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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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小説のテーマについての書信

L.S.様 (魯迅宛て)
 この様な失礼な手紙を出すのは、先生を煩わせるだけと思い、長く控えてまいりましたが、我々の心に描く先生なら、きっと熱心な青年が教えを請うのを、冷たくはされないだろうと思い、何度も思いあぐねた末、唐突ながら我々の文芸上の――特に短編小説についての疑問と迷いを書いた次第です。
 我々は幾つか短編小説を書きました。テーマは:一つは良く知っているプチブル青年で、彼が今日直面する顕在化している問題と潜伏している一般的な弱点を、風刺的な手法で描いたもの:もう一つは、よく知っている下層人――現代の大きな潮流の衝撃の圏外にいる下層の人間が、生活の重圧下でも強烈に生を求める欲望の漠然とした反抗の衝動を創作に
取りあげたもの――こうした内容の作品が果たして現代に貢献、意義があると言えるか?
最初ためらい、叉筆をとっても迷いが生じました。先生にお尋ねして指示を仰ぐべきだと考えました。文芸上の努力が今の時代には精力の無駄使いで、何の意味も無いことになるのを望まぬからです。
 我々はこの時代に我々の力を意義ある文芸にそそぎ、我々の微力を捧げて文芸に貢献しようと思います。先生の指摘されるような、少し名が売れたらすぐ他の方向に転じる文人にはなりません。今先生が指示して下されば、その指示は我々の一生に影響を与えます。これまで多くのプロレタリア作家の創作を読みましたが、虚構の人物を取り上げ、彼に身を翻らせ、革命を起こすというようなのは考えていません。何人かのよく知っているモデルを使って、真実を描きたい。この考えが妥当かどうか、よく分かりません。
従って何度も考え、非礼を顧みず、唐突に先生にお尋ねしようとしたのです。
 お元気にお過ごしください。 Ts.c.Y 及びY,b,Tより。

返信
 Y.T.ご両人様:
 来信拝受。返事が遅れました。流感にかかり頭が重く、目は腫れて一字も書けず、この頃ようやく回復しましたのでお返事します。同じ上海に居ながら1カ月も伸ばしてすみませんでした。
 お二人が問われているのは、短編小説を書く時のとりあげるべき材料についてですね。
そして作者の立場は手紙にあるようにプチブルの立場ですね。もし戦闘している無産者なら、ただそのまま書いたものが芸術的なものになるのなら、どんなことを描いても、どんな材料でも、現代と将来に必ず貢献できるでしょう。それは作者本人が戦闘者だからです。
 だがお二人はその階級ではないから、筆を動かす前に、お手紙の様な疑問が生じたので、思うに、それは今の時代はまだ意義があるが、永遠にこのような気持ちでいてはいけません。
 他の階級の文芸作hンは大抵今まさに戦っている無産者とは関係ありません。プチブルは無産階級と軌を一にしないで、それを憎悪とか同じ階級を風刺するのは、無産者からみれば、ちょうど聡明で才のある公子が家庭内のドラ息子を憎むのと同じで、身内のことで、
そんなことに構っていられないし、損得などいうまでもありません。例えば、フランスの
Gautierはブルジョアを痛烈に恨んだが、本人は根っからのブルジョア作家だった。下層人物を書くなら(私は彼らが「現代の大潮流の衝撃圏外」とは思わないが、所謂それを客観するのは、楼上からの冷めた目で、所謂同情も空虚なお布施で、無産者には何の助けにもなりません。しかも後になって、どうなるかも分かりません。例えばフランスのボード・
レールはパリコミューンが起こった時、大変感動し賛同したが、勢力が大きくなると、自分の生活に有害になると感じ、反動に変わりました。だが、今の中国では、二つのテーマはまだ存在意義があると思います。第一種は同じ階級でないと深く知ることはできないので、襲撃して仮面をはがすのは、内部の状況を熟知しない者より力があります。
 第二種は、生活の状況は時代に伴って変わりますから、将来の作者が読むことができるから、時代とともに記録してゆけば、少なくとも一時代の記録ができます。だから、現在と将来に対して意義がありましょう、しかしたとえ「熟知」していても「正確」とは限らず、その有意義な点を取り出し、指し示せればその意義は大きく明らかに拡大されます。
それが正しい評論家の任務です。二人はそれぞれ今書けるテーマについて、書き始めたらよいと思います。だが材料を選ぶのは、厳格で深く掘り下げ、小さな屑の様な意味のない
事で、一篇を仕上げて、自ら創作したと思っていてはいけません。
 こうして書いてゆくと、ある時必ずよく書けたと思えるようになります――このような
題材の人物はたとえ数十年後でも、残滓として残り、その時には更に深く描写してゆけば、
別の作者が別の見方もできましょう。しかし二人は目下前進中の青年だから、時代に対して、何とか力になり貢献したいとの意志を抱いているのですから、その時にはきっと徐々に自分の生活と意識を乗り越えて、新しい道を発見できることでしょう。
 要約しますと、私の意見は:今、何か書けるならそれを書くことです。時代におもねらず、また無理やり突然変異の革命英雄を描いて「革命文学」と自称することはない:但し、
そのいい加減のところで安住し、何の改革もせずに自分を沈没させ、時代への助力と貢献を失ってしまうのはいけません。
 以上、ご返事まで。お元気に。  L.S.啓上   12月25日

