一本の丸太橋」がペンを執っているなどと誤解はしないのと同じ。「辞典をひいて(ウエブスター大辞典を!)も、やはり「得る所は無い」と、
おっしゃるが、全ての中国人がそうだとは言えまい。
 
訳者雑感:
 本文は6部あり、扇風機だけの部屋であまり長く翻訳をすると「硬訳」どこ
ろか「死訳」になりかねないので、少しずつ雑感を交えて休憩することにした。
 魯迅は「新月社」の梁実秋氏からの攻撃に、猛然と反撃する。ウエブスター
大辞典のProletaryの英英辞典としての訳を引用することにより、ローマ時代
のプロレタリアとは「ただ子供を産むことで国にserveする」階級だという点
を強調する梁氏の「時代錯誤」を咎めるに、まさか「梁」という一本の丸太橋
或いは丸太棒が文章を書いているなどと、誰も考証はしないように、現在の
プロレタリアはローマ時代の「ただ子供を産むだけで国に奉仕している階級」
という定義とは違って来ていると反論している。
 手元の研究社の英和辞典には:
L. Proletarius furnishing the State with Children 無産階級、労働社会などとの訳が付いている。
資産を持つブルジョア
階級とその資産に勘定されていた奴隷との間の階級と言えようか。
 いずれにせよ、ウエブスターも研究社も、おおもとの英語辞典編者のプロレ
タリアという語源が「国家に子供を提供するだけの階級」という、支配者側の
作った「範疇」から説明しているのは、辞典が「支配者」「知識階級」中国で
いうところの「士大夫」「読書階級」の手になるものだということが分かる。
 中国人は人を罵るのに、相手の姓名や字を「考証」して分解、語呂合わせで
巧みに罵る。「梁」という姓も天井の梁だし、丸太橋がそもそもの意味だが、
まさか丸太橋が「高尚」な文章を物にするなどと誤解はしないよ、との皮肉。
     2011/07/10
 
 

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「二心集」 序言

 1930年から31年の2年間の雑文をまとめた。30年ごろから刊行物が段々少なくなり、予定通りに出版できぬ物もでた。日増しに厳しくなる圧迫の為、「語絲」と「奔流」は郵便局で拘留され、地方では発禁とされ、ついにたちゆかなくなった。当時投稿できたのは、「萌芽」だけだったが、それも第5期で禁止され、次に「新地」がでた。それゆえ、この1年で本集に収めたのは十篇に満たぬ。 この外、学校で2-3回講演したが、記録されず何を話したかもう定かでない。ある大学で話したテーマは「象牙の塔と蝸牛の家」で大意は象牙の塔のような(現実乖離の)文芸は今後とも中国には現れない。環境が全く違うからで、ここでは「象牙の塔」を建てる場所さえない:その代わりにまもなく現れるのは、せいぜい数戸の「蝸牛の家」のみ。それは三国時代の所謂「隠逸」の焦先が、住んでいた草庵で、多分今の(上海)北部の貧乏人の手で作られた草ぶき小屋の如きもの。それより小さく、中にはなにも無く、身をひそめて暮らすのみ。外にも出ず、動きもせず、無衣、無食、無言の生活。 当時は軍閥混戦で、いつ何時殺掠されるかもしれず、そんなことにあってたまるものかと思っていた人は、命長らえるために、そうする外なかった。但し、蝸牛の世界に文芸があろうか?だからこんな風にしていたら、中国の文芸が無くなるのは必定だ。こんな話をすること自体、蝸牛じみているが、ほどなく勇敢な青年が政府機関系の上海「民国日報」で、私を批判し、私のしたそんな話を大変軽蔑して、私には共産党の話をする勇気もないからだ、とした。
 謹んで「清党」以後の党と国のことを考えるに、共産主義の話しをするのは大罪とされるし、補殺の網は全中国に張り巡らされている。だが話さないと逆に党と国のために(働いている)青年に軽蔑される。これでは実際もう本物の蝸牛に成るの外は無い。それでやっと「罪を免れますように」との福を得る。 その頃、左翼作家がソ連からルーブルをもらっているとの説が、所謂「大新聞」とタブロイドに出、他にも紛々と宣伝し始めた。新月社の批評家も傍らから、力を込め出した。新聞数紙は先の創造社派の数名がタブロイドに載った記事を拾いあげ、私をそしって「投降」したと攻撃した。 ある種の新聞は「文壇弐臣伝」を載せ、その一人は私だとした――その後は、もう載せ無くなったようだが。 
 ルーブルのデマは何回も聞いた。6-7年前、「語絲」が北京で陳源教授と他の「正人君子」たちの話に及んだ時、上海の「晶報」に「現代評論社」の主筆、唐有壬氏の手紙を載せ、我々の言動は全てモスコーの命令に従っているとした。これ叉まさに祖伝の手法で、宋末の所謂「虜(北方の敵)に内通」:清初の所謂「(台湾で抵抗した鄭成功のいる)海外に内通」の伝で、こういう口実で多くの人を害してきた。根も葉もないことで人を陥れるのは、中国の士君子の常道で、単に彼らの識見ではなく、世の中すべてが金で動いているということが、ここから見てとれる。「弐臣」の説はとても面白いと感じた。私も反省するに、時事問題について、たとえペンを執って書いてはいなくとも、時に腹誹は免れず、「臣の罪は当に誅すべし、天皇(の仰せ)は聖明です」と言いながら、腹誹していては、けっして忠臣とは言えまい。ただ御用文学家が私に与えた(弐臣という)徽号から推察するに、彼らの「文壇」には皇帝がいるのがわかる。 
 去年偶々、F.Mehringの論文をいくつか読んだ。大意は崩壊する旧社会で、少しでも意見を異にする人、二心をもつ人は、きっと大変な苦しみに遭う、という。そしてそれを最も凶暴に攻撃陥害しようとする者は、その人と同じ階級の人だ。彼らはそれを最も憎むべき叛逆とみなし、他の階級の奴隷の叛乱より憎むべき対象ゆえ、必ず彼を除かねばならぬと考える。 古今内外、ものごとはこうでないことは無い、ということを初めて知った。正に読書は気を養うことができる。それで、それまで抱いていた「現状不満」は無くなり、「三閑集」の例に倣い、その意を換えて、本集の名とした。しかしこれは私が無産者だという証明ではない。一つの階級の中でも末期には、常に仲間同志でもめごとを起こし、騒ぎ出すのは「詩経」にもあるように「兄弟墻に鬩(せめぐ)」で――しかし最後には逆に「外に其の侮りをふせぐ」とは限らぬが。たとえば軍閥間でも年中、互いに相戦うとしても、まさかある一方が無産階級だということもあるまい。 しかも私は時に自分の事情を話しだし、どんな具合に「壁にぶつかった」か、どんな具合に蝸牛になっているのか、あたかも全世界の苦悩を一身に背負っているごとく、大衆に替って罪を引き受けている如く:当に中産知識階級分子の悪い性癖だ。ただ元々この熟知した階級を憎み、その潰滅を毫も惜しまないが、後にまた事実の教訓を受け、ただ新興の無産者のみに将来があるのは確かなことだと思うようになった。 
 31年2月から前年より量が増えたが、刊行物も異なり、文章もそれらとのバランス上、「熱風」のような簡単なものは少なく:私に対する批評を見て、ある種の経験を積み、評論もとても簡括になったようで、意図せぬ誤解を受けやすくなり、また意図的に曲解され易くなったようだ。 また、その後はもう「墳」のような論文集を出そうとか、「壁下訳叢」の如き訳文集も出さず、今回多少長い物も収め、訳文は「現代映画と有産階級」を、末尾に添えた。中国の映画は早くから流行してきたが、このように要扼した論文は少ないから、世事に関心ある人は一読の要あり、と思う。また手紙は片方だけでは読者も往往判然とせぬであろうから、必要に応じ独断で来信も載せた。 
                                       1932年4月30日之夜、編集終えて記す。

