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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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冤罪を晴らす

冤罪を晴らす
 リットン報告書が、中国人が自から発明した「国際協力で中国を開発する計画」
を採用したのは、感謝に値する――最近(首都)南京市各界の電報は、
「南京70万民衆を代表し、謹んでねぎらいの意を表す」とし、
彼を「中国の良き友人であるのみならず、世界平和と人道主義の保障者」
であると褒め称えた。(3月1日南京中央社電)
 しかし、リットンも中国に感謝すべきで:
第一に、中国に「国際協力学説」が無ければ、リットン卿も彼の意思を表すに、
適当な措辞を見いだせず、共同管理も学説的な根拠が無くなるのではないか。
第二に、リットン卿も自ら言うように:「南京は元々、日本の支援を歓迎し、
共産の潮流を拒否できる」とし、彼はまさに中国当局のこの苦心の成果に、
心から敬意を表すべきだ。
 リットン卿は最近パリで演説し(ロイター2月20日パリ電)
二つの問題を提起した。一つは:「中国の前途は、如何にして、いつ、誰が、
この偉大な人間の力に、国家意識の統一力を与えられるか。
ジュネーブか、モスコーか?」
もう一つは:「今中国はジュネーブに傾いているが、日本が現行政策を堅持したら、
ジュネーブは失敗する。そうなると、中国の望むところではないだろうが、
その傾向を変更するだろう」
 この二つの問題は中国の国家としての人格を些か侮辱している。国家は政府也。
リットンは、中国は「国家意識の統一力」が無いと言い、ジュネーブへの傾きを、
変更するだろう、とまで言う!
これは中国国家の国際連盟への忠誠と対日本への苦難を信じてないのではないか?
 中国の国家としての尊厳と民族としての栄光の為に、我々はリットン卿に答えよう、
としてもう数日たったが、適切な文章が出てこない。これは大変つらいことだ。
 今日突然、新聞に宝を発見し、これで李大人(リットンの漢訳)に答えられる:
それは「漢口警察の3月1日付け布告」だ。ここに鉄の如き事実を探し出せる。
 李大人の懐疑に反駁することができる。
 この布告(原文は「申報」3月1日付け漢口電)は言う:
「外資会社の労働者は、労資間で未解決の正当な問題があれば、我が主管機関に、
代理交渉または救済を申請のこと。直接交渉は厳禁する。違反者は逮捕する。
人に利用され、故意にその手段を使って、深刻な事態を引き起こす者は死刑に処す」
 これは外国資本家が「労資間で未解決の正当な問題」にぶつかったら、
直接任意に処理でき、一方労働者側でそうする者は…処刑される。
そうなれば、我々中国は「国家意識で以て統一した」労働者しかいなくなる。
凡そ「この意識」に反した者はすべて中国という「国家」から離れるよう要請される。
――あの世行きだ。
李大人はこれでも中国当局に「国家意識で統一した力」が無いと言えるだろうか?
 さらには、この「統一した力」を統一するのは、勿論ジュネーブで、モスコーじゃない。
「中国は今、ジュネーブを向いている」――これは李大人ご自身の言葉だ。
我々はこの方向で十二万分の堅実さで、あの布告に言う如く:
「ゴロツキ・ヤクザがグルになって金で誘導したり、直接駆使したり、名義を騙って、
社会の安寧・秩序を破壊しようとし、その他の我国社会に不利益をもたらすような、
重大な犯行者は、容赦なく殺す」というのは、「ジュネーブに向いている」固い保障で、
所謂「流血も辞さず」である。
 更に「ジュネーブ」は世界平和を講じており、この為、中国は2年来抵抗しなかった。
抵抗すれば、平和を壊すから。1.28(事変)まで、中国もバンバンと爆弾・銃砲を
打つ構えはみせたに過ぎず:最近の熱河事変で、中国側も国内の「防御線短縮」に、
つくしている。
それのみならず、中国側も剿匪に一生懸命取り組んでおり、この1-2カ月で、
土匪と共匪を粛清すると宣誓し、「暫時」熱河には手を出さぬと誓った。
これらすべては「日本が……中国南方の共産潮流が起こるのを見て、大変焦慮する」
必要はなく、日本は自ら出しゃばって来る必要の無いことを証明している。
中国側は、このように忍耐し、活動しているのは、日本に感動してもらうためで、
彼らを悔悟せしめ、極東永久平和の目的を達成し、国際資本はここで分担協力できる。
だがリットン卿は中国が「その態度を変える」と疑っており、それは大きな冤罪である。
 要するに、「死刑に処し、容赦なく殺す」これがリットン卿の懐疑に応える歴史文献だ。
どうぞ安心され、支援してください。  3月7日
訳者雑感:
 日本人の多くはリットン調査団報告が、日本に国際連盟脱退を決意させたとし、
リットンの報告書がああいう形でなければ、泥沼の日中戦争から世界大戦に入らなかった、
という「惜しいことだという感じ」を抱いている。
 しかし、この報告書の基盤は中国人自身が編み出した満州を「国際協力での共同管理」
するという肯定的なものだった、という認識は少ない。
日本は既に満州国を認め、百%自分の勢力範囲だと「帝国主義」意識に酔いしれていた。
 中国(南京政府)としては、満州を日本に占領され盗られっぱなしにされないよう、
国際連盟に働きかけ、多国での「国際協力の下で共同管理」するという「学説」を、
あの報告書に盛り込ませたのだ。これで国際資本が協同経営・各国の共同管理となる。
力の弱い中国は、こうすることで延命を謀った。
力が強いとうぬぼれていた日本は、そうはさせじと、自分ひとりが彼の地を統治し、
五族共和の王道楽土を!と無謀なことを試みたものだ。
     2012/11/03訳