訳者雑感:
 二人の真面目な青年への返信を見て、夏目漱石が多くの青年たちに出した手紙を思い起こした。二人の手紙から受ける印象は、二人とも彼らに手紙を出してくる青年たちの心を読み取り、それを彼ら自身の創作の糧にもしていると思われる点である。
 同時代に生きる自分より若い人たちの感受性を、自分の中に取り込んで、自分のこやし
にもしていると言える。
    2011/10/26訳

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北斗雑誌社の問いへの返答

――どう創作するか
 編集者殿:
 お尋ねの件は米国の作家や上海の教授に訊いてください。「小説の書き方」「小説作法」については彼らの方が得意です。私は20余編の短編小説を書きましたが、何の「定見」も無く、中国語は話せるが「文法入門」は書けぬこと同じです。が、せっかくのお尋ねをむげにもできませんから、私のこまごまとした経験を下記します――
1.いろんな事に留意し、できる限り多く見た。少し見ただけですぐ書くことはせず。
2.書けぬ時は無理して書かなかった。
3.モデルは特定の一人じゃなく、たくさんの人からよりあつめた。
4.書き終えたら少なくとも2度読み返し、極力無くてもよい句、段は惜しむことなく
削除した。むしろ小説の材料をSketchはしたが、Sketchしたものを小説に引き伸ばさぬようにした。
5.外国の短編小説を読んだ。殆どすべては北欧・東欧のもの。日本の作品も読んだ。
6.自分以外誰も分からぬ形容詞を造語しなかった。
7.「小説作法」の類は信用しなかった。
8.中国の所謂「評論家」の類の話を信用せず、信頼できる外国の評論家の評論を読んだ。
 今言えるのはこれだけです。以上ご返事まで。よろしく。

訳者雑感:ここに書かれているのは、魯迅自らが省みての言葉だ。これはこれから創作を
する人のための「作法」「書き方」についてではない。彼がこういうふうにしてきた、という経験をことこまかに記述したものだ。
 彼にはこれしか書けなかった、という述懐でもある。中長編小説などの創作をするような素地とか気質は元来無かったかもしれない。
 彼の作品は読み終えた後、彼の描きたかったことの映像がくっきりと残るのは、それが彼が丁寧に無駄を省いてクリアカットしたからだろう。彼はSketchを書くのに長けていたが、それを引き伸ばして中長編にすることは苦手だったかもしれない。
   2011/10/21訳


高校生雑誌社の質問に答えて」
 『先生の前に高校生が来て、この内憂外患迫る大変な時代に、どんなことを話し、どのような方針で努力せよ、と言われますか?』との問いに:
 編集者殿:
 貴方にお尋ねしたいが、今言論の自由はありますか?もし、無いというなら、何も答えられなくても、お咎めになることはないと思う。もしも「目の前に立った一高校生」ということで何か言えといわれるなら:何はさておき、言論の自由を勝ち取るよう努めよ、と答えるでしょう。



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「友邦 驚き怪しむ」論

知識ある人は皆知っている:今回の学生の請願は、日本が遼寧・吉林を占拠したのに対し、南京政府が手をこまねいて何の策も取らず、国際連盟に哀求したが、連盟は日本と同じ穴の狢で何の役にも立たぬということを。
 学生は勉強しろというのは確かにそうで、勉強に専念すべきだが、大人や爺さんたちが、国土を割譲せぬようにしなければ、安心して勉強もできない。報道では東北大学は逃散、馮康大学も逃散、日本兵は学生を見たらすぐ銃殺するというではないか。学生鞄を放って、請願に行くのはすでにして可憐きわまりない。国民党政府は12月18日、各地の軍政当局へ打電し、更には彼らが「機関破壊、通信阻害、中委への殴りこみ・妨害、自動車窃盗、通行人と公務員への暴行、私的な逮捕と尋問による社会秩序を悉く破壊」した罪で、その結果をなんと「友邦人士も驚き怪しみ、今後、国として体面を保てぬ」と、言ったではないか。
 とんでもない「友邦人士」だ! 日本帝国主義の兵が強引に遼・吉を占領し、官庁を砲撃しようが、なにも驚き怪しまない:鉄道を遮断し、列車を爆破、官吏を逮捕監禁し、人民を銃殺しても何も驚き怪しまぬ。国民党治下で打ち続く内戦、空前の水害、子を売って食いつなぎ、衆に見せしめの首切り処刑、秘密裏の殺戮、電気拷問の自白強要など、彼らは何ら驚き怪しんだりはしない。学生の請願で少しごたつくと彼らは驚き怪しむのだ。
 とんでもない国民党政府の所謂「友邦人士」とは一体何なのだ!
 たとえ上記の罪状が本当だとしても、こんな事はどこの友邦にもあることで、彼らが、
秩序を保つための監獄は、彼らの「文明」の仮面を引き裂いた。今さら何を「驚き怪しむ」ことがあろうか?
 だが「友邦人士」が驚き怪しむと、我々の国府はすぐ心配し「今後国として体面が保てぬ」と恐れ、東三省を失って、党と国は国家らしくなったようで、東三省を失っても誰も文句も言わず、党国家はいよいよ国らしくなり、東三省を失っても、数名の学生が請願書を出すだけなら、党国家はいよいよ国家らしくなり、「友邦人士」のおほめに預かり、永遠に「国の体面」を保持できるかのようだ。
 何通かの電報は極めて明白だ:党国家の実態と、「友邦」の実態がわかる。
「友邦」は我々人民は身を裂かれても、寂として声をあげぬよう求め、少しでも軌を超えるようなことをすれば殺戮する:党国家はこの「友邦人士」の要求を遵守するよう求め、さもなくば「各地の軍政当局」に打電し「緊急措置」をとり、「事後口実を設けて、阻止勧告できなかった云々との責任逃れは許さぬ」!
「友邦人士」はよく知っている:日本兵は「阻止しようが無い」が、学生を「阻止しようが無い」などとは言えないことを。毎月1,800万の軍費と400万の政務費は何に使うのか?
「軍政当局」にか?
 ここまで書いて一日経った21日の「申報」の南京特電に:「考試院部員張以寛は前日学生に連行され重傷したと伝えられたが、張の話では、車夫の誤解で、群衆によって(南京)中央大学に連行されたが、すぐ学校から逃れ出て自宅に戻り負傷も無い。行政院の某秘書も中央大に連行されたが、すぐ出てきて、失踪の事実はない」叉「教育ニュース」欄には、本市(上海)の一部の学校から南京に請願に行き、死傷した学生の確認数として:中国公学(公立)死者2、負傷30、復旦負傷2、復旦付中負傷10、東亜失踪1(女性)上海中失踪1、負傷3、文生氏(学校名)死者1、負傷5……」と。
学生は国府の打電に言う「社会秩序を破壊して余すところなし」で、国府もただ単に従来同様に鎮圧することができただけでなく、無実の罪を着せて殺戮する、という相手にはとても及ばないのが見て取れる。
「友邦人士」よ、これから先は、「なんら驚き怪しむ」ことなく、遠慮なく(我が国土を)
瓜分されよ。

