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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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寒中の旅

 寒中の旅

1.雪の象潟

1月22日から4日間、会員限定で北は青森から、西は福井まで新幹線を含む全線乗り放題という切符を購入し、去年訪れた象潟と八尾の寒中の暮らしと雪中の景観を、見に出かけた。

実際に住んで「北越雪譜」を残した先人にはとてもかなわない。

「走車看雪」というたわいの無い物である。

象潟は道が雪で覆われ、歩くのに難儀したが、芭蕉たちが歩いた17世紀の道は、海と潟湖の間に伸びた、象の鼻のような格好の、細い半島の尾根の上にあり、海面からも3-5Mほどしかなく、海岸近くには、3.11後に建てられたとみられる「津波の絵」の警報版が建てられ、一目散に駆けだす方向が示されていた。

今、潟湖は200年ほど前、湖底が2Mほど上昇したため、陸地になり、国道7号の通る市街地からも2-3M高くなっている。

雪のため坂道が歩きにくいからそれがよく実感できる。

日本海と陸地化した潟湖の間の尾根道に、沢山の商店が並ぶ。

眼鏡屋、自転車屋、お菓子屋、鮮魚店、モダンなパティスリー、そして葬儀屋さんなど、人々の生活を支えて来た店が並んでいる。

シャッターを閉めたような店が無いのは、この地区の人たちがここで買い物し、用を足すのであろうが、少し不思議に思った。

 暫く歩いていると、立派な建物があり、今は地区の公会堂として、使われているが、もとは象潟の役場であった由。

今では北隣のにかほ市と合併し、支所も工場や住宅地のある、潟湖だった地域に移った。

しかし昔からの商店はここから移らずに元気にやっている。

この地区に元から住んでいた人々が支え合っているのだろう。

 鳥海山は稲田に映えていた昨夏と異なり、噴火したあとにできた、巨大なお碗に雪があたかも綿菓子のようにでこぼこと積もっている。

あの綿菓子に相当するような巨大な岩石が、溶岩とともにこの象潟に飛んできて、今松の生えている、昔の島を作ったのだそうだ。

雪の鳥海山の写真は光線の加減でうまくとれなかった。残念。

 駅舎の周囲は深い雪で覆われていたが、歩行者のために、雪掻きがなされ、2時間ほど芭蕉たちの尋ねたところを、再訪するに問題は無かった。それだけ融雪剤をまいたり、雪掻きをして、地域の人たちがイヌをつれての散歩する光景も目にすることができた。

2.

象潟を後に、古い車両で頑張る「稲穂」に乗って、新潟に向かった。

お目当ては酒田から村上までの日本海の海岸の景色を堪能すること。

夕日が沈むころに、お酒をちびりちびりとやりながら、笹川流れとかよく似た「立石」が海からにょっきと頭を出し、その頂に松がしっかりと根を張っているのを見る。

そこに赤い鳥居と社が建てられている。

この車窓の景色は、五能線の車窓からのと甲乙つけがたい。

今、五能線はリゾート列車が運行され、それはそれで結構なのだが、25年ほど前に、凸型のジーゼル機関車にけん引された2両ほどの列車で、途中深浦で乗り継ぎの列車を待つ間に、和船の展示を見、土地の食べ物で腹ごしらえしたような風情は無くなった。

「稲穂」も新幹線が新潟、山形、秋田、青森が東京と直結された結果、それぞれを結ぶ形で日本海岸を縦断しているのだが、新潟―秋田間の利用客は減少しているから、新しい車両を投入できないのだろう。

ノスタルジックな旅にはとてもふさわしい車両である。

3.

新潟市はやはり海から近く、積雪量も他の土地より少ないのと除雪の仕組みがよく整備されていて、街には雪も除去され、歩行に何の問題もなかった。

仙台や新潟がその地区の中心になってきたのには、降雪の少なさが影響しているのだろう。

掻いても掻いても、次々に雪が降ってきては、どんな仕組みで対応しても、道は雪だらけで、泥んこの雪を付けた自動車が雪を撥ね飛ばして、歩行者の服を汚す。

そんな昔の光景は見ることも無くなった。

路面から水を撒いて融雪し、アスファルトの車道が確保されている。

 その後、去年「風の盆」に魅せられた富山・八尾に向かった。

富山市も新潟以上に除雪がうまくなされていて、屋根の上には雪が一杯残っているが、路上には雪は無い。

駅前は新幹線の駅舎建設で、すっかり昔の面影は無くなったが、大通りの前に、水色の車輪カバーをつけた貸自転車が2-30台スタンドに並んでいる。

雪の降る土地で、貸自転車を使う人がいるのかといぶかしく思い、自転車を配置換えしている30代の男性に尋ねた。

彼の答えは「真冬でも自転車が通行できるように除雪した道が確保できているので、大丈夫です」との答え。

どういう仕組かと訊いたら、「1回30分までの基本条件で市内各所にあるスタンドからスタンドまで月額5百円のパスを購入すれば、何回でも利用できるし、30分を越えたら、百円単位の超過料金を電子マネーで払う」由。

この青年はこれを運営している会社に勤務しているのだそうだ。

富山市は海岸への昔のJR線路を利用して、LRTを走らせており、今、こんな雪の降る街にも、貸自転車を普及させている。

4.

 そんなことに感動しながら、高山線で八尾に向かった。

30分弱で到着。屋根の上には雪が残っているが、自動車と歩行者が通る所は、すべて除雪されている。

 歩くこと15分、何の支障もなく、前回の成人の日のどか雪で、自動車が渋滞し、歩行にも難儀した横浜より、ずっと歩きやすかった。

今回は「風の盆」の時のように観光客はいず、土地の中高校生以外は、ほとんど歩いている人はいなかった。

それにしても、この坂道ばかりの八尾の街の通りには雪が無いのは、なぜだろう。屋根には沢山雪が積もっているのに!

