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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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<「紅笑」のこと>について

1929年 <「紅笑」のこと>について
今日4月18日付け「華北日報」を受け取り、副刊に鶴西氏の半篇の<「紅笑」について>と題する文を見た。「紅笑」については少し気になった。というのも私もかつて数頁翻訳したことがあり、予告を初版の「域外小説集」に載せたが、その後、完成せぬまま出版に至らなかった。しかし以前知っていたせいか、今誰かがこれを訳したら、読むのが楽しみである。だが「紅笑」については大変奇妙に感じたから、少し述べねばならぬ。筋道を明確にするため、まず原文を下記に転載する――
 『昨日蹇君家に行き、「小説月報」第20巻第1号を見た。そこに梅川君訳の「紅笑」があり、これは私と駿祥が訳したこともあるから、覚えずぱらっと見て、「紅笑」について少し述べたくなった。
 『無論、私は梅川君に「紅笑」を訳してはいけないというのではないし、そうする理由も権限もない。だが梅川君の訳文にいささか疑問があり、固より一人の人間として、勝手に他人を疑うべきではないが、世の中には少し奇妙なこともあり、物事の多くは人の思いもよらぬことがある。私の余計な取り越し苦労かもしれぬし、梅川君も思いもよらぬ事で、それならこの問題の非は私にあり、この文もただ私は人の文章をコピーしていないとの弁明にすぎぬ。今先ず事実経過を述べよう。
 『「紅笑」は私と駿祥が去年の夏休みに1週間余で急いで完成し…完成後すぐ北新書局へ送った。だいぶ経ってから小峰君の11月7日の返信を得、2人で訳しているので、前後の文章が一貫せず石民君に校閲を頼んでいるので、原稿料は月末に必ず送る、と。その後私は何通か催促の手紙を出したが、返答は無かった。…それで年末の休暇中に原稿の控を探し出し、改訳して文章を読みやすく新しいものにした。(特に後半部)間違いや適切でない点も数十か所改め、岐山書局に発行を頼んだ。原稿を出して暫くしたら、小峰の2月19日付書面を入手し、お金も送って来た。端数は少し削られていたが、原稿は返却されてこないから、小切手はそのままにし、返却しなかった。その後小峰君から来信あり、原書と翻訳は皆返したので、小切手を袁家○(馬へんに華)氏に渡すようにという。私は返信にそうしたと書き、原稿を返してほしいと書いた。だが、今現在、本も原稿もまだ目にしたことは無い。
 『この最初の原稿を梅川君が見た可能性はあるかもしれぬが、私は見たことがあるとは言えない。勿論梅川君が我々の訳を参考にしながら訳したとは限らぬが、第一部の訳は、文の構成方法がとても似ている点は疑いを免れぬ。元々我々の初訳原稿は第一部の方が二部より流暢で、同時に梅川君の訳文も、第一部が二部よりも良いし、双方極めて似ているのもこの9つの断片だ。確かな証明もできぬ時は、私もこの文章をそのまま使いたくないし、他の人の頭上に投げたくもないが、この点について、梅川君が喜んで返事をくれることを望む。もし、すべて私の思い違いなら、前述の通り、こう言う話は我々が出そうとする単行本をそのまま使ったのではないとの証明になる』
 文章は極めて婉曲だが、主旨はとても簡単で、即ち:我々の出そうとする訳本と君がすでに出した訳本は大変似ており、私はかつて訳の原稿を北新書局に送ったが、君は見た可能性があるから、君が我々のを盗作したと疑っており、そうでなければ、「こうしたことは、我々が出そうとする単行本が盗作では無いとの証明となる」
 だが原文の論法に照らすなら、そーでなければ、我々が相手のを盗作したことになり、そうなると神妙な「証明」となる。但し、私はこういうことを研究したいと思わぬし、わずかに双方に対して一言いいたい――北新書局、とりわけ小説月報社――に言いたい。この訳の原稿は私が小説月報社に送ったものだから。
 梅川君のこの訳も昨夏休みの頃、私に送って来たもので、私に出版先を紹介して欲しいと言ってきたが、私は仲介人となるのが心配で、そのままにして置いたのだ。こうして放って置いた原稿は少なくない。十月になって小説月報が増刊しようとして私に寄稿を求めてきて、思いだしたのだが、日本二葉亭四迷の訳に基づいて、2-30個所改め、私の訳した「竪琴」と一緒に送った。その他にも「紅笑」が北新書局で苦労していたことは少しも知らなかった。梅川は、上海から7-8百里離れた田舎に住んでおり当然知らないだろう。
 では彼は鶴西氏の訳の原稿が北新に来た時、すぐ見た「可能性」はあるか?
私は無いと思う。彼は北新の内部に知人はいないし、もし北新の編集部に入って行って、原稿を見たというなら、それは盗作だけで済むことではない。私なら「可能」だが、私は昨春以後一度も編集部に行っていない。この点は北新の諸公の涼察を請う。
 ではなぜこの2冊の良い点が似ているのか?その訳本を見ていないし、誰の英訳に拠ったかも知らぬが、思うに、多分同じ英訳に拠ったので第二部は一部より訳し易いのだろう。この3人の英語のレベルは似たようなものだから、去年のは似ていて、鶴西氏たちの訳はまだ出ていないが、英語のレベルは大変進んでいて、一度改めたので、良い点が増えた。
 鶴西氏の訳はまだ出てないので、類似点は分からぬが、結局どんな具合か、もし互いにとても似ているなら、私は同じ原書から訳した為と思うし、とりわけ異とするに足りぬし、そんなに神経過敏になる必要もなく、ただ「疑い」のせいで人の非を責め、「世の中は不可思議なことが多く、多くの事は思いもよらぬ」理由によるから、まず人を制し、他の人が「盗作」したと誣告し、更には相手に「報復」しようとするのは、まさに「この世の事は不可思議なことばかり」となる。
 但し、本当に似ているのか?そうであれば、梅川が決して鶴西氏たちの訳稿を見た「可能性」がないことを証明しさえすれば「世の中は不可思議なことがある」という語法は使えず、嫌疑もどうやら後から出るこの本にあるようだ。
 北平の新聞を私は送っていないから、梅川は決して見ていない。私はまず少し書いて、印刷後に一緒に送る。多分これでじゅうぶんだろう、阿弥陀仏。
           4月20日
 上記の事を書いた後、次々に「華北新報」副刊に<「紅笑」のこと>の文が載り、その中に多くの不明な点と誤訳を挙げた後で、こう結論付けていた:
 『これ以外にも更にあるが、私たちは梅川君より間違いが少ないし、読みやすいと思う。良いかどうかは我々の訳が暫くしたら自ら証明してくれるだろう』
そうなれば、私が先に書いたことは余計なことになる。鶴西氏はすでに自ら彼と梅川の2冊の違いを証明した。彼の方が良いという、それなら「盗作」というのは皆「通じない」と間違いがあって良くない、というのは奇妙ではないか?
もし改訂したというなら、それは「盗作」ではない。鶴西訳が元々この様に「通じず」間違っていたらそれはとても刻薄なことで、それは「今日の自分が」「昨日の自分」の頬を殴るようなものではないか?要するに、<「紅笑」のこと>の長文はただ焦って自己宣伝し、先に出た訳文を参照し、訂正して他の人が「盗作」したと誣告するような工夫をしたにすぎぬ。この種のやり口は中国翻訳界で初めてだ。   4月24日補記
 これが「語絲」に載る前に、小説月報社から手紙が来て、中に「華北日報」副刊の切り抜きが有り、即ち、鶴西氏の<「紅笑」のこと>だ。北平から編集者に送られたものの由。思うにこれは多分作者の芝居だ。もし本当なら、蓋し、悪辣を免れぬ:同じ著作に何種もの訳があり、又なぜこんなに大騒ぎして上訴する必要があるのか。ただ、一方で人のは通じないが、自分のはよく通じ、人のは間違いだらけで、自分のは少ない、という。又一方で、人のは自分の物を盗作したものだと証明しようとするのは、その悪辣さは何ともおかしな事だ。
しかし私には、翻訳作品を紹介することは、今でも大変難しいと嘆じざるを得ぬ。すっきりとした形で答える為に、私はこれを「小説月報」の編集者に送り、本書に発表する義務と権利があると信じ、これを亦送ることにした。
          5月8日
訳者雑感:実に不可思議な「芝居」をすることで、読者の関心を引いて、自分の翻訳作品の方が、先の物より読みやすいと自己宣伝している悪辣極まりないやり口だ。 それをはっきりさせようとの魯迅の執念が窺える。
     2015/05/03記