訳者雑感:
 「友邦」は当時のシナ(中華民国をそう呼んだ)は、国の体をなしていないから、日本が近代化を支援する云々と称して、日清、日露戦で台湾、遼東半島、第一次大戦の対独宣戦布告で山東などを占領した。
 そしてここで魯迅が指摘している満州事変以降、遼寧・吉林を占領し、更に拡大を続けた。何の驚き怪しむこともせずに遠慮なく「瓜分」されよ。と自虐気味に書いている。
瓜分された後、日本軍の防衛網が伸びきって手薄になり、一定の時間が経てば、侮られ、
虐げられた人民もいつかは逆襲に転じることもできる、と信じているようだ。
 石橋湛山が「青島」は断じて領有すべからず、と主張していたように、国民が一丸となって侵略に突き進めば、軍部の笛太鼓に踊らされて、最後は国民が悲惨な目にあうのは、
分かり切ったことだ、と。石橋はその後も同じ主張を繰り返したが、結局はこのざまだ。
ものごとは 行き着くところまで一度転がさないと、治らないものか?
 原発は安全だからという笛太鼓で転がって来たが、今年の大津波がその非安全を証明してくれるまで、誰も反原発の意見に耳を貸さなかったし、どんどん建設が進められてきた。
最後に悲惨な目に会うのは、戦地に残された開拓団と、原発周辺の住民だ。
 2011/10/20訳


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「知識労働者」万歳

「労働者」という言葉が「罪人」の代名詞となって丸4年経った。圧迫しろ、といっても誰も反応しない:殺せといっても誰も無反応:文学でこれを提起すると、多くの「文人学者」と「正人君子」が嘲罵し、次いで彼らの徒弟や徒孫が嘲罵する。
労働者よ、労働者は、ほんとに永遠に立ち上がれないのか?
 ところがついにある人が諸君のことを思い出した。
 なんと帝国主義の旦那たちが、国民党政府が屠殺にてこずっているのに不満で、自ら乗りだし、爆撃砲撃を始めた。「人民」を「反動分子」と呼ぶのは党政府の十八番だが、帝国主義の親分もこの妙手を使い、(日本の満州事変に)抵抗しない従順な国民党政府の官軍を
「匪賊」と呼んで、「膺懲」を加えた!
無実の罪(ぬれぎぬ)で、実に「順」と「逆」を分かたず、玉石倶に焚す、と憤慨。
 それでまた労働者のことを思い出したのだ。
 そこで永らく耳にしなかった「親愛なる労働者諸君」の熱い呼び声が文章にも現れ:永らく見たことも無かった「知識労働者」の奇妙な位(くらい)も新聞に登場した。更には
「連携の必要を感じ」「協会」を組織し、樊仲雲、汪馥泉を幹事にし、多くの「知識労働者」を新任した。
 どんな「知識」があり、どんな「労働」があるのか?「連携」して何をするのか?その
「必要」はどこにあるのか?それらのことは暫く置く。
「知識」の無い肉体労働者には何の関わりも無いことで、「親愛なる労働者」よ!諸君はこうした高貴な「知識労働者」に替って一度起ちあがってみようではないか。彼らに元の通り、部屋の中で、彼らの高貴な知識を「労働」させてもらおう。たとえ失敗しても「体力
に過ぎず、「知識」は元のまま残るのだから。
 「知識」労働者万歳!