訳者雑感: 
 題名「二心集」の由来を説く序言。自らを「中産知識階級分子」と自覚しつつ、将来は「無産階級」のみにある、と記す。自分の属する階級の潰滅を毫も惜しまぬが、自分は「無産階級」ではない。そこに二つの心が生じる。 彼が今生きている社会の支配者たちを支えているのは、こうした「中産階級」であって、それを覆そうとしているのは「無産階級」であるから、彼は覆される対象の階級にいる。それでも一心にどちらかの階級のために身をさし出そうとはしきれていない。
 二つの心の中で揺れ動くが、Mehringの言うように、崩壊しつつある旧社会で、少しでも違う意見を持つ人、二心のある人はきっと大変苦しむという。彼がこの雑文集で論を戦わすのは、彼を最も憎いと思う、陳源等、彼と同じ階級に属している人間たちが相手である。違う階級の奴隷の叛乱より、同じ階級の意見を異にする相手を除かねばならぬと考えるから。  昨今の中国の同じ共産党という階級の中での「孔子像派」と「紅歌派」との争いは、江沢民氏の健康問題からどのような影響を受け、どう展開してゆくのだろうか。     2011/07/08訳

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孔子像と紅歌

2010年の正月休みに上海魯迅公園を訪ねた。
朝10時ごろ、入口の左側の広場に百名近い中高年の男女が集まって、
中央のリーダーの掛け声に合わせて、1960年代の文化大革命の頃に
流行した歌を次から次に歌っていた。「紅歌会」というそうだ。
2011年初、北京の天安門広場に巨大な孔子の像が姿を現した。
身に行こうかと考えているうちに、まもなく突然撤去された。
重慶で薄書記の指導の下、「紅歌」を歌って腐敗した社会を正そう、
社会の黒幕(やくざ、ごろつき)を徹底的に締め出そうとしている
運動が高まっていると宣伝している。
2011年の7月1日の共産党90周年で、胡主席は、幹部の腐敗や社会の
さまざまな矛盾の解決に全力を尽くすが、「文革」の手法は取らない
と声明を出した。
2011年7月7日に江沢民前主席が重体だと北京筋が認めた。
孔子像を建てたグループと「紅歌」を提唱するグループの鬩ぎ合い。
兄弟カキに鬩ぐというが、まさしく天安門というカキの両側で、
儒か紅かが鬩ぎ合っている。江氏の健康問題が影を落としている。

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魯迅著作翻訳書一覧

1921年「工人綏恵略夫」(露、アルベージェフ 中編)
 22年「一個青年的夢」(日、武者小路実篤 戯曲)
    「エロシェンコ童話集」(露 エロシェンコ)
 23年「桃色の雲」 同上
    「吶喊」(18-22年の計14篇)
    「中国小説史略」(上巻)
 24年「苦悶の象徴」(日、厨川白村 論文)
    「中国小説史略」(下巻)
 25年「熱風」(18-24年 短評)
 26年「彷徨」(24-25年 計11篇)
    「華蓋集」(25年分)「華蓋集続編」(26年分)
    「小説旧聞鈔」(旧文輯録、間に考正あり)
    「象牙の塔を出て」(厨川白村、随筆選訳)
 27年「墳」07―25年の論文と随筆(目下差し押さえられ中)
   「朝花夕拾」(回想文 10篇)(目下差し押さえられ中)
   「唐宋伝奇集」10巻 (輯録と考正)
 28年「小さきヨハネ」(オランダ、長編童話)
   「野草」(散文小詩)
   「而已集」(27年分)
   「思想山水人物」(日、鶴見祐輔 随筆選訳)
 29年「壁下訳叢書」(日、露の批評家の論文集)
   「近代美術史潮論」(日、板垣鷹穂作)
   「蕗谷虹児画選」(題辞訳)
   「プロレタリア文学理論と実際」(日、片上伸 作)
   「芸術論」(ソ連、ルナチャルスキー)
 30年「芸術論」(露、プレハーノフ)  
   「文芸と批評」(ソ連、ルナチャルスキー論文と講演)
   「文芸政策」(ソ連の文芸に関する議事録と決議) 
   「十月」(ソ連、ヤコブレフ 長編小説)
 31年「薬用植物」(日、刈米達夫、「自然界」の中に入れて)
   「毀滅」(ソ連、ファジーエフ 長編小説)
 訳著以外に「嶺表録異」「稽康集」「古小説鈎沈」など編集したが未印。
 他に「莾原」「語絲」「莾流」などの雑誌に関わる。他に柔石などの著作訳書
の校訂など多数。(本訳文では割愛する)