2間或いは4間幅の民家の前には、大きな雪掻き用のスコップと雪を運ぶためのソリが置いてある。それで毎日家の前の雪を側溝に流し、道に雪が残らないようにしている。

その側溝には上流の川から大量の水が流され、融雪している。

この仕組みはきっとこの街ができた時から行われて来たのだろう。

 この街が紙や蚕の卵の取引で始まり、聞名寺の門前町として繁栄し、花街も栄えてきたのは、長い冬の間も人々の往来が途絶えることが無かったのだろう。

 聞名寺の本堂の大屋根に雪は一切ない。すべて下ろされていた。

その雪は、本堂の前に3M程の板で三角形のテントのように組み立てられた雪囲いの外に山のように積み上げられていた。

この寺にお参りにくる人のために、この除雪は昔から行われてきたのだろう。

他のいくつかの神社やお寺も同じ仕組みであった。

この街は両側に川が流れている。その川の間の尾根に街を造った。

八尾というのはそういう尾根が八つあったからだろうか?

大阪の八尾というのは、生駒山から伸び出た尾根だろうか。

嵯峨の高尾・栂ノ尾・松尾などと同じような地勢なのだろうか。

 少し坂道を登って行くと、北面に積み上げられていた雪を、せっせとソリに乗せて、側溝の穴に流しこんでいる夫婦がいた。

声をかけてみた。彼らは家の前の雪はその日の内に除雪するのだが、北側までは手が回らず、今日のような晴れた日にやるのだという。

 白山を背に、富山湾を遥かに望む八尾の坂街は、川岸から丸い石で10M程の高さの石垣を造り、洪水を防ぐとともに、坂の傾斜を除雪用に上流の水を上手く使いこなしてきたのだ。

 今年の「風の盆」にまた来たくなった。

      2013年2月7日

 

 

 

 

 

 

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グレッグ・スミス辞任と重慶の薄書記解任

グレッグ・スミス辞任と重慶の薄書記解任

1.

 17日の日経にゴールドマンサックスの幹部社員グレッグ・スミスの辞任関連ニュースで、ゴールドマンは顧客より自社の金もうけを優先していたと告発していた。

 こうした告発はしばしばあることだそうだが、実態がゴールドマン社の自己勘定取引と投資に重点が置かれ、顧客への助言による本来のビジネスが軽んじられてきたことにあるようだ。顧客の利益のために存在する会社が、自己勘定取引で自社の利益増大の方が優先されるなら、顧客は見限って行くだろう。

 さて話を重慶の薄書記解任に転じる。

 中国の現在の中央集権体制は、秦の始皇帝が始めたといわれる郡県制にその起源がある。それまでは徳川の幕藩体制のように、首都周辺と重要な地点は中央が押さえていて、それ以外の地方は昔からの領主がいたのを、郡県として封建貴族の支配を排除して、中央から任命した役人が長となって34年ほどの任期で交代させて、腐敗を防ぐとともに、独立王国となって中央に反抗することを防止してきた。

 

 その結果、その役人に任用されるための科挙制度が始まり、その試験に合格した者は、中央から各地方へ派遣され、その地で地方行政をうまく治め、その一方でそこで巨額の財産を蓄積して、中央の然るべき筋に上納し、時には官位を買って頭角を現して行った。

 内藤湖南が指摘しているように、郡県制の欠点は長として任命された役人が、自分の任期の間に、その地方をよく治める一方で、できる限りの手段を講じて、そこから巨額の富を自分のものにしたことである。その伝統は今日まで受け継がれている。

2.

卑近な例でいえば、1997年の香港返還時に、それまで香港を統治してきたイギリスが、香港に貯めこんだ膨大な富をそのまま中国に返還してしまうのは惜しいとして、とてつもない予算を組んで、空港や高速鉄道、橋梁をイギリス系の会社に発注し、それまで蓄えてきた香港政庁の財産の何割かをそれらの会社を通して、自国に持ち帰ったということが指摘されている。

これは英国の植民地での行為だが、現在の中国の各地方の政府の長は、農民から取りあげた土地や、もともとは海や湖沼だった土地を埋め立てて開発区にし、外資系企業に分譲して使用料を稼ぎ、居住地としてデヴェロッパーに高層マンションを建てさせ、そこから

莫大な富を生み出す。その過程で大金が個人の手元に残る仕組みだ。

 薄書記は私が大連に赴任した時、大連市長として日仏米など外国企業を沢山誘致して実績を上げ、私の在任中に遼寧省長に出世し、私が帰任する頃には中央政府の商務大臣となっていた。その後重慶のトップとなり、そこでも実績をあげて中国のトップ九人の中に入りそうな勢いだった。それが今回の解任となったのだが、彼はこれまで所謂上述の如き自分の出世のために任地から富を吸い上げ、それを上納して官を買ったような形跡は無い。いろいろ言われてはいるが、大連市、遼寧省での評判はさほど悪いものでは無かった。

 今回の解任に対し、一部の重慶市民からは、彼のおかけで重慶は犯罪が少なくなった、彼にお礼せねばならない。彼がいなくなると、また元通りになってしまうのが心配だと。彼はどうして躓いたのか。彼は勿論大連市長として大連をきれいにしたし発展させた。瀋陽の街も、彼が赴任してから街もきれいになり、ヤクザたちもなりをひそめつつあった。重慶でも全体的にはきれいになったし、以前の暗いイメージから大分清潔になった、という感じはする。

 だが彼は解任された。なぜだろう。右腕として遼寧省から呼び寄せた王公安局長が、汚職を暴かれて、米国領事館に駆け込んだことが発端だが、それを押さえられなかったということが、薄書記の力の限界を示している。権力闘争に敗れたのだ。

3.

 温首相が記者会見で名指しして、歴代の重慶のトップは重慶のために努力してきたが、現在の体制はこうした問題を起こしたことをしっかり反省せねばならない、と解任発表の前日に記者たちに語った。これは、各紙が伝えるように、中国内の権力闘争であるが、その前提として、各地方のトップが共産党という名の「党に入っていて」中央から任命され、それまで各地で「実績」を上げてきた役人の出世争いが、こうした権力闘争を引き起こしているということを認識する必要がある。彼らは自己の権力拡大のために地方政治に励むのであって、その地方の人々の生活向上より、自分の出世を優先しているである。

  冒頭のスミス氏辞任に戻ると、中国の各地方のトップはゴールドマン社と同じで、住民(顧客)のための公務員(助言者)であるより、自己勘定取引や投資優先で、自分が稼ぐこと、自分の出世が優先されてきたことの弊害だと言える。

これはやはり各地方の人々の選挙で自分たちのトップを選ぶようにしない限り、この党員という名の役人たちの権力闘争を防止することはできないと思う。

    2012/03/17 日夜浮かぶ

 

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後記4

  後記4

 

 「自由談」への寄稿は、去年11月黎が招待の宴席で、

彼に頼んだもので、たとえ魯(?)氏が地盤をきれいに、

しようと考えても、多少は配慮すべきで、こんな手荒な

まねはすべきではない。

 問題は、実は魯氏の文芸復興(?)運動の為で、

第一歩はまず全ての道を同じくせぬ者を打倒すべく、

それで今や張若谷・章衣萍などを「礼拝五派」として

批判し始めた:張資平が状況をもっと認識していたら、

自分はまさしく彼らのベッドの横でまどろんでいたら、

すぐにも追い出されると感じていたはずだ。

 千字十洋銀に恋々とし、こんな不運に遭うとは!