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曲の解放

曲の解放(戯曲とは元曲、即ち後に京劇などに発展した曲の意)
「詞の解放」は特集号が出、詞で母を罵るとか、「麻雀すら可能」になった。
戯曲はなぜ解放できぬか、破廉恥のデタラメになるからか?
だが「戯曲」が解放されたら、当然「ありのまま」でなければならぬ。
――舞台裏のものが前面に出るのだから――詩人の温柔敦厚さが失われるだろう。
平仄が不調になり、声律が乖離することも起きるだろう。
 
   『平津会』雑劇
生(男役)登場:良い連続劇は尋常じゃない:攘夷期間も国内安寧に忙しい。
 只、熱河から湯玉麟(熱河主席)が早々と逃亡したのを怨む:
鑼鼓が鳴る前に引っ込んだ。(唱)
{短柱天浄紗:越曲の名}で。
 熱湯の恥知らずが――逃げた!(熱河と湯玉麟の頭文字をかけたもの)(唱)
 抵抗するふりをして――何になる? 
(熱湯は東京知事を放り出した石原氏を「東石」と言う如し:訳者注)
旦(女形)登場(唱):中央政府にならって:旅装を整え西に向かうか。
 咸陽へ奔走するよう相談さ。
生:この野郎。…低い声で:傍らのあの湯児を見てみろ。
 奴はもう演じ続ける気などあるものか。俺の所には分けられない口がある。
 良い劇を演じてみれば、すぐこんなにもひどい状況。ひとに迷惑かけよって!
旦:それがどうしたって言うのさ。もう一度「査弁」を出せばいいのさ。
 我々は一夫一婦、正副そろって唱ってゆけるさ。
生:よし。(唱)
{顛倒陽春曲}民衆の前で、指を突き付けて、張学良を罵り、なぜ抵抗しないのか!
旦が背後で唱)どさくさにまぎれて、ごまかすな!只、そのふりをしているだけ!
      みんな、どんどん罵れ。何の遠慮も要らない。
丑(道化)が袋を担いであわてて登場) あれー!てーへんだ!
旦が丑を抱くしぐさして)息子よ!そんなにあわててどうしたの!
     はやく前にきて、袋を担いで、我々もはやく荷造りしよう(唱)
{顛倒陽春曲}人にそむいて、湯を憐れみ抱き寄せる。
       一声罵り、無駄な抵抗する。
       舞台ではとても慌てた形相を呈するが。
       只、旅装を整えるに過ぎぬ、
       待ってみよう。
丑、哭して)お前たち、旅の支度だ!俺のはまだ全部揃ってない。
さあ、見ろ! (袋を指さして)
旦)息子よ、早く扶桑に逃げな!
生)雷の如く烈しく、風の如く速く。査弁は忙しい。
丑)こんな犠牲を払って、何の意味があるんだ。
  堂々たる男一匹、風光あり。(同下)   
     3月9日
 
訳者雑感:
 先に「詞」(宋代の詩形)を解放することが提起され、雑誌に特集号がでた。
今回、「曲」(元曲以来の各地の伝統劇のなかの音曲つきの劇:オペラの如し)
の解放をしてみようと、魯迅は日本軍の熱河進攻とその主席湯玉麟の慌てぶり、
それと東北・華北一帯を支配していた軍閥張学良の当時の行動・振舞いを戯劇に
したてて、「曲の解放」として、詩作している。
 伝統劇は「三国演技」や「水滸伝」など歴史的史実をベースに、面白おかしく、
脚本化して民衆に受け入れられて、発展してきた。
題材を現代に採るという試みは、その後も続けられ、文革時代、
江青なども4人組の文芸関係者に指示して、新版京劇を幾つか作った。
当時は我々もそれしかないので、それを観たものだが、今はあまり演じられなくなった。
やはり中国民衆は、長いヒゲを垂らした、諸葛孔明などの方が、好きなのであろう。
筋も知っており、何度も観ているもののほうが、安心して観ることができる。
心の安寧が第一のようだ。新作より。
     2012/10/30訳
       
 
 
 