訳者雑感:出版者注に依ると、「知識労働者協会」の二人の幹事は、汪兆銘(偽)政府の役人となって(偽)中日文化協会の幹事もしている。
「文人学者」たちは肉体労働者を嘲罵していたのが30年代の現実であった。その「文人学者」とその徒弟、徒孫たちが「知識労働者協会」を組織して、何をするのか?(偽)政府の御用役人として、連携を取り、帝国主義の親分(日本軍部のこと)たちとの協調を図るのだ。満州に侵入した日本軍に抵抗することと、協調とは二律背反である。
   2011/10/16訳


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「野草」英訳本の序

 Y.S氏が彼の友人経由「野草」の英訳を見せ、何かひとこと書けという。私は英文が
分からぬので、自分のことしか書けない。但私は訳者が彼の希望の半分しか応えられぬことを怨まないで欲しい。
 20数編の小品は、各篇に注記したように、1924―26年、北京で「語絲」に載せたもの。
大抵は折々の小さな感想に過ぎぬ。当時直接ものを言うのが憚られたので、時には大変あいまいな措辞となった。
 今、いくつか例を挙げる。当時盛んだった失恋詩を風刺するため「我が失恋」を書いた。
世間に傍観者が多いのを憎んで「復仇」第一篇を書き、青年が意気消沈しているのに驚き、
「希望」を書いた。「この様な戦士」は文人学者たちが軍閥に協力するのに感じて作った。
「臘月」はエゴイストが自己保身するのを書き、段祺瑞政府が徒手の民衆を射殺した後、
「淡い血痕の中に」を書き、その時私は既に別の場所に避難していたが:奉天派と直隷派の軍閥戦争時「まどろみ」を書いた。その後私はもう北京におられなくなった。
 だからこれも大半は寂れ果てた地獄の周辺に咲いた血の気の失せた白い小さな花で、当然ながら美しくもなんともない。ただ、この地獄も必ずなくさねばならない。これは何人かの雄弁さと辣腕の手により、当時まだ志を得ぬ英雄たちの顔の色と語気が、私に訴えかけてきた言葉である。それで私は「失われた地獄」を書いた。
 後になるともうこうした物は書かなくなった。日々変化する時代に、もはやこうした文章を書くことが許されなくなり、甚だしきはこの様な感想の存在さえ許さなくなった。思うにそれで良いか、と。訳書の為の序もこの辺りで終わるべきだろう。 11月5日

訳者雑感:魯迅は作品中に英語の文章をそのまま引用しており、英語の本は問題なく読めた筈だが、自作の「野草」の英訳について何か書いてくれと言うのに対して、「英語は分からぬ」として、作品の成立背景と意図を簡潔に記すのみで「序」を終えた。
 1926年の北京の上空には軍閥の軍用飛行機が飛び交い、段祺瑞政府は徒手空拳の学生や
民衆が請願に来たのを無差別に銃殺した。まさに地獄であった。それをなくすべきとして、
この「野草」を書けと、「志を得ぬ英雄たちの顔の色と語気」が(その地獄でうめきながら)
彼にこれを書かせたのだ。
 「絶望が虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ」
希望が虚妄なのだから、絶望が虚妄だとして絶望するにはあたらない。
  2011/10/16訳