無論、人を打倒するには毒々しいほどよく、相手が

死刑か懲役になろうが構わない。

 張資平が「自由談」から追放されたのは、常識的には

誰も納得できないが、張資平の意気地なしは有名で、

女房子のために争う訳にはゆかず、また他の陣営と

集団を組んで争うともせず、わずかに「中華日報」の

「小貢献」に軟弱無力な陰口を書いて照れ隠しをした。

 今ではもう何も無くなった。「人参の髭」が彼に代わり、

沈雁冰が新たに造った文芸研究団の団員が大量に

「自由談」に移った。

 また「自由談」で曾今可を攻撃した「解放詞」は

「社会新聞」3巻22号(6月6日)で、またしても私が

下記のように騒ぎ出したとした――

 

 

 

 

 

 

 

 

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後記3

後記3  自由の風月            頑石

 黎烈文主編の「自由談」が「風月談のみで、

不平を減らせ」と、宣告してから、新進作家の寄稿は

本当に風月談すら拒まれ、最近載ったのは、老作家の仮名の諷刺でなければ、益体も無い、

どこかから拾い出してきた骨董ばかりだ。

 今回、旧劇の銅鑼の問題での弁論を聞けば、署名の「羅復」は、陳子展で、「何如」は逮捕された黄素だ。

このでたらめな論戦で、原稿料をたくさん稼いだ。

 

 これは一種の「不平」だが、「真正な風月談」と、

逮捕された、などの文章はとても面白いと感じた。

「仮名」で「頑石」としているのは残念なことだ。

臭いをかぎ分けられぬ、我々には「新進作家」なのか

「老作家」かは、弁別できぬ。

 

 後記はこれで終わりにしてもいいのだが、

もう少し「張資平 腰斬」の件を書くべきだろう。

 「自由談」は彼の小説を掲載していたが、

完結前に停止された。

タブロイドに「張資平 腰斬」騒ぎが持ち上がった。

編者と、反駁の文章が往復されたかも知れぬが、

注意して無かったので、それを切り取っていない。

今手元に「社会新聞」3巻13号(5月9日)

一篇しかないが、元凶はまたしても私で、下記の通り――

    張資平「自由談」から追放さる     粋公

 今「自由談」はある意図を持った人たちの地盤で

「烏鴉」「阿Q」達の放送局で、「三角四角の恋愛」の

張資平が、そこに混在して、「清一」(麻雀の手)に

なれるはずが無い。

 だが何故、あの色情狂の「迷える羊」――郁達夫が

例外としていることができるのか、と問う人がいる。

彼は張資平と同じ創造社出ではないか?

ともに「妹よ、君を愛す」を歌ったではないか?

これは確かに例外だ。

郁達夫は色情狂とはいえ「左聯」にはいれたし、

「民権保障」の大立者と知りあいで、今の「自由談」

の後ろ盾老板、魯(?)爺と同志で、「烏鴉」「阿Q」

の仲間だからだ。

 「自由談」主編黎烈文が張資平を首にした理由は、

「時代と愛の岐路」への編者の不満のため、

中途で腰斬された、というが、これは口実にすぎぬ。お金持ちの申報館の老板には、数千元などはした金で、千字十洋銀で買った原稿を、屑かごに棄てるのは

惜しくもないが、売文稼業の張資平には死刑宣告より

みじめで、人にあわせる顔が無くなる!

(続く)

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後記2の続き

 この現象は「社会新聞」一派の満足を得たようで、

第3巻21号(6月3日)の「文化秘聞」欄に、下記あり――

 

   「自由談」の態度変転

 

 「申報・自由談」 は黎烈文が主編になった後、

左翼作家の魯迅・沈雁冰及び烏鴉主義者曹聚仁等を

基本メンバーとして、一時論調は六でもないものばかりで、

読者は大いに不満であった。

且つ「礼拝六派」を罵ったので、張若谷等の怒りをかった:

「取消式」(トロツキー派)の社会主義理論を攻撃し、

厳魂峰等の怨みを買い:

「時代と愛の岐路」の連載を中止して、

(作者の)張資平派の反感を招き、黎が「自由談」を主編後、

数か月の結果、障壁が増えたため、

これが営業主義の「申報」の最も忌むところとなった。

 また史老板は外部からの種々の不満の論調を耳にし、

特に警告を発し、改めなければ解雇する他ない、と。

最終結果は、番頭は老板に屈するしかなく、

それで「昔の物語」や「若女形が場を収める」等の文章は、

最近はもう目にすることはなくなった。 

{聞}

 

 先に5月14日、午後1時、丁玲と潘梓年の失踪について、

多くの人は殺されたと思った。

この推測は日増しに本当らしくなり、デマもとても多くなった。

某も同じく殺されたとか、警告され、恐喝も受けた。

 私は受けなかったが、5.6日続けて内山書店の支店に、

私の住所を電話で聞いてきた。

 こうした手紙や電話は、暗殺実行犯の仕業ではなく、

所謂文人等の嫌がらせの手口で、「文壇」にはもちろん、

こうした輩がいると思う。

 ただ煩わしいと感じたら、このいたずらは功を奏した訳で、

6月9日「自由談」の「蘆絮語」の後に、次の文章あり、

 

 編者は附告する:昨日、子展氏の来状あり、目下全力で、

某作品に取り組んでおり、蘆絮語」を続ける暇なく、

これにて終了とします。

 