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「パリ解放」を読んで その3

「パリ解放」を読んで その3
 6.
パリの群衆、おもに女性たちが、参謀本部からパリ警視庁に移送のために、
両手を挙げて出てきたドイツ兵の軍服を破り、眼鏡・時計を奪い取ったということは、
何を意味するのだろうか?単なる憎しみから恨みを晴らすだけではないようだ。
 ドイツ降伏前後、ドイツ軍人の女であったということで、多くの女性が頭髪を剃られた。
そうされない為には、ドイツ人と親しくなかったことを群衆の前で示しておくことが、
大切なことであった。
 南仏のペタン政権及び北部フランスの傀儡政権でフランス人の生活を保ってきた、
政治家官僚はドイツへの協力者、売国奴とされ逮捕され処刑された。
そうされない為には、実はレジスタンスであったということを示す必要があった。
 話は日中関係に移る。9月中旬以降、国交回復40周年記念行事がすべて取り消され、
IMFの総会にすら大臣級2人が直前に不参加を表明し、国際世論の批判を受けた。
彼らは本来、参加して堂々と自国の意見を発表すべきだろうが、その機会を放棄した。
 これは何を意味するか?
日中戦争時代、日本に協力した人間を漢奸(売国奴)として所謂「漢奸裁判」にかけ、
多くの日本語を操る親日官僚たちが牢に繋がれた。
魯迅の弟周作人も、傀儡政権の下で日本人の妻とともに日本政府に協力したとして、
蒋介石政府によって獄に繋がれた。
その後、毛沢東政権になって、毛沢東に手紙を書き、自分は魯迅の弟で……
といろいろ弁明して釈放された。
新中国になってからも、反右派闘争から、文化大革命に至る深刻な「トラウマ」がある。
外国と関係がある、外国語を操る、外国に友人がいる、外国人と親しかったというだけで、
右派とされ、腐敗している臭い人間とされ、逮捕監禁され、獄死するものもいた。
 今回、尖閣を国有化した日本人と親しく面談したり、握手したりしている写真が残ると、
5年後10年後に、以前のような運動が再発した際には、同じような容疑で逮捕監禁される証拠を自らつくることになる。
 政府から公式に日本の要人と面談・握手してもよいとのお墨付きが出るまで、
彼らは、そんな危険を冒すことはしないだろう。
暫くは日中間の高官交流は難しいだろう。民間がそれをどれだけ補完できるかが鍵だ。
7.
 武漢の大学で日本語を勉強していた女性が、宿舎から出て来た時に、
「なぜ日本語を勉強するのか」と詰問され、女性は恐怖で震えた、と報じられていた。
 これを紹介した鳳凰テレビの許子東氏は、明治の日本人が西欧言語の漢字訳に果たした功績を紹介した後に、あまたの中国人留学生が、そうした日本訳漢字の言葉を通じて、
西欧の文化文明科学を会得したことをあげ、日本語を勉強することを否定してはならぬと語っている。現実は、多くの親が自分の子が日本語を学ぶのを望まなくなっている。
 日本商品の不買運動にとどまらず、観光や留学先として日本を敬遠するような動きは、上述の高官交流と同様、お上から公式に日本訪問、観光、留学問題なし、との公告が
でるまでは、なかなか元にもどることは難しい。
 
今回の青島や西安などの反日暴動で、店舗を掠奪し、日本車を破壊し、
中にいた中国人に重傷を負わせたりした。
魯迅は辛亥革命の時に、満清政府を倒す為というスローガン「滅満」を掲げて、
満州人政権を支えてきた、中国各地の地方政府を襲い、その財産を山分けした「革命党」
を描き、その延長として、その地方政府の高官や富豪の邸宅を襲って、その財産を奪い取るという場景を「阿Q正伝」の中で描いている。
革命党に入って、邸宅を襲撃し、家財を盗みだしたとして、彼は逮捕処刑されるが…。
今回のこの群衆の中にどれほどの阿Qがいたであろうか。
1911年の辛亥革命から百年経った今も、中国各地に阿Qが沢山いることが、
中国の現実であると認識せねばならない。
ロマン・ロランは魯迅に手紙を送って、「フランス革命の時にも阿Qはいた。
私はいつまでも阿Qのあの苦しげな顔つきをわすれることができない」と書いた。
 今回も、日本大使館などへのデモ行進を行ったのは、官製の「手当付き」のデモが
中心だったと伝えられているが、そうした「官許」が出たと誤解して、
山東や広東など各地で、暴徒化した群衆が、現代の「邸宅」であるスーパーを襲撃し、
商品を奪い去った。そして阿Qのように逮捕された。
デモで注目されたのは、毛沢東の肖像画と、「釣魚島は中国の物、薄熙来は人民のもの」
という横断幕であった。
 魯迅は「阿Q正伝」の初めにこれを書くことになった動機として、
「どうやら阿Qの霊が自分に乗り移ってきたようだ」と書いている。
阿Qの奴隷根性、弱いものに強く、強いものに負けても「精神的勝利」で逃げる。
それほど愚弱な自国民の精神構造を、なんとかせねばとの強い気持ちが無ければ、
あの作品は世に出なかったろう。
 しかし、今日の若者たちは「阿Q」など自分にはまったく縁のないものだと考えている。
自分たちの中に「阿Qの片鱗」が残っていることを認めたくないのだ。
      2012/10/22記

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戦争への祈祷

戦争への祈祷
   ――読書心得
 熱河戦争が始まった。
 3月1日――上海戦争終結「記念日」もまもなくだ。
「民族英雄」の肖像画が次々に印刷され売りだされ:
兵士たちの血、傷痕、熱烈な気持ちは、またどれほど踏みにじられるのだろう?
回憶の中の砲声と数千里外の砲声は、我々には如何ともしがたい苦しい笑いを帯び、
無聊な書をめくってみるが、それも数個の警句の入った閑書だ。この警句に:
「小隊長殿、我々は一体どこへ行くのですか」―― 一人の男が尋ねた。
「出発!俺もどこかは知らない」
「那媽を失くし、死んじまったらおしまい。出発してどうなるの」
「ごたごた言うな。命令に従え!」
 しかし、那媽を失くしたのは失くしたことで、命令は命令だ。出発はせにゃならぬ。
4時ごろ、中山路は静寂となり、風と葉はかさこそと音を立て、月は青灰色の雲に隠れ、
眠り、人間のことは一向に気にしない。
 かくして19路軍は西に退去した。
     (黄震遐:「大上海の毀滅」)
 いつ「那媽を失い」と「命令」がこのようにそれぞれ別々になったとしても、
それを救わねばならぬ。
 さもないと? 更に警句があり、これに答えて:
 19路軍の戦が我々に告げているのは:絵空事以外に何ができるというのか!
 19路軍の勝利はただ我々に対して、その日暮らしで、安逸を偸む迷夢を増やすのみ。
 19路軍の死は、我々が生きていることも憐れで意味の無いことだと告げる。
 19路軍の失敗は、我々に努力せずに奴隷にされる方がましだと告げる(同書)
 