 私の訳著について許広平が「魯迅とその著作」にリストを作ってくれたが、不完全であった。今回雑感の編集を始めるために、私の関係した書籍を入れておいた本箱を開け、ついでに上記の如きリストを作った。
これを「三閑集」の末尾に付そうと思う。目的は自分の為で、幾分かは人の為である。リストから分かるのは、過去十年近く費やした生命は、決して少なくはない。人の訳書の校正にも真剣に一字一字目を通し、決していい加減にはせず、作者と読者に敷衍したいと思い、猶かつそれを毫も利用しようなどとは思わなかった。
 それができたのは「有閑」だったとはいえ、当時毎日8時間を生活為に売らねばならず、訳著と校正に使えたのはこの8時間以外の時間で、常に、毎日休みなしだった。しかしそれもこの4-5年は昔の様にはやれていない。
(魯迅は北京の十数年間、教育省の役人であり、教師も兼任していた:訳者注)
 ただ、こうして継続して費やされた生命は、単に徒労だっただけでなく、
ある批評家に言わせると、全て厳重に処罰すべき罪悪という。「衆矢の的」になって早4-5年。初めは「悪を為し」後に「報いを受け」論客は謗りを含んで恐怖と脅かし或いは幾分か小気味よさそうにこう「忠告」する。だが、私は、決してそうは思わず、これまで生きてきた。ただこの十年近く創作をしていないのに、私を「作家」と呼ぶのはおかしなことだ。
 思うに、原因の何がしかは私自身にもあるが、後進の青年にある。私自身については、ほんとに真面目に訳著に取り組んできたのだが、私を攻撃する人のいうように、巧みにかつ投機的にやったというには程遠い。出版した多くの本の功罪は暫く置くとして、たとえ全てが罪悪だとしても、出版界では大きな痕跡を残し、「蹴りだそう」にもそう簡単にはゆかぬ。根の無い攻撃は只一時の効験があるだけで、最悪なのは、彼らも又忽然と影のように淡くなり、消えて行くことだ。
 但し、再度私のリストをよくみると、その内容は実に貧弱と思う。致命的なのは、創作では大きな才覚に欠けるため、これまで一篇も長編が無く:
訳も
外国語の力不足で、徘徊ばかりしていて世界の著名な大作を訳そうとしなかった。後進の青年たちは、この逆のことをすれば(私を)打倒できるだけでなく、跨ぎ超えてゆける。だが、西湖で何とかいう新奇な詩を苦吟するとか、
国外で百万語の小説を書いているとかの類の宣伝だけをしても役には立たぬ。
 言葉はあまりに誇大だと、実はそぐわない。志がいかに高くても、心を専一にせねば、ただ単に、人を驚かすような興味本位のことを伝えるだけとなる:
静夜に考えていると自ら虚しくなり、焦操を免れぬ。いぜんとして私の黒影が前面を遮り、とても大きな足かせのように思う。
 遠大な目的のため、古人の利益のためでなく、私を攻撃する者は、いかなる方法を使っても、私は歯牙にもかけぬし、怨言もない。しかし筆で世に問おうとする青年に対し、今敢えて、数年の経験から誠心誠意苦い忠告をする。
それは:たゆまぬ努力をし、けっして一年半年で数篇の作品や数冊の雑誌で、空前絶後の勲功をたてようなどと思わぬこと。もう一つ:人を力ずくで抹殺しようとするな。人も自分も一緒にダメにしてしまうから。前に立っている人を乗り越えて行け。前人より、高く大きく。初陣で、幼稚で浅薄なのは構わぬ。
たえず成長してゆけば良い。文芸理論を知らずに、いい加減にデマやもめ事を起こす評論を書いたり、閑話を書いて、己と意見の異なる者の短評を撲滅しようとしたり、童話を数編訳して、他の一切の翻訳を抹殺しようと考えたりしても、結局は自分にも人にも「何の役にもたたぬ」ことになってしまう。
これすなわち「利口馬鹿」だ。
 私が「進歩的青年」たちに口と筆で猛攻されていたころ、私は「まだ50歳にもなっていなかった」が、今本当に50歳になった。E.Renan は人間 年をとると性格が苛酷になると言った。私はその弱点を全力で克服したい。
というのも、「世界は決して私と一緒に死なない」希望は将来に有ることを知っているから。灯下に独り坐すと、春夜はいっそう凄清を覚ゆ。静かな夜、筆のおもむくままこれを記す。 
1932年4月29日 魯迅上海北部の寓楼に記す。

 訳者雑感:
リストの翻訳はオランダの童話以外は日本とロシア(ソ連)の物ばかりだ。
ドイツ語は仙台で医学の為に習っただろうし、東京に移ってからもドイツ語の専門学校で学び、ドイツ留学も計画していた。東京にいるころには仲間を誘って、中東欧の被圧迫民族の文芸を翻訳していた。フランスのジュール ベルヌの作品なども訳している。オランダのもドイツ語からの重訳か。
ロシア語の作品も日本語からの重訳であったという。
 今年は中国共産党設立90周年でいろいろな行事が催された。その中で印象に残ったのは、香港のメディアなどが報じているのだが、90年前の設立時の同志たちは、殆ど日本語で翻訳された共産主義の文献を読んで、共産主義に共鳴していったという点だ。日清戦争後におびただしい数の留学生が日本にやって来て、日本語経由で、欧米の思想文化を吸収したこと。その意味では、中国の共産党設立に一番最初に貢献したのは、日本のそれらの文献の翻訳者だろう。
その後は、大量の中国人がモスコーに行き、直接ソ連から学んだが、なまみのソ連はそれなりの事情があって、中国共産党とは良い時もあったが関係が悪化した時の方が長い。ソ連は国民党の方を支援していたし、蒋介石もモスコーに出かけて彼の考え方が一変したという。息子も留学させ、ロシア人と結婚している。日本が負けてからも、ソ連は共産党ではなく、国民党が中国を支配する
のを支援していた。1945年当時、スターリンは毛沢東を「マーガリン コミュニスト」と軽蔑していた。そんな毛沢東が初めてモスコーでスターリンと会談した時に始まったボタンの掛け違えが、その後の中ソ対立の芽となった。
 理想とする「主義」とか「社会システム」は第三者による「翻訳」や「思い入れ」で純粋に考えるのと、蒙古帰属の領土問題や内政問題でぎくしゃくする「なまみ」の関係から発する「現実社会」とは大きく乖離するのはよくあることだ。
 魯迅のいう「希望はきっと将来に有る」というのは、あまりにもでたらめな現実社会に暮らしているからこそ、将来に希望を託さざるを得ないからだろう。
 原発事故以来、あまりにもでたらめな政権下で暮らす我々、被災者の人たちにも、将来はきっと良くなるという希望だけは有る。
   2011/07/06訳