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中華民国の新「ドンキホーテ」たち

16世紀末、スペインの文人セルバンテスは大作「ドンキホーテ」を書いた。このキホーテ先生は剣豪小説にとりつかれ、古代の遊侠に倣おうと壊れた甲冑を着、痩せ馬に乗り、
従者一人を連れて漫遊し、妖怪を斬り、服従させ、暴虐者をやっつけて民を安んぜんとした。ところが、もうそんな古色蒼然たる時代は終わり、多くの笑い話を残したのみだった。
幾多の苦労をなめ、ついに大きなペテンにかかり、重傷を負って狼狽して帰り、家で死んだが、臨終の時、やっと自分がなんら大した侠客でもなく、凡人に過ぎぬと覚った。
 この古典は去年中国でも大変多く引用され、このあだ名を頂戴した人はどうもうれしくないようだった。確かにこの書物ボケはやはりスペインの書物ボケで、「中庸」を尊ぶ中国にはこれまで無かった類のものだ。スペイン人は恋を語るにも、毎日女の家の窓の下で歌う。カトリックを信じるとなると異端を焼き殺し、革命となると教会を破壊し、皇帝を蹴りだす。だが、我が中国の文人学者は、女の方から誘引されたと言うし、諸々の宗教の源は同じゆえ、寺社は保存すべしという。宣統帝は革命後も長年の間、宮殿で皇帝のままでいるのを許してきたではないか、と。
 先日の新聞に何名かの店員が剣豪小説にかぶれて、忽然(武術で有名な)武当山に行き、
修業したなどはキホーテに似ている。がその後どうなったか続報が無い。あまたの奇跡を起こしたとか、暫くして家に戻ったか知らぬ。「中庸」を旨とする例からすれば、多分家に戻ったのだろう。
 その後中国式「キホーテ」の登場は「青年援馬団」(馬という抗日将軍への支援団)だ。
しかし兵でもないのに戦場に行くと言いだし:政府は国際連盟に提訴しようとしているが、彼らは自ら動き出そうとし:政府はそれを許さぬが、どうしても行くという。中国にも鉄道ができたのだが、一歩一歩歩いて(東北まで)行くと:武器は大事だが、ただただ精神を重視する、と。これらすべては確かに「ドンキホーテ」と呼ぶに十分である。だがやはり中国の「ドンキホーテ」で本物は一人だが、彼らは団体:彼を送りだしたのは嘲笑で、
彼らを送ったのは歓呼:彼を迎えたのは「いぶかり」だが、彼らを迎えたのはこれも歓呼:
彼は深山に住んだが、彼らは(上海近郊の)真茹鎮に駐屯:彼は粉引き小屋の風車を戦ったが、彼らは常州で櫛簪の女と戯れ、美女に出会った。なんたる幸い。(「申報」12月号
「自由談」参照)その苦楽の差たるやかくの如し。嗚呼!
 確かに古今内外、小説はあまた有り、中には「棺を担いで」「指を切って」「秦庭に哭し」
「天に誓って」などの決死の物語は多い。今も目にし、耳にするは、棺を担ぎ、指を切り、
孫文陵に哭して出発を宣誓するなどから免れていない。五四運動のころ、胡適之博士が
文学革命を講じた時、「古典は用いぬ」ように、としたから今や行動でも用いぬ方がよいではないか。
 20世紀の戦争小説では少し古いので、レマルクの「西部戦線異状なし」レンの「戦争」
新しいところでは、セラフィモヴィッチの「鉄の流れ」やファジェーエフの「毀滅」があるが、それらにはこの様な「青年団」は出てこない。彼らは皆本当に戦ったのだ。
訳者雑感:
岩波映画が文化革命の中国の青年たちが団を組んで、全中国を歩いて回った映画を造った。
「夜明けの国」という題だった。巨大な赤旗を先頭に百名、二百名もの男女が、津々浦々の農村を回って、この革命を宣伝し、「文化大革命」を広めようとした。彼ら彼女らの目は
生き生きとしていた。現実に訳者が江西省南昌で3日ほど旅に同行してくれた小柄の女性は、すがすがしかった。
 鉄道もあったし、それに乗って辺境に下放された青年もたくさんいた。だが、映画に見るように、徒歩が基本であった。全国を歩くことで、自分の見聞も広まり、相手の農民たちも彼らから影響を受けたという。だが、中には無銭飲食だけするような輩も多くいた。
彼らは寺社を破壊し、財産を持ち出して、そうすることが「文化革命」だとした。
旧を破壊しなければ、新は立てられないというのがお題目。「破旧立新」だ。
 魯迅がここで痛罵しているのは青年団だが、彼らとは180度違う青年たちもいて、やはり徒歩で広大な祖国の大地を歩き続けた。司馬遷が若いころに祖国の各地を巡ったように。
それが統一への一歩となったと思う。
 文革が批判されて以降、「夜明けの国」で見たような瞳を見ることは稀になった。
   2011/10/15訳


 

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再び「順」な翻訳について

この「順」な翻訳が出てからだいぶ経ったが、大文学家と翻訳理論の大家は誰も気にしなかった。但、偶然私の集めた「順訳モデル大成」の原稿本にこの項目を訳したので、再度取り上げることにした。
 中華民国19年8月3日の「時報」に一号活字で「両手に針を穿たれて…」という題で、こうある:
 『共産党に捕まったが、身代金を払って長沙から逃げてきた中国商人と従者二名は昨日、
難を避けて漢口に到着。主僕らは鮮血淋漓に友人に語って曰く:長沙に共産党のスパイがおり、多くの資産階級が29日朝捕まり、我らは28日夜に捕まり、針で手を穿たれ、秤に乗せられて、とそれを語る時、布を解いて穿穴を示し、鮮血はなお淋漓。…(漢口2日、
電通)の電報』
 これはもちろん「順」で、少し注意すると疑わしい点もあるが、例えば、1.主人は資産階級だから「鮮血淋漓」だが、二人の僕は多分貧乏人なのに、なぜ同じように「鮮血淋漓」なのか? 2.「針で手を穿つ、秤に乗せ」は一体何をしたのか?重さをはかって、
罪名を決めるわけではあるまい。但、そうであっても、文章は「順」であり、社会的にも
もともと共産党の行為はへんてこな奇怪なものとされ:況や「玉歴鈔伝」(地獄の責苦を解いたもの)を見れば、十殿閻魔王の某殿で、天秤で罪人を計る方法があるから、「秤にのせて」云々も奇とするには足りぬ。だが秤にのせるにはフックでかける要も無く、「針」を使うのは特別のようだ。
 幸い同日の日本語の「上海日報」に偶然、電通社の同じ電報を見、「時報」の訳者が「硬訳」にこだわり、「順」を求めたので、少し「不信」になったものと判明した。
 「信」で「不順」に訳すとすると大略は下記のようになる:
『彼ら主僕は恐怖と鮮血に染まった経験談を当地の中国人に語った。共党軍中に長沙の事情に詳しい者がおり、我らは28日の夜半に捕まり、拉致された時、腕に孔をあけられ、鉄線で穿たれ、数人或いは数十人が一串にされた。語った時、血に染まった布で包んだ手を示し…』
 これで分かったのは、「鮮血淋漓」なのは彼ら主僕ではなく、彼らの経験談で、二人の僕の手は何の洞もない。手を穿ったのは日本語で「針金」とあり、本来鉄線と訳すべきで、
「針」ではない。針は衣服を縫うものである。「秤に云々」は一言も触れて無い。
 我々の「友邦」の友人は中国の古怪なことを紹介するのがとても好きらしく、特に「共産党」について:あの4年前の「裸体行進」をほんとの様に伝えたので、中国人もつれて
何カ月も騒いだ。実は警察が鉄線で植民地の革命党の手を穿ち、一串にして引っぱって行ったということで、所謂「文明」国民のしたことであって、中国人はそのやりかたすら知らなかった。鉄線は農業社会では生産してこなかったから。
 唐から宋まで迷信で「妖怪(人)」は鉄索で鎖骨を穿ち、変幻を防いだが、もう久しく使われなかったので、知ってる人もいなくなった。文明国の人は自分の使う文明的方法を、中国に持ち込み、中国にはそんな文明は無かったため、上海の翻訳家も分からないので、
鉄線で穿つのではなく、閻魔殿でのやり方に照らし、「秤」ではかって、事を片づけてしまった。
 デマとデマの提灯持ちは一瞬にして馬脚をあらわした。