 これは我々に革命に非ずば、全ての戦いはきっと失敗する運命にあると示している。
今、主戦ということは誰も言える――これは、1・28の19路軍の経験:戦いは必ずやる。
だが、決して勝ってはいけない。戦死もだめだ。せいぜいが失敗が関の山だ。
「民族英雄」の戦争への祈祷はこうである。
戦争も確かに彼らが指揮し、この指揮権は他の人にはけっして譲らぬ。
戦争は主持者の敗戦の計画を禁じることができるだろうか?
丁度、舞台で、善玉と悪玉が戦う前に、どちらが勝ち、どちらが負けるかは、舞台裏で、
とっくに決めているように。
嗚呼、我々の「民族英雄」よ!      2月25日
 
訳者雑感:
 この当時の対日戦争は、軍力の圧倒的な差から、中国側は戦わずに「去る」
ことのみだった。そして日本と停戦後、福建省に派遣され、剿共作戦に参加した。
この辺のことを「警句の閑書」から引用している。
「19路軍の失敗は、我々に努力せずに奴隷にされる方がましだと告げる」というのは、
亡国の民としての悲痛な叫びだ。
       2012/10/24訳

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大編集長にも感心しない

大編集長にも感心しない:
   前回の文章への注解     楽雯(瞿秋白の文章を魯迅の別名で出したもの)
 この「非凡」な議論の要点は、
1)辛辣な冷箭(不意打ちの矢)は「受けた者は耐えがたく、聴く者は痛快」だが、
 偉大さの秘訣を得るにすぎない。
2)この秘訣は「主義を借り、名を成し、羊頭を掲げて狗肉を売る技法」にあり:
3)「大晩報」の意見に照らせば、どうやら自分の「主義」の為に――「神武の大文」
 を高らかに唱え「血の盆の如き大きな口を開いて」人間を食うためで、
「20歳で落後したら、化石になるのもまた惜しくは無い」(カッコ内傍点付き)
4)ショー氏がこの種の「主義」に不賛成なら、安楽椅子に坐るべきではないし、
家産を持つべきでなく、「その種の主義に賛成なら、それは別の話だが」
 残念ながら、世界の崩壊はこんなところにまで来ていて――
プチブルの知識階級の分化で、光明を愛し、落後を肯んじない人間として、
彼らは革命の道に踏み出している。
自分たちの種々の可能性を利用し、誠実に革命に賛助して前進している。
かつて客観的には資本主義社会の擁護者だったが、今は資産階級への「叛徒」、
になろうとしている。そして叛徒は常に敵よりも憎むべき存在である。
 卑劣な資産階級心理は、「百万の家財」を与え、世界的盛名を与えているのに、
なおも背叛しようとするのは、どんな不満があるのか。
「実に憎むべき極み」だと考えている。これは無論「主義を借り、盛名を成す」だ。
こういう卑劣な仲買人に対し、夫々の事情はきっとある種の物質上の栄華富貴への、
目的がある。これが本当に「唯物主義」――名利主義だ。
ショーはこの種卑劣な心理の外にいるから、憎むべき極みなのである。
 「大晩報」は更に、一般的時代風尚を推論し、中国にも「安楽椅子に坐りながら、
辛辣な冷箭を放ち、氏の教えなど要らないほど、何とか主義を宣伝している者がいる、
と推論している。
 これは勿論、国の内外も同じ道理で、改めて解釈の要も無かろう。
残念だが:あの食人「主義」を独自に持ち、長い間それを借りてはいるのだが、
「盛名を成す」には至っていない。嗚呼!
 憎むべく、怪しむべきショーについては、彼の偉大さはこの人たちには、
「受ける者には耐えがたい」ため、これを縮小した。
だから中国の歴代の経から離れ、逆に叛く文人にように、当たり前のことだが、
皇帝の名で「家財差し押さえ没収」の判決を受けた。
  「上海におけるバーナード・ショー」
 
 
訳者雑感:
食人「主義」とは何だろう?
魯迅が「狂人日記」などで批判してきた「人を食う」礼教、儒教制度のことか。
それで「盛名を成して」きた儒者は無数にいたが、この60年間に否定された。
今日またそれを精神的基礎に取り戻そうとしている。
     2012/10/23記

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「パリ解放」を読んで、その2

「パリ解放」を読んで、その2
前文で、アメリカはもうモンロー主義に戻ることはないだろうか、で擱筆した。
その後、訳者のあとがきの最後の言葉が頭から離れなかった。
4.
彼女は、本文474頁のマーシャル・プランに関する段で、
ECSC生みの親、ジャン・モネを取り上げ、
彼が戦時中に考えついた計画として:下記している。(一部省略)
 
『もし超大国に支配されたくないのであれば、ヨーロッパ大陸には強さと統一が必要だ』
……(最初イギリスに申し入れたが、イギリスは英仏をしっかり抱き合わせようとする
(アメリカの)ハリマンのこの試みに憤慨していた。
それでも外交攻勢を試みたが、イギリスの心は欧州には無かった。
次にドイツとこの計画を進めることになり…
『どちらもが相手を殴るのに充分な距離まで身をほどくことができない程、
しっかり抱き合わせる』
(Schuman to Sir Oliver Franks, quoted Peter Hennesy 「Never Again」P399)
という言葉に表されるようにならなければ、という考えであった。
 これにドイツのアデナウアーが熱心な支持を与えた。
一方イギリスのベヴィンは一刀両断に切り捨てた。
 