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私と「語絲」のこと

私との関係が長いのはなんといっても「語絲」だろう。
多分そのために、「正人君子」らの雑誌が私を「語絲派の主将」だとした。急進的青年は、今も私を「語絲」の「指導者」とする。去年魯迅を罵倒しないと自分が這いあがれないと言われたころ、匿名子から2冊の雑誌「山雨」が届いた。
短い文章で大意は私と孫伏園君が北京で、晨報社の圧力により「語絲」を
創刊したが、今や自分で編集し、投稿されたのを勝手に編者あとがきをつけ、
原意を曲解し、他の作者を圧迫している。孫伏園君の議論は絶妙だから、今後魯迅は彼のいうことを聞くべきだと。これは張孟聞の文章で、署名は別の二字だが、大勢で刊行しているというが、実際は一人か二人というのは今でもよくあること。
 「主将」「指導者」と呼ばれるのは、別段悪い気もしないし、晨報社の圧力云々というのも、恥とも言えぬし、老人は青年の教訓を受けいれるべきだというのは、より進歩的なことで、何も言うことは無い。だが、「望外の誉れ」も「想定外のこきおろし」もともに無聊なもので、平素一兵を持たぬのに、恭しくも「本当のナポレオン」のようだと褒められると、将来軍閥の雄になろうと志していたとしても、いい気もちはしない。「主将」などでないことは、一昨年声明を出したが――何の効力も無かったようだが――今回少し書いておこうと思ったのも、これまで晨報社の圧力などでなく、「語絲」は孫伏園さんと二人で創刊したのでもない。創刊は伏園一人の功である。
 当時彼は「晨報副刊」の編集者で、彼が私に投稿を依頼してきた。
しかし私は何の原稿もないので、私が特約選述で、投稿の多寡にかかわらず、月3-40元の報酬を得ているという伝説がでてきた。晨報社にはある種の特約作家がいたことは聞いていたが、私はその中には入っていない。昔の師弟――
僭越ながら暫しこの2字を使うのを許されたく――関係から、かなりの優待は
受けたようだ:原稿を渡せばすぐ載り:千字2元から3元の稿料は月末には受け取れ:3つ目は短い雑評でも稿料をもらえた。だがこんな景気のいいことは長くは続かず、伏園のポストも大変不安定な情勢だった。欧州から留学帰りが(惜しいかな、名前は忘れた)晨報社と深い関係ができ、副刊に対して不満たらたら、改革を決定し、戦闘計画のために、「学者」(陳源の意)の指示により、アナトール・フランスの小説を読みだした。
 当時中国では、フランス、ウエルズ、ショーの威力は大変で、文学青年を驚かすという意味では、今年のシンクレアと同じで、当時とすれば形勢はじつに
非常に大変な状態だった。この留学帰りが、フランスの小説を読み始めてから、
伏園がプンプン怒って私の寓居にやってくるまで、何カ月目か、何日目か、もう記憶も定かでない。
「辞めた。にっくき野郎め」
ある晩、伏園が来て開口一番。それはもともと想定内で、何ら異とするに足りぬ。次いで、辞職のわけを訊くと、何と私に関係があるという。留学帰りは、伏園の外出時に、植字工房に行き、私の稿を抜いたため、争いとなり辞職せざるを得なくなった。私はそのことに対しては怒らず、その稿は三段の戯詩で、「私の失恋」という題。当時「ああ、もう死んでしまおう」の類の失恋詩が盛んだったので、故意に「彼女の勝手にすれば」ものごとはうまく収まる、と揶揄したもの。この詩は後に一段加えて「語絲」に載せ、再度「野草」にも入れた。そしてペンネームも新しいのを使ったので、初見の作家の作品を載せない主宰者からはポイと放逐された。
 だが私は伏園が、私の原稿のために辞職した事は気の毒になり、心にずしんと重い石で圧迫されたようになった。数日後彼は自分で雑誌を始めると言いだし、私はもちろん全力で「吶喊」しようと応じた。投稿者はみな彼が独力で招いた者で、16人だったと思う。その後、全員が投稿したわけではない。広告を刷り、各所に張り、ばらまき、約一週間後小さな週刊紙が北京に――大学の周辺に現れた。それが「語絲」であった。
 名の由来は何名かが任意に一冊の本を取り上げ、任意にページを広げ、指で差した字から取った由。その時私は立ち会ってなかったので、本の名や一回で「語絲」の名を得たのか、何回か試した後、ふさわしくないのを棄てたのかどうかは知らぬ。要は、この事からこの雑誌が一定の目標や統一戦線の無いということが分かる:16人の投稿者の意見、態度はそれぞれ違い、顧頡剛教授は
「考古」の原稿だったことで分かるように、言うまでも無いが「語絲」が現代社会に関するものを好むこととは相反した。だがある人々は多分はじめ伏園との友情を深めんとしただけで、2,3回投稿したら「敬して遠ざく」で、自然に離れて行った。伏園も私の記憶ではこれまで3回しか書いてない。最後のは、これから大いに「語絲」に著述すると宣言したが、その後一字も見てない。それで「語絲」の固定投稿者は多くても5,6人になったが、それが同時に意図せぬうちに一種の特色が顕著になり:任意に談じ、顧忌なく、新しいものの誕生を促し、新しいものに有害な古いものには、全力で排撃する、がどのような「新」
しいものを誕生さすべきか明確な表明はなく、危急だと感じた時でも、故意にその言辞をあいまいにした。陳源教授が「語絲派」を痛斥したとき、我々に対して軍閥を直接罵ろうとしないとなじり、ひとえにペンを執る有名人を困らせようとしているといったのは、ここらから出ている。しかし、狆コロを叱るのは、その飼い主を叱るよりずっと危険だということを知っていたから、言葉をぼかしたのであって、走狗が臭いをかぎつけて、手柄をたてようとしたら、必ず詳しい説明が必要となり、労力を費やさねばならず、そうは簡単にうまい汁をすえないようにしたためである。
 創刊時の苦労は大変で、当時職員は伏園のほか小峰、川島がいたが、社会に出たての青年で、自分で印刷所に走り、自分で校正し、折りたたんで、自分で抱えて大衆の集まる所で売った。まさに青年の老人に対する、学生の教師に対する教訓で、自分ではただ少し考えただけで、何句かの文章を書いているのは安逸に過ぎる、一生懸命に学ばねばならぬと思った。
 但し、自分で売った成績は芳しくは無かったようで、売れたのは数か所の学校、中でも北京大学の文科だった。理科がその次。法科では余り読まれなかった。北大の法、政、経の出身者諸君で、「語絲」の影響が絶えて少ないのは多分
その通りだろう。「晨報」への影響は知らないが、一定の影響はあったようで、
以前、伏園に和を求めに来た時のことを、伏園は得意の余り、勝者の笑みを浮かべて私に語った。
「すごいぜ、彼らはうかつにも地雷を踏んだんだ!」
これを他の人に言うのは何でもない。だが私には冷や水をかけられたようで、そのとき私はこの「地雷」は私を指すと直感したからで、思索をめぐらして、文を書くのは人の小さな紛糾のために自分を粉骨砕身するに過ぎぬし、一方、心の中では:「えらいことになったぞ、地下に埋められてしまった!」と思い、
 それで私は、「彷徨」を始めたのである。
 譚正璧氏は私の小説の題を使って、私の作品の経過をきわめて明晰で簡潔に
評して:『魯迅は「吶喊」に始まり、「彷徨」で終わる(大意)』と言う。私はそれを頂戴して、私と「語絲」の初めから今までの歴史を述べるに、まさにぴったりした適切な表現だと思う。
 しかし私の「彷徨」は長くは続かず、当時はニーチェの「Zarathustra」を読んだ余波で、自ら絞りだせる――絞りだすに過ぎぬが―文を絞りだし、自分で作れる「爆薬」を造り、持ち続けようと決め、昔通り投稿した。それが知らぬうちに利用されていたと知った時、数日間こころは晴れなかった。
しかし「語絲」の販路は拡大していった。元元の同人は印刷費を分担し、私も十元だしたが、その後は取らなくなった。収支が足りてきて余剰が出てきた。
それで小峰が「老板」(社長)になったが、この推挙は決してきれいごとではなく、その時伏園は「京報副刊」の編集者になり、川島はまだ青二才で、数名の
同人は目をパチクリさせ口数の少ない小峰に任すほかなく、栄名を与え、利益を吐き出させて、毎月招宴させた。これは「取らんとすればまず与えよ」の法が奏功したもの。盛り場の茶館や料亭に時々「語絲社」の名板が掛るのが見られた。足を止めれば、疑古の(銭)玄同氏の早口でよく通る談論が聞こえた。