訳者雑感:
 中国の昔の映画にでてくる犯罪人を連行するシーンは、首かせをつけ、両手は手錠をかけたように縛っている。確かに農業社会だから鉄線などはなく、首かせも木なら、縛るのも縄であった。
 鉄線を両手に穿つというのは、日本語の方では腕に孔をあけられとある。考えただけでおぞましいが、いずれ死刑にするための連行で、それを見に来る群衆への見せしめとしては、とても威力があったのだろう。
 それにしても、針金という日本語の漢字を「縫い針」と訳した上海の翻訳家は以て他山の石である。私自身にも同様の間違いを起こしているに違いない。反省。
       2011/10/15訳


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風馬牛

「順で不信」の方がましだと唱える御大将趙景深氏は近頃なんら大作も訳さず、主には
「小説月報」に「海外文壇ニュース」を紹介するのみ。これも勿論感謝すべきだ。あのニュースは彼が文献を訳したものか、それとも自ら問い合わせたとか研究したものか?知るすべも無いが。訳したものでも大抵は出所の説明がなく、調べようも無い。当然「順で不信」訳を唱える趙氏はそんなことに気を使う必要も無く、多少の「不信」があっても宗旨貫徹ということだろう。
 然るに私はひとつの疑問がわいた。
 「小説月報」2月号に氏は「新群衆作家近況」と題して、そのひとつに「Gropperはサーカスの絵入り物語『Alay Oop』を脱稿、とある。これは極めて「順」だが、この本の絵を見ると、サーカスではない。英語の辞書で書名の下の2行の英文注記の「Life and Love Among the Acrobats Told Entirely in Pictures」を調べて分かったのは「サーカス」の物語ではなく、「サーカス団員たち」の物語だった。こうなると勿論「不順」だが、
内容はそうなのだから、別の言い方も思いつかない。「サーカス団員」でなければ「Love」は生まれない。
「小説月報」の11月号に趙氏は「Thiessが四部曲完成」と教えてくれ、「最後の一冊、『半人、半牛怪』(Der Zentaur)も今年出版された」という。この「Der」を見て、ちょっと驚いた。これはジャーマン語で、辞典を引こうとすれば、(ドイツ系の)同済学校以外ではなかなか手に入らぬから、敢えて二心を持とうとは思わない。だが、その次の名詞を書かねば良かっただろう。書いたがために、叉疑問雑念が起こってしまった。この字は多分ギリシャ語で英語の辞書にもあり、しばしばそれを画題にしているのを目にする。上半身は人で、下半身は馬で、牛ではない。牛馬は同じ哺乳類だから「順」にするためには、混用しても構わぬが、馬は奇蹄類、牛は偶蹄類であるから分別した方が良い。「最後の一冊」を出すにあたり、わざわざ「牛」(ホラ)を吹いたら、趙氏の有名な訳「牛乳路」(Milky Way:銀河の意)を連想させられた。これは直訳又は「硬訳」のようにみえる。がじつはさにあらずで、縁もゆかりもない「牛」が入り込んだのだ。
 この故事は辞書をひくまでもなく、絵を見ればすぐわかる。ギリシャ神話の大神ゼウスは女性をとても好む神で、ある時人間世界に来て、某女子との間に男児をもうけた。物事には必ず偶があり、ゼウスの妻は大変嫉妬深い女神で、彼女はそれを知るや、机を叩くや椅子を鳴らすの大騒ぎ。その子を天上に取り上げ、機を見て殺そうとした。が、その子はとても天真で、そうとはつゆ知らず、あるとき奥方の乳頭をくわえて乳を飲もうとしたので、彼女は驚いてその子を押しのけ、人間世界にけり落とした。だが、彼は死ななかっただけでなく、後に英雄となった。
 だが、彼女の乳汁は「牛乳路」となった――いや「神乳路」とすべきだが。
白人たちはすべての「乳」を「Milk」と呼ぶし、缶入りの牛乳を見慣れているので、
時に誤訳も免れぬのは、むべなるかなで怪しむには足りぬ。
 しかし翻訳に関しては、一家言ある名人が、馬に出会って昏迷し、牛を愛することが、
性となり、「牛頭は馬嘴に合わぬ」訳も、少しは話のタネにすべしか――他人の話のタネにすぎぬし、これでギリシャ神話を少し知ることができたにすぎぬが、趙氏の「信で不順は順で不信(な訳)に如かず」の格言にとっては何の損害も無いことではある。
 これを称し「乱訳万歳!」という。