 私は東アジア経済共同体のようなものを作って日中がせめてECSC並みの、
石炭鉄鋼共同体でなく、海洋資源共同体として「互いに殴るのに充分な距離まで、
身をほどくことができない程、しっかり抱き合わせる」ことができれば、と思う。
 
イギリスがEUから距離を置いている様に、日本も中国大陸から、ある程度の距離を
保っておかねば具合が悪いと考えている人が沢山いる状態で、日中がEUの様な状態になるという構想は、台湾と大陸が一つになる前に実現する可能性は極めて低いと思う。
 
 中国そのものがEUより大きな大陸国家で、あるフランスの歴史家は、その4千年の間、
千年は統一国家として安定した状態にあったが、残りの3千年は常に内乱・内戦状態であった、と言う。今もチベットやウイグルなどで自治・独立を目指した運動が絶えない。

 同書の435頁で、クラフチェンコ裁判の結果、
『これをきっかけにフランスはソ連が、労働者の天国ではないと考え始めた』
(1947・48年に仏共産党の敗北後)という段で、その時、ソ連の「強制労働収容所」
の実態が暴かれた。
 その後、周知の通り、スターリン批判から始まる修正主義への方針転換を経ても、
ソ連の体制は多くのスラブ人にとっても、又各共和国の非スラブ人にとっても、
理想的な国家形体ではない、ということが実感され、ソ連は解体した。
 
 2012年2月の中国全国人民代表大会で、温家宝首相が、薄熙来氏を失脚させた。
彼のした事が「文化大革命」の惨劇が再発することになる恐れがある、として。
 30数年前から始まった「経済の改革開放」政策で、確かに中国は見違えるほどの
経済成長を遂げた。80年代のソ連とは比べようも無いほど西側に追いつきつつあるが、
多くの底辺の人々の暮らしは、80年代のソ連とあまり変わっていないとも言える。
 だが、今回のこれが農民・農民工(出稼ぎ労働者)にとって「ソ連が労働者の天国ではない」とフランス人が考え始めた」様な一つのきっかけになる可能性は否定できない。
 ソ連の「強制労働収容所」と似たような仕組みとして、薄熙来氏を初め、多くの地方の
トップたちが、自分の政策や手法に抗議するものを、うむをいわさず「4年間拘束できる」
ことが暴露され、牢に入り切れないほどの人たちが「拘束」されている事実が判明した。
 
 今の「改革開放時代の拘束」は、ソ連のような「強制労働収容所」程ではないとしても、
地方政府の「資本主義的・開発独裁的・不動産、工場団地造成販売式」で庶民には想像も
できないほどの巨額の「財産」を搾取・収賄で一人占めできる「体制」を保つ為に、
「4年間拘束」が増えれば増えるほど、その崩壊のリスクは高くなるだろう。
 
 中国は、3権分立は欧米の制度だとしてこれを否定しており、立法と行政の2院制で、
司法は行政の下に置き、地方行政は正に行政のトップ即ち共産党のトップの「天の声」で決まってしまう。暴力団排除も反政府活動家排除も同じ人間が執行する。
大連や重慶の市民の中には薄熙来氏が暴力団を徹底排除し、街が明るくなったと支持する人もいる。その同じ手法で、反政府、自分のやり方を批判攻撃する相手を排除したのだ。
 
 「パリ解放」の著者たちも言うように、1789年のフランス革命の歴史が、戦後の仏仏戦争(ペタンと左派、ドゴールと共産党の間の)に大きな影響を及ぼしている様に、
2012年の中国内部での中中戦争は、辛亥革命・文化大革命の歴史を引きずっている。
それで尖閣問題を先鋭化し、国民の目を外に向けさせようとしている点は否定できない。
国王を殺し、民衆同士が二つ或いは三つに分かれて、血で血を洗うような激しい革命は、
フランス人と中国人の両民族に共通するように感じるのはなぜだろうか。
   2012/10/19記
 
 
 
 
 
 