 一か月余り静観後、「大晩報」もついに、6月11日夕刻、

文芸副刊の「火炬(たいまつ)」に小さな火で憤慨していう――

 

 要するに自由が欲しいのか否か。    法魯

 しばらく「自由」の問題が提起されなかったが、

近頃、これを大いに論じだす者が現れた。

国事は常にホット過ぎて、語り難いからあっさりと止め、

心を殺して「風月」を談じようとするが、それも意に沿わない。

喉からぶつぶつ「自由」が欲しいと漏らし、問題の重さを感じ、

ぶつぶつ言うのは良いが、明言しては具合が悪いので、

表立っては直接触れず、大刀を振りかざすのもできず、

湾曲して、堂々巡りするだけで、肝心の所はぼやかし、

正面に触れても、逆に裏側のように見させる。

これは元々「ユーモア」を読む方法だ。

 心は自由を求めながら、口に出せず、口が心を表せぬは、

口そのものが自由でないためだ。

不自由だから、諷刺で「自由が欲しい」と言いながら、

「自由も要らぬ」といい、暫くすると「不自由の自由を求める」と、

「自由の不自由を求め」すったもんだの挙句、

頭の単純な人は「神経衰弱」になり、問題の核心を見失う。

 要するに、自由が欲しいのか否か?

はっきり言うと、皆は風の吹くに任せて舵を切り、袋小路の中で、

悶々としているだけで、納得ゆく自由を失わないことだ。

 私のような「雅人」でもない人間の考えを率直に言えば:

「我々は自由を求め、不自由なら懸命にそれを勝ち取るべし!」

 本来「自由」は特別な問題では無いのに、皆が話しだすと、

重大問題になる。――結局は自分でそうしているので、

もう一度、大刀を振りかざさないと、どの様に漆黒の一団を、

打倒することができるだろうか?

細い針や短い刺では畢竟、虫を彫る小技に過ぎず、

大問題を解く助けにはならない。

諷刺や嘲笑は一代前の老人のたわごとだ。

 我々の聡明な知識分子は、こんな諷刺が今この時代に、

すでに効力を失していることを知らぬことがあろうか?

 ただ、刀斧を使おうとすれば、左右から掣肘される。

今の時代は、科学の発明で刀斧は銃砲に及ばない:

身は蟻より賤しくとも、惜しむに足りない。

なぜ我々無能の知識分子は命を惜しむのか!

 

 以上要するに、自由は元来そんな珍しいものでもなく、

君たちが談じだすと、とても貴重なものになってしまう。

時局についても本来は持って回った諷刺をすべきではない。

現在、彼は諷刺者に対し「率直に」死ねと要求している。

筆者は心の真っすぐな口の軽快な人で、今他の人に、

「自由が欲しいか否か」で疲れ、頭も混乱してしまった。

 

 然るに、6月18日朝8時15分、中国民権保障同盟の、

副会長・楊杏佛(銓)が暗殺された。

これは「生死をかけた」結果で、法魯氏はもう二度と「火炬」

に投稿しないだろう。

 「社会新聞」だけは4巻1号(7月3日)で、左翼作家の怯懦を

まだ取りあげている。

 

  左翼作家紛々と上海を離れる

 5月、上海の左翼作家はいっとき大騒ぎし、全てを赤く、

染めようとし、文芸界をすべて左翼に帰属させようとした。

だが6月下旬、情勢ははっきり変わって来た。

非左翼作家の反抗の布陣が完成し、左翼内部も分裂した。

最近上海で暗殺が頻繁になり、文人の脳は最も敏感で、

肝も小さく、逃げ足は最も早い。彼らは避暑と称して、

上海を離れた。確かな情報では、魯迅は青島へ行き、

沈雁冰は浦東の田舎に居り、郁達夫は杭州、陳望道は、

故郷へ帰り、蓬子や白薇の類すら跡形も無くなった。

     {道}

 西湖は詩人の避暑地で、嶺は金持ちが夏を過ごす所だ。

そうしたいのは山々だが、なかなか実際にはできない。

楊杏佛が殺されたら、他の人達が突然暑さを怖がり始めた。

青島は良い所だそうだが、梁実秋教授の伝道の聖地で、

私には遥か遠くから望む眼福すら無い。

「道」先生には道があり、私に代わって恐怖を感じてくれるが、

実はそれは確かなことではない。

でないと、拳銃を持ったゴロツキが、治国平天下できる訳だ。

 但し、嗅覚に超鋭敏な「微言」の9号(9月15日)に別の記事あり。

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後記ー2

後記―2

 <左翼文化運動の台頭>

    水手

 左翼文化運動について、各方面の厳しい弾圧を受け、

内部分裂しつつも、最近また徐々に台頭し始めたようだ。

上海で左翼文化運動は、共産党の「同行者と提携」

という路線の下、確かに以前より少し活発になった。

雑誌では、先頭集団の老舗雑誌すら、左傾化しだした。

胡愈之主編の「東方雑誌」は、中国で最も歴史が古く、

穏健な雑誌だったが、王雲五老板の意見は、

胡愈之も近頃とても左傾したから、愈之の校正後、

もう一度彼が見なければならなくなった由。

但、王老板の大ナタの後でも、

「東方雑誌」は依然左傾の嫌いが大きい。

そこで、胡は解任され、李某が引き継いだ。

 又、「申報」の「自由談」は礼拝六派の周某主編の時は、

とても陳腐だったが、今や「左聯」の手中にある。

魯迅と沈雁冰は今、すでに「自由談」の二本柱だ。

「東方雑誌」は商務印書館に属し、

「自由談」は「申報」に属し、商務印書館も、

「申報」も元来守旧文化の2つの砦だが、

この2つの砦は今、動揺しだした。

2社以外のところも推して知るべし。

 この外、更にいくつかの中堅の新しい出版社も完全に

左翼作家の手中にあり、

郭沫若・高語罕・丁暁先と沈雁冰は各自が出版社をつかみ、

その大黒柱となっており、彼らは皆有名な赤色人物で、

出版社の老板は、今や彼らに頼って稼いでいる。…

 

 3週間後、魯迅と沈雁冰が「自由談」の大黒柱になった

と指摘している。

(3月24日2巻28号)

 