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文芸と政治の分岐点

 文芸と政治の分岐点
 1927年 12月21日上海曁南大学での講演
 私はあまり講演しないのですが:今回は何回も頼まれたので、一度お話して、放免して貰おうと言う訳です。講演をしない理由の一つは何ら大した意見も無い為と、もう一つは先ほど先生からのお話のように、お集まりの皆さんの多くが、私の本を読んでおられるので、それ以上の事を何も話す事が出来ないからです。本の中の人物は大抵実物より少し良いのです。「紅楼夢」の人物、賈宝玉、林黛玉のような人物について、私はとても共感していたのですが、後に当時のことを調べてみて、北京に来てから梅蘭芳、姜妙香が演じる賈宝玉、林黛玉をみて、それほどいいとは感じなかったのです。
 私にはまとまった広大なテーマの話しはないし、すぐれた見解もありません。只近頃考えていることを話せるだけです。文芸と政治が衝突することでいつも感じるのは:文芸と革命は相反するものではなく、両者の間には現状に安心できぬという共通点があります。ただ政治は現状を維持しようとし、現状に不満な文芸は19世紀以後になって起こったもので、これもまだ短い歴史しかありません。政治家は人が彼の意見に反対するのを最も嫌うし、人が口を開くのを最も嫌います。以前の社会は確かにだれも何も考えなかったし、口を開こうともしなかったです。動物の猿をみると、彼らには彼等のボスがいて:ボスが彼等をこうしようとしたら、彼等はその通りにします。部落には酋長がいて、彼等は酋長に従い、酋長の命令が彼等の規範です。酋長が彼等に死をといえば、死ぬしかないのです。その頃は何の文芸も無く、あったとしても上帝を賛美するものしかなかった。(まだ後に出て来るようなGodという玄妙なものもなかった)そう言う所で自由な発想は持ち得たでしょうか?その後ある部落が別の部落を併呑して徐々に拡大し、所謂大国となり、更に多くの部落を併呑し:大国になると内部事情も複雑になり、いろいろ違う意見が出てきて、多くの問題が起こりました。この時文芸も起こり、政治とたえず衝突した:政治は現状を維持しそれを統一しようと考えるが、文芸は社会進化を促し、それを徐々に分離しようと考えた:文芸は社会を分裂させ、社会はそれによってはじめて進歩した。
文芸は政治家の眼中の釘なので、押し出されるのを免れぬ。外国の多くの文学家は、本国では立脚点を失い、率先して他国に亡命した。このやり方が「逃」である。逃れられぬと首を切られ、殺された:首を切るのが最良の方法で、もはや口を開けず何も考えられない。ロシアの多くの文学家はその結果、多くがシベリアに流刑された。
 文芸を講じる一派には、人生から離れよと唱え、月よ花よ、鳥よという文言を唱えたり(中国では多少又異なり、国粋的な道徳から、花よ月よも許さず、別の論も展開したが)或いは、「夢」を講じ、専ら将来の社会の事を講じ、卑近なことは講じなかった。この種の文学家は象牙の塔に身を置いたが、象牙の塔にも長くはいられなかった!象牙の塔もやはり人間社会にあるのですから、政治的圧迫を免れません。戦争になると逃げるしかありません。北京にはある一団の文人がいて、社会を描く文学家を見くだし、彼らが小説の中に車夫の生活まで描いておるので、小説は才子佳人の一首の詩によって愛情をはぐくむという定律を壊しているではないか?と。今では彼等も高尚な文学家になれず、やはり南方に逃れています。やはり象牙の塔の窓からパンを指し入れてくれる人はいなかったのです。
 こうした文学家が逃げ出すまでに、他の文学家は早くに殺されるものは殺され、逃げる者は逃げました。他の文学家は、現状には元から不満で、反対せざるを得ず、口を開かざるを得なかったが、「反対」「口を開く」や即座に末路となりました。私は文芸は大概、現在の生活からの感受、自ら感じたことを文芸に投影して行くのだと思います。ノルウエーのある文学家(Hamsun)は腹がぺこぺこになったことを書き、本にしました。彼は彼の経験をもとに書いたのです。人生での経験について、他の事は別として、「腹ペコ」ということは、良かったら一度試してみてください。2日ご飯を食わぬと、ご飯の香味は特別な誘惑となります:街の食堂の前を通ると、この香味は鼻にビーンときます。お金があれば、それを使って何とも無いですが:無くなると、一銭が大きな意味を持つのです。その腹ペコの状況を書いた本、その人は長い間腹ペコが続くと、道行く人が仇にみえてきた。たとえ単衣の服しか着てない相手でも彼の目にはおごっている様に見えるのです。私も以前こういう人物を描いたことがあり、身辺はすっからかんで、しょっちゅう引出しを探して、隅になにか無いか探し:道を歩く時もなにか落ちていないか探す:私自身も体験したことがあります。
 生活でかつて困窮したことのある人は、金持ちとなるとすぐ次のような2種類の反応を示すようになります:一つは理想世界で、同じ境遇の人の為に考え、人道主義的になります:もう一つは全て自分が稼いだ物として、以前の遭遇ガ彼を冷酷にさせ、個人主義者となる。我々中国人は大抵個人主義になる者が多い。人道主義を主張する人は、貧しい人の為になにか良い方法は無いか考え、現状を改善しようとするので、政治家の目からは個人主義の方が良いのです:だから人道主義者と政治家は衝突します。ロシアの文学家、トルストイは人道主義を唱え、戦争に反対し、3部の大作を書きました――それは「戦争と平和」で、彼は貴族ですが、戦場の生活を経験し、戦争がいかに悲惨かを感じた。とりわけ、彼は(防御用の)鉄板の後ろにいる長官の前に進むと、心を刺すような痛みを感じたのです。そして彼の友人たちが戦場で死んでゆくのを自分の目で見たのです。戦争の結果、2つの態度に変えます:一つは英雄になることで、他の人が死ぬものは死に、負傷するものは負傷し、彼だけが健全で残り、自分がいかに凄い存在か、こうして戦場で威雄を誇るのです。もう一つは戦争に反対するもので、世の中に再び戦争が起こらぬ事を望むのです。トルストイは後者で、無抵抗主義で戦争をなくそうと主張したのです。彼はこの主張で政府から煙たがられ:戦争反対はロシア皇帝の侵略欲と衝突し:無抵抗主義の主張は、兵士たちに皇帝の為に戦争をやめさせ:警官たちに皇帝の為に法を執行しなくさせ、裁判官に皇帝の為の裁判をやめさせ、皆が皇帝を支え無くさせるのです:皇帝は皆が支えないと、皇帝の体をなさず、更には政治とも衝突します。こう言う文学家の出現は、社会の現状への不満から、あれこれ批判し、社会の各個人も自分もそう感じ、不安になるから、当然首を切らねばならぬことになる。
 だが、文芸家の言葉は、やはり社会を代弁しているのです。彼の感覚は鋭敏なので、人より早く感じ、早く発言するに過ぎないのです。(時に早すぎて社会からも反対され、排斥もされますが)例えば、軍隊式の体操を学ぶと、捧げ銃の礼は、規則では「ささげ…つつ」というが、「つつ」が発声される瞬間にあげなければならぬのですが、一部の人は「ささげえ…」を聞くとあげ始め、命じる人は彼を罰し間違いを責めます。文芸家は社会において正にこう言う状況で:早すぎると皆が煙たがるのです。政治家は文学家は社会を乱す扇動者とみなし、心の中では殺せば社会は安定すると考えている。だが、文学家を殺しても、社会はやはり革命しようとし:ロシアの文学家で殺されたり流刑にされたものは少なくありません。革命の火焔は到るところで燃え上がっているではないか?文学家は大抵生前に社会の同情を得られず、一生滾滾としながら過ごし、死後4-50年して初めて社会の認識を得、皆が騒ぎ始めます。政治家はこの為、文学家を煙たがり、文学家を早くから大きな禍根だと考え:政治家は皆が考えることを許さず、その野蛮な時代はとうに過去のものになったと考えたがる。在席の諸兄がどう考えるか分かりませんが:私の推測ではきっと政治家とは異なるでしょう:政治家は永遠に文学家を彼等の統一を破壊しようとするものだと怪しみ、そういう偏見を持っているので、私はこれまで政治家と話しをしたくはありませんでした。
 後に、社会が遂に変動し:文芸科が先に発言したことを皆が段々思い出して、彼に賛成し、彼を先覚者だと尊敬し始めた。彼が発言した時は、社会からひやかされた。今、私が講演し始めた時、皆さんは拍手されたが、この拍手は私が大して偉大ではない表れで:その拍手というものは大変危険なもので、拍手をされると私は或いは自分は偉いのだと思い、それ以上前進しなくなるから、やはり拍手しないのがよいのです。先に申し上げたことは、文学家は感覚が少し鋭敏で、多くの感念を早く感じますが、社会はまだ感じないのです。例えば、今日、衣萍先生は皮の上着を着ていますが、私は綿の上着だけですが、衣萍先生は寒さに対して私より敏感なのです。もう一か月もすると多分私も皮の上着を着ないとダメだと感じ、気候に対する感覚で、一か月の差があると、思想上の感覚は3-40年の差になります。これを私はこの様に話しますが、きっと多くの文学家は反対でしょう。私は広東にいるとき、ある革命文学家を批判しました――現在の広東は革命文学でないと文学とみなされず「戦え、戦え、殺せ、殺せ、革命せよ、革命せよ」でないと革命文学と看做されない――私は革命は文学と同じひと塊にすることはできないと考えます。文学にも文学革命はありますが、文学はやはり少し閑が無いとできません。正に革命の最中に、文学をする閑がありましょう。少し考えてみましょう:生活が苦しい時に車を引きながら、その一方で「ありけりなけんや」など(文語の修辞)とてもできないでしょう。古人は田を耕し、詩を作った人もいたが、自ら耕したのではなく:誰かを雇って耕させたので、それで自分は詩を吟じることができたので:本当に田を耕していたら、詩を作ることはできないでしょう。革命の時も同じで:革命の最中にいつ詩をつくる閑がありましょうか?何名もの学生が陳烔明と戦った時、彼等は戦場にいて:彼等の手紙を読みましたが、彼等の字と言葉は、一便、一便バラバラになっていました。ロシア革命後、パンの切符を手に、一列に並んでパンを受け取りました:この時国家は貴方がどんな文学家、芸術家、彫刻家かなどお構い無く:皆はパンにありつこうと考えるだけで精一杯で、文学の事など考える閑が有りましょうか?
 この時、感覚鋭敏な文学家は、現状に対して不満を感じ、出てきて発言しようとします。それまでの文学家の言葉を、政治革命家はもともと賛同していたのですが:革命が成功すると、政治家はそれまで反対していたその人達の手法を再度利用し始めるので、文学家はやはり不満なので、またも排斥されるほかありません。或いは首を切られるしかありません。彼の首を着るのは前にお話ししたように最良の方法で――19世紀から今まで、世界の文芸の趨勢は大抵こんな具合なのです。
 19世紀以後の文芸と18世紀以前の文芸は大変違います。18世紀の英国小説は、その目的が夫人やお嬢さんたちのひま潰しで、愉快な風趣の話が主でした。19世紀の後半世紀は全く違って来て、人生の問題と密接な関係を持つようになりました。我々はそれを読んでゆくと、気分がすぐれなくなりますが、それでも読み続けます。これは以前の文芸とは全く別の社会のようで、以前はただ鑑賞すればよかったが:この文芸は我々自身の社会を描いており、我々自身をも描いており:小説の中に社会を見つけ、我々自身を発見し:それまでの文芸は対岸から火事を見ていたので切実な問題ではなかったが:今の文芸は自分もその中で焼けているから、自分自身も深く感じ:自分で感じると必ず社会に参加しよう! とします。
 19世紀は革命の時代と言えますが:所謂革命は現状に安んじず、現在の全てに不満を持ちます。文芸は古いものを徐々に消滅させるよう催促するのが革命で(古いものを消滅してこそ、新しいものが生まれます)文学家の命運は決して革命に参加したから同じように変わるということはなく、至る所で釘に打たれます。今、革命勢力は徐州まで来ており、徐州以北の文学家はもともとぐらついていましたが:徐州以南の文学家もぐらついています。たとえ共産となったとしても、文学家はぐらつき怪しい状況です。革命文学と革命家は畢竟まったく違うものです。軍閥がどれほどデタラメしているかを叱責するのは革命文学家で:軍閥を打倒するのは革命家です:孫伝芳(軍閥)が逃げ出したのは、革命家が大砲で爆撃したからで、文芸家が「孫伝芳よ!我々はお前を叩きのめす」というような文章を書いたからではありません。革命する時、文学家は皆夢を見ています。革命が成功したら世界が如何に素晴らしいものになるかと思いますが:革命後、現実はまったくそうではないのを見、そこで彼はまた苦しむのです。彼が又どのように叫んでも、成功しません:前に向かっても、後に向かっても、どうにもなりません。理想と現実は一致しないのです。これは定められた運命なのです:ちょうど皆さんが「吶喊」の中に見た魯迅と演壇上の魯迅と一致しないのと同じです。皆さんは或いは私が洋服を着て、髪もわけていると思っていたでしょうが、洋服でもないし、髪もこんな短いのです。だから革命文学家を自任するのは、革命文学家ではありません。この世の中で現状に満足する革命文学があるでしょうか?麻酔薬でも飲まない限りあり得ません!ソヴィエトロシア革命前、二人の文学家がいました。エセーニンとソーボリで、彼等は革命を謳歌しましたが、後にやはり自分の謳歌した希望の現実の石碑にぶつかって死んだのですが、このときはじめてソ連ができたのです!
 だが社会は非常に寂莫なので、こう言う人達がいてはじめて面白いと思うのです。人類は戯劇をみるのが好きです。文学家も自ら戯劇を演じて人に見せ、あるいは、縛られて刑場で斬首にされるか、最近は壁の下で銃殺されますが、いずれも皆は大騒ぎします。昨今の上海の警察は警棒で叩きますが、皆はそれを囲んで見ます。彼等は自分が叩かれたくないが、人が殴られるのを見るのを楽しみます。文学家は自分の皮と肉でもって叩かれるのです!
 今日話しましたのはこんなところです。題は……「文芸と政治の分岐点」としましょう。