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「パリ解放」を読んで

「パリ解放」を読んで
 A.Beevor, A.Cooper著、北代美和子訳 白水社版の同書を読んで考えた。
フランスと中国は、米英等のアングロサクソン系諸国とスラブ系のソ連の力で、
何とかドイツと日本に「惨勝」できた。
1.
 両国は戦争中に独・日に占領され、傀儡政権によって国民の生活が保たれ、
その一方でレジスタンスや抗日ゲリラなどが、米英の武器支援の下で続けられた。
 そして「パリ解放」の時、『パリを支配してきたコルティッツ将軍が、
ルクレール将軍との間で降伏文書に調印するため、パリ警視庁に移送されるとき、
群衆が押し寄せ、中には唾を吐きかける者もいた。他のドイツ軍兵士は両手を掲げて、
参謀本部から出てきたところで、おもに女性からなる群衆に襲われた。
女たちは軍服を破き、眼鏡や時計をはぎとった』(同書72頁)
 北京の日本軍は8月15日の後、北京の群衆にどのように扱われたのだろうか?
我々は旧満州の日本軍兵士の多くが、ソ連軍により武装解除されシベリアに抑留された、
という事実は良く知っているが、北京や上海での日本軍がどうなったか余り知らない。
 勿論戦犯は逮捕され、処刑されたが、多くの「一般兵士」は国民党軍に徴用された。
また八路軍に徴用された兵士もいる。だが多くは日本に逃げて帰ったという。
 しかし一般市民が「降伏した日本軍兵士」の軍服を破き、物をはぎ取った等は、
余り伝わっていない。沢山の戦争孤児を扶養してくれたことは知っている。
 北京の群衆はフランスの群衆のように、ドイツ軍に蹂躙された仕返しをしようと、
しなかったとは思えない。ドイツへの協力を余儀なくされた女性たちの「恨み」は、
軍服を破り、唾を吐きかけることをせねば、気が済まなかったのであろう。
 日本に協力を余儀なくされていた北京の女性たちの「恨み」はパリより少なかった、
というのであろうか。日本軍は今韓国から問題にされている「従軍慰安婦」により、
北京の女性からパリの女性ほど「恨み」を買う事が少なかったのか。
2.
 『ドゴールは戦争中に共産主義の悪魔と取引をし、モスクワに行ってスターリンと
条約を結んだために、多くの潜在的追随者、とくにペタン元帥支持者の目には、
疑わしいままにとどまっていた』(306頁)だが、その後反共に転じた。
 蒋介石も初め、息子の経国をソ連に留学させるほどソ連との結びつきを強めていた。
国共合作は日本に対抗する為、やむをえずだったから、その後反共に転じた。
 ドゴールも蒋介石も将軍から大統領と総統になった軍人政治家だが、
1946年前後、フランスは共産勢力が強く、ドゴールは政権から下野した。
その後、ドゴールの復帰を望む声が大きくなり、共産党を追い落として新共和国を作った。
 一方の蒋介石は、米国などからの支援を受けていながら、内部腐敗などから自滅し、
共産軍に破れて、台湾に逃れ、暫くの間は、台湾を基地に捲土重来を期したが失敗した。
 ドゴールと蒋介石、二人とも立派な軍人であったから、将軍になり総統や大統領に
推されたのだろう。彼はどこで足を踏み外したのだろうか?
フランス人も中国人も、いずれも長い間知識階級が、共産主義を理想と掲げてきた。
だが、群衆の多くは個人主義であり、中央政府を信用しないし、政府の紙幣を信ぜず、
「金」の方を信じる点で、共通なものがある。
1946年の頃、両国とも共産党と反共の勢力がせめぎ合っていた。
その結果、フランスはドゴールという「清廉」なリーダーの下で反共の共和国を作り、
中国は毛沢東朱徳など「清廉」なリーダーの下で、軍隊が規律と力を高めてゆき、
蒋介石というその取り巻きたちも「清廉」でない政権を追い落とした。
 だが、中国人は「本性」として共産主義を好んでいるわけではなく、国民党への
アンチテーゼとして選んだに過ぎないので、今も共産党による一党支配が続くが、
名は体を表していない。いずれ名称が変わるだろう。
3.
 『ドゴールはトルーマン大統領に、ヨーロッパの未来の平和は、ドイツを農業のみに
制限された弱小国家の集合体に縮小し、その一方でフランスをヨーロッパの経済大国
として建設することによって保障されると語り、平和確立の問題は基本的には、
経済問題であるというトルーマンの見解を退けた』(270頁)
 このドゴールの考えは、2度(普仏戦争も含めば3度)もドイツ軍により、
国土国民を蹂躙されたフランスの強い願望だろう。
現実は東西対立で東側への前線基地としてドイツの(軍需を含む)産業が再建されたが。
 マッカーサーが日本に来て、憲法9条を作らせ、日本軍を徹底的に解体し、
二度と米国に戦争を仕掛けてくる恐れのないようにしたことと相通じるものがある。
 私個人としては、「戦争放棄」という意味では憲法9条は賛成である。
しかし、それがマッカーサー占領軍の「ドゴールがトルーマンに語った、
ドイツを農業のみに制限された弱小国の集合体に縮小し云々」と続く文脈と同じとすると、
フランスと米英諸国がドイツを分割し、それぞれがソ連とにらみ合いながら支配した、
という歴史の重みは大変なものがあると実感する。
 幸い日本は、米英中ソ連の4カ国によって分割支配されることを免れたが、
昨今の尖閣を巡っての香港のメディアなどから伝わってくる、中国人としての本音は、
「蒋介石の中国は日本に惨勝しただけで、日本をドイツのように分割支配せず、
賠償金も要求せず、旧満州と台湾などを回復しただけで、日本に対して戦勝国として、
何の(報復)もしていないのに、又、野田首相が観艦式に登場して、その格好は、
戦前の日本軍を思い起こさせる」というような論評が多い。
 しかし、中には良心派もいて、何亮亮氏のように、今の尖閣を巡る両国の行動で、
一番漁夫の利を得ているのはアメリカだ、と指摘する論者もいる。
彼の論点は、今の状態を続けていくことで、損失を蒙るのは中国であり日本である。
この緊張が続いて、日中が対立するのは「中東」を抱える米国にとって好ましくない、
というのは米国の建前だが、日中の対立が無くなって、米国のプレゼンスが不要となり、
沖縄の基地も大幅縮小されるとなると、米国は「面白くない」と感じるのだろう。
アメリカがモンロー主義に戻ることはもうないだろうか。
   2012/10/17 記
 
 
 
 