訳者雑感:日本で天の川をミルキーウエイと表記する人も別に珍しくもなくなった。
1930年代の中国でそれを「牛乳路」と漢字で表記し、銀河とか天の河という従来の表記より新鮮なイメージを持たせようとしたのだろうか。
 唐詩の英訳を見ていて、漢字の逐誤訳に出会って驚くことが多い。特に中国人で英語の堪能な(というか、
英会話は問題ないほどの達者な)人でも、中国語の本来のニュアンスには頓着せず、そのまま「柳色新」を  Color of Willow Newと辞書の一番目に出てくる意味をそのまま使って平気な人もいる。ひどいのになるとWillow Color Newで、これは香港や上海の租界で使われて来た、外国人相手のビジネスで通じればよいというピジンイングリッシュの影響だろう。
 今日の政治の世界でも中国的発想から、彼らの論理を漢字で表現するのに何の抵抗というか、気配りもしていないことが多々ある。
 南シナ海の島の帰属を巡って、ベトナムやフィリピンが抗議するのに対して、小国ベトナムの反抗を断乎として懲らしめねばならぬ云々という論調である。
 戦前の日本が「大日本帝国」と称して、東亜の迷える子羊たち、小国、植民地にされている諸国を統合して「大東亜共栄圏」などと思いあがったころを彷彿させる。
 もちろん彼らの人口、面積と比較したら、ベトナム、フィリピン、それに我が日本すらも
みな小国には相違ないだろうが、それは大国が使う言葉ではない。相手の立場で考えない国の発想だ。
    2011/10/13訳









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「読み易い」翻訳

 この一年余、「硬訳」を目の敵の様に攻撃した名人は、三代あった:最初は祖師梁実秋教授、次に従弟の趙景深教授、最近では徒孫の楊晋豪大学生。但しこの三代の内、趙教授の主張が一番鮮明且つ徹底しており、その精義は――
『信(原文に忠実)で不順(読みにくい)は、順(読み易く)で不信(多少忠実でない)に如かず』という。
この格言は奇奇古怪だが、読者には効用があるようだ。「信で不順」な訳は、ちょっと読んだだけで疲れてしまい、読書で気持ちを安らげようとする人には、当然趙教授の格言を敬服する。「順で不信」の訳については、原文を対照せねば「不信」がどこにあるかも分からない。しかるに原文を対照できる読者は中国に何人もいない。こうなると、読者は訳者よりたくさんのことを知らねば、その誤りを見つけられぬし、どこが「不信」なのかも分からぬ。さもなくば、いい加減に頭の中に放り込むよりほかない。
 私は科学について、余り知らぬし、外国の本も大して持っていないので、訳を読むほかないが、近頃たまたま、疑わしい点に出会った。例えば、「万有文庫:の周太玄氏の「生物学概説」に――
『最近二―ルとエールの両氏は麦について…』
私の知る限り、スウェーデンの有名な生物学者、Nilsson-Ehleが小麦の遺伝の実験をしているが、彼は一人で複姓を持っているので「ニールソン・エール」と訳すのが正しい。それを両氏とか及びとするのは順ではあろうが、別々の人間かと思わせる。まあこれは小さなことだが、生物学を講じるにはこうした細かい点も祖略にしてはならない。我々も暫くあいまいなままとなってしまう。
 今年の「小説月報」3月号の馮厚生氏訳「老人」に次の一文があり――
『彼は傷寒病(腸チフス:但し漢方医では風邪を指すこともあり:訳者)から流行性感冒の重症になり…』
これも大変「順」ではあるが、私の知る限り、流行性感冒はチフスより重症な病気ではなく、一方は呼吸器系、他方は消化器系の病で、どんなに「変」じようとも「変」じられぬものである。ここは「傷風」或いは「中寒」とすべきで、それなら変じられる。だが小説は「生物学概説」と比べようもないから、そのままとしておこう。今回もう一つ奇特な実験を見てみよう。
 この実験は何定潔と張志耀の両氏の米国Conklinの「遺伝と環境」の共訳で、訳文――
『…彼らはまず兎の眼の髄質の水晶体を取り出し、家禽に注射し、家禽の中で「代晶質」が生成され、この外来の蛋白質精を透視できるようになってから、再度家禽の血清を取り出し、受胎した雌兎に注射する。雌兎はこの注射により、その多くは耐えきれずに死亡するが、それらの眼あるいは晶体には何ら障害の跡は見られず、それらの卵巣内の蓄卵は、何ら特別な障害も見られなかった。それらが、それ以降生んだ子兎は残欠不全の眼をもったものは無かった』
 この文章は頗る「順」でよく理解できる。但し良く見ると分からなくなってくる。
1.「髄質の晶体」とは何か?水晶体は髄質皮質に分かれていないから。
2.「代晶体」とは何か?私は原文と照らし合わすことはできないが、悩んで考えに考え、
下記のように改訳すべきだと思った――
『彼らはまず兎の眼の中の漿状を製成する(注射に便利なように)水晶体を取り出し、家禽に注射し、家禽がこの外来の蛋白質(即ち、漿状の水晶体)に感応して「抗晶質」(即ちこの漿状水晶体に抵抗した物質)を発生するまで待つ。その後再びその血清を取り出し、懐妊中の雌兎に注射する…』
 以上、随意に数例を挙げたが、この外にもつい他の事にまぎれて忘れてしまった物も多い。そして多くは私の気づかぬままにすりぬけてゆき、間違ったまま私の頭の中に入っている。但し、この数例は、我々には「信で不順」な訳というものは、読んでも分からないというだけで、少し考えれば分かるようになるかもしれないが、「順で不信」な訳は人を誤らせ迷わせ、どう考えても分からぬし、分かったような気になったなら、それはまさしく、
迷路に入った訳(わけ)だ。