訳者雑感:
この日魯迅は伝統的な中国文人の着物を着ていたのだろう。彼はスタイリストで、学生時代の学生服とかは別として、大人になってから撮った写真は普段着の毛糸のセーター・カーデガンの類の他は殆どが伝統的な着物だ。日本の作家も明治大正時代は、書斎では和服が多いし、そのほうがくつろげるだろうが、大学で学生たちに何か講演する時は、洋服にネクタイというのが決まりだったのだろう。魯迅は「藤野先生」の中で、先生がネクタイを付けず汽車に乗り、スリと間違われたとの寓話をいれているほどだ。しかし、他の写真では彼がカラ―のシャツに蝶ネクタイ、そして口に立派なひげを蓄えている。
閑話休題、本編は文学と政治(革命)の分かれ道、分岐点を描いている。文学家は19世紀後半以降、現実に直面し、そこから感じ取る不満を鋭敏な感覚で一般の人より早く気付き、文章にするが、一般の人はその時は「何を言っているか」と取り合わず、何十年かたって、ああかれが書いていた通りだと気づく。
 そしてそれを精神的なよりどころとして行動にうつす。それが革命につながるかどうか、それは文芸ではなくやはり大砲による砲撃でなければ革命は成功しない。毛沢東のいう「銃口から政権が生まれる」だ。誰かが毛沢東に尋ねた。
もし革命成功後の中国に魯迅が生きていたら、どうだったろうか?と。
毛沢東は「きっと彼は毛沢東のやることを大いに批判するだろう」という趣旨のことを述べている。この講演はそれを示唆している。
    2015/04/22記