<黎烈文はまだ文総に加入していない>

 「申報・自由談」の編者・黎烈文はフランス留学生である。

これまでの経歴はよくわからぬ新進作家だ。

「自由談」を引き継いだ後、

「自由談」の論調が一変した。

執筆者は星社の「礼拝六」の旧式文人から

左翼プロレタリア作家に代わった。

現「自由談」の大黒柱は魯迅と沈雁冰の両氏で、

魯迅は「自由談」への、

投稿が最も多く、署名は「何家干」だ。

魯迅と沈雁冰以外の作品も8-9割、左翼作家の物で、

施蟄存・曹聚仁・李輝英の輩だ。

一般人は「自由談」の作者はみな中国左翼文化総同盟>

(文総と称す)、のメンバーだから、黎氏もそうかと思うが、

彼は否定し、未加入という。

上述の諸士とは只友好関係にあるという。    {逸}

 

 1ヶ月後、この両人の「雄図」が出た。

(5月6日3巻12号)――

 

   魯迅と沈雁冰の雄図

 魯迅と沈雁冰等が「申報・自由談」を地盤に、

怪しい論調で大衆を吸引し、満足ゆく収穫を得た。

魯(?)沈の初志は、ある目的への試みで、

彼らの文化運動復興を企てるもので、

既にその団体創設の時期にある由。

 この運動に参加するのは、彼ら2人以外に

郁達夫・鄭振鐸等で、意見交換の結果、

中国で最も早い文化運動の語絲社・創造社および、

文学研究会を中心にしていたが、

消散した後、語絲・創造の人はそれぞれ分散し、

ただ文学研究会の人は大部分まだまとまっていて、

――王統照・葉紹鈞・徐雉の類だ。 

沈雁冰・鄭振鐸はこれまで文学研究派のリーダー役で、

この路線に沿うことを決定した。

 最近、田漢も仲間とともに帰属を願い、きっと組織は結成され、

それは赤い5月中に実現されるだろう。 {農}

 

 こうした記載は、編者の黎烈文には何の害もないが、

他のタブロイド紙の、「微言」には、「文壇行進曲」として

次の記事が出た。――

 

 『曹聚仁は黎烈文等の紹介で左聯に加入』 (7月15日9号)

 この2種の雑誌の論点の違いは、私怨によるのは

言わずと知れたこと。

ただ「微言」は更に巧妙で:たった15字で両派を陥れ、

きっと弾圧され、難に遭うようにしむけている。

 

 5月初め「自由談」への弾圧は日ごとに烈しくなり、

私の投稿も次々発表不能となった。

但し、私の寸評は時に時局に対する憤慨で:

単に「自由談」を弾圧したのでなく、

この時の弾圧は凡そ官営でない雑誌が蒙った程度は

ほぼ同じだった。

 しかしこの時最も適宜な文章は鴛鶯胡蝶的遊泳と飛舞であった。

しかし「自由談」がそうすることは難しかった。

遂に5月25日に、次の声明を出した。

 

      編集室

 最近、話しをすることすら難しくなり、筆を執るのは更に困難だ。

これはなにも:「禍福に門は無い。ただ人が自ら招くのだ」

と言っているのではない。実際「天下に道はある」から、

「庶人」はそれに相応じ、「論ずる勿れ」というわけだ。

編者が心から海内の文豪に呼びかけたいのは、

今後は風月を多く語り、不平は少なめにすれば、

作者も編者も、ともに安心できるということだ。

長短を論じ、(国家の)大事を妄りに論じるとなると、

屑かごに抛るに忍びず、新聞に載せることもかなわず、

編者は進退に窮し、配慮に欠けるのを免れない。

語に云う:時務を識るものは俊傑、と。

編者は敢えてこれを海内の文豪に告ぐ。

様々な苦衷はおありだろうが、伏して矜持を乞う!  

 {編者}

 

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後記-1(偽自由書)



後記-1
 「自由談」への投稿の由来は「前記」で説明した。

本文はこれで終わるが、電灯も尚明るく、
蚊も今のところ静かだから、

ハサミと筆で「自由談」と私と間の瑣事を書いて、余興としよう。

 一見して分かるのは、発表した短評中で、
最も烈しく攻撃したのは、

「大晩報」だが、前生からの仇だったのではなく、
そこからの引用が、
多かったためである。
但、相手からも前生の仇だった訳ではなく、

私が読んでいたのが、「申報」と「大晩報」の2紙だけだったためで、

後者の文章は頗る新奇なので、引用に値し、愁いを消してくれ、

悶を解くに都合が良かったためであった。

私の眼前に今もタバコを包んでいた3月30日の古い「大晩報」がある。
そこにこんな一段がある。

 『浦東人、楊江生、41才、顔付きは下品で、金にも困っていて、

左官稼業で、以前蘇州人の盛宝山の現場で働いていた。

盛には金弟という名の娘がおり、今年15才で背もとても低く、
見栄えも貧相。
昨晩8時、楊は虹口天潼路で盛と出会い、彼女を犯した。

警察の取り調べに対し、楊は否認せず、去年の1.28以後、

続けて十数回していると認め、
検査官が盛金弟を病院で検査したところ、
医者からは明らかに処女ではないとの結果が出た。

今朝、第一特区地方裁判所に送り、
劉毓桂判事の審査を受けたが、

警察の法定弁護士、王輝堂は被告が16才未満の女子を誘惑し、

その後数回は彼女自らが被告の家に行ったが、
法に照らし、奸罪とすべきとして、審査を要請した。

 女の父親盛宝山への尋問で、
彼は本件を最初知らなかったが、

一昨日の晩、娘をしかったら、彼女は忽然家を飛び出し、
昨朝戻って来たので厳しく詰問したところ、
被告の家に行ったと言い、
被告に誘惑されて犯された経過を説明で、初めて知り、
被告を警察につきだした云々という。

 次いで、盛金弟の陳述で、被告には去年2月から今まで十数回犯され、
毎回被告に誘われ、父母には言うなよといわれた、と。

これを楊に質すと、女は自分を叔父さんと呼ぶので、
犯すに忍びなく、
手を出さなかったし、そんなことはしていないと言う。

十数回というのは、女を連れて一緒に遊んだ回数だという。

劉判事は本件更に調査すべしとし、
被告を収監の上、再審となった』

  記事では、盛は楊に対し「人倫」関係について語っていないが、

楊は女が「叔父」と呼んだとしているが、
これは中国の習慣では10才位年長の人を往々、叔伯と呼ぶからだ。

然るに「大晩報」ではどんな見出しを付けただろう?