訳者雑感:
 魯迅が翻訳したものを「硬い訳」で読むのに指で地図を調べるようにせねばならぬ云々と批判した三代の攻撃相手を名指して、反駁しようとするのが本文だ。この中で辞書によると、傷寒病については「中国医学では風邪のことも指す」という説もあるが、一般的には腸チフスであるから、ここはそれで良いとも思うが、訳者は傷風と書いたつもりが寒に
書き間違えたかも知れぬ。
 魯迅の主張は、あくまで「硬い訳」でも「原文に忠実」であれば、よく考えれば理解できるようになるが、原文に忠実でない読み易さだけを前面に出した訳は、間違ったまま頭の中に入り込んでしまって、取り返しのつかぬ迷路にはまり込んでしまう、というものだ。
 我々は翻訳でなくとも、勝って解釈して読み違えることがよくある。文章は相手に自分の訴えたいことを正しく伝えることで、その役目を果たす。孔子の言う:辞は達するのみ。
自分の真意が相手に正しく伝えるもので、ソレダケのものである。その何と難しいことよ。
   2011/10/12訳

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知るも難、行うも難。

 中国の昔からのしきたりでは、皇帝になり安定した政治をやろうとした時や、具合が悪くなった時は、決まったように文人学士に下問する。安定にしようとする時は「武を止め、文で修めん」との言葉で粉飾し:具合が悪くなると彼らは本当に「治国平天下」の大道を有していると思って下問する。よりありていに言えば、「紅楼夢」にいうように「病篤ければ、むやみやたらに医者に診てもらう」だ。
 「宣統帝」が退位して無聊になったとき、我々の胡適之博士がかつてこの任を果たした事があった。
 会見後も奇怪なことに、人々はまずどうしたわけか、彼らがお互いにどう呼び合ったかを訊いた。博士曰く:
「彼は私を先生と呼び、私は彼を皇上(陛下:訳者)と呼んだ」と。
その時は国家の大計は何も触れなかったようで、この「陛下」は後になって何首か雑詩をつくり、無聊のままだったが、暫くして金鑾殿(皇帝の正殿)から追い出されたが、今叉
羽振りが良くなり、東三省に行ってもう一度皇帝になろうと考えている由。そして上海では、「蒋が胡適之と丁文江を召見」と聞く:
 『南京特電:丁文江、胡適は南京で蒋(介石)に謁す。今回は蒋の召を奉じ、大局につきご下問あり…』(10月14日「申報」)
今現在、誰も彼がどのように呼んだかを問うていない。なぜか?もうそれは分かっているからで、今回は「私は彼を主席と……」!
 安徽大学学長劉文典教授は「主席」と呼ばなかったため、何日も入牢させられ、やっとのことで保釈されたが、同郷で昔からの同僚だから、博士は当然知っているから、「私は彼を主席と呼んだ」!に違いない。
 叉誰も彼に何を「ご下問」されたか訊いていない。
 なぜ?これも「大局」と知っているから。しかもこの「大局」も「国民党専制」と「英国式自由」との論争などという面倒な問題や「知るは難かしいが、行うは易しい」と、
「知るは易しいが、行いは難しい」的なややこしい論争でもなかったから、博士はすぐに、
出てきたわけだ。
 「新月派」の羅隆基博士曰く:「根本的に政府を改組し、…全国各界の人材がそれぞれの
政見を代表するのを認める政府、……政治的意見も犠牲にすることができ、また当然犠牲にすべきである。(「瀋陽事件」=満州事変について)
 それぞれの政見を代表する人材、政府の改組、そして政治的意見を犠牲にする。この種
の「政府」はじつに神妙極まりない。
 但し、「知るは難しいが、行うは易しい」(孫文の言葉で蒋介石が引用:訳者、案ずるより産むが易し、というニュアンスで革命に取り組めの意)という人が、「ご下問」したのも、
「知るも難しいし、行うも難しい」(胡適の言葉)の人に下問されたのも何かの前兆か?
訳者雑感:
 蒋介石が胡適らに下問したことを風刺しているのだそうだ。英国的な自由制度を唱えてきた胡に「国民党専制(独裁)」を掲げる蒋介石が下問した「大局」は結局どうなったのか。
蒋介石を主席と認めなかった胡の同郷の同僚は牢に閉じ込められた。これが独裁である。
自分を認めない、自分の政権政府に反抗する者は逮捕する、というやりかたは21世紀の今日の政権も何ら変わる所は無い。それを知りながら政権から下問を受けたら、政権の都合の良いように受け答えして、政権内で自分の位置を保って行く。それが長い伝統に裏打ちされた、「文人、学士」の名利追求の道であった。それで歴史に名を残すことが、文人の務めであった。魯迅も辛亥革命後の政府の教育省の役人を永い間続けてきた。それに見切りをつけるのは、追い回されて逮捕されそうになったからであって、もし逮捕されるほどの危険が身に及ばなかったら、胡適とさほど隔たったことにならなかった可能性はある。
 漢民族としては、時の政権の内部で立身出世をすることが、第一義であって、反体制とか謀叛というのは、食いつめるか、逮捕、入獄させられる危険でもないと起こさないだろう。正史に名を残すのが「孝」の最たるものであったから。
    2011/10/11訳

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