 

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「貧しき人びと」小序

「貧しき人びと」小序
 1880年ドストエフスキーが大作「カラマーゾフの兄弟」を完成した年、彼の日記にいう:「完全な写実主義で、人間の中に人間を発見した。これは徹頭徹尾ロシアの特質である。この意味で私は当然だが民族的である…人は私を心理学者と言う。これは当を得ていない。少し意義深くいうと、私は写実主義者であり、私は人間の魂の深さを顕示したのだ」、と。翌年、彼は死んだ。
 魂の深さを顕示した者は、人から心理学者と見られようとした:特にドストエフスキーの様な作者はそうだ。人間を描く際、殆ど外貌を描く必要は無く、ただ、語気、音声だけで彼等の考えと感情だけでなく、顔付きと体も表現した。また魂の深さを顕示しているから、作品を読むと、読者の精神は変化をきたす。魂の深い所で落ち着きを失くし、敢えて正視するのは多くは無い。それなのになぜ描き始めるのか?このため、柔弱で力の無い読者は往々にして、彼をただ「残酷な天才」とみてしまう。
 ドストエフスキーは自分の作品中の人々を、時に心底からとても耐えられない困難に陥れ、活路は無く、思いもつかぬ境地に置き、彼等になにもできなくさせてしまう。精神の苦痛で、彼等を犯罪に向かわせ、痴呆、酒乱、発狂、自殺に追い込む。また時には何の目的も無く、手づから造り出した犠牲者の苦悩の為、彼を苦しませ、卑劣で汚い状態にまで人をおびやかし、人々の感情を表現する、これは明らかに「残酷な天才」、人間の魂の偉大な尋問官である。
 だがこの「意義深い写実主義者」の実験室で処理されたのは、人間の全霊魂だ。彼は精神の苦しい刑により、彼等を反省、矯正、懺悔、蘇生の道に送った:甚だしきは、自殺への道だ。このようになると、彼が「残酷」か否かは、直ぐ断定するのは難しいが、温暖或いは微涼を好む人々にとっては、慈悲の感情はすこしも無い。
 ドストエフスキーは自分の事を語るのを好まなかったと伝えられ、特に自分の困苦を述べるのを嫌った:但し、彼の一生をつきまとったのは、困難と貧窮だった。それで作品が生まれたが、一回だけ原稿料の前払いの無い作品があった。だが彼はそうしたことを隠してきた。金の重要さを知っていたが、使い方が最も下手なのも金で:病気になって医者の所に住むようになるまで、来診の病人はみな良い客人だと思っていた。愛し、同情したのはこうした人々――貧しく病んだ人々――書いたのもこうした人々で、なんら顧忌することなく解剖し、詳細に検査し、甚だしくは鑑賞までしたのはこうした人々だ。それだけでなく、実は彼は早くから自分に対しても精神的な苦刑を加え、若い頃から拷問で死滅するまでそうであった。
 凡そ、人間の魂の偉大な尋問官は、同時に偉大な犯人である。尋問官が尋問場で彼の悪を挙げ、犯人は階下で彼の善を陳述する;尋問官は魂の中の汚穢を掲発し、犯人は掲発された汚穢の中に隠されている光を明示する。このようにして魂の深さを示す。
 甚だしく深い魂に所謂「残酷」は無い。更には慈悲も無い:但し、この魂を人に示すのは「高い意義をもつ写実主義者」だ。
 ドストエフスキーの著作は生涯の35年で最後の10年は正教の宣伝に非常に偏したが、人となりは終始同じだったと言える。作品も大きな違いはない。最初の「貧しき人々」から最後の「カラマーゾフの兄弟」まで、その語っているのは同じ事で、所謂「心の中で実験した事実を捉え、読者に自分の思想経路を追求させ、この心の法則から、自然に倫理的な観念を顕示した」
 これはこうも言える;魂の深い所を穿掘し、人を精神の苦しみで傷つけ、又この傷と傷の養生と平癒から、苦しみを洗い去り、蘇生の道に上がる。
 「貧しき人々」は1845年に書かれ、翌年発表され:それが第一部で、彼を即刻大家に押し上げた作品だ:ゴリゴロビッチとネクラソフはこれに狂喜し、ベリンスキーは彼に公正な賛辞を送った。当然こうも言える。「謙遜の力」を顕示した、と。しかし世界はかくも広大であるが、また一面では狭窄である:貧しき人々は、かくも相愛し合い、また愛さずにいて:晩年はかくも孤寂で、その孤寂に安んじてはいられない。彼は晩年の手記にいう:「富は個人を強くし、器械的、精神的に満足させる。このため、個人を全体から切り離させる。富はついに娘を貧しき人々から離れさせ、哀れな老人は声にならぬ絶叫を発す。愛はなんと純潔で、またその呪詛の心を邪魔するのだ。
 作者はその時たった24歳だが、尤も人を驚かせた。天才の心は誠に博大だ。
 中国がドストエフスキーを知ってから10年近くなる。彼の名は知られているが、作品の翻訳は無かった。それも仕方の無いことで、短編すら容易で短いものは無く、すぐに訳せるものも無い。今回叢蕪(翻訳家)が初めて彼の最初の作品を中国に紹介する。私は些かでも不足な点をおぎなえたと思う。これはC.Garnettの英訳本を主とし、Modern Libraryの英訳本を参考に訳したが、違いがある個所は、私が原白光の日本語訳とも照らしあわせ、どちらにするかを定め、また素園に原文から校訂してもらった。ドストエフスキー全集は12冊で、これは小さな一部に過ぎぬが、我々この様に微力な人間が多くの作業を通じて、数年を費やしてやっと印刷にこぎつけ、この短文を借りて、私の思ったことを上記した。ドストエフスキーの人と作品は本来、短時日では研究しつくせない。全般を統一的に論じるのは私の能力の及ぶところではない。これは私の浅見の説に過ぎない:僅か略3冊を訳しただけである:Dostoievsky’s Literarsche Schriften, Merschkovsky’s Dostoievsky und Tolstoy,昇曙夢(日本のロシア文学研究者)の「ロシア文学研究」。
 ロシア人の姓名の長いのに中国の読者はいつも悩まされて来たので、ここで解釈を加える。姓名を全て書くと3つの部分からなり:まず名前、次に父の名、3番目が姓。この本の解屋斯金は姓である:人は彼を馬加尓アリシェヴィッチと呼ぶがアリシェヴィッチの子のマカルの意味で丁寧な呼び方だ:親しい間では名前のみで音も変化する。女なら「某女の娘、なにがし」という。ワルワラワリシャフナ、意味はワリシャフナの娘ワルワラ:時には彼女をワランカと呼び、それはワルワラの音の変化で親しい呼称だ。
  1926年6月2日夜、魯迅 東壁の下で記す。

訳者雑感:日本でドストエフスキーが初めて翻訳されたのはいつだろう。1880年に「カラマーゾフの兄弟」を完成したとある。中国では名前だけは10年ほど前から知られていたが、1926年にやっとはじめて印刷されることになった。それも英訳本を主体に他の英日訳と原文を照らし合わせながらの数人の協力を得てやっと完成したものだ。それまでにも色々なロシアの作品は翻訳されてきたのだろうが、魯迅も言う通り、ドストエフスキーの作品は容易ではない。寝ながら読むという訳にはいかない。
 最後にロシア人の名前の解釈を付しているのも、当時の中国人がロシア人の名前を当て字で音訳しているのだが、これだけ長い漢字名は覚え難いし、親しい間柄と丁寧な呼び方で、そして女性になると音が変化するのに対応するとなると、誰が誰だか混乱をきたす。日本の翻訳本だと、見開きに主な登場人物の名前と職業役職などを記して、新しい人物が登場すると見開きを見るようにしているのだが、それでもカタカナで短略したり工夫をこらしてはいるのだが。
ロシア人はこうした作品を音読して、人に聞かせるように書いているから、名前を簡略化なぞしたら、雰囲気が壊れると感じるのだろう。カチューシャとかナターシャとか5-6音以内に短縮してもらわないと、単細胞の日本人には覚えきれない。これは中国人も同じ悩みを持っていたようだ。
   2015/04/05記