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バーナード・ショーを頌す

バーナード・ショーを頌す
 ショーが中国に来る前に「大晩報」は日本の華北に於ける軍事行動を、
暫時停止するよう望み、彼を「平和の老翁」と称した。
 ショーが香港に到着すると、各紙はロイター電で、「共産と宣伝」と題し、
彼の青年達への談話を訳出した。
 ショーは「ロイター記者に、君は全く中国人には見えないと語り、
彼はまた、中国の新聞界の人は一人も取材に来ないのを不思議に感じ、
彼のことを知らないほど幼稚なのか」と語った。(11日ロイター電)
 実は我々は老練で、香港総督の徳政と、上海工部局(租界の行政部局)の規定を、
よく知っており、要人の誰が誰と親しく、誰が仇敵で、誰それの夫人の誕生日や、
何が好物かも知っている。
だがショーについては、残念だが彼の作品も3-4種しか訳されていない。
 だから、我々は彼の欧州大戦前と戦後の思想を知らない。
彼がソ連歴訪後の思想も深くは知らない。ただ、14日の香港「ロイター電」では、
香港大学で学生に語ったという「君たちが20歳で赤色革命家にならないなら、
50歳になった時にはただの石ころに過ぎず、20歳で赤色革命家になろうとすれば、
40歳で落後することもない」との言葉から、彼の偉大さが判る。
 但し、私の所謂偉大さは、彼が人に対して赤色革命家になれという事でなく、
我々は「特別な国情」(袁世凱に対して共和制は中国の国情に向かないと鼓吹した、
Goodnowの言葉)があり、必ずしも赤色でなくとも、今日革命家になれば、
明日は命を落とし、40歳まで生きることはないからだ。
 私が偉大だと思うのは、彼が我々の20歳の青年たちに、
40―50歳になった時のことを考えてくれているからで、なお且つ現在から遊離せずに。
 資産家が財産を外国に移し、飛行機で中国から飛び立つのは、
明日のことを考えているのだろう:
「政治は飄風の如く、民は野鹿の如し」
貧しい人は明日の事すら考えられないし、考えることも許されず、敢えて考えない。
 況や、20年30年先のことをや?この問題はごく普通のことだが、大変偉大な事だ。
 これがショーたる所以だ!
          2月15日
訳者雑感:30年代の中国人は、明日のことを考えられるのは資産家たちで、
彼らは財産を外国に移し、飛行機で国外に脱出した。
貧しい人たちは、明日の事すら考えることすらできないその日暮らしの状況にあった。
そういう現実を踏まえながら、20歳の青年に向かって、30年後のことを考えよ、
と呼びかけたショーをほめている。だが革命家になったら明日は命を落とす事になる。
次の文章でどういうことか、考えるとしよう。  2012/10/12訳
 
 


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奇文を共に賞せん

奇文を共に賞せん   周敬儕(サイ) <備考>
 大人(タイジン)諸子が「故宮古物」を命(勿論小市民の命ではない)、
と同じと考え、南に移すのを断乎として決定したのは、古物の価値が、
大変高いだけでなく、容易に持ち出せ、容易に換金できるからで、
これは諸兄が驚くに当たらない。冷嘲やかっかして諷刺するに値しない。
 こんな風に考えていた時、首都(南京)の新聞に「古物南遷」を称賛する
社説が載った:更に「武力で反対者を制止せよ」と建議し、
「流血も辞さず」、政府に対し「威信を保持せよ」「政策貫徹」!と要求。
このような高説、高論を埋もれ消えさせてはならぬと、面倒を厭わず、
書き写して諸兄に献ず:
 『…北平の各団体の古物南遷への反対意見は、北平の将来の繁栄を害す、
としているが、この種の私利私欲的思考は国家利益を蔑視しておる。
北平の各団体がかようなことを言うのは、その厚顔無恥にあきれるが、
彼らは只、北平の繁栄のためだけを考えており、数千年の古物が、
敵に掠奪されるという大変な危険にさらされていることを知らぬ、
視野狭小のためだ。
 政府の戦略上、暫時北平を放棄し、敵を深く引き入れ、まとめて殲滅すべし。
古物が敵に掠奪されたら、将来の北平の繁栄は何に拠って維持するか?
故に、遷移を先行させ、日本を打倒して、北平が泰山の如く安泰になってから、
運びもどすに如かず。
 北平各団体の私利私欲は憎むべく、恥じるべし。その遠望深慮の欠如は、
憐れむべし。遷移反対のもう一つの理由は、政府はまず土地を保全すべし、
というが、これは似て非なる議論だ。蓋し、一部の土地を放棄し、
敵に一時的な占領をさせるのは、以て敵を殲滅するためである。
その後に再度これを回復するのは古今内外、その例は多い。
1812年の役で、ロシア人はモスコーを放棄したのみならず、焼き尽くして、
ナポレオンを困らせ、欧州大戦時、ベルギー、セルビアは皆領土を放棄し、
敵の蹂躙にまかせ、士卒も強いドイツに撃破され、領土は占領されたが、
講和はせず、割譲条約も結ばず、敵はその土地をいかんともできなかった。
故宮古物を遷移しなければ、不幸にして北平が占領されたら、
古物は掠奪される。そうなったら中国はどの様にして回復できるか?
中国の文明の結晶が、敵の戦利品となったら、大変な屈辱で恥ずかしいことだ。
… 最後に政府に奉告する。古物遷移の政策は既に決定せられたる上は、
如何なる阻碍があろうとも、その貫徹を求むべきである。
もし見識・遠望の無い群愚の反対で、即中止などすれば、政府の威信は、
どうなるだろうか。故に、張学良を厳しく追及し、以て反対運動を、
武力で以て制止すべし。やむなき時は、流血も辞せず』  
    2月13日「申報」「自由談」
 
訳者雑感:本文は前文の魯迅の「戦略上」の<備考>として付されたもの。
引用文中に、ナポレオンのモスコー攻撃や、欧州大戦のベルギーなどの例を
示し、あくまで敵を深くに誘い込んでまとめて殲滅するとか、
領土を蹂躙されても、割譲条約など結ばず、講和しないのが良いと主張する。
今「パリ解放」という本を読んでいるが、ナチスドイツに占領されたフランスは、北
半分をドイツの占領下に置き、南にペタン将軍のヴィシー政府を置いた。
これはフランスの苦渋の選択だったろう。