4号と1号活字で――

  道で捕まえて警察に突き出して訴える

   義理の叔父が姪を犯し

    女は十数回犯されたといい

     男は一緒に遊んだだけで、やってないという。

 「叔父」に義理をつけ、「女」は「姪」になり、
それで楊も「人倫にもとる」
或いは准「人倫にもとる」
罪まで犯したことになった。

中国の君子は、人心が古代のように純でないことを嘆き、
匪人が人倫にもとることをするのを憎む一方で、
そうした事件が起こらないのを怖れ、
小さなことを誇張して書きたて、
読者の低級趣味から耳目をそばだたせるようにしたがる。

楊は左官で新聞も読めぬし、読めても抗弁できないから、
彼らの編集に任せるほかない。
だが社会の批評者はそれを糾弾する任務がある。

だが、糾弾するまでにも至らず、ただ単に数句を引用しただけでも、

「員外」とか「警察のイヌ」とか非難し、まるで彼らの一団こそが、

懸命に自分の家財まで売って、社会のために奉仕している志士の様だ。
(「員外」は昔お金で官位を買った者:ここでは魯迅を指し、

警察のイヌも共産党に味方するイヌの意味の罵倒語)

 社長は知っているが、オーナーが誰かは知らない。
誰が金を出している「員外」なのか分からない。

民営でもなく、お上がやっているのでなければ、
新聞の世界は難しい。

ただ、ここではこれ以上それをほじくらぬことにしよう。

 「大晩報」と同様「自由談」に配慮したのは「社会新聞」だ。

ただ、手法はとても巧妙で、通じないとか、
訳のわからない文章は使わず、
ただ真偽をないまぜにした記事を駆使した。

すなわち「自由談」の改革の原因のように、
嘘かまことか断定できぬが

第2巻第13号(2月7日出版)から引用すると――

 

 「春秋」と「自由談」について:

 中国の文壇は、元は新旧の別は無く、五四運動の年に、
陳独秀が
「新青年」で号砲を放ち、旗を掲げ、
文学革命を提唱し、胡適・銭玄同・

劉半農などが後で、旗を振り、吶喊した。

 この時、中国の青年は、外には外国からの侮蔑を受けて圧迫され、

内には政治的刺激を受け、失敗と煩悶の下、
光明を求めていたので、各種の新思潮は青年の熱烈な支持を受け、
文学革命は偉大な成功を遂げた。

この後、中国文壇の新旧の区分に大きな溝ができた:

ただ、旧文壇の勢力は、社会的には悠久な歴史があり、
根を深くおろしており、
そう簡単に動揺することはなかった。

当時、旧文壇の機関雑誌は有名な「礼拝六(土曜日)」で、
浮かれ文人はこの「礼拝六」の炉に殆ど集まり、十中八九が、
嗚呼我が恋よ、愛しい人よといった小説で、
民族性陶酔と委縮が頂点に達した。

これが所謂、鴛鶯胡蝶派の文章で、
徐枕亜・呉双熱・周痩鵑等の如く、

鴛鶯胡蝶をうまく語って、有名となり、
周痩鵑は同派の健将となった。

この当時、新文壇は旧勢力の大本営「礼拝六」を猛攻撃したが、
結局、
新興勢力は実力が伴わず、
旧派は封建社会を後ろ盾として頼り、

何の愁いもなく、双方譲らず、夫々の道を歩んだ。

この後、新派は文学研究会・創造社など陸続と立ちあげ、
人材も徐々に増え,勢力も厚くなり、
「礼拝六」は時勢の推移により「寿命を終える」

ことになった!だが残党は今なお各方面で活躍し、
粛清の見通しは無い。
上海の新聞大手各社の文芸編集は、
今も殆ど鴛鶯胡蝶派が独占している。

 ただ、最近の出版界を見ると、
新興文芸出版の量は驚くばかりで、

旧勢力はもはや再起不能だ!

礼拝六派の文人は今や「礼拝六」の看板で人を集めようとはしない。

蓋し、すでに強弩も末に至った!

最近保守の「申報」は忽然、「自由談」を編集する礼拝六派の巨頭、

周痩鵑を解任し、新派作家の黎烈文に換えた。

これで旧勢力は当然、大変な変化を生じ、ついに今日の新旧文壇の

衝突が起こった。
周痩鵑はタブロイド紙の各紙に画策し、黎烈文に

総攻撃をかけ、我々は鄭逸梅主編の「金剛鐟」(黄金虫?)を見ると

周は「自由談」の元のポジションに戻し、
黎烈文に「春秋」を主編させよ

と主張していることから旧派文人が、
失地回復できぬ恨みを忘れることができないのが判る。

 一方、周が自ら編集した「春秋」で言うように:

各種副刊の徳性は、河の水で井戸水を穢してはならぬ論として、
周が今なお現在の地位が危殆にあるのを怖れていることが判る。

周はそれと同時に、蘇州人ではない厳独鶴をも強引に引き込んで、

周が主宰する純蘇州人の文芸団体「星社」に入れ、
地位固めを企んでいる。
はからずも、旧勢力の失敗は周によってその端が開かれた。

聞くところでは:周はその位に安心していられないのは、
原因があり:
平素から選稿の段階から、
とても刻薄で私心がつよく、知っている人の投稿なら、
内容に拘わらずすぐ載せるが:無名の新人や、
周が知らない人の物は、
内容も見ずに十把ひとからげでゴミ箱に棄ててしまう。

 周の編集した物は、いつも幾つかのファイルの中の人物の作品で、

恣意的に使い、内容はまるでなっていない!

外部からの攻撃が日ごとに烈しくなり、
許嘯天主編の「紅葉」も周に対し、
数回にわたって激烈に糾弾し、史量才は外部からの不満により、

彼を退けた。今回の史量才の動きで、周が導火線となり、
現在の新旧両派の白兵戦を、ますます激烈にさせた!