 

 

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ロシア語訳「阿Q正伝」序と著者自叙伝略

ロシア語訳「阿Q正伝」序と著者自叙伝略

著者自叙伝略
 私は1881年浙江省紹興府城内の周家に生まれた。父は読書人で:母は魯姓、田舎の人だが自分で読書の力を習得した。人の話しによると、家には4-50畝の水田が有り、暮らしは全く問題無かった。が、私が13歳の時、我が家に突然大変な事件が起こり、ほとんど何も無くなった:私は親戚の家に寄住し、時には乞食呼ばわりされた。それで家に帰る決心をしたが、父が重病になり、3年ほどで死んだ。小額の学費さえ払えないほどの状況に陥った:母が少しの旅費を工面してくれ、私を学費免除の学校へ行かせてくれた。私はどうしても幕客(地方役人の部下)や商人にはなりたくなかったので――それが私の故郷の没落した読書人の家の子弟の歩む道だったからだ。
 その時私は18才で、南京に出て、水師学堂に合格し、機関科に入った。略半年後、そこを辞めて、鉱路学堂で鉱山開発を学ぶことにした。卒業後、日本に留学生として派遣された。東京の予備学校を卒業するまでに、私は医学を学ぼうと決めていた。その理由の一つは、新しい医学が日本の維新に果たした役割の大きいことを知っていたからだ。そこで仙台医学専門学校に進み2年学んだ。この時まさに露日戦争中で、偶然映画で一人の中国人がスパイとして斬殺されるのを見た。このため、中国はまず新文芸を提唱しなければならないと思った。それで学籍を棄て、再び東京に戻り、数名の友人と計画を立てたが全て失敗した。次いでドイツへ行こうとしたがこれも失敗した。ついに私の母と何人かの人が、私に経済的援助を求めているので、中国に戻った:この時29歳だった。 
 帰国後、すぐ浙江杭州の両級師範学堂の化学と生理学の教員となり、翌年に辞し、紹興中学堂の教務長となり、3年目にそこを辞めたが、行くあては無く、書店で編集者になろうとしたが、断られた。が革命がすぐ起こり、紹興の光復の後、私は師範学校の校長となった。革命政府が南京に成立し、教育大臣が私を呼んだのでその職員となり、その後北京に移って現在に至る。この数年私は、北京大学、師範大学、女子師範大学の国文科の講師を兼任している。
 留学時に雑誌にいくつか出来の良くない文章を書いた。初めて小説を書いたのは1918年で、友人の銭玄同の勧めにより「新青年」に載せた。この時初めて「魯迅」のペンネームを使い:常に他の名前で短いものも書いていた。現在それらを集めて本にしたのは一冊の短編小説集「吶喊」のみで、それ以外に何種かの雑誌に散在している。この他に翻訳を除き、本にしたのは「中国小説史略」がある。
      (1925年6月15日「語絲」に掲載)

訳者雑感:ロシア語訳への自叙伝だから、日露戦争を露日戦争としている。日本では「幻燈事件」とされている例の「露西亜の為にスパイ活動をした中国人を斬殺」する場面を見て、喝采している日本人学生とスライドの中の大勢の中国人がその見せしめの首切りを喜んで見物しているのを目にして、中国人として耐えられない気持ちで、そこから退場しようとしている青年の姿が浮かんでくる。自叙伝略というのは、「吶喊」の序を書いてから大分時間がたっており、
幻燈が映画になっている。
 魯迅は18才で紹興を去って、南京で二つの学校、そこから東京の日本語予備学校で2年、仙台医学校で2年、東京でまた3年、29歳で故郷に戻り、杭州や紹興で2年余、学校も辞め、書店の編集者になろうとしていたら、辛亥革命が起こった…、という青春を過ごしたのは、まさに、日清戦争から義和団事件、日露戦争、辛亥革命という疾風怒濤の15年を15歳から30歳の間に過ごしたことになる。その間2-3年ごとに土地を変え、学校という場所(学生として及び教員として)をそのたびに変えている。まさに彷徨していたのだ。
   2015/03/27記

 

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ロシア語訳「阿Q正伝」序

ロシア語訳「阿Q正伝」序と著者自叙伝略
「阿Q正伝」序
 私にとって、これはたいへん感謝すべきことで、また非常にうれしいことだと思う。それは、私の短い作品が中国文学に造詣の深いB.A.Vassiliev氏の翻訳で、ロシアの読者の目に入ることになったのだ。
 私も試みたのだが、自分としても余りよく把握できなかったが、現代の我国の人々の魂を本当に書けるかどうか、他の人がどう感じているかは知らないが、私としては、いつも我々の人々の間に、高い壁があって、みんなが心から相通じあえなくさせていると感じる。
 これが即ち、我々の古代の聡明な人、所謂聖賢が人々を十等に分け、高いのから低いのまで夫々分けたためだ。今では使われなくなったが、その亡霊は依然として存し、かつ本体を変えてより厳しいものにし、人間の身体にも等級をつけ、手より足は下等で異類だとみなすのだ。自然の造化が人間を生み出したのもとても巧妙で、人は他人の肉体的苦痛を感じないようにし、我々の聖人と賢人の弟子は、自然の足りない部分を補って、人に他人の精神的苦痛も感じさせなくした。
 我々の古人はまたとても難しい四角い字を作った:しかし私はそれほど怨んではいない、と言うのも彼等が故意にしたのではないと思うからだ。しかし、多くの人は、これを使って話すことができぬし、加えて、古い訓で高い壁を築いたので、人々は考えることすらできなくなった。今我々が聞けるのは、数名の聖人の弟子の考えと道理だけに過ぎず、彼等自身のためだけのもので:一般人にとっては、ただだまって成長し、ひからびて、枯れ死に、大きな石の下で押しつぶされた草のように暮らしてきて、既に4千年経った。
 このように沈黙の国民の魂を描こうとするのは、中国では実に難しいことで、前述のように我々は革新を経ていない古い国の人間だから、それぞれが相通じず、自分の手でさえ自分の足の事を殆ど分かっていないのだから。私は人々の魂を模索しようと努力したが、遺憾ながらいつもなにか隔膜があると感じる。将来きっと高い壁に囲まれている全ての人が目覚め、外へ向かって歩きだし、みんなが口をきけるようになるだろうが、今はまだ大変少ない。だから私も自分の感覚と観察によって、ひとり静かにこれを書き始め、私の目に映った中国の人の生きざまを描いた。
 私の小説は出版後、ある若手の批評家から譴責を受けた:その後も、病的だというもの、滑稽だとみる者、諷刺と考える者;或いは冷嘲だという者、私自身も自分の心の中に、おそろしい氷塊が蔵されているのではとの疑いまであったが、しかし考えてみると、人生の見方は作者によって違うし、作品を読むのも、読者によって異なるから、そうであれば、この一篇は少しも「我々の伝統的な考え方」を持たないロシアの読者の目には、きっと別の情景が映しだされるかもしれず、これが私にとって実に大きな意義を感じさせてくれるのだ。
     1925年5月26日 北京にて、魯迅

訳者雑感:
 序と自叙伝を分けて雑感を述べよう。
この序は1925年6月15日「語絲」に載ったものである。魯迅が中国の人々の魂を、彼の目に映じたことから感じたことを描こうとした、と。だが、中国ではまだ人びとは高い壁の中で、互いが相通じることの難しい状況にあり、所謂聖賢の弟子たちの編みだした「古い礼教」でがんじがらめにされて、ただ黙々と生活し、ひからびて、枯れ死に、大きな石の下で押しつぶされた草のように暮らしてきて、既に4千年経った。これを打破する為に苦心して書いたものだが、中国ではいろいろ中傷され貶められたりしてきたが、そういう「古い礼教」の伝統的な考えを持たないロシアの読者が別の情景を見てとってくれることを期待しているのがひしひしと分かる。