だが私は当時宴会を避けていたから、内部の事情はまったく知らない。
 私と「語絲」の淵源と関係は以上の通り。投稿も時に増え、時に減った。が、
こうした関係は北京を離れるまで続いた。その頃は実際だれが編修しているかも知らない。
 アモイに来てから、投稿は減った。一つは遠くなったため催促も受けず、責任も軽くなり、二つには、人も地も不慣れで、学校で遭うのは大抵念仏婆さんの口吻の人たちばかりで、紙墨を使うに値せぬため。「ロビンソンの授業記」や「蚊は孵化の為に刺す」などでも書いたら面白かったろうが、そんな「才」も無く、ごく些細な文を寄稿せしのみ。その年末に広州に移り、投稿もかなり減った。第一の理由はアモイと同じ。第二は事務にかまけ、広州の事情にも暗く、後には感慨深いこともあったが、「語絲」の敵が支配する所で発表する気にならなかった。
 権力者の刃の下で、彼の権威を頌揚し、彼の敵をけなして媚を売るようなことはしたくないというのは「語絲派」の共通の態度と言える。「語絲」は北京で
段祺瑞とその狆ころたちのいやがらせからなんとか難を逃れたが、終いには「張作霖大師」に発禁され、発行元の北新書局も同時に閉鎖されてしまった。時に1927年。
 その年、小峰は上海の寓居を訪ねて来、「語絲」を上海で発行しようと言い、私に編集を嘱した。これまでの経緯からして辞するべきではなく、承知した。その時、従来の編集法を訊いたら、簡単で、凡そ社員の原稿は、編者は取捨の権なく、必ず当用。外来のもののみ編者が選択可。必要に応じ削除可。従って
私のなすべきは後段の仕事で、社員の方は、実際9割は直接北新書局に送られ、直接印刷に回された。私が目にするのは製本後。いわゆる「社員」も明確な規定無く、最初の同人で今も残るのは少なく、途中からの人は忽然と現れ、忽然と去っていった。「語絲」は壁にぶつかった人の不平不満を載せる傾向が強く、
最初の出陣であまり成績を出せなかった人、或いはもともと別の団体にいた人で、意見があって「語絲」で反攻したいと考えた人も、ここと暫時関わりを持ち、功成り名を遂げた後は、当然ながら淡漠となった。環境の変化により意見を異にして去る者も少なくなかった。だから所謂「社員」には明確な規定なし。
前年の方法は、何回か投稿されれば、必ず載せ、その後は安心して寄稿できるようになり、古い社員と同待遇。また古い社員の紹介で、直接北新書局へ寄稿し、出版前に編者の目を通らぬものもたまにあった。
 私が編集担当後、「語絲」の運も悪化し、政府の警告を受け、浙江当局に禁じられ、更に創造社式「革命文学」家のしつこい包囲攻撃を受けた。警告の原因は、私も分からないが、戯曲のせいだという。禁止の理由も不明で、復旦大学の内情を暴露記事を載せたからという人もいて、当時浙江の党務指導委員の幹部に復旦大学出身者がいたからだという。創造社派の攻撃は長い歴史があり、彼らは「芸術の宮殿」を守るため、「革命」いまだ成らず、のころからすでに
「語絲派」の数名を眼中の釘とみなしていたが、これを書きだすと長くなるので、次の機会に回す。
 「語絲」の本体は確かに消沈していった。一つに、社会現象への批評が殆ど無くなり、この種の投稿も減少した。二つには残った数名の比較的古い同人も
この頃、また数人いなくなった。前者の原因は、もう書くことも無くなったか、
或いは有っても敢えて書こうとするものが無くなり、警告と禁止がその実証。
後者は多分その咎は私に帰すと思う。一例として万やむを得ず、きわめて温和な劉半農氏の「林則徐とらわる」の誤りを糾弾訂正した来信を載せた後、彼は2度と投稿しなくなり、江紹原氏が謄写版の「馮玉祥先生…」を紹介してきたが、載せなかったら、彼もその後投稿しなくなった。更にこの謄写版は暫くして伏園の主宰する「貢献」に載り、丁寧なまえがきに、私が載せなかった事由を説明している。
 更に顕著な変化は広告の乱れだ。広告の種類を見ればその雑誌の性質が大抵分かる。「正人君子」たちの「現代評論」には、金城銀行の長期広告、南洋華僑学生が発行する「秋野」には、「タイガーバーム」のラベル。「革命文学」と銘打った小新聞も、その広告の大半が花柳薬と飲食店なら、作者と読者が分かるというもので、かつての専ら妓女と遊び人の話のタブロイドと同流で、今は男性作家を用いて、女流作家の倡優の代わりをさせ、ほめたり謗ったりするのが、
文壇での工夫と考えているに過ぎぬ。「語絲」創刊の頃、広告の選択は厳格だったが、新書といえども社員が良書だと認めねば載せず、同人雑誌であるから、同人はこうした職権を行使できた。北新書局の「北新半月刊」は「語絲」で、
自由に広告を載せられないためにできたという。だが上海で出版して後、書籍はもちろん、医者の診断例も載せ、靴下メーカーのも載せたし、早漏即効薬の
広告も出た。もともと「語絲」の読者には誰も早漏患者はいないとは保証できぬし、況や早漏を治すのは悪いことではないが、善後策としては「申報」のような新聞に任すのが穏当であり「医薬学報」に載せるのがより注意を促すだろう。このため、私は読者から何通かの叱責の手紙を受けたし、「語絲」にもそれに反対の投稿を載せた。
 私も以前は本分を尽くしはした。靴下メーカーの時、小峰に直接質したら、
答えは:「広告を載せた担当の間違い」で、早漏薬の時は手紙を出したが、応答無し。だがそれ以降、広告は無くなった。多分小峰が譲ったのだと思う。この時、一部の作家にはとうに北新書局から稿料を払い、発行の責めを負わなくなっただけでなく、「語絲」も純粋な同人誌でなくなった。
 半年の経験後、「語絲」の停刊を小峰に提案しようとしたが、賛成を得られず、私は編集責任を辞した。小峰は誰かを探してくれというので柔石を推薦した。
 だがなぜか知らぬが、彼も6ヶ月編集し第5巻の上半巻一ができたら辞めてしまった。
 以上が私の「語絲」との四年間に起こった瑣事。以前の数期と最近の数期を比べると、その変化が分かる。どう違うか。最も明白なのは、殆ど時事を取り上げていないこと、且つ、中編作品を多く載せているが、これは紙幅を稼ぐのが容易になり、又(政府の弾圧の)災いを免れるからだ。
古い物を壊し、新しい箱も壊してその中に隠れている古い物をさらけ出す突撃力は、今もなお、古いひとたちや、自分では新しいと思っている人々に憎まれてはいるが、そんなことはもう昔のことになってしまった。
               12月22日
訳者雑感:
 1920年代後半の、中国の出版業界と広告の関係が面白い。魯迅が指摘するように、広告を見れば、その雑誌の性格が大抵わかるというのは本当だ。
広告主は読者のニーズに最も関心を寄せ、自社製品の販売促進のためには、どのメディアに宣伝広告費を払うのが効果的かをよく研究している。
 学生時代の同人誌やそれに類した刊行物への広告費をもらいに出かけたことがある。先輩の会社や、近くの飲食店などは当たり障りの無いところだ。先輩は後輩にいい格好できるし、その会社への就職希望者の増加が期待できる。飲食店も当然学生たちがたくさん使ってくれれば、元は十分取れる。
 今回の原発事故で、全国紙や大手メディアの東電批判記事が少なかったのは、それまで膨大な宣伝広告費をもらってきたからだ、と非難されていた。原発のある町村民が、こんなことになっても文句も言えない。それだけの金をもらってきてしまったのだから、…。と語る場面が強く印象に残る。
 魯迅がここで批判しているのは、「時事を取り上げなくなった」「政府の弾圧の災いを免れよう」としてきたことだが、これが「靴下や早漏薬」の広告を載せることと、どこかで繋がっていることだと思う。
 先輩の会社の広告を毎回載せていたら、きっとその会社が不祥事を起こしても、それを取り上げる記事は載せないだろう。飲食店が中毒で死者を出してもなかなかすぐには取り上げまい。
 中立なメディアというのは理想、空想に過ぎないが、広告費で記事の内容に影響が出ると言うのは問題だろう。かといって公共広告機構の「こだまでしょうか?」ばかりでは嫌になってしまうが。
       2011/07/04訳