これから面白くなりそうだから、読者諸士は刮目されたし。
    <微知>



但、2巻21号(3月30日)では、驚き慌て、
「旧文化を守る砦」が動揺するのを残念がっている。――

 

訳者雑感:
広州の「南方週末」が党の指示に従わなかった問題で、

年初から大きな騒ぎになっている。

 中国のすべての新聞は「お上」たる共産党の金で成り立っている。

党の宣伝のための道具であるから、
すべての新聞は党の指示に従わねばならない。
それは誰もが知っていることだ。
だが、庶民は「人民日報」などの機関紙には
見向きもしなくなっている。

 それで、香港に近い広州の「南方週末」は
他紙とは違う内容を採り入れ、
ぎりぎりの線での政府批判をして、庶民に買ってもらってきた。

 香港の新聞などは真偽のほどが判らぬ、というかでたらめな内容の、

でっち上げのような記事を、大きな見出しで読者の
注意をひこうとしている。
昨今の日本の週刊誌のつり広告と同じだ。

 1930年代の上海でも殆ど同じなようで、
純粋の民営新聞というものは困難であって、
お上や党の金が入っていて、そのお墨付きの下で、

経営されてきたから、すべての新聞が出資者の宣伝機関であった。

 このことをほじくり出すと、魯迅自身にも危険が及ぶから、
これ以上はほじくらないのがいい、と筆を置いている。

  2013年2月8日



 



 



 



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「有名無実」の反駁

「有名無実」の反駁

 近着の「戦場見聞記」に以下の記事あり:

「記者は小隊長と面談した。

彼は前線からこの地の防衛に移った。彼曰く、以前石門塞、海陽鎮、秦皇島、牛頭関、柳江等に、陣地と防空壕を築き、…洋銀3-40万元を使い、木材の高い費用は含まず…、艱難辛苦し本来死守を期していたが、不幸にも、冷口が陥落し、命令が下り、即後退となり、血と汗と金で作りあげた陣地も、多くは使わぬまま、敝履の如く棄てることになったは、痛恨の極み:

不抵抗の将軍が更迭され、上層部が替り、我が将兵はもろ手を挙げて喜ばないものはいない… 

だが結果は気持ちと願望に反するものとなってしまった。

中国人に生まれた不幸よ!

特に有名無実の抗日軍人に生まれた不幸よ!」

(5月17日「申報」特約通信)

 この小隊長の天真さは、まさに「教訓」を受けていない愚かな人民の証で、ともに政治を語るに足りない。

第一、彼は不抵抗将軍の更迭により「不抵抗」も廃されると思っている。これはロジックの分からぬものである:

将軍は一個の人間で、不抵抗は一種の主義であり、人は更迭されるが、主義は依然として台上に留まっている。

第二、3-40万元の洋銀で防衛基地を築いたから、必ずこれを死守しようとする。(これ自体は良いとしよう。だが彼は進攻しようとは考えていない)これは策略が判っていない:

防衛基地は元来人々に見せるためで、彼に死守させる為の

陣地でもないし、本当の策略は「敵を奥地深くに誘い込む」ことである。

第三、彼は命を奉じて退却したが、それを「痛恨」している。

哲学が判っていない:彼の精神は叩きなおさねばならぬ!

第四、彼の「もろ手を挙げて喜ぶ」としているが、命理が判っていない:中国人は生まれながらに、苦しい運命を背負っている。かくも痴呆な小隊長が「不幸」を4回も叫ぶのも無理はない。あろうことか、自分も「有名無実の抗日軍人」と認めている。だが結局誰が「有名無実」なのか、初めからしまいまで、全然判っていないのだ。

 小隊長以下の兵卒は言うまでも無い。

彼らは「ざっくばらんに、ホントのことを言えば、我同胞が対応しているのは、

今や、外敵に対してでなく、反乱者に対してである。

(同上通信)こんなデタラメでは話しにならぬ。

古人曰く:敵国と外患無きものは、国恒に亡ぶ、と。

以前これはどういう意味なのか判らなかった:

敵国すらも無くなったら、我々の国は誰に亡ぼされるのか?

今この兵卒の話しで明らかになった。

国は反乱者に亡ぼされるのだ。

 結論:亡国したくないなら、「敵国外患」をもっと探さねばならない。更により多くの「教訓」であの心を痛めている愚かな人々を「有名有実」に変えなければならない。5月18日

 

訳者雑感:

漱石がハルビン駅頭で伊藤博文が暗殺された後、現地の新聞に寄稿したものが発見された。その中で彼が現地で見て来た情勢から「日本人に生まれた幸せ」と述べていたのが印象に残った。

それまで日本で「不幸」を体一杯に背負いこんでいた彼が、比較にならぬほど「大変不幸」な境遇に置かれている人たちを見ての実感であったろう。

漱石の「満韓ところどころ」には、両地の人たちを見くびった点が気になる。

龍之介の北京酔いの気分というか、当時の中国の文人の着物(長衫)を着た彼の写真を見ると、彼の愛着を感じる。

話しは本題に戻すと、当時の国民党の軍隊は日本との戦争を避け、もっぱら「反乱者(共産軍を含む)」との戦いにあけくれていた。

魯迅は敵国と外患がなければ、国を亡ぼすは「反乱者」だと書いている。結局民国を亡ぼしたのは反乱者たる共産軍で、亡ぼしたから新しい国ができたのだ。

 2013年1月29日記

 