 なお、日本人の山上正義が翻訳した原稿を魯迅に送って校閲を仰ぎ、序文もお願いできないかとの書状を送ったのに対し、魯迅は1931年3月3日山上宛てに返事をしたため、6頁合計85か所に日本語でこうしては如何かという言葉で訂正個所を示し、賭博場の位置関係のスケッチも書いている。(カタカナ漢字文)
 だが、序文ニ関シテハ――御免ヲ蒙リマス。アナタニ書イテイタダキマショウ。と書いている。(以下パソコン変換上、ひらがな漢字文にする)
「只、序文の中に説明してもらいたいのは、この短編は1921年12月に書いた事。或る新聞の「ヒユモア欄」の為に書いた事。その後、思わず代表作とされて、各国語に翻訳されたこと。而して、本国では作者はその為に大いに憎まれた事――若旦那派に、阿Q派に――などです。
     早々 頓首
             Lusin(ローマ字のサイン、uの上にvチェック)

   31年3月3日

 以上は1975年12月第一版、文物出版社編集出版(新華書店発行)より。
なお、同書の出版説明には、山上は1938年病死。魯迅のこの2件の手稿は、山上夫人が40年近く珍蔵していた。最近日本の友人増田渉氏が日中文化交流協会を通じてこの貴重な文献材料の復製本を送ってくれた。この文献材料本体は我々の魯迅研究と学習に役立つのみならず、過去も現在も。それは中日両国人民の間の深くて厚い情誼の歴史の証左であり、我々が珍重して読む価値がある。
と結んでいる。

最近ようやく政府間政党間の接触も始まりだし、これまでの民間主体の交流が更にこれを推し進める動きになることを祈念する。
    2015/03/25記


 

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編集を終えて

編集を終えて
 この数日2篇の文章を受け取ったが、陳百年氏の「一夫多妻制の新護符」に対するもので、「現代評論」が彼等の答弁を載せないとし、他に投稿する所も無く、私にどこか載せてくれる所を紹介してくれとの依頼。「婦女雑誌」にこの類の文章は載らなくなったのだと思ったら怖くなった。階級の異なる2種の人達が、中国でもついに聯合したのに驚いた。だが私はどこに紹介できるか?飯椀は誰も大事だ。況や「現代評論」の予告を見ると、既に22期に載せており、私は即座にこの2篇を没にすることを決意した。 
 だが、印刷後の「現代評論」を見た時、私はこれを載せようと決めた。というのも、これはあちらの末尾に載せた物より詳しいからだ。但しとても委屈していて、この無聊な「莽原」にしか載せられない、と。私は彼等3人ともよく知っているが、性倫理、性心理の類は何も研究もしたことは無いから、門外漢の話しはしない。しかし、私はどうも章周の両氏が中国でこう言う問題を議論するのは早すぎると思い――外国ではもう旧聞に属するが、外国は外国だ。が、私は陳氏の発言の「流弊」(弊害)だというのは利害を論じるもので、是非を論じている様ではないから、わけが分からない。
 但し、陳氏の文章の末尾は、読んでみると痛快だ――
  「… 法律と道徳を比べると、道徳は法律より厳しいのは免れない。法律が禁じないものでも、道徳は尽く禁止できる。例えば、おべっかやホラ、法律は禁じていない… であれば、我々は道徳的には、おべっかを許すのは人格を損なわないと思うかどうか?
 これに私は敢えて答える:許されないと。しかしそれに続いて似たような問題が起こった:例えば女性が強姦され、法律的には死刑にならなかったからだ。しかし我々は強姦を道徳的に許せるか?自殺する必要は無いと思うかどうか?
 章氏の反駁文は激昂しているようで、というのも陳氏の文章発表後、これを攻撃する人はどんどん出てきて、「教授」の肩書きを疑った。それで、次に起きたことは、「おべっか」の嫌疑があるが、私はそうは思わない。但し、教授と学者の言葉は一介の小編集者より社会的信任は容易に得られるのも事実で、この為、論敵からみると、こうした名称も流弊(弊害)であり、実際所謂「一利あれば一害あり」だ。    (1925年5月15日発表)

<備考>
 この「編集を終えて」は計3段あり、1と2は「華蓋集」に「導師」と「長城」と題して収めた。ただこの1段は収めてなかった。多分その頃は数人の間だけの問題で、それ以上論じる要も無かったためだろう。
 しかし、当時としては小さな事ではなかった。「現代評論」は学者が喉と舌で一喝すると、章錫琛氏は確かに暫くして「婦女雑誌」編者の椅子を失い、ついに、商務印書館を離れた。ただ大分後になって開明書店の社長になり、他の人の椅子を与奪する権威を得た。今編集所の大門には警官が立つとの由。陳百年氏は経理の試験に行った。これは誠に今昔の感を禁じえない。
 この文章は表面的には、陳氏の意図は「弊」を防ぐにあり、道徳でもって、法律の欠点を救済しようとするので、儒家と法家の違いだ。だが私は:陳氏が儒家で章周両氏が法家だと言うのではない。――中国は今、そういう流派もそれほどはっきりしていないから。
       1935年2月15日 補記

訳者雑感:1925年ごろ、中国も発言の自由はまだ多少はあって、この種の議論を載せあって、雑誌の販売を伸ばそうと言う目論見と、学者や教授という肩書の人間がそれを一喝して、編集者の椅子を奪うということがあったのだろう。
メルケルさんのコメントに「言論の自由の無い所に革新は生まれない」という言葉があった。中国はメルケルさんの若い時代をすごした東ドイツのように、言論の自由を制限し、編集者の首をすげ替えたりして脅かしている。こういう状態では、政治的のみならず、科学的・文化的にも革新は起きないのだろう。
 日本人が多くのノーベル賞をもらっているのに対して、中国では科学分野での受賞が無いのは問題だ、との意見をよく聞くが、言論の自由を制限している限り、革新的な発想が出てこないのだと思う。
     2015/03/20記

 

 

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雑語

雑語
 神と称す者と悪魔と称す者が戦った。天国争奪のためでなく地獄の支配権を得ようとした。だからどちらが勝っても、地獄は今に至るも元のままの地獄だ。
 二大古代文明国の芸術家が握手したのは、両国文明の交流を図るためだった。交流はしたことはしたが、惜しいかな「詩の哲人(タゴール)」はイタリアに去ってしまった。
 「文士」と老名士が戦った。……のためだ。――どうしようとしたのか私は知らない。だが以前「之乎者也(文語文)」しか許さなかった名公が役者を褒めたが、今やABCD(外国語)を認める「文士」が現れた。このとき、芸人が遂に芸術家になり、彼等を認めるようになった。
 新しい批評家となろうとしているのですか?やはり一番良いのはなるべく少ししか話さず、少ししか文章を書かず、やむを得ぬ時も短いのが良い。だがどうしても何名かの人に貴方が被評家だと言わせるようにしなければならない。そうなれば、貴方の少ない言葉は高く深いものになり、貴方の短い文章の評判が上がり、高貴になり、永遠に失敗することは無い。
 新しい創作家になろうとしているのですか?やはり作品発表後、一番良いのは、別の名で称賛の文を書き:もし人が攻撃してきたら、弁護する。またその名も艶麗なものにし、女性と思わせるのがよい。もし本当にこの様な人が出て来るならもっと素晴らしい:もしその人が愛人なら、ならさおである。「愛人よ!」この三字はなんと美しく詩情豊かなことよ。第四番目の字はまったく要らない。それでこそ奮闘の成功を望める。
   (1925年4月「莽原」に掲載)