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上海特急

昨日北京ー上海間に新幹線(中国では高鉄という)が開通した。
温首相が北京南駅での開通式に参列し、1番列車に乗って21分後に北京と天津の間の駅で下車した。今朝のインターネットに彼が操縦席で運転士
とやりとりしている写真や、車内で乗客との会話している写真が掲載された。
天津で育った彼としても感慨ひとしおであろう。
彼がこれほど鉄道好きとは知らなかったが、勤務地であった甘粛省での
地質調査などでは、鉄道で何度も往復していたかもしれない。
突然戦争中にアメリカでつくられた「上海特急」という映画を思いだした。セットながら(アメリカでの)北京の市街地を出発した列車は、
両側に漢字の大看板や旗が掛った商業地に敷かれた、路面電車用のごとき
レールの上をゆっくり走る。線路を傍若無人に牛車が横切る。それが
通り過ぎるまで我慢づよく待つしかない。
上海に辿り着くまでに、軍閥間の抗争に巻き込まれて、列車強盗にあったような状態になる。主演はマレーネ・デートリッヒ。
70年で大変な変化である。
温首相は先のイギリスでの講演で、未来の中国の理想を語っている。
経済発展による豊かな生活、民主法治、文明発展、平等で平和な社会
香港のテレビの解説では、これらの西洋起源の理想は、何も西洋の専売
ではなく、人類の共通の知恵であるという。その未来に向かっての交通の
便として上海特急が十分機能することを願う。