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甚解は不用

 文章には必ず注釈が必要で、特に世界的な要人のはそうである。
文学家には自分が書いたものに注釈をつけるのを面倒と感じるものもいる。
世界的な要人のものは、秘書や私叔する弟子が替わりに注釈を作る。
しかしある種の文章には注釈してはいけないものもある。
 例:世界第一の要人、米国のルーズベルト大統領が「平和」宣言を発表した。
その中で、各国の軍隊が国境を越えるのを禁じた。
注釈家は即座に言う:「米軍の中国駐屯は条約の範囲内ゆえ、
ルーズベルト大統領の提案の禁止条項に抵触しない」(16日ロイター、ワシントン電)
ルーズベルト氏の原文を見ると:
「世界各国は厳正かつ確固とした不可侵公約に参加し、かつ厳正に軍備の制限と縮小の
義務を果たすよう声明すべきで、各国が忠実に義務を履行するよう調印した時は、
各国はいかなる性質の武装軍隊も国境を越えぬことを承諾すべし」という。
 これに真面目な注解を付すと、実は:凡そ「確固たる」でも「厳正」でもなく、
また「自ら承諾」せぬ国家は、いかなる性質の軍隊も越境できる、という意味にとれる。
少なくとも、中国人が早とちりして喜んではいけない。このように解釈すれば、
日本軍の越境の理由は十分ある:況や米国自身も中国に軍を駐屯させており、
早々と「この例に非ず」と声明しているのだ。
 しかしこんな真面目な注釈は興をそぐこと甚だしい。
 また、「屈辱的条約には調印せぬことを誓う」というごとき経文は、
ずっと以前から多くの伝注がある。
伝に曰く:「対日妥協は今敢えて誰も口にしないが、また誰も敢えて行わない」
ここで重要なのは「敢えて」の文字だ。だが、調印を敢えてするか否かの分別は、
筆を握る人のことで、銃を持つ人は、敢えてするか否かという難しい問題を、
研究することもなくーーー防衛線を縮め、敵を奥地に誘い込む類の策略であり、
調印するまでもない。
 たとえ筆を握る人も、単純にサインするようなことはなく、
もしそんなことをしたら、大変な低能と言わざるを得ぬ。
従ってまた言う:「一方で交渉を続ける」という。そこで注疏が出てくる:
「責任当事者でもない第三者が、不合理な方法で、口頭で交渉し…
無益の抗日を清算しようとしている」これは日本の電通社の報道だ。
(後に日本新聞連合社と合併し同盟通信となる:出版社)
 この種の重要機密を漏らす注釈はまた厄介で、それゆえ、これは日本人の「デマ」
に違いなかろう。
 要するに、この種の文章は混とんとしたままがよく、最も妙なのは注釈せぬことだ。
特にこの種の興をそぐような厄介な注釈は不用である。
 子供の頃の勉強で、陶淵明の「良い読書とは甚解を求めず」という句について、
先生は彼の「甚解を求めず」とは、注釈を見ないことで、ただ本文の意思を味わう
ように読めと教えてくれた。
 注釈はあっても、確かに我々がそれを見るのを望まぬ人もいる。 5月18日

訳者雑感:
尖閣問題を巡って「空中戦」になりそうな日中関係の修復は、1月下旬に山口代表や
村山氏などの訪中で、「話し合いで解決の方向」を目指すということになりつつある。
1933年の頃も似たような状態で、あの当時ですら、話し合えば何とか和平が実現できると
日中双方が淡い期待を持ってもいた。それが37年以降さらに泥沼化するとは!嗚呼!
智慧がまったく足りない。2013年の今年、1933年のようなことにしてはならない。
  2013.1.29記
追記:陶淵明「五柳先生伝」に「好読書不求甚解、毎有会意、便欣然忘食」とあり、
私は、読書とは本文を読むごとに、意とするものを得、それはうれしくて食を忘れるほど、
だと思う。昔読んだ本を今また読み返すと、注釈無しにその面白さがわかる。
只、頭のどこかに昔目にした注釈の「残影」があるかもしれないが。
   2月1日記


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再び保留について

再び保留について

 劉庚生の罪名に触れたので、もう少し書きたいと思う。

だが、今の中国ではそれは大変困難で、安全の為、ただ黙すしか無い。
書くとなると、自分の身に災難がふりかかってくる。

 これまでの例では――

 12年前、魯迅の「阿Q正伝」は国民の弱点を浮き彫りにしたのだが、自分がそこに入っているかどうか、説明していなかった。

しかし、今年、数名の人が「阿Q」は彼自身を指している、と言い出した。これは現世の悪い報いだ。

 89年前、正人君子(胡適、陳西瀅)らが、週刊紙を発行し、彼らに反対する者は、ルーブルを貰って学界を混乱に陥れたと言った。

しかしその45年後、正人は教授になり、君子は主任となって、ソ連からの賠償金返還の福を享受した。そしてそれが(他に転用され)停止されると聞くと、その争奪戦まで展開した。これは現世の善い報いだ。

だがやはり自分の身にふりかかってくる。

 物書きはどんなに注意しても、どうしても周到さに欠ける。

最近の例では、各紙は「敵」「逆」「偽」「傀儡」などの字句があふれている。

そうしないと、愛国を示せぬようで、読者も不満に感じる。

ところが、「某機関からの通知:侵略への防御は国民が一心となり、実情を重んじ、敵に逆らうなど過度で刺激的な字句は実際は無益で、今後は使用せぬように」という。

更に黄委員長が北平に着き、政見を発表して曰く:

「中国が和すか戦うかは皆、受動的で、その方法も難しいし、国難は多岐であるから、速やかに最後の挽回策を講じよ」(18日「大晩報」北平電)とすら言っているではないか。

 幸いまだ救われるのは、紙上には只「日本の飛行機が北平を威嚇」などの見出しだけで、「過度に刺激するような字句」は無い。ただ「漢奸」という字はまだある。

日本はすでに敵ではなくなったのであれば、漢は何を以て奸というのか。
これは大きな手落ちと言わざるを得ない。

幸い漢人は「過度の刺激的文字」を怖れず、たとえ首を斬られて街に吊るされ、内外の士女の欣賞に供せられても、これまで誰も一言も文句を言わなかった。

 こうした場所では、我々は話しをするのが難しいことを承知していた。

 清朝の文字の獄以後、文人は野史を作ろうとしなかった。

もし誰かが3百年前の恐怖を忘れることができて、報道された記事の中から、そのエッセンスを取りまとめたら、不朽の大作となるだろう。
但、勿論神経過敏になる必要は無く、予め「上国」とか「天啓」とかに改称しておくが良い。 5月17日

 

訳者雑感:

 1933年頃の「日本の飛行機が北京を威嚇」という見出しを見ると、2013年の今日、
尖閣を巡って日中両国の飛行機が今にも空中戦を始めそうな活字がメディアにあふれているのがとても心配になる。

 威嚇するとか警戒信号弾を発射するとか 物騒な動きはどのようにしたら止められるだろう。

 公明党の山口代表と習氏の間で、多少そういう危険な行動は止めようとの動きが出て来つつあるのが救いだ。

   2013/01/27

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