訳者雑感:神と悪魔が争ったのは地獄の支配権を得るためだ、というのは面白い比喩だ。人は天国に行きたいとは思うが、地獄に落ちるのを一番怖がるから。
 二大古代文明国の芸術家とは出版社注にタゴールと梅蘭芳が握手したことを指すとある。
 この頃、作家が偽名で自分の作品への賛辞を書いたり、攻撃に対する弁護がよく起こった由。中で面白いのは「愛人」で本当に「愛人」にそうしたものを書かせたか、愛人が自ら書いたのか?今中国では正夫人を愛人と呼ぶが、これは毛沢東が延安の横穴式の洞室で暮らしていたころ、一緒にいた江青をどう呼ぶのが良いか、迷った末に採用した言葉だそうだ。正室が他にいる時は、妾とか姨太々(2号さん)と言うのが封建時代の呼び方だったが、魯迅の頃から多分日本語の術語を取り入れたものだろうか?
    2015/03/16記

 

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私が「持中」(中庸を取る)を説く真相

私が「持中」(中庸を取る)を説く真相
 古い同学の玄同さんは、往々私のいない時に、私を褒貶する由。褒されるのは固より問題無いが、貶されるのもあるとなると気分が害されないでいられようか?今日はその漏を調べてみる。私と関係ないとはいえ、一矢を報いてみるとしよう:仇に報い、恨みを雪ぐのは「春秋」の義也だ。
 彼は「語絲」2期に言う。某人は葉名琛の対聯「不戦、不和、不守:不死、不降、不走」を大概の中国人の「持中」の真相と説明できる。私はこれは違うと思う。
 それ「持中」の態度に近いものは大体二つあり:一は「彼にあらずば、即、此れ」二は「彼も可、此れも可」也。前者は主意無く、盲従せず、或いは別の独特の見解あり:但し境遇はたいへん危険だから、葉名琛はついに敗亡し、彼は主意無しということに過ぎなかった。後者は「壁の上に騎す」或いは極めて巧妙に「風になびく」で、中国では最も法を得るから、中国人の「持中」は大概これだ。もし旧対聯を改めて説明すると、こうなるはずだ:
 「戦に似、和に似、守に似:
  死に似、降に似、走(逃げる)に似る」
 それで玄同は即、精神文明の法律第93,894条により、「真相を誤解し、世を惑わし、民を誣せし」罪を以て懲罰す。
 但し、文中に「大概」の2字を使用しているから、それを斟酌して罪を軽減できる:この2字は私もたいへん好きでよく使う。
   (1924年12月15日「語絲」に発表)

訳者雑感:古い友人 銭玄同が葉名琛の対聯を引用したのに反論しているのは面白い。北洋軍閥と他の軍閥の戦争(内戦)を譬えて、中国人は大概これだ、とするのは、長い歴史で培われたものだろう。
 今、反腐敗をこの「持中」から一歩踏み出して、激烈な権力闘争にしている。
最近の写真で、毛沢東のハ―ト型の何枚もの肖像画(これは文化大革命中に永遠に毛主席に忠誠を誓うという主意)の前に、習近平主席の少し若かったころの丸い形の大きな肖像画が掲げられているのを見た。英語の説明で「Move Over Mao」とある。
    2015/03/11記

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烽火の話五則(奉直戦争の烽火)

烽火の話五則(奉直戦争の烽火)
 親子がケンカしている。が、神通力で彼等の年齢を略同じにしたら、すぐ一対の同じ志、道を同じくする友だちのようになれるだろう。
 賢人が「人心古びず」と嘆いた時、大抵は彼等の巧みな計が失敗したのだが:古老が「人心古びず」と嘆いた時は、則、息子や妾に怒られたせいに違いない。
 電報曰く:「天が中国を禍(わざわい)した。天曰く:全くのいいがかりだ!」
 精神的な文明人が飛行機を作ったのを論じて:これと霊魂の自在に遊行するのを比べるのは、一銭の値打ちも無い。書き終えて、遂に一族郎党引き連れて、東交民巷の外国公館街に移る。(官僚政治家の避難場所)
 詩人が烽火の近くで眠っていて、音が聞こえたら、烽火は聴覚で聞いたのだ。但し、それは味覚に近い。というのは、無味だから。しかし、無為をなさざる無しとすれば(老子の言)無味は当然、味の極みだ。そうでしょ?
    (1924年11月24日に「語絲」に掲載)

訳者雑感:
出版社注に、これは第2次奉直戦争の時、書かれたものの由。
段棋瑞・馮国璋などの北洋軍閥が北京で戦争を始めたとき、「天が中国を禍(わざわい)した。天曰く:全くのいいがかりだ!」という文章がよく出たという。
 飛行機からの爆弾投下。それを避けるには外国公館街に逃げ込むしかない。それができるのは官僚か政治家だけで、庶民は空襲で焼け出される。死亡する。
 東京大空襲記念日に。また「マッさん」の余市にまで米軍が来たというテレビを見た日に記す。
 それにしても最近の川柳に「どうしても派兵したがる首相持ち」というのがあったが、派兵を恒久法にしたいと言い出した。
      2015/03/10記


 