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新月社の批評家の任務

新月社中の批評家は、嘲り罵る(人:魯迅を指す)をとても憎むが、それは単にある種の人を罵ることに対してだけ、罵りの文章を書く相手に対してだけだ。新月社中の批評家は、現状に不満な人(魯迅)を認めないが、それも単にある種の現状に不満な者に対してだけ、只今現在の現状に不満な者に対してだけである。
 これはきっと「その人の道で以て、その人の身を治めよ」(朱子の「中庸」の注)で、涙を揮って治安を維持せよという意味だ。
 例えば殺人は良くないが、「殺人犯」を殺すのは、同じ殺人だが、悪いとは言えまい。人を殴るのもよくないが、大旦那がケンカをした男の尻を叩かせ、執行人に5回10回と殴らせるのは悪いとは言えない。新月社の批評家にも罵る者がおり、不満な者もいるが、罵りと不満という罪の外に超然としていられるのも、きっとこの道理だろう。
 しかし例のように、手先とか執行人がこういう治安維持の任務を果たすのは、社会的に何がしかの畏敬を得られるし、更には何の妨げも受けずに、好きなように発言でき、若い人たちの前で威風を顕示し、治安をひどく妨害しない限り、長官は見て見ぬふりをしてきた。
 現在新月社の批評家は、こんな具合で治安維持に努めているが、手に入れようとしているのは「思想の自由」に過ぎず、そう思っているのみで、決して実現しそうもない思想だ。そしてはからずも、別の治安維持法に出くわして、もはや考えることすら許されなくなった。これからは二種類の現状に不満を持つことになるだろう。
(1930年1月1日「萌芽月刊」)

訳者雑感:実名が無いので、当時のことを知らないと理解しづらい。出版者注で、新月社の梁実秋が、魯迅の「ユーモアと風刺の文章」で罵るのはダメで、「厳正」な批評をすべきと提唱していることを背景として知った上で読むとよく分かる。
 もうひとつの「思想の自由」も当時の「思想統一」反対という主張がある。
これは国民党の思想統制のための別種の治安維持法の導入で、「党義への批判と総理を汚辱する」ことを許さないとしたもので、「人権と約法」などの文章を書いた胡適は教育部から「警戒」された、と注釈がある。
 新月社の批評家たちは、当初は政府(長官)の黙認の下で、「厳正」な批評を発表することで、青年達に威風をみせつけ、権威的立場から魯迅たちを単に皮肉屋的な現状不満家として攻撃してきた(それが任務であるかのごとく)。
 しかし、当の政府(長官:教育部)が、思想統制を始め、治安維持を厳格に
してきたため、彼らの任務はこれまでのようには果たせなくなった。それをよく認識しなされや、という事だろうか。  2011/06/25訳

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書籍と財と色

 今年上海の子供向けの駄菓子屋では、十軒中九軒が、射幸性を帯び、銅元一枚で、ある手続きをすれば銅元以上の菓のおまけがつく。学生向けの書店では、それ以上の大きなおまけが付く――なにせ学生むけだから。
 本の値段は「碼洋」という陋習の廃止は、北京の新潮社――北新書局に始まるが、上海でも多くがまねた。蓋し当時の改革の潮流はじつに盛んで、売買双方で、改革を志す人(書店たるもの、文化を紹介するとの自負で、それは今も広告ではまだあるが)が、虚価を印してからそれを値引きし、互いに騙しあいをすることは不要である。しかし麻雀牌をこよなく愛する人の世界で、なおかつそれを自慢する人たちは、そんな簡潔明瞭で意外性のないやり方には我慢できない。それでつい例の病気がでて、まずは試しに:画像を付ける、後から値引きする、九がけから半値まで。もちろん昔のやり方ではない。定期的でその理由もはっきりしていて、或いは学校の始業にあわせ、当点開業1年半記念セールの類。他にもいろいろあり、絹のストッキングやアイスクリームのおまけつき。錦の小箱に十個の宝物、とても高価なものがどっさり。さらに実際驚くのは、年間購読やまとめ買いをすると「奨学金百元」や「留学費二千元」が当たる。租界の「ルーレット」は大当たりで36倍もらえるが、本のおまけには及ばない。当たった時の倍率は大変なものだ。
 古人曰く:「書中自ら黄金の部屋あり」というのが今実現せんとしている。
但しそのあとに続く一句「書中自ら玉の如き顔(かんばせ)有り」はいかがか。
 新聞の付録の画報になぜか「女子校の優等生」や「樹下で読書する女」の写真類があり、別には一元の本を買えば、裸体画が付くというインチキもあり。
「玉の如き顔」気味を帯びた例である。医学では「婦人科」という専門分野があるが、文芸では「女性作家」を分けているが、ジェンダーの差の濫用を免れぬ。おかしなことだ。一番露骨なのは張竟(日は口)生博士(性文化宣伝:出版社注)の「美の書店」で、対面販売の二人の美人店員に対して、客は「第三の水(女性の性生活中の分泌物:出版者注)」は出ますかと尋ねることができるなど。一挙両得、玉あり書ありだ。それが惜しいことに「美の書店」は閉鎖され、博士も商売替えを余儀なくされ、「ルソーの懺悔録」の翻訳に取り組み、この道は中途で衰えてしまった。
 書店の売り上げが更に低下したら、女店員が女性作家の作品と写真を売ったり、くじ付きにして客は「奨学金」と「留学」費用が当たるなどの方策を講じるのが一番だと思う。  (1930年2月1日「萌芽月刊」)