パリと並ぶ古い都北京(北平)も日本に占領されて、傀儡政府ができた。
陥落前は張学良が支配していたのだが、多くの北平の団体は故宮の古物を、
持ち出すことに大反対で、その後ろ盾が張学良だった。
 北平の支配者と市民、各団体にしてみれば、故宮の古物は彼らのもので、
それを持ち出そうとするのは、南京の国民党政府であるから、利害は対立。
「流血も辞せず」として多くの反対者を犠牲にして、大量の古物を運び出した。
この記事にも一理はあり、もしそのまま故宮に置いておいて日本軍の略奪に
あったら、どうなっていただろう。
日本人として、私は日本軍が故宮の宝物を掠奪するとは考えたくないが、
義和団の変の時は、主に欧州の軍隊が好き勝手に、掠奪したのは事実である。
円明園はその掠奪を隠滅する為に火をつけられて、跡形も無くなった。
 古来、ギリシャやエジプトの宝物は、欧州各国の侵略戦争時に持ち出されて
今は、本国には遺構しか残ってないという例が多い。
この記事の筆者の論調は、故宮の古物を運び出して、北京が安泰になった時に、
また戻せば良いと主張する。
今年、北京の古物が日本で展示されている。再来年は台北の古物も展示される。
台湾と大陸の繁栄は、この古物が、掠奪されずに「中華民族」の宝として、
精神的な支えになったのであろうか?
自国の宝物を侵略者に掠奪された国は、繁栄を取り戻すのは難しい。
それ故か、今イギリスやフランスに対して、そうした古物返還を求めている。
精神的な繁栄を取り戻す為に。
       2012/10/11訳
 

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戦略上

戦略上
 首都(南京)「救国日報」に名文句が載った:
 『戦略として、暫時北平を放棄し、敵を深く引きいれるべし…、
張学良を厳しく追及し、(北平の文物の南遷に)反対する動きを制止すべく、
これには流血も辞さず』(「上海日報」2月9日転載)
 流血も辞さず!とは勇敢哉、戦略の大家よ!
 血は確かに沢山流れ、今まさに更に沢山の血が流れており、これからまた、
どれ程流れるか知らない。これらは全て運動に反対する者の血だ。
どうしてか? 戦略上の為だ。
 戦略家は去年の上海の戦い(上海事変)でこう言った:
「戦略上、第二防御線に退去する」こうして退去し:
2日後にまた言った:戦略上「日本軍が我が軍に攻撃をしてこない限り、
我が軍は発砲せず、兵士は全員これを遵守すべし」かくして停戦となった。
後に「第二防御線」が消え、上海和議が始まり、交渉、調印、完結となった。
その時、多分戦略上の関係から血が流された:これは軍機上の大事で、
市民は知る由も無い―自ら流血した者は知っているが、彼らはもう舌が無い。
 あの時、なぜ敵を深く引き入れなかったか?
 今我々は知っている:当時敵が「深く入りこまなかった」のは、
戦略家のやり方が不手際だったからではなく、又運動に反対する者の流血が、
とても「少なかった」ためでもない。他に原因があり:
もともとイギリスが調停に入ろうとし、極秘裏に日本の諒解を取り付け、
日本には、君等の軍が暫時上海から退去すれば、英国は更に協力する。
満州国が国際連盟に否認されるようにはしない――これが今、
国際連盟の何とか草安で、何とか委員会の態度である。
実際は、日本は上海で深入りしないこと――ここの戦利品は皆で分けよう。
君はまず北方に深入りし、それからまた相談しよう。深入りは深入りだが、
地点が暫時違うとなった。
 それで「北平に誘い込む」戦略が必要となった。流血はまた何日も続いた。
実はいますべての準備は整い、臨時首都(洛陽)副首都(西安)も決まった。
文化的古物と大学生もそれぞれ移動した。
黄色い顔も白いのも、新大陸からのも旧大陸からの敵も、どんな所にでも、
深入りしたければすればよい。万一運動に反対する者がいると心配なら、
我々の戦略家はいう:「流血も辞さぬ」から、安心されよ、と。
      2月9日
訳者雑感:
 1933年前後の上海での日本軍の侵略行動に対して、
上海一帯に巨大な利権を持つイギリスが、日本と極秘裏に協議し、
「上海では互いに戦利品を分けあい、戦乱を広げなければ、
国際連盟での満州問題も協力する云々」という段は、興味深い。
 日英同盟は解消したとはいえ、英国のスタンスは、日本が満州でソ連の南下を防ぎ、
上海以南の豊饒な地域は自分たちが「優先的」にこれを取る。
この帝国主義的発想は何ら変わっていない。
 こういう国際情勢下、国民党政府は、自己の軍事力の劣勢を認識しており、
対日「不抵抗」作戦で、敵を奥地へ奥地へと引きずり込み、戦線が伸びきったところで、
国際情勢の変化を見ながら、国際連盟に日本の横暴を訴え、
米国の支援を取り付けようとした。
米国はなぜ中国を支援したのか?それは日本より「広大で豊かな国土があり、
これからも沢山、自分の欲しいものが得られると考えたからだろう」
 日本が中国を一人占めするのは許せないと考えていただろう。
日本は、上海で英国と戦利品を分けあったが、アメリカとは、どうしたのだろう。
アメリカとイギリスの利害は時に一致しないこともある。イギリスのように、
老獪に上海一帯の戦利品を分けあって、イギリスと同一歩調を取ることをせず、
正義とか理想とか人権とか、老獪とは違う次元から、対処しようとする。
それがイギリスから独立したアメリカのレゾンデト―ルと信じているように。
      2012/10/10訳

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