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「楊樹達」君襲来記

「楊樹達」君襲来記
 今朝早く、といってもそれほど早くもなかっただろう。私はまだ寝ていたが、女中(お手伝いさん)が起こしに来て言う:「師範大学の楊さん、楊樹達、が会いたいと。まだよく目覚めて無かったが、すぐ楊遇夫君だと思い、彼は樹達という字で、かつて私に何かを講じて欲しいとのことで一度訪ねてきた事があった。起き上がって、女中に言った:「ちょっとしてからお呼びしてくれ」
 起きて時計を見たら9時20分だった。女中も客を呼びに行った。暫くして彼はすぐ入って来た。だが私は愕然とした、彼は私の良く知っている楊樹達君ではなく、四角い顔で、少し赤褐色で、大きくてきれ長い目、中背の体の20数歳の学生風の青年だった。濃紺の愛国生地の長衫に時流の大袖を着ていた。手には白い囲帯つきの新しい薄灰色の中折れ帽:そして色鉛筆ケースを持っていたが、その動く音から、中はせいぜい2-3本の短い鉛筆だけだろう。
 「君は?」私はいぶかりながら、聞き間違えかと思った。
 「楊樹達です」
私は思った:字は違うかもしれぬが、教員と同姓同名の学生だと。
 「今は授業中なのにどうして来たの?」
 「授業に出たくないのです!」
私は思った:元来好き勝手にやるいい加減な青年で、道理で傲慢だと。
 「君たちは明日休みだろう…」
 「休みじゃない。どうして?」
 「通知が来て…」と私は言いながら考えた。彼は自分の学校の記念日も知らず、もう何日も登校していないか、或いは自分勝手に自由と言う美名を借りる遊蕩者に過ぎぬか、と。
 「通知を見せてください」
 「丸めて棄てちゃった」と私は言った。
 「それを見せてください」
 「取ってきてください」
 「誰が取りに行くの?」
これはおかしい。どうしてこんなに失礼なのか。然し彼は山東なまりで、あのあたりの人は率直なのが多く、ましてや若者の考えは単純で…彼は私がこうした礼節に拘泥せぬと思っているのか。奇とするに足りぬ、と。
 「君は私の学生かい?」ついに疑惑を持った。
 「ははは、どうしてそうじゃない事がありましょうか」
 「では今日は何のために来たの?」
 「お金を貸して下さい、お金を!」
 私は:彼はまったくの遊蕩者であちこちから借りまくっていると思った。
 「何に使うの?」と聞いた。
 「金が無いから。飯を食うには金がいるでしょ、飯食う金も無いのです」彼は手を揺らし、足をばたばたし始めた。
 「なぜ私に金を借りに来たの?」
 「お金持ちだから。教える一方で文章を書いたら沢山お金がたまるでしょ」と凶相な顔付きになって、手で体をやたらなでた。
 この男はきっと新聞で上海の何とか恐喝団の記事のまねをしようとしているから、防がねばならぬと思った。坐っている所からおもむろに移動し、抵抗用の武器の準備をした。
 「金は無い」ときっぱり言った。
 「うそだ!ハハハ、沢山持っている」
 女中が茶を持って来た。
 「彼は金持ちだろう」青年は私を指して彼女に尋ねた。
 女中はとてもあわてふためいたが、遂に恐る恐る「そうではない」と答えた。
 「ハハハでたらめ言うな」
 女中は逃げ出した。彼は坐って他場所を移動して、茶の湯気を指して、
 「とてもつめたい」
 その意味は、私を諷刺しようとして、金を出して人を助けぬ相手を冷血動物だと言おうとしているのだろうと思った。
 「金を持って来い!」突然大声で叫び、手足をばたばたし出した。「金を持ってこないと帰らないぞ!」
 「金は無いよ」と前のように答えた。
 「金が無いだと!ならどうやって飯食っているんだ?私も食いたい。俺も食いたい、ははは」
 「自分の食べる分はあるが、お前にやる金は無い。自分で稼げ」
 「俺の小説は売れないのだ、ははは!」
 私は:彼は何回か投稿したが載せられず、腐っているのだが、なぜ私にいちゃもんをつけるのか? きっと私の作風に反対なのだ。或いは精神病かも?と思った。
 「書きたきゃ書き、書きたくなきゃ書かない。一回書けばすぐ載って沢山お金が入る。それでも無いだと!ははは。晨報館の金は届いただろう。ははは。嘘つくな!周作人、銭玄同;周樹人は魯迅で小説を書いているだろう?孫伏園:馬裕藻は馬幼漁だろう?孫通伯、郁達夫。どんな連中だ!トルストイ、アンドレーエフ、張三は何者だ!ははは、馮玉祥、呉佩孚、ははは」
 「お前は私にもう晨報館へ投稿させないようにするために来たのか?」と聞いたが、直ぐまた私の推測は正しくないと感じた。というのも、私はこれまで、楊遇夫、馬幼漁が「晨報副○(金ヘンに携の造り)に書いたのを見たことが無いし、一緒にされたことも無い:ましてや私の訳の原稿料はまだ届いていない。彼が反対のことを言うはずも無い。
 「金をくれなきゃ出て行かないよ。なんだよ。他へ行かせようとするのか?陳通伯の所へ行けとか、貴方の弟の所へ、周作人か貴方の兄の所へ行くか。
 私は思った:彼は私の弟や兄の所へ行こうとしている。滅族の考えを復活させようとし、確かに古人の凶心が今の青年に伝わっている。と同時にこの考えはおかしいと思い、自分で笑ってしまった。
 「気分が悪いの?」と彼は突然質問してきた。
 「ああちょっとね、だが君の罵りのせいじゃない」
 「ちょっと南を向いてみる」彼は立ちあがり、後の窓に向って立った。
 私は何の意味か分からなかった。
 彼は忽然私のベッドに横になった。私はカーテンを開け、客の顔をはっきり見た。彼の笑い顔を見た。果たして彼は動き出し、瞼と口を震えさせ、凶相と瘋相をあらわにした。震えるごとに疲れるようで、十回もせぬうちに顔も平静になった。
 これは瘋人の神経的痙攣に近いと思った。なぜそんなに不規則なのか。そして牽連する範囲もこんなに広いのかと思った。非常に不自然だと――きっと装っているのだと。
私はこの楊樹達君の奇妙さに対する相当な尊重は忽然消えた。次いで嘔吐と齷齪したものに取りつかれるような感情が湧いてきた。元々、前の推測は理想に近かった。初見の時、簡率な口調と思ったが、彼は瘋を装っているに過ぎず、熱い茶を冷たいと言ったり、北の窓を南というのも、瘋を装っているに過ぎぬ。彼の言葉と挙動を総合すると、本意は無頼と狂人の混合状態を使って、まず私に侮辱と恫喝を加え、それから他にも伝えようとし、私と彼が提起した人達が二度と弁論や他の文を敢えて書こうとしなくさせる為で、万一自分がまずい立場に追い込まれたら、即「精神病」という盾を取り出して、責任を軽くするのだ。しかし当時なぜかしらぬが、彼の瘋を装う技術の拙劣さに対し、すなわちその拙劣さが私に彼が瘋人だと感じさせず、そのご徐々に瘋の気味があると感じだし、そして又すぐ破綻を呈したことで、特に反感を感じた。
横になって唄い出したが、彼にはもういささかも興味が無くなり、一方で、自分がこんな浅薄卑劣な欺瞞を受けたこと、また彼の歌が口笛のようなので、更に私の嫌悪感が湧きでた。
「ははは」彼は片足を挙げ、靴先を指して失笑した。それは黒い深梁の布靴で、ズボンは洋式で、全体としてはモダンな学生だった。
彼は私の靴先が破れているのを嘲笑したのが分かったが、そんなことには何の関心も無くなった。
 彼は突然起き上がり、室外に出て、左右を見て機敏に便所を探し、小用を足した。私も彼に続いて用を足した。
 我々は部屋に戻った。
 「はは、何だ、これは!」彼は又始めた。
 私はもう我慢ならなくなって、彼に言った。
 「もうよせよ。瘋を装っているのはバレてるよ。今日来たのは他の目的があるんだろう?人間なら、相手に明確に伝えろよ。怪しげな格好するのはやめな。本当の事を言え。さもないと時間の無駄で、何にもならぬ」
 聞こえて無いふりをして、両手をズボンのマチに触れ、多分フックをして、目は壁の水彩画を凝視した。
 暫くして、人差指で絵をさして大笑し:
「ははは!」
 こうした単調な動作と例の笑い声はとっくに無味と感じ、ましてやそれも偽りで、こうも拙劣では愈々煩わしくなった。
 彼は私の前に立っており、坐っている私は破れた靴先で彼のすねに触れて言った:
 「もうばれているのに、これ以上なに装っているのか?本意を言いなさい」
だが彼は聞こえないふりをしてうろうろし、突然帽子と筆箱を以て外に出た。
 これは意外で、私はまだ彼を理で諭せる恥じを知る青年だとの希望を持っていたのだが。強壮な体だし、容貌もとても端正だった。トルストイとアンドレーエフの発音も正確だった。
 防寒戸の所まで追いかけ、彼の手をひっぱり言った。「すぐ帰るに及ばない。本心を言いなさい。そうすれば私も理解できるかもしれぬから。彼は少し動揺したが、遂には目を閉じ両手を私に向かって遮った。掌は平にして、まさに私に対し国粋の拳術の経験があるようなしぐさをした。
 彼はそれから外に向かった。大門まで送って留まるように言ったが、私を押しのけて出ていった。
 彼は街に出てもとても傲然と落ち着いていた。
こうして楊樹達君は遠くへ去った。
 帰って女中に彼が来たときの状況を聞いた。「名を名乗った後、名刺をと言ったら、ポケットをさぐって、<あ、忘れた。ちょっとそう言って来てくれ>と笑いながらすこしも瘋のようには見えなかった」と彼女は言った。
 私は愈々嘔吐しそうになった。
然るに、この手段で私は被害を受けて――その前の侮辱と恫喝の他に、女中はこの後、門を閉ざし、夜、門を敲く音がすると、誰ですかと大声で叫ぶのみで出て行かず、私が自分で門を開けるしかなくなった。
 これを書き終わるまでに4回も筆を置いた。
「貴方は気分がすぐれないのでしょう?」と楊君は私に問うた。
そうだ、確かに気分が良くない。私はこれまで中国の状況について、元々すでに気分が良くないが、それでもまだ学問や文学界で、当人の敵に対して瘋子まで武器として使って来るとは予想もしなかった。そしてこの瘋がまた偽物ときては、そのふりをしたのが青年学生とは!
     24年11月13日

訳者雑感:
 魯迅はこれを発表した後で数名の学生から手紙を受け取り、彼は精神錯乱の病気を持っており、13日当日は発病の日であったという。彼は文学青年で原稿を採用されないで、食うに困っていたと言っているが、みなりは立派で、そんな風にはみえず、そのふりをしている偽物だと思った魯迅は大変な被害を受けたと感じて、このような文章を載せてしまったが、全くの誤解だったと知って、訂正の記事を載せている。彼が一刻も早く健康を取り戻す事を希望するのみ、と結んでいる。こんな酷いことを書いたことの結果の「酸酒」は自分で飲むしかない、と悔やんでいる。敵が仕掛けてきたいちゃもんだと誤解したのだ。
         2015/03/03記

 

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