訳者雑感:
原題は「書籍と財色」。財色はどう訳そうか迷った。才色兼備という。
魯迅もおやじギャグでこの才を財とかけたものか、と思った。
 それで、本文を訳し終えた後、ルーレット以上の倍率の籤つきが「財」で女性の写真が「色」かと思いあたって、「本と財と色」とした。
 今でも中国の本は定価の何割引きかで売っている露店がたくさんある。古本ではなく、海賊版に近いものもあるが、本物もある。日本のような再販制度がないからか、定価で売る「新華書店」とそうでない民間の本屋があり、学生向けの参考書などでも数冊気にいったものをレジに出すと、向こうで値引きしてくれて、「儲かった」と喜んだ経験がある。
 1930年代でも、本の販売が低迷して競争がはげしくなっていたのだろう。
書店の経営に関心を持っていた魯迅は最後に「販促」の方法を示している。当時世界の先端をゆく上海でも、裸体画や女性のブロマイド付きで販促していた様子がわかって面白い。
 「碼洋」という陋習、が何を指すかは分からない。昔岩波文庫は丸印一個がいくらを指す、云々という制度があった。消費税の導入までは本の裏に値段が印刷されていたが、そのうちカバーにだけになり、本体には値段が無くなった。
カバーさえ取り換えれば、いくらにでも換えられるということだろう。
    2011/06/23訳

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ごろつきの変遷(侠から無頼漢へ)

 孔子や墨子は現状に不満で、改革を試みた。その第一歩は主を動かそうと説得に努めた。その際に使ったのは「天」であった。
 孔子の徒は儒で、墨子の徒は侠であった。「儒者は柔也」で危険に陥ることはなかった。侠は愚直だったから、墨者の末流は「死」を究極の目的とした。後に本当に愚直なものたちは次々と死んでいなくなり、巧みに侠を使いこなすものが残った。漢代の大侠は王侯権貴と互いに贈答しあうことで、危急時の護符とした。
 司馬遷は:「儒は文を以て法を乱し、侠は武を以て禁を犯す」と説いたが、之を「乱す」と「犯す」は、決して「叛く」ことではなく、少し騒ぐだけだし、ましてや五侯のような権貴の者もいたのだ。
 「侠」の字は徐々に消え、強盗が出現したが、これも侠の流れをくむもので、
彼らの旗印は「天に替って道を行う」で、やっつけるのは奸臣であって天子ではない。強奪したのは平民からで、将軍大臣からではない。李逵(き)が刑場荒らしで、マサカリで首をはねたが、刎ねたのは見物人の首だった。「水滸伝」にそれが書いてある。
 天子に反対しないから、天子の大軍が到着するや、すぐ帰順し、国に替って他の強盗をたいらげるし、「天に替って道をおこなわない」連中を攻める。しまいには奴隷に成り果てる。
 満州人の侵入後、中国は次第に圧迫服従させられ、「狭気」の者も次第に盗心を起こさなくなり、奸臣を叩きだそうとか、天子に直々に役立とうなどとも志さなくなり、高官や欽差大臣たちの用心棒や手先として強盗を捕えた。「施公案」や「彭公案」「七侠五義」に出ているし、今もそれが続いている。彼らの出自は清く元来悪い所は無く、欽差大臣の下だが、平民の上にいる。上の命令には
絶対服従だが、下に対しては好き勝手をし、安全度が高まるにつれ奴隷根性が増してきた。
 しかるに、(金欲しさに)自分が強盗を始めると官兵にやられるし、強盗を捕えようとすると、強盗に逆襲されたりしたので、安全な侠客になるのも容易なことではないことをさとり、それで無頼漢になった。和尚が酒を飲んでいるというと、やってきて殴った。男女の密通を捕え、私娼や密売を取り締まった。
公序良俗を守るためだと称した。田舎から出てきた者には、租界の規定を知らぬ輩と見下して、彼らから騙しとった。髷を切った女を罵り、社会改革者を憎み、秩序保全のためだと称した。背後に伝統的な親分を持ち、敵がたいした勢力がない連中と見るや、好き勝手に暴れた。最近の小説には、まだこのようなストーリーの典型は出てきていない。ただ「九尾亀」の章秋谷は、妓女を責めるのは、彼女が男たちから金をだまし取っているから、懲罰すると書いているが、これにやや似ていると言えようか。
 (世の中が)今よりさらに悪くなってゆくと、きっとこうした流れの登場人物が、この種の文芸のヒーローになってゆくことだろう。
「革命文学家」たる張資平「氏」の近作を待つとしようか。

訳者雑感:
 このころ魯迅は「古小説」をたくさん読んでいたのだろう。そして最近の租界の「読本」というか大衆小説もよく読んでいたようだ。アメリカ輸入の「ターザン」などの映画も繁華街まで見に出かけている。「文芸」を「飯のタネ」にしながら、もともと小説を読むのが好きであったと思う。特に「絵入り本」が。
それらには「侠」が必ず登場して、大立ち回りを演じてくれる。
 原題は「流氓的変遷」で従来は増田渉訳の「やくざ者の変遷」などがあり、彼も注して、魯迅に相談したら「いろいろ考えたあげく、(ごろつき)とするしか仕方なかろうと言った」とある。
 辞書には、他にならず者、チンピラ、ヤクザ、流れ者、無頼漢などある。
改革開放後の中国にも日本語訳通りの連中がいっぱいあふれている。文化大革命のころには、また別の種類のがいたことであろうが、坊主も酒を買えなかったろうし、妓女も公然とは許されていなかったし、男女密通とかを咎めて、公序良俗を守る云々というのは、紅衛兵たちの仕事で、流氓の口出しできる状況ではなかったろう。流氓の苦難時代だったと言えるかもしれぬ。その意味では、
彼らがのさばりだせたのは、改革開放のおかげと言えよう。国中に和尚があふれ、飲酒し車を運転する髪のふさふさした坊主(というのは剃髪した頭を指すのだろうが)が、老若男女から寄付を集めて、巨大な大仏建造に血眼になっている。妓女もあらゆる場所に現れた。これらが「侠」の末流を称する流氓たちの収入源である。「ゆすり」「たかり」「みかじめ料」「なわばり」など地方政府と一緒になって、庶民や田舎からでてきた農民工のピンはねをする。
 やくざ映画のヒーローたちはヤクザである。無頼漢と訳すと、少し褒めすぎの嫌いがないでもない。だが、本来は「天に替って云々」という精神的バックボーンがあったのだから、やくざともいえぬし、ごろつきとも言いにくい。
読者諸士の感想をお聞きしよう。
 2011/06/22訳
 

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